楚(読み)そ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

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デジタル大辞泉の解説
すばえ【×楚】
⇒すわえ
すわえ〔すはえ〕【×楚/×楉/×杪】
《「ずわえ」「すばえ」とも》
1 木の枝や幹からまっすぐ伸び出た、若く細い小枝。すえだ。
「ほそき―をしてさし寄せむに」〈枕・二四四〉
2 刑罰に用いるむち。しもと。
「毎(つね)に九百段の鉄の―もて打ち迫(せ)む」〈霊異記・上〉
そ【楚】
中国の国名。
春秋戦国時代の国。戦国七雄の一。揚子江中流域を領有し、都は郢(えい)。春秋中期には陳・鄭・宋などを圧迫し、晋と対立。荘王は中原の覇者となったが、前223年、秦に滅ぼされた。
五代十国の一。許州の馬殷(ばいん)が後梁から招じられて、927年に建国。951年に南唐に併合されて滅亡。
北宋滅亡後の1127年、金が宋の旧領に建国。1か月余りで滅亡。
そ【楚】[漢字項目]
[人名用漢字] [音]ソ(漢) [訓]すわえ しもと
1 すっきりとしたさま。「楚楚/清楚」
2 苦しむ。痛む。「苦楚・酸楚」
3 中国古代の国名。「楚囚/四面楚歌」
[名のり]たか

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百科事典マイペディアの解説
楚【そ】
(1)中国,春秋時代(春秋戦国時代)の侯国。長江の中流域を本拠とし,前7世紀から北方に進出,荘王は前606年,周との境上に至り,鼎(かなえ)の軽重を問うた。前597年には中原に覇を唱え,以来100年,北方の晋と南北に対立。戦国の七雄の一つとして重きをなしたが,秦に圧迫され,前223年滅ぼされた。(2)中国,五代十国の一つ。長沙を中心に湖南による。907年馬殷(ばいん)が後梁(梁)から楚王に封ぜられて建国。951年南唐に滅ぼされたが,956年馬氏配下の周氏がいったん復興。これを宋が963年併合した。
→関連項目越|屈原|長沙|陳|覇者|魯

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世界大百科事典 第2版の解説
そ【楚 Chǔ】
中国,五代十国の一つ。907‐951年。木工出身の馬殷(ばいん)が湖南に建てた国。後梁から楚王に封ぜられ,その後も中原五代王朝に服属の態度をとって皇帝号を称さなかった。それは東に呉(南唐),南に南漢といった十国中の強国と境を接していたことによる。鉛鉄銭の鋳造や茶栽培の奨励など富国策にみるべきものがあるが,馬殷の20人を超える諸子間の権力争いが激しく,まもなく4勢力に分裂し,南唐の支配,馬氏配下の部将周行逢の自立を経て,宋に併合された。
そ【楚 Chǔ】
中国,春秋時代の侯国。戦国七雄の一つ。?‐前223年。殷代には河南南西部にあり,西周時代には丹陽(湖北秭帰(しき)県)に都を置き,周と対峙し,周昭王の征伐を受けた。のち都を郢(えい)(湖北江陵県)に移す。春秋時代には湖北・河南南部を収め,北の晋と対立,前597年荘王は晋を泌(河南)で破り,一時覇権を握った。戦国時代にも南方の雄として,北の諸国と対立したが,秦の圧迫を避け,都を陳(河南淮陽(わいよう)県),鉅陽(きよよう)(安徽阜陽県),寿春(安徽寿県)と東に移し,前249年には魯を滅ぼした。

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大辞林 第三版の解説
すばえ【楚】
⇒ すわえ(楚)

すわい【楚】
〔「ずわい」とも〕
「すわえ」の転。 〔日葡〕

そ【楚】
中国の国名。
① 春秋戦国時代に長江中流域を領有していた国(?~前223)。春秋中期に五覇の一人荘王を出し、また戦国七雄の一として覇を争ったが、秦に滅ぼされた。中原諸国と種族・文化を異にしていた。
② 五代十国の一。馬殷ばいんが後梁こうりようから楚王に封ぜられて建国(907~951)。湖南を中心に広西の北部を支配。南唐に滅ぼされた。

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精選版 日本国語大辞典の解説
すばえ【楚】
〘名〙 ⇒すわえ(楚)
すわい すはい【楚】
〘名〙 (「ずわい」とも) 「すわえ(楚)」の変化した語。
※史記抄(1477)一二「荊は、荊楚とて、薪の中の長いすわいぞ」
※六物図抄(1508)「標は長きスワイ也、長きスワイに是は仏弟子とかきしるいてしらするやうな心そ」
そ【楚】
中国の国名。
[一] 戦国七雄の一つ。揚子江中流域を領有し、戦国中期まで斉や晉などの諸国と覇を争った。のち秦の圧迫を受け本拠を東に移したが、前二二三年、秦に滅ぼされた。中原の諸国と風俗、言語を異にし、漢民族からは蛮夷の国とみなされた。戦国末の「楚辞」は地方色を示す文学作品として知られる。
[二] 隋末の六一六年、林士弘が江南・嶺南地方に建てた国。六二二年、唐に滅ぼされた。
[三] 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。許州(許昌)の人、馬殷が後梁から楚王に封ぜられて九〇七年に建国。九五一年、六代で南唐に滅ぼされた。
[四] 北宋滅亡後の一一二七年、金が宋の旧領に建てた国。一か月余で滅亡。

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世界大百科事典内の楚の言及
【春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…

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