北白川宮嘉言

北白川宮嘉言

きたしらかわのみや よしこと
 1821/ 2/28~1868/ 9/26(文政4年1月26日~慶応4年8月1日) 47.6歳没
別:幼称:巍宮、多嘉宮 (たかのみや)、嘉言親王(よしことしんのう)
  一品、聖護院門跡、内国事務総督
父:光格天皇養子(伏見宮邦家親王の第二王子)
母:
  家女房・上野寿野
室:正室・不詳
子:子女・2代智成

聖護院宮(北白川宮の前身)を創設
北白川宮家(初代)
天保3年(1832)親王宣下、同年に得度するも慶応4年(1868)還俗


1821-1868 江戸時代後期,邦家(くにいえ)親王の王子。
文政4年1月26日生まれ。天保(てんぽう)2年聖護院の盈仁(えいにん)入道親王の弟子,光格天皇の養子となる。翌年親王となり,得度,のち聖護院門跡。慶応4年還俗(げんぞく)して,内国事務総督,海軍総督などをつとめた。慶応4年8月1日死去。48歳。幼称は巍宮。法名は雄仁。


聖護院宮嘉言親王

伏見宮邦家親王の第二王子。祖父貞敬親王の嗣子。幼称は巍宮(多嘉宮)。聖護院宮盈仁親王の附弟、ついで光格天皇の養子となった。親王宣下を受け名を嘉言とし、聖護院に入寺得度して法諱を雄仁とした。三井寺長吏・一身阿闍梨に補されたが、維新後還俗し、内国事務総督・海軍総督等を務めた。慶応4年(1868)薨去、48才。


光格天皇養子━━━北白川宮嘉言━━━2代北白川智成


天皇家、北白川宮家、伏見宮家、伏見家


→ 北白川宮 家・氏 系図