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木賀温泉の歴史

木賀温泉の歴史

木賀温泉の歴史は古く、12世紀末、鎌倉幕府の将軍源頼朝に仕えた木賀善司吉成が、重病を癒したという伝説にまでさかのぼります。江戸時代には箱根七湯の一つに選ばれ、湯本、塔之沢、宮ノ下とともに徳川将軍家への献上湯にも選ばれました。

木賀温泉(源泉)

源頼朝の家臣である木賀善司吉成(きが ぜんじ よしなり)という文武に優れた武士が病にかかり、いろいろ手を尽くしたけれど回復せずに死期も間近になりました。その時、一人の老僧に「西の方に温泉の地がある。その温泉に入ればきっとよくなるだろう」と言われ、彼とともに秀麗な箱根のこの地にやってきました。老僧が「涌甘露消湯咸除衆病悩」と唱えると温泉が湧き出しました。喜んだ善司はありがたく温泉につかると、最初の七日間は血がさわぎたち、次の七日間に血がおさまって病が治りました。以来、この温泉は木賀と呼ばれるようになったのだそうです。

厳重な管理がされていた江戸時代の箱根の献上湯の代表格が湯本、塔之沢、宮ノ下、そして木賀。いわば折り紙付きの名湯だが、中でも木賀の湯は特に重宝されたようだ。「子宝の湯」としての評判が高かったためだ。温泉奉行が置かれ、樽詰めにされた献上湯が江戸へ運ばれた。特に妊娠を願う将軍の側室に利用されたとか。

■江戸大奥に寝泊まりしていた女性と言えば、1000人規模のすごい数だ。皆が皆、贅沢な献上湯の恩恵に預かったかどうかは分からないが、少なくとも将軍の正室とか側室ならば希望すれば注文できただろうし、銘柄だって選ぶことができたに違いない。
■かつて第11代将軍家斉は子沢山で有名。20人を超える側室つまり妻妾を持ち、20人を超える男の子、20人を超える女の子を儲けたとも言われている。何とも元気な将軍さまだ。正室は後の「広大院」で、今、人気の大河ドラマの主人公「篤姫」と同じ薩摩の出の人で、子供も儲けたが、スゴいのは将軍さまが側室との間に儲けた子の数だ。将軍さまの子を授かりたいと願望する側室たちの木賀からの献上湯の奪い合いも熾烈を極めたのかも知れない。

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木賀温泉は標高438mの早川渓谷にあり、他の献上湯の供給元よりはかなり高い位置にある。今風に解説すると単純泉・アルカリ性単純泉で、神経痛、関節痛、冷え性、高血圧、皮フ病、切り傷などに効くとされるが、江戸大奥にとっては「子宝の湯」であることが何より重要。

■残念ながら話題の「篤姫」と「和宮」は、子宝の湯の効きめを求めるには至らなかった。二人とも将軍の方が温泉にでもしょっちゅう浸かるだけの精神的なゆとりもなかったようで…。

■箱根七湯の中で二番目に長い歴史を持つ。何と開湯は平安時代末期~鎌倉時代初期。鎌倉幕府の御家人、木賀善司吉成が合戦の折に負傷して箱根の山中に入ったところで白狐が現れ、吉成を温泉に導いたという伝説がある。その後その湯で傷を癒した吉成は合戦に戻り、合戦後その地の地頭の任に就いたことが木賀の名前の由来らしい。

明治初期に東京医学校(現東京大学医学部)に招かれていたドイツの医師ベルツ博士やフランスの軍人ルボン将軍らはこの木賀の地を愛するようになったこともあり、今の国道138号線沿いに亀屋、いせや、松坂屋などの湯宿ができて賑わうようになった。ベルツは奥地にあるこの木賀の地にすっかり惚れんで別荘を建て、「全山中で最もよい場所」と日記に記している。

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