(-206~220) 漢(前漢・後漢)

漢(前漢後漢

英語による名称Han
首都長安・洛陽
建国-206
没年220
主要言語中国

国情報

漢 -206年 - 220年

       前漢 -206年 - 8年
       後漢 25年 - 220年

かん【漢】
王朝の名。

前202~後220

秦(しん)に次いで中国を統一し支配した王朝(前202~後220)。王莽(おうもう)の新(後9~23)による中断を挟んで、それ以前を前漢(前202~後8)、以後を後漢(ごかん)(25~220)といい、都が前漢は西の長安、後漢は東の洛陽(らくよう)に置かれたところから、西漢、東漢ともいう。

前202‐後220年

中国,秦につづく統一王朝。前202‐後220年。秦の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(漢の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。

前202‐後220年

中国古代の王朝。前202年、高祖劉邦(りゅうほう)が建国。長安を都とする前漢(西漢)と洛陽を都とする後漢(東漢)とに分かれる。両者の間に、王莽(おうもう)が建国した新による中断がある。220年滅亡。

中国の王朝名。また中国の別称として〈漢民族〉〈漢文〉などのように用いる。劉(りゅう)氏の建てた漢王朝は前後400年余にわたって中国に君臨した。

前202~後8 前漢

中国の王朝名。一般に、統一王朝であった前漢(西漢。前202~後8)

前 202~220

中国古代の統一王朝,前漢 (前 202~後8) および後漢 (25~220) をいう。高祖1 (前 206) 年に秦が滅亡すると,項羽が西楚覇王と称したが,現在の陝西省南部に漢王として封じられた劉邦 (→高祖) が,高祖5 (前 202) 年項羽を破って帝位につき,都を長安に定めて漢王朝を創始。漢は初め郡国制をしいたが,前漢の武帝 (在位前 141~87) の時代には中央集権制を確立。匈奴を討って西域と通じ,朝鮮,ベトナムに遠征して領土を拡大した。しかし帝の死後外戚など側近が権勢を張り,初始1 (8) 年には外戚王氏出身の王莽が帝位を奪って新を建てた。したがって新以前を前漢と呼ぶ。新は長く続かず,更始3 (25) 年には漢の一族劉秀 (→光武帝 ) が諸賊を破って帝位につき,都を洛陽に定め漢を復興した。以後を後漢と呼ぶ。4代の和帝の頃から再び外戚,宦官が権力を握り帝位を左右したため,一般官僚との間に激しい争いを展開した。中平1 (184) 年農民による黄巾の乱が起こると各地に群雄が割拠,やがて曹操,劉備,孫権がそれぞれ華北,蜀,呉の3地に分立し,延康1 (220) 年献帝は曹操の子曹丕 (そうひ。→文帝) に譲位して,漢は滅亡した。なお都の位置により前漢を西漢,後漢を東漢とも呼ぶ。

前202~後8 前漢

(イ) 紀元前二〇二年、高祖劉邦が長安で即位してから一四代、二一〇年間続いた前漢(西漢)。

25~220

(ロ) 新の王莽の死後、二五年に光武帝によって再興された後漢(東漢)一四代、一九六年間。洛陽に都する。

25~220

後漢ごかん(東漢。25~220)をさすことが多い。

25~220

2 古代中国の王朝名。「後漢(ごかん)・後漢(こうかん)」

221~263

(ハ) 三国時代の劉備の起こした蜀。蜀漢

221~263

他に国号を漢と称した王朝には、三国時代の蜀漢(221~263)、

(ニ) 五胡十六国の前趙および成漢。

951~979

・北漢(951~979)がある。

951~979

(ホ) 五代十国の南漢および北漢。また、王建の前蜀。

304~329

五胡十六国時代の漢(前趙ちようの前身。304~329)

304~347

・成漢(後蜀しよく。304~347)、

917~971

五代十国時代の南漢(917~971)

947~950

後漢こうかん(947~950)

909‐971

中国,五代十国の一つ。909‐971年。南漢ともいう。建国者劉隠は広州の兵乱を平定し,広東・広西地方に支配を及ぼし,唐末の中原での大混乱を逃れて嶺南に避難した唐朝の名士を優遇して国の基礎を固めた。弟の劉龑(りゆうげん)が後を継ぎ初めて帝号を称し(917),国を大越と号したが,翌年漢と改めた。武人色の強い五代十国中で一応の文官支配が行われた唯一の国であるが,南海貿易を背景とした奢侈,一族間の粛清の繰返しで,5主で宋の南征軍に降服して滅びた。

947‐950年後漢

中国,五代の王朝。947‐950年。突厥(とつくつ)沙陀部の劉知遠が大梁(河南省開封)に建てた国。後漢ともいう。五代王朝のなかでももっとも短命で,わずか2主4年で滅びた。国内的には軍閥勢力を統制できず,北辺には契丹がしばしば侵入してその軍事圧力に苦しんだ。その支配領域も河南省を中心とする華北の一部にすぎなかった。951年(乾祐4)に太原で再建され五代最後の後周と争う。これを北漢というが,契丹の援助でかろうじて存立し,979年(太平興国4)に宋に併合されて滅びた。

漢の行政制度はほぼ秦制を踏襲した。中央官制は、皇帝を補佐して政務を総覧し百官を統率する丞相が中心で、ときに左右2丞相を置くこともあり、12代哀帝以後は大司徒(だいしと)と改められた。軍事をつかさどるのが太尉で、常置の官ではなく、武帝の時代にはかわって大司馬(だいしば)を置いた。監察官である御史を統率するのが御史大夫(ぎょしたいふ)で、成帝以後大司空(だいしくう)と改められた。また大司馬、大司空は副丞相として政務を担当した。以上は三公ともよばれたが、昭帝以後、外戚が大将軍として実権を握り、また後漢時代になると皇帝の側近にすぎなかった尚書(しょうしょ)が丞相の職務を行った。三公の下に政務を分担する九寺があり、その長官は九卿(きゅうけい)とよばれた。太常(たいじょう)(礼儀祭祀)、光禄勲(こうろくくん)(宮廷衛護)、衛尉(えいい)(宮門守護)、太僕(たいぼく)(帝室の車馬、牧畜の管理)、廷尉(ていい)(裁判、司法)、大鴻臚(だいこうろ)(諸侯、異民族の来朝)、大司農(だいしのう)(国家財政)、宗正(そうせい)(皇族関係)、少府(しょうふ)(帝室財政)の九卿で、執金吾(しっきんご)(京師(けいし)の治安)、将作大匠(しょうさくだいしょう)(土木工事)、大長秋(だいちょうしゅう)(皇后職、東宮職)をあわせて十二卿ともいわれた。
 地方行政制度は郡と県が基本で、いくつかの県を郡が統轄した。郡の長官は守と尉で、景帝以後太守、都尉と改められ、民政と軍事を分担した。後漢では郡兵の撤廃に伴って都尉が廃止された。太守の下に副官として丞、行政実務を担当する功曹(こうそう)のほか、督郵(とくゆう)、掾史(えんし)などの属官があり、当該郡内から太守が任免した。県の長官は令または長で、太守、都尉とともに中央の任免であった。県令の下に丞、尉、斗食(としょく)、佐史(さし)などの属官があり、県の下に郷があって、有秩(ゆうちつ)、嗇夫(しょくふ)、游徼(ゆうきょう)などが戸口調査、徴税、徭役(ようえき)などを担当し、ほかに10里ごとに亭があり、亭長が警察にあたった。人民の居住区は里とよばれ、郡、県、郷は1里または数里からなっていて、郡や県はおおむね周囲を城郭で囲ってあった。里には里父老、県・郷には県・郷三老がいて民の教化にあたった。また前106年には全国を13の州に分け、刺史(しし)が州内を巡察して太守以下の監察にあたるようになったが、後漢では州が郡の上の行政単位となった。以上の官吏は丞相以下佐史に至るまで、すべて俸禄(銭と穀物で支給)によってランクがつけられており、功労、年次によって昇進した。ただ高官の子弟や、孝廉(こうれん)、賢良方正(けんりょうほうせい)などに推薦された者、高官に召された者などは下級の吏を飛び越して任用された。なお前5年のときの佐史以上の官吏は13万0285人に上った。
 行政は律令(りつれい)とよばれる法に基づいて施行されるのがたてまえであったが、現今の法律とは異なって、民の遵守すべき法というよりは、官吏が民を支配するにあたっての規準ともいうべきものであった。そのうち租税は、収穫量の30分の1を収納する田租、15~56歳の男女に一算(120銭)を課する算賦(さんふ)、3~14歳の男女に23銭を課する口銭、そのほか財産税があり、一般の民は財産評価額1万銭につき一算、武帝の時代から商人は2000銭、手工業者は4000銭につき一算となった。力役には徭役と兵役とがあった。徭役は15~56歳の男子に、毎年1か月、居住する郡県の労役にあたらせる更卒(こうそつ)、これは銭による代納が許され、300銭を代納することを更賦(こうふ)といった。兵役は23~56歳の男子で強健な者を正卒とし、兵役期間のうちに1年間は近衛兵(このえへい)または首都の警備兵として上番し、1年間は出身郡内の警備にあたらせた。辺境の警備にはその近くの正卒や募兵を用いた。武帝時代の大遠征などには募兵のほか、刑徒や異民族が用いられた。前漢時代には長安に常駐した近衛兵、首都警備兵は5万人に上ったが、後漢になると光武帝の改革によって常備兵力1万5000と減じ、郡兵も廃された。そのうえ、これらの兵士には、光武帝時代の功労者の子孫が代々選ばれたから、徴兵制は名目にすぎなくなり、曹操による兵戸制とあまり変わらなくなった。

前漢末、平帝の時代には、郡・国の数103、県邑(けんゆう)1314、侯国241で、戸口は約1223万戸、5959万人であった。県以下の郷、あるいは郷よりもさらに小さい集落がどれほどあったかは不明である。降雨量が少なく、黄土の堆積(たいせき)が厚い華北の平原では、比較的水に恵まれた所に密集集落が営まれた。春秋戦国時代以降、鉄製農具が現れ、治水灌漑(かんがい)工事も行われて、農地の開拓が進んだが、その多くは戦国諸国の手になるものであったから、農民は国々の強い規制下に置かれていた。秦が列国を滅ぼすと、農民はその規制から解放されたが、秦・漢統一国家は郡県制の施行、爵位の賜与などによって、その農民を国家秩序のなかに組み入れ、収奪の対象にしようとした。一方、戦国諸国の富国強兵策は手工業や商業の繁栄をもたらしたが、それに伴って私営の手工業者、商人が出現した。彼らはまた土地の集積を図ったから、それは農民の土地喪失、小作人化、奴婢(ぬひ)化を招いた。漢はしばしば富者を長安付近に強制移住させて、彼らを直接の管理下に置き、また武帝時代には商人、手工業者に重税を課し、酷吏が過酷に弾圧を行った。けれども大土地所有の趨勢(すうせい)を阻止することはできず、後漢時代にはこの傾向がいっそう拡大し、なかには私兵をもつ者さえ現れた。彼らは一般に一族が集居したから、豪族とよばれている。豪族は「郷曲に武断する」といわれるように、近隣の数集落にもその勢力を及ぼす者があり、それを利用して郡県の長官の推挙を受け、官界にも進出した。
 漢代の農業は、華北ではアワ、キビ、豆、大麦などが主要作物で、後漢時代には小麦もつくられるようになったが、粉食はまだ一般的ではなく、また江南の水稲耕作は技術水準が低かった。鉄製農具は用途別の多種類化が進み、代田法、区種法などの新しい技術も開発されて、牛耕も盛んになった。また中央・地方政府あるいは豪族による治水灌漑施設も築造され、土地生産力は飛躍的に向上した。けれども耕牛などの多くは官牛や豪族の所有であり、灌漑の利を得たのも豪族が多かったから、貧富の差はいっそう拡大し、農民の貧窮化が進んだ。彼らの間にはさまざまの迷信や民間信仰が広がって妖賊(ようぞく)とよばれる農民蜂起が頻発し、やがて黄巾の乱として爆発した。
 手工業も戦国時代の繁栄の後を受けて、さらに発展した。漢は塩、鉄、織物などの主要な生産地に塩官、鉄官、服官を置いて、その生産あるいは販売を独占した。しかし塩の生産は民間業者にまかされていたように、手工業そのものを禁止したわけではなかったから、さまざまな民間の手工業が栄えた。青銅器、漆器、陶器、繊維、染物工業などで、それにつれて商業も発展した。商業のおもな対象は、皇帝ならびにその側近、諸侯王、列侯、中央・地方の高官、豪族などであったから、商工業はこれらの人々が居住する城郭都市を中心に繁栄し、なかでも長安、洛陽、邯鄲(かんたん)、臨(りんし)、宛(えん)などは人口数十万という大都会であった。長安などでは商人が店舗を構える市(いち)とよばれる商業区域が設けられており、市のなかには業種別の肆(し)(みせ)が軒を並べていた。各地の特産物などを交易する大商人も多く、西域との貿易に従事する商人も現れた。ブドウ、ザクロ、苜宿(もくしゅく)(クローバーの一種)などが西域からもたらされ、絹織物や鉄が西域を経由して、遠くローマにまで運ばれた。ギリシア語で中国のことをセレスとよぶのは、絹の国という意味である。また北辺に設けられた関市(かんし)を通じて、北方の遊牧民との間でも貿易が行われ、四川(しせん)省を経由する西南夷(い)との貿易、広州を拠点とする南海貿易も行われた。後漢後期の桓(かん)帝のとき(166)には、大秦王安敦(あんとん)(東ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスに比定される)の使者が、海上から中国を訪れている。
 なお秦の始皇帝は円形方孔の半両銭を鋳て、貨幣を統一したが、漢では算賦などが銭納をたてまえとしたところから、銭の鋳造、流通が頻繁となった。なかでも武帝のとき(前119)に制定された五銖銭(ごしゅせん)(半両。五銖は重さの表示)は、王莽の時代などに一時中断はあったが、唐の開元通宝に至るまで貨幣の基本形式となった。

前漢初期には黄老思想(道家(どうか))が尊ばれ、淮南(わいなん)王劉安は多くの学者を集めて、道家思想を中心に雑家の書『淮南子(えなんじ)』を編纂(へんさん)した。しかし文帝のころから実際政治の面では法家思想が尊重され、錯(ちょうそ)などの有能な政治家が輩出した。一方、先秦時代の著作と伝えられる古典には、戦国時代から漢初にかけて整理、増補されたものが多い。なかでも儒学は、漢の初めに秦の始皇帝が行った焚書(ふんしょ)によって失われた経典の収集が行われた。そのうち経文を暗唱してきた学者によって当時通行の隷書で書き定められた経典を用いる派を今文(きんぶん)学派といった。これに対して、景帝のときに孔子の旧宅の壁の中から発見されたり、景帝の子の河間献王が集めたといわれる先秦時代の篆書(てんしょ)などで書かれた経典を用いる学派を古文学派といった。前者が名分を重んじたのに対し、後者は訓詁(くんこ)解釈を主とした。
 武帝時代の今文学者董仲舒(とうちゅうじょ)は、陰陽五行思想を取り入れて、皇帝を政治、道徳、思想宗教上の中心に位置づけ、儒学の国教化と五経博士の設置を献策した。これ以後、儒教は皇帝支配、国家秩序の指導理念となり、官僚となるための必須(ひっす)要件となった。一方、古文学は前漢末の劉(りゅうきん)が推重したころから盛んになり、後漢時代には両派の論争が続いた。後漢時代にはまた古典の注釈を行う訓詁の学が発展し、許慎(きょしん)は漢字の字義、字形を説いた最古の字書『説文解字(せつもんかいじ)』を著し、古文学者鄭玄(じょうげん)は今文経をも取り入れて、漢代経学(けいがく)を集大成した。なお仏教が中国に伝えられた時期については諸説があるが、光武帝の子の楚王英はすでに仏寺を祀(まつ)っていたといわれている。
 漢代の散文は、唐詩や元曲と並んで漢文と称せられる。司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』はその代表で、これはまた紀伝体による構成が以後の中国正史の模範となった。韻文には事実を細かに描写する辞賦(じふ)、『詩経』の四言をかえ、五言または七言からなる古詩、宮廷音楽のための楽府(がふ)などがある。科学の分野には先秦以来の諸説を集大成したものが多く、中国の天文学、暦法の基本型を決定した劉の三統暦、数学の『九章算術』、医学の『傷寒論』『黄帝内経(こうていだいけい)』などは、中国はもちろん、朝鮮、日本でも後世まで尊重された。
 美術、工芸の分野では、絵画に彩色を伴う古墓の壁画や漆画があり、石闕(せっけつ)、祠堂(しどう)、石室墓などの石材の壁面に彫り付けられた画像石は、当時の思想、生活様式を知るうえでも貴重である。象眼(ぞうがん)、めっきなど工芸技術にも目覚ましい発達がみられ、多様な文様の銅鏡が流行した。馬王堆(まおうたい)漢墓にもみられる織物は種類も多く、刺しゅう、染色、文様も新鮮である。陶器では緑釉(りょくゆう)が盛行した。長安城内の未央(びおう)宮、長楽宮など大規模の宮殿が造営されたが、当時の宮殿建築様式は河北省満城、山東省沂南(きんなん)などの漢墓などから、また豪族らの家屋は画像石や明器(めいき)の陶楼などからうかがうことができる。さらに文字は篆書についで隷書が重んぜられ、後漢時代には楷(かい)・行・草の書法が成立した。当時の石刻碑文が現存する。紙は2世紀初めに蔡倫(さいりん)が発明したといわれるが、それ以前にもあったようで一般には絹布や木竹簡に、戦国のころに発明された筆と墨を用いて記載された。

【趙】より
…南匈奴の劉淵が304年(元熙1)西晋八王の乱に乗じて建国したもので,平陽(山西省臨汾県)を首都とした。はじめ漢と称したが,劉曜のとき趙と改めた。第2代劉聡は311年(嘉平1)西晋の首都洛陽を占領(永嘉の乱),ついで長安を攻略して西晋を滅ぼし,五胡十六国時代がここに始まった。…

【漢】より
…ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。また前漢は都を長安におき,後漢は都を洛陽に定めたため,都の位置から前漢を西漢,後漢を東漢とよぶことがある。…

秦・漢全図

秦・漢帝国の支配領域
 農民出身の劉邦が、前202年、秦に代わって樹立した中国の統一王朝。都は渭水盆地の長安。劉邦は皇帝となり漢帝国を創始(廟号を高祖という)、直轄領には郡県をおくとともに功臣を諸侯として各国に封じて封建制を併用する、いわゆる郡国制をとり支配権を安定させた。都は秦の咸陽の南に新たに長安を造営(前190年に完成)した。
 前154年に、漢は一族や諸侯の反乱である呉楚七国の乱を平定したことによって諸侯王の力をおさえることに成功して実質的に郡県制による中央集権的な支配を実現し、安定した支配を長期にわたり維持する体制をつくりあげた。
 前2世紀末、第7代武帝のときに最盛期となり、匈奴を制圧してその領土を西域に拡大し、現代の中国と同じ西端に達した。また朝鮮半島やベトナムへもその領土を広げた。

漢帝国の機構
 漢の中央政府の機構は、皇帝の下で行政全般を統括するのが丞相(じょうしょう)、それを補佐し、管理の監督に当たるのが御史大夫(ぎょしたいふ)、軍事面の統括者が太尉(たいい)であった。地方制度では武帝以降は郡県制が全土に及ぼされ、地方官として郡には郡守、県には県令が派遣されて中央集権体制がとられた。ただし、皇帝が近親や功臣を新たに王・侯に封じることは続けられた。官吏任用は地方から有能な人物を推薦させる郷挙里選が制度化された。

全盛期、武帝の時代
 前141年に即位した第7代武帝の時代(前2世紀後半~前1世紀初め)には、諸侯王の封土と権限を縮小して、実質的に郡県制による中央集権的な支配を実現させ、全盛期を出現させた。
儒学の官学化 武帝は漢帝国の統治理念として、儒家の董仲舒の建言を容れ五経博士を置くなど、儒学の官学化を行った。儒教が体系化され、中国社会に定着するのは武帝時代よりも後の前漢末から王莽の新の時期と考えられるが、中国における儒教の発展にとっては画期的なことであった。
積極的な外征 さらにその支配領域を拡大し、大帝国を出現させ、周辺諸民族を支配した。特に匈奴に対しては衛青や霍去病などの将軍を派遣して攻勢を強め、その勢力を後退させた。さらに匈奴対策の一環として張騫を大月氏国に派遣し、西域を漢の勢力下に置くとともにシルク=ロードを制圧して東西貿易を行った。ベトナム北部に兵を送って南越を滅ぼし、朝鮮では衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡を置き、それが日本における国家形成を促した。直轄領のさらに外部にある諸国に対しては、国王として封じてその支配を認めることで間接的に統治する冊封体制が採られた。
財政安定策 積極的な外征は次第に財政を圧迫したため、一方で五銖銭の発行や均輸法と平準法の施行などの経済政策に取り組んだ。財政を補うため、塩・鉄・酒の専売制を導入した。しかし、専売制と重税は次第に農民の生活を圧迫し、農民の反発も強まって社会不安が増大した。

漢の動揺
 漢帝国は強大な皇帝権力のもと、すべての人民を直接支配するという専制国家であり、それを支えたのは、春秋・戦国時代に鉄製農耕具と牛耕の普及とともに氏族制度が崩壊し、かわりに形成された家族労働によって耕地を経営する農民層であった。しかし、前1世紀になると、このような農民層も重税・徭役・軍役などによって次第に疲弊し、貨幣経済の活発化はそのような弱小農民を没落させた。一方で、土地を集積し、奴隷を所有した豊かな層は「豪族」として力を伸ばすようになった。そのような社会の変化に加え、中央では宮廷で皇帝に近侍する宦官と、儒教理念を掲げる官吏との対立が激しくなり、また皇帝政治も宦官や外戚に左右されるようになって動揺し、後8年、外戚の王莽によって帝位を奪われ、漢は滅亡する。

漢帝国とローマ帝国
 ユーラシアの東、中国大陸に漢帝国が登場した頃、その西端の地中海世界は、都市国家から発展した共和政ローマが台頭し、前1世紀末にはローマ帝国が成立する。東西の異なった文明圏に、二つの世界帝国がほぼ同時に展開したことは注目すべき現象である。この両者が直接交渉した記録はないが、後漢の時代の班超の部下の甘英が地中海域まで行ったらしいこと、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の使者が日南郡に来たことなど、何らかの交渉があったとも考えられて興味深い。

補足 「漢」の意味とその使われ方。
「漢」は、漢文、漢語、漢字などのように「中国」を意味する文字として用いられるが、本来は「漢水」という川の名前にちなんだ地域名で、紀元前206年に劉邦が項羽から「漢王」という称号を与えられてから、一つの王室のシンボルとなった。そして漢王朝の樹立にともない、「漢」は中国王朝を象徴する用語となった。「漢」は王朝としては消滅したが、周辺の異民族集団との交流のなかで、中国の王朝、その領域および文化を複合的に象徴する用語として生き残った。中国王朝が「漢」地の文化をもつ人びとによって創られた時代は、中国王朝=漢、中国王朝の民=漢人とされたが、征服王朝では中国王朝=漢という前提が崩れ、「漢人」の意味は「漢地の文化をもつ人」に限定されるようになり、元代の漢人にはその前の金の支配領域にいた漢民族や女真族を意味していた。