満州国

	

満州国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、英語: Manchukuo、拼音: Mǎnzhōu Guó )は、1932年から1945年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」あるいは「満州帝国」などとも呼ばれていた。

日本(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。
概要

満州は 、歴史上おおむね女真族(後に満洲族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月、満洲国の建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀がついた。

愛新覚羅溥儀

満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[1]。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペイン国などのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた[2]。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国および中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満」「偽満洲国」と表記する[3]。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する[4][5]。
歴史
誕生の背景
前史

日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。経世家の佐藤信淵は、1823年(文政6年)に著した『混同秘策』で「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」と満洲領有を説いた。幕末の尊皇攘夷家吉田松陰は『幽囚録』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と似た主張をしている。

清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになったが、ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と完全に対等な国交条約を締結していたが、日清戦争後の下関条約及び1896年(明治29年)に締結した日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得ることとなり、西欧列強に遅れながら中国に対する特殊権益獲得に動くことになった。
ロシアによる支配画策

ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順大連租借条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得して満洲支配を進めた。

20世紀初期の日本では、すでに外満州(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。
「日本の生命線」

日露両国は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め戦勝国となる。これにより南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった。

この状況について当時日本に在住していたポルトガルの外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、 「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとって もこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかも しれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている[6]。

第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満州善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争[7]へ導くこととなる。

1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。

日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。第一次国共合作により北伐を成功させた蒋介石の南京国民政府は、1928年7月19日に一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。
満洲における状況

満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。

これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した寛城子事件では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。

さらに中国内地では蒋介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、外満州では赤軍と協力した中国艦隊によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満州が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。
満洲事変

張作霖爆殺事件の現場

詳細は「満州事変」を参照

1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、独自の判断で張作霖を殺害したとされる(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満州事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。

日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。
誕生
「執政」就任式典
日満議定書の調印式

リットン調査団

柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満洲国領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。

翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。

1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。

その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元[8])。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。
満洲国をめぐる国際関係

一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には支那の一構成部分なりと雖も」としたものの「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」[9]と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。

同年9月15日に斎藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。

1933年2月24日の国際連盟総会での同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項[10]および6項[11]についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。

隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[12]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満州事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。

1941年4月13日、日ソ中立条約がソ連と日本の間で締結され、満洲国とモンゴル人民共和国の領土保全と相互不可侵を約束するとした共同声明が出された[2]。
第二次世界大戦

鞍山製鉄所

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は 「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては 満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止しする一方、在満 洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。

日本の敗色が濃くなった1944年の後半に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を 受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、 1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという 従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。

1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ編入、北満鉄路・南満州鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した[13]。

1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国でイギリス、アメリカ中華民国、オーストラリアなどの連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では前年松のサイパンやフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦は時間の問題となっていた。
ソ連の侵攻

								

満州の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊 粛慎
燕 遼西郡 遼東郡
秦 遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
魏 昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
隋 柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
唐 営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府
遼 上京道 東丹 女真
中京道 定安
東京道
金 東京路
上京路
東遼 大真国
元 遼陽行省
明 遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
清 満州
東三省 ロマノフ朝
中華民国
(東三省) ソ連
(極東)
満州国
中華人民共和国
(中国東北部) ロシア連邦
(極東連邦管区)
中国朝鮮関係史
Portal:中国

「ソ連対日宣戦布告」および「ソ連対日参戦」も参照

1945年6月、日本は終戦工作の一環として満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたソ連がその提案を取り上げる筈も無かった[14]。8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイのリヒャルト・ゾルゲから得ていた関東軍特種演習の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、日本政府に対しては直前に駐ソ大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては、そもそも国家として承認していなかったことから、何の外交的通告も行われなかった。満洲国は満洲国防衛法を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。

一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかった。兵力の数的な不足と同時に、精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった(ソ連対日参戦を参照)。

そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述) をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は 「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去 りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生した。8月14日には葛根廟事件が起こった。日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ漢族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。

この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。

一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては「解放」であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎 え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害する ことになった。
滅亡

皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。

2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した[15]。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。

8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。
その後の満洲地域
日本兵と日本人入植者

戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性を有無を言わさず逮捕収容し、65万人以上の日本人が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留によって、帰国できずに命を落とす者が25万人以上出たといわれる。

一方、逃避行の果てに、ようやく日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺される通化事件なども引き起こされた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。
統治の変遷

満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続いた。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰ったりした。1946年5月にはソ連軍は完全に撤退し、満洲は蒋介石率いる中華民国に返還された。

しかし、その頃から農村部を拠点とする八路軍による中華民国軍へのゲリラ戦が活発化し、1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が都市部も含む満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。

中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。その後、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、ソ連からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転した。1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国のあった地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)[16][17]。
現在

満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国中華人民共和国両国内で排除されている (「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中に のみ存在する。現在でも満洲国の後継を自称する満洲国臨時政府が存在する


満州国建国
満州事変の翌年、日本は傀儡国家として、
清の皇帝・溥儀を擁立し「満州国」を建国した。
これによって日本の満州占領が本格化した
といわれているが…

●日本がやったことは筋が通っている。先祖の土地に逃げてきた満州族の長の子孫を助けて皇帝にしたのだから。満州各地で清朝復興の運動も起こっていた。

●戦後、日本が満州を侵略したように思われているが、これは溥儀が東京裁判で「皇帝になりたくなかった」と証言したことが一因である。
      《渡部昇一 歴史街道2006/4月号》

●満州族は漢民族とは全く系統を異にする民族であり、そのラストエンペラーの溥儀が再び満州国の皇帝に戻り、固有の領土・固有の国家と国民を持つことは合法である。そして溥儀は自分の国を建てたがっていたのである。それは溥儀のイギリス人家庭教師レジナルド・フレミング・ジョンストン卿も、その著書「禁苑の黎明」の中で語っている。(これは一級史料である)
     《渡部昇一 「自ら国を潰すのか」》

●溥儀は革命で皇帝の位を奪われ、追い払われて軟禁された。殺される危険が生じたから、ある日護衛隊の目がくらんだ隙を利用して逃げ出し、命からがら日本の公使館に転がり込んできた。溥儀は蒋の軍隊によって先祖の墓を爆破され、骨も粉々にされてしまった。一緒に埋めておいた宝石も奪われた。そのため溥儀はつくづくシナ人に愛想が尽き、満州へ帰りたいということになった。

●「紫禁城の黄昏」に溥儀が書いた序文…「芳沢(日本公使)は私を丁重にうけいれ、野蛮な軍隊から逃れるため、亡命先として公使館を使用することを認めてくれたのであった」
日本に感謝していた。だから東京裁判で溥儀が「日本の軍人に脅されて、いやいやながら皇帝になりました」と証言したのは全くの嘘だった。そう証言しないと「殺す」と言われたのでそう発言しただけ。(もちろん日本の弁護団は「紫禁城の黄昏」を証拠物件として提出したが、これは却下された)

●実際満州国は、総理大臣以下、大臣は全部満州人だった。ただ統治能力が足りなかったから日本人が支えた。皇帝も大臣もみな満州人あるいは清朝に仕えたシナ人であった。
   《渡部昇一 「国を愛するための現代知識」
           他の著書「日本史」》 

●第一、満州国が出来た時点で、多くの国がその建国を認めて国交も結んだ。ソ連に至っては東支鉄道を満州に売却している。存在を認めていない国に対して商売できるはずがない。
      《井沢元彦 諸君!2005/6月号》

●「世界は満州国を『傀儡国家』であるという。満州国人自ら政治の術に巧ならざりしがため当初日本人専門家の友好的援助を受けて新国家を組織したのである。それが果たして傀儡国であるという意味になるのであろうか。しからば今日世界には無数の傀儡国家が存在することになる。ラテン・アメリカやカリブ海沿岸の諸共和国にして、合衆国の制圧を受けないものが果たして幾何あるか。印度は自治独立国を以て組織されている国際連盟の一員であるけれども、英国の傀儡にあらずして何であるか」(当時「ファー・イースタン・レビュー」の主筆だった米国人ブロンソン・レー「満州国出現の合理性」)
《勝岡寛次
 「韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する」》

●張学良の勢力が関東軍によって駆逐されると、奉天省の商民代表は保境安民派と提携し奉天自治維持会を組織し、中国本土とは絶縁した民意に基づく新政権の樹立を目指した。
そしてこの組織は、遼寧省地方維持委員会となり遼寧省の独立を宣言した。その宣言文には「我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今やこれらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇の機会に到達した。…新独立政権の建設を図らざるを得ざるに至った。これがために本会は、張学良と関係ある錦洲政府並びに軍閥の禍首蒋介石らの蠢動を否定することを決議した」とある。

●また吉林省でも、清朝復辟(皇帝の復位)派が張学良派の実力者たちを追放し、独立を宣言した。東省特別区のハルピン市長・張景恵も1932年1月1日独立宣言をした。
その後、全満建国促進運動連合大会が奉天で開催され、ここには各省代表の他、モンゴル・吉林省朝鮮人・東省特別区朝鮮人・満蒙青年同盟・各種団体の代表など約700人が出席し、満州の建国を決定した。

《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」他の著書「中国人が死んでも認めない捏造だらけの中国史」》

●辛亥革命で再び漢族の時代が来ると、彼等は清朝最後の皇帝溥儀を北京にとどめ、故郷の満州に帰らせなかった。清の皇帝が漢族の新政府のもと北京におわせば、清の版図つまりチベットもウイグルも満州もそのまま新政府が相続したように世界に印象付けられる。
     《高山正之 週刊新潮2009/8/13.20》

●弁髪という満州族の慣習を漢民族に強制する。これこそ清が中国を征服した印だった。
《祝田秀全
 「忘れてしまった高校の世界史を復習する本」》

●満州事変が起きて張作霖が追われると、満州の至るところで軍閥が独立し、混乱状態になった。
そこに日本の後押しを受けた溥儀が戻る。すると、満州族の皇帝が戻ったと歓迎され、溥儀のもとにみんなが集まり、それまでそれぞれの地域で独立を宣言していた小軍閥や匪賊の頭たちが進んで1つにまとまった。そして満州国は独立したのである。 
   《渡部昇一 「『東京裁判』を裁判する」
       他の著書「東條英機歴史の証言」》

●ローマ法王庁をはじめ15の国家が承認し、事実上承認した国を含めると23もの国家と関係があった満州国を、中国では「偽満州国」と呼ぶのである。
      《宮脇淳子 諸君!2006/2月号》


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Last-modified: 2017-08-19 (土) 14:56:00