越前松平家(福井藩)

越前松平家(福井藩)

越前松平家 福井藩 徳川葵      32万石
越前足羽郡福井(福井市)       家門  国主
移封加減増履歴・慶長12年→上総姉崎1万石・元和元年→常陸下妻3万石・元和3年→信濃松代12万石・元和4年→越後高田25万石・寛永元年→越前福井52万石・正保2年→45万石・延宝2年→47万5000石・貞享3年 →25万石・享保6年→30万石・文政元年→32万石
専売品&専売開始年・紙(延宝頃、明和5年中止、安永3年再開) 藍玉(文政6年、阿波より購入して領内専売) 蝋(天保9年、まもなく中止)
江戸城詰席・大廊下 侯爵  上屋敷・常盤橋内
人口・城下3万2613人、この内武家1万2832人 弘化4年(1847)現在
2代光通の正室国姫は寛文11年(1671)に自裁しているが理由は分明でない。光通の自裁の理由も分明でないが、こんな説がある。
国姫の母高田殿(将軍秀忠の娘、津山藩2代松平忠直の正室)に庶子(側室の生んだ子)の有無を問い質され、庶子はいない旨の起請文を渡した。ところが、権蔵という庶子がおり、越前の在所から江戸へ出奔して当時越前大野藩主松平直良(松平忠直の弟)の藩邸に逃げ込んだ。
光通は権蔵を世子にする気がないことから庶子はいないと起請したが、権蔵の存在が明るみに出るに及び、面目を失い自裁したとされる。

4代綱昌は乱心を理由に除封となったが、綱昌の乱心を幕府に告訴したのは養父である3代昌親とする説がある。昌親が隠居して藩主の座を綱昌に譲ったのは、綱昌が昌親の兄である昌勝の嫡子だったからで、兄昌勝は2代光通の兄なのだが側室の子だったので2代藩主になれなかった経緯がある。
2代光通の自裁後に3代藩主に昌勝が就いてもおかしくないが、3代藩主には昌親が就いた。これは光通の遺言であり幕府も認めたところなのだが、昌親には兄昌勝への遠慮があったようで、養子として昌勝の嫡子綱昌を迎えることにしたらしい。
昌親は藩主就職2年後に養子綱昌にその座を譲り後見となった。形式上は後見役たが、政務の実権は自分で握ろうとしたのであるが、綱昌が思い通りに動いてくれないことから不和となり、乱心者に仕立てて失脚させようと謀ったとされる。
しかし、かなり危険な賭けである。除封となった後に名跡相続を許されると、前もって読んでいたのであろうか?
 
藩祖・忠昌(ただまさ)
結城秀康の次男 母は中川氏
生没・慶長2年(1597)~正保2年(1645)
元和9年(1623)兄忠直が除封となり、幕府より名跡相続を命じられ、寛永元年(1624)越後高田25万石から越前福井(北庄)52万石に加増移封
正四位下参議兼伊予守
正室・広島藩浅野幸長の娘
継室・広橋兼賢の娘
子女・2代光通 
昌勝(5万石を分知され松岡藩創設、後に廃藩) 
昌親(2万5000石を分知され吉江藩創設、後に光通の養子、3代) 
万→出雲松江藩松平綱隆室
国→本多重昭室(重昭は丸岡藩主、子の重益の代で家中騒動から除封)→飛鳥井雅直室 
千→長州藩毛利綱広室 
布里→下総古河藩土井利直室
2代・光通(みつみち)
忠昌長男、母は広橋兼賢の娘
生没・寛永13年(1636)~延宝2年(1674)
家督・正保2年(1645)相続
国姫との間に男子が生まれず、継嗣問題に悩んだという、国姫自裁の後になんと自身も自裁
従四位下左近衛権少将
正室・美作津山藩松平光長の娘国姫
子女・直堅(別家越後糸魚川藩藩祖) 
布与→佐賀藩鍋島綱茂室 養子昌親(3代)

3代・昌親(まさちか)
忠昌五男、母は浦上氏
生没・寛永17年(1640)~正徳元年(1711)
家督・正保2年(1645)に別家となるも、光通の遺言により延宝2年(1674)本家相続
延宝4年(1676)家督を兄昌勝の子綱昌に譲り、後見となる
従四位下左近衛権少将
正室・播磨赤穂藩森長継の娘
子女・養子綱昌(4代) 養子吉邦(6代)
4代・綱昌(つなまさ)
忠昌の子昌勝の長男
生没・寛文元年(1661)~元禄12年(1699)
家督・延宝2年(1674)昌親の養子となり、同4年相続
養父昌親との折り合いが悪く、乱心を理由に貞享3年(1687)除封となる
従四位下左近衛権少将
正室・飛鳥井雅直の娘
子女・長教(家臣筆頭本多長員養子、長員の家禄は2万石) 女子→烏丸光栄室
5代・吉元(よしのり)
宝永元年(1704)3代昌親が改名して吉元と称した。4代綱昌の除封後に、養父昌親に名跡相続が許され5代藩主となったが、領地が半減したため藩財政は逼迫、大量の浪人を出したという
宝永7年(1710)隠居

6代・吉邦(よしくに)
藩祖忠昌の子昌勝の六男、母は秋山氏
生没・天和元年(1681)~享保6年(1721)
家督・元禄14年(1701)吉元養子となり、宝永7年(1710)相続
従四位下左近衛権少将
藩財政の再建に尽くし名君と称される。相撲好きで城下に茶屋を作り相撲興行を催した
正室・日野西国豊の娘
子女・勝姫→8代宗矩室 養子宗昌(7代)
7代・宗昌(むねまさ)
藩祖忠昌の子昌勝の三男 母は中根氏
生没・延宝3年(1675)~享保9年(1724)
家督・父昌勝の家督を相続したが、享保6年(1721)吉邦の養子となり、本家を相続。旧領は本家へ返上
従四位下侍従兼中務大輔
正室・小倉藩小笠原忠雄の養女(常陸守山藩松平頼元の娘)
子女・勝→長州藩毛利宗広室 養子宗矩(8代)
8代・宗矩(むねのり)
武蔵川越藩松平直矩の子知清の次男 母は側室本多氏
生没・正徳5年(1715)~寛延2年(1749)
家督・享保6年(1721)養子となり同9年相続
従四位下左近衛権少将
正室・吉邦の娘
子女・養子重昌(9代)

9代・重昌(しげまさ)
一橋家徳川宗尹の長男、母は正室一条兼香の娘
生没・寛保3年(1743)~宝暦8年(1758)
家督・延享4年(1747)養子となり、寛延2年(1749)相続
従四位上左近衛権少将兼越前守
正室・なし
子女・養子重冨(10代)
10代・重富(しげとみ)
一橋家徳川宗尹の三男 母は細田氏
生没・寛延元年(1748)~文化6年(1809)
家督・宝暦8年(1758)相続
正四位下左近衛権中将
寛政11年(1810)隠居
正室・紀伊藩徳川宗将の娘
子女・11代治好

11代・治好(はるよし)
重冨長男 母は徳川宗将の娘 
生没・明和5年(1768)~文政8年(1825)
家督・寛政11年(1799)相続
従四位下左近衛権中将
能の名手として著名
正室・田安家徳川宗武の娘 
子女・12代斉承 筝→美作津山藩松平斉孝室
謹→福山藩阿部正弘
12代・斉承(なりつぐ)
治好次男 千種氏
生没・文化8年(1811)~天保6年(1835)
家督・文政9年(1826)相続
従四位上左近衛権少将
正室・将軍家斉の娘
子女・養子斉善(13代)

13代・斉善(なりさわ)
将軍家斉の24男 母はお以登の方
生没・文政3年(1820)~天保9年(1838)
家督・天保6年(1835)相続
正四位下左近衛権中将
正室・なし
子女・養子慶永(14代)

14代・慶永(よしなが)
田安家徳川斉匡八男 母は木村氏
生没・文政11年(1828)~明治23年(1890)
家督・天保9年(1838)相続
藩財政改革に中根靱負を起用
家臣橋本佐内を京都へ派遣して開国の必要を説かせている
安政5年(1858)井伊直弼との対立から隠居謹慎、号を春嶽と称するようになる
文久2年(1862)復権し政事総裁
元治元年(1864)京都守護職
慶応3年(1867)島津久光・山内豊信・伊達宗城と四侯会議を開き、長州処分の対応と収拾にあたる、明治維新後に新政府議定
従一位大蔵大輔
正室・熊本藩細川斉護の娘
子女・慶民(別家) 義親(尾張藩徳川慶宣養子)
節子→棚倉藩松平康荘室 養子茂昭(15代)
15代・茂昭(もちあき)
越後糸魚川藩松平直春の長男 母は田辺氏
生没・天保7年(1836)~明治23年(1890)
家督・安政4年(1857)越後糸魚川藩藩主となるも、翌年本家相続
戊辰戦争では功あり明治2年(1869)養父慶永と共に賞典禄1万石を下賜される
従二位
正室・阿波藩蜂須賀斉裕の娘
継室・久我建通の娘
継室・広橋胤保の娘