扶余
朝鮮の三国時代、百済の都。本来は中国東北地方にいたツングース系民族とその国のこと。

プヨ。夫余、扶餘とも表記。百済の最後の都。百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(後の朝鮮王朝の漢陽、現在のソウル)に移り、その後高句麗や新羅との抗争の中で、たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(ユウシン、現在の公州)、さらに538年に聖王(日本書紀で日本に仏教を伝えたとされる聖明王)の時、下流の泗沘(サビ、しび)に移された。その地が現在は扶余と言われており、錦江を下って白村江にでることができ、日本との交通に便であった。
民族名としての扶余
 なお、民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じくツングース系の貊人(はくじん)が、前2世紀ごろ中国東北部の松花江中流に建国したもので、1~3世紀ごろ、鮮卑および高句麗に対抗する勢力となった。494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)に滅ぼされた(勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされる)。百済はその扶余の後裔と称しており、最後の都の名も扶余とした。
Episode 百済滅亡の時の悲劇
 扶余の町の西北、泗沘城跡があり、その端は絶壁になっていて白馬江といわれる絶景である。「百済の王宮に仕えていた三千の官女は、王宮が焼かれたとき、敵にとらえられて辱めをうけたくないと、この絶壁から白馬江に身を投じた。その絶壁をその後の人は「落花巖」と名づけた。官女を花にたとえたのである。なぜか、滅んだ百済にはそのような悲しくも華麗なイメージが漂う。強大国のイメージに乏しいからであろうか」<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.174>


扶余(ふよ)

 吉林省長春市周辺からアムール河までを居住域としたツングース語系諸族の部族、国家名も扶余。古来、中国では天下の覇者になることを「中原に鹿を追う」と表現するが、扶余とはツングース語の鹿(ブヨ)を漢字表記したものと思われる。

 扶余には、故地にいた『北扶余』、三世紀末に慕容?に撃破され、沃沮の地(咸鏡道)に復興した『東扶余』、高句麗発祥の地である?佳江(渾江)流域にいた『卒本扶余』。百済が泗?(忠清南道扶余)を都にしていた『南扶余』があったとされる。

 北扶余とは黒龍江省の辺り、もしくは吉林省の農安から長春一帯だとされるが、北扶余の位置は遼西郡のどこかだとの主張もある(洪淳昶『吉川弘文館』韓国古代の歴史)。ただ、その具体的な根拠はない。あくまでも希望的観測である。

 東扶余とは、246年に幽州刺史の母丘倹に攻撃された高句麗王の位宮が沃沮に逃れたが、それによって沃沮は咸鏡南道(咸興市)の東沃沮(または南沃沮)と咸鏡北道の北沃沮に分裂する。神話の記述から推察すれば、東扶余とは東沃沮(南沃沮)のことである。

『史記』貨殖列傳

 夫燕亦勃、碣之閒一都會也。南通齊、趙、東北邊胡。上谷至遼東、(中略)北鄰烏桓、夫余、東綰穢貉、朝鮮、真番之利。

 燕は勃海と碣石の間に在り、南に斉、趙、東北の辺境には胡。上谷に到って遼東に到る。(中略)北は烏桓(うがん)、扶余に臨み、東は穢貉、朝鮮、真番の利を統べる。

 上記が扶余を記した中国の正史での最古の記載だとされる。

 烏桓は紀元前206年頃、匈奴によって滅ぼされた東胡の後裔。また、紀元前108年に滅亡した朝鮮の名があることから、紀元前206年-同108年までの記述だと考えられる。

 穢貊部族連合の君長を出す主要部族にしては史籍での登場が遅いと思われるが、商(殷)時代から存立している粛慎に関しても詳細を伝えておらず、中原諸国にとっては野蛮な夷狄の領域である中国東北部に対する関心がなかったのだろう。

 三国志魏書と晋書が東夷伝で扶余国を記載しているので、記述を追ってみよう。

三国志魏書』扶余国伝

 夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與?婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。戸八萬、其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人?大、性彊勇謹厚、不寇鈔。

 扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に?婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。土着民の戸数八万、宮室、倉庫、牢獄などがある。丘陵や大河が多く、東夷の領域では最も平坦である。土地は五穀の栽培に適しているが、果実はできない。体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない。

『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465.htm

 夫餘。古族名。國名、又稱扶餘、鳧餘、為貉族之國、本地也。分?在松花江中遊平原上。最早建國在今吉林市、以後遷農安、並以今吉林農安為中心、南至今遼寧省北境、東與?婁接、北有弱水(黑龍江)。

 扶余。古族名。国名も扶余や鳧餘と称し、貉族の国をこの地に立てた。松花江中流の平原に分布した。最初は吉林省吉林市に建国し、後に吉林省農安に遷った。その後は農安を拠点として、南は遼寧省北境、東は?婁(ゆうろう)と接し、北は黑龍江まで広がった。

 上記は?婁としているが粛慎の間違いである。東に粛慎、西に東胡。その空間に扶余国が登場するのだが、『漢書』武帝紀に「東夷の?君南閭らが二十八萬人を連れて降伏した」とあり、扶余国の戸数が八万とは少ない気がする。

 國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民、名下戸皆為奴僕。諸加別主四出、道大者主數千家、小者數百家。

 国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。邑落には豪民がおり、下戸という奴僕がいる。諸加(馬加など)は主要四道(一種の道州制)に別け、道における大邑落の首長は数千家、下位の小邑落の首長は数百家を支配する。

 六畜(馬、牛、豚、犬(狗)、羊、鶏)とあることから、上記の他にも「羊と鶏」の官名もあったと思われる。加は重臣を意味し、一括して「諸加」と総称された。

 食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天、國中大會、連日飲食歌舞、名曰迎鼓、於是時斷刑獄、解囚徒。在國衣尚白、白布大袂、袍、袴、履革鞜。出國則尚繒繍錦?、大人加狐狸、?白、黑貂之裘、以金銀飾帽。

 飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗爵(返杯)をし、その立居振舞(たちいふるまい)は礼に適う。殷暦の正月には天を祭り、国中が大いに会し、連日、飲食と歌舞に興じる。名を迎鼓といい、この時は法の執行を断ち、囚徒を解く。国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、?白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。

 俎豆(そうず)は、昔は祭祀用の供物台のこと、現在は俎板(まないた)を意味する。

 殷暦の正月とは周暦の二月で、現在の十二月に相当する。

 文中の?(ヨウ)とは尾長猿の一種だが、手足が黒く、?白の意味が筆者には不明。

 譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家人為奴婢。竊盜一責十二。男女淫、婦人?、皆殺之。尤憎?、已殺、尸之國南山上、至腐爛。女家欲得、輸牛馬乃與之。兄死妻嫂、與匈奴同俗。

 訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き、手を地に着け、小声で応答する。刑は厳しく即断され、殺人は死、その家人を没収して奴婢にする。盗んだ金品の十二倍を賠償する。男女の淫行、婦人の嫉妬は、皆これを殺す。最も憎むべき嫉妬の罰は、すでに殺した屍を、国の南の山上に放棄して腐乱に至らしめる。女の実家が遺体を回収したければ、牛馬を献納すれば、遺骸を引き取れる。兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である。

 兄死妻嫂。これが匈奴と同じ風俗とあるが、『梁書』高句麗伝にも高句麗の風俗として同一の記述がある。胡族(トルコ系民族)である匈奴の風習から来たものであれば、東胡がツングース系ではなく、胡族であれば地理的に接点はあるが、穢系部族にも胡族との混血があったということなのだろうか。

三国志魏書高句麗伝に、高句麗の城について「胡猶名此城為?溝?(胡族は今もなお、この城をサクコルと呼んでいる)」という一節があり、漢民族は扶余や高句麗を胡族と考えていたのかもしれない。ただし、日本にも同様の風習があったことから、胡族に限定される風俗ではない可能性もある。

 

 其國善養牲、出名馬、赤玉、貂?、美珠。珠大者如酸棗。以弓矢刀矛為兵、家家自有鎧仗。國之耆老自説古之亡人。作城柵皆員、有似牢獄。行道晝夜無老幼皆歌、通日聲不絶。有軍事亦祭天、殺牛觀蹄以占吉凶、蹄解者為凶、合者為吉。有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數。厚葬、有槨無棺①。

 その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の毛皮、美しい淡水真珠を産出する。真珠の大きいのは棗(なつめ)ほどもある。弓矢刀矛を武器とし、家々に鎧と武具を備えている。国の古老は昔の亡命者だと自称する。城柵で周りを囲った牢獄のようなものがある。歩行するときは昼夜の別なく老人子供が皆、歌を歌うので一日中、声が絶えない。軍事や祭祀の際には、牛を殺して蹄(ひづめ)を観て、吉凶を占い、蹄が割れていれば凶、合わさっていれば吉とする。敵が現れれば、諸加は自ら戦い、下戸は兵糧や食事を提供する。諸加が死ねば、夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない。

 文中に「古之亡人」とあるが、中原諸国に追われた異民族から扶余国に亡命してきた人々がいたのだろうか。燕、東胡、山戎、孤竹などが考えられるが、具体的な意味は不明。

 注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有熟。喪主不欲速而他人彊之、常諍引以此為節。其居喪、男女皆純白、婦人著布面衣、去環珮、大體與中國相彷彿也。

 魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期間が永いほど栄誉とする。そこの葬祭は老若を問わない。喪主は速い葬儀を望まず、他人にこれを強い、常に諌められて終えることを節度とする。その喪に居合わせる男女は皆、純白、婦人は顔を覆う布のベールを着て、ベルト状の宝石飾りを外す。大体中国に相通じるものがある。

『後漢時代』(25年-220年)

『資治通鑑』

 49年、貊人が兵を右北平、漁陽、上谷、太原に侵攻させたが、遼東太守の祭?が真心を以て説き伏せたので再び塞外に戻った。

後漢書』扶余伝

 建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光武厚荅報之、於是使命歳通。

 建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。

 建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきたので、光武帝は、これに手厚く応えて報い、ここに毎年の通貢を命じた。

後漢書高句麗

 和帝元興元年春、復入遼東、寇略六縣、太守耿?撃破之、斬其渠帥。

 安帝永初五年、宮遣使貢獻、求屬玄菟。

 元初五年、復與?貊寇玄菟、攻華麗城。

 和帝の元興元年(105年)春、再び遼東に侵入し、六県で略奪を働き、太守の耿?がこれを撃破し、その渠帥を斬った。

 安帝の永初五年(111年)、宮は遣使をもって貢献し、玄菟郡への帰属を求めた。

 元初五年(118年)、再び?貊とともに玄菟に侵攻し、華麗城を攻撃した。

後漢書』扶余伝

 至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。

 永寧元年、乃遣嗣子尉仇台〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬金綵。

 順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。

 安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。後に再び漢に帰服した

 永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣して王宮に詣でて貢献する。天子は尉仇台に金印を賜る。

 順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に鼓吹で出迎えさせ、角抵戲(相撲)を催してこれを歓待した。

後漢書高句麗

 建光元年秋、宮遂率馬韓、?貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人、與州郡并力討破之、斬首五百餘級。是歳宮死、子遂成立。(中略)明年、遂成還漢生口、詣玄菟降。

 建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破り、斬首五百余級を挙げた。この歳、宮が死んで子の遂成が立つ。

 翌年(122年)、遂成は玄菟に詣でて生口(奴隷)を献上して降伏。再び漢に臣従した。

後漢書』安帝紀

 建光元年冬十二月、高句驪、馬韓、穢貊圍玄菟城、夫餘王遣子與州郡并力討破之。

 延光元年春二月、夫餘王遣子將兵救玄菟、撃高句驪、馬韓、穢貊、破之、遂遣使貢獻。

 建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲む。扶余王は王子を派遣し、州郡と力を併せてこれを破った。

 延光元年(122年)、扶余王が王子に兵を遣わして玄菟郡を救い、高句麗、馬韓、穢貊を破ったので、遂成が使節を派遣して貢献してきた。

『穢系部族連合の破綻』

 永初五年(111年)、高句麗は玄菟郡への帰属し、扶余は楽浪郡を侵攻する。

 元初五年(118年)、高句麗は?貊とともに玄菟に侵攻し、華麗城を攻撃した。

 永寧元年(120年)、扶余は尉仇台を派遣して後漢王朝に貢献する。

 建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲み、扶余が撃退する。

 高句麗と扶余に敵対関係が生じており、?貊は高句麗に付き、沃沮は中立というように、この時期から穢系部族連合の結束に破綻が生じたようだ。

『尉仇台の登場』

 後漢書には永寧元年(120年)と建光元年(121年)に扶余の太子として尉仇台が登場するが、この時期に登場することに疑問を感じる。

三国志魏書』扶余国伝

 夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊、度以夫餘在二虜之間、妻以宗女。

 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 上記のように、尉仇台は遼東地方の大豪族である公孫度の娘を妻に迎え、公孫氏に従って遼東の経営に参与したとされる人物である。だが、公孫度の死去は建安九年(204年)。公孫度の年齢は不明だが、公孫度の死の八十四年も前に尉仇台が登場するのは常識的に不合理としか思えない。別の史籍を追ってみよう。

三国志魏書』公孫度

 公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟、任度爲郡吏。時玄菟太守公孫域、子豹、年十八歳、早死。度少時名豹、又與域子同年、域見而親愛之、遣就師學、爲取妻。

 公孫度、字は升済、元は遼東の襄平の人。度の父は延、官吏を辞めて玄菟に居住する。度は郡吏に任じられた。時の玄菟太守は公孫域、その子の豹は十八歳で早死していた。度の幼名も豹で、年齢も同じだったことから、公孫域は出会ったときから度を親愛し、師を遣して学ばせ、妻をとらせた。

後漢書』扶余伝

 桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟、玄菟太守公孫域撃破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。

 桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て朝賀に来朝し貢献する。

 永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。玄菟太守の公孫域は、これを撃破、斬首千余級を挙げた。

 霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔、玄菟郡に属していたが、献帝の時代(189年-220年)、その王が遼東に属することを求めたという。

 永康元年(167年)、扶余が攻めた玄菟郡の太守は公孫域である。

 なぜ公孫度の大恩人である公孫域を扶余は攻撃したのだろう。考えられる答えは、当時は扶余と公孫度との密接な関係が生じていなかったのだ。おそらく、この事件を契機に扶余は公孫域や公孫度との関係が生じたものと想像する。

 120年と121年に登場する太子の尉仇台と、公孫度の娘を妻に迎える扶余王の尉仇台とは別人、もしくは後漢書が書写を間違ったのではないだろうか。上記には、献帝の時代に扶余王が帰属先を玄菟郡から遼東郡に変更を求めたとあるが、熹平年間(172年-177年)には公孫度との密接な関係が生じていたのだろう。

三国志魏書高句麗

 順桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。熹平中、伯固乞屬玄菟。公孫度之雄海東也、伯固遣大加優居、主簿然人等助度撃富山賊、破之。

 順帝と桓帝の間(125年-167年)、度々遼東を侵犯し、新安や居郷で略奪し、また西安平を攻め、途中で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を拉致した。

 霊帝の建寧二年(169年)、玄菟太守の耿臨がこれを討つ、斬首の数百級、ついに伯固は降伏し、遼東に服属した。

 熹平年間(172年-177年)、伯固は玄菟郡への帰属を乞うた。公孫度が海東に勇を馳せると、伯固は大加の優居や主簿の然人らを派遣し、公孫度が富山の賊を撃つのを支援して、これを破った。

 扶余が玄菟郡を攻めれば、高句麗は遼東郡や楽浪郡を攻める。扶余が玄菟郡の攻略に失敗すると今度は高句麗が挑戦する。まるで競争の様相が感じられるが、公孫度が頭角を現すと高句麗もなびいたようだ。

『黄巾党の乱』

 光和七年(184年)、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。

 各地で反旗を掲げた黄巾党軍の百万の軍勢に討伐軍が壊滅される大乱となり、この鎮圧で攻を上げた孫権、曹操、劉備らの登場で三国時代の幕が開かれることになる。

 初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。

 建安九年(204年)、公孫度が死去、継嗣の公孫康が楽浪郡の南部に『帯方郡』を置いて韓族を勢力下に組み入れ、後漢政権から左将軍の官位を授けられた。

 建安十四年(209年)、公孫康が高句麗に出撃。高句麗を撃破し、邑落を焼き払った。

 高句麗王伊夷摸の兄である抜奇が部族を率いて公孫康に帰順し、隷属していた胡族も伊夷摸に叛いたので、伊夷摸は卒本城を棄て、『丸都城』に逃れて遷都した。

『百済(馬韓扶余)』

 公孫氏の強勢に応じて扶余も遼東を拠点にして帯方郡の開拓と制圧に邁進したのだろう。

 通説では、馬韓地方の伯済国が諸国を統一して百済を創建したとされる。ただし、『三国史記』百済本紀だけは温祚(オンス)だと主張するが、中国の史籍にまったく記載がなく、朝鮮半島内だけで通用する主張だが、中国の史籍は扶余王の尉仇台を始祖としている。

『北史』百済伝

 百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略)東明は南に奔り、淹滯水を渡り、扶余に於いて王となる。東明の後に仇台がおり、帯方郡の故地に建国する。漢遼東太守の公孫度の娘を娶り、東夷の強国となる。初めに百家(多勢)で済した(渡った)ことから、百済と号した。

『唐会要』百済伝

 百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居。有東西兩城。

 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

『通典』百濟

 百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟。

 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。

 いずれも尉仇台を百済の祖と記している。『三国史記』百済本紀ではこの当時の百済王は盖婁王(夫余盖婁 在位128-166年)、肖古王(余肖古 在位166-214年)としており、仇台に字体や音符の相似する人物はいない。三国史記の国王は架空の人物、もしくは伯済国の君主か、盟主国であった月支国の君主のことかもしれない。

三国時代』(220年-265年)

三国志魏書』?婁伝

 自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以?初中叛之。

 ?婁は漢の時代から扶余に臣従していたが、扶余の賦課が重かったので、黄初年間(220年-226年)に、これに叛いた。

 これも扶余が遼東や帯方郡に専念し、現地滞在の費用などの捻出のため?婁に重税を課したことが原因で、扶余の主力が帯方郡にいたことから、?婁は扶余が軍勢を向けて来ることはないと踏んだのではないだろうか。

『梁書』高句麗

 魏景初二年、遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵、位宮遣主簿、大加將兵千人助軍。

 景初二年(238年)、太尉の司馬王仲達は大軍を率いて公孫淵を討伐。位宮は主簿と大加に將兵千人を与えて(司馬王に)援軍を派遣した。

 238年、諸葛孔明と互角に戦った名将で、後に晋王朝の祖となる司馬仲達に攻められては公孫淵に勝ち目はない。どこか衛氏朝鮮を思わせる栄華の終焉である。

 高句麗は司馬王に援軍を派遣しており、このとき扶余は故地に撤退した王族と南の伯済国に逃れた王族に二分したものと想像する。そして、楽浪海を渡って伯済国に入ったことが、前述の「高句麗に敗れ、海を渡った」であり、百済の国号の由来になったものと思われる。

三国志魏書』扶余国伝

 尉仇台死、簡位居立。無適子、有?子麻余。位居死、諸加共立麻余。牛加兄子名位居、為大使、輕財善施、國人附之、歳歳遣使詣京都貢獻。

 尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻余がいた。位居が死に、諸加(重臣たち)は麻余を共立した。牛加の兄子で位居という者が大使となり、財政を改善し善政をしたので、国人はこれを副官とし、毎年、遣使として京都(洛陽)に貢献させた。

 正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王?詣夫餘、位居遣大加郊迎、供軍糧。季父牛加有二心、位居殺季父父子、籍沒財物、遣使簿斂送官。舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺。

 正始年間(240年-249年)、幽州刺史の母丘県儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王?を扶余に訪問させた。位居は大加を郊外に派遣して歓迎し、軍糧を提供した。牛加の季父に二心あり、位居は季父の父子を誅殺して財物を没収し、徴収簿を官府に送った。古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任に帰すとされ、易が当たるか、あるいは殺(死罪)に当たるかと言われる。

 正始五年(244年)、幽州刺史毋丘倹(かんきゅうけん)は、玄菟郡太守の王?(き)に高句麗遠征を命じた。扶余王の位居は大加に王?を郊外まで出迎えさせ、軍糧を提供したとあり、位居が尉仇台の後継者であることから、120年に登場する尉仇台ではありえない。

 正始六年(245年)、毋丘倹が再び高句麗を討つ、位宮は諸加とともに沃阻に奔った。

 毋丘倹は將軍王?にこれを追撃させる。沃阻から千余里、粛慎の南界に至り、功績を記した石碑を建立し、丸都山に至り、不耐城と彫字して帰還した。その後、高句麗は中夏(中華)と通じなくなったとある。ただし、三国時代の騒乱、晋代には内乱と不安定な中華王朝に朝貢する価値はないと判断した可能性もある。

『西晋時代』(265年-316年)

 麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。公孫淵伏誅、玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、?數代之物、傳世以為寶、耆老言先代之所賜也。其印文言「?王之印」、國有故城名?城、蓋本?貊之地、而夫餘王其中、自謂「亡人」、抑有(似)〔以〕也。

 麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。

 漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(宝物箱)を常に玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣の一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・?など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「?王之印」と彫られているという。国内に?城という名の古城がある。?貊の故地で、扶余王は?城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である。

『晋書』扶余伝

至太康六年、為慕容?所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝為下詔曰「夫餘王世守忠孝、為惡虜所滅、甚愍念之。若其遺類足以復國者、當為之方計、使得存立。」有司奏護東夷校尉鮮于嬰不救夫餘、失於機略。詔免嬰、以何龕代之。

 明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕上列、遣督郵賈沈以兵送之。?又要之於路、沈與戰、大敗之、?衆退、羅得復國。爾後毎為?掠其種人、賣於中國。帝愍之、又發詔以官物贖還、下司、冀二州、禁市夫餘之口。

 太康六年(285年)、慕容?(ぼようかい)によって、扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。

 皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ」と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、機略の好機を失したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。

 翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容?は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容?は毎度のように扶余人を拉致しては中国で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。

 280年、三国の呉が滅び、晋が中国を統一する。だが、三国時代の熾烈な戦役で疲弊して異民族を威服させる余力がなかったのだろう。翌年には鮮卑族に昌黎を侵攻されている。

 285年、鮮卑族の慕容?に来襲され、扶余は国王の依慮が海に投身自殺するという潰滅的な打撃を受け、沃沮に避難する。

 286年、再び慕容?が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。

 この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容?に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。

 この後、強大化した高句麗に侵食され、国勢は衰退していった。

 346年、鮮卑の慕容?(こう)の大軍に急襲され、国勢はいっそう衰退し、以後高句麗の従属国として存続する。

 410年、高句麗に併合される。

『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465.htm

 兩漢時也世代向漢朝貢。晉至南北朝時、多次受鮮卑族慕容氏和高句麗的襲?。因國事漸弱、五世紀時、居地被靺鞨(勿吉)所?、餘部遷入高麗境?、後為高麗所滅。前後延續六百餘年。豆莫婁、夫餘之後、一部遷嫩江東、又名達莫婁。

 両漢の時代には代々漢朝に朝貢した。晋から南北朝時代、鮮卑族慕容部と高句麗の襲撃を受けて国力は暫時衰弱していった。五世紀に靺鞨(勿吉)に本拠地を占領され、その他は高句麗に亡命、後に高麗とともに滅亡した。述べ六百年余り継続した。豆莫婁は扶余の後裔で、一部は嫩江の東に移住し、またの名を達莫婁(ダボル)とした。

 豆莫婁國在勿吉北千里、舊北夫餘也。在室韋之東、東至於海、方二千餘里。其人土著、有居室倉庫。多山陵廣澤、於東夷之域、最為平敞。地宜五穀、不生五果。其人長大、性強勇謹厚、不寇抄。其君長皆六畜名官、邑落有豪帥。飲食亦用俎豆。有麻布、衣製類高麗而帽大。其國大人、以金銀飾之。用刑嚴急、殺人者死、沒其家人為奴婢。俗淫、尤惡?者、殺之尸於國南山上、至腐、女家始得輸牛馬乃與之。或言?貊之地也。

 豆莫婁国は勿吉の北千里に在り、昔の北扶余なり。室韋(蒙古)の東に在り、東は海に到り、地積は二千余里。そこの民は土着、居室や倉庫がある。山陵と広い河川が多く、東夷の域では最も平坦な土地である。五穀の栽培に適すが五果は採れない。族人は長身で大柄、性質は強勇で謙虚、強盗をしない。そこの君長は皆、六畜の名を官に付け、邑落には豪帥がいる。飲食には膳を用いる。麻布があり、衣服は高麗に類し帽子も大きい。その国の大人は、金銀で衣服を飾る。刑は厳格で早急に行なわれ、殺人には死、その家人を没収して奴婢とする。俗は淫乱、酷い嫉妬をする妻は殺し、屍を国の南の山上に置いて腐敗させ、実家が牛馬を献じれば遺骸を与える。あるいは?貊の地ともいう。

 豆莫婁は扶余の遺民が立てた国家とされるが、まさに風俗は扶余のものである。

 494年、新興の勿吉(もつきつ)に王都を奪われ、国王やその一族は高句麗へ亡命、その歴史を閉じるが、別の記述もある。

『百済(遼西扶余)』

新唐書』百済伝

 百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越州,南倭,北高麗,皆踰海乃至,其東,新羅也。王居東、西二城,官有内臣佐平者宣納號令,内頭佐平主帑聚,内法佐平主禮,衛士佐平典衛兵,朝廷佐平主獄,兵官佐平掌外兵。有六方,方統十郡。大姓有八:沙氏,燕氏,劦氏〔一〕,解氏,貞氏,國氏,木氏,●氏。

 百済は扶余の別種なり。京師の東六千里、濱海の北、西は越州、南に倭、北に高句麗、どれも海を越えて至る。その東は新羅なり。王は東に居する、西に二城。(中略)六方あり、方は十郡を統べる。貴種の姓は、沙氏、燕氏、劦氏、解氏、貞氏、國氏、木氏など八姓。

 ここの記述は一般的な百済の地理説明である。ただ、陸続きの高句麗にも海を越える意味が理解できないが、陸路より水路のほうが無難だったのかもしれない。

『宋書』百済伝

 百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。

 百済国、本来は高句麗とともに遼東の東千余里にいた。その後、高句麗が遼東を略奪、百済は遼西を略して治めた。言うところの晋平郡晋平県である。

『梁書』『南史』百済伝

 百濟者,其先東夷有三韓國:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戸,百濟即其一也。後漸強大,兼諸小國。其國本與句麗倶在遼東之東千餘里,晉世句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。

「百済とは、その源流は東夷の三韓国にある。一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。弁韓、辰韓は各十二国、馬韓には五十四国、大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸、百済はその一国なり。後に強大となり、諸小国を束ねる。元は遼東にいた高句麗の東千余里に在った。

 晋代、高句麗は遼東を侵略し、百済もまた遼西を占拠し、平州二郡に自ら百済郡を置く。百済の言語風俗は高句麗に同じ」

『通典』百濟

 晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後、?并諸國、據有馬韓故地。其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。

 晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。

 晋より以後、諸國を併呑し、馬韓の故地を占領した。その国、東西に四百里、南北に九百里、南に新羅と接し、北に高麗と千余里、西は大海(黄海)に極まり、小海(楽浪湾)の南に居住する」

 百済は半島の西南ではなく、高句麗とともに遼東の東千里にいたとは、太古の穢系部族連合か、沃沮または扶余を指していると思われる。尉仇台を祖とすれば、扶余のことである。だが、晋の時代に百済もまた遼西を占拠したとなれば、尉仇台の後継者が故地に戻らず遼東に居続けていたことになる。

 穢系部族連合が「?、沃沮、高句麗、扶余」に分立したように、扶余族自体も馬韓扶余、遼西扶余、故地に残る本家扶余に分立した。尉仇台以後の本家扶余は衰弱の一途をたどり、遂には高句麗に吸収されるが、馬韓扶余は百済として存続し、遼西扶余は高句麗王を戦死させるほどの勢いを有していたが、後には馬韓扶余に移住して一国になったものと推察する。


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Last-modified: 2017-11-19 (日) 03:11:00