■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.1総合 ■

1.年代の表し方
西暦
 キリストが生まれたとされる年を西暦1年として、それよりも前を紀元前(B.C.)、それよりも後を紀元後(A.D.)として数える。

世紀
 100年間で1世紀とする。西暦1~100年を1世紀、101~200年を2世紀、2001~2100年が21世紀となる。

時代区分
 政治の中心地やしくみによって時代を区切る表し方。「平安時代」、「鎌倉時代」、「江戸時代」など。

年号(元号)
 ある年を元年(1年)として時代を区切る表し方。「明治」、「大正」、「昭和」、「平成」など。
2.日本の主な歴史

1.旧石器時代
十数年前まで、日本列島はユーラシア大陸とつながっていたが、氷河が溶けて海ができ、約1万年前前に日本列島ができた。

長野県野尻湖では大陸から移り住んだと言われているナウマン像や大角鹿の化石が発見されている。

日本列島ができるまでの十数万年間を旧石器
時代という。

この時代の人々はほら穴などを住み、石を打ち
砕いて道具とする打製石器や骨で作った道具
などを用いて、木の実などの採集や狩り、漁で
食べ物をとっていた。

日本で最初の打製石器が発見がされたのは、
1949年、群馬県岩宿遺跡で、関東ローム層の
中から相沢忠洋が発見した。
大昔の日本

ナウマン像(千葉県印旛村)
打製石器

国立歴史民俗博物館

..... …数万年前は陸地だったところ
2.縄文時代
今から1万年前から紀元前3~4世紀までを縄文時代という。

たて穴住居とよばれる家に住み、縄文土器(縄目のもようが
ついていることから、こうよばれる)で採集したものを煮たり、
磨製石器や動物の骨で作った骨角器を使って狩りや漁を
行なっていた。

食べた後は、貝塚とよばれるゴミ捨て場に捨て、当時の生活
のようすを知ることができる。青森県三大丸山遺跡やモース
によって発見された東京都大森貝塚が代表的。

縄文時代には食べ物は平等に分け、貧富の差はあまりなかっ
た。

貝塚
かつては縄文人たちの「ゴミ捨て場」などとされてきたが、近年の研究では「(魂などの)おくりの場」という説が有力視されている。貝から出るカルシウムによって骨角器などの骨製品や人骨が良好に保存されることが多く、貝の種類や含まれる出土品の分析は、当時の自然環境や食生活、縄文人たちの生業を知る有効な手段となっている。
 

磨製石器と骨角器
土偶
国立歴史民俗博物館
3.弥生時代
紀元前4~紀元後3世紀ごろまでを弥生時代という。

大陸から稲作が伝わり、低地に定住するようになった。
田げたをはいて水田に入り、木製のくわやすきで田を耕し、
種もみをじかに田にまき、収穫となる秋になると、石包丁で
1本ずつ稲の穂をつみとり、収穫した穂を高床倉庫に貯蔵
した。

人々はたて穴住居に住み、土器は弥生土器と呼ばれる、
縄文土器に比べて、うすでで固い赤褐色で、直線模様が
あるかないかを使っていた。

また、石器や土器のほかに、鉄器と青銅器も大陸から
伝わり、鉄器は木を削ったり武器などの実生活に使われ、
青銅器は銅剣・銅鉾・銅鐸などがあり、主に祭などに使わ
れた。

弥生時代は、収穫の量によって貧富や身分の差が生じ、

田げたと石包丁

弥生土器と青銅器
国立歴史民俗博物館  芝山古墳はにわ博物館
「むら」との間で水や土地をめぐる争いも起こった。やがて「むら」は連合などを行い、「くに」へと発展していった。

静岡県登呂遺跡、福岡県板付遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡が代表的。

弥生時代の日本のようすを知る手がかりとなるのが
中国の歴史書であり、中国では日本のことを「倭(わ)」
と呼んでいた。その倭のくにの1つであった奴国(なのくに)
の王が中国(漢)に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王
(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を授かり、
江戸時代、福岡市の志賀島でその金印が発見された。

中国の「魏志」倭人伝によると、倭のくにに邪馬台国と
呼ばれるくにがあり、30あまりのくにをしたがえていたという。
その女王である卑弥呼が239年に魏に使いを送り、
「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えられたという。
ただし、邪馬台国がどこにあったのかは、北九州説と
大和地方説に分かれており、特定できていない。
主な原始時代の遺跡
1.大和朝廷
 共同生活社会が「むら」から「くに」へ発展していき、大和地方の豪族たちが連合で
つくった国が5世紀頃に九州地方から東北地方南部まで支配していった。この国は
大和朝廷とよばれ、その王を大王(おおきみ)といい、のちに天皇とよばれるように
なった。

 大和朝廷は氏姓制度とよばれる制度をつくり、豪族の一族による集団である氏(うじ)
に、大王が朝廷での称号である臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)など家柄
や地位を示す姓(かばね)を与えて決まった仕事をさせていた。

 大和朝廷は朝鮮半島南部にあった加羅(から)(任那(みまな))に兵を送り、勢力を
のばしたり、4世紀末には百済(くだら)と結んで高句麗(こうくり)と戦ったり※1、南朝
の宋に使いを送る※2など、国内だけではなく、大陸まで勢力を拡大しようとしたり交易
をしていた。

こうした交易などによって、中国や朝鮮から日本に渡り、日本に住む人も現れ、そうし
た人を渡来人とよんだ。渡来人の伝えた技術として、5世紀に大陸から漢字や儒教が
伝わり、6世紀には百済から仏教が伝えられた※3。この他にも、土木技術や須恵器
5世紀頃の中国・朝鮮

とよばれる新しい土器などが伝えられた。

 後に、仏教の受け入れをめぐり、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏が対立し、587年に蘇我馬子が物部氏を滅ぼし、仏教は
日本に広く浸透していく。
※1 好太王碑(こうたいおうひ)
 高句麗の好太王(広開土王)の功績をたたえた碑文の中に、4世紀末に百済と結んだ大和朝廷と戦ったことが記されている。

※2 「宋書」倭国伝
 南朝(宋)の歴史書で、大和朝廷の5人の王が南朝に使いを送ったことが記されている。南朝では「倭の五王」と書かれており、
 讃・珍・済・興・武(さん・ちん・せい・こう・ぶ)の5人の名前があり、このうち、武は雄略天皇(ワカタケル大王)とされ、倭の王と
 しての地位と朝鮮半島南部の支配を認めてもらうことが目的だった。

※3 漢字と仏教の伝来
 漢字は儒教とともに大陸から伝わり、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣や、熊本県の江田船山古墳から出土した太刀
 には「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」なと日本語が漢字で刻まれており、5世紀の中ごろには日本語を漢字で表すように
 なった。
 仏教は538年(552年という説もある)に百済の聖明王(せいめいおう)が日本の欽明(きんめい)天皇に仏像と経典を贈ったこと
 が公式な伝来とされている。
2.古墳時代
3世紀後半頃から日本の各地で古墳と呼ば
れる大きな墓を築くようになり、この時代を
古墳時代という。

古墳は円形をした円墳、四角形の形をした
方墳、その2つを組み合わせた前方後円墳
などがあり、大阪府堺市の大仙(大山)古墳
仁徳天皇の墓とされ、面積は世界最大で
ある。

 古墳の周りや上などには、素焼きでつくら
れたはにわが置かれ、円筒形の形をしたも
のや、人や動物、家や船などをかたどった
ものがある。

 古墳の内部は、石で作られた部屋があり、
大きく竪穴式石室と横穴式石室の2つがあ
り、竪穴式石室は古墳時代の前期から中期
に見られ、遺体を埋葬した後に長方形の石
室をつくり、その上に土を盛っていった。

はにわ
芝山古墳はにわ博物館
前方後円墳(箸墓古墳:模型)
国立歴史民俗博物館
銅鏡
国立歴史民俗博物館

	
	

横穴式石室(模型) 国立歴史民俗博物館
横穴式石室は古墳時代後期の形で、石で作られた入口と遺体を安置する部屋(玄室(げんしつ))、入口と玄室をつなぐ道
(羨道(せんどう))があり、追葬できる形でもあった。また、遺体とともに鏡、玉、武器などの副葬品も埋葬された。
1.聖徳太子の政治
 物部氏を倒した蘇我馬子は崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、自分の娘を推古(すいこ)天皇として
即位させた。推古天皇は最初の女性の天皇となる。

 推古天皇聖徳太子を593年に天皇にかわって実際の政治を行なう摂政に任命し、蘇我馬子
協力して天皇中心の政治を目指した。

 聖徳太子は大きく4つのことを行なった。
(1)冠位十二階を定め、冠の色によって位を分け、家柄に関係なく、能力のあるものを役人に登用
 する制度をつくった。分け方は徳・仁・礼・信・義・智の6つの位を大小に分け、それぞれ紫・青・
 赤・黄・白・黒の濃淡で表した(例えば大礼は濃い赤、小智は薄い黒など)。

(2)十七条の憲法を定め、、役人の心がまえを示した。天皇の命令に従うこと、争いをせず、仏教や
 儒教の考えを取り入れ、それを信じることなどが書かれている。

(3)遣隋使を派遣し、中国の制度や文化を取り入れた。遣隋使の小野妹子に「日の出ずる処の
 天子、書を日没する処の天子にいたす」という国書を持たせ、隋と対等な外交を目指そうとした。
 
6世紀末の東アジア

隋は618年に唐に滅ぼされる。
(4)仏教を保護し、法隆寺や四天王寺を建て、また、蘇我馬子も飛鳥寺(法興寺)を建立した。こうしたことにより、飛鳥地方(奈良県南部)
 には仏教色の強い飛鳥文化が生まれた。

 飛鳥地方を中心に、政治と文化が栄えた推古天皇から奈良時代までを飛鳥時代という。
2.飛鳥文化
 飛鳥文化はギリシャ・インド・中国に大きく影響を
受けているのが特徴である。
また、法隆寺は現存する世界最古の木造建築物
で、世界遺産にも登録されている。この時代に建て
られた寺として、法隆寺の他に、四天王寺、飛鳥寺
(法興寺)、中宮寺、広隆寺などがある。

 寺の中におさめる仏像は、仏師とよばれる人が
つくり、鞍作鳥(止利仏師)(くらつくりのとり・とり
ぶつし)がこの時代を代表する仏師で、法隆寺金堂
釈迦三尊像は有名である。
この他、中宮寺半跏思惟像や広隆寺半跏思惟像
などがある。

	

法隆寺
写真:ゆんフリー写真素材集
法隆寺金堂
写真: 列島宝物館
3.大化の改新
 聖徳太子の死後、蘇我氏が再び政治の実権を握り、天皇をしのぐほどになっていた。中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足
(後の藤原鎌足)と協力して、645年、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した。この年に年号を大化と定め、この改革を大化の改新という。

 大化の改新の翌年、改新の詔(みことのり)を出し、以下のような政治の方針を示した。
(1)公地公民
 土地と農民を豪族から取り上げ、国の土地(公地)と農民(公民)にする。豪族は朝廷の
 貴族となった。

(2)班田収授法
 戸籍を作成して、6歳以上の農民の男には2段(反)(約24アール)、女にはその3分の2の
 口分田を与え、そこから税を納めること。死ぬと国家に土地を返す。

(3)税の制度
 農民には租・庸・調などの税を納めさせる。
  租…稲の収穫高の約3%を納める。
  庸…年に10日都で働くか、布を納める。男子のみに課せられた。
  調…布や各地の特産物を納める。男子のみに課せられた。
  雑徭(ぞうよう)…国司のもとで60日以内の土木工事を行なう。男子のみに課せられた。

(4)地方の制度
 地方を国・郡・里に分け、それぞれ国司・郡司・里長をおいて、地方を管理する。
 九州には大宰府をおき、外交や防衛にあたった。その兵士は防人(さきもり)とよばれた。
公地公民

4.律令政治
 改新の詔はすぐに実行・完成されたわけではなく、
701年の大宝律令が制定されるまで長い年月がか
かった。

 朝鮮半島では、新羅と唐が百済を滅ぼしたので、
日本は百済の援軍にあたったが、白村江の戦い
破れた。これにより、日本は国内整備に力を入れる
ようになり、都を難波から近江大津宮にうつし、翌年、
中大兄皇子は即位して天智天皇となった。

 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおう
じ)が子の大友皇子と争うようになり、壬申(じんしん)
の乱によって大海人皇子が勝ち、天武天皇となった。
 天武天皇は唐の律令制度を取り入れ、天皇中心の
政治を推進した。
 日本という国の名前や天皇という称号はこの頃に
定められた。
 
中央機関としての二官八省

 天武天皇の死後、その皇后が持統天皇として即位し、唐の都である長安にならって藤原京をつくった。藤原京は日本で最初の
本格的な都であった。

 中臣(藤原)鎌足の子である藤原不比等を中心に大宝律令が作成され、701年、文武天皇の時代に制定された。
  律は現在の刑法にあたり、犯罪に対しての刑罰が決められていた。
  令は現在の民法や行政法にあたり、政治のしくみなどが決められた。

 日本の律令制度はこの大宝律令の制定によって完成され、律令にもとづいて律令政治が行なわれた。
5.白鳳文化
 天武天皇持統天皇を中心に、大化の改新から奈良の平城京に都がうつされるまでの
文化で、唐の文化の影響を強く受けた仏教文化である。
 薬師寺の東塔、薬師三尊像、法隆寺の金堂壁画、高松塚古墳の壁画が代表的である。 薬師寺東塔
1.平城京と聖武天皇の政治
 710年、元明天皇は唐の都である長安にならって奈良に平城京を
つくった。東西南北に広い道路が通り、宮殿や役所、貴族の屋敷など
があり、10~20万人くらいの人が住んでいた。市も開かれ、和同開珎
(わどうかいちん)という貨幣も使われた。

 8世紀の中ごろに、伝染病が流行し、また、災害や貴族の争いなど
も起こったため、仏教を深く信仰していた聖武天皇は、仏教によって
国を安定させようと、都に東大寺を建て、行基という僧を中心に大仏を
つくらせ、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立させた。

平城京羅生門(模型) 写真国立歴史民俗博物館:
 しかし、大仏や国分寺などの建設には多くの費用がかかり、財政が
悪化した。

 聖武天皇が即位する以前から、農民の中には重税から土地を捨て
て逃げだす者が現れ、口分田が不足していた。

 そこで朝廷は723年に三世一身法(さんぜいいっしんのほう)を出し、
新しく土地を開墾した者は本人と子ども、孫の三世まで私有を認めさ
せた。しかし、期限が近づくと再び土地は荒れはじめ、あまり効果が
なかった。
 
東大寺大仏 写真:ゆんフリー写真素材集
 聖武天皇は、三世一身法に代わる法律として、743年に墾田永年私財法を出し、開墾した土地の永久私有を認めた。
この法律によって、貴族や寺院、地方の豪族たちは農民を使って開墾を行い、私有地を広げるようになり、公地公民制
はくずれ、この私有地は後に荘園とよばれるようになった。

 聖武天皇の死後、道鏡という僧が台頭し、僧侶が政治に口出しするようになり、さらには天皇の地位さえもねらったが、
和気清麻呂(わけのきよまろ)によって防ぐことができた。

 僧侶を政治から排除しようとした桓武天皇は、都を奈良から京都に移し、長岡京をつくったがうまくいかず、後の794年
に平安京に都をうつすことになる。
2.天平文化
 仏教を保護した聖武天皇と遣唐使がもたらした唐の文物などによる国際色豊かな文化が起こ
り、天平文化という。

 日本は唐の文化を取り入れるために、630年~894年までの間に十数回にわたって遣唐使を
送った。当時では、海難などの危険が多く、命がけの航海であった。

 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は留学生として唐に渡ったが、帰ることができず、唐の朝廷で
一生を送った。また、唐の高僧であった鑑真は、日本に渡る途中で盲目となりながらも、来日し
て、平城京に唐招提寺を建てた。

 建築では、世界最大の木造建築物である東大寺大仏殿や、聖武天皇の遺品などが収められ
ている校倉造の東大寺正倉院があり、正倉院の宝物の中にはギリシャ・インド・ペルシアから伝
わったものもある。

 書物の編集にも力を入れ、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記していたものを太安万侶(おおの
やすまろ)が書き上げた、神代から推古天皇までの神話や物語で書かれた歴史書である古事記
や、舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって神代から持統天皇までの天皇家の歴史を年代
順にまとめた歴史書である日本書紀がある。
 

唐招提寺金堂
写真: 列島宝物館

東大寺大仏殿
写真:ゆんフリー写真素材集
 万葉がなとよばれる文字が使われるようになり、約4500首を収めた、日本最古の歌集である万葉集がつくられた。天皇
や貴族だけではなく、農民や防人など身分の低い者の歌もある。額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂や、山上憶良
が重税に苦しむ農民の姿を歌った貧窮問答歌が有名である。

 諸国の地理や由来、伝説・特産物などをまとめた風土記(ふどき)もつくられた。出雲(島根県)の風土記は完全な形で
残り、常陸(茨城県)・播磨(兵庫県)・豊後(大分県)・肥前(佐賀・長崎県)が現存する。
1.平安京と桓武天皇の政治
 聖武天皇の死後、貴族の争いを始め、道鏡といった仏教僧が政治に介入してきた
ので、桓武天皇は政治のたて直しをはかろうと、784年に長岡京、794年に平安京を、
奈良から京都へ都をうつした。

 桓武天皇は複雑な役所を簡単にしたり、国司の不正を防ぐ勘解由使(かげゆし)や、
兵士は農民からではなく、郡司の師弟から採用する(健児(こんでん)の制)など、
今まで律令にはなかった役所をもうけた。

 外交面では、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷(えみし・えぞ)とよばれ
ていた東北地方に征討に行かせ、宗教面では、奈良の寺院が平安京に移ることを禁止
し、政治に介入せずに山奥で修行する最澄の天台宗と空海の真言宗を保護した。

 都を京都の平安京にうつした794年から1192年の鎌倉幕府が開かれるまでの約400年
間を平安時代という。
天台宗寺院 比叡山延暦寺
(滋賀県)列島宝物館

真言宗寺院 高野山金剛峰寺
(和歌山県) Free Level Photos
2.藤原氏と摂関政治
 中臣鎌足藤原不比等らの子孫である藤原氏は、他の貴族をしりぞけたり、娘を
天皇のきさきにし、生まれた男の子を天皇にたて、自分たちは摂政・関白という地位
について政治の実験を握るようになった。これを摂関政治という。

 摂政は天皇が幼いときに、代わりとなって政治を行い、関白は天皇が成人になった
後も、後見人として政治を行なう役職である。摂政は藤原良房(よしふさ)が皇族以外
ではじめてその役職につき、関白はその子の藤原基経(もとつね)がはじめてついた。

寝殿造 国立歴史民俗博物館
 
摂関政治は11世紀前半の藤原道長とその子である頼通のときに全盛となった。
道長は「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」という世の中を支配できたような短歌
を残し、頼通は京都の宇治に、寝殿造という当時の文化を代表する建築物である平等院鳳凰堂を建てた。

 また、私有地である荘園の持ち主は、税が免除される不輸の権や役人が荘園に立ち入ることができない不入の権
を手に入れるようになり、平安時代の中ごろにはこうした荘園が増加し、律令体制がくずれると同時に、その荘園を
藤原氏に寄進するようになり、藤原氏の勢力は拡大することになった。

 地方では、政治が国司に任せきりになり、富を増やすことに専念する国司もあらわれるようになっていった。尾張の
国(愛知県)の藤原元命(もとなが)は、郡司や農民にその横暴ぶりを訴えられ、国司をやめさせられた。
3.国風文化と浄土信仰
 藤原氏以外で政治に力をもったのが菅原道真であった。藤原氏は道真を排除しようと
894年に遣唐大使に任命するが、道真は天皇に遣唐使の廃止を訴え、その意見が取り
入れられた。これにより、日本独自の文化が生まれ、国風文化という。
(菅原道真はその後、謀反の罪をきせられ、大宰府に流される。)

 国風文化では、漢字からひらがな、かたかなといったかな文字が生まれ、それによっ
て最初の物語である「竹取物語」、貴族の光源氏を中心に平安の王朝貴族の生活を描
いた紫式部の「源氏物語」、随筆としては清少納言の「枕草子」、日記では紀貫之が書
いた「土佐日記」などが作られた。かな文字は藤原氏出身の皇后などが、教養や才能を
もつ女性を侍女(身分の高い人に仕えて身の回りの世話をする女性)にしたこともあり、
女性の文学者が活躍した。

 和歌も漢詩だけではなく、和歌も作られるようになり、醍醐天皇の命令により、紀貫之、
在原業平、小野小町を中心によって編纂された古今和歌集がある。天皇の命によって
編集された和歌集を勅撰和歌集という。

 貴族たちは寝殿造とよばれる建築物の邸宅をつくり、中央の寝殿に主人が住み、左右

平安貴族の服装と部屋
国立歴史民俗博物館
対称の対屋、池をつくって釣殿、泉殿などから舟遊びも行なわれた。

 服装は、男性では束帯(写真左側の男性が武官束帯、右側が直衣)、女性では十二単(写真手前)が正式なものと
された。

 11世紀になると、釈迦が亡くなってから2000年後からは末法という世に入り、仏法が衰える乱世になるという末法思想
が貴族の間で信じられるようになった。貴族たちは阿弥陀仏の力によって自分の死後の来世は極楽浄土で生まれ変わ
るという浄土教にひかれるようになり、「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえ、寺院をつくって祈るようになった。

 浄土教の僧として、空也は諸国を遊行したのち、念仏を庶民に広め、源信は「往生要集」を著し、念仏による極楽浄土
の方法を示した。また、奥州藤原氏は平泉(岩手県)に中尊寺金色堂という阿弥陀堂を建てた。
 
 絵画では、日本的な風物をテーマにした、やわらかい線と色彩で描いた大和絵が
寝殿造の屋敷のふすまや屏風などに使われ、源氏物語などのシーンを描いた絵巻物
などが生まれた。また、動物たちを人間にみたてた鳥獣戯画もこの時代の中で生まれ
た。

鳥獣戯画 蜻蛉屋
4.武士の台頭と院政
 平安時代の中ごろから、地方では国司の不正が多く起こり、また郡司や有力な農民は豪族と成長し、勢力争いをする
ようになった。荘園の所有者は自分の土地を守るために、一族や家来に武器を持たせるようになり、これが武士のおこ
りである。

 武士はより有力な武士を棟梁(とうりょう)として傘下に入り、武士団が形成されていった。935年に関東で平将門が、
939年には瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こした。これらの乱を平定したのも武士団であった。

 武士団はさらに互いに勢力を争いながら、貴族や天皇など血すじや家柄のよいものに集まり、清和天皇の子孫であ
る源氏と桓武天皇の子孫である平氏の2つの大きな武士団ができるようになった。

 1051年に陸奥の豪族である安部時頼が国司に反抗し、前九年の役が始まった。朝廷の命によって、源頼義・義家
父子が1062年に平定し、源氏の東国確立のきっかけとなった。

 1083年には東北地方の清原氏の相続争いをきっかけに反乱となり、後三年の役とよばれ源義家が平定した。これに
よって、源氏が武家の棟梁としての地位が固まった。また、この反乱の平定に協力した藤原清衡は奥州平泉を支配し、
基衡、秀衡の3代にわたって奥州藤原氏として支配した。

 この頃、朝廷では白河天皇が天皇を子(堀川天皇)に譲り、自分は上皇になって院とよばれる役所をもうけて政治を
行なうようになった。天皇の位を譲り、上皇または法皇となって政治を行なうことを院政という。白河上皇は藤原氏
外戚関係がなかったため、藤原氏は急速に勢力が衰えていった。院政は、12世紀後半の後白河上皇まで約100年間
続いた。

 1156年、崇徳上皇と後白河天皇、藤原忠通と頼長の兄弟が対立し、天皇側に味方した平清盛と源義朝が勝利し、
院政の混乱と武士の進出を示す事件となり、保元の乱という。

 1159年、保元の乱で勝利した平清盛と源義朝の争いで、平清盛が勝利し、源義朝は殺され、その子である源頼朝
を伊豆に流した。これを平治の乱という。これによって、平氏繁栄のきっかけをつくった。

 平清盛は娘の徳子を天皇の后にし、朝廷の最高の位である太政大臣にとなって権力を握るようになった。平氏は
全国の約半分の国と約500の荘園をもち、朝廷でも高い地位に着く様になっていき、「平家にあらずば人にあらじ」と
まで言うようになった。

 また、清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を整え、宋と貿易を行なった。日宋貿易での輸入品は主に宋銭、陶磁器、
絹織物、書物で、輸出品は金、いおう、刀剣、漆器であった。
1.鎌倉幕府の成立と執権政治
 平氏の専制政治に貴族や他の武士の不満が
高まり、1180年、後白河法皇の子どもである
以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に平氏追討
命令を出し、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵
し、源平合戦が始まった。

 頼朝の従兄弟である源(木曽)義仲は京都に
攻め込み、平氏は西国へ逃れることになった。
義仲はその後、平氏を追わず、後白河法皇と
対立して、頼朝に滅ぼされた。

 頼朝の弟である源義経は、一の谷(兵庫県)の
戦い、屋島(香川県)の戦いで平氏を破り、つい
に壇ノ浦(山口県)の戦いで平氏を滅ぼした。
  鎌倉幕府のしくみ

 平氏が滅びゆく中、源頼朝は国ごとに守護、荘園ごとに地頭を設置して、御家人を任命し、
全国を支配していった。さらに、頼朝は後白河法皇に後押しされていた義経を追討し、その
義経をかくまった奥州藤原氏をも滅ぼし、頼朝に反対する勢力をなくしていった。

 1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、神奈川県の鎌倉で幕府を開き、約140年間、鎌倉
時代が続くことになる。

 将軍に仕える武士を御家人といい、将軍は御家人の土地を保障したり、手柄に応じて新しい
土地を与えるという御恩を与えると同時に、御家人は将軍への忠誠を誓い、戦の時には一族
を引き連れて「いざ鎌倉」などと言いながら出陣する奉公とよばれる労役を行なった。 封建制度による主従関係

 このような関係を主従関係といい、こうした主従関係にもとづく制度を封建制度という。また、武士による政治はこの鎌倉時代から
江戸時代まで続き、約650年間続いた。
 御家人は武家造とよ
ばれる堀や土塀をめぐ
らした質素な館に住み、
自分の領地で農民を
つかって農業を営んだ
り、犬追物や笠懸(かさ
がけ)、流鏑馬(やぶさ
め)といった武芸に励ん
でいた。
御家人の館(模型) 国立歴史民俗博物館

			

笠懸
 頼朝の死後、子どもの頼家と実朝が将軍になったが、政治の実権は、頼朝の妻であった北条政子とその父である北条時政に
うつっていた。源実朝が頼家の子である公暁(くぎょう)によって殺されてしまうと、源氏の血筋がいなくなり、北条氏は朝廷から
名目だけの将軍を迎え、自分たちは執権となって政治を動かすようになり、これを執権政治という。

 1232年に、北条泰時は51か条からなる鎌倉幕府の基本法律を制定し、御成敗式目または貞永式目ともいう。武士によるはじめ
ての法律で、政治や裁判のしかたを定め、後の武士の法律の手本ともなった。

 荘園や公領が地頭に侵略されていた後鳥羽上皇は、源氏が3代で途絶えると1221年に幕府に不満をもつ武士や貴族に呼び
かけて、執権であった北条義時を倒そうとしたが、北条政子が夫の源頼朝の御恩を御家人に説き、御家人を結束させ、義時の
子である北条泰時を総大将として京都を攻め、後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流された。これを承久の乱という。承久の乱の後、
朝廷の監視と西国の御家人の支配を行なう六波羅探題がおかれた。
2.元寇と幕府のおとろえ
 鎌倉時代、中国ではチンギス=ハンがモンゴルを統一してモンゴル帝国を建国していた。5代皇帝のフビライ=ハンはさらに
中国を支配し、元とした。元は朝鮮の高麗も支配し、8代執権である北条時宗にも服従を求めたが、時宗はこれを拒否した。

 フビライが1274年、大軍を率いて北九州の博多湾を攻め、集団戦法とてつほうとよばれる火薬兵器に日本軍は苦戦したが、
元軍の内陸への侵入を阻止した。これを文永の役という。

  ※元寇の神風(暴風雨)説について
    定説として、文永の役では、一騎打ちが通常であった日本の戦法に集団戦法の元軍に一方的に破れたものの、暴風雨
    によって元軍が撤退したと言われているが、他の史料や文献と合致していない(暴風雨は起きていない)ことが多く、この
    説は疑わしいものになっている。

 1281年、元軍は再び日本を攻めてきたが、前もって防塁を築き、元軍の戦法も知ってたので、撤退させることができた。また、
暴風雨が起き、海上にいた元軍を壊滅させることもできた。これを弘安の役という。また、文永の役と弘安の役の2つをあわせ
て元寇という。

 元寇で日本は勝利したものの、幕府の財政は悪化し、御家人も命がけで戦ったにもかかわらず、新しい土地をもらうことが
できず、高利貸しから借金をしても返済できずに土地を手放すものも少なくなかった。

 幕府は御家人を救済するために、借金を帳消しにする徳政令を出したが、その後、御家人にお金を貸すものがいなくなり、
かえって生活を苦しめ、幕府への不満が高まっていった。
3.鎌倉時代の産業
 農業では、鉄製農具が普及すると同時に牛や馬を耕作に使う牛馬耕も始ま
り、草や木の灰を肥料としたりするなど、生産性が向上した。

 近畿地方など、西日本の一部では、農地の地力向上によって、米をつくった
後に麦を収穫する二毛作が始まった。

 農民は国司や荘園領主といった貴族と地頭である武士の両方から支配され
て、年貢と労役などを貸された。時には、横暴な地頭を荘園領主に訴えること
もあった。

 農業の進歩は、鉄製の農具や刃物をつくる鍛冶や、紙をつくる紙すきなどの
手工業者を生ませ、商品をつくるようになった。

 さらに、商品や年貢を運ぶ問丸(といまる)という運送業者まであらわれるよ
うになった。
一遍上人絵巻と定期市の様子(模型)

国立歴史民俗博物館

 手工業者や商人は座とよばれる同業者の組合をつくり、利益を守るようになった。

 商品生産の成長により、交通の要地や寺社の門前、人の多く集まるところでは月に3回ほどの定期市(三斎市ともいう)が開かれる
ようになり、売買には日宋貿易で行なわれていた宋銭が使われた。
4.鎌倉時代の文化
 鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の宋の影響を受けながらも素朴で力強いものが多く、貴族や武士だけ
ではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。

 平安時代では貴族だけに信仰されていた浄土教を、法然が「南無阿弥陀仏」という念仏だけを唱えれば極楽往生できるという浄土宗
を説き、庶民にも信仰できるようにした。その後、新しい仏教が次々と生まれ、人々に広まっていった。

 法然の弟子であった親鸞は、阿弥陀仏が救おうとしている人は、自力で修行してそれに満足している人よりも、自分を悪人だと自覚
している人であるという悪人正機説を唱えて浄土真宗(一向宗)を開いた。

 一遍は、時宗を開き、念仏を唱えながら鉦(かね)や太鼓に合わせて踊る踊り念仏という形で信仰を広めていった。

 日蓮が開いた日蓮宗は、お経の名前である「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを主張した。

 中国では、座禅によって悟りを開く禅宗が広まり、日本にも影響を及ぼし、2つの宗派が広まった。

 栄西は、与えられた問題を座禅を組んで解く臨済宗を開き、幕府の保護を受け、上級の武士に支持された。
 
 道元は、ひたすら座禅を組むという曹洞宗を開いた。
 建築では、平安時代に台風で倒壊した奈良の東大寺南大門が再建され、天竺様という雄大で
力強い建物になっている。また、鎌倉の円覚寺舎利殿は、唐様とよばれる繊細で美しい建物が
特徴である。

 彫刻では、運慶・快慶による東大寺南大門の金剛力士像が有名である。

 文学では、平氏の栄華と滅亡までの物語である「平家物語」が、盲目の僧である琵琶法師によって
語られた。また、吉田兼好の「徒然草」と鴨長明の「方丈記」の随筆はこの時代の特徴である無常観
(世の中は常に変化しているという考え方)を表した作品である。

 和歌では、平安時代の古今和歌集に続いて、藤原定家が編纂した「新古今和歌集」と3代将軍で
ある源実朝の「金槐(きんかい)和歌集」がある。

 絵画では、大和絵の技法を使って、人物を写実的に描く似絵があらわれ、源頼朝像が有名である。
また、絵巻物では、九州の御家人である竹崎季長(すえなが)が元寇で活躍したときのようすを描いた
「蒙古襲来絵詞」は有名である。
東大寺南大門(奈良)

ゆんフリー写真素材集

円覚寺舎利殿(鎌倉)

列島宝物館
1.建武の新政と室町幕府の成立
 1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。
後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力
な御家人が挙兵を行なう。

 悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉
を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。

 隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、年号を建武として天皇自ら政治を行い、これを建武の新政という。後醍醐天皇
天皇中心の政治を目標としたため、鎌倉幕府滅亡に貢献した武士よりも、公家に多くのほうびを与えたので、武士の不満を高める
ことになった。
 
 1336年、足利尊氏は建武の新政に不満をもつ武士を
集めて京都を攻め、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ
た。これにより、建武の新政はわずか2年で終わった。

 後醍醐天皇は吉野で朝廷をつくり、南朝とし、足利尊氏
光明天皇をたてて、京都で朝廷をつくり、北朝とし、この
ような状態は3代将軍の足利義満が合一するまで約60年
間続き、南北朝時代という。

 1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、京都に
幕府を開き、室町時代が始まる。室町幕府は3代将軍の
足利義満のときに京都の室町に花の御所をつくってその
体制がととった。
 
室町幕府のしくみ

 室町幕府のしくみは鎌倉幕府のしくみとほぼ同じで、執権の代わりに管領をおいた。管領は北条氏のように一族だけではなく、
細川氏、斯波氏、畠山氏の守護大名とよばれる一族が交代でついた。

 守護大名は、南北朝時代の動乱を通じて地頭などの武士を家来にして自分の領地にしていった武士である。細川氏、山名氏、
大内氏、赤松氏などが有力な守護大名で、後の守護大名の対立は応仁の乱の原因ともなる。

 また、鎌倉には鎌倉府をおいた。
2.勘合貿易と応仁の乱
 足利義満は、1392年に南北朝を統一した後、中国の明と貿易を行なった。貿易を行なう際、倭寇とよばれる海賊と区別する
ために、勘合という合わせ札を使用したことから勘合貿易とよばれる。

 勘合貿易の主な輸入品は、銅銭、生糸、絹織物、陶磁器、書画、主な輸出品は、金、銅、刀剣、よろい、いおう、蒔絵・扇・硯
などの工芸品であった。

 義満は京都の北山に金閣寺を建てるなど、室町幕府の安定と栄華をもたらした。これを北山文化という。

 1467年、8代将軍である足利義政の後継ぎ問題をめぐり、守護大名の細川勝元と山名宗全(持豊)が東軍と西軍に分かれ
て、京都を舞台に戦乱となり、約11年間続く応仁の乱が始まった。

 応仁の乱によって、京都は焼け野原となり、また幕府の財政も悪化すると同時に幕府の力が衰えた。幕府の権威が弱くなる
と、その権威に頼っていた守護大名の権威も落ち、守護大名の家臣であった武士が領地を支配し始め、大名になっていった。
これが戦国大名である。今まで下にいた者が実力で上のものを倒すことを下克上といい、この下克上がさかんに行なわれた
時代を戦国時代という。戦国時代は応仁の乱から約100年間も続いた。
3.室町時代の産業と民衆の自立
 農業では、鎌倉時代から始まった二毛作は、室町時代
なると関東まで広がり、西日本の先進地域では米→麦→
そばを育てる三毛作を行なう地域もでてきた。また、みかん、
茶、綿を栽培する原料作物をつくるところもあった。

 工業では、全国各地に特産物がつくられるようになり、
京都西陣の絹織物、尾張(愛知県)瀬戸の陶器、灘(兵庫
県)の酒、三河(愛知県)の木綿などがある。

 商業では、鎌倉時代では月に3回の定期市(三斎市)が、
6回の六斎市になるところもあり、取引として、勘合貿易
で輸入された銅でてきた明銭が使われた。

 鎌倉時代からあった土倉や酒屋といった金融業が宋銭、
明銭を使った高利貸しとして京都・奈良を中心に繁盛した。

 鎌倉時代に、陸上輸送を行なっていた問丸は問屋(といや)
とよばれ、輸送だけではなく、商品を卸したり、宿を経営する
ようになっていった。また、陸上輸送に馬を使う馬借や牛に
荷車を引かせる車借もあらわれた。
各地の主な特産物

 産業の発展は都市の発展へとつながっていった。奈良、京都、鎌倉は政治の中心地として栄え、特に京都は、応仁の乱の後は
町衆とよばれる商人たちによって復興させ、自治まで行なった。

 滋賀県の坂本は延暦寺のふもと、三重県の宇治山田は伊勢神宮、長野は善光寺を中心に寺社にできた都市で門前町という。

 福岡県の博多、大阪府の堺は、勘合貿易の貿易港として栄え、港町という。

 山口は勘合貿易で利益を得た大内氏の町として栄えた都市として城下町という。

			戦国時代末期の京都(模型)

国立歴史民俗博物館

			
			

 農業や都市、産業が発展するにつれて、農村では惣(そう)という自治組織をつくり、自分たちで村を運営する惣村があらわれる
ようになった。惣村では寄合という会議を開き、村のおきてをつくり、時には団結して領主に税の負担の軽減を求めたり、要求が
受け入れられないと土一揆とよばれる抵抗を行なった。

 土一揆とは、農民や商工業者、下級武士など土民とよばれる人たちが主体となり、領主や土倉・酒屋に対して武装して暴力に
よって要求した。

 1428年、近江(滋賀県)の馬借が蜂起をきっかけに、山城(京都府)さらには近畿地方一帯に波及した土一揆で、酒屋・土倉・
寺院などを破却し幕府に借金を取り消させる徳政令を求めた。これを正長の土一揆といい、徳政令を求める土一揆を徳政一揆
という。徳政一揆はこの一揆のほかに、1441年の嘉吉の土一揆が大規模な一揆であった。

 1485年、国人とよばれる有力な武士と土民が南山城(京都府南部)で、守護大名であった畠山氏の軍を退陣させ、36人の国人
が8年にわたって支配した。これを山城の国一揆といい、国人が守護大名を追放して、自分たちで支配する一揆を国一揆という。

 1488年、加賀(石川県)の一向宗(浄土真宗)の守護の富樫氏を滅ぼして、国人・僧侶・農民の寄合による自治が約100年間も
続いた。これを加賀の一向一揆という。
4.室町時代の文化
 室町時代の文化は、前の鎌倉時代の武士の文化に貴族の文化がまじりあい、中国の元や明、禅宗
の影響を受け、簡素で趣のある、深い味わいのある文化である。また、応仁の乱で京都での戦火を
逃れた文化人が地方でその文化を広めたり、民衆の文化も生まれるようになった。

 室町時代の文化は、大きく2つに分かれ、1つは足利義満のころで、北山に建てられた金閣寺に代表
される北山文化と、もう1つは足利義政のころで、東山にある現在の和室の原形となる書院造をもちい
た銀閣寺に代表される東山文化に分かれる。

 文学では、南北朝時代に、南朝の貴族である北畠親房が歴史書である「神皇正統記」を書き、南朝
の正当性を主張し、歴代の天皇の業績が書かれている。また、南朝の立場で、鎌倉幕府の滅亡から
南北朝の動乱までを描いた軍紀物である「太平記」もある。

 短歌の上の句と下の句を数人でつなげていく連歌が行なわれるようになり、宗祇が大成し、正風連歌
とよばれた。

 庶民の物語として、「一寸法師」、「浦島太郎」、「さるかに合戦」、「ものぐさ太郎」など短編物語である
お伽草子が生まれた。

 仏教では、禅宗が幕府に保護され、武士や庶民に広まり、また、鎌倉時代におこった新しい宗派も  金閣寺

ゆんフリー写真素材集
 
銀閣寺

列島宝物館
それぞれ信者を増やしていった。

 絵画では、中国から伝わってきた、墨の濃淡や強弱で風景などを描く水墨画がはじめられ、禅宗の僧であった雪舟が大成
した。

 芸能では、足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥の父子が、もともと社寺の祭礼に奉仕する猿楽能に、農民の間で伝統的
に行なわれていた田楽を取り入れ、能楽として大成させた。世阿弥が書いた芸術論として「風姿花伝」がある。さらに、能の演技
の合間に演じられた滑稽で短い劇である狂言も生まれた。

 その他の芸術として、鎌倉時代に栄西が宋からもたらした茶が日本でも栽培されるようになり、禅宗の僧や武士、堺の商人たち
の間で「侘び茶」として広まっていった。また、生け花である華道も足利義政の時代あたりに大成された。

 寺院では、建物そのものだけではなく、水を使わずに砂と石で自然の山水をつくる枯山水とよばれる庭園もつくられた。

 庶民の間では、京都の祇園祭や各地の盆踊り、正月や節句などが盛んに行なわれるようになった。
1.ヨーロッパ人の渡来
 室町幕府が力を弱め、戦国大名が分国法という独自の法律をつくって領地を統治していく中、ヨーロッパでは、
ポルトガル・スペインを中心に、植民地や資源を求めて、国家的な事業として航海や探検を行なう大航海時代
であった。

 1543年、ポルトガル人の乗っていた中国船が種子島(鹿児島県)に漂着し、鉄砲が日本に伝わった。その後、
九州、堺などの鉄砲鍛冶のてによって大量に生産されることになる。また、今まで鎧やかぶとを身につけて、
一騎打ちによる個人戦から、足軽からなる鉄砲隊の集団戦法に変わり、城のつくりかたも山に築く山城から
平地に築く平城へと変わった。

 1549年には、スペインの宣教師のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えた。キリスト
教は九州、近畿地方に広まり、大友宗麟(そうりん)、大村純忠、有馬晴信の九州のキリシタン大名が、伊東
マンショら4人の少年使節をローマ法王に送った。
 ポルトガル人やスペイン人は、南方から来たということで南蛮人とよばれ、戦国大名と貿易を行なった。主な輸入品は生糸、鉄砲、
火薬、絹織物、香料、主な輸出品は銀、刀剣、漆器、工芸品、硫黄などであった。
2.安土桃山時代
 尾張(愛知県)の小大名であった織田信長は、桶狭間
の戦い(愛知県)で駿河(静岡県)の今川義元を破り、
1573年には室町幕府の15代将軍足利義昭を京都から
追放し、室町幕府を滅ぼした。

 また、1575年に足軽による3000丁の鉄砲隊を編成し、
徳川家康とともに長篠の戦い(愛知県)で騎馬隊で知ら
れる甲斐(山梨県)の武田勝頼を破り、近江(滋賀県)に
安土城を築いた。

 さらに、信長に反対する仏教勢力を弾圧し、特に延暦
寺を焼き討ちにしたことは有名。反面、貿易の利益も
あいまってキリスト教を保護した。
 信長は、経済を発展させるために、楽市・楽座の制度をつくり、自由に商売を行なえるようにした。

 1582年、信長は全国統一の寸前で、家臣の明智光秀によって本能寺の変で殺されてしまう。

 信長に仕えていた豊臣秀吉は、山崎の戦い(京都府)で明智光秀を破り、信長のあとを継いで大阪城を築いた。
その後、関白・太政大臣につき、1590年、小田原(神奈川県)の北条氏を破り関東を平定し、東北の伊達政宗
したがえて、全国を統一した。

 秀吉は、「ますや「ものさし」」の単位を統一して、田畑の面積や収穫高を調べ、それを石高で表する検地(太閤
検地)を行い、農民は秀吉を中心とする大名の支配下に入り、今までの公家や寺社の権利を消滅させると同時に
農民を農地にしばりつけ、さらに刀狩を実施して一揆を防ぐとともに、武士と農民の区別を明確にした。
 
楽市楽座の札

国立歴史民俗博物館
 秀吉は、キリスト教を最初は保護したが、布教とともに日本を植民地化するのではと疑い、キリスト教を禁止、宣教師を追放
した。しかし、貿易は行なわれたので、不十分であった。
 
 秀吉の全国統一は国内だけではなく、中国の明も支配しようと考え、朝鮮に打診をしたが朝鮮はこの要求を拒否したため、
1592年に朝鮮に出兵を行なった(文禄の役)。その後講和を開いたが失敗し、1597年に再び朝鮮に出兵を行なった(慶長の
役)が、1598年に秀吉の死によって中断された。
3.桃山文化
 新興してきた戦国大名や大商人の気風を反映した、雄大で豪華な文化が特徴である。また、南蛮貿易に
よるヨーロッパの影響も受けている文化でもある。

 城郭建築では、鉄砲の伝来により、山城から平城に変わったことから、天守閣をもった雄大な城が建てられ
るようになり、安土城や大阪城、姫路城などが代表的であり、特に、姫路城は白鷺(しらさぎ)城ともよばれ、
世界遺産に登録されている。

 そうした城や屋敷の壁、ふすま、屏風などには障壁画が描かれ、大和絵に水墨画の技法を融合した狩野派
の狩野永徳の「唐獅子図屏風」は有名。また、その弟子の狩野山楽も活躍した。

 室町時代に広まった侘び茶は、千利休によって茶道として大成された。ただし、千利休は後に秀吉の怒りを
かい、自殺することになる。

 秀吉が朝鮮出兵を行なった際、連行してきた陶工によって新しい陶磁器の技術が伝えられ、各地で生産され
るようになった。有田焼、伊万里焼(佐賀県)、萩焼(山口県)、薩摩焼(鹿児島)などがある。

 芸能では、出雲大社の巫女であった出雲阿国(おくに)が阿国歌舞伎とよばれる歌舞伎踊りを全国各地に
興行し、江戸時代の歌舞伎のもとになった。
姫路城(白鷺城)  KYRIさん

大阪城 なんち。さん
(フォトライブラリー)
1.江戸幕府の成立としくみ
 三河(愛知県)の小大名の子として生まれた徳川家康は、織田信長と豊臣秀吉の全国統一を
たすけ、江戸(東京)を拠点としていた。

 秀吉の死後、家康は豊臣氏をもりたてようとする石田三成と対立し、1600年、関ケ原の戦いで
三成を破り、全国の大名を従えた。

 1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開き、1867年までの約260年間を江戸
時代という。

 幕府は、全国の約4分の1を直接支配する幕府領(天領)と大名領(藩)、皇室、寺院・寺社の
領地に分け、幕府の命令を守らせながら土地と人民を支配させた。これを幕藩体制という。
 幕府領は全国の石高の約15%を占め、江戸・大阪・京都・長崎などの主要都市のほか、佐渡・
生野などの主要鉱山も幕府領としていた。
 

江戸時代中期頃の人口の割合

 幕府は大名を、徳川氏一族である親藩、関が原の戦い以前から徳川氏の味方であった譜代、関が原の戦い以降に徳川氏に
したがった外様の3つに分け、関東、東海、近畿などの重要な地域には譜代、遠くて不便な地域には外様を配置した。また、親藩
では、尾張藩(愛知県)、紀伊藩(和歌山県)、水戸藩(茨城県)を御三家とよんだ。
 また、将軍が直接支配する家臣を旗本・御家人といい、旗本は領地が1万石に満たない者で将軍に会える者で、江戸時代中期
ごろには約5000人ほどいた。御家人は将軍には会えず、領地はもらえず、幕府から米を支給される下級の武士で、江戸時代中期
ごろには約17000人ほどいた。
 
 家康は、将軍職を子の秀忠にゆずった後、1614年に大阪冬の陣で大阪城の豊臣秀頼を攻め、
翌年の1615年に大阪夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼした。

 同じ1615年、秀忠は、大名をとりしまる法律として武家諸法度を定め、新しく城を築くことや幕府
の許可なしで大名が結婚することを禁止させ、これに反した大名は領地を取り上げられ、家もとり
つぶした。
 また、朝廷に対しては、禁中並公家諸法度をだして、天皇は政治に関与せず、学問に励むよう
にさせた。

 さらに、家光が3代将軍になると、参勤交代が制度化され、大名の妻子を江戸に住まわせ、大名
は1年ごとに領国と江戸を往復させた。大名行列や江戸の藩邸の経費を使わせて、大名の財力を
弱めさせ、幕府に反抗しないようにさせることが目的で、反面、江戸や宿駅の繁栄をもたらした。
この頃に、江戸幕府のしくみが整っていく。
 
大阪冬の陣

国立歴史民俗博物館
参勤交代

江戸東京博物館
江戸幕府のしくみ

 重要な役職には、徳川氏の家臣である譜代や旗本がつき、外様はそうした役職にはつけなかった。

 身分制度は、士農工商とよばれる支配が行われ、士である武士は苗字と帯刀が許され、「切捨て御免]という特権が与えられた。
また、士農工商よりも低い身分も存在した。(士…武士、農…農民、工…職人、商…商人)

 農民の支配として、5戸を1組に、1戸でも年貢を納めないと他の4戸も罰する五人組の制度を整わせ、連帯責任で年貢を
納めさせた。また、1649年には慶安のお触書を定め、農民の地上生活を厳しくし取りしまったり、年貢の確保のために、田畑の
売買を禁止したり、米以外の作物の栽培を制限した。
 農民は収穫の4~5割の年貢を納め、四公六民または五公五民とよばれた。
 農民はさらに、検地帳に土地所有者として記載される地主・自作農の本百姓と地主から検地帳の記載がなく、土地を借りて耕作
する小作農の水のみ百姓とに区別された。五人組をつくるのは本百姓のみであった。また、本百姓の中から村の責任者で年貢を
代官に納める名主・庄屋、それを助ける組頭が選ばれ、名主・庄屋がきちんと年貢を納めているかどうかを見張る百姓代を設置し
た。農民は米以外の年貢のほか、街道近くの村であれば大名行列の際に、馬や人を負担する助郷役とよばれる負担や、将軍の
旅行の際には特別な税を負担した。
2.鎖国への道
 幕府は、スペイン人やポルトガル人がキリスト教の布教を通じて日本を占領しようとしているのでは
ないかと考え、国内でのキリスト教を取り締まり、1624年にはスペインと国交を断絶し、1635年には
日本人の海外渡航や帰国を禁じた。

 秀吉から家光までに、商人に朱印状とよばれる渡航許可の証書をもった貿易船による朱印状貿易
が行われ、主な貿易先である東南アジアで日本町がつくられた。
 主な輸入品は生糸、絹織物、綿織物、砂糖など、主な輸出品は銀、銅、硫黄、刀剣などであった。

 1637年、九州の島原・天草地方の農民は、こうした禁教と重税から天草四郎時貞を大将に一揆を
おこした(島原の乱、島原一揆、島原・天草一揆)。
 
 幕府はこの乱を
しずめた後、踏絵
などによるキリスト
教の取締りを強化
した。
出島

国立歴史民俗博物館 現在の出島

gootaroさん(フォトライブラリー) 踏絵

国立歴史民俗博物館
御朱印船

国立歴史民俗博物館

島原城

たかさん(フォトライブラリー)
 1639年には、ポルトガル人の来航を禁止し、これによって鎖国が完成する。

 鎖国後の幕府は、キリスト教の布教を行わないオランダと中国(清)だけに長崎で貿易を行い、長崎の出島にオランダ商館
を移した。

 長崎貿易での主な輸入品は、生糸、絹織物、毛織物、木綿、薬品、人参、砂糖、書籍で、
主な輸出品は銀、銅、金、海産物などであった。

 朝鮮とは、対馬の宗氏が貿易を行い、将軍が交代するたびに朝鮮通信使が来日した。

 中国・日本・東南アジアとの貿易で栄えていた琉球王国とは、薩摩藩が17世紀の初めに
支配下において、年貢を納めさせ、貿易の利益を独占した。
生糸

国立歴史民俗博物館
 北海道の蝦夷地では、松前藩がアイヌ人に不利な取引を行い、シャクシャインはアイヌ人を率いて松前藩と戦ったが敗れた。
3.産業の発達
 陸の交通として、江戸の日本橋を起点に東海道(京都まで)、
中山道(京都まで)、甲州街道(下諏訪まで)、日光街道(日光
まで)、奥州街道(白河まで)の五街道が整備され、治安維持の
ために関所を50数ヶ所おいて旅人をとりしまった。
 街道には、1里(約4km)ごとに路程標となる一里塚や宿場が
つくられ、宿場には大名の宿泊所である本陣・脇本陣、庶民が
宿泊する旅籠(はたご)、茶店、馬やかごなどがおかれた。

 海の交通として、日本海側から津軽海峡を通り、江戸に荷物を
運ぶ東回り航路、日本海側から下関を通り、大阪に荷物を運ぶ
西回り航路が開通し、江戸と大阪間に年貢や特産品などをを運
ぶ菱垣(ひがき)廻船や樽(たる)廻船が運行した(菱垣廻船は
樽廻船に押されていった)。
菱垣廻船

	江戸東京博物館

五街道と海上航路

白地図テスト
 商業では、貨幣が大量に出回り、全国で通用するようになると、小判(金)と銀貨を交換し、その手数料を取る両替商が
あらわれ、今の銀行にあたるものがでてきた。

 また、江戸や大阪の蔵屋敷に運ばれた商品を売る商人もあらわれ、江戸では差札(さしふだ)、大阪では蔵元・掛屋と
よばれた。
 商工業者は株仲間とよばれる同業者組合をつくり、営業を独占した。商人の中には、三井・住友といった大商人も現れる
ようになった。

 農業では、年貢の収入を増加させるために、新田開発
を進めると同時に、農具の開発も行われた。

 土を深く耕せる備中ぐわ、脱穀の能率を向上させる
千歯こき、米の選別農具である千石どおしなどが代表
的である。

 この他に、油かすやいわしを干した(ほしか)ものを
肥料として、金銭を払って使われていった。これを金肥
という。
千歯こき

	千石どおし
	備中ぐわ

 米が増産される中、米以外にも綿、麻、なたね、藍などの商品作物の生産もさかんになり、養蚕も広まり、生糸も作られる
ようになった。

 交通の整備や産業の発展とともに、各地で都市が発達し、宿場町、門前町、港町が形成されていく。特に、「将軍のおひざもと」
とよばれた江戸、朝廷のある京都、「天下の台所」とよばれた大阪は三都とよばれた。
江戸時代の江戸

		国立歴史民俗博物館

 

			江戸東京博物館

4.元禄文化
 5代将軍綱吉の時代のころ、上方とよばれた大阪・京都を中心に、自由な町人の気風を反映した、明るく元気な活気
あふれる文化が栄え、元禄文化という。

 文学・芸能では、室町時代にあった絵入り本の「お伽草紙」を井原西鶴が当時の
町人の生活を描いた小説で、大人向けの浮世草子をはじめ、「日本永代蔵」、
「好色一代男」などがある。
 俳諧(俳句)では、松尾芭蕉が、旅日記である「奥の細道」を通して、室町時代
流行った連歌の最初の五・七・五の部分を独立させ、芸術にまで高めた。
 また、人形で劇を演じさせながら、三味線に合わせて物語を進めていく人形浄瑠璃
という芸能が生まれ、脚本作家であった近松門左衛門の義理と人情をテーマにした
「曽根崎心中」や「国姓爺合戦」が代表である。
松尾芭蕉

東京都江東区
 美術では、浮世絵とよばれる絵画があらわれ、今までの仏や昔の人物や出来事を描いていた絵画ではなく、当時の人物
や風俗などを描いた。菱川師宣によって大成され、「見返り美人」がその代表である。浮世絵は、はじめは画家が筆で描く
肉筆画であったが、元禄時代になって木版画による大量生産が可能になった。
 装飾画では、俵屋宗達の「風神雷神図」がこの文化の中で描かれ、緒方光琳によって大成された。

		

俵屋宗達「風神雷神図屏風」 菱川師宣「見返り美人」
東京国立博物館
1.江戸幕府の政治改革
 鎖国による国内政治は安定したものの、幕府の運営にはばく大なお金
を必要とした。5代将軍綱吉は忠孝・礼儀を重視した政治を行った反面、
1685年に生類哀れみの令という極端な動物愛護令を出したり、寺院の建
設やぜいたくな生活などを行い、また、質の悪い貨幣を発行したため、
物価が上昇し、この頃から、幕府の財政は悪化していった。

 綱吉の死後、学者の新井白石が改革にのりだし、生類哀れみの令を
廃止し、貨幣の質を戻した。また、長崎新令を定め、中国とオランダの貿易
を制限して輸出を増やし、金銀の流出を防ごうとした。これを正徳の治とい
う。 徳川綱吉の筆

写真:東京国立博物館
 徳川吉宗が8代将軍になったころ、旗本や御家人に支給する米も不足していた。そこで吉宗は、質素・
倹約を強制する倹約令を出し、大名からは参勤交代の期間を1年から半年に短縮する代わりに100万石
につき1万石の割合で米を上納させる上げ米を行った。また、農民に対しては、年貢を収穫の四割を年貢
としていた四公六民から五公五民に負担を重くし、新田開発も進めた。吉宗は米を中心に改革を行った
ことから「米将軍」ともよばれた。

 吉宗はこの他にも、民衆からの声を聞く目安箱を設置したり、キリスト教以外の洋書の輸入の制限を緩和
し、青木昆陽の意見を取り入れ、ききんに備える甘藷(さつまいも)の栽培を普及させた。また、株仲間の
結成を認めたり、裁判の基準となる公事方御定書を定めた。
 
 吉宗による政治改革を享保の改革という。
 一時は幕府の収入が増加し、財政は立ち直ったが、享保の大ききんが起こり、年貢の負担が重くなった
農村では百姓一揆が発生し、米の値段が上昇し、江戸では初めての打ちこわしが起きた。
 
 1772年、側用人から老中になった田沼意次は、幕府の財政を立て直すために、今までの緊縮政策から
商業と結びついて積極的な産業振興を行った。株仲間を奨励し、そこから税を取り、長崎貿易で輸出を増
やし、商人の経済力の利用を図った。また、手賀沼や印旛沼(千葉県)の干拓や蝦夷地の開発を計画した。
印旛沼

	手賀沼
	三井越後屋江戸本店
	

江戸東京博物館
しかし、商人とのわいろが横行し、政治は乱れ、浅間山の噴火や天明の大ききんも起こって、世情不安が
高まり、10代将軍の家治の死とともに失脚した。
 
 1787年に、徳川吉宗の孫である松平定信が老中になり、改革を行った。1789年に旗本・御家人の救済策
として、武士の借金を帳消しにする棄捐(きえん)令を出すと同時に、ききんに備えて各藩に米を蓄えさせる
囲い米の制を定めた。
 また、翌年の1790年に、身分秩序を重視する朱子学を正学とし、それ以外の学問(異学)を幕府が直轄す
る学問所(昌平坂学問所など)で教えることを禁じ、寛政異学の禁とよばれた。さらに、風俗を乱す洒落本や
好色本、政治批判や時事風刺を行う出版物を禁じる出版統制令も出した。

 松平定信による政治改革を寛政の改革という。
 保守的な性格が強く、改革がぎびしすぎたので失敗に終わった。

 1833年に天保の大ききんが起こり、米の値段が急上昇したので、各地で打ちこわしや百姓一揆が多発して
いった。大阪の町奉行所の役人であった大塩平八郎は、生活に苦しむ人たちを救おうと、1837年、大阪で
反乱をおこした。乱は1日でしずめられたが、幕府内部の者が乱を起こす事件の影響は大きかった。

 12代将軍の家慶(いえよし)の老中となった水野忠邦は、幕府の財政の立て直しを図った。
 1841年に、物価を引き下げるために株仲間を解散させ、2年後の1843年には人返しの法を出し、江戸に
流入している農民を強制的に帰農させ、農村の再建を図った。また、この年に江戸・大阪周辺の大名や旗本
の領地を幕府の直轄領にしようとする上知令を出したが、大名・旗本の反対にあい、忠邦は失脚し、改革も
失敗に終わる。
 水野忠邦の改革を天保の改革という。
 この改革の失敗以降、幕府の力は急速に弱まっていく。
2.学問の発達と化政文化
 武士や庶民は学問を学ぶようになり、学問の発達がみられた。
 多くの武士は、主人に忠誠を重んじ、親に孝行する上下関係の道を説く儒学を学び、中でも、忠義や孝行
を重んじ、身分の上下関係を大切する朱子学は封建社会に適していたことから、幕府にとりたてられた。
 昌平坂学問所のような幕府の学校や藩で運営する藩校もつくられ、朱子学を中心に教育が行われた。

 庶民では、江戸時代の中ごろから、浪人や僧による寺小屋がつくられ、農民や町人の子どもに「読み・
書き・そろばん」などを教えた。江戸時代の末期には、1万以上の寺小屋がつくられた。
寺小屋のようす

	国立歴史民俗博物館

 新しい学問として、江戸時代の中ごろに、仏教や儒教が伝わる以前の日本人の思想を明らかにしようと
する国学が生まれ、本居宣長は「古事記」や「万葉集」を研究して「古事記伝」を著し、国学を大成した。
 
 8代将軍の徳川吉宗がキリスト教以外の洋書の輸入を緩和したため、
オランダ語を通じて西洋技術や文化を研究する蘭学が発達し、のちに
洋学とよばれるようになった。
 
 杉田玄白と前野良沢らは、オランダの人体の解剖書である「ターヘル
=アナトミア」を日本語に訳して「解体新書」を著した。
 平賀源内は寒暖計や静電気を起こす発電機であるエレキテル(起電機)
を発明した。
 
 伊能忠敬は西洋の天文学や測量術によって、現在の地図とほとんど
変わらない正確な日本地図である「大日本沿海輿地全図」をつくった
(完成は忠敬の死後)。
 
 オランダ商館医であったシーボルトは、長崎の郊外に鳴滝塾を開き、
医学を教えたが、国外持ち出し禁止の日本地図を入手したため(シー
ボルト事件)、国外追放された。

 この他にも、水戸(茨城)藩主であった徳川光圀が命じた「大日本史」に
よる歴史学や、高等数学の理論を展開した関孝和の和算、農作物の栽培
技術を紹介した宮崎安貞の「農業全書」などがある。

 11代将軍家済のころ、江戸の町人を中心に「滑稽(こっけい)」や「皮肉」
を好んだ文化がさかんとなり、化政文化とよばれる。
解体新書の扉絵

国立歴史民俗博物館

伊能忠敬

富岡八幡宮(東京都)

深川江戸資料館(東京都)
江戸時代の江戸のようす

			
			

深川江戸資料館(東京都) 江戸東京博物館
 文学では、十返舎一九が、喜多八と弥次郎兵衛の2人を主人公に、
東海道で旅道中をしながら、庶民の生活をこっけいに描いた「東海道
中膝栗毛」があり、滑稽本とよばれた。。また、読本とよばれる読む
文章を主体とする小説のようなものがあらわれ、滝沢馬琴が勧善懲悪
(善が悪をこらしめる)を主張した「南総里見八犬伝」を残した。

 俳諧では、元禄文化の松尾芭蕉の後、新しい歌風が生まれ、与謝蕪村
や小林一茶が活躍した。他に、川柳は俳諧の形式で、狂歌は短歌の
形式で、世の中を皮肉る作品も生まれた。
滝沢馬琴

			

江戸時代の本屋
  東海道中膝栗毛

			

洒落本 滑稽本 江戸東京博物館

 絵画では、浮世絵が多色刷りされ、喜田川歌麿の美人画や葛飾北斎の「富獄三十六景」、安藤広重の
「東海道五十三次」が生まれた。

			江戸東京博物館

葛飾北斎 富岳三十六景 東海道五十三次
1.鎖国から開国へ
 18世紀の末ごろから、ロシアの船が日本に接近するようになり、1792年には、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、
幕府に通商を求めてきたが、鎖国の日本はこれを拒否した。

 1804年には、ロシア人のレザノフが再び日本との通商を求めてきたが、日本はこれもまた拒否する。

 ロシアの接近にともない、幕府は蝦夷地を直轄し、間宮林蔵らに千島・樺太を調査させ、間宮海峡を発見する。

 英仏戦争の影響を受け、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ(当時はフランスの属国)の船を捕獲の目的で長崎湾
に進入し、燃料や食料を強奪していった。これをフェートン号事件といい、これ以降も外国船が日本の近海で問題を起こす
ようになり、幕府は1825年、清とオランダ船以外の船は撃退する外国船打払令を出した。

 1837年、アメリカのモリソン号は漂流民返還と通商を目的に日本に来航したが、外国船打払令のために、撃退される
モリソン号事件が起き、この事件を批判した渡辺崋山や高野長英らを幕府は処罰した。これを蛮社の獄という。

 1840年、清がアヘン戦争でイギリスに破れ、不平等条約である南京条約を結ばれたことから、幕府は外国船打払令の
危機と海外情報の収集の必要性を知り、1842年、水野忠邦の下で、外国船打払令を緩和して、薪水給与令を出した。
 
 1853年、アメリカの使節ペリーが神奈川県の浦賀に4隻の軍艦を率いて来航し、開国をせまった。幕府は大名の意見
を聞くとして、結論を出さなかった。

 翌年の1854年、再びペリーが日本に来航し、幕府との間に日米和親条約を結ぶ。
 この条約によって、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港が開港し、アメリカ船に必需品の供給などを約束し、約260年
続いた鎖国が終わった。

現在の浦賀 黒船の来航 ペリーの横浜上陸 ペリー

			

国立歴史民俗博物館 横浜開港資料館 入口モニュメント 江戸東京博物館
 
黒船
イラスト:「海の素材屋」さん
 このころから、天皇をうやまい(尊王)、外国を打ち払おう(攘夷)とする尊王攘夷運動がさかんになってくる。
 1858年には、大老の井伊直弼が天皇の許可
を得ずに、アメリカ総領事であったハリスとの間
で日米修好通商条約を結び、函館、新潟、神奈
川、兵庫、長崎の5港を開港し、貿易が行われ
た。

 ついで、オランダ、ロシア、イギリス、フランス
とも同じような条約を結び、これを安政の五か国
条約という。

 これらの通商条約は、治外法権(領事裁判権)
を欧米諸国に認め、関税自主権がない不平等
条約であった。

治外法権
 日本国内で外国人が犯罪をしても、日本の
裁判所で裁判ができず、その国の領事が裁判
する権利のことで、日本に不利な場合が多かっ
た。

関税自主権
 輸入品の関税率を決めることができる権利の
ことで、この権利がない場合、外国から安い商
品が国内で流入することになり、国内産業に
とって不利になる。

 開国後の日本の主な輸入品は毛織物、綿織
物、武器、軍艦、などで、主な輸出品は生糸、
茶、蚕卵紙、海産物などであった。
開国に関係する港

 生糸や茶の輸出に増加により、生産が追いつかず、国内では品不足が生じたため、物価が上がり、生活を苦しめる
ことにもなったので、幕府に対する反感も生まれてきた。
2.江戸幕府の滅亡
 
 井伊直弼の専制に不満が高まり、それらに反対した尊王攘夷派の吉田松陰や松本左内らを直弼は処罰し、これを
安政の大獄という。
 このため、直弼は1860年、江戸城の桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。

 尊王攘夷派は、欧米列強の力を見せつけられていくうちに、攘夷をあきらめ、天皇中心の政治と倒幕へと考え方を
変えていく。
長州藩 薩摩藩
 1863年、攘夷を理由に、下関を通過するアメリカ、フランス、
オランダの艦隊を砲撃。これを下関事件という。

 その翌年の1864年、下関事件の報復として、イギリス、フラ
ンス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、
下関砲台を占領した。
 この事件により、長州藩では開国を主張するようになった。  1862年、薩摩藩の島津久光の江戸からの大名行列の
際に、横浜の生麦でイギリス人が行列に対して非礼な行
為をしたとして、殺傷する生麦事件が起こる。

 翌年の1863年、その報復として、イギリス艦隊が鹿児島
に来航し交戦する薩英戦争が起き、薩摩藩は攘夷の無謀
を知り、交戦の講和以降、両者は接近していった。
下関砲台

	画像元

生麦事件跡

	

 長州藩と薩摩藩は、攘夷論や公武合体論(朝廷と幕府の提携による政治)など、それぞれの考え方と立場があり、対立して
いたが、1866年、土佐藩(高知県)の坂本竜馬の仲立ちで薩長同盟が結ばれ、この同盟によって、長州藩の木戸孝允、高杉
晋作、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らを中心に、尊王攘夷から倒幕の運動がはじまる。

 民衆の動きとしては、1856年、岡山藩の士農工商よりも低い身分の人たちが、日ごろの差別に加え、着物の色にも差別しよう
としたため、一揆を起こし、その命令を取り消させる渋染一揆が起きた。

 また、開国による物価上昇で生活苦を強いられていた農民や町人は、新しい政治を期待して「世直し」をさけび、世直し一揆や
打ちこわしを行うようになり、1867年には、伊勢神宮を初めとする神々のお札が空から降ってきたとして、「ええじゃないか」と
言いながら乱舞した。

 幕府はついに、1867年、倒幕派との内戦を避け、新しい政治体制のもとで幕府の実権を保つことをねらい、元土佐藩主の
山内豊信の意見を受け入れ、15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返す大政奉還を行った。これにより、約260年続いた
江戸時代が滅び、約700年続いた武士による時代が終わった。
3.産業の発達
 農村では、農民は農業を営む合間に、副業として手工業品を作ることもあった。これを農村家内工業という。

 18世紀になると、問屋商人が原料や器具を農民に前貸しし、製品を買い上げるようになり、絹織物業や綿織物業を中心に
19世紀にかけて発達していった。これを問屋制家内工業という。

 19世紀になると、農村や町などから労働者を工場に集めて、分業による手工業生産を行うようになった。大阪周辺や尾張
の綿織物業や桐生(群馬県)・足利(栃木県)の絹織物業、川口(埼玉県)の鋳物業などにみられ、工場制手工業(マニュファ
クチュア)という。
1.明治維新
 15代将軍の徳川慶喜は、大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したが、朝廷は行政能力をもっていなかったため、
新政府の下で旧幕府が実質的な政治を行う予定であった。しかし、薩摩藩や長州藩、岩倉具視ら一部の公家で
ある倒幕派は、1867年に徳川慶喜や徳川派の公家を排した王政復古の大号令を出した。

 主な内容として、
  天皇中心による新政府を発足させる。
  将軍・摂政・関白を廃止すること。
  徳川家の領地を朝廷に返上すること。
など旧幕府を廃して、薩長派による新体制の政治であったため、旧幕府との間で衝突が起き、戊辰戦争へと発展
していく。

 戊辰戦争は、1868年に京都の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍で戦いがはじまり、翌年の江戸城の無血開城、
函館の五稜郭の戦いまで続き、終始、新政府軍が勝利していった。

 1868年、戊辰戦争の最中に、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らを中心とする新政府
は、明治天皇が神に誓うという形式で、明治政府の5つの政治方針である、5か条の御誓文
を出すと同時に、国民に対しては、人民の心得を示したものを5枚の立て札で掲げた。これ
を五傍(ごぼう)の掲示という。ただし、その内容は、一揆やキリスト教の禁止など、江戸時代
とほとんど変わらなかった。

 また、年号を明治改め、江戸を東京と改名し、翌年の1869年には、都を京都から東京に
移した。

 新政府は、命令を全国にゆきわたらせるように、中央集権化を図り、1869年に、藩の領地
(版)と人民(籍)を朝廷に返す版籍奉還を行った。しかし、旧藩主が知藩事としてもとの藩を
治めたので、あまり効果がなかった。
西郷隆盛

上野公園
 そこで、新政府は1871年、藩を廃して、府・県をおき、中央政府が任命する府知事と県令を派遣する廃藩置県を
行い、中央集権体制を整えた。

 また、江戸時代にあった士農工商の身分制度を廃止し、四民平等の身分制度に変えた。これにより、国民は職業
や住居は自由に選べ、武士以外であっても苗字を名のることを許された。
 しかし実際は、天皇一族は皇族、公家・大名は華族、武士は士族、農工商は平民という新しい身分制度を生むこ
とにもなった。
2.日本の近代化
 新政府はヨーロッパやアメリカに追いつくために、近代産業をおこして国力をつけ(殖産興業)、軍備の強化して
強い軍隊をつくる富国強兵を目標に掲げた。
 
 近代産業の推進として、国の費用で外国から機械や技師を取り入れ、各地に紡績、
造船、兵器製造などの官営工場をつくり、鉱山も経営した。

 群馬県の富岡製糸場は、フランスから技師を招き、その指導の下で、士族の女子
を女工として集め、近代的熟練工を養成するとともに、質の高い生糸を生産し、海外
に輸出していった。

 また、東京の新橋と横浜の桜木町の間に最初の鉄道が開通した。のちに、大阪と
神戸間、大阪と京都間にも鉄道が開通した。
富岡製糸場

列島宝物館
 通信では、前島密(ひそか)が1871年に近代的官営事業として郵便事業を創設し、全国各地に郵便局を置き、
郵便箱の設置、郵便切手の発行、郵便配達夫の採用を行い、全国に郵便網を広げ、郵便制度を整えた。
 1869年、東京・横浜間に電信線を架設し、電報を開始し、1889年では、東京・熱海間で電話を開始。1900年に
新橋・上野駅に公衆電話が設置された。

 北海道に開拓使を設置し、失業した士族や生活に困った農民を屯田兵としてロシアに対する警備と北海道の
開拓にあたらせた。その一方で、アイヌ人の土地を取り上げたり、日本語を使わせ、日本式の名前をなることを
強制した。

 1872年にフランスの方法を取り入れた学制を出し、国民皆学・教育の機会均等など国民の開明化を明示して、
近代的教育制度を定めた。小学校(尋常小学校)を創設し、6歳以上のすべての男女に4年間の義務教育を受
けさせた(のちに6年になる)。また、同時に中学校(上等・下等で7年)・大学校も創設された。
 しかし、農村では就学によって働き手が失うこと、授業料も自分たちの負担となり、明治初期の就学率は男女
平均で3分の1以下であった。
 
 1873年には、徴兵令を出し、満20歳以上の男子は兵役のにつくことを義務づけた。

 政府は全国の土地を調査し、土地の所有者と地価を決めて、その確認書である地券を所有者に発行した。それ
に基づき、1873年から、土地所有者が豊作や凶作に関係なく地価の3%を租税として現金で納めさせた。この
税制改革を地租改正という。この改正によって、今までの不安定な年貢による税収から安定した税収がかわった。
 しかし、これに反対する一揆が多く、また大規模なものとなり、政府は1877年に3%から2.5%に引き下げた。
3.維新政府の外交
 1871年、岩倉具視を団長とする使節団をヨーロッパ・アメリカの欧米諸国に派遣し、制度や文物を視察させた。
この段階では、不平等条約の改正の交渉はできなかった。

 同じ年に、清との間に日清修好条規を結び、関税の最低率と領事裁判権をお互い認め合う、初の平等条約で
あった。

 1875年、日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で威嚇行為を行い、砲撃を受ける江華島事件が起こり、その翌年、
朝鮮との間に日朝修好条規が結ばれた。日本が領事裁判権の承認と関税自主権を獲得し、不平等条約であった。

 ロシアに対しては、1855年の日露和親条約で国境を千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間とし、樺太は
国境を定めず雑居地としていたが、1875年、日本は樺太を放棄してロシア領にする一方、千島列島全島を日本
の領土とする樺太・千島交換条約を結んだ。

 1876年には、小笠原諸島が日本の領土であることを英米に通告した。また、沖縄については、1871年に鹿児島
県に編入し、翌年には沖縄藩を置き、1879年に沖縄県とした。
4.文明開化
 欧米との関係が深まる中、国民の生活に西洋風の文化が入るように
なり、人々はちょんまげを切り、洋服、帽子、靴を身につけ、赤レンガの
洋館やガス灯、人力車や馬車が通る都市に行き、ビールや牛肉を食べ
るといった、今までの生活や文化が大きく変わり、これを文明開化という。

 人力車の発明によって、江戸時代に使われ
ていた駕籠(かご)は急速に衰退していった。

 また、江戸時代まで使われていた太陰太陽暦
(旧暦)を廃して、太陽暦を採用した。1日を24
時間、週7日制で、日曜日を休日にした。

 レールの上を馬車が走る鉄道馬車は日本橋・
新橋間に開通したが、1903年に鉄道が敷かれ
てからは衰退していった。
 
人力車(神奈川県鎌倉)

 福沢諭吉が著した「西洋事情」や「学問の
すゝめ」は、海外事情を紹介すると同時に個
人の自立や人格の尊厳を主張し、西洋文明
を取り入れ、近代化を目指す明治の思想に
適合しており、このような思想を啓蒙思想と
いった。明六雑誌はその啓蒙思想の紹介や
宣伝に貢献した。

 都市部では文明開化による変化があったも
のの、農村では江戸時代とほとんど変わらな
い生活が続いていた。
福沢諭吉

写真:東京国立博物館

主な文明開化の進展
年 できごと
1868 ホテルが開業する
1869 電信が敷かれる
1870 人力車が発明される
日刊新聞が発行される
1871 郵便制度ができる
牛肉が食べられ始める
1872 学制が発布される
1873 太陽暦が採用される
ガス灯が使われる
鉄道が開通する
「学問のすゝめ」が出版される
1874 明六雑誌が発行される
リスト教が許可される
1876 廃刀令が出される
1877 電話の使用が始まる
1882 鉄道馬車が開通する
文明開化の様子(東京)

			

鉄道馬車と人力車

			江戸東京博物館

1.日清戦争と日露戦争
 1890年以降、綿工業など、繊維工業を中心に軽工業が発展し、第1次産業革命が
始まっていた。

 この頃、日本は朝鮮の支配権などをめぐり、清と対立していた。1894年、朝鮮南部
で農民が反乱し、甲午農民戦争を起こすと、鎮圧を名目に日本、清が軍隊を送り、
日本の朝鮮改革案を清に拒否されると、日本は清に宣戦布告をし、日清戦争が
始まった。

 日清戦争は日本の勝利に終わり、1895年、下関条約が結ばれる。この条約で、
日本は台湾や遼東(リャオトン)半島をゆずりうけ、日本円にして約3億1000万に
なる賠償金2億両(テールを得ることができた。

 しかし、満州や朝鮮進出を考えていたロシアは、フランスとドイツをさそって、遼東
(リャオトン)半島の返還をせまり、日本はこれを受諾した。このロシアの勧告を三国
干渉という。

 日清戦争で得た賠償金の一部で、1901年、福岡県に八幡製鉄所をつくり、重工業の発展をうながした。これを第2次産業革命
という。しかし、第2次産業革命は、工場近隣の農作物に影響を与えたり、女子労働者を低賃金・長時間労働などの問題を引き
起こした。栃木県の足尾銅山鉱毒事件は衆議院議員の田中正造による天皇への直訴は、日本最初の公害事件として、また、
細井和喜蔵の「女工哀史」はこの頃の様子をあらわしている。

 三国干渉によるロシアに対する反感が強まる中、1902年、日本はヨーロッパでロシアと対立していたイギリスと日英同盟を結び、
ロシアに対抗した。

 1904年、満州と韓国(1897年、朝鮮から改称)をめぐって日本とロシア
で日露戦争が開戦した。日本は、東郷平八郎の指揮する海軍が日本海
海戦でバルチック艦隊を破るなど、各地で勝利したが、戦争が長期化す
る中で、日本は兵力が物資が不足し、ロシアでは革命運動がおこった。

 1905年、アメリカの仲立ちでポーツマス条約が結ばれ、日本はロシア
から南満州鉄道の権利や樺太の北緯50°以南を獲得した。また、ロシ
アは韓国指導権を認め、日本は韓国に統監府をおいた。
 ただし、賠償金を得ることができず、それを不満に東京の日比谷で暴動
がおき、軍隊が鎮圧にあたる事件(日比谷焼き打ち事件)がおきた。
東郷平八郎と戦艦三笠

	

三笠公園(神奈川県横須賀)
 1909年、初代韓国統監の伊藤博文が、韓国の青年の安重根(あんじゅうこん)に暗殺される事件がおき、これを契機に日本は
1910年、韓国併合を行い、朝鮮総督府をおいて1945年まで植民地支配を行う。

 日清戦争と日露戦争を通じて、農村では土地を買い集める地主が増え、裕福な地主と貧しい小作人との格差が広がり、小作料
の軽減を求める小作争議が各地でおこった。
 都市では農家の次男や三男や女子が工場で労働者として働き、厳しい労働条件の改善を求めて労働争議も各地でおきた。

 こうした社会的な格差をなくし、平等な社会を求める社会主義の思想が生まれ、社会主義運動として広まっていった。政府は、
1910年、天皇の暗殺を計画したという架空の事件をつくり、首謀者として幸徳秋水らを死刑にして弾圧を行った。これを大逆事件
という。
2.明治時代の文化
 明治時代の文化は、開国の影響を受け、文明開化にみられるように、欧米の文化を多く取り入れた文化である。

 文学では、江戸時代までの戯作(人情本や滑稽本などの総称)や勧善懲悪をやめ、人情や世相をありのままを描こうとする
写実主義が主流となり、坪内逍遥は「小説神髄(しんずい)」で写実主義を主張した。
 二葉亭四迷は、文語体にかわって口語体を取り入れた言文一致体を使い、「浮雲」を著し、近代文学の先駆を果たした。
 森鴎外は、「舞姫」や「高瀬舟」を著し、空想・恋愛を重んじ、感情を優先し、自我や個性の尊重と解放を主張したロマン主義の
作品をつくった。
 樋口一葉は、「たけくらべ」、「にごりえ」を通して、巧みな心理描写で女性の悲しみを表現した。
 島崎藤村は、社会や人間の生活をありのままを描く自然主義の立場で「破壊」や「夜明け前」を著した。詩集の「若菜集」は
近代詩の先駆をなした。
 夏目漱石は「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」で世に出ると、反自然主義の立場をとった。

 与謝野晶子は、ロマン性に富んだ詩を出し、雑誌「明星」に「君死にたもうことなかれ」で、日露戦争を批判する詩を発表した。
 石川啄木は、「一握の砂」で病気と生活苦の中での感情をうたった。
 正岡子規は、写生に基づいた俳句と短歌の革新を行った。

 科学の分野では、北里柴三郎は破傷風の血清療法、ペスト菌を発見。志賀潔は赤痢菌を、鈴木梅太郎はビタミンB1、高峰
譲吉はアドレナリンを発見した。また、長岡半太郎は原子構造の研究に努めた。

 美術では、横山大観は日本画に新しい道を開き、黒田清輝はフランス画風を油絵で伝えた。また、高村光雲は彫刻で活躍
した。

黒田清輝「読書」 横山大観「無我」 東京国立博物館

 音楽では、西洋の音楽を軍歌や学校の唱歌として取り入れ、滝錬太郎は「荒城の月」や「花」などを作曲し、近代音楽を確立
していった。

 近代化を急速に進める政府は外国人教師を多く招き、その中のモースは大森貝塚を発見した。
1.第1次世界大戦と日本の経済
 19世紀のはじめ、ヨーロッパでは、イギリス・フランス・ロシア
などの連合国とドイツ・オーストリア・イタリアなどの同盟国で
植民地をめぐって対立していた。

 1914年、連合国側のセルビアの青年が、サラエボで同盟国
側であるオーストリアの皇太子を暗殺する事件が起きると、こ
れをきっかけに第1次世界大戦がはじまった(イタリアは連合
国側で参戦)。

 日本は日英同盟にもとづくことと、中国のドイツ利権を手に入
れるため、連合国側に参戦し、中国や太平洋のドイツ領を攻撃
した。

 中国では、1911年、辛亥革命とよばれる民主主義革命が
おこり、翌年、清は崩壊し、孫文を中心とする中華民国が成立
した。

 日本は、中国山東省のドイツ軍を追い払った後、山東省の
ドイツ利権を引継ぎを求め、成立ばかりの中華民国に1915年、
二十一か条の要求を出した。中華民国政府の袁世凱はこれ
を認め、利権を拡大した。

第1次世界大戦の頃のヨーロッパの状況

・・・ …連合国側 ・・・ …同盟国側  (国境は現在の区分)
 大戦中、日本はヨーロッパが混乱している中、連合国への軍需品やヨーロッパがもっていたアジアの市場へ製品を大量に輸出
し、好景気となった。特に、造船、海運、紡績業が急成長し、にわかにお金持ちになった成金とよばれる人々が生まれた。これを
大戦景気という。このころから、日本は農業国から工業国へと発展していった。京浜工業地帯や阪神工業地帯ができたのもこの
頃からである。

 1917年、ロシアでは、2度にわたる革命(ロシア革命)がおき、ソヴィエト政権という社会主義政権を誕生させた。新政権はドイツ
と講和条約を結び、休戦し、第1次世界大戦から離脱した。
 しかし、革命の広がりをおそれた各国は、ロシアに出兵し、日本もシベリアに出兵し、1920年までに最大で7万2000人の兵を
駐留させ、戦費は10億円に達した。
 (ロシア革命はそれでも成功し、1922年、世界最初の社会主義国となるソヴィエト社会主義共和国連邦=ソ連が成立した。)

 大戦が終わりかける1918年に、日本のシベリア出兵に対して米の買い占めがおこり、米の値段が急上昇し、物価を上げることに
なった。この状況に、富山県の主婦たちが米屋をおそう暴動がおき、米騒動とよばれ、全国に広がっていった。政府は軍隊を出動
させ、これらをしずめていった。
 大戦はドイツの敗北に終わり、パリで講和会議が開かれ、戦勝国とドイツ
の間でベルサイユ条約が結ばれた。これによって日本はドイツが支配して
いた南洋諸島を手にいることができた。

 しかし、大戦が終わると、ヨーロッパの産業が回復し、日本の輸出は減少
して、倒産が相次ぎ、不景気となった。

 また、日本の植民地支配に反対し、朝鮮では日本からの独立をめざした
三・一独立運動、中国では二十一か条要求がパリ講和会議で認められる
ことに反対した五・四運動がおこった。

 1920年、アメリカのウィルソン大統領の提案で、国際連盟が設立され、
日本は常任理事国となり、新渡戸稲造が事務局次長になった。
ただし、発案国のアメリカは、自国の議会の反対により、加盟しなかった。

 1921年、アメリカでワシントン会議が結ばれ、軍備の縮小とアジア・太平洋
の相互尊重と平和的解決を図る条約が結ばれた。この会議による条約に
よって、日英同盟が廃棄された。

 1923年、関東大震災が発生。首都圏が大きな被害を受け、その混乱の中
大正時代頃の日本の貿易

で、日本に住む朝鮮人や中国人が火災を発生させたと罪をなすりつけて、殺害された。また、同様に、社会主義者や労働組合の
指導者も殺害された。この震災で不景気に一層の拍車をかけた。
関東大震災(新橋付近と絵)

		江戸東京博物館

凌雲鶴(りょううんかく:浅草十二階ともよばれた)
 1890(明治23)年に建てられ、十二階建てであることから浅草十二階ともよばれた。日本
初の電動式エレベータが設置され、浅草のシンボルタワーとして人気を博したが、明治後期
には経営困難に陥った。関東大震災で8階から上が崩壊し、経営困難も加わって軍隊に
よって破壊された。
江戸東京博物館
2.大正デモクラシー
 大正時代(1912年~)に入ると、憲法を守り、藩閥政治
をやめて、政党による立憲政治をめざす運動が尾崎幸雄、
犬養毅を中心におこり、これを第一次護憲運動という。

 1916年、吉野作蔵が、議会政治と普通選挙制の必要性
を説く民本主義を唱えると、民主主義運動が高まり、大正
デモクラシーとよばれる運動がおきた。

 軍人出身で、非立憲的な藩閥政治を行い、シベリア出兵
や社会主義者の弾圧を行っていた寺内正毅内閣が米騒動
によって総辞職すると、原敬が内閣総理大臣となり、軍部
と外務大臣以外はすべて立憲政友会の政党の者が大臣
となる初の本格的な政党内閣が成立した。
 原敬は、華族の爵位をもたない最初の首相であることか
ら、平民宰相(さいしょう)とよばれた。
選挙権を持つ人の変化
実施年 年齢・性別 直接国税 総人口の中の有権者の割合
1890年
(明治23年) 25歳以上
男子 15円以上 1.1%
.
1903年
(明治35年) 25歳以上
男子 10円以上 2.2%
..
1920年
(大正9年) 25歳以上
男子 3円以上 5.5%
.....
1928年
(昭和3年) 25歳以上
男子 制限なし 19.8%
...................
1946年
(昭和21年) 20歳以上
男女 制限なし 48.7%
................................................
 米騒動による政権交代や、ロシア革命での人民による帝政の崩壊は、日本国民に多くの社会運動をもたらした。

 1920年5月には、日本最初のメーデーが行われ、1921年には、日本労働総同盟という労働組合の全国組織が結成された。

 1922年には、日本最初の小作組合の全国組織となる日本農民組合が結成され、農民の地位向上をめざした。

 平塚雷鳥(らいちょう・らいてう)や市川房枝らは青鞜社をつくり、女性の参政権や封建的で古い因習から自己を解放しようと
する婦人解放運動を行った。

 部落差別を受けていた人たちが全国水平社を結成して、差別解消を求めた。

 こうした社会運動が盛んになる一方で、清浦奎吾(けいご)が内閣総理大臣になると、貴族院中心に組閣をし、議会を無視した
政治を行ったため、憲政会、革新倶楽部、政友会の護憲三派とよばれる政党を中心に、清浦内閣の打倒や普通選挙法の断行
などを求める第二次護憲運動が行われた。

 この運動により、清浦内閣はわずか5ヶ月で総辞職し、加藤高明が内閣総理大臣となり、護憲三派による連立内閣が組織され
た。加藤内閣は、1925年、普通選挙法を成立させ、満25歳以上の男子すべてに選挙権を与える法律を制定したが、同時に、国の
体制の変革や私有財産の否認といった社会主義運動を禁止する治安維持法も制定した。
3.大正時代の文化
 産業の発達とともに、都市の人口増加に伴い、バスや市内電車が発達していった。また、教育が
普及し、高い教育を受ける人々が増えて新聞や雑誌の発行も増加していった。

 1925年には、ラジオ放送が始まり、音声の出る映画もつくられるようになった。

 医学では、野口英世がアメリカに渡って細菌学で成功し、さらにアフリカで黄熱病を研究した。

 文学では、人間性を重視し、人間愛を実践し、さらに人類の福祉向上を目指す人道主義の立場で、
生命の創造力をうたった白樺派とよばれる文学グループが生まれ、武者小路実篤や志賀直哉らが
活躍した。 野口英世

上野公園
 芥川竜之介は、「羅生門」などの作品を通して、歴史的素材を再構成し、理知的な作品を残した。川端康成は「伊豆の踊り子」
などを残し、感覚的表現を主張したことから、新感覚派とよばれた。
 大正時代から昭和時代の初期にわたり、プロレタリア文学とよばれる労働者の文学も生まれ、小林多喜二の「蟹工船」が
代表的な作品である。
1.第1次世界大戦後の世界経済
 第1次世界大戦後、世界経済の中心はイギリスからアメリカにうつっていた。しかし、1929年、ニューヨークの
株式市場の株価が暴落し、企業の生産が激減、銀行や工場の休業や倒産が増え、失業者も増大していった。

 この不景気はアメリカにとどまらず、世界に影響を与え、世界恐慌とよばれた。各国の政府は自国の利益を
守る政策をとり、国際協調の時代を終わらせることになった。

 アメリカはルーズベルト大統領のもとで、政府がダムの建設などの公共事業をおこすことによって、生産を
増やし、国民の所得を増大させていくニューディール政策を行って経済を回復させた。

 ソ連は、スターリンの独裁体制のもとで、1928年から5か年計画とよばれる経済体制をつくり、重工業中心の
工業化と農業の集団化による社会主義国家体制を推し進め、世界恐慌をほとんど影響しなかった。

 イギリスとフランスは、本国と植民地とのつながりを強め、他国の商品に対しては関税を高めるブロック経済
体制をしいた。そのため、植民地をあまりもたないドイツ・イタリア・日本は経済が苦しくなった。

 イタリアは、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握り、独裁体制になると、エチオピアを侵略・併合して
経済の打開を図った。

 ドイツは、ヒトラー率いるナチスが政権をとり、他の政党を解散させ、再軍備を強行。さらに、ユダヤ人や社会
主義者らを迫害した。

 こうした情勢の中で、1930年代は反民主主義、反自由主義をかがけたファシズムとよばれる全体主義が
ヨーロッパで大勢を占めるようになった。
2.大陸への進出と軍部の台頭
 日本も第1次世界大戦からの不景気と関東大震災による現金化できない震災手形の増大によって、銀行の
倒産が相次ぎ、1927年には金融恐慌とよばれる不景気となった。

 また、世界恐慌の影響を受け、都市では倒産と失業の増大、農村では農作物の価格下落によって生活が
苦しくなり、アメリカに輸出していた生糸が伸び悩み、養蚕業が大きな打撃を受けるなど、不景気が深刻となり、
娘の身売りや、満足に食事ができない欠食児童が多くでて、昭和恐慌とよばれた。

 こうした不況に対し、財閥は政党と結びつき、日本経済を支配するようになると、労働争議や小作争議が増え、
政党や財閥に対する不満が高まっていった。

 こうした国内情勢に対して、軍部や、個人よりも国家を優位に考える国家主義者は「満州は日本の生命線で
ある」として、中国侵略による恐慌打開を図ろうとする動きが見られるようになった。

 1930年、軍備を縮小するロンドン会議が開かれると、軍縮条約に対して軍部は強く反対した。
 
 1931年、中国の関東州と南満州鉄道の警備を任務とする
日本の関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これ
を中国側が行ったことにして軍事行動を開始した。

関東軍は満州の主要部を占領し、清朝最後の皇帝である溥儀
(ふぎ)を元首にして満州国を建国し、実権は日本人が握り、
財閥を進出させて大きな利益をあげた。これを満州事変という。

 国内では、政治に軍部が口出しするようになり、1932年、
軍部の青年将校が満州国の承認をしぶっていた犬養毅首相
を暗殺する五・一五事件がおきた。この事件により、政党政治
が終わり、軍人が内閣総大臣になることが多くなり、軍部の力
が強まっていった。

 国際連盟は、満州にイギリスのリットンを団長とする調査団
を送り、真相を解明すると、1933年、満州国承認の取り消しと、
日本軍の撤兵を総会で決議した。この決議に、日本は国際
連盟を脱退した。
満州国の位置

 1936年、またもや青年将校が、軍部による政府をつくろうとして、首相官邸や警視庁などを襲撃し、大蔵大臣
を暗殺してクーデタをおこす二・二六事件がおきた。政府は、非常事態に対して軍隊による治安権限を与える
大日本帝国憲法の中の天皇大権の1つである戒厳令を出して、このクーデタを防いだが、この事件以降、軍部
の力が強くなっていった。
3.日中戦争と第2次世界大戦
 1937年、中国の北京郊外にある廬溝橋(りょこうこう)で日本と中国の軍隊が衝突する廬溝橋事件がおきる
と、これをきっかけに日中戦争が始まった。日本軍は中国の首都である南京を占領すると、何十万人もの中国
人を殺害・略奪行為をする南京事件をおこした。中国は、アメリカ、イギリスの援助を受け、首都を重慶に移し、
蒋介石(しょうかいせき)が率いる国民党軍と毛沢東が率いる共産党軍が手を結んで、日本軍と戦い、戦争が
終わらないまま、太平洋戦争に入っていった。

 戦争が長期化する中、1938年、政府は国家総動員法を発令し、強制的に国民や物資を動員できるようにし
た。また、戦争による品不足がおき、物資は配給制または切符制となり、国民は物資を自由に買うことができ
なくなった。

 1939年、ヒトラーが率いるドイツはイタリアと手を結び、イギリス・フランスと戦争となり、第2次世界大戦が
始まった。日本は、翌年の1940年、日独伊三国軍事同盟を結び、同盟国側についた。また、近衛文麿首相
が総裁となって、ナチス=ドイツの一国一党の政治体制にならい、政党を解散させて大政翼賛会が設立され
た。大政翼賛会は、労働組合や労働団体をも解散させ、大日本産業報国会を結成して傘下に治め、国民を
一元的に統制していった。

 日本は日中戦争が長期化すると、アジアを支配しながら、石油などの軍事物資を確保するために、東南
アジアのフランス領であったインドネシアに軍隊を進め、アメリカとの対立を深めていった。
 1941年、日本はハワイの真珠湾
にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃
して、アメリカ、イギリス、フランス、
ソ連などの連合国と戦争が始まっ
た。主な戦場が太平洋であること
から、太平洋戦争という。

 日本は、最初は戦争に勝利して
いたが、1942年のミッドウェー海戦
を契機に敗戦が続き、1943年に、
同盟国であるイタリアが降伏し、
1945年にはドイツが降伏した。

 日本の敗戦色が濃くなる中、日本はアメリカの空襲を受け、多くの都市が焼け野原となっていった。特に、
1945年3月の東京大空襲は首都東京に大きな被害をもたらした。

 空襲による被害を避けようと、都市の小学生は、地方の小学校へ集団で非難する集団(学童)疎開が
行われた。

 日本の兵力が不足し、戦局が悪化してくると、男子学生を戦場に送る学徒出陣や、女子学生や中学生を
工場で労働させる勤労動員が行われた。

 1945年4月に、アメリカ軍が沖縄に上陸してくると、日本の軍隊は全滅するとともに、看護要員として動員
されていた女子学生でつくられた「ひめゆり隊」など、県民や兵士合わせて20万人以上の犠牲者を出した。

 日本の植民地であった朝鮮では、朝鮮国民を日本に強制連行し、炭鉱や工場などで強制的に労働させ
たり、朝鮮国内では、朝鮮民族固有の名前を日本式の名前に強制的に変えさせる創氏改名が行われ、
日本語を話すことや、村ごとに建てられた神社に参拝することを強制させられた。

 1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、さらにソ連が日本に参戦してきたため、
日本は、8月14日、日本の降伏を通告するポツダム宣言を受け入れ、翌日の8月15日、無条件降伏に
応じた。こうして、日中戦争、太平洋戦争を含む第二次世界大戦が終結した。
戦時中の家の中 東京を空襲するアメリカのB-29 東京大空襲 学童疎開

			

 
降伏調印文書 戦時中の小学校の教科書

			江戸東京博物館

1.占領下の日本と民主化
 敗戦によって、日本は連合国の占領下におかれた。

 1945年、東京にアメリカのマッカーサーを最高司令官とする連合国軍総司令部(GHQ)がおかれ、日本の政治・経済・教育
にわたる民主化が進められた。

 戦前や戦時中に利益を独占していた三井、三菱、住友、安田などの財閥に対して、持株を公売させて、指定財閥にはその
家族を財界から追放するなど、財閥の解体が行われた。また、1947年には、企業の独占を防ぐことと、自由競争を確保する
ために独占禁止法をつくり、公正取引委員会を監視にあたらせた。

 女性にも参政権を認めさせ、満20歳以上の男女がすべて選挙権をもつようにして、政治に参加できるようにさせた。これに
より、1946年の戦後最初の総選挙では、39人の女性議員が当選した。

 労働者に対しては、労働者の団体権や団体交渉権を保障する労働組合法をつくり、さらに1946年に労働争議の調整方法や
争議行為を規定した労働関係調整法を制定し、、1947年には労働条件の最低基準を規定する労働基準法を制定し、労働者
の権利を守らせた。これら3つの法律を労働三法という。
 1946年、自作農家増加を目的に、国は農村に住んでいない不在地主や、
農村に住んでいる在村地主であっても、基準を超える小作地を買い上げ、
実際に耕作している小作人に、有利な条件で売り渡す農地改革を行わせ、
寄生地主制と高率な小作料のもとから農民を解放させた。

 この農地改革は1946年から1950年まで2回にわたって実施し、全小作
農地の約80%が解放され、自作農が増加した。

 また、小作料も物納から金納を定めた。
自作農の増加

 農地改革が行われた同じ年の1946年11月3日、日本国憲法が公布され、翌年の1947年5月3日に施行された。

 主権は国民とする国民主権と、人権はおかすことのできない永久の権利を保障する基本的人権の尊重、戦争を放棄し、
戦力と交戦権をもたない平和主義を3大原則とした。

 大日本帝国憲法のもとでは、「神聖で不可侵」であり、「神」とされてきた天皇は、日本国憲法のもとでは、政治の権能を
もたず、日本国と日本国民統合の象徴となった。
大日本帝国憲法と日本国憲法
大日本帝国憲法 日本国憲法
1889年発布 成立 1946年11月3日公布、1947年5月3日施行
天皇(天皇主権) 主権 国民(国民主権)
法律で制限 基本的人権 おかすことのできない永久の権利
兵役の義務
天皇のもとに設置 軍隊 平和主義
戦力はもたず、戦争は放棄
神聖で不可侵 天皇 日本国と日本国民統合の象徴
貴族院と衆議院 国会 参議院と衆議院
 1947年には、教育基本法が制定され、義務教育や教育の機会均等、男女共学などが規定された。それまで教育の柱と
なってきた教育勅語は、1948年に国会で失効が決議された。
 また学校教育法を1947年に制定し、六・三・三・四の単線型学校系列を規定し、義務教育を小学校と中学校の9年とした。

 実際には、新しい教科書の作成が間に合わず、今までの教科書の軍国主義的な記述を墨でぬりつぶした墨ぬり教科書
とよばれるものを使用し、空襲で校舎が焼失し、焼け跡の空の下で授業をする青空教室がしばらく続いた。
2.第二次世界大戦後の世界
 1945年、国際連盟にかわるものとして、世界平和を目的に、戦勝国である連合軍を中心に、51か国が参加して国際連合
が設立された。常任理事国はアメリカ・イギリス・ソ連(ロシア)・フランス・中国の五か国がなった。
 国際連盟の総会が全会一致による
決定に対し、国際連合ではその欠点
を修正して、多数決による決定とした。

 ただし、総会での多数決は討議と勧告
だけで決定権はなく、最も強大な権限を
もつのは安全保障理事会で、常任理事
国は拒否権をもち、一国でも反対すると
決議できず、その濫用で議事が停滞す
ることが多かった。

 国際連合の理念とは裏腹に、1949年、
中国では、毛沢東のひきいる中国共産
党が中華民国を台湾に追いやり、社会
国際連盟と国際連合
国際連盟 国際連合
1920年 発足 1945年
ジュネーヴ(スイス) 本部 ニューヨーク(アメリカ
各国1票で全会一致 総会 各国1票で多数決
イギリス・フランス・イタリア・
日本・ドイツ(1926年から) 常任理事国 アメリカ・イギリス・ソ連(ロシア)・
フランス・中国
提唱国アメリカの不参加
全会一致による決定 問題点 安全保障理事会での常任理事国
がもつ拒否権の濫用
主義国でである中華人民共和国を建国し、ソ連と友好同盟条約を結んだ。台湾に逃れた蒋介石ひきいる中華民国政府は
アメリカに依存した。

 こうした関係から、アメリカを中心とする資本主義諸国(西側)とソ連、中国を中心とする社会主義諸国(東側)が対立する
ようになった。

 西側は1949年に北大西洋条約機構(NATO:ナトー)、東側は1955年にワルシャワ条約機構という軍事同盟をそれぞれが
結び、互いをけん制しあった。この態勢のまま、直接戦争を行わなかったことから「冷たい戦争(冷戦)」とよばれ、この冷戦
は1989年まで続いた。

 ドイツは、1949年に資本主義国としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)、社会主義国としてドイツ民主共和国(東ドイツ)に分か
れて独立し、ベルリンの壁が東西冷戦の象徴となった。

 朝鮮は、1948年に、北のソ連の支援をうけた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、南のアメリカの支援をうけた大韓民国
(韓国)ができ、その後対立し、1950年、朝鮮戦争がおこった。戦争は1953年まで続き、「冷戦の中の熱い戦争」とよばれた。
日本はこの戦争によって、アメリカから大量の武器などの注文を受け、特需景気とよばれる好景気ををもたらし、戦後の復興
のきっかけとなった。

 ベトナムは1945年にホー=チ=ミンによって独立宣言を出され、ベトナム民主共和国を建てたが、植民地支配国であった
フランスと対立し、1946年にインドシナ戦争がおこった。フランスは1949年、南部にベトナム国を成立させ、北のベトナム共和
国と対抗したが、戦争に敗れ、1954年、ジュネーヴ会議で休戦協定が成立した(ジュネーヴ休戦協定)。この協定にアメリカ
が反対し、ベトナム国を支援、ベトナム国は1955年にベトナム共和国を樹立して北に対抗したが、内乱がおき、アメリカとベト
ナム戦争を起こした。戦争は泥沼化し、1973年にアメリカ軍は撤退し、1976年にベトナム民主共和国に併合された。

 インドを中心とするアジア・アフリカ諸国は、植民地から独立し、米ソ二大陣営のいずれも関与せず、積極的な中立を主張
した第三勢力を形成し、1955年、インドネシアのハンドンでアジア・アフリカ会議を開き、平和十原則を発表して、反植民地
主義と平和共存の理念を打ち出した。
3.国際社会の中の日本①
 1950年の6月に朝鮮戦争がおこると、アメリカは日本に駐留している軍隊を朝鮮に派遣した。さらに日本を防備する必要
もあると考えたアメリカは、8月にGHQの指令によって、警察予備隊を日本につくらせ、現在の自衛隊の前身となった。

 アメリカは日本を自由主義を守る国と位置づけ、アメリカ側の陣営に加える必要性を感じ、1951年、アメリカのサンフラン
シスコで講和会議を開き、イギリス・日本(全権は吉田茂首相)などの49か国との間でサンフランシスコ条約を結んでいっ
た。

 日本は、この条約によって独立し、GHQは廃止され、主権を回復した。しかし、この条約とともに、アメリカ軍が日本に基地
をもつことを認める日米安全保障条約も結ばれ、独立後もアメリカ軍は日本に駐留することになった。

 冷戦の中、米ソの核兵器の開発競争が激しくなると、核実験が各国各地で行われるようになった。1954年、日本漁船の
第五福竜丸が、太平洋上でのアメリカの核実験によって「死の灰」とよばれるものをあび、死亡する乗組員を出す事件が
おきた。この事件によって、原水爆禁止運動が高まり、1955年には、広島で第1回の原水爆禁止世界大会が開かれた。
しかし、こうした動きの中で1954年、自衛隊が創設された。

 1956年、鳩山一郎首相はサンフランシスコ平和条約の調印を拒否したソ連と日ソ共同宣言をむすび、ソ連との国交を
回復し、ソ連に日本の国際連合への加盟を賛成させた。これにより、日本の国際社会への復帰が実現した。
1.経済大国としての日本の光と影
 1950年の朝鮮戦争後、日本経済は大きく成長し、1955年には、一国の経済力の大きさを示す国民総生産は戦前の
水準をこえ、1956年の経済白書には「もはや「戦後」ではない」と表現し、日本は新しい経済局面に入った。白書では
その局面の対処を心配したが、1950年代後半から約10年間にわたり、日本は高度経済成長とよばれる経済の発展
が続いた。

 1955年から30ヶ月以上の好景気が続き、初代天皇である神武天皇以来の好景気ということから神武景気と名づけ
られた。

 1958年から40ヶ月以上の好景気が続き、神武景気をこえる大型のものであったことから、天照大神の「天の岩戸」
の神話にちなんで岩戸景気と名づけられた。
 
 1960年に、池田隼人首相が
経済を発展させ、10年間で所得
を2倍にする国にするという所得
倍増計画を出し、高度経済成長
にはずみをつけ、1964年に東京
でアジア最初のオリンピックが開
かれ、これに刺激されて好景気
がおこり、オリンピック景気とよば
れた。

 また、鉄道では東京~新大阪
間に東海道新幹線が、道路では
名神高速道路、東名高速道路が
開通し、交通面で大きく発展した。
それにともない、自動車をもつ人
も増加していった。

 生活では、電気洗濯機、白黒
テレビ、電気冷蔵庫の「三種の
神器」とよばれる耐久消費財※
が普及した。

 電力では、茨城県東海村に日
本で最初の原子力発電所が建設
され、1963年から運営が行われ
た。

 1966年から50ヶ月以上の好景
気が続き、岩戸の神話よりも前の
国生みの「いざなぎのみこと」に
ちなんでいざなぎ景気と名づけら
れた。
東京オリンピックと高度経済成長期につくられたもの

		

開会式のときの服装
  聖火ランナーの服装 ポスター

		

新幹線(写真は山陽新幹線)
東名高速道路と東海道線 マイカーブームをおこした
最初の自動車
 

		

電気冷蔵庫 白黒テレビ 完成した頃の東京タワー
1958年完成
写真:新幹線は「写真素材 フォトライブラリー」里見光一さん、その他は江戸東京博物館
 こうした高度成長を通して、1968年には、資本主義諸国の中での国民総生産がアメリカについで第2位の経済
大国となった。1970年には、大阪で「人類の進歩と調和」をテーマとした、アジアで最初の万国博覧会が開催され、
多くの企業や研究者、芸術家によるパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作が展示され、
経済大国となった日本の象徴的なイベントになった。

 ※耐久消費財…長期使用にも耐えらる消費財で、自動車・テレビ・家具などが代表的である。

 1970年代になると、自動車、カラーテレビ、クーラーの「3C」とよばれる耐久消費財が普及していった。また、国産
の人工衛星が打ち上げれ、1980年代ではコンピュータ技術開発が進み、世界有数の技術大国になった。

 その一方で、農業と工業の所得格差が広がり、農業人口が減少し、農業以外からの収入を得る兼業農家が増加
していった。さらに、大都市では人口の過密、農村では過疎化が進んだ。
 高度経済成長にともない、重化学工業が大きく
発展したが、それと同時に公害も発生した。

 富山県の神通川流域では、カドミウムが原因
で骨が折れやすくなるイタイイタイ病とよばれる
病気が発生した。

 熊本県八代海沿岸では、化学工場から排出さ
れた有機水銀(メチル水銀)が原因で神経がお
かされる水俣病とよばれる病気が発生し、同じ
ような病気が新潟県の阿賀野川流域でも発生
した。

 三重県の四日市市では、石油化学工場の煙
から排出された亜硫酸ガスが原因で、ぜんそく
や気管支炎になる四日市ぜんそくが発生した。
四大公害病

 政府は、1967年に公害対策基本法(1993年以降は環境基本法)を制定し、さらに1971年に環境庁(現在は環境省)
を設置して公害対策を整えた。

 1973年、第4次中東戦争がおきると、主要産油国が結成してつくられたOPEC(オペック:石油輸出国機構)は、石油
の禁輸、減産、価格の引き上げを行った。石油の輸入依存度の高い先進国は経済に大きな打撃を受けた。

 日本でも石油価格が大幅に値上がり、トイレットペーパーや洗剤がお店から消え、購入が制限されるなどの混乱が
おきた。この混乱を石油危機(石油ショック、オイルショック)という。これ以降、日本経済は低成長が続き、1974年の
国民総生産はマイナス成長となり、高度経済成長期が終わった。

 1982年に、中曽根康弘内閣が成立すると、「戦後政治の総決算」のもとに行政改革を行い、今まで国で運営してい
た日本電信電話公社、日本専売公社、日本国有鉄道を民営化し、それぞれ日本電信電話(NTT)、日本たばこ産業
(JT)、JRグループとした。
 また、女子差別撤廃の方針から、男女雇用機会均等法を1986年から施行し、雇用形態の改変も行った。

 1985年に、アメリカの財政と貿易赤字(双子の赤字)を解決するために、ニューヨークのプラザホテルにアメリカ
日本などの五カ国が集まって、ドルの為替相場をドル安にする方向に合意するプラザ合意が行われ、日本は輸入品
を安く買えるようになった。

 政府は、国内需要(国内での購買力)を拡大(内需拡大)させようという政策を進め、日本銀行は2.5%という今まで
にはない低金利で銀行にお金を貸し出した。

 輸入品が安くなったことと、お金(円)を借りやすくなったことで、円が世界市場や国内市場で出回るようになると、
日本国内では、1986年から土地と株を買うようになり、地価と株価が異常な高騰が続いた。資産価格だけが上がり、
実体の成長はその価格成長についてこない現象が起こり、バブル経済とよばれた。
2.国際社会の中の日本②
 1957年に岸信介内閣が成立すると、日本の防衛力を増強させようとする政策がとられ、日米安全保障条約の改訂
の交渉がアメリカと始まった。

 この動きに、日本はアジアで行うアメリカの軍事行動に巻き込まれてしまうのではないかという批判がおこり、各地
で改訂の反対運動がおきた。この運動は安保闘争とよばれ、1960年5月には、10万人を超える民衆が連日のように
国会を取り囲んだが、6月に強行採決された。この改訂により、日本の自衛力増強が義務づけられるなど、アメリカ
軍事面での結びつきが強くなった。岸内閣は、改訂直後に総辞職し、池田内閣が成立し、政治の争点を安保から経済
へ転換させていった。

 外交の面では、1965年、大韓民国との間で日韓基本条約を結び、国交を回復し、中国とは1972年に日中共同声明
で国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が結ばれ、交流がさかんになった。北朝鮮とは、現在は国交正常
化交渉がすすめられている。

 領土では、アメリカから奄美大島や小笠原諸島が返還され、1972年には沖縄が返還された。戦後、ソ連領となって
いる歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の4島の北方領土については、日本固有の領土であると主張し、ロシアに
返還を要求している。

 軍縮では、日本は1963に部分的核実験停止条約、1970年には核兵器拡散防止条約を多くの国々とともに調印し、
世界は軍縮の方向へと動いていった。日本は、1967年の佐藤栄作首相の国会答弁に始まった核兵器を「つくらず」、
「もたず」、「もちこませず」という非核三原則の方針を堅持した。佐藤首相は、ノーベル平和賞を受賞し、返還された
沖縄や、アメリカ軍の軍艦や戦闘機が寄港する際にも、この原則を適用させた。

 1986年にウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起こり、その放射能被害は国境を越え、ヨーロッパ
全域にまで広がった。この事故をきっかけにアメリカとソ連との間に「対立」から「対話」の方向へと転換し、1987年に
は、アメリカとソ連が中距離核戦力全廃条約が結ばれ、両国が初めて核兵器の削減に同意し、歴史的な条約となった。

 1980年代の後半から軍縮の方向が進み、ソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカとよばれる改革が行われ、自
由な選挙や市場経済への移行を行おうとしていた。
3.昭和時代の文化
 第二次世界大戦での敗戦以降、民主化による伝統的な価値観の崩壊や、新聞、ラジオ、テレビなどのマスメディア
が発展と普及を促進した高度経済成長を通して、生活水準の向上と、多様な価値観や自由な生活スタイルが国民の
中に生まれていった。

 文化の法律面も重視され、1949年に、法隆寺金堂の壁画が焼失すると、文化財保護の気運が高まり、1950年に
文化財保護法が制定され、1968年には文化庁が設置された。

 日本人による世界的な功績も少なくなく、1949年に、湯川秀樹が物理学で中間子の存在を予想し、日本人として
初めてノーベル賞を受賞した。これ以降の受賞者として、
  朝永振一郎…物理学研究者(量子電気力学分野での基礎的研究)。1965年物理学賞受賞。
  川端康成…作家(「伊豆の踊り子」、「雪国」、「千羽鶴」、「山の音」などの作品を通じて日本人の心情の本質を
          描き、繊細な表現と叙述の卓越さが評価)。1968年文学賞受賞。
  江崎玲於奈…物理学研究者(半導体におけるトンネル効果の実験的発見)。1973年物理学賞受賞。
  佐藤栄作…政治家(非核三原則の提唱)。1974年平和賞受賞。
  福井謙一…化学学者(化学反応過程の理論的研究)。1981年化学賞受賞。
  利根川進…生理学・医学者(多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明)。1987年生理学・医学賞受賞。
である。
1.現在の世界と日本
 1989年1月に昭和天皇が死去し、元号が「平成」と改められた。

 同じ年、東西に分かれていたドイツで、ベルリンの壁が壊され、翌年にはドイツ統一がなしとげられた。また、アメリカ
とソ連の首脳が地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言するマルタ会談が行われた。

 その後ソ連は、1991年に政変がおこり、エリツィンが大統領に就任すると、ロシア連邦を中心とする独立国家共同体
を結成し、ロシアを含めて15の国々に解体された。

 ヨーロッパでは、1967年に発足したヨーロッパ共同体(EC)が、1993年にヨーロッパ連合(EU)に発展し、2002年には
EUの共通通貨であるユーロの流通がはじまった。

 1990年に、イラク軍がクウェートに侵攻すると、1991年にはアメリカ軍を中心に組織された多国籍軍がイラクを攻撃
する湾岸戦争が始まった。この戦争に、日本はアメリカの要請と国際貢献という見地から、自衛隊をはじめて海外に
派遣した。さらに、翌年の1992年、宮沢喜一内閣のとき、憲法の制約の中で自衛隊の海外派遣を行う国連平和維持
活動(PKO)協力法が国会で可決し、その年、カンボジアへPKO協力部隊が派遣された。

 1997年、京都で地球温暖化防止会議が開かれ、二酸化炭素やメタンガスなどの温室効果ガスの排出量の削減達成
目標を定めた京都議定書が採択され、2005年に発効された。

 2001年、アメリカでハイジャックされた旅客機2機がニューヨークの世界貿易センタービルに激突する同時多発テロが
おきると、日本はテロ対策特別措置法をつくった。

 また、2003年には、アメリカがイラクに対して、大量破壊兵器を開発しているとしてイラクを攻撃するイラク戦争が始まる
と、日本は有事法制関連法案を成立させ、さらに、アメリカのイラク占領後には、イラク復興支援特別措置法を成立させ
て自衛隊をイラクのサマワに派遣した。

 日本の政治面では、1988年におきた汚職事件と消費税導入に、国民は政治不信を高め、翌年の参議院選挙では自由民主党が大敗した。1993年の総選挙では、日本新党の細川護熙(もりひろ)内閣が成立し、55年続いた自由民主党の単独政権は終わった。

 細川内閣は衆議院選挙での小選挙区比例代表並立制を成立させ、日本の政治の形を変えるきっかけをつくった。

 経済面では、1990年、地価の抑制政策と金融の引き締め政策によって平均株価が大幅に下落し、翌年の1991年には地価の大暴落が始まり、バブル経済が崩壊した。

 銀行や企業は、土地や株価の値上がりを見込んで資金を貸したり借りたりしてきたが、バブル経済が崩壊すると、その資金の回収と支払いが困難になり、不良債権が増加し、倒産する企業も相次いだ。企業は賃金の低いパートや派遣社員を取り入れたり、リストラとよばれる従業員の解雇という形で対策を行った。そのため、個人消費が低迷し、戦後最悪の不況が続くようになった。

 2001年に成立した小泉純一郎内閣は、郵政民営化と規制緩和を進める政策をとった。このため、企業の業績は改善され、2005年ごろから景気は回復したが、それは正社員が減少してパートや派遣社員の増加、大幅なリストラによるものが多かった。世の中には、フリーターやニートとよばれる正社員とは違った人たちが多くあらわれるようになった。

 近隣諸国との関係では、2002年に小泉首相が北朝鮮に訪問し、日朝平壌(ぴょんやん)宣言に署名したが、日本人の拉致問題でその後の交渉が難航している。また、韓国とは竹島問題で、中国とは尖閣諸島で、ロシアとは北方領土の問題が今後の課題となっている。

 生活面では、1995年1月に、阪神・淡路大震災が発生し、多くの死者や負傷者を出し、また3月にはオウム真理教という宗教団体が、東京の地下鉄で有毒ガスのサリンをまく無差別テロがおきた。

 1999年には、茨城県東海村で原子炉の臨界事故が発生し、2001年には、国内で牛肉の牛海綿状脳症(BSE)が発見され、2005年には、JR福知山線での列車転覆事故、2006年には、建物の耐震偽装事件など、日本の「安全神話」を揺るがす出来事がおきた。

2.平成時代の文化功績者
平成時代のノーベル賞受賞者は、
  大江健三郎…作家(「飼育」、「万延元年のフットボール」などの作品を通じて、詩的な表現を用いながら、現実と
           神話の混交する世界を創りだし、窮地に立たされた現代人の姿を独特な絵図で描いたことが評価)。
           1994年文学賞受賞。
  白川英樹…工学博士(導電性高分子の発見と発展)。2000年化学賞受賞。
  野依良治…工学博士(キラル触媒による不斉反応の研究 )。2001年化学賞受賞。
  田中耕一…東北大学名誉博士(生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発)。2002年化学賞受賞。
  小柴昌俊…天体物理学者(宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献)。2002年物理学賞受賞。
  南部陽一郎…理学博士(素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見)。2008年物理学賞受賞。
  小林誠…理学博士(小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献)。2008年
        物理学賞受賞。
  益川敏英…理学博士(小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献)。2008年
         物理学賞受賞。
  下村脩…理学博士(緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と生命科学への貢献)。2008年化学賞受賞。
である。


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Last-modified: 2018-10-23 (火) 22:33:00