秦朝

秦朝

画像の説明
秦(読み)しん(英語表記)Qin; Ch`in
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

しん
Qin; Ch`in
中国,周代の諸侯国で,戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設 (前 221~206) 。甘粛省方面から起り,帝せんぎょくの子孫栢翳 (はくえい) が舜からえい姓を賜わったというが,西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王の東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公 (ぼくこう) が発展に努め,五覇の一つに数えられたこともあるが,中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅 (しょうおう) を用いた孝公のときからで,次の張儀を用いた恵王,白起らを用いた昭襄王にかけて韓,魏など6国に圧迫を加え,始皇帝のときに天下を統一した (前 221) 。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され,子嬰 (しえい) が立ったが漢の劉邦 (→高祖) に降伏し,前 206年に滅亡した。

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デジタル大辞泉の解説
しん【秦】
中国の国名。
春秋戦国時代の国の一。戦国七雄の一。初め秦(甘粛)の地にいたが、前771年、周の諸侯に列せられて以後、渭水(いすい)に沿って東進。勢力を拡大して、前249年に周を滅ぼし、前221年政(始皇帝)の時には六国を滅ぼし天下を統一。都は咸陽。前207年、3代15年で漢の劉邦(りゅうほう)(高祖)に滅ぼされた。
五胡十六国時代の3王朝、前秦・後秦・西秦。
しん【秦】[漢字項目]
[人名用漢字] [音]シン(漢)
中国周代の国名。「秦篆(しんてん)/先秦」
[名のり]はた
[難読]秦皮(とねりこ)
はた【秦】
姓氏の一。
古代の渡来系氏族。伝承では、応神天皇の時に来朝した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と称する。織物の生産に従事する秦部(はたべ)を統率した。
[補説]「秦」姓の人物
秦佐八郎(はたさはちろう)
秦河勝(はたのかわかつ)
はた‐しん【秦】
《「秦」を「はた」と訓読するところから》中国古代の国名「秦」を、同音の「晋(すすむしん)」と区別していう語。

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百科事典マイペディアの解説
秦【しん】
(1)最初に中国を統一した国。初め周の諸侯国として甘粛の東部にあり,渭水(いすい)に沿い東進。前4世紀から急速に発展,咸陽に都し,戦国七雄の一つとなり,次第に東方の6国を圧し,前256年には周の王室を滅ぼした。次いで始皇帝は前230年―前221年に6国を滅ぼして天下を統一,初めて皇帝の号を用いた。しかしその死後,帝国はたちまち瓦解,前207年,3世にして滅亡した。(2)中国,五胡十六国の一つ。前秦。351年【てい】族の苻健(ふけん)が長安に都して建国。357年第3代苻堅が立つや,国力は大いに伸張,376年には華北を統一した。しかし383年【ひ】水(ひすい)の戦に敗れて国家は瓦解,西方に走ってわずかに国を保っていた王座も,394年西秦に滅ぼされた。(3)中国,五胡十六国の一つ。後秦。前秦が瓦解した後,386年羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)が長安に都して自立,国を大秦と称した。子の姚興も東西に勢力を伸ばし,403年には華北の西半を領したが,北魏(魏)と戦って敗れて国力衰え,子の泓のとき東晋(晋)の北伐にあって417年滅亡した。なお姚興のとき,後秦の仏教は大いに栄えた。(4)中国,五胡十六国の一つ。西秦。385年鮮卑族の乞伏(きっぷく)氏が甘粛に建国。394年前秦を滅ぼし,西方に威を振るったが,431年,夏に滅ぼされた。
→関連項目衛|燕|咸陽|匈奴|屈原|項羽|高祖(漢)|支那|春秋戦国時代|斉|戦国の七雄|楚|蘇秦|中華人民共和国|趙|張儀|李斯|涼

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防府市歴史用語集の解説

 中国・春秋戦国時代[しゅんじゅうせんごくじだい]の国の1つです。紀元前221年に他の国をほろぼして、中国全土を支配しました。しかし、紀元前206年には前漢[ぜんかん]の劉邦[りゅうほう]によって、ほろぼされてしまいます。

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世界大百科事典 第2版の解説
しん【秦 Qín】
中国,周代の(えい)姓の諸侯。戦国七雄の一つ。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。また秦は法律による統治を理想として,法家思想に基づく信賞必罰主義をとった。急激な変革,厳しい法による人民支配の強化から,2代目皇帝胡亥即位の翌年(前209)早くも農民反乱(陳勝・呉広の乱)を招いた。
しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。隴西郡(甘粛省隴西県)の鮮卑族の部族長乞伏国仁は,前秦の滅亡を機に苑川(甘粛省蘭州東方)地方により,その弟乾帰がこれを継承して河南王を称した。一時後秦に帰属したが再び自立し,その子熾磐は南涼を下して秦王を称した。熾磐の時代が西秦の最盛期である。その死後,慕末がこれを継いだが部民の信頼を得ず南安(甘粛省隴西県)に遷都した。やがて夏のために滅ぼされた。
しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。氐(てい)族苻氏(もと蒲氏)の建てた政権。略陽郡臨渭県(甘粛省秦安県)の長苻洪が永嘉の乱を契機にこの地方の氐族や漢族に推されて盟主となったことから,政権の基礎が生まれた。初め後趙の傘下にあったが,苻洪の子苻健が自立して長安に即位した。第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し,五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたが,東晋併呑に失敗して国家は瓦解し,本拠長安は後秦に奪われた。
しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。後秦ともいう。386‐417年。羌(きよう)族姚(よう)氏の建てた政権。南安郡赤亭(甘粛省隴西県)を本拠とする羌族の長姚弋仲(ようよくちゆう)は永嘉の乱を機に勢力を拡大し,前趙,後趙,東晋に臣属した。のちその勢力は前秦に入ったが,姚弋仲の子姚萇(ようちよう)は前秦の瓦解を機に自立し,苻堅をとらえて長安に即位した。その子の姚興は洛陽を占領し,後涼を併せ,北涼,南涼,西涼を臣属させるなど国威を張ったが,その子姚泓のとき東晋の劉裕に滅ぼされた。

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大辞林 第三版の解説
しん【秦】
① 中国最初の統一王朝。周代の諸侯国の一、戦国七雄の一として渭水いすい盆地に進出。紀元前四世紀以降急速に発展し、周室を討ち、始皇帝の時、六国を滅ぼして天下を統一(前221年)したが、三代15年で滅んだ(前207年)。
五胡十六国時代の王朝。前秦・後秦・西秦の三王朝。

はた【秦】
姓氏の一。漢氏あやうじと並ぶ古代の新羅系渡来氏族。養蚕をはじめ鉱山開発、灌漑・土木事業に従事した。山城国葛野かどの郡を本拠に、近畿一帯に広く住し、平安京の建設にはその財力が大いに貢献したといわれる。

はたしん【秦】
〔「秦」を「はた」と訓ずるところから〕
古代中国の「秦」を、同音の「晋」と区別する呼び方。 → すすむしん

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

しん
中国、周代の侯国の一つで、のち中国最初の統一王朝(?~前207)。[好並隆司]
周代の侯国としての秦目次を見る
神話伝説から歴史事実とみられる移行期は非子の記載のあるころとみられる。周の孝王は大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、(えい)氏を名のらせた。襄公(じょうこう)は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山(きざん)(陝西(せんせい)省岐山県北東)以西の地を与え秦公とした(前771)。このとき犠牲を用いて上帝を祀(まつ)ったが、これは西戎(せいじゅう)の習俗に由来する。文公のとき、渭水(いすい)と水(けんすい)の合流点あたりに都を移し「三族の罪」を決めた。人が罪を犯したとき父母、妻子、兄弟まで連座する法律である。君主権の伸長を示すとともに戎(じゅうてき)の慣習を法制化した面もある。寧公2年(前714)には都を平陽(陝西省鳳翔(ほうしょう)県南西)に移した。そののち武公10年(前688)に(けい)、冀(き)の戎を討伐し、ここに初めて県を置き、杜(と)、鄭(てい)を県としている。徳公のとき雍(よう)(陝西省鳳翔県)に都したが、繆公(穆公)(ぼくこう)のときに飛躍的にその勢力を強めた。繆公は百里奚(ひゃくりけい)や由余を登用し、秦の進むべき道を指し示した。百里奚はもと虞(ぐ)の大夫であり、繆公の招請によって臣下となった。由余は晋(しん)の人であるが、当時、戎王の下にいたのを策略をもって臣従させた。このように客臣を用いて君主の指導力を強める方針は秦の伝統となった。由余は礼楽法度(れいがくほうど)を退けて上下一体の戎の社会をモデルにするよう繆公に勧めている。君主権を抑制する宗族(そうぞく)や貴族の勢力を削減する道である。このなかで強大となった秦は河西の地を占め西戎の地を伐(う)ったので、その領土は方千里に達したという。繆公は死んだとき多くの殉死者を得たが、それは生前、臣下と約束していたからである。つまり、君主が部下を私臣として自由に扱うということで、秦の君子たちの非難を受けているが、これも君主権伸長の一標識である。[好並隆司]
戦国七雄の一国としての秦目次を見る
秦はその後、国内で争いを起こし東方発展の力はなかった。しかし、紀元前403年、晋が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)に分裂したので、献公は櫟陽(やくよう)(陝西省臨潼(りんとう)県東)に都を東遷して、東方経略を図った。その子、孝公は、諸侯でありながら戎狄(じゅうてき)と蔑視(べっし)されて東方の会盟に加わることができなかったので憤りを感じ、自国を強化して東方諸侯に力を示そうと考えた。そこで広く人材を求め、富国強兵を実現しようとした。魏から衛の公族出身の公孫鞅(おう)(後の商鞅)が来朝して、帝王の道、王道、覇道という順序で孝公に自説を述べている。前二者は回りくどいという点で孝公は用いなかったが、覇道は孝公を感銘させた。商鞅は覇道を実行することがやがて帝王の道(尭(ぎょう)の統治)に至る道程と考えていた。孝公に抜擢(ばってき)された商鞅は信賞必罰を核として、農業、戦闘の成果を計って授爵し、有爵者だけが評価される身分制社会をつくりだした。そして隣=伍家(ごか)という共同体(小宗族的)単位を基礎として国家に協力するという体制を什伍(じゅうご)制として施行した。これは君主が「伍」を把握するもので、中間的勢力を抑制して家父長的権力の伸長を計るものであった。その「伍」を単位として「聚(じゅ)」がつくられ、その上に「郷」「県」が行政単位として成立する。後の郡県制につながる県制は商鞅によって初めて設定された。阡陌(せんぱく)制を開いたのも彼であるが、これは小型家族の創設政策である「分異法」によって析出され、野を開拓した子弟の土地を整理するために設けられた東西の土地区画線と考えられるが、諸説あってなお定説はない。商鞅変法は第一次、第二次と施行されるが、この第二次変法は都を咸陽(かんよう)に移してのち行われている。咸陽はそれ以後、秦の滅亡するまで首都であった。
 孝公は変法で強力となった国力で東征を展開し、河西の地を魏から奪回した。魏はこの敗戦の結果、都を安邑(あんゆう)(山西省候馬(こうま))から大梁(たいりょう)(河南省開封)に移さざるをえなかった(前340)。この秦の東征は東方諸国に大きな脅威を与えた。蘇秦(そしん)、張儀(ちょうぎ)らの有名な合従連衡(がっしょうれんこう)などの妥協策や対抗策はすべて秦を中心に考えられた外交政策である。孝公の死後、秦では恵文王が継ぎ、もともと仲のよくなかった商鞅を誅殺(ちゅうさつ)するが、政策の基本である君主権の伸長という方針はこれを踏襲した。そして、ただちに中原(ちゅうげん)に覇を唱えるのでなく、なおいっそう国力の基礎を強固にするため、巴蜀(はしょく)(四川(しせん)省)を制圧し、楚(そ)に属していた漢中を領有した(前312)。さらに昭王の時代には揚子江(ようすこう)を南渡し、将軍白起(はくき)は楚の首都郢(えい)(湖北省江陵県)を陥落させた。東方では魏の河東地方を併合し、范雎(はんしょ)を用いて遠交近攻策を駆使しつつ、長平において趙国に致命的な打撃を与えた(前260)。昭王はやがて西周を滅ぼし、東周君も秦の荘襄王(そうじょうおう)子楚(しそ)によって滅ぼされ、周王朝はここに形式上も終焉(しゅうえん)した(前249)。[好並隆司]
始皇帝の登場と中国統一目次を見る
荘襄王子楚の子が秦王政である。彼は年少で王位についたので、太后や丞相(じょうしょう)呂不韋(りょふい)らが政治権力を握っていた。しかし、太后の愛人、(ろうあい)を誅(ちゅう)し(前238)、を太后に推薦したことによって呂不韋も政権の座から追放して、ついに秦王政が親政することになった。それ以後、彼は丞相に李斯(りし)を用い、法家主義的政策を採用して、宗室、貴族の勢力を抑制しつつ、専制的皇帝権力を樹立した。その間、王翦(おうせん)らの将軍を派遣して各国を征服し続けた。韓王国の滅びたのは前230年であるが、以後、10年間に他の5国も次々と秦国の力の前に屈服した。そして中国全土を統一の権力が制覇することとなった(前221)。これが秦帝国である。彼は秦帝国の永遠なることを希望して始皇帝と称し、万世に至らんと願った。彼は丞相、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)を配置して、行政、軍事両面における皇帝の補佐役とした。地方統治形態は封建制でなく、商鞅以来の郡県制をとり、全国を36郡に分け、郡には守、尉、監を、県には令、長などを置き、軍事は県尉にゆだねられた。全国を集権化する必要上、度量衡、貨幣、文章書体などを一定にする措置がとられた。そして、反乱を防ぐため武器を集めて溶融し「金人」としたという。北は匈奴(きょうど)防衛のため長城を設け、南は華南、東は朝鮮までもその勢力範囲を伸長した。イデオロギー統制にも力を入れた。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は著名な事件であるが、農芸、医薬、卜占(ぼくせん)などを除くすべての書籍を焼いたようにいわれている。しかし、官庁に保管していた儒家の経典など諸子百家の文献は残されていた。それらを私的にもち流布させることによって秦朝の諸政策を非難する動きを抑制するのが焚書のおもなねらいであった。坑儒も始皇帝を誹謗(ひぼう)した方士たちと、それに関連した儒者が処罰されたのであって、儒家の抹殺という徹底したものでなかったことは注意を払っておく必要があろう。
 この壮大な帝国はアジア世界において最初の大規模な領域をもち、秦の名は遠く西方世界にまで伝播(でんぱ)された。支那(しな)(チャイナ)の名称の起源は秦(チン)にあるという説があったのもそこに由来するであろう。しかし、秦の法家的威圧は、なお強い勢力をもつ貴族や小宗族を基礎とする農民各層の反発を招かざるをえなかった。しかも、皇帝権力の威を示すための陵や宮殿の造築に要した労働力は莫大(ばくだい)なもので、負担は庶民に重くのしかかった。二世皇帝胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)を用いて同様の政策をとった。趙高は身分制を撤廃して君権強化を計っているが、現実との背反は激しくなるばかりであった。このころ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)らの農民反乱が起こり、それに触発されて貴族、豪傑らも反秦の旗を翻した。胡亥の後継の公子嬰(しえい)が項羽(こうう)の部将であった漢の劉邦(りゅうほう)に降(くだ)り、伝国の玉璽(ぎょくじ)を捧呈(ほうてい)して秦帝国は滅んだ(前207)。天下統一後、3代15年の治世であった。[好並隆司]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』
[参照項目] | 始皇帝
[年表] | 秦の時代(年表)

秦の版図

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精選版 日本国語大辞典の解説
しん【秦】
[一] 中国の通称。秦朝の盛勢が、四方に伝わったため、諸外国は、多くこれを中国の代称とした。
[二] 中国陝西(せんせい)省の別称。
[三] 中国甘粛省の古名。
[四] 周代の侯国で、中国最初の統一王朝。はじめ甘粛省東部にあり、周の諸侯となり、渭水に沿って東進。春秋の五覇、戦国の七雄として勢力を伸長し、前二五六年周室を滅ぼし、秦王政(始皇帝)のとき韓・趙・魏・楚・燕・斉を滅ぼして天下を統一した(前二二一)。中央集権的法治国家体制をとり、郡県制を立て、北は匈奴を討って万里の長城を修築し、南は閩越・南越を併せた。その死後帝国は瓦解、三代一五年で劉邦(漢の高祖)に滅ぼされた(前二〇七)。
[五] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三五一‐三九四)。氐族の苻健が長安に都して建国。苻堅のとき華北を統一したが、淝水の戦いに敗れて滅びた。前秦。
[六] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三八六‐四一七)。羌族の姚萇(ようちょう)が長安に都して建国。一時華北の大半を領有。東晉の劉裕の北伐により滅んだ。後秦。
[七] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三八五‐四三一)。鮮卑の乞伏国仁が金城(甘粛)に都して建国。夏に滅ぼされた。西秦。
はた‐しん【秦】
(「はだしん」とも。「秦」は「はた」と訓読するところから) 中国の古代の国名「秦」を「晉(すすむしん)」と区別していう語。〔随筆・夏山雑談(1741)〕

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世界大百科事典内の秦の言及
【七雄】より

…中国,戦国時代の7強国のことで戦国の七雄といい,秦,楚,斉,燕,韓,魏,趙を指す。中原の大国晋が卿(けい)(重臣)によって韓,魏,趙の3国に分割された紀元前5世紀後半になると,東方では権臣田氏が実権を握る斉,北方には旧大国の燕,西方には発展途上の秦,南方には広大な領土を誇る楚の7ヵ国が成立し終わり,世は戦国時代に入る。…
【春秋戦国時代】より

…中国,古代の時代名。周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。…
【陝西[省]】より

…中国の黄河中流域に位置する行政区画。戦国時代には秦の領域だったので別名を秦という。面積20万5603km2,人口3543万(1996)。…
【秦】より

…中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。…
【秦】より

…中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。…

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秦の時代(年表)(読み)しんのじだいねんぴょう
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
秦の時代(年表)
しんのじだいねんぴょう
前771秦が初めて諸侯の列に加わる
前714平陽(陝西(せんせい))に遷都
前660繆(ぼく)公たつ。百里奚、蹇叔(けんしゅく)が補佐する
前627晋の襄公、秦の繆公を破る
前623繆公が西戎に覇を唱える
前578晋が、斉、宋などの諸侯と秦を討つ
前408魏(ぎ)が秦の河西地方をとる
前364韓、魏、趙を石門(陝西)で大破する
前359商鞅(しょうおう)の第一次変法が行われる
前350このころより強国となる。咸陽に遷都し、県制を施行。商鞅の第二次変法
前338孝公が死ぬ。商鞅が失脚して刑死する
前333蘇秦が合従(がっしょう)策を説いて六国の相となる
前330魏を討つ。魏が河西の地を秦に与える
前328張儀が秦の相となり合従策を崩す
前325恵文王が初めて王号を称す
前310張儀の連衡策がなる
前288秦が西帝、斉が東帝を称す
前259政(後の始皇帝)誕生
前256周(東周)を滅ぼす。周の王統絶える
前249呂不韋(りょふい)が秦の相国となる
前247秦王政即位
前246鄭国渠(ていこくきょ)、開かれる
前237呂不韋を退け親政し、李斯(りし)を重用する
前233韓非子を捕らえ、自殺せしめる
前230韓を滅ぼす
前228趙を滅ぼす
前227刺客荊軻(けいか)による暗殺未遂事件起こる
前225魏を滅ぼす
前223楚を滅ぼす
前222燕を滅ぼす
前221斉を滅ぼし中国統一を完成。皇帝号を用い、郡県制を全国に施行。兵器を没収。度量衡、貨幣、文字の統一
前220始皇帝が北巡する
前219東巡し、泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行う
前215将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討つ
前214李斯が丞相となる。万里の長城建設開始。南越を討ち広東、広西を支配する
前213焚書(ふんしょ)を行う
前212坑儒を行う。阿房宮、驪山(りざん)陵の造営に着手
前210始皇帝没。趙高、李斯が二世皇帝擁立
前209陳勝、呉広の挙兵。項羽、劉邦(りゅうほう)ら挙兵
前208李斯殺害さる。趙高が丞相となる
前207趙高が二世皇帝を殺し公子嬰をたてる。公子嬰が趙高を殺す。公子嬰が劉邦に降り、秦滅亡

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秦  

   前221年(-207)、秦が中国を統一しました。秦の都は咸陽(かんよう)。現在の西安に近いところです。

 昔々の学生時代に私はこの咸陽に行ったことがある。まだ、自由に中国を旅行できない時代で学生友好訪中団という名目で観光に行った。
 中国関係の勉強をしている学生ばかりの団体ではじめ咸陽は予定には入っていなかったんですが、西安に行ったついでに是非行きたいとリクエストしたら急遽特別に行けることになった。中国にはどの都市にも歴史博物館があってそこに行ったんですが、観光バスを降りたら現地の人たちがどっと集まってきた。まだまだ外国人が珍しい時期だったし咸陽は普通の観光コースから外れていたから物珍しかったんですね。われわれ日本人学生の周りにアッという間に黒山の人だかりができた。その人たちみんな農民の顔してる。服は全員真っ黒な綿入れを着ているの。ホントに黒山の人だかりだった。
 博物館で何を見たかは、全然覚えていませんが、咸陽の人々にじろじろ見られたのだけは忘れられない。その咸陽です。

  秦が戦国時代を終わらせることができた理由。

 まず、法家の採用がある。商鞅、李斯など法家の政治家を抜擢して内政改革をおこなったことが国力の強化につながりました。

 さらに、秦が地理的に辺境地帯にあったことが有利に働いた。
 戦国時代の先進国はどこかというと、韓、魏、趙、です。ここが一番文化が進んでいる。地図で見ても面積は小さいね。面積が小さいということはそれだけ人口が集中していることの裏返しです。そういうところは文化が高いと見てよい。
 しかし、それは逆にいうと開発の余地が少ないことでもある。

 秦は辺境の遅れた国であったから、進んだ地域の文化や技術を効率よく取り入れることができたし、未開の地が多くあるわけで周辺に向かって領土を拡大することもできたわけです。現在の四川省方面を領土に組み入れて国力を伸ばしました。

 辺境の国としては南方の楚も同様です。やはりここも戦国末期には強国として秦と対抗しています。結局は秦に負けますが、このあとの話になるんですが、秦が滅亡したあと項羽という男が楚の地から出て一時中国全体に号令するようになる。この地域にはやはり秦と対抗できるようなエネルギーがあったんでしょう。

  秦が中国統一したときの王が政(せい)です。秦王政は周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配することになった。そうなると、王という称号では満足できない。王よりもランクの上の称号として皇帝という呼び名を発明した。世界初の皇帝ということで自ら始皇帝と名乗ったといいます。かれは、秦の国が永遠につづくものと考えて子孫の名前も決めた。自分を継ぐ二代目は二世皇帝、その次は三世皇帝、こんなふうにドンドン数字を増やして皇帝名にするように決めたらしい。いずれは九千九百九十九世皇帝も出現する予定だったんですが、実際は三世皇帝で秦は滅んでしまいますがね。

 この始皇帝、秦王政は統一を成し遂げただけあってそれなりの人物だった。仕事も精力的にやった。一日に公文書を30キロ分読んで決済をつづけたという。文書を重さで量るのもすごいですね。

 かれにまつわる話はたくさんあります。先代の秦王の子ではないという出生の秘密も言い伝えられている。有名なのが始皇帝暗殺未遂事件。中国映画になって公開されましたね。
 プリントに載せてある絵は漢の時代に描かれたものですが、直後の時代から、人々に物語として語り継がれていたことがわかる。

 秦による統一直前の話。秦王政を殺せば滅亡を免れると考えたのが燕の太子。太子は荊軻(けいか)という男に秦王政の暗殺を依頼する。戦国時代は能力主義の時代だったね。暗殺技術も立派な能力として認められていたんだ。荊軻はプロの殺し屋ですがこの時は自分の死を覚悟して秦に向かいます。手みやげがないと秦王政に謁見できないので秦からの亡命将軍の首と燕の領土の地図を手みやげに持っていく。首尾よく政に謁見できて、地図の中に隠し持っていた短刀で政に斬りかかった。

 ところが第一撃で刺し損なってしまった。

 謁見の間には多くの秦の役人や軍人が居並んでいるんですが、宮廷で武器を持つことは禁じられていたので誰も荊軻を止めることができない。秦王政ひとりだけ剣を持っているんですがその剣は特別製でやたらに長い。剣というのは鞘に入っている。こう、剣の柄を右手で持って前に伸ばすでしょ。右手が伸びる以上に剣が長ければ鞘から抜けないのですよ。政の剣はそれくらい長かった。
 しかも突然襲われて焦っているからなおさら抜けない。家臣団が見守る中、柱のあいだをぐるぐるまわって逃げる。それを荊軻は追っかける。

 ようやくひとりの家臣が「王よ、背負われよ!」。政は気づいて剣を背中に背負った。そしたら鞘はストンと床に転がってようやく剣が抜けた。反撃を開始して、家臣も後ろから荊軻に飛びついてようやく取り押さえた。その場面を書いてある。

 始皇帝の陵墓を守るために作られた兵馬俑坑(へいばようこう)という遺跡から青銅の剣が出土しているのですがこれが長さ91.3センチ。始皇帝の剣はこれよりもよほど長かったんでしょう。

 そんな事件もありながらの統一だったわけだ。

  秦の政策を見ていきましょう。

 まず、統治方式として郡県制を採用します。絶対に覚えておくこと。秦の政治は郡県制。いいですね。
 周の時代には諸侯や卿、大夫がそれぞれ自分の邑を自由に支配したね。この周の封建制と対称的な方法が郡県制。秦は全国に郡、その下に県という行政組織を置いて、中央政府から官僚を派遣して中央集権的な一元支配を行った。中央集権的専制国家の誕生といいます。基本的に20世紀に清朝が滅びるまで中国の政治制度はこの形を崩すことがありませんでした。そういう意味で、郡県制の採用というのはものすごく大きな制度の変更なわけです。
 ちなみに日本では県の下に郡がありますが、中国では逆。郡の方が県よりも大きな行政単位です。

  さらに秦は統一国家として、制度を統一していきます。
 1,文字の統一。戦国時代には各国で文字の字体が違っていました。これを統一した。秦の字体は篆(てん)書といいます。やがてこれから楷書、草書が発展することになります。

 2,貨幣の統一。秦の貨幣は穴のあいた環銭。特にこの時の環銭を半両銭といいます。

 3,度量衡(どりょうこう)の統一。度は長さ、量は体積、衡はおもさ、それぞれを測る単位です。これを統一した。単位が地域ごとに違っていては行政は混乱しますからね。

 4,車軌(しゃき)の統一。車軌というのは馬車の車輪と車輪のあいだの長さです。当時は舗装道路などありませんから馬車が走れば地面はえぐれる。えぐれた部分がレールみたいになっていくんです。そこを車軌が違う馬車が走ると車体が傾むいて思うように走れない。だから、戦国の各国はわざと自国の車軌を他国と違うようにした。そうすれば敵国の戦車がやって来ても攻めにくいでしょう。でも、天下統一すればこれは不便だから統一しました。

 5,ついでに思想も統一した。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という。大臣李斯の献策で秦の政治に批判的な学問を弾圧した。医学、農業、占いの学問しか許さず、それ以外の本を集めて燃やした。これが焚書。焚は燃やすことです。戦国時代の学問の多くがこれによって失われました。現在では断片しか残っていない学問もある。残念なことだね。
 坑儒は460人あまりの儒者を生き埋めにして殺した事件です。始皇帝の個人的な怒りから起こった事件なのですが、結果としては学問の弾圧になりました。坑は生き埋めにすることです。

  外征。秦は北方の遊牧国家である匈奴に対して討伐軍を派遣しています。また、南方、ベトナム北部方面には領土を拡大して南海郡など三郡を置きました。

  大土木工事もおこなった。
 その中で有名なのが万里の長城の建設。これはすべて始皇帝が作ったわけではない。戦国時代に北方の各国はすでに個別に長城を作っていたんですが、始皇帝はこれをつないで長城として完成させたのです。
 現在残っている長城はだいたいは明代(1368~1644年)に修築されたものです。資料集の写真は八達嶺(はったつれい)にあるものです。北京から近いので観光地として整備されている所で、上を歩けるようになっています。
 山の稜線の上をどこまでもうねうねとつづいている。どれだけの人間の労力が使われたかを思うと気が遠くなる。

 中国旅行で、ここも行きましたよ。この上を歩いた。三月でちょうど北の空から雪が降ってきたんです。ああ、このはるか向こうから遊牧民族がやって来たんだなと思ったらなかなかロマンチックでしたね。

 宮殿も造った。阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿で、一万人が座ることのできる広間があってその下に10メートルの旗指物を持った軍隊が集結できたといいます。

 墓も作った。驪山(りざん)陵といいますが地下に宮殿を造営したらしい。中国人はあの世でもこの世と同じような暮らしをすると考えていましたから同じモノを作るのです。

 さらにこの地下の宮殿を守るために地下の軍隊を作った。これが有名な兵馬俑坑です。始皇帝陵の東三キロの所に人形の軍隊が発掘された。これですね。土台を含めると2メートルの高さの人形です。こんなのが今のところ約三千体発掘されています。これがキッチリ整列していて、当時の軍の編成などがわかるようです。

 この兵士の人形は一つ一つみんな表情や髪型が違うんです。
 当時の人たちは出身部族によって髪型、男でも髪を長く伸ばして髷を結っているんですが、その髷の形が違っていたんです。で、兵士俑を調べていくと、いろいろな部族から軍が編成されていることもわかる。秦は辺境にありましたから周辺の民族も多く加わっていたのでしょう。この辺にも秦の強さの秘密があるのかも知れない。

 兵馬俑坑はまだ全部が発掘されていなくて掘ればまだまだいくらでもでてくるそうです。だけど、出土しても保存処理が追いつかないので埋めたままにしているということです。

 以前テレビでこの兵士の人形を作る実験をやっていましたが一つ完成させるのに一月以上かかっていた記憶がある。全国から陶工が集められて何年もかけて一体一体焼き上げていったんですね。

  長城といい、兵馬俑といい、何をやるにも徹底した人海戦術です。とにかく全国から人を動員しまくる。始皇帝陵だけでも70万人が動員されたといいますから、せっかく戦国時代が終わって平和がやってきたはずなのに庶民にとっては、始皇帝の大動員は迷惑千万な話だったに違いありません。

 さらに始皇帝は全国に自分専用の道路を作らせました。
 これは幅が70メートル。さらにその真ん中に7メートルの少し高い道路がある。ここが皇帝の専用部分。始皇帝の馬車しか走ることが許されない。その他の貴族、官僚、軍隊はその縁の一般道を行きます。

 始皇帝はこの道路で全国を旅行したんですが、その目的は自分の顔を民衆に見せるためなの。
 そもそも、皇帝といったって、出来たてほやほやの単語だから一般民衆には何のことだかわからない。始皇帝の偉さもわからない。
 そこで、度肝を抜くような豪勢できらびやかな行列を連ねて諸国をまわって、その偉さを思い知らせてやろうというわけだ。

 民衆はこの道路工事にも使役されおまけに始皇帝が通過するときには食糧とか徴発されて、その顔を拝ませられるのですね。

 始皇帝はこの専用道で全国をめぐり各地に自分の功績を刻んだ石碑を立てさせ、泰山という山で封禅の儀式をした。封禅というのは天子になったことを天地の神に報告する重要な儀式です。

  さて、天下を統一してやりたいことは何でもやった始皇帝ですが、こうなると最後に欲しくなるものがある。
 それは、不老長寿です。不死を手に入れたい始皇帝に、胡散臭い連中が近づいてきます。方士という魔術師、呪術士のような者たちが始皇帝にいろいろな不老長寿の技法を伝授したようです。

 日本との関係で有名なのは徐福。この人は東の海に蓬莱という島があってそこに不老長寿の秘薬があると始皇帝に教えた。そこで始皇帝は徐福にその薬を取りにいかせたといいます。徐福はまさか自分がいかされるとは思っていなかったみたいで、いやいやだったようですが東の海に出かけた。その後どうなったかは記録がありません。
 ただ、紀伊半島の熊野地方にはこの徐福がやって来たという伝説がある。新宮市には徐福の墓まであるそうです。

 始皇帝に近づいた方士の中に水銀を不老長寿の薬と教えた者もあったようです。
 水銀、触ったことありますか。体温計を割ったことのある人は経験あると思うけど、水銀というのはなんだか不思議なんだよね。液体なのに丸くてコロコロしてる。指で潰すと小さなつぶつぶになる。いじっていると飽きないです。体内に入ったら毒だから水銀で遊んでいると怒られましたね。

 昔のことで、科学的知識は少ないから、水銀を見せられてこれが不死の薬だといわれれば信じるような気がします。
 で、始皇帝はどうも水銀を少しずつ飲んでいたらしい。あんなもの飲んでいたら胃はボロボロでしょう。毎日始皇帝は胃痛で苦しんでいたんじゃないかな。

  水銀服用が原因かどうかはわかりませんが、ついに始皇帝が死にます。前210年のことです。
 さて、死んだのが都の咸陽だったら問題はなかったのですが、全国旅行の途中で死ぬんだ。死んだときにかれの側に仕えていたのが宦官(かんがん)の趙高です。

 皇帝が公の仕事をするときには官僚が補佐するんですが、プライベートの時間に皇帝の世話をするのが宦官です。
 宦官は男性性器を切り取られている者たちです。かれらは身分は低く皇帝の私的な奴隷に近い存在です。皇帝の身近にいるので、妃たちに近づく機会もあるわけだ。妃たちが皇帝以外の男性とまちがいをおこして皇帝の子どもではない子を産んだりしては困るからね。これが宦官が使われる理由です。

 宦官という制度は中国最後の王朝清が滅亡するまでつづいていました。最後の宦官の人はつい20年くらい前まで生きていたと思います。資料集には清朝時代の宦官の写真がありますね。お爺さんの写真だ。宦官は若いときにはすごくきれいなんだそうですよ。ホルモンの関係で歳をとるとおばあさんのような顔になるらしい。
 戦争捕虜や奴隷、犯罪者を手術して宦官にする場合や、貧しい者が自ら宦官になったり、親に手術をされて宮廷に売られたり、宦官になるにはいろいろは理由があるようです。

 この宦官は身分的には低くて、役人でもないのですが、皇帝に身近に接触する時間が長いから、皇帝に成り代わって権力を振るう者もでたりする。皇帝の秘密を知ることもできるしね。

  さて、趙高たち数人の宦官だけが始皇帝専用の馬車に出入りすることが許されていたんだ。始皇帝の死を趙高しか知らない。かれはこれを利用して権力を握ろうとした。
 始皇帝の遺言をこっそり見てみた。すると、次の皇帝は長男に譲ると書いてある。長男はこの時匈奴討伐で北方に遠征中。遠く離れているんだね。始皇帝には何人か息子がいるんだが末っ子の胡亥(こがい)だけが、始皇帝とともにこの旅にでている。そこで、趙高は胡亥にそっと接触して始皇帝の死を告げる。
「陛下の死を知っているのは私とあなただけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次に皇帝になることができます。私と協力しませんか?」などといって仲間した。胡亥も皇帝になれるのならと喜んで即位後の趙高の地位と権力を保証したんでしょう。
 もうひとり大臣の李斯もこの仲間に加わった。

 秘密にしたのは陰謀だけではなく、旅行中に死んだことを公にすれば各地で反乱が起きることを心配したということもあったんでしょう。
 ほんの僅かな人間にしか始皇帝の死は伝えられず、皇帝の大行列は咸陽のまちに向かって旅をつづけた。その間に趙高や李斯は胡亥に即位させるようにいろいろな準備工作をしていたんでしょう。

 ところで、始皇帝が死んだのが現在の山東省。時は七月。暑かったんだ。当然始皇帝の死体は腐ってくる。やがて、異様な臭いが始皇帝専用馬車から漂い始めた。何も知らされていない大臣や将軍たちが不審に思い始めると、趙高は干し魚を大量に買い集めて始皇帝の馬車の左右につけて併走させた。魚の臭いで死臭をごまかそうというの。大臣たちが趙高になぜそんなことをするのか、とたずねると「陛下のご命令で、わたくしにも存じかねるのでございます。」と答える。始皇帝の命だといえば、誰もそれ以上は追求できないのですよ。

 奇妙な臭いをまき散らしながら大行列は咸陽に帰り着いた。
 趙高は準備どおり始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を発表しました。長男には匈奴との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自殺するように命令する。始皇帝の偽の手紙を送ってだ。

  このようにして即位した二世皇帝胡亥はやがて飾りものになってしまいます。実権は宦官趙高が手にするようになった。
 宦官は普段は人間以下の存在として軽蔑されているから、権力を握るとやりたい放題になる。政治に対して責任感を持つことはあまりない。ひたすら自分の富と虚栄心を追求するようになるようです。どうせ子孫もないわけで守らなければないものもないからね。

 趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったようです。自分がどれくらい宮廷の役人たちをつかんでいるのか試します。
 ある時二世皇帝の前で百官がそろっているところへ、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論した。誰が見ても鹿は鹿ですからね。
 すると趙高はじろりと居並ぶ百官を見回したんだ。すると、趙高におもねる役人たちは口をそろえて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
 二世皇帝は愕然とする。自分の皇帝の地位なんていうのが実は空っぽのいすだったことに気づくんですね。
 これが「馬鹿」という単語の語源だという。

  実はこのころになると、各地で反乱が起きているんです。だけど秦の政府は宮廷内の権力闘争できちんとした対策がとれない。まさしくこんな馬鹿なことばかりやっているあいだに、反乱は秦を滅ぼすほど大きくなっていきました。


http://www.geocities.jp/timeway/kougi-27.html


   秦 (紀元前778〜紀元前206) 周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。
   秦朝 (紀元前221~紀元前206) 秦王政のときに天下を統一。

秦は、北西辺境の地(甘粛省)からおこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大した。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。戦国時代(中国)の孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅を用いて強力となり、張儀を用いた恵文王、白起らを用いた昭襄王にかけて戦国七雄のうちで最強となる。秦王の政のとき、紀元前221年に中国を統一した。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。
秦(王朝)
世界史対照略年表(前400〜600)
世界史対照略年表(前400〜600)©世界の歴史まっぷ

秦は、周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設(秦朝 紀元前221~紀元前206)。甘粛省方面からおこり、帝顓頊(『史記』に記される帝王)の子孫栢翳が舜から嬴姓を賜わったというが、西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王の東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅を用いた孝公のときからで、次の張儀を用いた恵文王(秦)、白起らを用いた昭襄王(秦)にかけて韓、魏など6国に圧迫を加え、始皇帝のときに天下を統一した(前221)。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2017
秦の統一
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦の統一
アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ
秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代(中国)はじめの孝公(秦)のとき都を咸陽に移し、法家の商鞅を用いて富国強兵政策を行い中央集権化をはかった。その後、秦は戦国七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、紀元前221年に中国を統一した。中国を統一して諸王の王となった秦王の政は、「王」に変えて新たに「皇帝」(「煌々たる上帝」、光り輝く絶対神という意味)の称号を採用した。すなわち秦の始皇帝(位紀元前221〜紀元前210)である。始皇帝は、法家の李斯の意見にもとづき中央集権的な統一政策を実施した。
秦の統一領域地図
秦の統一領域地図 ©世界の歴史まっぷ

商鞅の改革 商鞅は衛の国の公子で、形名(法律)を学んだが衛の国では受け入れられず、秦に入り、紀元前361年以降、孝公(秦)に使えた。商鞅は孝公に富国強兵を説いて受け入れられ、中央集権的支配体制の確立に努めた。改革の中心は以下の点である。

   県制の実施:新しい占領地(小国)に県制を施行し、長官を派遣しておさめた。これによって農民を直接国家の成員として把握、個々の農民を支配して税役の基盤とした。
   分異の法:成人男性が2人以上いる家庭を強制的に分家させて小家族を作り、新開地に移住させた。この結果、生産力が大いに向上した。
   什伍の制:農民を5家・10家単位で隣組を作らせ、治安維持などの面で連帯責任を負わせた。
   軍功爵  軍功によって爵位を与え、その爵位の等級に応じて土地・財産を与える。出身氏族の区別無しに兵士に採用し、手柄をたてたものには、身分の差なく爵位を与えた。また、爵位の等級によって土地・財産が与えられ、兵士たちの忠誠心や戦意は飛躍的に向上した。

こうした一連の改革は「商鞅の変法」と呼ばれ、厳格な賞罰規定が設けられた。
中央官制では、丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させた。地方では、周の封建制を廃して、統一以前から秦の領土ですでにおこなわれていた郡県制を全国に施行した。 その結果、全国を36の郡に分け(のちに新しい領土が加わったり、大きい郡を分けたりして48郡にしたといわれる)、それぞれの郡には守(行政)・尉(軍事)・監(監察)その下の県には令(行政)・尉(軍事)などの官吏を中央から派遣し統治にあたらせた。郡県制の施行とともに、反乱を防ぐ目的で民間にあった兵器を没収して都の咸陽に集め、全国のおもな都市の城壁を破壊し、12万戸といわれる富豪を咸陽に移した。また、これまで各国で異なっていた度量衡・貨幣(半両銭の鋳造)・文字を統一し(小篆)、さらに車軌(車軸の長さ)の統一もはかったといわれる。
度量衡:戦国時代(中国)の各国で不統一であった度(長さ)・量(容積)・衡(重さ)を統一するため、それぞれの標準器を製造して各地に分配した。現在も「秦量(ます)」あるいは「秦権(分銅)」といわれるものが残っている。
さらに儒家による周の封建制復活の動きに対する李斯の批判にもとづき、医薬・占い・農業技術書以外の書物は全て焼かせ(焚書,紀元前213)、翌年、儒家のうちに皇帝を謗るものがあったことで、咸陽に居住する460数名の儒学者らを捕らえて生き埋めにし(坑儒)、言論・思想の統制をはかった(焚書坑儒)。 そのほか、始皇帝は中国を統一した翌年から地方の巡幸をおこなって皇帝の威厳を各地に示し、皇帝権力の絶対化と中央集権化を推し進めた。 このころ、北方モンゴル高原では、遊牧民の匈奴の勢力が強大になっていたため、秦の北方への進出は阻まれていた。始皇帝は、将軍の蒙恬を派遣し、オルドスの匈奴を攻撃してこれをゴビの北方に退けるとともに、戦国時代(中国)に北辺の燕・趙などが築いていた長城を修復・連結して匈奴の侵入に備えた。長城は、東の遼東(遼寧省遼陽市)から西の臨洮(甘粛省岷県)におよぶ1万余里(4000km余)にわたるもので、これがいわゆる万里の長城である。
現在の長城は明代のもので、始皇帝の長城はこれよりはるか北方に位置していた。
また、南方に対しても南越に遠征して華南・ベトナム北部にまで領土を広げ南海(現広州)・象・桂林の3郡をおいた。こうして、北はモンゴル高原の南辺から、南はベトナム北部におよぶ広大な領土をもつ大帝国が建設された。 始皇帝が採用した支配体制は、以後2000年におよぶ中国の中央集権体制の原型となったが、そのあまりに急激な改革や厳格な法治主義による統治は、旧6国の貴族や民衆の反感を招いた。とりわけ、度重なる遠征および長城の修復や壮大な宮殿(阿房宮)・陵墓(始皇帝陵(驪山陵)造営などの大土木工事に関わる負担は、民衆の生活を大変苦しめた。そのため、紀元前210年に東方巡幸途中で始皇帝が病死し、二世皇帝胡亥が即位すると、翌紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こり、これを契機に各地で反乱が勃発した。そのなかには、のちに漢の高祖となる劉邦やもとの楚の貴族出身の項羽も含まれていた。 こうして各地に起こった反乱の渦中で、秦は統一後わずか15年にして滅亡した(紀元前206)。
陳勝・呉広の乱 陳勝はもと日雇いで生計を立てていた貧しい農民で、北辺を守備する兵士として徴発されたが、期間内に目的地である河北の漁陽に到達できないことが明らかになると、斬罪になるのを恐れて呉広らと引率の隊長を斬り反乱をおこした(紀元前209年)。はじめは小規模な反乱集団であったが、秦の拠点を次々に攻略し、河南に張楚という小さな王朝をたてるようになると、秦の圧政に苦しむ農民の支持をえてその規模も拡大した。陳勝・呉広による反乱そのものは、秦軍の圧力や内部の離反により急速に崩壊し、わずか6ヶ月で鎮圧された(紀元前208年)が、これに呼応するようにして各地で反乱がおこった。 なお、陳勝の 「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして鴻(ヒシクイ)や鵠(白鳥)といった大きな鳥の志がわかろうか)の言葉や、反乱に際しての 「王侯将相寧有種也」「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)の言葉は有名である。


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