三国時代の百済 三国時代の地図、5世紀終わり頃 By Evawen, Gzhao [GFDL or CC BY 3.0] 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗?(サビ)、今の扶余へ遷都しました。(-百済)
三国時代の地図、5世紀終わり頃
By Evawen, Gzhao [GFDL or CC BY 3.0]
第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都しました。
卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
① 毎年貢物をよこすこと。
② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。