渡部昇一(上智大学名誉教授)
 
 大東亜会議が開催されたとき、 私は中学校一年生でございました。 日本はアジアの資源がほしくて戦争を始めたと、戦後はよく言われておりますが、 そんなことはありません。 勿論資源も一つの理由ではありましたが、 もっと大きな目的があったことは、 その2年前、 私が小学校5年生の時に大東亜戦争が始まったのですが、 始まるとすぐに歌を教えられたんです。 そこには 「東亜侵略百年の 野望をここに覆す」 という詩がちゃんとありました。 それは昭和16年10月に教えられた歌です。ですから初めからあの戦争のときは、我々子供も、これは東亜の解放戦争であるということを教えられておりました。
 
 しかし戦後、 不思議なことに、 大東亜会議という名前は誰も口にはされなくなり、言葉も出なくなりました。 そしてある時、作家の深田祐介さん,日本航空の大変偉い人だったですけれど、 一緒に外国に行ったとき、 大東亜会議をみんな忘れてしまっているねえ、 などと言う会話をしましたら、 そうだなあとか言われて、その後、深田先生が、戦後初めて、大東亜会議について非常に詳しくかつ公正な本を書かれま した。
 
 私もぃろぃろ記憶を蘇らせてみて、 調べてみまして、 戦後日本では立派な百科事典が出ておりますけれど、 そこには大東亜会議は項目として出てきません。 2, 3行触れられることはあっても、 敵側の会談や会議はそれこそ何十ページも出て来るのに、 大東亜会議はほんの2, 3行。 ああ、 これが戦後というものだなと思いました。
 
 最近広辞苑を研究した方がおられましてね。 広辞苑は大変いい辞書ですけれども、 こと近現代史に関してはいい加減なことを書いていますので、 前に亡くなった谷沢永一先生と、 広辞苑の嘘という本を書いたこともありましたが、 最近までずうっと広辞苑には大東亜会議の事は触れられていなかったんです。 それが、第6版になって、ようやく項目に入りました。 しかしそこには、まあ3, 4行の簡単なものですが、 日本とアジアの親和的な国々の会議、 日本と仲のいい国が集まった会議という、 そんな意味のことが書いてある。 しかし、 考えてもみてください。当時日本と仲のいい政権、いや、仲の悪い政権でもいい、そもそも政権と名の浮くものは蒋介石政権以外にはほとんどいないんですよ。 後はほとんど植民地だったんですからね。
 
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 そして、 ひとつ面自いことがあるんです。 広辞苑はようやく大東亜会議の事を入れてくれたんです。 しかし、大東亜会議のメンバーが書いていないんです。 しかしですよ、 これは調べてくれた人も言っていましたし、 僕もチェックして確かめましたが、 真田十勇士、 猿飛佐助だとか三好青海入道とか、 まあ僕も子供のころは名前を全部覚えていましたけど、 そういうのは載つているんですよ。 しかし大東亜会議のメンバーは載つていなぃ。 僕は真田十勇士の名前は少し忘れてしまったけど、 大東亜会議のメンバーは覚えていますよ。 東條さん、 そして北から云いましょうか、満州国の張景恵さん、 中華民国の王清衛さん、 フィリピンのラウレルさん、タイのワイワイタイヤコーンさん、ビルマ、ミャンマーのパー・モウさん、 そして独立は当時していませんでしたけど、 オブザーバー参加ですが、最後の、 トリの演説をしましたから、それなりに重要視されていたと思いますね、インドのチャンドラ・ボースさん。 インドネシアはスカルノさんが日本に来たんですが、 まだ独立をしていなかったから参加できなかったんですね。それでも天皇陛下は、わざわざ、スカルノさんを読んでくれたんです。 それ以後、 まあそれ以前からと思いますけれどもね、 スカルノさんは日本を愛し、 非常に感動しておりました。 そして日本の女性をお嫁さんにしたことは、 皆様よくご存じのとおりであります。
 
 そして、 大東亜会議をだれが発案したかと言いますと、 重光さんという人です。 重光葵さんという方で、 東條内閣の三代目の外務大臣になりました。 そして重光さんは、 大東亜戦争の戦争目的と理想をちゃんと表明しないといかん、と言つたんですね。そしたら、東條首相も、そうだそうだと同意して、そして、昭和天皇陛下も大変に喜ばれた。 資源がほしいとか、 そういうことで戦争をしたんじやないことを明らかにしようと。 他の国は、植民地というのは資源がほしい、 資源を獲るためだけですから、 日本もそのために戦・争を始めたと考えている。 そうじやないんだ、我々中学生まで歌の中で、 「東亜侵略百年の野望をここに覆す」 という風に歌っていたんですよ。
 
 しかし、 この大東亜会議が、 昭和17年だったらもっと良かっただろうと思うんですね。一年遅れました。昭和18年の春ごろにようやく重光さんが外務大臣になって、すぐにこの大東亜会議を画策、画策というと悪いみたいですね、計画されたわけです。 そして当時そのころは戦場がソロモンでして、 アッツ島が玉砕しているわけです。 それでもまだ絶対国防圏の外ですから、 まだ敗色が出てき始めたという感じで、 まだ全然勝っていたわけですが、 それでも敏感な諸国は、 例えばタイ国とかは本当はビプン首相が出てくるところなんですけれ
 
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 ど、 ワイワイタヤコーン殿下が来るとか、 ちょっと危ないなと思い始めたと思うんです。 集まったアジアの人たちはみんな政治家ですから、 ちょっとそろそろ日本も危ないかなあと思い始めていたかもしれませんが、 やはり使命感に燃えてみんな集まってきたわけです。 そして、 このせいでしょうか、 二週間ちょっとくらい経つたら、 アメリカとイギリスがあわてまして、カイロ会談をやったんです。 カイロ会談というのは、 チャーチルとルーズベルト、 それから呼んだのが蒋介石でしょう。 大東亜会議には蒋介石入っていませんから、 蒋介石が降伏されたら困ると思って、 あわててカイロ会談というおべんちゃらの会議を開いたわけです。 そちらの方は、 戦後の辞書にも大きく載っています。
 
 重光さんがこの会議を計画して開いたこと、 そして東條さんが賛成し、 天皇陛下が喜ばれたこの会議がいかに重要かということを、 世界に知らしめられると、勝った方の国は困りますから、絶対にそれを知らせないような政策が勝者によってとられたんだと思います。 要するに日本の左翼も含めて、 絶対にこの会議を知らせないようにしたのだと思いますね。 重光さんは敗北の時に、 ミズリー号で、敗戦の署名をやったわけです。 その時造られた歌が、 「願くは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを」 という、 敗戦の署名をしたような私を、 あいっは駄目な奴だとそしる人が沢山出るくらいに、 将来日本がさかえてほしいという意味の歌を歌つているんです、 本当の愛国者でいらっしやいました。
 
 さらに重光さんの重要性を言いますと、 この方は、東京裁判有罪です。有罪ですけれど死刑じやなかったので、 復活して、 鳩山内閣、 と言ってもあのへんな鳩山内閣じやなくて、お爺さんの鳩山内閣の副総理、外務大臣として、 日本が1956年国連に加盟した時に国連に行って、 日本が世界の懸け橋になると言って、 万雷の拍手を受けた、 そして、 これで私の日本に対する務めは終わったと言って、帰ってくると、バッタリ倒れて亡くなったのです。それを聞いた国連が、黙とうをささげた。
 
 これは何を意味するかというと、 東京裁判の戦犯なんてものはないんですよ。 東京裁判のA級戦犯だった人が国連で黙とうをささげられているんですから。 重光さん一人だけでも、 東京裁判史観を覆すのは十分ですけれど、 まだ日本人の中でも、 東京裁判史観で、 A級戦犯がどうだとかごちゃごちゃ言っている人がいる。重光さんが、どうしてもこれはたたえなければならなぃとぃうことで、重光賞も作られました。 第一回の受賞者は深田さんですけれどもね。 しかし、大東亜会議は語られることは今もほとんどありません。 私の世代は思い出して
 
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 くれる人がいるというだけです。 しかし、加瀬さん、頭山さんのご尽力によって、 70周年記念大会がこうして開かれ、盛大に行われたことはまことにうれしいことです、 私も中学一年生の時のあの記憶、 あの感動がまた蘇ってきたような気がします。 そして日本のこれからの外交方針では、 すぐに直接出すといろいろ問題あるかもしれませんが、 外交をやる人は腹の底で、 この大東亜会議の精神を治めて、 世界と交渉してもらぃたぃと思っております (終)
 
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Last-modified: 2015-02-18 (水) 09:58:00