阿部正弘

阿部正弘

あべ まさひろ
 文政2年(1819)~安政4年(1857)

別:
幼名:四郎五郎
通称:主計頭
1836-1857 備後福山藩七代藩主
1836 従五位下
1836 伊勢守
1838-1843 奏者番
1840-1843 寺社奉行
1843-1857 老中
1843 従四位下
1844 侍従
1844 勝手掛
1845-1855 老中首座
1854 日米和親条約締結
1915 贈従三位
父:
9代阿部正精の五男
母:
高野氏
室:
父:備後福山藩五代藩主 阿部正精
義父:備後福山藩六代藩主 阿部正寧
子:
阿部篤之助
阿部哲次郎
阿部鋼蔵
1850-1884 寿(伯爵 阿部正桓室、義父:越前福井藩十五代藩主 松平茂昭)
1840-1861 (養子)阿部正教

11代・阿部正弘(まさひろ)
家督・天保7年(1836)相続
天保14年(1843)老中に進む
弘化2年(1845)老中首座
従四位下侍従兼伊勢守
正室・福井藩松平治好の娘
継室・福井藩松平慶永の養女
子女・養子正教(12代) 
女子→福井藩松平茂昭養女
生没年:1819-1857

正室:松平謹子(父:越前福井藩十一代藩主 松平治好)
継室:慎姫 謐子(父:越後糸魚川藩主 松平直春、義父:越前福井藩十四代藩主 松平慶永(春嶽))


【福山城博物館より】
阿部家 7代藩主 阿部正弘
藩主在任期間

1836年(天保7年)~1857年(安政4年)
生没年

1819年(文政2年)~1857年(安政4年)

正精の6男として1819年(文政2年)江戸藩邸で生まれた。1836年(天保7年)兄の藩主正寧の養嗣子となり、同年従五位下伊勢守、そして正寧の致仕(ちし)により18歳で家督を継いだ。
1837年(天保8年)、福山に帰国するも、その滞在はわずか2か月余りであり、江戸に戻って早々に奏者番、1840年(天保11年)には寺社奉行を兼任する等多忙な日々を送る。更に1843年(天保14年)には25歳の若さで老中に抜擢され従四位下、そして翌1844年(天保15年)に老中首座となった。1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航、翌1854年(安政元年)の日米和親条約の締結に至る開国問題を老中首座として指揮した。
正弘はその後も英・露・蘭の三か国と和親条約、下田条約の締結を行うが1857年(安政4年)、39歳の若さで病没する。老中の座のまま没しており、その最期まで日本の舵取りを行っていたと言える。
アジア諸国が欧米列強と戦争、また植民地となる中で積極的に情報を集め、諸外国との情勢を鑑みた上で平和的に開国への道を歩んだ事は大きく評価される。更に徳川斉昭、松平慶永・島津斉彬など親藩・譜代・外様の垣根を越えて連携をとり、衆論を採って幕政・外交に当たった他、高島秋帆(たかしましゅうはん)や川路聖謨(かわじとしあきら)、勝海舟に代表されるように身分にとらわれない人材を登用し、幕府政治においてもまれにみる清新の気風を起こした。
また、文武一体の教育を進め、江戸と福山に藩校誠之館を設立し、江戸は1854年(嘉永7年)に、福山は1855年(安政2年)に開校している。「先(ま)ヅ我藩ヨリ先鞭ヲ着ケ、文武ヲ引立テ」るため「先ヅ学制ヲ改革スベシ」として藩士の身分ではなく実力に応じて取り立てる等人材の養成と登用の道を開いたと言える。



阿部正精━┳━
     ┣━
     ┣━
     ┣━
     ┗━阿部正弘━┳━阿部篤之助
            ┣━阿部哲次郎
            ┣━阿部鋼蔵
            ┣━寿(伯爵 阿部正桓室、義父:越前福井藩十五代藩主 松平茂昭)
            ┗━(養子)阿部正教


阿部家(福山藩)


認証コード(1095)