三国志魏書

三国志・魏書・東夷伝(1)

正確には『三国志・魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』だが、略記して表題を付けてある。

 「烏丸」「鮮卑」という現在の満州からモンゴルに近い国(部族)を除外したのが『東夷伝』であり、そこには「倭人」をいれて都合七つの種族の記述がある。

 倭人に関する条(項目)を一般に「倭人伝」と表すが、同様に他の種族の伝を挙げると、「夫余伝」「高句麗伝」「東沃沮伝」「ユウ(手偏に邑)婁伝」「ワイ(さんずいに歳)伝」「韓伝」となる。

 このうち直接、倭・倭人について言及されるのは「倭人伝」は当然のこととして、他には「韓伝」しかない。
 
 しかし中国史料の『山海経』『後漢書・檀石槐伝』などには、倭人らしき種族が北部朝鮮に居たようにも取れる記述があり、看過し得ないので、一応「倭人伝」と「韓伝」以外の諸伝について、表にして一覧しておくことにする。(注意:文字のサイズSでは表の下の注が著しく下方へ離れてしまうので、サイズМで御覧ください)

  夫余・高句麗・東沃沮・ユウ(手偏に邑)婁・ワイ(さんずいに歳)一覧
伝名 位置 国勢 首長 歴史 風俗
夫余
 フヨ 長城の北
玄菟郡から
東へ千里
※南満州
シェンヤン、
フーシュンを含む一帯 二千里四方
戸数は8万
東夷の諸国
では、最も平
原が多い。 「君王あり」と
記すが、具体
的な王名は
無い。 官に馬加・牛加・猪加・狗加
大使者・使者の七ランクがある。 漢代には漢王朝に対して朝貢し
玉壁などを賜与されていた。ただ
印には「ワイ王之印」とあり、また
国内に「ワイ城」と名付けられた
城もあるから、夫余王はもともと
はワイに居たようだ。
 このことと、古老が伝えている
「我々は昔、この地に亡命してきた」という伝承とは整合する。 ・白衣をとうとぶ。
・跪き、手を地面に付いて物を述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命してきた」と言う
高句麗
コウクリ 遼東の東
千里にある
※鴨緑江中流から上流の山岳地帯にある 二千里四方
戸数は3万
大山深谷が多く、良田が無い。 「王あり」と記すが、王名は無い。
 官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿
優台丞・使者
ソウ衣・先人の九ランクがある。 後漢の光武帝8(32)年の時に
初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。
 遼東を独立国にしようとした公孫氏と組んで、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2(238)年に、公孫氏が司馬将軍に討たれると、帰順した。 ・五族がある(涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部)。
・伝承では夫余の別種だという。
・10月に天を祭り「東盟」という大会を開く
・国の東に洞くつがあり、そこに「隧神」がいるとする。
沃沮
ヒガシ
 ヨクソ 高句麗の東で、東海に面している。
※北朝鮮
咸鏡南道の一帯 戸数は5千 大君主なし。
邑落ごとに
長帥がいる。 秦末期の混乱期に、燕から亡命してきた衛満が朝鮮王になった時、東沃沮はこれに属していた。
 だが漢の武帝が衛満の孫・右渠を誅殺し、四郡が置かれた際に、沃沮は玄菟郡になった。
 後漢時代になると、はじめワイに属していたが、のちに高句麗に臣属するようになった。 古老の伝承に
・東海に数十日流された者が、とある島に着いたが、言葉が通じなかった。
・男が居ず、女ばかりの島がある。
など、倭人の島を想わせる記述がある。
ユウ婁
ユウロウ 夫余の東北千余里
沃沮の北の海岸沿いにある 戸数の記載無し 大君長なし。
邑落ごとに
大人がいる。 夫余に属していたが、黄初年間(220~226)に叛乱を起こし、夫余は収束させようとするのだが、毒矢と山岳に拠るゲリラ作戦のためてこずっている。 夫余人に似ている。
寒さがはげしいため穴居生活をしている。
 操船が上手で、時に近隣を襲うことがある。
ワイ(さんずいに歳) 高句麗の東、沃沮の南、辰韓の北、東は海に面する。
※今日の北朝鮮から東沃沮楽浪郡域を除外した領域 戸数は2万 大君長はなし
漢が朝鮮・満州に四郡を置いて(BC108年)から、官として「侯邑君」と「三老」があった。 殷王朝末期に亡命した王一族の箕子の王統が続き、その40数代の準王の時、燕からやって来た衛満のために王位を奪われ、準王は南へ逃れる。
 その約100年後の武帝の元封3(BC108)年に衛氏は滅ぼされ、四郡が置かれたが、ワイの西半分は楽浪郡に属し、東側の七県が渠帥(ワイ人)の治める所となった。
 魏王朝になると渠帥は「不耐ワイ王」として半自立し、租税・兵役を負担した。これにはよく応じているので、郡はあたかも郡民であるかのように扱っている。
  ワイ人の習俗として挙げられるのは
・山川に入会制度のようなものがあり、みだりに入れない
・同姓不婚
・疾病で人が死ぬと、その家を取り壊して建て直す。
・10月に天を祭り、昼夜にわたって歌舞飲食する
・虎を神として祭る
・厳しい刑罰が定められていて、人を殺せば死を以って償う
 ・・・・・・・・・ など。
    (注)
   戸数・・・南満州の扶余が戸数8万と圧倒的に多いのは、国勢にあるように「東夷の中では最も平地が多い」    という記述に対応している。しかし、それにしても多い。他の高句麗が3万、ワイが2万であるからその大きさ    は突出している。ただ、ひとつ考えなければならないのは、ワイは西半分を漢支配下の楽浪郡に組み入れ     られてしまったということである。もし、そこがワイの領域のままだったら、ワイはおそらく少なくとも現状の2     倍はあっただろうと思われる。
     夫余条にあるように、夫余ももともとは本貫地はワイだったらしい。とすると、夫余の大人口はもしかしたら    楽浪郡が置かれた時にワイから逃れた人々を抱え込んだためと考えることも可能だ。
    しかし、戸数で言えば韓は「馬韓」が10万余戸、「弁韓」「辰韓」あわせて4~5万戸、合計で15万戸ほどあ     り、国土面積を加味した戸数密度では倍以上である。
     また、九州島に限定される倭人国では「女王国連盟」が7万戸、投馬国が5万戸、「奴国」が2万、合計14    万戸。その他、女王国の南にあって敵対している狗奴国があり、戸数の記述は無いが仮に3万戸ほどとして、   総計17万戸くらいが3世紀半ばの九州島全体の戸数と考えられ、戸数密度は三韓をさらに上回る。
 
   この地に亡命・・・ワイ(北朝鮮)からの亡命。「ワイ伝」また後述の「韓伝」から読み取れるのは2回の亡命    である。ひとつは「ワイ伝」にあるように、漢の武帝が衛氏を滅ぼし、四郡を置いたときで、紀元前108年前     後、もうひとつは「韓伝」からだが、ワイの地に燕から衛氏(衛満)が逃れてきて、そのままワイを乗っ取った「    秦末の混乱時」の紀元前200年頃のこと。
     このあとの時、ワイを支配していた箕子の後裔「準王」で、衛満の侵攻によって南に逃れ、馬韓に受容され    て小国を与えられている。箕子の王族は南に逃れたが、北の夫余あたりまで逃れた者のほうが多かったの    かもしれない。

   高句麗王・・・このときの高句麗王は、第三代の「大武神王」(AD18~44年)である。

   箕子・・・殷王朝の最後の紂王の叔父と言われている。紂王の暴虐をいさめたが聞き入れられず、発狂を装    って朝鮮へ亡命したとされる。また周王朝を開いた武王から「朝鮮侯」の称号を賜与されたともいう。
     亡命の地は朝鮮北部で、おおむね「ワイ」すなわち今日の北朝鮮に重なる。ここの民は箕子の「八条の教    え」に従い、「昼夜、門戸に鍵をせず、盗みも無かった」ほど純朴な民であったらしい。
     後漢書・檀石塊伝では、遼河の東方に「倭の水人」が居たと書く。「ワ」と「ワイ」はやはり同義としていいの    ではないか。いつ倭人がワイ(北朝鮮)にまで進出したのかの由来は不明だが、韓伝で明らかにするように   、九州島を本拠地とする航海系倭人が半島まで往来していたことは確実であるから、早ければ縄文時代に遡    る可能性は高いと思う。

                          (この項、終り)

魏志韓伝

 「魏志韓伝」は約2000字で、倭人伝より20%ほど少ないが、三つの韓(馬韓弁韓辰韓)の歴史・風俗がよく分かり、紀元前から3世紀半ばまでの史料として、これに勝るものは無い。

 倭人伝解釈との大きな違いは、馬韓弁韓辰韓のそれぞれの位置にまったく異論がないということである。

 ここでは、まず、馬韓弁韓辰韓についてその概要を表であらわし、その後、倭人との関わりのある記述を注記し解釈を加えていくことにする。

位置 国勢 首長 歴史 風俗
馬韓 韓半島南部の
西半分。
※韓全体は今
日の韓国にほ
ぼ重なる。
 ただし現在の
ソウルおよび南
岸を除く。  55の小国に
分かれている。
 大国は1万戸
小国は数千戸か
らなり、総計で10万戸余り。  各国には
長帥がいる
 大国の君
主は「臣智」
といい、小国
の君主は「邑
借」という。  後漢時代は楽浪郡
属していたが、桓帝・霊
帝の頃(147~188)、
韓とワイが非常に強盛で
郡では制御できない状態
になった。
 楽浪郡民で流れて韓や
ワイに行く者が多くなった
ので、魏の明帝は以前に
滅ぼした公孫氏が置いた
帯方郡を掌握し、そこを拠
点にして韓とワイとを討伐
した(景初年間=237~
239)。 ・葬るのに槨はあるが、棺はない。
・牛馬に乗ることを知らない。
・5月に種まきを終えると、鬼神
を祭って歌舞飲食する。
・舞う時は数十人が共に舞う。
・国中の邑々には「天君」という
司祭がいる。
・諸国には「蘇塗(そと)」と呼ばれる別邑がある。その中では、
大木を立てて鈴や鼓を吊り下げ
鬼神を祭っている。
・男子の中にはときどき「文身」
が見られる。
 
弁韓  位置の正式な記述はない。
 洛東江の中流域以南だろう
 ただし最下流
の金海市あたりは、倭人国の
狗邪韓国と思われる。 12国からなる
だが、数えてみると13国ある。
 辰韓も同じく
13国。
 大国は4~5千家、小国は6
~7百家であり
弁・辰韓併せて
4~5万戸。  12国にはそれぞれ渠帥がいる。  弁韓はほとんど「弁辰」と記される。「弁」を「わきまえる・わかつ」の意味とすると、「弁辰」とは「辰韓を分けた国」つまり「辰韓
から分離した国」ともとれる。
 「弁辰辰韓と雑居す」
という表現はその意味だろうか。 ・馬韓辰韓には無い城郭がある。
・衣(食)住は辰韓と同じであり、言葉も法俗(しきたり、慣習)もよく似ている。
・神事には若干違いがある。
・竈はすべて家の西に据えられている。
・広幅の細目の布を産出する。
辰韓  馬韓の東にある 12国からなる。 辰王。
ただし、辰韓12国は馬韓人に統治させており、実際には辰韓の王として自立していない  古老の伝承によると、辰韓は「古之亡人(いにしえのぼうじん)」すなわち春秋戦国期より前の亡命者が、秦末の動乱時に到来し、最初、馬韓の東部を分割されて入り(月支国)、その後6国から12国にまで増えた。
 馬韓(人)とは言葉が違い、国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」と言ったりする。
 また楽浪人のことを「阿残」と言うが、東方人(東夷)は自分のことを「阿(ア)」と言うから、その「阿残」とは秦末の動乱で落ち延びてきて建国された12国の国人の片割れということになる。 ・土地はよく肥えていて、五穀や米が採れる。
・桑と蚕からケン(糸偏に兼)布が作られる。
・牛馬に乗る
・鳥の羽で死者を送る。
弁韓とともに鉄の産出が多く、韓は無論、倭もワイも採取にやってくる。
・銭の代わりに鉄テイ(鉄偏に延)が使用されている。
・子が生まれるとすぐにその頭を圧し、狭頭(褊頭)にする。
・男女とも倭(人)に近く、文身をしている。
・戦いは歩戦で行う。
・城柵がある。

(注)
戸数(人口)・・・馬韓が10万戸、弁韓辰韓あわせて4~5万戸。最大で15万戸とすると、韓(三韓)は九州島の邪馬台国連盟(女王国以下22国)が7万戸、南九州の投馬国が5万戸、邪馬台国と投馬国の間にある狗奴国(今日のほぼ熊本県域)の戸数は不明だが仮に3万戸とすると、合計15万戸で、これにおおむね匹敵する。
 ただし、私見では北部九州の旧国名「筑前と豊前の一部」には「大倭国」さらに「豊前の南部と豊後」には別の国家があったので、九州島全体で20万戸は下らない戸数があったと見る。

馬韓の首長「臣智」「邑借」・・・漢字読みすれば「臣智」は「シンチ」で『垂仁紀』の2年条に出てくる任那人使者「蘇那曷(ソナカ)叱智」の「叱智」がこれに相当しよう。ただしソナカ叱智は任那弁韓)人だが、『垂仁紀』には半島人としてはこの任那人と新羅人しか登場しないので、任那人に馬韓人をも含めている可能性が高い。
 次に「邑借」は「ユウシャク」と音読されるが、倭人語で「むらおさ」のことかとも考えられる。そうなると「臣智」も「おぢ」と倭語が当てられるかも知れない。
 そんなバカなと思われるだろうが、馬韓条には、首長「臣智」が北朝鮮のワイの地域から南部に亡命してきた「辰王」こと「箕氏準」に分割した最初の国「月支国(ゲッシ国・つくし国)」の首長すなわち辰王を次のように呼んでいる。これは一見して漢文のようだが、実は万葉仮名のように読み取ることができるのだ。

  辰王は月支国を治む。臣智あるいは加優は(辰王を)<臣雲遣支報安邪淑支濆臣離児不例拘邪秦支廉>の号で呼ぶ

 馬韓の一国であるはずの「月支国」を辰韓王である辰王が統治しているわけは、辰韓の表の「歴史」で明らかだが、その次がいわくつきの箇所である。
 まず「臣智」は馬韓の国の官(王といってよい)名だが、「加優」が不明である。しいて考えれば「夫余や高句麗の王族の称号である加」にその中でも優れた・地位の高い者を「加優」と書いたのだろうか、いずれにしても半島人の中の王者クラスの人物たちが、< >内の称号で呼んでいるという。これを漢文として読んでも読めないのが困る。だが『謎の契丹古伝』(佐治芳彦著、徳間書店刊)の次の箇所の解釈で解明の糸口がつかめる。

  <辰ウン(サンずいに云)ケン(糸偏に遣)翅報>
 
 これを『謎の契丹古伝』では「シウクシフ」と読み「東の大きなクシヒ」すなわち「東の大王」と訳しており、これを是として援用すると、このいわくつきの箇所は
 <東の大王で、あやしき聖に降る(お方で)狗邪(伽耶)・秦(辰韓を)知る>
と訳せ、もう少し言葉を補うと
 <東の大王にして天から降臨され、伽耶弁韓)も辰韓もしろしめす大王>となる。

 要するに、半島人の中でも少なくとも王者クラスは倭語に極めて近い言葉を使っていたということが判明し、「臣智」に「おぢ」、「邑借」に「おさ」を当てて読んでも違和感を感じないのである。

韓とワイの強盛・・・韓でも弁韓辰韓にまたがる地帯は鉄の大産地であった(伽耶鉄山=「神功皇后紀」では「谷那鉄山」)。これの生産で半島南部への人の移動が隆盛を迎えた。北からはワイ人たちが、南からは倭人たちが大挙してやってきたはずである。楽浪郡に属する人民も多くがその中に紛れ込んだのだろう。それを「郡県制するあたわず」と書いている。
 中でも倭人の場合、半島在住の者のみならず九州島を中心とする海人(航海民)系の種族が、鉄の生産から精錬、製品の運搬(もちろん船で)を担って繁栄した。そのことが辰韓条には「国は鉄を出す。韓・ワイ・倭、皆これ(鉄)を採るに従う。」と書かれている。

帯方郡の掌握・・・公孫氏が200年代初めに置いた帯方郡を、魏が景初年間(237~9年)に大軍を送って掌握した。そのとき韓の諸国の「臣智」らに「邑君」という称号を与えて支配下に組み入れたが、一部で手違いがあり韓は怒って叛乱を起こしたという。そのことを原文(を補った読み下し文)で、

 <部従事の呉林(という事務官)が、「楽浪がもともとは諸韓国を統治していたのだから」とばかり辰韓(12国)のうち8国を分割して帯方郡ではなくはるかに遠い楽浪郡に帰属させてしまった。これについて事務官の説明に納得できない諸韓国の「臣智」たちは激怒し、ついに帯方郡の崎離営(という郡治所)を攻めた。時の帯方郡太守の弓遵および楽浪太守の劉茂は兵を率いて鎮圧したが、弓遵は戦死する羽目になった。
 この叛乱の後、両郡はついに韓を滅亡させた。>
 
 と記す。魏の帯方郡掌握がいかに韓にとって大きな脅威だったかということがよく分かる。帯方郡の太守が戦死するほどの叛乱だったのだ。
 これに対して魏ももちろん黙ってはいない。両郡を督励して三韓、なかんずく叛意の強かった辰韓を強く叩いたであろう。その結果「ついに韓は滅亡した」というのである。したがって単独で最大の敬意を受けていた辰韓王の帰趨やいかにと思われるところだが、不思議とその記述は無い。当然、郡に引き渡され、それだけの大王であるのなら、魏の王都まで連行されたであろうにそんな記述は見られない。
 そこで私見では「すでに九州島に亡命していた」と見るのである。これなら捕縛も連行もされるまい。
 その亡命先はどこか? 糸島郡だろう。かってここは「イソ国」であった――とは「筑前風土記」「仲哀天皇紀」の共に記す事で、そこに居住の「五十(イソ)迹手」は、半島からの渡来者であり、祖先が意呂山に天から降ったと言う。まさに先に触れた「東の大王」の属性そのものである。
 またこのことと、辰韓の表の「首長」にまとめてある「12国を自立して治めてはいない」とは完全に整合する。すでに海を隔てた九州島に在住していたがゆえに、統治は当然のこと不可能だったわけである。

天君・・・「テンクン」と読むか。要するに司祭者・祭祀者のことだが、天神を祭るからそう名付けたようで、これをもし倭語で「あめぎみ」と読むとすると、『隋書』の「東夷伝倭国」開皇20(600)年条の「倭王、姓は阿毎(アメ)、字は多利思比孤(タリシヒコ)、号の阿輩鶏彌(アメギミ)」とある最後の号名「アメギミ」と重なってくる。
 もし「あめぎみ」なら、馬韓の方がより古い使用例であるから、「あめぎみ」は「馬韓→倭」という移動が考えられ、この隋に遣使した倭王は馬韓系か、馬韓の影響を強く受けた倭王ということになるだろう。
 600年は例の白村江の敗戦(663年)より前であり、馬韓の後裔である百済に肩入れした倭王とはもしかしたら、近畿の倭王ではなく、九州島の倭王かもしれない。いわゆる九州王朝存在の可能性は捨てきれない。

蘇塗・・・「ソト」。国々には「蘇塗」と呼ばれる別邑(別区)があり、大木を立てて鈴や鼓を取り付け、神(鬼神)を祭って仕えている。神事を執り行うのは、上で述べた「天君」かと思えば、記述からはそうではないようだ。そうなると「天君」は国家祭祀的なレベルを担当し、「蘇塗」の場合は民俗的なレベルという風に分けたものだろうか。
 後者は「諸亡逃げてその中に至れば、みなこれ(蘇塗)より還らずしてよく賊をなす」と書いてあるように、いわゆる「サンクチュアリ」でもあったようだ。
 「ソ」は倭語で「セ(背)」の意味かとも考える。「背」は「根幹・バックボーン」のことで「聖地」と言い換えてもよい。「ト」は「処」だろう。そうすると「ソト」とは「聖なる初源の土地」を意味し、「天」に対する「地」、そこを守ってくれる土地神を祭る場所なのだろう。

城郭・城柵・・・馬韓には城柵も城郭もなく、辰韓には城柵だけ、そして弁韓には何と城郭がある。城郭は「城」つまり「王都(王宮のある街区)」が城壁に守られていることで、弁韓だけがそのような体制を築いていた。「法俗は特に峻厳である」と書かれていることと符合する。
 弁韓は「城郭都市」すなわち「商業都市」だったと見てよい。「幅の広い細目の布を産出する」とあるのもそれは「商品としての布」に違いない。辰韓弁韓もともに人民は「文身(入れ墨をほどこす)」していたとあるように、住民の基層は倭の航海民が中心だったから、海上交易品として鉄製品とともに布(繊維)なども取り扱い、財を成していたのだろう。

歩戦・・・歩兵による戦い。江上波夫の「騎馬民族説」は大略「辰王が騎馬民を引きつれて海を渡り、九州にまず辰王朝を築き、発展したのち応神天皇の時代になって、騎馬軍による畿内王権争奪を遂行した」というものだが、応神天皇の時代に騎馬および騎馬戦の習慣を取り入れたことに異論は無いが、それよりはるか以前の辰王(辰韓王)の時代にすでに騎馬武者がいたような記述はどこから来たものだろうか。魏志韓伝はもとより高句麗伝を読んでも、3世紀半ば当時、韓半島に騎馬軍の存在は有り得ない。

東夷人の「阿(ア)」・・・大陸中国人の言う東夷とは、山東半島から遼東半島を含む朝鮮半島、南満州、そして日本列島をひっくるめた広大な土地を指している。
 この東夷の種族が自分のことを「阿(ア)」と言う、とここでは書いてある。上の地理観からすればほぼ北朝鮮を指す「楽浪地方」にも自分のことを「ア」という人たちが居たことは間違いなく、魏志で言えば「ワイ」が、山海経で言えば「アイ人」がそれに相当しよう。

 
                              (魏志韓伝の項終り)

魏志倭人伝・目次

 魏志倭人伝は漢字で2600字という長い文書である。他の多くの史料と同様に、この概説でも逐語訳はしない。あくまで著者の捉えた倭人伝であるから、表にまとめたり、重要語をピックアップして注記を施すというやり方を貫いている。
 ただし倭人伝は、大きく三つの段落に分けられるので、以下のようにページをそれぞれ独立させて概説することにした。

   (Ⅰ) 倭人の国々への行程

魏志倭人伝

         はじめに  

 魏志倭人伝こそは「倭人」史料の白眉であり、2600字余りの漢字で2~3世紀当時の倭人の姿を描き出している。
 この中に登場する「邪馬台国(女王国)」の場所の比定をめぐって、江戸の昔から論争が絶えないのは周知のことで、決定打が出ないままもう300年も続いているが、戦後は「記紀」の記述の信用度が絶望的に下がってしまったのとは逆に、おおいに持ち上げられてきた。

 「紀記」のような自国民が自国民のために書いた(実際は編纂時の大和王権がその由緒を、自王権のために書いた)ものは自尊事大の弊に陥ってしまうから信用はできぬが、第三者の中国人の書いた物なら客観性があり、科学的に歴史を構築できそうだ―――として紐解かれ研究の俎上にのぼったのだが、それにしては「邪馬台国畿内説」と「邪馬台国九州説」のがっぷり四つのこう着状態が戦後久しく続いたままだ。
 
 最近は考古学的所見から、畿内説が有利になったと言われる。その直接の要因は王者の墓と呼ばれる「箸墓はじめ初期前方後円墳」の築造年代がどんどん上方修正され、今や草創年代は3世紀前半も早い頃となったことだろう。
 私見では魏志倭人伝の記録のみの整合的解釈から「九州説」は動かし得ないと考えるので、前方後円墳の築造年代がどう決まろうと「そんなの関係ない。」
 
 とにかく邪馬台国畿内説は「やまたい→やまと」の語呂から、そもそも「やまと(大和)」にあったから「やまたい国」なのだ――としたくてしょうがないのだ。つまり「初めにやまと(大和)ありき」で、そういう観点は先入主と変わらず、とても正しい歴史観は生まれまい。

 次に述べる(Ⅰ)から、畿内説はまったく成り立たないことが、即座に分かる。

  (Ⅰ) 倭人の国々への行程―邪馬台国畿内説は成立せず

  < 倭人国家群の一覧表 >
国 読み 行程 国勢 首長 官 備考
1狗邪韓国 くやかん 帯方郡から
水行7千余里  ?  ?  ?  戸数・首長・官はいずれも記載無し。朝鮮半島最南部の今日の金海市域。
2對馬国 つしま 渡海千余里 千余戸  ? 卑狗
卑奴母離 今日の対馬
3一大国 いき 渡海千余里 三千許家  ? 卑狗
卑奴母離 今日の壱岐
4末盧国 まつら 渡海千余里 四千余戸  ? 今日の唐津
5伊都国 いつ 末盧国から東南へ
 陸行5百里 千余戸  ? 爾支
泄謨觚
柄渠觚 イト国とは読まない
唐津から東南へ5百里を徒歩5日行程と考え、佐賀県厳木、多久、小城市ライン上にあった国。
帯方郡使はここで旅装を解いた
6奴国 な 伊都国から東南へ
 陸行百里 2万余戸  ? (兄の上が凹)馬觚(しまこ)
卑奴母離 今日の佐賀市
7不彌国 ふみ 伊都国から東へ
 陸行百里 千余家  ? 多模
卑奴母離 今日の佐賀県大和町
8投馬国 つま 南へ
  水行20日 5万余戸  ? 彌彌
彌彌那利 今日の鹿児島と宮崎とを併せた地域
「古日向」のこと
記紀で神武天皇の子(皇子)とされる「タギシミミ」「キスミミ」はここの王族である
9邪馬台国 やまたい 南へ
 水行10日
 陸行一月
郡より女王国までは
 1万2千余里 7万余戸
※この数字は女王国だけではなく傘下の国家群を含めての戸数。 卑弥 呼 伊支馬
彌馬升
彌馬獲支奴佳?(革に是) 今日の八女市郡域
当時の官制を見ると、トップには「いきま」すなわち「生目・活目」がおり、これは他国からの監視官つまり「都督」のような存在で、当時、九州北岸地帯を統治していた「大倭」が置いたと考える。
 要するに女王国は、その南部にあって侵略を狙う狗奴国への防衛策として「大倭」の監視団を受け入れていた。
10斯馬国 しま  ? 斯馬国以下は傍国にして遠絶なため国名のみ。「しま」は「島」で佐賀県杵島か鹿島市あたり。
11已百支国 いおき  ? 長崎県彼杵地方。「彼杵」は本来は「ひおき」だろう。
12伊邪国 いや  ? 長崎県諫早地方
13都支国 つき  ? 長崎県生月島
14彌奴国 みな  ? 大きな「みなと(港)」?
15好古都国 こうこつ  ? 長崎県島原・口之津
16不呼国 ふこ  ?  ?
17姐奴国 しゃな  ?  ?
18對蘇国 つそ  ? 佐賀県鳥栖市
19蘇奴国 そな  ?  ?
20呼邑国 こゆう  ? 「こゆ」か?「越ゆ」とすれば渡船場のある所で、筑後川水運の中継地。
21華奴蘇奴  国 かなそな  ? 佐賀県神崎郡
22鬼国 き  ? 福岡県基山町
23為吾国 いご  ?  ?
24鬼奴国 きな  ? 大分県日田市
25邪馬国 やま  ? 大分県山国地方
26躬臣国 くじ  ? 大分県玖珠郡
27巴利国 はり  ? 福岡県杷木町
28支惟国 きい  ? 福岡県三池町
29烏奴国 うな  ? 熊本県菊池川中流域
「クコチヒコ(菊池彦)の「菊池国」はもう少し上流にあった。
30奴国 な 女王国の最南部。さらにその南には狗奴国がある。 熊本県玉名市(菊池川河口の北側)
狗奴国とは菊池川を挟んで対峙していた国。29烏奴国と並んで対狗奴国防衛最前線の国であったろう。
(倭種の国) 女王国の東を渡海した所にある 何ヶ国かは不明。四国地方・中国地方以東の国々である。その中にはもちろん畿内国家群も含まれるが、魏との国交が無いので魏書には載っていない。
(侏儒国) しゅじゅ 女王国の南、4千余里にある この4千余里は陸行とすると20日の2倍で40日、休息日を考えて約2ヶ月行程のところにある。薩摩半島内陸部か。
 一方、4千余里を水行とみなすと、船で4日の行程だから、八女市郡域の港から南下すると、やはり薩摩半島に到達する。
(裸国・黒歯国) ら・こくし 女王国から東南へ、船で一年かかる所 南ならフィリピンかインドシナ・インドネシアあたりだが、東南ならポリネシア(ハワイを含む)・ミクロネシア方面か。
(倭地) 島に絶在し、多くの島々があり、ぐるっと周回すれば、5千里ほどある 倭地と言っても日本列島を想い描いてはいけない。あくまで魏と通交のある30国全体を一まとまりとし、それらを回ってみると5千里ある――と言っている。
福岡県の南部・佐賀県・長崎県の全域を指している(女王国連盟国家群)。
 (注)
「邪馬台国畿内説」の破綻・・・表の中の行程を見れば、どう考えても畿内には届かないことは明らかである。その論証は次の通り。

 郡(帯方郡)から半島南部の狗邪韓国まで7千里(余は省く)・・・①
 狗邪韓国から対馬海峡を渡って末盧国(唐津市)まで3千里・・・②
 末盧国から伊都国まで陸行で5百里・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・③
 伊都国から直線ルートで奴国経由不彌国まで2百里・・・・・・・・④
 (牧健二説のように放射ルートなら百里・・・・・・・・・・・・・・・・・・⑤)

 以上から半島から不彌国まで①②③④なら1万7百里。行程で言えば「水行十日」「陸行7百里」。
また①②③⑤ルートなら1万6百里。行程で言えば「水行十日」「陸行6百里」。
 このうち郡から末盧国までの1万里は水行であるから「水行十日」と「1万里」が同値と分かる。・・・⑥
  
 一方、郡(帯方郡)から女王国までは1万2千里(余は省く)。かつ行程で言えば「水行十日」「陸行一月」。
 さて、⑥から1万2千里の内の1万里は「水行十日」に当たることが分かったから、残りの2千里が末盧国に上陸してから女王国までの「陸行一月」の道程であることが判明する。

 以上の結論は、邪馬台国は九州北岸の唐津(末盧国)に上陸したあと、陸行一月つまり一ヶ月の徒歩で到達できる所にある――ということで、畿内どころか四国にも中国地方にも在り得ない、となる。

 すなわち、邪馬台国(女王国)は九州島の中に求めるしかない。
 したがって女王国への行程記事「南至る、邪馬台国、女王の都するところ。水行十日、陸行一月」は、「郡(帯方郡)」からの行程を指していることも言える。決してその前の「投馬国」からの行程ではないのである。

 問題は「2千里」が「陸行一月」に該当するかどうかに移らなければならない。そしてその結果、女王国は九州島のどこなのかを引き出せるかどうか――だろう。
 
 唐津から陸行一月(徒歩で一ヶ月)で女王国に到達する、と倭人伝は書く。
 すると唐津から東南へ陸行5百里、つまり女王国までの行程2千里(徒歩で一ヶ月)の25パーセントで伊都国だから、伊都国は唐津から7~8日ほどで着くことになる。
 天気が毎日晴天なら、一日の行程は500里÷7.5=66里進めることになるが、雨風の日は見合わせるだろうから、現実に歩ける日は5日ほどになろう。そうすると500里÷5=100里で、当時の倭国内の徒歩の行程は、一日百里というような換算で整合を得ることになる。

 これを基に「陸行一月」の正味行程は20日ほど(倭人伝の距離的表現では2千里)で、唐津から休みなしに20日歩いて行ける所が女王国の所在地になるはずである。
 簡便法としては地図の上で、唐津から松浦川沿いに到達する厳木・多久・小城ラインの平均距離25キロの4倍つまり100㌔ほどの所がおおむね女王国の位置になる。
 これに該当するのは、八女市、山門郡、三池郡あたりである。
 私見ではこのうち「日本書紀・景行紀」のいわゆる<筑紫遠征>の記述を参考にして、女王国は八女市郡域に求められるとした。

投馬国の位置・・・投馬国の行程記事は直前の不彌国のすぐあとに「南至る、投馬国。水行二十日」とあるので、不彌国から船出して二十日かかる所ととられがちだが、かりにそう採ったとすると、帯方郡から唐津までが十日だから、投馬国は唐津より東南にある不彌国からさらに南方へ「帯方郡~唐津の2倍の距離」に位置することになる。単純に考えても九州本土を離れたはるか南方、たとえば奄美諸島あたりに比定しなければならなくなる。
 しかしそこに戸数5万戸を容れることは到底不可能である。
 投馬国も邪馬台国の行程同様「南至る、○○国、水行○日」という形式で書いてあることに注目すると、その行程も実は帯方郡からのものとして良い。
 そうすると投馬国へは「帯方郡から南へ水行20日」の所にあることになる。帯方郡から末盧国(唐津)まで水行10日だから、投馬国は九州北岸からさらに南へ水行10日かかる位置にあるということである。 
 そのような場所は九州島では西回りなら鹿児島、東回りなら宮崎が該当しよう。そしてこれに「戸数5万」を考え合わせると鹿児島・宮崎両県にまたがる大国であったと解釈される。
 南九州投馬国説には大いなる証拠がある。それは記紀の「神武紀・記」で、南九州から東征を果たした神武天皇の南九州の妻(妃)アヒラツヒメとの間の子に「タギシミミ」「キスミミ」がおり、また東征後に正妃としたイスケヨリヒメとの間の子は「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」というように、ほとんどの皇子に「ミミ」が付く。これは投馬国の官(実際は王)が「彌彌」だと書いているのと完全に整合する。
 これを「神武東征造作説」論者は「南九州からの東征という創作をもっともらしく見せるために、南九州らしい皇子名にしたに過ぎない」という論法で否定してくるだろうが、そうなると、「ミミ」という音価をもつ王族がいたのは南九州であり、しかもその「ミミ」は投馬国の「彌彌」と同じである。何のことはない、記紀の編纂者たちは「南九州古日向の地に投馬国はあった」ことを認めていたことになろう。
 それとも「ミミ」は投馬国の「彌彌」とは何の関係も無い、偶然の一致だ、で済ますのだろうか?
 記紀の編纂者は史記をはじめ、中国の正史を読んでいる以上、倭人伝だけ読まなかったとするのは不合理で、読んでいればなぜ「彌彌」と誤認されかねない「ミミ(耳)」をこれでもかというばかりに神武天皇の皇子に限って付けた(という生易しいものではなく「付けまくった」)のだろうか?――それを「造作論者」に問いたいものである。

狗邪韓国・・・くや(かや)かん国。弁韓の最南部の国「?(トク=さんずいに賣)盧国(トクロ国)」に接する半島では最南端の国。今日の金海市。ここはれっきとした倭人国であった。
 弁韓にも辰韓にも「文身(入れ墨)をした海洋系倭人」が多かったのに倭人国ではなかったが、そういう状況は今日、東南アジア特にマレーシア、シンガポールなどには多数の「華人(中国大陸人)」が住み、政治・経済の主導権を握っているにもかかわらず、それらの国々を「華人国」と言わないのに似ている。

狗奴国・・・くな国。上の表からは外したが、女王国の南に位置し、当時、女王国とは敵対関係にあった。
 王は倭人伝では「卑弥弓呼(ひみくこ)」だが、これは「卑弓弥呼(ひこみこ)」の誤記だろう。すなわち「日子御子」のこと。また官に「狗古智卑狗(くこちひこ)」がいる。これは「菊池彦」で間違いなく、今日の菊池市、山鹿市という菊池川上流に属する穀倉地帯の豪族で、早くに狗奴国王の支配下に入った人物と思われる。
 この狗奴国は後に述べる「大倭(北部九州倭人連合)」と同様に魏との国交はなく、それゆえ女王国の敵国ということで記されたに過ぎず、その証拠に「行程」も「戸数」も書かれていない。
 「行程」の一要素である方角は「女王国の南」と記されているので、それを頼りにする他ないが、おおむね今日の熊本県(玉名市を含む菊池川下流北側は除く)としてよい。
 <狗奴国=熊襲>説を唱える論者は多いが、この人たちは熊襲国を鹿児島県や宮崎県南部までを含むとしており、鹿児島・宮崎南部が「襲国(そのくに=古事記では曽国)」であることを考慮していない。
 私見では狗奴国は熊本県だが、鹿児島・宮崎(古日向)は上で述べたように「投馬国」であった。古事記の国生み神話では、熊本・鹿児島・宮崎という九州島の南半を占める地域を「建日別」別名「熊曽国」としているが、これは倭人伝の「狗奴国」と「投馬国」を併せた呼び名で、おそらく当時(3世紀)の狗奴国人は自国のことを「熊奴(くまな)」、投馬国人は自国を「曽津間(そつま=そのくに)」と呼んでいた。それを中国人側で「クマナ=狗奴国」「ソツマ=投馬国」と書き記したのだろう。
 古事記で両国を一括して「熊曽国」としたのは、両国に種族的な差はないと考えたために違いない。話は縄文時代に遡るが、縄文前期の熊本の阿高式土器や曽畑式土器などが県境をはるかに越えて薩摩半島や大隅半島に広がっていることを考慮すると、海洋性に富んだ同族だった可能性が強い。
 だが邪馬台国との関連では狗奴国は領土を隣接させていることもあり、また女王国を保護国化している九州北部の「大倭」との対立から敵対関係にあったが、投馬国のほうは融和的であった。その国策の違いの根底には投馬国が弥生時代を通じて獲得したより強い海洋性があった、と考える。
 狗奴国が弥生時代には強い土着性を持ち、投馬国と同じ火山灰土とはいえ当時阿蘇山の活動は穏やかで内陸を開田することは比較的容易だった。しかも有明海という穏やかな内海の幸も手に入った。
 それに比べると、鹿児島の南北を貫くカルデラ火山の動きは活発で、噴火・降灰の絶える間が無かったと言ってよい。したがって内陸に幸を見出すより、海に活路を求めざるを得なかった。
 これが鹿児島・宮崎南部の「曽人」をして海と海の交流つまり航海交易に向かわせた理由である。これはまた「ソツマ(のちにサツマという転訛も生まれた=倭人伝で投馬国)」が「舵子(かじこ=水手)」から「かこ(鹿児)」の島、すなわち「鹿児島」地名を派生させたのである。

倭種の国・侏儒国・裸国・黒歯国・・・東へ渡海したらやはり倭人国がある、というのは邪馬台国が九州島であればこそ言えることで、畿内説は伊勢湾を渡海すると考えているが、畿内ならわざわざ渡海せずとも東北方面に陸行しただけで倭種の国は沢山ある。まして畿内説では東は北になるはずだが、畿内の北には渡海すべき海は無い。
 侏儒国はどうか?畿内説だと南を東に置き換えるから、その場合東方4千里に侏儒国があるということになるがこの表現だといわゆる東国はほとんど侏儒の国だとなりかねない。この点でも九州説の私見では説明可能で、薩摩半島(大隅半島もだが)、名にし負うシラス火山灰土で(その深さ100メートルにも及ぶ)強酸性土壌の土地柄である。そこに産出される農産物は極度にカルシウム分が少ないから、特に代々内陸部に居住する集落民はカルシウムの欠乏で身の丈が著しく低い。この傾向は今日でもまま見られるのである。
 裸国・黒歯国はいわゆる南洋系の住民だろう。ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの島々の民は元来中国大陸の華南あたりから渡海していったというから、九州島の航海民とは共通の祖先を持っていたという可能性はある。これを畿内からの交流関係とするのは何といっても難しい。

周回すると5千里・・・原文では「参問倭地、絶在海中洲島之上。或絶、或連、周旋可五千余里」(倭地を参問するに、海中の洲島の上に絶在す。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するに五千余里なるべし)とあり、倭人の国は海中の多くの島々の上に孤絶して存在する。(その島々を海から眺めると)あるいは孤立した島でもあり、あるいは繋がっている場合もあり、ぐるっと(船で)回ってみるとほぼ五千里(日数で5日)はありそうだ――と解釈できる。
 畿内説ではこれの説明となると完全におてあげとなる。中には陸行の周回道路があったのだ、と強弁する向きもあるが、原文からはとてもそのように読み取ることはできない。海上からの視点だろう。
 私見ではこの「周旋五千余里」を末盧国(唐津)から西九州周りで松浦―平戸―西彼杵半島―野母崎―島原半島(南端が口之津=好古都国?)―(有明海)―玉名(南端の奴国)を回るコースと考えるのだが、これに要する航海日数は5日ほどであるから、倭人伝のこの「周旋五千余里」とはほぼ整合する。
 壱岐、對馬、狗邪韓国を除く倭地(九州島)の上での女王国の支配領域(連盟国群)は、おおむねこの「周旋五千余里」で表される西北九州周回コースにすっぽり入るのである。
 古事記の国生み神話で九州島(筑紫島)を筑紫国(白日別)、肥国(建日向日豊久士比泥別)、豊国(豊日別)、熊曽国(建日別)と四つに分けたうちの「肥国」がちょうどそれに当たる。
 異名の中の「建日向」を一般には「建・日向」(猛々しい日向)として「日向国」の存在を作り出そうとするがそうするとそのあとの「日豊久士比泥別」が浮いてしまい、訳が分からなくなる。
 私見ではこれを「建日に向かい」と倭漢文で読む。すると「建日、つまり熊曽国=狗奴国に向かい合って」と解釈され、倭人伝の「其の南に狗奴国有り」という記事とも整合する。また次の「日豊久士比泥別」も倭漢文だと「日の豊かなるクシヒの根分け」と読め、「日、つまり王の能力が豊かで、クシヒ、つまり大王の分国」と意味のある解釈が施される。(注:「クシヒ」とは「大王」すなわちここでは「大倭王」のことで、文字通り「大倭の王」のことであるが、この項では指摘だけに留める。詳細は次の項に譲る)

   (Ⅱ) 倭人国の風土・国情

(Ⅱ) 倭人国の風土と国情 

倭人伝では各国への行程記事のあと、風土・国情記事に移る。
ここでは主に中国との対比的な記事を取り上げて、注記していくことにする。

・男子は大小と無く、皆、黥面し、文身す。

  風俗の最初の記事である。韓伝にあった「文身する倭人に近い人々」と非常に似ているが、文身の上にさらに「黥面」(顔への入れ墨)をしている。倭人本国の、より強い海洋性を表している。

・古へ(いにしへ)より以来、その使いの中国に詣(いた)るや、皆、「大夫」を自称す。
 
  漢代に「古へ」といえば、周王朝時代を指すという。魏の時代も同じと考えてよいと思う。すると倭人が(九州島から)大陸の王朝へ使者を出した時、使者は「自分は大夫でござる」というようなことを言ったことになる。周王朝の時に「越裳(エッショウ=越人)」とともに倭人がウコン(神酒に入れる香草)を貢献した記事があるから、これは間違いではない。
  彼らが自称したという「大夫」は中国の官制では第五等クラスで、そのことを倭人も取り入れて大夫を自称したのだろうか。それともそのクラスに相当する「倭の官制」があったのを、中国官制に当てはめてそう言ったものだろうか?私見では後者だが倭語で何と言ったかは分からない。

・夏后少康の子の会稽に封ぜられるや、断髪文身し、以って蛟龍の害を避けり。 

  夏は夏王朝のこと。殷王朝の前代で、『史記』の「三表」および『竹書紀年』によれば、少康は始祖の禹から数えて6代目である。年代的には紀元前2000年の頃となる。
  その子で会稽地方の王として下った者が、断髪し、文身したという。これをこの王が断髪文身を始めたのだ。そしてそれを倭人など海洋民が取り入れたのだ――と解釈する向きがあるが、この記事ではそうは言っていない。判断は保留するほかない。
  すぐ上の「周王朝時代に越人と倭人が朝貢していた」という内容から見ると、越人と倭人は、水人として同質的な物を持っていたという解釈もできる。それだと、記事の同じ文脈にある「その道理を計るに、まさに会稽・東冶の東に在るべし」という一文が生きてこよう。

・その死するや、棺ありて、槨無し。土を封じて塚を作る。

  古墳時代の竪穴式納棺を想わせる一文である。陳寿が倭人伝を編纂したのは3世紀の後半であるから、もしかしたらその頃すでに「高塚に竪穴式石室」という形態が九州島では確立していたという証拠の文書になるのかもしれない。ただ、槨(かく=石室)は無いといっているので、棺を直接素掘りの穴に入れたようだ。
  
・その人寿考にして、あるいは百年、あるいは八、九十年なり。

  寿考は長寿の意味。百歳生きる人もあり、8,90歳まで生きる人もある。
  この百や8,90歳は2倍年歴であり、実際にはその半分の40~50歳程度だろう、とする有力な説があるが、この倭人伝は中国の正史であり、読者は中国人なのであるから、そう考えるのはおかしい。
  その考えの前提にある「倭人は2倍年歴を採用していた」との説は、実は確定しているわけではない。

・国々に市ありて、有る無しを交易す。大倭をしてこれを監せしむ。

  国家間で市場取り引きが盛んだったようだ。その交易を監督していたのが「大倭」という存在である。
  この大倭を一般には「倭の大人」とするが、そんなものではない。なぜなら、市場取り引きを監督するという重要な役割を担う官に官名が無いというのは考えられないからだ。
  では、大倭とは何か?ずばり言えば、九州北部(おおむね福岡県の筑後川以北)に存在した「九州北部倭人連合」とでも名付けるべき連合体である。もともとは博多奴国あたりが中心となって形成された倭人海洋民国家の集合体だったが、2世紀後半の「倭国の乱」(後述)で佐賀平野の西部にあった「伊都国(私見ではイツ国と読む)を中心に勢力を伸張させたオオナモチ系国家群を打ち破り、広く九州北部を平定した(ただし、筑後川以南の邪馬台国は保護国化しただけで併呑してはいない)。そのときオオナモチの一党はばらばらになり首長のオオナモチ(オオクニヌシ)は出雲(イツ→イツナ→イツモ)に流されている。
  「大倭」は『旧事本紀』巻十「国造本紀」の前文に登場する二つの「大倭」のうち、はじめの「大倭」のことである。この「大倭」が3世紀後半に九州北部から畿内へ東征したあと、「大倭」は「大和」となり、倭語としては「アマツヒツギノ国→ヤマタイ国→ヤマト国」の変遷で「大和=ヤマト」として定着した。(この項の参照はこちら)

・女王国以北は特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏れ憚る。常に伊都国に治す。

  一大率は「ある種の大きな率」で、「率」は指揮官・帥のことだから、「占領軍総司令部司令官」(マッカーサー)のようなものだろう。それが伊都国に置かれていたという。
  この司令部を誰が置いたのかについては2説がある。一つは、これは一般説といってよいが「女王国が置いた」というもの。もうひとつは、松本清張などが唱える「魏王朝説」である。
  まず、後者について言うと、これはいただけない。なぜならもし魏の制度であるなら当然魏の官名が付けられていなければならず、「一大率(ある種の大きな率)」などという不確定な名称で放って置くわけがない。
  では前者の一般説でよいか?
  これもいただけない。女王国が置いたのならやはり女王国特有の官名が付けられてしかるべきだろう。女王国には「イキマ」「ミマショウ」「ミマワキ」ナカテ」なる倭語特有の官名があり、倭人伝にちゃんと記載されているのだ。まして一大率は「郡使がいつも留まるところ」という伊都国にあるのだから、特有の官名を聞き落としたということは考えられない。
  では、どこが置いたのだろうか?私見ではそれは「大倭」である。九州北部を二分していた「伊都国(イツ国=首長はオオナモチ)を打ち破った大倭すなわち九州北部倭人連合が置いたのである。であればこそ最大の敵国であった「伊都国(イツ国=イツナ)」の中に司令部(一大率)を置いたわけなのである。
  それではどうして倭人伝はその経緯を書かなかったのだろうか?
  それは単純な理由である。つまり魏と「大倭」とは国交が無かったからなのである。使者をよこさない(朝貢してこない)国は魏にとって無礼な国であるから、そんな国のことは書こうとしないのが正史という物だろう。現に北朝鮮は日本との国交が無いため、「外交青書」上は存在しないが、それと同じことである。

・その国、もとまた男子を以って王と為せり。住まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という。

  この一文で注意しなければならないのは「その国」と「倭国」との違いである。「その国」は「女王国」のみを指し、邪馬台女王国も卑弥呼が共立されるまでは男王が7~80年(三代ほどか)も統治していたと言っているのだが、一方「倭国」は九州島全体を指し、その全体で紛争が勃発した。それが上の項で述べた「大倭」対「伊都国(イツ国)」の天下分け目の戦いであった。
  紛争中でまだ男王が統治していた頃、九州島の中の一国であった卑弥呼の国はまだ「邪馬台国」とは呼ばれず、あるいは自称していなかったはずだ。それが、紛争が長引き(後漢書によると140年代~180年代の40年間)、各国が疲弊してくると、さすがに厭戦気分がみなぎる。
  そんな気運を察したのか、戦争当事国からは外れていた卑弥呼の国で、卑弥呼に「アマツヒを継ぎなさい。そうすれば大戦は収まるだろう」というような「神示」が降った。おそらく卑弥呼の説く「神示」はたいそうよく当たったのだろう。卑弥呼は次第に今日で言う新興宗教の「教祖様」のような崇拝の対象に祭り上げられて女王となり、ついに戦いは終息した。
  これ以降、卑弥呼の国は「アマツヒツギノヒメミコのおわします国」、簡略化して「アマツヒツギノ国」と称されるようになった。この「アマツヒツギ(ama-tu-hi-tugi)」が中国史官によって「ヤマタイ(yama-tai=
邪馬台)」としてとりいれられたものと見る。
  また、卑弥呼の国はけっして九州島全体の頂点に立ったわけではない。南には侵攻しようとしている「狗奴国」があり、航海民国家「投馬国」も海上交易の得意先としての女王国は尊重したが、臣従していたとは言い難い。まして私見のように九州北部に「大倭」があり、「大倭」のほうがむしろ邪馬台国を保護国化していたと考える立場からすれば、それはまったく有り得ない想定である。
  卑弥呼が後世に残したものは何と言っても「アマツヒ(天津日)」という天上の存在を地上に降ろしたことだろう。後世その名を「天照大神」とされるが、卑弥呼は天上界最高と観念される「天照大神」を最初に受信した大巫女なのである。卑弥呼を天照大神その人と考える人が多いが、それは違う。卑弥呼はあくまで肉体を持った受信者なのであって、天照大神そのものではない。もし卑弥呼=天照大神であれば、卑弥呼の死(正始8年=247年)の死が同時に天照大神の死であることになるが、そうなるといわゆる「ウケヒ」「岩戸がくれ」という神話に登場するのみならず、神武紀にも祟神紀・垂仁紀にも登場する天照大神はいったい誰なのだろうか?天照大神は、肉体を持った卑弥呼とは別の神次元の存在と考えるほか有り得ないのではないだろうか。

   (Ⅲ) 卑弥呼の死と宗女・台与の擁立

(Ⅲ) 卑弥呼の死 と宗女・台与の擁立

 行程記事と風土記事を除くと、あとは卑弥呼が魏に初めて朝貢した記述から、その死と後継の宗女・台与が擁立された記述まで、ちょうど10年間(西暦238年~247年)の記録が編年体で書かれて最後となる。

 ここではその10年間の事績を表にあらわし、そのあと注記を施すことにする。 

   < 景初2年(238)から正始8年(247)に至る女王国の年表 >
紀年
(西暦) 記          事 備      考
景初2年
(238年) 6月:卑弥呼、遣使する。使者は難升米(大夫)と都市牛利
12月:魏の明帝、証書および金印紫綬などを下賜する。
     (使者の二人にも位記と銀印が下賜された)
翌年の1月、明帝死亡。後継は斉王。 朝貢品:男女生口10人、班布2匹2丈
下賜品:錦布類、銅鏡百枚その他
正始元年
(240年) 帯方郡太守キュウジュン、部下のテイシュンらに一昨年下賜された証書・印綬などを女王国へ持参させる。 一昨年の下賜品が到来する
女王、上表文によって答謝する。
正始4年
(243年) 倭王、貢献する。使者は伊聲耆(大夫)、掖邪狗ら8名。
   (伊聲耆・掖邪狗らも位記と銀印が下賜された) 朝貢品:生口(人数不明)、錦布類、丹      木、短弓矢その他
正始6年
(245年) 難升米が黄幢(コウドウ)を授かる。 ただし黄幢は倭国には来ず、帯方郡に置かれたまま
正始8年
(247年) 殺害された帯方郡太守キュウジュンの後継者オウキが着任。倭の使者・載斯烏越が郡に到り、狗奴国との戦闘を報告。郡から張政が女王国に到り、証書と黄幢を難升米に手渡して檄を飛ばす。(そのため)卑弥呼は死亡。
 後継に男王が立つも国中が承服せず、内乱に陥り、戦死者が千人を数えるまでになる。
 そこで卑弥呼の宗女(一族の娘)で歳が13才という台与を擁立し、争いがようやく収まる。
 張政は布告して台与を告諭する。台与は掖邪狗ら20名に張政が帰任するのを送らせ、同時に朝貢する。 下賜品:証書と黄幢
卑弥呼の墓:大きな高塚で、直径が百         余歩(約120㍍)あった。

朝貢品:生口30人(男女)、白珠五千、      孔青大句珠2枚、異文雑錦20匹
(注)
金印紫綬・・・卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印。倭人が大陸王朝から金印を授かるのは2例目。もうひとつは周知の「漢委奴国王」の金印で、福岡県の志賀島で発見された。この「奴国」は博多奴国とされている。後漢書の記載によれば西暦57年に倭王が朝貢し、時の光武帝より下賜されたというその物だろう。
 卑弥呼の場合、この親魏倭王印が発見されれば、おそらくそこが女王国の場所であろうから、永年の邪馬台国論争にひとつの終止符が打たれよう。

難升米・都市牛利・・・あとに登場する伊聲耆・掖邪狗・載斯烏越を含めて、邪馬台国の倭人の高官の名前であるが、何と読むのか諸説があって定まらない。漢字として読めば「ナンショウマイ」「トシギュウリ」「イセイキ」「エキヤク」「サイシウエツ」だが、まったく意味をなしていない。
 倭語ではどう読むのか?
 難升米を私見では「なしおみ」と読む。「難=な=奴」と捉え、「奴之臣」という意味だろうと推測する。つまり女王国連盟の一国「奴国」(熊本県玉名市に比定)の「臣(おみ)」と考える。玉名奴国のおそらく最高官僚が連盟の盟主である女王国の意向で使者として発ったのだろう。
 都市牛利・伊聲耆の倭音も意味も分からないが、次の掖邪狗は「邪」は「や」、「狗」は「く、又はこ」で「卑狗」を「ひこ」と読む通例からして「邪狗」は「やこ」もしくは「やっこ」だろうと思われる。一方で「掖」は「えき」だから、通して読むと「えきやこ」となり、これも何を意味するのか皆目分からない。邪馬台国熊本説の藤井熊大教授は「若日子(わかひこ→わきゃこ→掖邪狗)」だろうと言うが、なるほどと思わせるものがある。
 最後の載斯烏越(さいしうえ)も難しいが、私見では「烏越」を「うえ」と発音し、その意味は「大兄(おおえ→うえ)」のことを表していると見る。すなわち「載斯大兄」が正確な呼び名であろうと考えている。
 何とも心もとないが、これらの官僚はすべて邪馬台国および連盟諸国の高官であることだけは間違いない。

銅鏡百枚・・・邪馬台国畿内論者が考古資料として必ず持ち出すのがこの「銅鏡百枚」で、特に「三角縁神獣鏡」のことだと言い続けてきた。中でも4世紀も初期段階の京都の大塚山古墳から30数枚と大量に出土した三角縁神獣鏡の同范鏡の研究をした京都大学の小林教授の「配布説」は一世を風靡し、畿内説は一段と弾みをつけることになった。
 しかし、今日、景初年号を含むこの三角縁神獣鏡は百枚どころか、国内到る所で発掘が相次いだ結果三百枚を優に越えてしまったことと、大陸では一枚も見つかっていないことなどから、中国考古学院の王仲珠氏によって「神獣鏡は華北の魏ではなく、華中の呉のデザインであり、呉の鏡作り工人が何らかの理由で日本に到来して作ったものである」という説を発表して以来、卑弥呼のもらった鏡が三角縁神獣鏡であることの可能性は低いと見られている。
 日本列島で卑弥呼時代の景初年号を持つ鏡には他に「画文帯神獣鏡」「方格規矩鏡」などがあり、これらの中に見つかるかもしれない。
 ただ卑弥呼の鏡かどうかは別として、三角縁神獣鏡は大和地方の比較的古い、ということは大和王権成立の初期段階に造られた高塚(主に前方後円墳)に大量に埋納されているという特徴があり、そのことには十分留意する必要がある。

黄幢・・・コウドウ。幢幡(トウハン)とも言い、戦闘を指揮する旗のこと。特に黄色の物は皇帝の指揮を表す。
 これが邪馬台国に与えられたということは、女王国への特別待遇を示すと言ってよい。ただこの事はまた、女王国が完全に魏の冊封下に入ったことを意味する、ととらえる向きもある(一大率を魏率と考えた松本清張など)。
 私見では魏の属国になったとは思わないが、対狗奴国戦を有利に導くために与えられたとする従来説に加えて、女王国を保護国化している「大倭」への魏の牽制という目的もあったのではないかと思っている。
 「大倭」が女王国を保護国化しているのなら「大倭」が狗奴国の侵攻を叩けばよかろう――と疑問が持たれるかも知れないが、当時の「大倭」は実は半島の動乱がわが身に及ぶかどうか、の瀬戸際にあり、とても南方へ兵を繰り出して戦う余裕はなかったのである。
 詳しくは韓伝を見てもらうことにし、そのわけを簡略に言えば、景初年間(237年~239年)に帯方郡楽浪郡三韓諸国とくに辰韓たがはげしく戦った結果、帯方郡太守のキュウジュンが戦死したため、両郡は総力で三韓を討った。これが引き金となり辰韓王家は半島を離れて九州島へ亡命した。「大倭」は一応は受け入れたが、そのことは同時に「大倭」も魏の敵国とみなされ、攻撃を受けてもおかしくない状況に陥っていた――ということである。

卑弥呼以って死す・・・狗奴国との戦いが熾烈になり、ついに帯方郡から「黄幢」がもたらされた。持参した張政という魏王朝直属の地方官は、卑弥呼以下の王宮人には渡さず、使者として名の知られている難升米に渡してしまう。
 ということは、張政としては、現下の戦争状態は卑弥呼のような「神のお告げ」を待って対処できるものではない、との認識を持ったということであろう。これは卑弥呼王権否定の判断を示したと言ってよい。
 したがって卑弥呼の死は一種の刑死となる。張政の命令で誰かが刑を執行したというのではなく、おそらくは毒を仰いで――というような死であったろう。
 「卑弥呼以って死す」の「以って」を「すでに」と解釈する向きがあるが、それだったら張政が難升米に黄幢を手渡す前に「卑弥呼すでに死せり」がなければならない。つまり、手渡すべき相手が死んでしまったので、仕方なく高官の難升米に渡した――という時系列でないとおかしい。したがって「すでに」は成立しない。
 卑弥呼の墓が高塚(おそらく円墳)で、直径が百余歩(一歩は五尺。当時の一尺は24センチほどだから120㍍)もあるというのは、247年当時の中ではトップクラスの大きさである。これはもう立派な古墳といってよく、九州島でも3世紀前半には古墳時代に入っていたと言える。

宗女・台与・・・卑弥呼の死後、すぐに男王が立ったが、国中が承服せず、卑弥呼の一族の中から13歳の台与(とよ)という女子が擁立された。
 「台」は邪馬台国の「台」と同じく倭人伝の原文では「壹(一・壱)」だが、これは「臺(台)」の置き字だろう。もし魏志倭人伝の「壹(一・壱)」がオリジナルなら、魏志を参照としたとされる『後漢書』が「臺(台)」を使うはずがない。当然「壹(一・壱)」を踏襲したはずだ。より字画数の多い難しい漢字に間違えるわけがない。
 また『隋書』では大和を「耶麻堆の後裔だろう」としているが、この「耶麻堆」はまさに「ヤマタイ(国)」である。
 さて台与が女王となった経緯は、皮肉にも卑弥呼が擁立された経緯とそっくりである。戦いが熾烈になりお互いが疲弊の極に達したときに女王に共立されている。
 それなら初めから女王を立てれば戦闘などせずに済むものを――と考えがちだが、戦いというものは、単に領土や物資の奪い合いだけではなく、面子と面子、考え方の違い(宗教を含む)でも起こる。今日でもまさにそうではないか。
 邪馬台国の千人が戦死したという内紛も、いや内紛こそ考え方の違いが原因であることが多い。この場合は後継に男王を据えたことで起きたわけだが、この男王は、卑弥呼の治世の様子を描いた部分に出てくる「男弟ありて、国を佐治す」(卑弥呼の弟がいて、国政を補佐している)の「男弟」のことだろう。まま「難升米が王になった」とする論者があるが、そこまでは考えられまい。もしそうであるなら倭人伝にそのように書かれるはずである。
 それでも男王が立てられたのは張政ら魏王朝の意向だろう。しかし、さしもの魏の意向も、邪馬台国では通用しなかった。

 かくして邪馬台国では再び女王が擁立されて「国中がついに定ま」った。九州島では書紀の「景行紀」筑紫親征の段に窺がえるように女酋が極めて多い。台与という女子が立って混乱が収まったというのも納得できる。
 台与が王位に就いて最初の仕事は、張政らを本国に送り届け、朝貢をすることだった。台与が使者・掖邪狗らに持たせた物はかなり大規模であった。
 生口は男女30人。白珠5千個(おそらく今の真珠)、孔青大句珠2枚(ヒスイ製の穴の開いた大きな勾玉)、それに異文雑錦20匹(倭錦のこと)という膨大な物であった。
 白珠(真珠)の5千個というのは、女王国連盟が西九州の海岸地帯を擁しているから可能な数量だろう。また倭錦20匹は1匹が4丈=9㍍であるから実に180㍍という長さの織物の生地である。
 ・・・・・倭人伝の記事はここを以って終わる。

 ※台与のヤマタイ女王国はその後どうなったであろうか?
   結論から言うと、その後約20年は安泰であったが、ついに狗奴国の侵攻をうけ、併呑されたと見る。その経緯は次の『晋書』で解読するのでここでは述べない。なおその時、台与は今の大分県中部に逃れ、そこで亡命政権を開いた。そのため「豊(国)」という地名が発生したと考えている。