高句麗建国

「考古学的考証」

 倭国や古代日本国に多大な影響を与えた高句麗文化だが、2004年7月、北朝鮮の「高句麗古墳群」と中国の「高句麗の首都と古墳群」がユネスコ世界遺産に同時に登録された。その登録概要に次のように記されている。

『登録物件概要』中国遺産登録

 古代高句麗王国の首都群と古墳群は、中国の東北地方、渾江流域の遼寧省桓仁市と鴨緑江流域の吉林省集安市に分布する。高句麗は紀元前三世紀に、騎馬民族の扶余族の一集団が北方から遼寧省桓仁市付近に移住し、高句麗で最初の山城を五女山上に築いて都城としたのが始まりと言われる。

 古代高句麗王国の首都群と古墳群は、高句麗初期の山城である五女山城(桓仁市)、平地城である国内城(集安市)、山城である丸都山城(集安市)の3つの都市遺跡と高句麗中・後期の14基の皇族古墳と26基の貴族古墳からなる40基の陵墓群(集安市)が含まれる。

 高句麗の建国は紀元前三世紀。これが考古学的考証などを通じて導き出された建国時期だとされる。さらに、これに関連する論文を紹介しよう。

高句麗考古学の新しい成果』石光濬(社会科学院考古学研究所)

 高句麗建国は紀元前277年である。

 私達は高句麗の遺跡と遺物に対する調査発掘と研究に力を注ぎ、知られているように東明王陵を発掘し、それが高句麗の始祖王陵であることを考証した。そして、なによりも鴨緑江一帯の初期高句麗墳墓群に対する調査発掘と研究を通して高句麗の建国年代を確定したことが、重要な成果の一つであるということができる。

 鴨緑江中流一帯において、高句麗の早い時期の代表的墳墓である積石塚を大々的に調査発掘する過程で、高句麗の建国年代をさらに確定できる遺物が出現した。

 鴨緑江流域一帯の積石塚からは褐色磨研土器、黒色磨土器、灰色土器などの土器類と環頭大刀、合口、槍、鉄斧などの鉄製武器、銅鐸、透彫り文装飾、小釘打ち薄銅版などの青銅器と装飾品が出土し、褐色磨研土器と黒色磨土器は紀元前3世紀の遺物だと認められている。

 このような遺物資料とともに、高句麗に先行する句麗国の代表的な墳墓である五道嶺溝門墓が紀元前5~4世紀の墳墓であるという資料に照らし、その墳墓形式が類似する高句麗の初期積石塚は、遅くとも紀元前3世紀以前から営まれていたと明言することができる。

 上記の二件から、紀元前5世紀から前4世紀の間に墳墓を建造した部族が存在しており、戦国時代には鴨緑江一帯に部族集落を築いていた。おそらく穢系部族連合の貉族(?)だと推察する。そして、戦国時代末期には高句麗最初の山城を五女山上に築いて都城とした。

 高句麗の初期積石塚が紀元前3世紀以前の遺物と判明したことでも、紀元前3世紀頃には首長を頂点とする高句麗の国邑体制が始まっていたことが読み取れる。

『史記』匈奴列伝

 後百有餘年、趙襄子踰句注、而破並代以臨胡貉(貉□?也。音亡格反)。

 百有余年後(紀元前456年)、趙襄子は句注(山の名前)を越え、而して代国をも破り、胡(東胡)と貉に臨んだ(貉とは?なり。亡の発音で反切は格)。

 上記は紀元前456年の趙襄子の事跡を記したもので、ここに明記された「貉」は穢系部族全体を指している可能性もあり、貉を高句麗とは断定できないが、臨むとは「面する、目の前にする」ことであり、貉の領界に達したことを意味している。

 すなわち穢系部族の貉(?)は国土を有する邑落国家を形成していたと考えられ、五道嶺溝門墓が紀元前5世紀から前4世紀の墳墓であるとの考古学上の考証とも合致する。

「高麗秘記の予言」

 新唐書と唐会要の高句麗伝には、「高麗秘記」という予言書(既に散逸)に高句麗の命数が記されていたとあるので、下記に紹介する。

『唐会要』高句麗

 乾元三年。李勣攻拔扶餘城。遂與諸軍相會。時侍御史賈言忠充支度遼東軍糧使。還。上問以軍事。(中略) 且臣聞高麗秘記云。不及千年。當有八十老將來滅之。自前漢之高麗氏、即有國土。及今九百年矣。李勣年登八十。亦與其記符同。

 乾封三年(668年)、李勣が扶余城を攻略した。諸軍が合流した。侍御史の賈言忠は遼東軍の兵糧を補充し、帰還したので軍事を問うた。(中略)

 言忠は「臣は高麗秘記(の予言)を聞くに、(国の命脈は)千年に及ばず。当年八十歳になる老将軍が来て、これを滅ぼす。前漢の高句麗氏の時代より国土を有しており、今、九百年に及びます。(宰相の)李勣は八十歳に登り、高麗秘記の記載に符号します」と言った。

『高麗秘記』には、高句麗は建国後九百年で滅亡することが予言されており、侍御史の賈言忠は「今は九百年に及ぶ」と述べている。これを単純に計算すれば(668-900=-232)、すなわち紀元前232年の建国となる。科学とは異質な次元の資料ではあるが、前掲の高句麗建国を紀元前三世紀とする考古学的見地とも合致する。

 ただし、三国史記は新羅王の言葉として「高句麗は始祖の中牟王から八百年」、日本書紀は「高句麗の滅ぶのは七百年の末」としている。

『三国史記』高句麗本紀

 国を高句麗と号したので、高を氏とした。時に朱蒙、年二十二歳。

 孝元帝の建昭二年(前37年)、新羅の始祖の赫居世の二十一年「甲申の歳」なり。

高句麗の建国」

 上記のように三国史記は、朱蒙の建国年を記しているが、なぜか新羅の始祖が併記されている。歴史上に新羅が登場するのは4世紀以降であり、辰韓ならまだしも理解できるが、あまりにも新羅の歴史を古代にもって行こうとする意図が明白すぎると感じる。

 三国史記の著者である金富軾は新羅系高麗人で、悠久の歴史を有する高句麗に対抗して、新羅の建国時期を意図的に古代にずらしたことが疑われているが、どうやら辻褄を合わせるために、高句麗の古代史を新しい時代に置き換えたようだ。

 この点について、前掲の?朝鮮奨学会創立百周年記念『古代史シンポジウム』(2000年11月)での発表論文を再度紹介する。

高句麗考古学の新しい成果』石光濬(社会科学院考古学研究所)

「三国史記」や「三国遺事」には高句麗の建国年代が紀元前37年だと記録されているが、これは「三国史記」の筆者である金富軾を始めとする新羅正統派が高句麗の建国年代を意識的にけずり下げてしまったからである。

 高句麗の建国年代を紀元前三世紀初葉とみる根拠はまた、広開土王陵碑に広開土王が鄒牟王(東明王)の十七世孫として記録されていることからもわかる。

「三国史記」高句麗本紀には広開土王が東明王の十二世孫となっているが、広開土王陵碑の記録とは五世代の差が生じている。すわわち「三国史記」高句麗本紀高句麗初期の五世代の王たちが欠落しているのである。高句麗の建国年代は紀元前37年ではなく、秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年より、かなり先んじており、高句麗が建国した「甲申年」は外でもなく紀元前277年であることがわかる。

目覚めよ!日本人。

とあるオッサンの戯言。テキトーに思った事を呟きます。政治・国際状況が多め。 日本は日本人の物である。先人より受け継いだ我が国をより良い形で後世に受け渡すのが我々の責務である。 売国政党・政治家・官僚、また、売国奴に乗っ取られたマスコミや企業を許してはならない。 自分自身ではネット右翼とは思っていません。 保守中道。護国共栄。 マスコミの反日・侮日に踊らされてはいけません。 我が国日本は世界有数の素晴らしい国です。我々臣民は胸を張れ。 日本万歳。 TwitterID Tomoya_Jinguuji


高句麗人(フヨ族)の歴史を図にすると、下記のような流れになります。

〔フヨ国→ 高句麗→ 金国→ 後金国=清国 (高句麗滅亡後に建国された渤海国も『高句麗人の国』という説がある) 〕

見ての通り、高句麗と韓国人は何の関係もありません。高句麗人の末裔と呼ぶべき民族は満州族であり、韓国人=朝鮮人ではないのです。 韓国人は高句麗人の子孫ではないだけでなく、高句麗人の歴史を受け継ぐ満州族(女真族)のことを『オランケ』と呼び、蔑んでいました。 オランケとは韓国語で「野蛮人」の意味です。韓国人は、「我々は高句麗人の子孫だ」と自称する一方で、本物の『高句麗人の子孫』である満州族のことを、野蛮人呼ばわりして 見下しているのです。

ところが最近の韓国人は、時と場所によって「満州族と韓国人は兄弟民族だ」と言ったり、「満州族はオランケであり、韓国人と違う民族だ」と、 言ったりしています。まさに『ご都合主義』です。自分たちの都合により、歴史を捏造し歪曲しているのです。

日本人は倭人の子孫である。
一方、朝鮮人はユウロウ族の子孫である。
この2つの民族は最初から別種なのだ。

高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている。但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)など朝鮮半島に広く分布していた。

wiki より

上記からも、高句麗はツングース系と確定している。
当然、朝鮮民族ではない。

百済→王族は扶余族、倭人と混血 、
民衆は長江文明の遺臣の弥生人(百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに倭人出自説あり、民衆は弥生人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

高句麗→ツングース系女真人
高麗→ツングース系女真人
渤海→ツングース系女真人

渤海と高句麗の民族的人種的なつながりは
はっきりとはわからないが、
新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国した国ではないか、
とは言われている。
何度も日本に朝貢している。
渤海が滅んだのち、
今度はその遺民が高麗を建国した、
というのがだいたいの流れ。
中国東北部にいた人々が
一時期朝鮮半島に国を作ったとも言えるし、
それが朝鮮人であるとも言える。
朝鮮半島は漢族、倭人、中国東北部族、
モンゴル人等々、種々雑多な人種が入り乱れている。
日本と違って、半島というのはどこでもそういうもの。
いわば人種民族の通り道的な存在。

朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史)

前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から
      楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)
      その後、周の凋落で王を称す?

戦国期   編纂されはじめていた地理書「山海経」に
    「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。
     辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか?
     百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。
     現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。

前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。
     このころから辰国は三韓に分かれはじめる。
     馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は
     始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。

前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。

前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が
     中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。

2世紀  遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、
     尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。
     先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族?
     新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。

3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。

4世紀  晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。
     百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。
     任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。

7世紀  任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。
     新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、
     独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。

918年  新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。
     新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。

ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。

前12世紀~前2世紀の箕子朝鮮
中国人の箕子が建国した中国人国家。
箕子朝鮮を滅ぼして前2世紀~前1世紀の衛氏朝鮮
中国人の衛満が建国した中国人国家。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして
朝鮮半島北部に前1世紀~後3世紀に設置した
漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)は中国植民地
百済と高句麗
ツングース系民族の夫余族の国家。
渤海は夫余族と靺鞨の国家。
夫余族と靺鞨は中国・満州族の母体。
秦からの亡命中国人が
前2世紀~4世紀に朝鮮半島南部に
建国したのが辰韓(秦韓)で、
後に12カ国に分裂して、その一つの斯蘆国が新羅。
百済と高句麗を滅ぼしたのは新羅ではなく唐。
唐は百済と高句麗の滅亡後に旧高句麗領を安東都護府、
旧百済領を熊津都督府、新羅を鶏林大都督府として
半島全域を藩属国から
羈縻州(中国国内扱いにした事を指す)にした。
このため一時的に朝鮮に「国」はなくなった。

朝鮮の歴史は半万年ではなく千百年弱

「朝鮮、属国史」の始まり
918年 高麗建国
10世紀 宋に朝貢、契丹(東胡の末)に朝貢。
12世紀 金(女真族、東胡の末)に朝貢。
13世紀 高麗はモンゴルの属国となる。
    劣等感から、一然という僧が檀君神話を捏造し、
    忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す。
14世紀 高麗滅亡、李朝建国。
    李朝は最初から明の冊封国で、国名も中国に決めてもらった。
17世紀 清(女真満州族)に服属、三跪九叩頭の礼に甘んじる。
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、
    属国の李朝は独立させてもらう。(日本の保護国)
1910年 李完用の要請により日本に併合してもらう。
    李氏朝鮮大韓帝国)滅亡。
1948年 戦後アメリカ軍政庁の統治下にあったが、
    アメリカの後押しで大韓民国が成立。
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となる。
1991年 ようやく国連加盟、史上初めて世界から独立国家として認められる。 
1993年 韓国、軍事独裁制を脱し、史上初めて独立民主政体となる。

現在 いまだ言論、学問の自由もなく
民主主義とは程遠い国である。北は論外。

======== 偉大な韓国の歴史 ==========
10世紀 長白山が過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こす(リセット)

1010年 「契丹」に侵略される。首都開城が陥落。(キタン人化)
1013年から1019年まで継続して侵略される。   (キタン人化)
12世紀 「女真」の侵入。侵略。「金」に朝貢。   (満洲人化)
1231年 「蒙古」に侵略される。首都開城が陥落。国王江華島に逃亡
     長い間、無抵抗の半島はモンゴル軍に蹂躙される。(モンゴル人化)
1247年 「蒙古」に再侵略される。しばらく蹂躙が続く。 (モンゴル人化)
1258年 雙城総管府を置かれる。翌年、王子を人質に降伏。(モンゴル人化)
     国内には多くの蒙古軍人が駐留。        (モンゴル人化)
1270年 東寧府を置かれる。              (モンゴル人化)
     反対派が済州島に移って徹底抗戦。1273年に鎮圧 (モンゴル人化)
1274年と1281年「元寇」
    (半島人主力で日本侵略。が、全滅(モンゴル人化)
1356年から1362年までの紅巾賊侵入により首都開京が陥落 (シナ人化)
1419年 「応永の外寇」 17000人で対馬を襲撃。船、家を焼き、住民を虐殺する。
     しかし、少数の対馬軍に撃退される。
1592年と1598年 秀吉の「唐入り」 首都漢城が陥落(短期でヤマト化は無理)
1627年 「後金」に侵略される。
    平壌を超え、侵略されるが漢城までは来なかった。
     しかし、国王は江華島に逃亡(満洲人化)
1636年 「清」に侵略される。首都漢城が陥落。
     清軍が、す早く江華島への道を遮断。
     泥濘の中、朝鮮王仁祖は清の太宗に降伏、大清国属国となる。(満洲人化)

「屈辱の象徴」三田渡碑の移転決定
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/610163/
韓国マイナー観光
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-18.htm

統一新羅
http://www.memomsg.com/dictionary/D1096/390.html

統一新羅は、676年の朝鮮半島の統一から935年に滅亡するまでの新羅の事を差す。この統一新羅、いわゆる新羅は、現在の韓国、朝鮮両国の共通の先祖の国家の初代といえる。それ以前の国家は民族・言語・文化的につながりが薄い。当然、統一新羅の前身である新羅と統一新羅は連続している。統一の過程で滅んだ、高句麗、百済は現在の韓国及び朝鮮とは連続性があまりない。

高句麗は実質的に後継国家として渤海があり、現在の中国東北部に小さく民族移動して国家を再建設している。

東北工程:百済・新羅の歴史も「中国史の一部」=中国社科院 『朝鮮日報2007年6月4日』
http://www.chosunonline.com/article/20070604000018

公式研究書に百済と新羅の歴史も「中国史の一部」と記述していたことが3日、分かった。

百済に対しては「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」とし、新羅については「唐は(百済が滅亡した)660年以前には羈縻政策を、それ以降には直接統治を行った」と記述した。

また、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とした。

東北工程・高麗も中国が建てた国『朝鮮日報2007年6月6日』
http://www.chosunonline.com/article/20070606000006  

高麗について、「箕子朝鮮高句麗に続き、中国が朝鮮半島に打ち建てた3番目の政権」と主張したところの、吉林省社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』の2007年第3号に掲載された「後唐の明宗が、高麗を建国した太祖・王建の族籍を明らかにした」と題する論文の存在が確認された。

この論文は、「王建は決して朝鮮半島の新羅人の子孫ではなく、中国・淮河流域から来た漢人の末裔」と主張し、933年に後唐の2代目の明宗が太祖・王建に送った冊封詔書などをその根拠として提示した。冊封詔書には太祖・王建を「長淮の茂族」と呼んでいる部分があり、この論文は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖・王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国

「アイゴー!シンガポールヤフーが
韓国を中国領と表記してるニダ!」

シンガポール ヤフー
http://sg.travel.yahoo.com
とカナダのブリティッシュコロンビア(BC)州政府サイト
http://www.protocol.gov.bc.ca
が韓国関連の誤りを訂正した。
サイバー外交使節団「バンク」は「1週間前までシンガポールヤフーはアジア地図で韓国を中国の領土と表記していたが、5日現在、『韓国領』に是正された」と明らかにした。(略)

http://www.worldtimes.co.jp/kansok/kan/shakai/090106-3.html

韓国紙・中央日報が
韓国人のプライドを
めちゃめちゃにする事実を報道していた

『有名教科書と地図「韓国は中国領土」』

英国オックスフォード大の出版社が制作している教科書をはじめ、世界の教育機関、博物館、テレビ局、新聞社、ポータルサイト、百科事典など総34個の世界有名機関の世界地図53個が、韓国の領土全体または一部を中国領土に表記していることが分かった。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=65416

『スペイン紙「韓国4228年間、中国の属国」』

スペインの有力紙「エル・ムンド」のウェブ版
http://www.elmundo.es
が「韓国は4228年間にわたって中国の植民地だった」と紹介した。「エル・ムンド」は「韓半島は長い歴史のなかで数多くの侵略を受けてきた。中国に1895年まで属していた(略)

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=56213

アメリカ大使館「朝鮮に歴史無し。昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」
http://s04.megalodon.jp/2008-0104-0331-22/www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=9&nid=3182743
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&diff=8434966&oldid=8280871

各国教科書に見る朝鮮半島
http://bansensyukai.blog23.fc2.com/blog-entry-7.html

◎ ポーランドの教科書
「AD1世紀以来、日本と中国は朝鮮半島の領有権を巡って衝突した」

◎ ドイツの教科書
「日本が大陸に最初の足がかりを築いたのは4世紀の事だった。その後300年、日本は朝鮮半島を支配する地位にあったが、唐との戦争に敗れ、17世紀になるまで待たなくてはならなかった」

◎ オーストラリアの教科書
「朝鮮は近代に到るまで、その国内での抵抗に関わらず、中国と日本の属国だった」

◎ フィリピンの教科書
「朝鮮は、その歴史の大部分中国の属国であり、その支配は19世紀に日本に引き継がれた。日本は自由な新しい秩序を樹立する事によって、朝鮮に平和と安全をもたらそうとした」

◎ インドネシアの教科書
朝鮮を中国の属国として記した。
「朝鮮の文化と芸術は中国・モンゴル・日本文化の影響を受けた」
「朝鮮は言論・宗教の自由が制約を受ける国」
「北部はロシアが、南部はアメリカが占領している」

◎ タイの教科書
「朝鮮は中国の支配下に入り、これが19世紀まで続いた」

◎ アメリカの教科書
「朝鮮は中国の従属国」

◎ カナダの教科書
「朝鮮は、数百年間中国の属国」
「日本は<中略>朝鮮に鉄道・道路・港を建設し、産業を発達させて教育の機会を拡大させようと努力した」

◎ インドの教科書
「朝鮮は永らく中国の属国だった」

◎ イギリスの教科書
「西暦366年から562年まで、日本が朝鮮半島を支配した」

韓国と北朝鮮の国内でどれだけ洗脳教育をしても勝手ですが
外の世界に出れば
朝鮮半島は古代から下関条約まで常に属国。
これが世界の一般的な認識ということです。



【拡散】韓国人・朝鮮人が必死で隠す歴史的事実まとめ【歴史捏造】 2ch「朝鮮半島朝鮮民族だけのものではありません。多民族共生国家となるべきです」

「世代」

 上記に広開土王の碑文とは五世代の差があるとの指摘があるが、確かに下記に示した一覧表のように、『三国史記』高句麗本紀では、広開土王は十二世孫となっている。世代交代が20年平均とすれば、少なくとも100年前後の空白期間があると思われる。

  国王名

  諱

  継承関係

世代

 東明聖王

 朱蒙 

 

 

 瑠璃明王

 類利 

朱蒙の長男

 1

 大武神王

 無恤

類利の第三子

 2

 閔中王

 色朱

無恤の弟

 

 慕本王

 解憂

無恤の子

 3

 太祖大王

 宮

類利の孫

 

 次大王

 遂成

宮の同母弟

 

 新大王

 伯固

宮の季弟

 

 故國川王

伊夷謨

伯固の第二子

 4

10

 山上王

 位宮

伊夷謨の弟

 

11

 東川王

憂位居

 位宮の子

 5

12

 中川王

 然弗

憂位居の子

 6

13

 西川王

 薬盧

然弗の第二子

 7

14

 烽上王

 相夫

 薬盧の太子

 8

15

 美川王

 乙弗

 薬盧の孫

 9

16

故国原王

 釗

 乙弗の子

 10

17

小獸林王

 丘夫

 釗の子

 11

18

故国壌王

 伊連

 丘夫の弟

 

19

広開土王

 談徳

 伊連の子

 12

 

「甲申年」

 三国史記にある「甲申年」の記述は、紀元前「277年、217年、157年、97年、37年」の年に当り、三国史記は前37年を採っている。

 石光氏は発掘調査から東明王陵の造営が紀元前三世紀であったことから、前277年の建国説を主張している。確かに日本の記紀には干支の該当年を120年ずらしている部分があるとする説もあり、同様に三国史記にも120年、新羅本紀百済本紀では240年のずれがあるとの説もある。だから240年ずらして277年と単純に断定した訳ではないだろうが、前217年ではない根拠が記されていない。

 筆者は、隣接する燕国が滅ぼされ、秦の始皇帝が中華を統一した以後だと推理する。

 燕が箕子朝鮮の遼東地域の領土を奪って遼東長城を築いたことで、箕子朝鮮は政権維持のため、三韓地方や穢系部族連合の領域に支配権を及ぼしたと考える。その対応策として穢系部族連合も国家体制の構築に着手した。そして、秦が遼東長城を強化したことで、箕子朝鮮の遼東地域奪還の夢が完全に途絶えた。高句麗は、この前後(前221-前206年)に小規模な封建制君主国を立ち上げた、すなわち前217年が東明の甲申年だと考える。

『梁書』高句麗

 言語諸事、多與夫餘同;其性氣、衣服有異。本有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、?奴部、桂婁部。本消奴部為王、微弱、桂婁部代之。

 言語、諸事ともに多くが扶余と同じだか、気質や衣服に違いがある。昔は涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五族があった。本来は涓奴部が王統だったが、徐々に微弱となり、今は桂婁部がこれに代わっている。

 上記の組織体制から、始祖神話や三国史記に記された東明(朱蒙)の事績とは異なる展開が想像される。

高句麗の名称」

 では、いつから高句麗の国名は中華王朝や中原諸国に知られるようになったのだろう。

『漢書』武帝紀

 元朔元年秋(前128年),東夷?君南閭等①口二十八萬人降,為蒼海郡。

 注記① 服虔曰:「穢貊在辰韓之北,高句麗沃沮之南,東窮于大海。」

 晉灼曰:「?,古穢字。」 師古曰:「南閭者,?君之名。」

 元朔元年秋,東夷の?君南閭らが二十八万人を率いて降伏した。その地を蒼海郡となす。

注記① 服虔が言うには「穢貊は辰韓の北、高句麗と沃沮の南に在り、東は大海に尽きる」

晉灼が言うには「?は昔の穢の字である」。師古が言うには「南閭とは?君の名」。

 上記から前128年には「南閭」という?君(?貊の君主)がいたことになるが、穢系部族の?貊だけに君主がいたとは考えにくい。扶余が?王の印璽を保持していることから、扶余に穢系部族連合の君主がいて、その連合の一族である?貊にも部族の首領たる君主がいたと考えるのが妥当ではないだろうか。だとすれば高句麗にも君主がいたはずである。

『通典』邊防

 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀?出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。

 昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡る。兵五万。左将軍の荀?は遼東から出撃して右渠を討つ。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。遂に朝鮮の地を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地である。

『北史』高句麗

 漢武帝元封四年、滅朝鮮、置玄菟郡、以高句麗為縣以屬之。

 漢の武帝の元封四年(前107年)、朝鮮を滅ぼして、玄菟郡を置き、高句麗を県となしてこれに属させた。

三国志魏書』東沃沮伝

 後為夷貊所侵、徙郡句麗西北、今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。

 後に(前75年)夷貊に侵略され、郡を句麗の西北に遷した。今言うところの玄菟故府がこれなり。沃沮は楽浪の管轄に還った。

 前75年、昭帝は?貊の暴発を恐れ、?貊人の居住領域に置いた玄菟郡を高句驪の西北に遷し、郡治を高句麗県に置いた(北史の記述は誤解と思われる)。すなわち朝鮮四郡の設置された時期には高句麗の名称と、その支配領域が明確に存在していたことになる。

 そして、朝鮮四郡は異民族国家を郡県制に組み入れて植民地支配をしたことからも高句麗県とは高句麗国であったと推定できる。

 文頭に掲げた高句麗遺跡の考証から、紀元前三世紀頃に穢系部族連合から貉族が分立し、高夷氏や發なども吸収して独自の世界を発展させ、都城の築造を期に「高句麗」と号した。その国号が中原社会に知られるのは朝鮮が滅亡し、朝鮮の故地に四郡を設置した時点だったということだろう。

高句麗の歴史年表

高句麗:B.C 37 ~ A.D 668年まで705年間28代の王。

在位(期間)参考
1東明聖王B.C 37 ~ B.C 19(18)姓名は高朱蒙。元々の姓は解。朱蒙は扶餘出身だが南下し、B.C37年に卒本地域句麗国に国を建てて高句麗とし、自分の姓を高とした。
2榴璃明王B.C 19 ~ A.D 18(37)姓名は解榴璃。東明聖王の長男。※卒本地域有力家門出身の召西奴は東明聖王の2番目の婦人になる前にすでに二人の息子(沸流と温祚)がいて、扶餘から榴璃が逃げて来て太子になったあと南下し、温祚は百済を建国した。※?鳥歌。
3大武神王18~44(26)姓名は解無恤。榴璃明王の3男。
4閔中王44~48(4)姓名は解色朱。大武神王の弟。
5慕本王48~53(5)姓名は解憂または解愛婁。大武神王の息子。
6国祖王53~146(93)姓名は高於漱。 榴璃明王の孫。太祖王ともいう。
7次大王146~165(19)姓名は高遂成。国祖王の弟。
8新大王165~179(14)姓名は高伯固。次大王の弟。
9故國川王179~197(18)姓名は高南武。新大王の次男。國壤王とも言う。
10山上王179~227(48)姓名は高延優。新大王の息子で故國川王の弟。
11東川王227~248(21)姓名は高憂位居。山上王の息子。東襄王とも言う。
12中川王248~270(22)姓名は高然弗。東川王の息子。中壤王とも言う。
13西川王270~292(22)姓名は高藥盧又は高若友。中川王の次男。西壤王とも言う。
14烽上王292~300(8)姓名は高相夫又は高歃矢婁。西川王の長男。雉葛王とも言う。
15美川王300~331(31)姓名は高乙弗又は高憂弗など。西川王の孫。好壤王とも言う。
16故國原王331~371(40)姓名は高斯由又は高釗。美川王の息子。國?上王とも言う。371年百済の近肖古王と平壌での戦いで戦死した。
17小獸林王371~384(13)姓名は高丘夫。故國原王の長男。372年中国(前秦)から僧侶順道によって仏像とお経が伝来した。
18故國壤王384~391(7)姓名は高伊連又は高於只支。故國原王の次男。
19廣開土大王391~412(21)姓名は高談德又は高安。故國壤王の息子。中国と日本では好太王として知られている。
20長壽王413~497(84)姓名は高巨連。廣開土大王の長男。平壌遷都(427年)。
21文咨明王491~519(28)姓名は高羅雲。長壽王の孫。夫餘を滅亡させた(494年)。
22安臧王519~531(12)姓名は高興安。文咨明王の長男。
23安原王531~545(14)姓名は高寶延。安臧王の弟。鵠香岡上王、香岡上王、安岡上王とも呼ばれた。
24陽原王545~559(14)姓名は高平成。安原王の長男。陽崗上好王、陽崗王とも言う。
25平原王559~590(31)姓名は高陽成。陽原王の長男。平崗上好王とも言う。
26嬰陽王590~618(28)姓名は高元または高大元。平原王の長男。平陽王とも言う。隋文帝・隋煬帝の侵攻を乙支文德(※與隋將于仲文詩)が破った。
27榮留王618~642(24)姓名は高建武。平原王の次男で嬰陽王の腹違いの弟。淵蓋蘇文(603~665年)によって殺された。
28寶臧王642~668(26)姓名は高寶臧。淵蓋蘇文によって即位。新羅と唐の連合軍によって高句麗滅亡(668年)。

高句麗
3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。

 中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。
高句麗の建国

 部族連合国家であった高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国である。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、313年に楽浪郡を滅ぼし、427年には都を平壌に移し、現在の中国東北地方から北朝鮮に及ぶ大国となって繁栄した。特に広開土王の時は領土を南方に広げ、朝鮮半島に進出した倭人(倭国)とも戦った。
隋の煬帝の遠征軍を撃退

その勢力は中国の遼東半島にも及び、北西の突厥とともに中国の王朝にとって脅威となったので、隋の煬帝は数度にわたって高句麗遠征を行ったが、いずれも失敗し、その滅亡の一因となった。
唐の攻勢を受け滅亡

 次いで唐の太宗も高句麗遠征の軍を起こし、百済と結んで高句麗を挟撃したが、この時も高句麗によって撃退された。しかし、国力を充実させた唐は、高宗の時、再び高句麗遠征を企て、660年に名将蘇定方、劉仁軌らを派遣した。朝鮮半島では新羅が唐と結び、まず百済をほろぼし、663年に唐・新羅連合軍は百済の復興を支援する日本を白村江の戦いで破り、日本の朝鮮半島での足場も失われた。その後、高句麗に内紛が起こったこともあって、唐は将軍李勣(りせき)を派遣、唐軍は668年に平壌を占領して高句麗を滅ぼした。唐は平城に安東都護府を置いて羈縻政策で統治した。
高句麗文化の影響

 4~5世紀に高句麗が強大になったことは、東アジアの中での日本国家の形勢に大きな影響を与えた。高句麗時代の古墳に見られる壁画と日本の高松塚古墳(7~8世紀初頭)との類似性が注目されている。なお、貊族と同じツングース系の靺鞨は、「高句麗の遺民」と称して698年にほぼ高句麗と同じ領域に渤海国を建国した。
Episode 高句麗は中国?朝鮮?

 2004年8月6日の『朝日新聞』記事によると、「高句麗」をめぐって韓国政府が中国に抗議したという。最近中国が「高句麗は中国の一地方政権だった」という宣伝を強めたためという。高句麗は5世紀の最盛期には現在の中国東北部から韓国の北部までを治め、韓国としては「かつての広大な領土に誇りを感じさせる」存在である。現在も中国東北部には多数の朝鮮系民族が居住している。中国が高句麗は中国の一部という歴史解釈を強調するのは、中国に住む朝鮮族が半島との一体感を強め、独立運動に発展することを恐れているのではないか、という見方も出ている。韓国の盧武鉉政権は「歴史の再評価」に踏み出し、日本の植民地統治下の親日派を糾弾する法律を制定しようとしており、その手前もあって中国にも強気で抗議しなければならなくなっているという。アジアのナショナリズムが変な方に行かなければいいがと心配される動きである。


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Last-modified: 2018-06-10 (日) 16:34:00