アンゴラ
(1975~1992~) アンゴラ共和国(国名変更)
アンゴラ共和国(国名変更)
英語による名称 | Republic of Angola |
首都 | ルアンダ(約806.9万人、2019年:アンゴラ共和国国勢調査) |
独立年月 | 1975年11月 |
建国年 | 1975 |
主要言語 | ポルトガル語(公用語)、その他ウンブンドゥ語等 |
面積 | 124.7万平方キロメートル(日本の約3.3倍) |
民族 | オヴィンブンドゥ族(約40%)、キンブンドゥ族(約25%)、バコンゴ族(約15%)等 |
人口 | 3,080万人(2019年:世銀) |
通貨 | クワンザ(KZ) |
国情報
(1975~)
アンゴラ共和国
略史
年月 略史
1402 | アンゴラの戦い~チムールがオスマン・トルコを破る(オスマン・トルコ-アフリカ-アンゴラ、オスマン・トルコ)-- | |||
1483 | アンゴラ、ポルトガル人が到達(-アフリカ-アンゴラ、ポルトガル)-- | |||
1600 | 16世紀中葉 アンゴラ、ポルトガルが海岸地方を支配(-アフリカ-アンゴラ、ポルトガル)-- | |||
1950 | アンゴラ、民族運動台頭(1950年代から)(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1951 | アンゴラ、ポルトガルの海外州となる(-アフリカ-アンゴラ、ポルトガル)-- | |||
1975 | アンゴラ、サントメ・プリンシペ、カボ・ヴェルデがポルトガルから独立(-アフリカ-アンゴラ、サントメ・プリンシペ、カボ・ヴェルデ、ポルトガル)-- | |||
1975 | MPLA(アンゴラ解放人民運動)がアンゴラ人民共和国の独立宣言 ネト大統領就任(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1979 | 9. アンゴラ、ネト大統領病死 ドス・サントス大統領就任(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1988 | 2.1 アメリカ・キューバ・アンゴラ、キューバ軍のアンゴラ撤退で原則合意(-アフリカ-アンゴラ、アメリカ、キューバ)-- | |||
1991 | 5. アンゴラ、アンゴラ包括和平協定調印(ビセス合意)(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1992 | 9. アンゴラ、初の民主的大統領及び議会選挙(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1994 | 11. アンゴラ、ルサカ和平協定調印(政府軍とUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)軍間の和平協定)(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
1997 | 4. アンゴラ、統一国民和解政府樹立(-アフリカ-アンゴラ)-- | |||
2002 | 4.4 アンゴラ、停戦合意に関する覚書の署名(-アフリカ-アンゴラ)-- |
7 国祭日
11月11日(独立記念日)
1975 11 アンゴラ Angola AGO 南アフリカ アンゴラ 11月11日 国祭日 1975年ポルトガルからの独立宣言をした日
歴史(
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1700年代
・現在のアンゴラ共和国およびその周辺は、1575年にポルトガル王国の植民地になった。
・現在の首都ルアンダは一定の自治権を与えられ、貿易港に発展した。
・ポルトガル領アンゴラの貿易相手はブラジルだったと伝えられている。(ブラジルもポルトガル王国の植民地)
・ポルトガル王国はブラジルやアンゴラの奴隷を領土拡大に利用した。(奴隷貿易と征服戦争)
・主な輸出品は奴隷、食料、ゴムなどだった。
1800年代
・1836年、奴隷貿易廃止。
・1844年、ルアンダ港を自由貿易港として開放。外国船の乗り入れが始まる。
・奴隷貿易廃止後も奴隷の密輸は後を絶たなかった。
・外国船の乗り入れが増加したことで輸出品も増加。ピーナッツ油、ワックス、コーパル、木材、綿、コーヒー、ココアなどが取引された。
・ポルトガル王国に最も大きな利益をもたらしたのは、象牙とゴム、そして、現地民に課せられた税金だった。
・1884年、イギリスはポルトガル領アンゴラの一部地域の植民地化を認めなかった。(ベルリン条約)
・1885~1886年、一部地域を除く現在のアンゴラの国境が確立した。
アンゴラ共和国/高地
1900年~第一次世界大戦
・ポロトガル領アンゴラは、第一次世界大戦の影響を全く受けなかった。
・各地に都市、町、交易所が誕生、鉄道が開通し、港も拡張された。
・ポルトガル王国の支配者たちは、先住民族の伝統や遺産を残しつつ、欧州の文化、言語、キリスト教などを広めた。
・1900年代初頭、ポルトガル領アンゴラは急激に西洋化したと伝えられている。
第一次世界大戦~第二次世界大戦
・ポロトガル領アンゴラは、第二次世界大戦の影響を全く受けなかった
・象牙、綿花、コーヒーなどの輸出が増大、ポリトガル王国に大きな利益をもたらした。
・ポルトガル王国は大きな利益をもたらす綿花の栽培を先住民族に強制した。
終戦~現在
・1951年、ポルトガルの海外州に加入。
・1950年代後半、ポルトガルの支配に抵抗するアンゴラ解放人民戦線(UPA)とアンゴラ人民解放運動(MPLA)の動きが活発化する。
・1955年12月、ポルトガルが国連に加盟。
・1960年12月、ポルトガルの支配に抗議する労働者がボイコットを開始、より良い労働条件を要求した。
・1961年1月9日~11日、暴徒化したアンゴラ州の先住民族がポルトガル人を殺害する。
・1961年1月20日、ジョン・F・ケネディが大統領に就任。以降、アメリカはアフリカのナショナリスト運動を支援する。アンゴラ州に関しては、UPAに武器などを直接提供した。
・1961年初頭、ポルトガルは植民地に対し、アメリカ製の武器使用を禁じる。
・1961年2月2日、ルワンダで数百人の抗議者とポルトガルの治安維持部隊が衝突。治安維持部隊の発砲で数十名が死亡した。
・1961年2月4日、アンゴラ独立戦争勃発。(ポルトガルのアンゴラ州軍vsUPA、MPLAなど)
・1961年3月15日、UPAを率いるホールデン・ロベルトは4,000~5,000人の過激派武装勢力を雇い、アンゴラ州北部への攻撃を開始した。
・1961年4月初旬、UPAの過激派組織がアンゴラ州北部のコルア村を襲撃。ポルトガル州軍を含む数十名を虐殺し、遺体を食べたと伝えられている。この虐殺共食い行為は、ポルトガル政府に大きな心理的ダメージを与えた。
・1961年4月11日、ポルトガルの独裁者、サラザール首相に対するクーデターが発生。失敗に終わる。
・1961年4月13日、サラザール首相がアンゴラ州への本軍派遣を指示。
・1961年5月2日、ポルトガル政府は綿花の強制労働を禁じる新たな労働法を布告した。
・1961年6月9日、国連安全保障理事会が決議163を採択。アンゴラを非自治領と宣言し、ポルトガルに攻撃を停止するよう求めた。なお、決議はアメリカ、ソビエト連邦などによって承認され、イギリスとフランスは棄権している。
・1961年10月3日、ポルトガル本軍が攻撃終了を宣言。7日に軍事作戦終了を正式に発表した。
・1961年だけでアンゴラの先住民族2万~3万人が殺害され、約50万人が難民になった。(推定)
・1962年3月、UPAとアンゴラ民主党(PDA)が合併し、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)を結成する。FNLAの指導者はホールデン・ロベルトが務めた。
・1962年3月27日、ホールデン・ロベルトがアンゴラ革命政府(GRAE)の設立を宣言。ロベルトはイスラエルを訪問し、1963~1969年まで援助を受けた。
・1970年代初頭、過激派組織の飛行隊がポルトガル州軍の基地を爆撃し始める。
・ポルトガル州軍が過激派組織への攻撃を開始、鎮圧に成功。
・1973年、ホールデン・ロベルトが中国を訪問。共産党の支持を取り付ける。
・1974年4月25日、ポルトガルの独裁政権に対するクーデターが発生。独裁政権は崩壊し、ポルトガルの民主化が始まる。(カーネーション革命)
・1974年4月25日、アンゴラ独立戦争終結。
・1975年1月15日、ポルトガル、FNLA、MPLA、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)がアルヴォー合意に署名。
・1975年11月11日、「アンゴラ共和国」が独立を宣言。
・1975年11月11日、アンゴラ南北戦争勃発。(MPLA連合軍vsFNLA、UNITA連合軍)
・1975年11月~1976年1月末、MPLA連合軍が敵軍を圧倒。FNLAに加担していた南アフリカが撤退を表明する。
・1977年5月27日、MPLA内でクーデターが発生するも失敗に終わる。MPLAとこれに加担するキューバ軍はクーデターに関わった数千~数万名を処刑したと伝えられている。
・MPLAはソビエト連邦と東側諸国から支援を受け、その後も激しい戦いを継続した。
・1987年1月13日、クイトクアナヴァレの戦いが始まる。(アンゴラ人民共和国vsFNLA、UNITA連合軍)
・1987年3月23日、クイトクアナヴァレの戦い終結。両軍合わせて数万人が死亡、決着はつかず停戦した。
・1987年6月、アメリカとMPLAが平和交渉を本格化させる。
・1992年10月30日~11月1日、MPLA軍がFNLAとUNITAの支持者を粛正。25,000~30,000人が虐殺された。(ハロウィーン大虐殺)
・1994年11月20日、アメリカやロシアの監視のもと、アンゴラ共和国とUNITAがルカサ議定書に署名。武装解除および和解に合意した。
・1995年、元UNITAの反乱軍などが局地的な戦闘を再開。
・1997年4月、内閣発足。
・1997年8月28日、国連安全保障理事会がUNITAへの制裁を採択。
・1999年、アンゴラ共和国軍の大規模攻撃で元UNITAの反乱軍などは壊滅、占領されていた主要都市の奪取に成功した。
・2002年4月4日、アンゴラ南北戦争終結。死者数は民間人を含めると推定100万人、数十万人が住居を失い、推定400万人が国内避難民になった。国内に敷設された地雷の数は推定1,500万発。
・2002年8月、UNITA政党誕生。
・2017年9月、アンゴラ共和国とMPLA軍を率いたホセ・エドゥアルド・ドス・サントス大統領が辞任。38年の独裁政権が終了した。
・2017年9月、ジョアン・ロウレンソが形だけの選挙で新独裁大統領に就任。
アンゴラ国際平和協力業務(1992(平成4)年)
アンゴラimg
アンゴラ共和国
【首都】ルアンダ
アンゴラ共和国基礎データ(外務省ホームページへ)別ウインドウで開きます
我が国選挙監視要員img
我が国選挙監視要員
1992(平成4)年9月29、30日に、アンゴラ人民共和国(同年11月にアンゴラ共和国と改名)で行われた国会議員選挙及び大統領選挙に協力するため、第2次国連アンゴラ監視団(UNAVEMII)に国家公務員1名、地方公務員1名及び民間人1名の計3名の選挙監視要員を派遣しました。我が国の要員は、他の国から派遣された要員と2名1組で担当地域の複数の投票所を巡回し、二重投票や選挙妨害の有無などを確認し、投票などの状況を監視する業務を行いました。