韓国の歴史

韓国の歴史


 韓国について知るには、まずその歴史を知らなければならない。韓国は常に歴史を背景
に発言し、思考する。そのバックボーンと思想を知ることが、両国関係改善の第一歩につ
ながると信じる。以下、半島の歴史について述べる。

古代朝鮮半島

 古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどない。実質、残っているのは日本と中国
に残る文献だけであり、韓国の主張する古代半島の歴史は何ら証拠がない。韓国では檀君
を始祖とする檀君神話から朝鮮の歴史が始まるとされ、古朝鮮の存在を主張するが、韓国
はもちろん、周辺国にもその記述は見あたらない。よって、韓国人の主張する「半万年の
歴史」は歴史的に根拠がない。
 朝鮮半島の国家が文献に登場するのは衛氏朝鮮からであり、紀元前150年頃からであ
る。「史記」に登場するこの国家は、中国からの亡命者が作った国家であった。漢の武帝
の意に沿わなかったことから紀元前108年頃に漢から軍が派遣され、滅びた。その後楽
浪郡などが置かれたが、実質中国の一地方・植民地で、朝鮮半島の出身者による国家では
ない。朝鮮半島の独立国家としては高句麗、百済、新羅による「三国時代」まで待たねば
ならない(4世紀中葉~670年頃)。

三国時代

 高句麗は扶余系民族による国家、百済はやはり扶余系の民族による国家、つまり韓国人
の祖先による国家ではない。それに対し、新羅は百済人の王による国家(隋書東夷伝)で
ある。現在の韓国人は、新羅の系統の民族である。
 この時代、日本も朝鮮半島に進出しており、中国の文献、古事記・日本書紀や広開土王
碑の記述によれば百済も新羅も日本の属国であった(韓国はそれを意図的に認めない)。
 この当時、日本は任那(加羅)に日本府を持ち、朝鮮半島南部に日本固有の前方後円墳
が発見されるなど、半島に相当の影響力を持っていたことが伺える。中国の『隋書』に
も、新羅・百済は「みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、
恒に使いを通わせ往来す」という記述があり、これは朝貢関係があったことと見られてお
り、これは日本が実質の支配に関わっていたことの証拠である。任那日本府に関しては、
このたびの日韓歴史公証で無いと言うことにされたが、実際に史書に残っているのであ
り、少なくとも大使館に当たる施設があったのは事実だ。
 百済の崩壊時に日本は半島から手を引き、新羅が半島を統一(676~935)。唐と
柵封関係を持って統治した。しかし、それでも日本の属国であることは変わらず、それは
中国の記述でも記されている。百済からはその支配層(扶余系)が大量に日本に亡命し、
日本で要職にも就いた。
 新羅が半島を統一した後、国家が混乱した際に一時的に百済、高句麗が復活し、後三国
時代が成立(892-936)、そして後高句麗の中で王建が反乱を起こし、高麗を建
国。高麗に飲み込まれる形で新羅は滅亡、高麗(後高句麗)が朝鮮半島を統一する
(918~1392)。

高麗

 高麗は元とのつながりが深く、元の皇帝の娘を王妃に迎えるなど、元と一体化してい
た。
 高麗の中の反政府勢力を抑えるためにもモンゴルとの結びつきが不可欠だった高麗王
(忠烈王)は、日本に対する侵略を元の皇帝に盛んに進めた。それが元寇である。元は高
麗に船を造らせ、高麗の兵隊を中心にした軍を日本に送り、結果的に敗走する。
 この元寇の際に高麗軍に虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島の住民が中心になり、
復讐の意味合いが強く構成されたのが倭寇である。そのため、高麗軍船が焼き討ちされる
ことも多かった。これに対し高麗・李氏朝鮮は倭寇討伐を名目に、幾度となく対馬等に軍
を派遣している。感情的な対立が重なり、度々の衝突が見られるが、高麗側は中国軍
(元、明)が半島に駐留し秩序を乱されるのを嫌ったため自分達だけで行動を起こしてい
たとも言われる。
 しかし初期の倭寇は日本人だが、それ以降は中国、高麗人が中心である(朝鮮王朝実録
の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条、及び『明史』による)。例えば李氏朝鮮を
建国した李成桂が倭寇討伐で殲滅したという倭寇の首領の名は「阿其抜都(あきばつ)」
で、女真族である(朝鮮王朝実録:太祖実録より)。
 しかし、このたびの日韓歴史公証では再びこの倭寇が全て日本人によるものと認定され
た。これは史書を完全に無視するものであり、歴史を改竄する行為に等しい。極めて納得
できないことである。
 1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。韓国における文書はこれが最
古のもので、それ以前の歴史は全て日本と中国の文書による。

李氏朝鮮(1392-1897)

 高麗の武将、李成桂のクーデターにより建国、明と清の朝貢国で冊封関係となる。名前
は明に「和寧」「朝鮮」から選んでもらったもので、自国の命名権すらなかった。元号に
明のものと採用するなど、事大主義を前面に押し出していたが、李成桂は明の冊封した高
麗王を殺害したことなどで明から承認を得られず、朝鮮王としては冊封されなかった。彼
は崇儒廃仏政策を推し進め、儒教を推し進めると共に仏教を弾圧した。そのため、仏教文
化や文化財はことごとく破壊もしくは海外に売却され荒廃する。世宗によりハングルが作
られたのもこの時代である。
 この時代は儒教に基づく政治が特徴である。その特色から明、清、末期の3時代に分け
られる。
 この時代は、日本との文化的な交流で目立つものはない。大きな出来事は豊臣秀吉によ
る朝鮮出兵である。朝鮮出兵では、日本軍に対し大きな抵抗運動が行われたと報じられて
いるが、最初の出兵ではたった半月で首都まで陥落しており、日本に対する大きな抵抗運
動と言うには疑問が残る。そして進軍しすぎて補給線が伸びきった日本軍は頓挫するに
至った。しかも腐敗が続いていた朝鮮王朝に反旗を翻した国民などの暴動などにより、国
内はかなり荒廃した。この2回の文禄の役と慶長の役のことを韓国では倭乱と呼んでいる
が、この「倭」という言葉は日本の蔑視単語として今でも頻繁に使われている。この戦争
で明も疲弊し、朝鮮も立て続き起きた胡乱により、完全に荒廃する。
 朝鮮王は明・清に任命され、自分達で決めることは許されなかった。冊封を受けなけれ
ば王として認められず、完全に中国の一地方政権に過ぎない扱いである。
 中国における明と清との争いの時、朝鮮は明側に着いたため、清が政権を取ると完全に
属国化し、三跪九叩頭を強いられるなど、屈辱の時代を送ることになった。この属国関係
は、日本が日清戦争で朝鮮を独立させる1895年まで続いた。
 この頃は経済が破綻していたため、日本から貨幣材料の銅を輸入して依存していた。国
民に貨幣経済は普及しておらず(そもそも貨幣鋳造を清に認められていなかった)、物々
交換が主流であった。末期、閔妃が実権を持っていた時代は特にその贅沢から財政が圧迫
されており、大院君を始めとした勢力や改革派は閔妃を敵視し、国民からも国家の敵とさ
れていた。そのため「閔后(みんふ)のような女」という言葉は、韓国において女性の最
大の別称だったとされる。(親日派のための弁明2 金完燮)
 大院君が政治の実権を握ると、開国を巡る様々な事件が起きた。この開国を巡り、大院
君と閔妃の対立が激しくなり、甲午農民戦争の勃発で日清戦争が起き、日本の勝利で清か
ら独立、属国時代を終える。

大韓帝国(1897-1910)

 日清戦争の結果日本が李朝を独立させて出来た国家で、実質李氏朝鮮と同じである。
 1905年に日本の保護国となり、1910年に日本に併合された。改革に失敗し、李
完用を中心とした一進会の日韓併合派が勝ち、併合へと進む。伊藤博文は朝鮮統監府の
トップであったが、併合には反対であった。その伊藤を安重根が殺害したため併合するこ
とになった。元総理大臣を殺害されたのだから、本来なら軍を進軍させて武力で併合して
もおかしくないのだが、ただの文書上の併合で済ませるなど、日本側の極めて「優しい」
対応がよく見える。
 日本統治時代と独立後の大韓民国についてはたくさんの書物も出ているので省略する。
 この時代に起こった国家間の出来事は日韓基本条約で全て片付いていることであるの
で、言及しても本論においてはあまり意味がないためである。仮に記述するとなると、ス
ペースが到底足りない。この時期の出来事を韓国人が主張するときは政治的意図があり、
主導権を取ろうとしているだけで、まともに相手をしても意味がない。言われたら「日韓
基本条約で解決済み」として突っぱねれば良いだけのことだ。
 李氏朝鮮時代の身分制度には、貴族を代表する「両班」、奴隷身分を代表する「白丁」
などがあり、両班は自らのために仕事をするなどの労働は認められなかった。さらにはそ
の両班を取り巻く人々は、取り入ろうとして行く先々で様々な狼藉を働くが、それが当然
のこととされていた。そのため、奴隷身分(農民含む)は一切の贅沢が出来なかった。少
しでも裕福と見なされると、両班や親族、その他様々な人が押し寄せて徹底的にむしり取
るからである。奴隷身分の人々は、それ故に、いかに貧乏に見せるか、と言うことに腐心
し、これがもとで文化が国民階層からは生まれなかった。この両班の「取り巻きの狼藉」
は、朝鮮通信使が日本に来日した際、民家から鶏を強奪して民衆と喧嘩になる絵図などか
らも窺うことが出来る(朝鮮人来聘記:京都大学蔵)。この身分制度は日本統治時代に完
全に禁止された。しかし差別は根強く残り、差別された民衆は日本統治時代に日本へ渡
り、現在も在日として留まっている。
 さらには、ハングルを世宗が作った目的は「愚民にも使える文字」ということであっ
た。作られてから三代で廃止となり、以降政権では使用されなかった。国民の間でもほと
んど使われず、日本統治期に日本が教育をするまで、一般化されなかった。日本が官報に
漢字とハングルを交ぜて使うようになり、初めて国民に理解されるようになった。つまり
ハングルの国民への普及は日本統治時代である。

(1)歴史に基づく韓国発言の真偽

 前述の朝鮮半島の歴史から、韓国が主張するいくつかの事柄について真偽を見てみよ
う。いずれも、韓国では真実として伝えられ、韓国民一般に信じ報道されている事柄であ
る。

・韓国半万年の歴史(中央日報日本語電子版2007.2.23他)

 古朝鮮は、中国文献による衛氏朝鮮以降からしか記録が無く、檀君神話を元に半万年の
歴史と主張する韓国の言い分には一切の根拠がない。そもそも、檀君神話は神話であり、
それを歴史とするにはあまりにも無理がありすぎる。在日韓国大使館HPのDynamic 
Koreaでもそれを掲載し、軍隊や学校でもそれを事実として教えているが、まさに政府を
上げて捏造している証拠でもある。

・日本は百済が作った
 百済からの亡命者がいたのは事実だが、決して日本を作ったのではない。そもそも百済

は日本の属国だったのだから、それが日本を作るなどあり得ず、そのような意見はあまり
にも荒唐無稽である。そもそも、百済は今の韓国人とは関係がない。

百済、古代韓国が日本を統治していた(中央日報日本語電子版2004.09.16他)

 広開土王碑や文献を見ても、逆に日本が支配側であって、百済が日本を統治していた事
実はない。

・天皇は百済の末裔(朝鮮日報日本語電子版2001.12.24他)

 皇室に渡来系の血が入っていることは事実であるが、その一族の中で一人二人の血が混
じっている程度で天皇を半島系というのは無茶である。それどころか、そのほかの日本の
天皇まで韓国生まれとしているが(ブレーキニュース2007.12.31)、当然そのようなこと
はあり得ない。

・韓国は他国侵略をしたことがない(朝鮮日報日本語電子版2007.03.01他)

 元の時代、高麗が頻繁に元に日本侵略を打診していることから、無いというのは事実に
反する。また、倭寇討伐と称し、李氏朝鮮は度々対馬や五島列島に軍を派遣している。

・李舜臣は秀吉軍を破り、世界4大提督の一人として数えられている(daum 2007.04.24
他)

 李舜臣はほとんどをゲリラ戦で闘ったに過ぎず、戦局に大きな影響はなかった上、最後
は明と講和を結び撤退する日本軍を背後から襲い、返り討ちにあっている。世界の提督に
数えられる器ではなく、事実、世界で認識されていない。東郷平八郎が彼を尊敬している
とした話はきちんとした記録はなく、あくまでも小説の一節に使われている程度に過ぎな
い。仮に本人が言ったとしてもリップサービスレベルで、李舜臣を英雄に祭り上げたのは
半島統治時代の日本であり、朝鮮民族に自信を持たせるために行った政策である。

・秀吉軍が韓国の文化財を破壊し尽くした
 半島では前政権の遺物をことごとく破壊する伝統があり、日本が行くまでもなく破壊が

進んでいた。さらには李氏朝鮮では仏教が弾圧されており、寺院など仏教文化財は出兵前
にかなり破壊されている。秀吉軍だけのせいと決めつけるには疑問がある。李恒福の「白
沙集」では、秀吉が入る前には既に廃墟と化していたとの記述もある。(「醜い韓国人」
 朴泰赫 1993 光文社)

・朝鮮通信使は日本に文化を伝えてあげ、日本は頭を下げてそれをありがたがった
 日本は出島などの貿易でさらに進んだ西洋の文化を取り入れており、朝鮮の文化は儒教

以外、取り入れられたものはほとんどない。朝鮮通信使は将軍の代替わりの際の祝賀とし
て派遣されてきており、日本の方が先進国であったことは朝鮮通信使であった金仁謙の
「日東壮遊歌」にも詳しく、日本の先進国ぶりに驚愕する著者が赤裸々に描かれている。
日本側も幕府の権威高揚に利用したに過ぎない。交流があったのは儒学者など一部の人間
だけであった。この朝鮮通信使一行の見学は、江戸庶民の娯楽でさえ有り、むしろ見せ物
であった。彼らの乱暴狼藉が目立ち、庶民からは煙たがられていたのが事実だ。

・閔妃暗殺は日本の浪人である(朝鮮日報日本語電子版2009.04.19他)

 この争いは大院君と閔妃の政権争いであり、大院君及びその一派の起こした行動であ
る。閔妃は自らの利益のため朝鮮の利権を海外に売り渡すなど売国を推し進めていたの
で、国民及び朝鮮改革派からは敵視されていた。この当時、朝鮮にいたイザベラ・バード
は著書「朝鮮紀行」で日本の起こした可能性を言いつつも「その後のできごとについては
これまで明確な記述が一度としてなされたことがない(p.354)」としている。デ・ゲ・
チャガイの朝鮮旅行記でも伝聞でしか書かれておらず、日本人の仕業という証拠は何もな
い。さらには今の韓国人が言うような「閔妃を死姦した」等と言うような記録はない。異
常な反日から、歴史を改竄し明らかに悪意をもって日本を悪として伝えているのがわか
る。

日韓併合は日本の軍事力による侵略である
 日本が半島を侵略するつもりであれば、日清戦争の時点で独立させずに割譲させていた

はずである。朝鮮半島は非常に貧しい地域であり、日本領土とするとその負担が大きく、
日本としては日本の領土化を望んでいなかった。その後、李完用首相の下、公称党員
100万人と言う政治結社一進会により、大韓帝国皇帝の認可の上で日本に併合を願い出
ている。武力を背景にした圧力があったとしても、併合派の首相が望んで決定したことで
あり、日本は軍事占領して併合したのではなく、国家のトップがそうした誓願をしている
以上、侵略ではなく平和に行われた併合である。何度と無く日本公館を焼き討ちされたり
日本人を殺害され、しまいには初代総理大臣でもあり朝鮮統監府統監であった伊藤博文を
暗殺までされているのであり、日本側からすれば軍事侵攻による制裁をしても何ら不思議
ではないが、それを行っていない。米英なども併合を合法としており、世界的に見ても韓
国の言う違法ではない。そもそも、日本と大韓帝国が戦争をした事は一度も無いし記録も
ない。

・韓国は太平洋戦争の被害者であり戦勝国である(忠青トゥデイ2008.09.19他)

 当時、朝鮮半島は日本であり、韓国が被害者であるというのは間違いである。戦後、半
島出身者は朝鮮進駐軍や戦勝国と名乗り、日本国内でかなり暴れていたが、当然戦勝国で
はない。日本と同じ「敗戦国」である。韓国の主張する「大韓民国臨時政府」による日本
への宣戦布告というものも、一切「大韓民国軍」なるものが動いた形跡もなく、そもそも
臨時政府と言う存在自体、世界が認めていない以上、戦勝国というのはあり得ない。連合
軍の配慮から、戦犯国と言わずに第三国と言ったが、現在はこれすら差別用語だとして韓
国は否定している。
 前述したが、日本統治時代、独立後については、ここでは割愛する。ただし、小生は韓
国の主張には否定的である。これについては論じていくと本が数冊出来てしまうレベルに
なるので、ここでは日韓基本条約で解決済みとだけ申し上げる。
 否定ばかりになってしまうのだが、韓国人が外国人に接すると必ず自慢もしくは日本批
判として繰り返されるこれらの事柄は、ほとんどが韓国側が都合良く作りあげたもので、
事実とは違っている。このことを知らないと、感情にまかせ熱弁する韓国人のペースに乗
せられ、正しい歴史事実の認識が出来なくなる。
 否定が多いことで、韓国人にとっては厳しい意見となってしまうが、これはあくまでも
記録や書物に基づく判断である。

韓国の歴史


 韓国について知るには、まずその歴史を知らなければならない。韓国は常に歴史を背景に発言し、思考する。そのバックボーンと思想を知ることが、両国関係改善の第一歩につながると信じる。以下、半島の歴史について述べる。

古代朝鮮半島

 古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどない。実質、残っているのは日本と中国に残る文献だけであり、韓国の主張する古代半島の歴史は何ら証拠がない。韓国では檀君を始祖とする檀君神話から朝鮮の歴史が始まるとされ、古朝鮮の存在を主張するが、韓国はもちろん、周辺国にもその記述は見あたらない。よって、韓国人の主張する「半万年の歴史」は歴史的に根拠がない。

 朝鮮半島の国家が文献に登場するのは衛氏朝鮮からであり、紀元前150年頃からである。「史記」に登場するこの国家は、中国からの亡命者が作った国家であった。漢の武帝の意に沿わなかったことから紀元前108年頃に漢から軍が派遣され、滅びた。その後楽浪郡などが置かれたが、実質中国の一地方・植民地で、朝鮮半島の出身者による国家ではない。朝鮮半島の独立国家としては高句麗百済新羅による「三国時代」まで待たねばならない(4世紀中葉~670年頃)。

三国時代

 高句麗扶余系民族による国家、百済はやはり扶余系の民族による国家、つまり韓国人の祖先による国家ではない。それに対し、新羅百済人の王による国家(隋書東夷伝)である。現在の韓国人は、新羅の系統の民族である。

 この時代、日本も朝鮮半島に進出しており、中国の文献、古事記・日本書紀や広開土王碑の記述によれば百済新羅も日本の属国であった(韓国はそれを意図的に認めない)。

 この当時、日本は任那(加羅)に日本府を持ち、朝鮮半島南部に日本固有の前方後円墳が発見されるなど、半島に相当の影響力を持っていたことが伺える。中国の『隋書』にも、新羅百済は「みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」という記述があり、これは朝貢関係があったことと見られており、これは日本が実質の支配に関わっていたことの証拠である。任那日本府に関しては、このたびの日韓歴史公証で無いと言うことにされたが、実際に史書に残っているのであり、少なくとも大使館に当たる施設があったのは事実だ。

 百済の崩壊時に日本は半島から手を引き、新羅が半島を統一(676~935)。唐と柵封関係を持って統治した。しかし、それでも日本の属国であることは変わらず、それは中国の記述でも記されている。百済からはその支配層(扶余系)が大量に日本に亡命し、日本で要職にも就いた。

 新羅が半島を統一した後、国家が混乱した際に一時的に百済高句麗が復活し、後三国時代が成立(892-936)、そして後高句麗の中で王建が反乱を起こし、高麗を建国。高麗に飲み込まれる形で新羅は滅亡、高麗(後高句麗)が朝鮮半島を統一する(918~1392)。

高麗

 高麗は元とのつながりが深く、元の皇帝の娘を王妃に迎えるなど、元と一体化していた。

 高麗の中の反政府勢力を抑えるためにもモンゴルとの結びつきが不可欠だった高麗王(忠烈王)は、日本に対する侵略を元の皇帝に盛んに進めた。それが元寇である。元は高麗に船を造らせ、高麗の兵隊を中心にした軍を日本に送り、結果的に敗走する。

 この元寇の際に高麗軍に虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島の住民が中心になり、復讐の意味合いが強く構成されたのが倭寇である。そのため、高麗軍船が焼き討ちされることも多かった。これに対し高麗李氏朝鮮は倭寇討伐を名目に、幾度となく対馬等に軍を派遣している。感情的な対立が重なり、度々の衝突が見られるが、高麗側は中国軍(元、明)が半島に駐留し秩序を乱されるのを嫌ったため自分達だけで行動を起こしていたとも言われる。

 しかし初期の倭寇は日本人だが、それ以降は中国、高麗人が中心である(朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条、及び『明史』による)。例えば李氏朝鮮を建国した李成桂が倭寇討伐で殲滅したという倭寇の首領の名は「阿其抜都(あきばつ)」で、女真族である(朝鮮王朝実録:太祖実録より)。

 しかし、このたびの日韓歴史公証では再びこの倭寇が全て日本人によるものと認定された。これは史書を完全に無視するものであり、歴史を改竄する行為に等しい。極めて納得できないことである。

 1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。韓国における文書はこれが最古のもので、それ以前の歴史は全て日本と中国の文書による。

李氏朝鮮(1392-1897)

 高麗の武将、李成桂のクーデターにより建国、明と清の朝貢国で冊封関係となる。名前は明に「和寧」「朝鮮」から選んでもらったもので、自国の命名権すらなかった。元号に明のものと採用するなど、事大主義を前面に押し出していたが、李成桂は明の冊封した高麗王を殺害したことなどで明から承認を得られず、朝鮮王としては冊封されなかった。彼は崇儒廃仏政策を推し進め、儒教を推し進めると共に仏教を弾圧した。そのため、仏教文化や文化財はことごとく破壊もしくは海外に売却され荒廃する。世宗によりハングルが作られたのもこの時代である。

 この時代は儒教に基づく政治が特徴である。その特色から明、清、末期の3時代に分けられる。

 この時代は、日本との文化的な交流で目立つものはない。大きな出来事は豊臣秀吉による朝鮮出兵である。朝鮮出兵では、日本軍に対し大きな抵抗運動が行われたと報じられているが、最初の出兵ではたった半月で首都まで陥落しており、日本に対する大きな抵抗運動と言うには疑問が残る。そして進軍しすぎて補給線が伸びきった日本軍は頓挫するに至った。しかも腐敗が続いていた朝鮮王朝に反旗を翻した国民などの暴動などにより、国内はかなり荒廃した。この2回の文禄の役と慶長の役のことを韓国では倭乱と呼んでいるが、この「倭」という言葉は日本の蔑視単語として今でも頻繁に使われている。この戦争で明も疲弊し、朝鮮も立て続き起きた胡乱により、完全に荒廃する。

 朝鮮王は明・清に任命され、自分達で決めることは許されなかった。冊封を受けなければ王として認められず、完全に中国の一地方政権に過ぎない扱いである。

 中国における明と清との争いの時、朝鮮は明側に着いたため、清が政権を取ると完全に属国化し、三跪九叩頭を強いられるなど、屈辱の時代を送ることになった。この属国関係は、日本が日清戦争で朝鮮を独立させる1895年まで続いた。

 この頃は経済が破綻していたため、日本から貨幣材料の銅を輸入して依存していた。国民に貨幣経済は普及しておらず(そもそも貨幣鋳造を清に認められていなかった)、物々交換が主流であった。末期、閔妃が実権を持っていた時代は特にその贅沢から財政が圧迫されており、大院君を始めとした勢力や改革派は閔妃を敵視し、国民からも国家の敵とされていた。そのため「閔后(みんふ)のような女」という言葉は、韓国において女性の最大の別称だったとされる。(親日派のための弁明2 金完燮)

 大院君が政治の実権を握ると、開国を巡る様々な事件が起きた。この開国を巡り、大院君と閔妃の対立が激しくなり、甲午農民戦争の勃発で日清戦争が起き、日本の勝利で清から独立、属国時代を終える。

大韓帝国(1897-1910)

 日清戦争の結果日本が李朝を独立させて出来た国家で、実質李氏朝鮮と同じである。

 1905年に日本の保護国となり、1910年に日本に併合された。改革に失敗し、李完用を中心とした一進会日韓併合派が勝ち、併合へと進む。伊藤博文は朝鮮統監府のトップであったが、併合には反対であった。その伊藤を安重根が殺害したため併合することになった。元総理大臣を殺害されたのだから、本来なら軍を進軍させて武力で併合してもおかしくないのだが、ただの文書上の併合で済ませるなど、日本側の極めて「優しい」対応がよく見える。

 日本統治時代と独立後の大韓民国についてはたくさんの書物も出ているので省略する。

 この時代に起こった国家間の出来事は日韓基本条約で全て片付いていることであるので、言及しても本論においてはあまり意味がないためである。仮に記述するとなると、スペースが到底足りない。この時期の出来事を韓国人が主張するときは政治的意図があり、主導権を取ろうとしているだけで、まともに相手をしても意味がない。言われたら「日韓基本条約で解決済み」として突っぱねれば良いだけのことだ。

 李氏朝鮮時代の身分制度には、貴族を代表する「両班」、奴隷身分を代表する「白丁」などがあり、両班は自らのために仕事をするなどの労働は認められなかった。さらにはその両班を取り巻く人々は、取り入ろうとして行く先々で様々な狼藉を働くが、それが当然のこととされていた。そのため、奴隷身分(農民含む)は一切の贅沢が出来なかった。少しでも裕福と見なされると、両班や親族、その他様々な人が押し寄せて徹底的にむしり取るからである。奴隷身分の人々は、それ故に、いかに貧乏に見せるか、と言うことに腐心し、これがもとで文化が国民階層からは生まれなかった。この両班の「取り巻きの狼藉」は、朝鮮通信使が日本に来日した際、民家から鶏を強奪して民衆と喧嘩になる絵図などからも窺うことが出来る(朝鮮人来聘記:京都大学蔵)。この身分制度は日本統治時代に完全に禁止された。しかし差別は根強く残り、差別された民衆は日本統治時代に日本へ渡り、現在も在日として留まっている。

 さらには、ハングルを世宗が作った目的は「愚民にも使える文字」ということであった。作られてから三代で廃止となり、以降政権では使用されなかった。国民の間でもほとんど使われず、日本統治期に日本が教育をするまで、一般化されなかった。日本が官報に漢字とハングルを交ぜて使うようになり、初めて国民に理解されるようになった。つまりハングルの国民への普及は日本統治時代である。

(1)歴史に基づく韓国発言の真偽

 前述の朝鮮半島の歴史から、韓国が主張するいくつかの事柄について真偽を見てみよう。いずれも、韓国では真実として伝えられ、韓国民一般に信じ報道されている事柄である。

・韓国半万年の歴史(中央日報日本語電子版2007.2.23他)

 古朝鮮は、中国文献による衛氏朝鮮以降からしか記録が無く、檀君神話を元に半万年の歴史と主張する韓国の言い分には一切の根拠がない。そもそも、檀君神話は神話であり、それを歴史とするにはあまりにも無理がありすぎる。在日韓国大使館HPのDynamicKoreaでもそれを掲載し、軍隊や学校でもそれを事実として教えているが、まさに政府を上げて捏造している証拠でもある。

・日本は百済が作った

 百済からの亡命者がいたのは事実だが、決して日本を作ったのではない。そもそも百済は日本の属国だったのだから、それが日本を作るなどあり得ず、そのような意見はあまりにも荒唐無稽である。そもそも、百済は今の韓国人とは関係がない。

百済、古代韓国が日本を統治していた(中央日報日本語電子版2004.09.16他)

 広開土王碑や文献を見ても、逆に日本が支配側であって、百済が日本を統治していた事実はない。

・天皇は百済の末裔(朝鮮日報日本語電子版2001.12.24他)

 皇室に渡来系の血が入っていることは事実であるが、その一族の中で一人二人の血が混じっている程度で天皇を半島系というのは無茶である。それどころか、そのほかの日本の天皇まで韓国生まれとしているが(ブレーキニュース2007.12.31)、当然そのようなことはあり得ない。

・韓国は他国侵略をしたことがない(朝鮮日報日本語電子版2007.03.01他)

 元の時代、高麗が頻繁に元に日本侵略を打診していることから、無いというのは事実に反する。また、倭寇討伐と称し、李氏朝鮮は度々対馬や五島列島に軍を派遣している。

・李舜臣は秀吉軍を破り、世界4大提督の一人として数えられている(daum2007.04.24他)

 李舜臣はほとんどをゲリラ戦で闘ったに過ぎず、戦局に大きな影響はなかった上、最後は明と講和を結び撤退する日本軍を背後から襲い、返り討ちにあっている。世界の提督に数えられる器ではなく、事実、世界で認識されていない。東郷平八郎が彼を尊敬しているとした話はきちんとした記録はなく、あくまでも小説の一節に使われている程度に過ぎない。仮に本人が言ったとしてもリップサービスレベルで、李舜臣を英雄に祭り上げたのは半島統治時代の日本であり、朝鮮民族に自信を持たせるために行った政策である。

・秀吉軍が韓国の文化財を破壊し尽くした

 半島では前政権の遺物をことごとく破壊する伝統があり、日本が行くまでもなく破壊が進んでいた。さらには李氏朝鮮では仏教が弾圧されており、寺院など仏教文化財は出兵前にかなり破壊されている。秀吉軍だけのせいと決めつけるには疑問がある。李恒福の「白沙集」では、秀吉が入る前には既に廃墟と化していたとの記述もある。(「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社)

・朝鮮通信使は日本に文化を伝えてあげ、日本は頭を下げてそれをありがたがった

 日本は出島などの貿易でさらに進んだ西洋の文化を取り入れており、朝鮮の文化は儒教以外、取り入れられたものはほとんどない。朝鮮通信使は将軍の代替わりの際の祝賀として派遣されてきており、日本の方が先進国であったことは朝鮮通信使であった金仁謙の「日東壮遊歌」にも詳しく、日本の先進国ぶりに驚愕する著者が赤裸々に描かれている。日本側も幕府の権威高揚に利用したに過ぎない。交流があったのは儒学者など一部の人間だけであった。この朝鮮通信使一行の見学は、江戸庶民の娯楽でさえ有り、むしろ見せ物であった。彼らの乱暴狼藉が目立ち、庶民からは煙たがられていたのが事実だ。

・閔妃暗殺は日本の浪人である(朝鮮日報日本語電子版2009.04.19他)

 この争いは大院君と閔妃の政権争いであり、大院君及びその一派の起こした行動である。閔妃は自らの利益のため朝鮮の利権を海外に売り渡すなど売国を推し進めていたので、国民及び朝鮮改革派からは敵視されていた。この当時、朝鮮にいたイザベラ・バードは著書「朝鮮紀行」で日本の起こした可能性を言いつつも「その後のできごとについてはこれまで明確な記述が一度としてなされたことがない(p.354)」としている。デ・ゲ・チャガイの朝鮮旅行記でも伝聞でしか書かれておらず、日本人の仕業という証拠は何もない。さらには今の韓国人が言うような「閔妃を死姦した」等と言うような記録はない。異常な反日から、歴史を改竄し明らかに悪意をもって日本を悪として伝えているのがわかる。

日韓併合は日本の軍事力による侵略である

 日本が半島を侵略するつもりであれば、日清戦争の時点で独立させずに割譲させていたはずである。朝鮮半島は非常に貧しい地域であり、日本領土とするとその負担が大きく、日本としては日本の領土化を望んでいなかった。その後、李完用首相の下、公称党員100万人と言う政治結社一進会により、大韓帝国皇帝の認可の上で日本に併合を願い出ている。武力を背景にした圧力があったとしても、併合派の首相が望んで決定したことであり、日本は軍事占領して併合したのではなく、国家のトップがそうした誓願をしている以上、侵略ではなく平和に行われた併合である。何度と無く日本公館を焼き討ちされたり日本人を殺害され、しまいには初代総理大臣でもあり朝鮮統監府統監であった伊藤博文を暗殺までされているのであり、日本側からすれば軍事侵攻による制裁をしても何ら不思議ではないが、それを行っていない。米英なども併合を合法としており、世界的に見ても韓国の言う違法ではない。そもそも、日本と大韓帝国が戦争をした事は一度も無いし記録もない。

・韓国は太平洋戦争の被害者であり戦勝国である(忠青トゥデイ2008.09.19他)

 当時、朝鮮半島は日本であり、韓国が被害者であるというのは間違いである。戦後、半島出身者は朝鮮進駐軍や戦勝国と名乗り、日本国内でかなり暴れていたが、当然戦勝国ではない。日本と同じ「敗戦国」である。韓国の主張する「大韓民国臨時政府」による日本への宣戦布告というものも、一切「大韓民国軍」なるものが動いた形跡もなく、そもそも臨時政府と言う存在自体、世界が認めていない以上、戦勝国というのはあり得ない。連合軍の配慮から、戦犯国と言わずに第三国と言ったが、現在はこれすら差別用語だとして韓国は否定している。

 前述したが、日本統治時代、独立後については、ここでは割愛する。ただし、小生は韓国の主張には否定的である。これについては論じていくと本が数冊出来てしまうレベルになるので、ここでは日韓基本条約で解決済みとだけ申し上げる。

 否定ばかりになってしまうのだが、韓国人が外国人に接すると必ず自慢もしくは日本批判として繰り返されるこれらの事柄は、ほとんどが韓国側が都合良く作りあげたもので、事実とは違っている。このことを知らないと、感情にまかせ熱弁する韓国人のペースに乗せられ、正しい歴史事実の認識が出来なくなる。

 否定が多いことで、韓国人にとっては厳しい意見となってしまうが、これはあくまでも記録や書物に基づく判断である。


http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory.htm


韓国の歴史

檀君(タングン)神話  

 

Tan-Gun神話には万物の神で空の支配者のファンイン が自分の息子であるファンウン に山や渓間のある地上に下りて住むように命じ彼を手伝う風伯、雨師、雲師など3000人と一緒に地上へ送りながら「住みやすい人間世界になるように力になってあげなさい:弘益人間」という建国理念を提示しました。 

ファンウンは今の北朝鮮と中国満州の国境に位する太白山(今の白頭山)に降りてきて そこを神市 と命じて律法を制定して人間に芸術、医療、農耕術を教えました。 

Tan-Gun穴で同棲していた一頭の虎と熊が人間になりたくてお祈りしました。それを聞いたファンウン彼らを呼んで20かけらのにんにくと一本のよもぎをあげながら100日間日を浴びないでただ聖なるにんにくとよもぎばかり食べるように指示しました。虎はすこしして穴を出てしまいましたが熊は20日を堪えたあげく21日目に女に変わりました。 

 熊女(ウンニョ)はファンウンに謝して仲間がいなくて寂しくて神檀樹の下で子供を生ませてほしいとお祈りしました。熊女の祈りに心を打たれたファウンが彼女を花嫁に迎え入れ赤ちゃんが生まれ彼を祭壇を支配する統治者という意味をもつ檀君(タングン) と名づけました。

 檀君(タングン)は賢明で強い指導者として育ちB.C.2333年平壌城(今の北朝鮮の首都)へ移してきて朝鮮王朝を立てました。それ以降1908才になる年太白山(今の白頭山)へ戻り山神になりました。

(最近正統性確保のために北朝鮮政府が檀君(タングン)の墓を見つけだしたと主張したことがあります)。

20世紀 以前

??- 57 B.C.:  B.C.4000年以前から韓半島に人が住んだという証があります。檀君神話によるとB.C.2333年に人間であると同時に神様である檀君が朝鮮(静かな朝の国という意で後李氏朝鮮王朝と区分するため古朝鮮とも呼ぶ)を建てたと伝えられており、B.C.1世紀ごろの三韓時代前までは中央執権的な権力がありませんでした。  

 57 B.C. - 668 A.D.: 新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)三国時代で同一民族で同一言語を使いました。高句麗は韓半島の漢川以北から中国の満州、遼東地域まで広闊な領土を占め、新羅(しらぎ)は韓半島の漢川以南の東側地域、百済は西側地域を占めていました。中国の文化が入ってきて、仏教は372年はじめて高句麗に紹介されました。三国の文化は日本の古代国家にたいへんな影響を及ぼしました。新羅が中国の唐と連合軍と百済を攻撃した時、百済は日本の古代国家の軍事支援を受けて決死抗戦しましたが660年に敗亡し、相次いで668年に高句麗が敗亡するにつれ668年に統一新羅という単一国家が生まれました。
  

 668 - 935: 統一新羅の首都は慶州でその時期に仏教が盛んになりたくさんの寺の建築や芸術作品に花を咲かせました。中国からの多くの影響もありましたが新羅特有の文化を形成しました。 社会は少数官僚グル‐プと大衆に分けられていました。官僚組織がだんだんバラバラになってくると昔の高句麗百済地域の軍部が勢いを増しながらとうとう高句麗の子孫である王建が統一新羅を倒し国名を昔の高句麗の脈を継ぐ意でコウイラ(高麗-Koryo)と名付けました。

 918 - 1392: KOREAという韓国を称する英語は高麗(Koryo)という国名から出てこの時期に法律の制定と百姓に対する各種役法が導入されました。 高麗時代に仏教は盛期を迎えて韓半島全域に広がりました。 前の王朝と同じく高麗もやはり内乱と外部侵攻に苦しみましたが代表的な例が中国を支配したモンゴルの侵略で当時の臨時首都をソウルの近くの江華島へ移したこともあります。おおよそ25年間の闘争のあげく結局投降し以降150年間は高麗王朝が受け継ぎましたがモンゴルの間接支配を受けることになりました。モンゴルの勢力がだんだん衰えるにつれ高麗の勢力も衰え1392年高麗の将軍である李成桂が中国の新しい王朝である明王朝と連合し威化島から戻ってきて高麗王朝を倒し、新たに王朝を立てたのが朝鮮です。高麗時代の有名な焼き物が高麗青磁です。 

 1392 - 1910: 高麗を滅亡させた朝鮮は1394年に首都を漢陽(今のソウル)へ移しました。(紀元前韓半島最初の国家である朝鮮の精神を受け継ぐという意味で国号を朝鮮と決め後世にこれを区分するために前者を古朝鮮、後者を李氏朝鮮または朝鮮と呼んでおり、今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国の名前と同一の意味である)高麗時代の仏教の腐敗を防ぐために儒教を国家の根本にし朝鮮時代初期の仏教は衰えてきました。1446年第4代王である世宗大王は官僚社会の公式文字である漢字が難しすぎてすべての百姓が自分の意思を文章で表現できないのを哀れに思い、ユニークでとても科学的な文字であるハングルを作り出して普及に尽くしました。朝鮮時代にも内乱や侵略が絶えませんでした。その中で代表的な侵略は1592年から1598年まで日本の侵攻と1627年から1636年まで中国清国の侵略がそれです。19世紀以後日本と西洋の貿易商らが韓半島に寄り集まってくると当時の王朝は隠遁の国というあだ名が付くほど鎖国政策で一貫しました。1876年から日本は一連の西洋式の貿易協定を結ばせついに1910年朝鮮は日本に侵略されてしまいました(韓日合邦)反日感情が高まるにつれ当時の王様である高宗は1897年に独立国家であることを世の中に知らせるため国号を大韓帝国に変え1904-1905日露戦争の時、中立を宣言したが日本は韓半島に軍隊を駐留させ1905年乙巳保護条約の締結で韓半島は事実上日本の支配を受けることになり1910年韓国併合が布告されました。 

20世紀

 1910 - 45: 日本の韓国占領期で、日本によって道路と橋梁等の社会間接資本も設けましたが内鮮一体(日本と朝鮮は一つであること)を先建て韓国の文化を抹殺して鉄拳政治で韓国を支配したことも事実です。 姓名を日本式に改めることや神社に参ることをを押し付けられ学校でもハングルの使用は禁止でした教育をしていた。

http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/33319174.html

 1919年3月1日の非暴力独立運動は 残酷に鎮め数千人の死亡者や数万人がけがをしたり監獄に監禁されたり数えられないほどの教会やお寺、家屋が壊れました。第2次 世界大戦中は人は言うこともなく活用できるすべての資源は戦争用に取られ当時に無理やりに引っ張れていった人はまだも帰られず 日本に住んでいる状態です。 
 

 1945 - 60: 1945年8月15日日本の降参宣言で、ポツダム会議によって北緯38度 線以南はアメリカ、以北はソ連が別々に占領して信託統治をするようになりました。U.Nの支援の下で1948年南朝鮮にはソウルを首都に大韓民国政府立てられ、北朝鮮には平壌を首都に共産主義朝鮮民主主義人民共和国が樹立されました。1950年6月25日 には北朝鮮が南朝鮮を侵攻していわゆる韓国戦争が起こりU.N.軍が南朝鮮の支援のために参戦して以後中国が北朝鮮を支援して参戦しました。3年間の戦争で両側には数百万人の死者が出ました。(韓国戦争編へ行けば日々事件日誌、写真などを含めたもっと詳しい内容が見られます。1960年には腐敗した政権に抵抗した学生運動(4.19義挙)で李承晩大統領が下野しました。 

 1961 - 79: 1961年当時軍需基地司令官であった少将朴正煕が軍事ク‐デタ‐で民主党政府を引っくり返し戒厳令を宣布した後自分が大統領に就任しました。たとえ政治的には非民主的でしたが刮目に値するほどの経済社会的変化を導出して韓国の産業化及び経済成長に大きな成果を勝ち得ました。 彼の政権の下で京釜高速道路、ソウル地下鉄等の主要社会間接資本の拡充ができましたが国民の民主化の熱望が表出された1979年釜馬(釜山、馬山市民)民主化抗争の余波で1979年12月26日当時中央政府部長(今の国家情報院)であった金載硅(キムザエギュ)に弑逆されました。 

 1980 - 87: 朴正煕大統領の死亡以後権力の空白期に当時の大統領の弑逆事件の捜査を務めていた国軍保安司令官少将全斗煥が軍使ク‐デタ‐を謀議してついに1980年5月17日政権を摘むようになりました。また軍司戒厳令を宣布した後大統領に就任し数百人の既成政治人について政治活動を禁じて光州の青年学生らが主導した民主化運動を軍人に強制に鎮めさせ数百人の死者とたくさんの怪我人が発生しました。朴正煕政権ほどは厳しくはないし多くの改革を導きましたがすべての国民が長期間の軍使政権にあきていて疲れて、1987年次の大統領選挙に民主化された政権創出を望む激しい学生デモでとうとう1987年6月29日当時の執権当の代表であった全斗煥大統領と陸軍士官学校同期であると同時に軍使ク‐デタ‐同士であった虜泰愚による6.29民主化宣言が発表されました。 

 1988 - 92: 全斗煥大統領に執権当の大統領候補と指名された盧泰愚候補が大統領選挙で勝ちましたが、これは当時野党政治界の二人の大立者であった金大中候補と金泳三候補が最後まで候補単一化に失敗するによってがっかりした国民の表が散らばったのに起因したところが大きいです。虜泰愚政権は北朝鮮の長年同盟国である旧ソ連及び中国と正式な修交を結んび1988年ソウルオリンピックを成功的に修行して韓国が本格的に世界への背伸びするきっかけになりました。 

 1992 - 1996: 1987年大統領選挙で落ちた金泳三候補は虜泰愚政権の執権当と力を合わせ執権当の代表がなり執権当の大統領候補と再出馬して当選されました。軍使政権に対して彼の政権を文民政府を称して軍使政権の下での凍り付いていた相当の経済規制を改革するいわゆる"新経済"と"グロ‐バリズム"に尽くしました。地下金融を取り除ける金融実名制を導入して2000個あまりの各種法律や規制がなくなったり改正されました。彼の献身的な努力にもかかわらず政権末の外国為替危機事態で経済的に最大に悲しい政権として記憶されます。 

1997 - 現在: 4回目の挑戦のあげくやっと大統領に当選された金大中候補は韓国の憲政史上野党で政権を勝ち取った最初の人物です。 民主的で平和的に実質的な政権交代を成したのです。就任の前から外国為替危機を早期に切り抜けるために最善を尽くし金融/企業/政府の革新的なリストラルに拍車をかける一方北朝鮮との関係改善のため分断史上初めて平壌で南北頂上会談を行うなど経済、外交分野に多くの業績が政治的でには与小野大の状態や金鐘泌(キムジンピル)総裁の自民連との共助が強固でないので落ち着いていない都合です。 

韓国の未来

1996 - 現在: 
今世紀最大の裁判で、1996年冬全斗煥、虜泰愚二人の元大統領と彼の身内の人が1979年朴正煕大統領弑逆事件以後武力政権纂奪課程の疑いで訴えられ全元大統領は無期懲役、盧元大統領は17年懲役の宣告を受けました。 1年後1997年12月22日当時の金泳三大統領は退任の前国民大和合の意味で特別赦免及び復権を行いました。 

 政府は経済成長と外国人投資環境改善のため各種経済政策を自由化していきました。 1996年には経済協力開発機構(OECD)の正式会員に加入をしましたが去る十数年間成した経済 的な発展を守るためには特に金融分野など社会全般的なリストラをしなくてはなりませんでした。 

 韓国の世界貿易機構(WTO)加入と経済協力開発機構(OECD)の正式加盟国の選定は国内 市場に対する外部の圧力をもっと圧迫しました。輸入の増加で1996年には貿易赤字が 206億ドルまで達しました。国内企業体は次第にその間政府の保護下にあった国内市場の占有率 の相当部分を譲らなければならなくなり、海外企業体において逆に韓国市場に入って来られるいい機会となりました。  

 1997年11月にはタイとインドネシアについで8月以後国際通貨基金(IMF)の監督の下の国家としてアジアで3番目の国家に落ちぶれてしまいました。 それはOECDに加入してからわずか1年にならない国家としては絶えがたい処方でした。IMFの支援は総600億ドルに達しましが当時としては歴代最大規模のIMF支援でした。IMF支援条件で韓国は短期間にはダメージを受けたとしても競争力のある最強国家を作るための経済改革を行ったものでした。IMF融資条件のため、政府は国民からの抵抗を受けながらもIMFより提示された改革案を真剣に取り組み、IMF支援から3年ぶりの2000年にはIMFよりの公式的に監督下からの脱出に導きました。一時レートが1ドルあたり2000ウォン,100円あたり1500ウォン近く上がって国内でウォンで給料をもらう外国人は相対的に相当の喪失を感じましたが最近はレートが1ドルあたり1100ウォン台,100円あたり1000ウォン台ですごく落ち着いており、日々の変動の幅も小さくなりました。 

 今の金大中政府は任期内のあらゆる金融,企業,公共部門を先進形の構造に変え情報通信,インタ‐ネット,観光産業などを国家基幹産業として発展させる同時にベンチャ‐産業を集中育成して先進形の勤め先をすべての国民に提供するという野心満ちたプランを一つずつ成していて、首脳会談を通じた南北関係の画期的な転換で韓半島内の戦争の恐れを抜き平和を落ち着け統一の基盤を築きました。そのうえ相互協力で近い内に南北間陸路/海路/空路を復元しアジア,ヨ‐ロッパを繋ぐ21世紀の新しいシルクロードを構築することによって韓半島が世界物流の中心地となり名実相伴う世界先進国の隊列に肩を並べるという青写真を持っています. 

日本とはそれまでの経済的政治的交流と協力にもかかわらず文化交流においてはすごく制限的であったのも事実ですが現政府に入って2次に掛けた大幅の文化開放に引き続く全面開放で名実相伴う隣の国としての新なる同伴者関係を追い求めていきます。これに当LifeinKoea.comも微力ながら最善を尽くします  

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http://www.lifeinkorea.com/Information/tangunj.cfm


   3世紀終わり頃に氏族国家成立
   三国時代(高句麗,百済,新羅)(4世紀頃~668年)
   統一新羅(676年~935年)
   高麗(918年~1392年)
   朝鮮(1392年~1910年)
   日本による統治(1910年~1945年)を経て,第二次大戦後,北緯38度以南は米軍支配下に置かれる。
   1948年大韓民国成立。同時に朝鮮半島北部に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が成立。

朝鮮の歴史

衛氏朝鮮
(えいしちょうせん)

	

広開土王の領土拡張(ソウル 戦争博物館)

  史記によれば、朝鮮は戦国の7雄の一つ燕の支配下に入っていた。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。

 衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。

 後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。

三国時代

	
	

 BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。

 半島南部では、3世紀頃に三韓馬韓辰韓弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓百済(くだら)が、辰韓新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。

 4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(か
や)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。

 新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅朝鮮半島を統一した。

 新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。

高麗

	

元寇(ソウル 戦争博物館)

	

 9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。

 993年からは契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。

 1231年からはモンゴルの侵入が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。1259年、高麗モンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。

 元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。1350年頃からは倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。

李氏朝鮮

 

 

 

 

年表に戻る

	

李成桂が建てた王宮(景福宮 ソウル)

 元が滅んで明の時代になると、倭寇や元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に李氏朝鮮を興した。

 李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮王)に封ぜられ、国号を朝鮮とした。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393~1637年)、清の朝貢国の時代(1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半~ 1910年)に分けられる。

 李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。
文禄・慶長の役
(倭乱)
朝鮮水軍を率いて活躍した李舜臣(ソウル)

 1589年、中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。

 1592年、日本軍が釜山に上陸した(文禄の役)。体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。その後、支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂、1597年に日本は再び侵攻してきた(慶長の役)。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。1599年に秀吉が死去し、日本軍は撤退した。

 この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。1609年、日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。
清の侵攻
(胡乱)
清との講和時に建てられた三田渡碑(大清皇帝功徳碑)

 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。1627年、後金は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、後金軍は撤退した。

 1636年、後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。

【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】 中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。

大韓帝国

日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。そして、1910年、日韓併合条約によって日本に併合された。


韓国の歴史
print 韓国にはB.C.2,333年までさかのぼる悠久の歴史があります。ここでは先史時代から現代までの韓国の歴史を見ていくことにしましょう。

先史時代

          

考古学的な発見の数々により、約70万年前に韓半島(朝鮮半島)に人類が定住し始めたとされています。

古朝鮮(B.C.2333-B.C.108)

          

伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がB.C.2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。

三国時代(B.C.57-A.D.676)

          

韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗百済新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。

高句麗

高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした 。B.C.37に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、A.D.668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。

新羅

新羅三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。B.C.57年からA.D.935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅高句麗百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。

百済

百済三国時代の古代国家のひとつで、B.C.18年からA.D.660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。A.D.660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。

統一新羅時代渤海

統一新羅時代(676-935)

統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。

渤海(698-926)

渤海高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。

高麗時代(918-1392)

          

高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。

朝鮮王朝時代(1392-1910)

          

朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。

日帝時代(1910-1945)

1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。

韓国政府の樹立

          

1945年8月15日に韓国は日本の統治から解放されました。しかし38度線を境に南韓(韓国)と北韓(北朝鮮)に分断され、南北はアメリカとソ連の臨時的な軍事統治下に置かれることになりました。1948年5月10日に国連の支援の下、韓国では大統領選挙が行われ李承晩が大統領に当選しました。そして同年8月15日、韓国政府の樹立を知らせる公式宣言が発表されました。一方1946年2月、北韓は金日成を中心とした北朝鮮人民委員会を組織し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。

韓国戦争(朝鮮戦争、1950-1953)

          

1950年6月25日の明け方、北韓は38度線を越え南への侵攻を強行し南北を武力をもって統一しようとしました。これを受け、共産主義勢力から韓国を守るためダグラス・マッカーサー国連軍最高指令官の指揮の下、世界16カ国からの軍事的支援が投入されました。一方、中国とソ連は北韓に軍事的支援を行ないました。戦争は3年間続き、1953年7月27日にDMZに位置する板門店で休戦協定が結ばれ終戦となりました。戦争は韓半島を荒廃させただけでなく、南北間の敵対感情を高め、統一をより一層難しいものにしました。

韓国戦争後(1954-現在)

          

1954年、李承晩政府は反共産主義政策を掲げその後1960年、学生たちの反政府運動である4・19革命により李承晩政府は倒れました。

1963年、大統領に当選した朴正煕大統領は、17年間に及ぶ独裁統治を行ないました。朴正煕大統領が推進したセマウル運動(1970年に始まった全国民的近代化運動)により韓国は大きく発展し、経済発展のための体系的な管理統制による輸出の増大など数々の成果を残しました。しかし、相次ぐ民主化運動と政権の延長に反対する市民たちが増える中、1979年に朴正煕大統領は暗殺されてしまいました。

その後、1980年に政権を握った全斗煥大統領は、前大統領の統治方式を引き継ぎ権威主義的な体制を維持しました。彼は全国的に起こった大規模民主抗争により、1987年に全斗煥大統領は政権から退きました。

1988年、盧泰愚政府はソウルオリンピックを成功裏に開催し、順調に政権をスタートさせました。そして、1991年には国連への加入を果たしました。

1993年からの金泳三政府は、金融取引時に実名を使用するようにする金融実名制を新たに施行し、これは当時は大々的な改革でした。

1998年に大統領に就任した金大中大統領は、1997年に起きたIMF金融危機の克服に全力を尽くし、また2002年にFIFAワールドカップを成功裏に誘致しました。北韓に対しては太陽政策を行ない、金大中大統領はこの功績が認められ2000年にノーベル平和賞を受賞しました。

2003年からの盧武玄政権は、国民の政治参加こそが政治を行なう上で核心的な役割を果たすという参与政府を目指しました。若く改革的な新しい人事政策と過去の権威主義の清算、市民社会の成長などは盧武玄大統領の代表的な成果であると評価されています。また盧武玄政権中には、第2回南北首脳会談も行なわれました。

2008年に韓国の第17代大統領に就任した李明博大統領は、変化と実用をモットーに公企業の民営化、自由貿易協定(FTA)などを積極的に推進しました。2012年現在までにG20首脳会議、核安全保障サミットなど重要な国際的行事を成功裏に開催しました。

一方、北韓は2011年12月、17年間政権を握っていた金正日の死去後、その息子の金正恩が権力を継承しました。 1972年7月4日、南北は韓半島の統一に関する共同協議書に署名して以降、1998年には韓国人の金剛山観光の許可や、2000年と2007年の2度に渡り開催された南北首脳会談などを通し、南北間の平和共存および統一に向けた努力を続けています。

最終更新日:2012年3月30日