港川人

港川人

港川人とは約1万8000年前の旧石器時代に日本の沖縄にいた人類である。
沖縄本島南部の具志頭村 (→具志頭 ) にある港川採石場で発見された約1万 8000年前の化石人骨。
沖縄県港川採石場(現・八重瀬町)で、1970年に大山盛保によって発見された数体分の人骨化石。年代は約1万8000年前で、後期更新世及び後期旧石器時代に当たる。
昭和45年(1970)から昭和47年(1972)にかけて沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町)の採石場で発見された数体分の化石人骨。更新世末期の約1万8000~1万7000年前のものとされる。
1967年―1970年,沖縄県具志頭村(ぐしちゃんそん)(現・八重瀬町)港川の採石場で発見された化石人骨。
日本で発見された最も完全な新人化石。1966年,沖縄県具志頭村港川採石場から発見され,炭素14法による年代測定で1万8200年前の人類と推定される。
沖縄県島尻しまじり郡八重瀬やえせ町にある港川遺跡から発見された化石人骨。旧石器時代約一万7000年前の新人で、

1967年~1972年にかけて大山盛保氏によって、
1968年那覇の大山盛保が
沖縄南部のガンガラーの谷から約1キロ離れた海岸の石灰岩採石場で発見された人骨であり、これを機会に発掘調査が本格的に行われるようになった。
現場で人骨を発見したのを機に,
本格発掘・調査が進んだ。

石灰岩採石場で発見されたのは全部で9体であり、そのうち4体は全身状態が非常によいかたちで見つかっている。
1982年鈴木尚らによって詳細が報告された。4個体分以上の骨格が出土しており,

そのうちの1体は頭から足まで全身の骨格の形がよい保存状態で見つかっており、これは日本におけるもっとも古い人骨である。

なかでも港川I号と呼ばれる成人男性骨格は頭骨や四肢骨がよく保存されており,日本列島出土の更新世人類化石のなかで,最も完全に近いものである。

港川人の特徴は身長は男性で約150センチ、女性で約145センチと小柄で、骨にとても厚みがあり、現代人の1.5倍ほどある。
推定身長はI号男性が 155cm,II~IV号の女性の平均が 144cmで,いずれもかなり低い。
やや原始的で頑丈な頭と顔は、東アジアにおける初期新人の状態をとどめていると解釈される。小柄な体格、華奢な上半身、比較的頑丈な下半身の組み合わせは、狭い沖縄での放浪性の採集狩猟生活に対する適応といえる。
平均身長150〜155cm,厚い頭骨,眼窩上隆起,眉間の隆起の発達,幅広の額,低顔などが特徴。ほぼ同時期の中国北部の周口店上洞人よりも,中国南部の柳江人(りゅうこうじん)との類似が指摘されている。
5〜10体分の人骨が発掘され,うち4体分の全身骨格が復元されている。日本の化石人骨のなかで最も保存状況が良好。炭素14法によって,約1万7000年前の新人段階に属することがわかっており,年代の判明している東アジアの新人化石のなかで最も古い。

頭の輪郭はネアンデルタール人と類似しており、顔は縄文人と似ている。
石器などの人工物は見つかってない。のちの調査により、港川人縄文人の祖先ではなく、アジア大陸の南方に起源し、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いと考えられている。

また上半身は比較的細く華奢な体格であるが、力はあまりなかったと考えられている。

一方で下半身は比較的しっかりとした造りとなっており、狩猟採集の生活をしていたことが推測されている。

また顎が発達しており、歯はすり減った後があることから、比較的かたい物を食べていたと考えられている。

2014年には沖縄南部のサキタリ洞遺跡で、約9000年以上前の人骨が発掘されており研究が進められている。
港川人と日本人のルーツ

港川人の発見は日本人のルーツを探る上でもとても重要な意義を持っており、港川人が日本本土に渡って日本人の祖先である縄文人となった可能性が高いと言われている。
 山口敏は,縄文人は同時代の華北新石器時代人よりも,後期旧石器時代の華南の柳江人と類似していることを証明し,農耕民である華北新石器時代人は,早くから現代人的な形態特徴をもっていたが,縄文人は狩猟,漁労,採集を基盤とする生活を続け,旧石器時代人的な形態特徴を長く保持していた集団であろうと述べている。
鈴木尚は,洪積(更新)世人類である沖縄の港川人が華北の上洞人よりも華南の柳江人や縄文人に近いことを明らかにし,〈港川人は柳江人とはいとこの関係にあると同時に,縄文人の遠い祖先と見なすことができそうである〉と述べている。

実際に奄美地方や九州、沖縄北部で石斧が発見されており、この斧で舟を作って北上して行き、日本本土に渡り縄文人になったとする説である。
2~3万年前に,アジア大陸から現在の日本列島に陸橋を通ってモンゴロイド系集団が渡来し,その後海水面の上昇によって,長期にわたる孤立化の結果特殊化し,縄文人が出現したと考えられている。…

しかしこれには諸説あり、港川人縄文人の祖先とする説にはやや疑問を投げかける専門家もいる。

もし港川人が現在の人類とするならば、オーストラリア先住民などに近いとする考えである。
頭骨では眉間が隆起し,顔が低く幅広い形をもっており,日本の縄文時代人や中国南部の柳江人との形態上の類似が認められている。
骨の形質は化石のホモ・サピエンスとしての特徴をもっているが,横後頭隆起があるなど原始的特徴もある。この人類はアジア大陸の新人と比較すると,上洞人よりも華南の新人である柳江人により強く類似している。また他方,日本本州の新人である三ヶ日人,浜北人と類似するばかりでなく,縄文人とも,形態学的に血縁関係の存在が推測される。

沖縄県立博物館には「港川人復元像」が所蔵されており、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には「港川人コーナー」があり、これまでの発掘調査や研究結果などがまとめられている他、全身骨格のレプリカも展示されている。

港川人の特徴

港川人とは約1万8000年前の旧石器時代に日本の沖縄にいた人類である。

もっともよく知られているのが、1967年~1972年にかけて大山盛保氏によって、沖縄南部のガンガラーの谷から約1キロ離れた海岸の石灰岩採石場で発見された人骨であり、これを機会に発掘調査が本格的に行われるようになった。

石灰岩採石場で発見されたのは全部で9体であり、そのうち4体は全身状態が非常によいかたちで見つかっている。

そのうちの1体は頭から足まで全身の骨格の形がよい保存状態で見つかっており、これは日本におけるもっとも古い人骨である。

港川人の特徴は身長は男性で約150センチ、女性で約145センチと小柄で、骨にとても厚みがあり、現代人の1.5倍ほどある。

頭の輪郭はネアンデルタール人と類似しており、顔は縄文人と似ている。

また上半身は比較的細く華奢な体格であるが、力はあまりなかったと考えられている。

一方で下半身は比較的しっかりとした造りとなっており、狩猟採集の生活をしていたことが推測されている。

また顎が発達しており、歯はすり減った後があることから、比較的かたい物を食べていたと考えられている。

2014年には沖縄南部のサキタリ洞遺跡で、約9000年以上前の人骨が発掘されており研究が進められている。
港川人と日本人のルーツ

港川人の発見は日本人のルーツを探る上でもとても重要な意義を持っており、港川人が日本本土に渡って日本人の祖先である縄文人となった可能性が高いと言われている。

実際に奄美地方や九州、沖縄北部で石斧が発見されており、この斧で舟を作って北上して行き、日本本土に渡り縄文人になったとする説である。

しかしこれには諸説あり、港川人縄文人の祖先とする説にはやや疑問を投げかける専門家もいる。

もし港川人が現在の人類とするならば、オーストラリア先住民などに近いとする考えである。

沖縄県立博物館には「港川人復元像」が所蔵されており、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には「港川人コーナー」があり、これまでの発掘調査や研究結果などがまとめられている他、全身骨格のレプリカも展示されている。

港川人(読み)みなとがわじん

港川人
みなとがわじん

沖縄本島南部の具志頭村 (→具志頭 ) にある港川採石場で発見された約1万 8000年前の化石人骨。 1968年那覇の大山盛保が現場で人骨を発見したのを機に,本格発掘・調査が進んだ。 1982年鈴木尚らによって詳細が報告された。4個体分以上の骨格が出土しており,なかでも港川I号と呼ばれる成人男性骨格は頭骨や四肢骨がよく保存されており,日本列島出土の更新世人類化石のなかで,最も完全に近いものである。推定身長はI号男性が 155cm,II~IV号の女性の平均が 144cmで,いずれもかなり低い。頭骨では眉間が隆起し,顔が低く幅広い形をもっており,日本の縄文時代人や中国南部の柳江人との形態上の類似が認められている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典

港川人
沖縄県港川採石場(現・八重瀬町)で、1970年に大山盛保によって発見された数体分の人骨化石。年代は約1万8000年前で、後期更新世及び後期旧石器時代に当たる。やや原始的で頑丈な頭と顔は、東アジアにおける初期新人の状態をとどめていると解釈される。小柄な体格、華奢な上半身、比較的頑丈な下半身の組み合わせは、狭い沖縄での放浪性の採集狩猟生活に対する適応といえる。
(馬場悠男 国立科学博物館人類研究部長 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

みなとがわ‐じん〔みなとがは‐〕【港川人

昭和45年(1970)から昭和47年(1972)にかけて沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町)の採石場で発見された数体分の化石人骨。更新世末期の約1万8000~1万7000年前のものとされる。石器などの人工物は見つかってない。のちの調査により、港川人縄文人の祖先ではなく、アジア大陸の南方に起源し、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いと考えられている。
出典 小学館デジタル大辞泉

港川人【みなとがわじん】
1967年―1970年,沖縄県具志頭村(ぐしちゃんそん)(現・八重瀬町)港川の採石場で発見された化石人骨。5〜10体分の人骨が発掘され,うち4体分の全身骨格が復元されている。日本の化石人骨のなかで最も保存状況が良好。炭素14法によって,約1万7000年前の新人段階に属することがわかっており,年代の判明している東アジアの新人化石のなかで最も古い。平均身長150〜155cm,厚い頭骨,眼窩上隆起,眉間の隆起の発達,幅広の額,低顔などが特徴。ほぼ同時期の中国北部の周口店上洞人よりも,中国南部の柳江人(りゅうこうじん)との類似が指摘されている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

みなとがわじん【港川人

日本で発見された最も完全な新人化石。1966年,沖縄県具志頭村港川採石場から発見され,炭素14法による年代測定で1万8200年前の人類と推定される。骨の形質は化石のホモ・サピエンスとしての特徴をもっているが,横後頭隆起があるなど原始的特徴もある。この人類はアジア大陸の新人と比較すると,上洞人よりも華南の新人である柳江人により強く類似している。また他方,日本本州の新人である三ヶ日人,浜北人と類似するばかりでなく,縄文人とも,形態学的に血縁関係の存在が推測される。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典

みなとがわじん【港川人
沖縄県島尻しまじり郡八重瀬やえせ町にある港川遺跡から発見された化石人骨。旧石器時代約一万7000年前の新人で、完全な骨格標本。

出典 三省堂大辞林

縄文人】より


縄文人の系統]
 山口敏は,縄文人は同時代の華北新石器時代人よりも,後期旧石器時代の華南の柳江人と類似していることを証明し,農耕民である華北新石器時代人は,早くから現代人的な形態特徴をもっていたが,縄文人は狩猟,漁労,採集を基盤とする生活を続け,旧石器時代人的な形態特徴を長く保持していた集団であろうと述べている。鈴木尚は,洪積(更新)世人類である沖縄の港川人が華北の上洞人よりも華南の柳江人や縄文人に近いことを明らかにし,〈港川人は柳江人とはいとこの関係にあると同時に,縄文人の遠い祖先と見なすことができそうである〉と述べている。2~3万年前に,アジア大陸から現在の日本列島に陸橋を通ってモンゴロイド系集団が渡来し,その後海水面の上昇によって,長期にわたる孤立化の結果特殊化し,縄文人が出現したと考えられている。…

※「港川人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典