辰国

辰国

 辰国は、どの時代に成立したのか、また、どの民族が創建したのかも不明とされる。

 歴史に名を知られるのは衛氏朝鮮の出現した前漢初期だが、朝鮮半島南部は三国志魏書で紹介されるまでは、中華王朝には蛮夷の住む異郷としか映らなかったようで、中国の正史も詳細を伝えていない。

 辰国の国王が韓王を号したことから、韓族が建てた国家との推論もあるが、考古学的に実証された訳ではない。大陸と大海の両面から移住できる半島の性格上、今後も韓族のルーツを解明するのは困難だろうと思われる。

 辰国が知られた当時は、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては穢族の集団、西南に馬韓となる。馬韓地域の一部を割譲して弁韓辰韓とした。辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕氏最後の準侯は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(辰)王となったが、一代で終わり、再び韓人が復位した。

 北西部には箕氏のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置された。

 紀元前二世紀末、扶余族は満州平原に進み、そこでツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 四世紀前半、高句麗や鮮卑の圧迫を受けて扶余国は滅亡するが、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てる。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れた後に、朝鮮半島に侵入し、馬韓に攻め、制圧してしまう。これが百済の建国である。このとき辰国は解体する。

後漢書』弁辰伝。

 初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。

 初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。

 これは、燕国から千余の兵士を連れて朝鮮に逃亡してきた満(衛満)によって国家を簒奪された朝鮮王準の後事を記したもの。具体的な年は不明だが、紀元前195年に燕王が匈奴に亡命しており、同時期に衛満も燕国を脱出いるはず。そこから朝鮮の王権を奪取するまでに何年を要したかだが、10年前後のことではないかと想像する。

 いずれにせよ、紀元前二世紀には辰国が存在していたことだけは確実である。

『京畿道の由来』

 京畿道は、漢江に沿って肥えた平野が発達して、先史時代から人々が定着した地である。 漣川郡田穀里の旧石器時代遺跡地、河南市ミサ洞の新石器時代遺跡、そして驪州フンアムリの青銅器時代遺跡などがそれを証明している。

 紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定される。以後京畿地域は馬韓連盟体に属したが, 連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。

 紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓辰韓の地になった京畿道は、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあった。

 上記は、韓国京畿道の案内サイト(http://japanese.gg.go.kr/index.jsp)に掲載された文面(無断で筆者が日本文を修正したが)だが、地元の自治体も辰国の誕生年代については把握できていないようだ。

三国志魏書馬韓

 魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。

 魏略には、初め、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国に移住した。朝鮮の属国とも往来をしなかった。

 衛氏朝鮮の重臣が、国王の右渠に叛いて辰国に亡命した記述の一節だが、衛氏朝鮮も半島南部(漢江流域)にまでは支配力が届いていなかったようだ。衛氏朝鮮辰国の朝貢を妨げたことが朝鮮討伐の名目とされ、紀元前108年に衛氏朝鮮は滅ぼされるが、その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡のどこにも辰国は帰属していない。

後漢書』馬韓

 韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接。辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯濟是其一國焉。大者萬餘戸,小者數千家,各在山海閒,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り,十二カ国、その北に濊貊と接する。弁辰辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。伯済は、その一国なり。大領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。

 ここでは昔の辰国とされている。前掲の『京畿道の由来』では紀元前75年に三国に分割されたとなっているが、紀元前82年に真番郡と臨屯郡が廃止され、楽浪郡と玄菟郡に併合され、紀元前75年には単々大山領の領東に置かれていた玄菟郡を西北に遷している。

 漢王朝は楽浪郡と北に撤退した玄菟郡だけを管轄し、その他は旧来の有力部族の首長を県侯に任じて直接支配を廃止したことで、三国志魏書に「夷狄更相攻伐」と記されているように県侯の間に激しい領地の争奪戦が生じ、辰国はその影響で分裂したのだろう。

 その後も存続するが、四世紀に百済馬韓を統一し、辰国は解体される。


http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen6-sinkoku.htm


辰国 しんこくChin‐guk
世界大百科事典 第2版の解説
しんこく【辰国 Chin‐guk】
古代朝鮮の南部に存在したとされる国名。辰国という名称はすでに《史記》《漢書》に見えるが,その内容についてやや詳細な記録を残しているのは《三国志》魏志東夷列伝である。ところが《三国志》の記載がきわめて断片的で,矛盾した個所もあるため,古来この国の存在,性格については諸家の見解が一定しない。白鳥庫吉は辰国辰韓のことであり,辰王は辰韓王であるとした。三上次男も辰王は2~3世紀ころ半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であったと解釈している。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報


辰国」とは何か ― 2015/08/07

 韓国の古代史の本を読むと、我々日本人には馴染みのない国名が出てきます。その一つが「辰国」です。  「辰国」というのは、韓国のウィキ百科事典によると次のように説明されています。

진(辰)은 기원전 4세기에서 기원전 2세기 무렵 청동기 및 초기 철기문화를 바탕으로 한반도 중심부지역에 존재한 초기 집단으로, 고조선과 공존하였고, 이후 마한, 변한, 진한의 삼한으로 정립된 것으로 보인다. ‥‥진국(辰國)은 삼한 각부족의 명칭이 생기기 이전에 있었으리라고 추정되는 진왕(辰王) 세력하의 부족 연맹체이다. 기원전 4세기에서 3세기 무렵부터 금속문화가 한강 이남으로 전파되면서 남한의 원시 사회가 붕괴되고 새로운 정치적 사회가 성립되었는데, 이를 진국이라 한다.

辰は紀元前4世紀から紀元前2世紀頃、青銅器および初期鉄器文化を基礎として朝鮮半島中心部地域に存在した初期集団として古朝鮮と共存し、以後に馬韓弁韓辰韓三韓として鼎立したものと見られる。‥‥辰国三韓の各部族の名称が生じる以前にあっただろうと推定される辰王勢力の部族連盟体である。 紀元前4世紀~3世紀頃から金属文化が漢江以南に伝わって南朝鮮の原始社会が崩壊し、新しい政治的社会が成立したが、これを辰国という。

 時代はB.C.4世紀~2世紀ですから、日本では弥生時代前期~中期前葉に相当します。 卑弥呼の邪馬台国よりも500年も昔のことになるのですが、この時期にお隣の朝鮮半島では「辰国」という国があったということです。 へー!?本当かな? 何を根拠に言っているのだろうか?という疑問が湧きます。 調べてみると、これは『三国志』東夷伝と『後漢書』韓伝にありました。

 平凡社東洋文庫『東アジア民族史1』の現代語訳を提示します。 まずは『三国志』韓伝です。 『三国志』は3世紀の呉魏蜀を扱ったとものですが、この三国滅亡直後に陳寿が編纂しました。 同時代資料に近いもので、史料的価値は高いとされています。

[韓には]三種があり、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。‥‥辰王は月支国[に都をおき]統治していて ‥‥‥『魏略』は[次のように]伝えている。‥朝鮮の宰相である歴谿卿は東にすすみ、辰国に入った。(196~197頁、201頁)

 

[辰韓の]十二国は辰王に臣属している。 辰王は常に馬韓人を用いている。[辰王は]代々相次いでいるが、辰王は自分みずから[の意志で]王になることはできない。 『魏略』では、つぎのように言っている。 明らかに[辰韓人は]他の所から移り住んだ人たちである。 それ故に馬韓のために[辰韓が]制御されているのである。(272頁)

 これに基づいて、5世紀の范曄が『後漢書』韓伝では次のように記しています。

[韓の]地は全体で四千余里四方である。‥‥[これらの国々は]みな古の辰国[の領土]であった。 [韓のなかでは]馬韓がもっとも強大で、[三韓]はともに[馬韓]の種族をたてて辰王とし、目支国を都とし、三韓をことごとく支配した。 [三韓の]諸国の王の始祖は、すべて馬韓種族の人だった。(189~190頁)

 「辰国」の根拠となる史料はこれだけです。 「辰国」の始まりは邪馬台国の時代よりはるか以前の話になります。 そして邪馬台国時代である3世紀には、「辰国」は朝鮮半島南東部にあった辰韓になってしまっており、王は何故かしら馬韓人であり、王のいる首都は辰韓ではなく馬韓の中にある月支国だと話になります。 さらにこの話が後の5世紀の范曄によって、かつてあった「辰国」は馬韓弁韓辰韓すべてを支配していたというように変わった、と推測できるだけです。 それ以上は皆目分かりません。

 後漢の王朝は1~3世紀ですから、『後漢書』は200年も経ってからの編纂になります。 范曄が『三国志』を参照しながら、自分の解釈を書き加えたと見た方がいいようです。

 なお『漢書』朝鮮伝に「真番辰国」がありますが、それ以前の『史記』朝鮮伝では「真番旁衆国」となっており「辰国」がありません。 『漢書』朝鮮伝は『史記』朝鮮伝をそのまま記しているものですから、ここは『漢書』の方が書き写す際に間違えたと考えるべきでしょう。

 以上により「辰国」については、やはり『三国志』が初見であり、『後漢書』はこれを改作して「辰国」が朝鮮半島南部を支配していたような歴史像を作り上げたものと推察されます。

 ところで韓国の一般向け歴史書では「辰国」は次のように説明されています。

箕子朝鮮に属するさまざまな小国の支配勢力は、各自が一定の星を自己の集団を象徴とする慣習があり、彼らが樹立した朝鮮を他の名前で「星の国」すなわち「辰国」と呼んだ。 多くの小国が地域ごとに辰韓馬韓弁韓三韓としてまとまり、三韓全体を辰国と称し、三韓のなかで最も大きな勢力を保っていた辰韓から、辰国すなわち三韓全体の王である辰王(箕子)を推戴する仕組みであった。 衛満に国の中心部を奪われて東に追いやられた箕子朝鮮の人々は、自分の国を辰国と呼んで衛満の朝鮮と区別した。  (徐毅植ほか著『日韓でいっしょに読みたい韓国史』(君島和彦ほか訳 明石書店 2104年1月 29頁の本文)

後期の箕子朝鮮辰国と呼び、辰国を形成した三つの連合体に属した小国の一部が個別的に南下して韓半島南部で三韓をつくりあげた」 (同上 29頁のコラム)

 著者は韓国の大学で教鞭をとっておられる有名な歴史家の方々ですが、ほんのわずかの史料からここまで話を広げていいのか、余りにも想像たくまし過ぎて、疑問を抱きます。


http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/07/7726635