孝徳天皇

孝徳天皇

こうとくてんのう
 596-654

別:
天万豊日尊
父:
茅渟王

中大兄らと協力して曽我氏を滅亡させた事件を機に皇極から譲位されて即位。難波長柄豊碕宮に移った後は間人皇后や側近の中大兄らが大和に去り政権は分立、失意のうちに没したといわれる。

御陵から東へ数十メートル進み左に登ると竹之内街道歴史資料館があるので ここも是非訪れてみてください。
                     
名前 第36代孝徳天皇、軽(かる)、天万豊日尊(あめよろずとよひ)
                     
親族


茅渟王(ちぬ)


吉備媛王(きびひめ)
 

皇后
間人皇女(中大兄の妹)
 

妃1
小足媛(おたらしひめ)
 

妃2
乳娘(ちのいらつめ)(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
                     
皇居 難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさき)
 

略歴(06世紀)(07世紀)
596-丙辰-推古04年 生誕
645-乙巳-皇極04年06月12日 中大兄、鎌足、石川麻呂らと蘇我入鹿殺害(大化の改新)に加わったとされているがよく分からない。
645-乙巳-皇極04年06月14日 皇極天皇の譲位を受け即位 。安倍内麻呂臣を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とする。
最初は中大兄に皇位を譲るつもりだったらしいが中大兄は鎌足と相談し辞退する。
次に軽皇子(孝徳天皇)に神器を授けようとするが軽皇子は古人大兄を推した。古人大兄も辞退しその場で髭や髪をそり出家してしまい軽皇子が皇位につくこととなった。
古人大兄は蘇我入鹿が推していた人物であり古人は中大兄を恐れて皇位を受けることが出来なかったようだ。古人が受けていたら最有力候補の中大兄に抹殺されていただろうと思われる。実際こののち古人は中大兄によって抹されてしまうこととなる。
645-乙巳-皇極04年06月15日 金策(こがねのふみた)(金泥で書かれた書物)を安倍内麻呂臣と蘇我倉山田石川麻呂に授ける
645-乙巳-大化01年06月19日 中大兄(皇太子)が日本初となる元号「大化」を決定する
645-乙巳-大化01年07月02日 舒明天皇の娘「間人皇女」を皇后とする。間人は中大兄の実妹でもある。
645-乙巳-大化01年07月10日 高麗、百済、新羅の使いが貢を奉じる
645-乙巳-大化01年08月05日 東国の国司に戸籍調査と租税のための田畑の調査を命じる。
また、訴訟に関する法や収賄に関する罰則、男女に関する法なども定める
645-乙巳-大化01年09月01日 使者を諸国に遣わし武器の管理をさせた。
645-乙巳-大化01年09月03日 古人大兄(舒明天皇と妃法堤郎姫との皇子)が謀反を企てた。
首謀者は古人大兄、蘇我田口臣川掘、物部朴川連椎子、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津。
645-乙巳-大化01年09月12日 古人大兄の謀反を吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が中大兄に対して自首。古人は中大兄が命じた兵に討たれる。
645-乙巳-大化01年09月19日 使者を諸国に遣わし人民の総数を調べさせている。
このときの調査結果はわかりませんが、弥生時代に60万人(?)、奈良時代には500万人というデータ(?)などもあるので推測するに300~400万人くらいだったのかと思えます。
645-乙巳-大化01年12月09日 都を難波長柄豊崎(なにわのながらのとよさき)に移す。
646-丁未-大化02年03月22日 「薄葬令」発布。位による玄室の大きさや墳墓の長さや高さの規定も行った。
646-丁未-大化02年 この年冠位 12階を7色13階改変するなどの制度改革発布
647-丁未-大化03年09月 長柄豊崎の造営が終わる。
647-丁未-大化03年 この年、中大兄が「飛鳥へ帰る」と言い出したが孝徳は許さなかったが、中大兄はなんと孝徳の皇后の間人や大海人、皇極上皇を伴って飛鳥へ帰ってしまう。
649-己酉-大化05年03月17日 阿倍左大臣が薨去
649-己酉-大化05年03月24日 石川麻呂に謀反計画があると蘇我内麻呂から密告。おそらく中大兄と鎌足の策謀と思われる。孝徳は石川麻呂を救おうと奔走するが事は中大兄と鎌足の筋書き通りに進む。
649-己酉-大化05年03月25日 やむなく「石川麻呂謀反」に同意させられ、兵を出す。石川麻呂は難波から脱出し大和の山田寺で家族8 人とともに自害。
649-己酉-大化05年04月20日 小紫であった巨勢徳陀古臣を大紫として左大臣に同じく小紫の大伴長徳連に大紫を授けて右大臣とする。
654-甲寅-白雉05年10月10日 晩年を失意のうちに過ごし崩御 59歳


[生]推古4(596)
[没]白雉5(654).10.10. 摂津
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改新の事業を進めた。すなわち大化2 (646) 年正月1日詔を出して,班田収授,租・庸・調の制などを定めた。同年都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移したが,この宮は長安京に模した日本で最初の都城である。間人皇女を立てて皇后とした。陵墓は大阪府南河内郡太子町の大阪磯長陵。


孝徳天皇(天万豊日尊)

  生没年:596-654
  父:茅渟王
    645-654 孝徳天皇
  皇后:間人皇女(父:舒明天皇
  妃:蘇我乳媛(父:蘇我倉山田石川麻呂)
  妃:小足媛(父:左大臣 阿倍内麻呂)
    -658 有間皇子


茅渟王━━━孝徳天皇━━━有間皇子


天皇家