人名あ

秋田実季(あきたさねすえ)? 1576-1659
出羽檜山城主安東愛季の次男。豊臣秀吉から所領安堵され、湊を拠点に領国を経営。関ヶ原合戦後、宍戸に転封。
秋月種実(あきづきたねざね)? 1545~1596
筑前秋月城主。文種の次男。毛利氏を頼り、大友氏と争う。一時、大友氏に降伏するが、のち反旗を翻す。島津氏の北上に対し降伏、秀吉の九州征伐に対抗するが、まもなく降伏。日向高鍋に転封された。
秋山信友(あきやまのぶとも)? 1531-1575
甲斐武田氏の武将。美濃岩村城を攻略、信長の叔母を室にするが、長篠で武田軍が敗退すると、織田軍の攻撃を受け、殺された。
明智秀満(あけちひでみつ)? ?-1582
明智光秀の女婿。丹波福知山城主。光秀に従い、本能寺の変後、近江佐和山城で自刃。
明智光秀(あけちみつひで)? 1528-1582
美濃土岐氏の一族、土岐(明智)光綱の子。織田信長に従い、足利義昭の上洛に尽力。後、織田家五大軍団長の一人。本能寺で、信長を自刃させた後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中農民に殺された。
浅井亮政(あざいすけまさ)? ?-1542
浅井直種の子。浅井直政の養子となり、宗家を継ぐ。近江小谷城主。京極氏の家臣だったが、主家の内紛に乗じて次第に台頭し、江南の六角氏と争いつつ、戦国大名に成長した。
浅井長政(あざいながまさ)? 1545-1573
近江小谷城主浅井久政の子。信長の妹お市の方と政略結婚し、領国を拡大する。後、朝倉氏に荷担して信長と敵対、小谷落城に際し自刃。
浅井久政(あざいひさまさ)? ?-1573
京極、六角氏らの勢力に圧されつつ、朝倉氏の助力によってかろうじて領国を維持した。1560年、長政に家督を譲り隠居したが、1573年小谷落城に際し自刃。
朝倉景綱(あさくら かげつな)? ????~????
朝倉氏一族。越前・織田城主。1573年当主義景が越前・刀禰坂で敗れた時には、これを見捨てて居城に退却した。主家滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城、妻子のみ引き連れて落ち延びたといわれる。
朝倉景連(あさくら かげつら)? ????~1570
○玄蕃允 ◇父:朝倉玄蕃助景宗 子:朝倉三郎景胤、七郎景泰 越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。
朝倉景紀(あさくら かげのり)? ????~1573
○孫九郎 九郎左衛門尉 ◇父:朝倉孫次郎貞景 養父:朝倉教景 子:朝倉太郎左衛門景土光、中務大輔景恒、貞紀 越前・朝倉氏一族。越前・敦賀城主。一族の重鎮宗滴の養子となり、共に各地を転戦した。将軍足利義昭が当主義景を頼った際には、敦賀城に迎えた。近江・姉川の合戦にも第2陣の大将として参加している。
朝倉景盛(あさくら かげもり)? ????~????
○孫六 出雲守 三富氏 ◇父:朝倉左近助(景尚?) 子:朝倉景茂 越前・朝倉氏傍流。朝倉氏は北近江・浅井氏と共に尾張・織田氏らの軍と戦っていたが、不利な戦況の中、景盛はわずかな手勢で単独夜襲をかけ、これを成功をさせる。しかし、この混乱に続く朝倉・浅井軍はなかった為、所詮は局地的な勝利でしかなく、朝倉家はまもなく滅亡した。
朝倉孝景(あさくら たかかげ)? 1493~1546
◇父:朝倉孫次郎貞景 室:武田元信女 子:朝倉義景 越前・朝倉氏当主。一向一揆と戦いながら越前の領国化を進めた。文武に秀で朝倉政権を盤石なものとし、又、歌道にも通じた風流を解する将でもあった。
朝倉教景(あさくら のりかげ)? 1477~1555
○小太郎 太郎左衛門尉 宗滴沙弥 ◇父:朝倉小太郎孝景(敏景) 室:朝倉景豊妹(景冬女?) 養子:朝倉景紀  越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。
朝倉義景(あさくら よしかげ)? 1533~1573
○長夜叉丸 孫次郎 延景 左衛門督 ◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子:朝倉阿君丸、愛王丸 越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。
朝倉景鏡(あさくらかげあきら)? ?-1574
越前朝倉氏の一族。景職の孫。義景に従い、しばしば大将として、近江、美野などに出陣。1573年義景を裏切り、自害させ、織田信長に降る。1574年一向一揆と対立、敗死した。
朝倉景隆(あさくらかげたか)? ?- ?
越前朝倉氏の一族。しばしば、加賀一向一揆と戦う。
朝倉景建(あさくらかげたけ)? ?-1575
越前朝倉氏の一族。各地を転戦し、姉川の戦いで総大将。近江坂本では、森可成や信長の弟信治を討ち取る。1573年義景を助け奮戦するが、義景自刃後、信長に降伏。後、一向一揆と対立、配線の責任を問われて自殺。
朝倉景恒(あさくらかげつね)? ?-1570
朝倉氏の家臣。教景の孫。足利義昭を織田信長の下に送ったとき、警護した。1570年信長の越前攻めに際し、金ヶ崎城主として奮戦、開城後遁世した。
朝倉景連(あさくらかげつら)? ?-1570
朝倉氏の家臣。氏景の孫。北陸方面の責任者として加賀一向一揆と戦う。一乗谷の奉行人を勤めた。
朝倉教景(あさくらのりかげ)? 1477-1555
朝倉氏の一族。孝景の子。宗滴と号す。敦賀郡司。1506年越前一向一揆を鎮圧、加賀一向一揆を破る。1517年丹後、1525年近江、1527年京、1531年加賀に出陣、各地で活躍する。1544年には美濃斎藤氏と組んで、織田信秀を破り、1555年には上杉謙信と組んで、加賀一向一揆を破った。しかし、間もなく陣没。
朝倉義景(あさくらよしかげ)? 1533-1573
越前一乗谷城主。朝倉孝景の子。足利義昭を迎えるも上洛の意思なく、義昭は信長の元に去り、信長に上洛される。後、浅井長政と組んで信長と争い、滅亡。
浅野長晟(あさのながあきら)? 1586-1632
浅野長政の次男。関ヶ原戦後、徳川家康に仕え、1610年備中足守、1613年兄幸長の死去後、紀伊和歌山藩主、次いで1619年安芸広島藩主。
浅野長政(あさのながまさ)? 1547-1611
浅野長勝の養子。妻は豊臣秀吉の正室おねの妹。豊臣五奉行の一人。甲斐府中城主。
朝比奈泰朝(あさひな やすとも)? 1538?~????
○左京亮 備中守 ◇父:朝比奈泰能 子:朝比奈泰基 駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。
朝比奈泰能(あさひな やすよし)? 1517~1557
○左京亮 備中守 ◇父:朝比奈泰熙 室:中御門宣秀女 子:朝比奈泰朝  駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。
旭姫(あさひひめ) 
豊臣秀吉の異父妹。豊臣秀長と同腹の妹。父は竹阿弥 尾張の百姓家に嫁ぎ、夫は秀吉に取り立てられ佐治日向と名乗る 佐治日向没後に副田甚兵衛に嫁いだ。小牧・長久手の後に徳川家康を上洛させるため離縁され、家康に嫁いだ 家康上洛後に駿府城に住み、駿河御前と呼ばれた 大政所の看病のため上洛し、その後は駿府に戻らず翌年聚楽第で病死した
阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ) 
性別:♂ 系譜:大国主命と奥津島比売神の子 神格:雷神、農業神 神社:都々古別神社、土佐神社、鳴無神社  鋤という文字からも連想されるとおり、阿遅鋤高日子根神は農業の神である。あの大国主命を父に持つという点から見ても、それは間違いあるまい。また、穀霊の天若日子神と非常に親しい友人であったという点も見逃せない。 天若日子神が死んだときに、わざわざ天上から地上に弔問に訪れるほどであったという。そのときに死者と間違われて非常に怒ったという話が残っている。その話は天若日子神を参照していただくとして、重要なのはこの2人が非常によく似ているという点だ。なにしろ実の父や妻でさえも見間違えるというのだから相当だ。  神話において、姿形の似ている神というのは、その神としての性質もよく似ていることが非常に多い。この2神の場合は、生者が死者と間違われるという点で、本質的な同一神であることを示す象徴性が感じられる。つまり、この2神はいずれも穀霊だということである。そこから、この話は一般に穀物の死と再生という農民の信仰がもとになったものと考えられている。また、この話の中で生者の立場をとる阿遅鋤高日子根神は、春に芽を出してすくすくと育つ生命力を象徴していると言えるだろう。  古代において、鋤という道具は、単なる道具である以上に田の神を祀るときの呪具としても用いられた。阿遅鋤高日子根神の字を見ても分かるとおり、もともとはこの鋤を御神体とする農業神として祀られたものであろう。さらに、「日本霊異記」の道場法師のエピソードに興味深いものがある。昔、農夫が畑で鋤柄の金杖を持って立っていると、突然雷雨が襲ってきて彼の前に落雷した。そのあとを見ると頭に蛇を巻き付けた奇妙な姿をした子供が立っていた。その子供は、後に元興寺の童子となり、出家して道場法師と名乗った。そして、元興寺の田が渇水に悩まされていたときに鋤柄の杖を水門の口におき、たちまち田に水を引き入れたという。  この話は、鋤が神霊の依り代と考えられていたことを如実に物語っており、この鋤に宿る神霊は雷神(=水の神)である。道場法師の出現とその霊力の発揮は、農耕を助ける鋤と雷神の霊力を結びつけたものといえる。このような文献が残っているくらいだから、鋤と雷の密接な関係は農民の間でもかなり一般的な信仰としてあったのだろう。  阿遅鋤高日子根神は本来は穀霊であるが、この穀霊がすくすくと成長するためには雷(水の神)との密接な結びつきは欠かせないものである。稲の無事な成長を願う農民は鋤と雷が通じ合うことを切実に願った。そういった信仰から、次第に阿遅鋤高日子根神は雷神を呼ぶ神、ひいては雷神と同様の霊力を発揮する農業神として信仰されるようになったのであろう。
味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) 
農業神。武神。賀茂大神。
蘆名盛氏(あしな もりうじ)? 1521~1580
会津・蘆名氏16代当主。会津黒川城主芦名盛舜の子。領内の反乱を治め、会津盆地を平定し、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。
蘆名盛舜(あしな もりきよ)? 1490~1553
兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。
蘆名盛重(あしな もりしげ)? 1576~1631
11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、家臣の内訌が続いた。その為、1589年摺上原の戦いでは、離反者を出して陸奥・伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻る。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収された。以後兄義宣に従い、秋田にて56歳で没。
飛鳥井家(あすかい)? 
飛鳥井家  羽林家 旧家 内々    928石 藤原氏北家師実流難波支流 伯爵 居所・日御門通北行当り(京都市上京区)
阿多盛淳(あた もりあつ)? ????~1600
薩摩・島津氏家臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がす為義弘を名乗って、追いすがる東軍井伊、藤堂、朽木勢と戦い討ち死にした。
安宅清康(あたぎ きよやす)? ????~1581
阿波・三好氏一族。1578年兄信康の死により家督を継ぐ。安芸・毛利氏に和する動きを見せたことから、織田信長の攻撃を受け、1581年信長臣羽柴秀吉の攻撃を受けて開城降伏。信長を安土に訪れ、帰国後病死した。
安宅信康(あたぎ のぶやす)? 1549~1578
三好三人衆、石山本願寺と結び、織田信長と戦うが、1575年敗れて帰順。その後、織田氏の水軍の将となり、1577年安芸・毛利氏の水軍と戦う(第1次木津川口の合戦)。
安宅冬康(あたぎ ふゆやす)? 1528~1568
元は紀伊・安宅荘に興った淡路水軍安宅氏一族。阿波・三好氏一族とも、安宅氏から三好氏に入嗣後に復姓したとも言われ、定かでない。安宅水軍を統括して淡路海域の制海権を抑えると共に、和泉・岸和田城にも進出して、陸海戦共に兄三好長慶の畿内制圧を助けた。だが、重臣松永久秀の讒言により、長慶から謀反を疑われ、河内・飯盛城に誘殺された。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。
阿閉貞大(あつじ さだひろ)? ????~1582
もと浅井氏の臣。 1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻める先手を命じられたのに、信長に遅れをとってしまい、厳しく叱責される。 1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。 1578年8月信長主催の安土の相撲に奉行として参加。永田正貞・阿閉貞大の強力を聞き及んでいた信長は二人の相撲を所望。まず堀秀政・蒲生賦秀・万見重元・布施公保・後藤高治と対戦した後二人で対戦し、永田の勝ちとなる。 1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに甲賀口先手として参戦。 1582年の本能寺の変後明智光秀に与力し、長浜城を攻撃。光秀の死後居城の山本山城を宮部継潤・中村一氏に包囲され、捕らえられ殺される。
阿閉貞征(あつじ さだゆき)? ????~1582
阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。
熱田大神(あつたのおおかみ) 
熱田大神 ,あつたのおおかみ,
安並和泉守(あなみ いずみのかみ)? ????~????
土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討たれた。
阿部家(あべけ)? 

天合尊(あまあい) 
①父:なし 母:なし ②第3世独天神 妻子供なし。 別名:天鏡尊
尼子(あまご)? 

尼子元知(あまご )? ????-1622

尼子興久(あまご おきひさ)? 1497~1534
出雲・尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父より西出雲の要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱を通じ、さらに加増を要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父の備後・山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害に追い込まれた。その首を見た経久は怒りを忘れ悲しんだという。
尼子勝久(あまご かつひさ)? 1553~1578
出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏や宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。
尼子清定(あまご きよさだ)? 1410-1477
応仁の乱以来の国内反乱を鎮圧、出雲東部一帯に尼子氏の支配権を確立する。後年京極氏からの自立を図るようになるが、その晩年は定かではない。
尼子国久(あまご くにひさ)? 1492?~1554
一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。新宮党初代。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。
尼子敬久(あまご たかひさ)? ????~1610
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし新宮党の武力を恐れる安芸・毛利氏の謀略により、新宮党と不和であった当主晴久に、居を襲われ滅ぼされた。
尼子高久(あまご たかひさ)? 1363-1391
近江の守護大名・京極氏の一族。 はじめて近江尼子郷に住み、尼子氏を称した。尼子氏初代。  尼子高久は、尼子氏の初代であり、近江(滋賀県)の大名・京極高秀の子です。高秀の嫡男は高詮といい、これが京極氏を継ぎますが、高久はその弟にあたります。  京極氏は、宇多天皇を祖とする佐々木氏の庶流で、近江の北半分を領していました。南半分はおなじく佐々木一族の六角氏が治めていました。  高久は、父・高秀より領地として尼子郷を与えられ、この地に住みます。そして在地名をとって尼子を名乗り、備前守を称しました。  高久が尼子郷を領したのには、次のようないきさつがありました。  高久の祖父で、バサラ大名として知られる京極高氏(道誉)は、康安四年(1345)、戦功の賞として将軍・足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられます。この甲良荘に尼子郷があり、これを高久(秀久)に与えるように置文を残し、世を去りました。  高氏には長男・秀綱、次男・秀宗、三男・高秀と、3人の子がいました。  しかし長男、次男とも高氏に先だって相次いで死亡し、残る高秀とは確執を深めるなど、不遇の晩年を過ごしたと言われています。  跡を継いだ高秀は、内訌をさけたのか、それともひとかどの人物であったのか、ともかく父のこの置文を守ります。そして応永五年(1398)、高詮の代にいたって高久に尼子郷を給与されます。  このとき高久に与えられた領地は、尼子郷のほか、出雲国大原郡(島根県雲南市)の一部も含まれていたと言われています。 ●尼子氏発祥異説  一般には上記ごとく高久こそが尼子氏の初代であるとされていますが、『羽衣石南条記』という書物によれば、尼子氏は塩冶高貞を祖とする、ということになっています。  どういうことなのか、くわしく見てみましょう。  塩冶高貞は京極氏・六角氏と同じく佐々木氏の一族です。  高貞は足利尊氏に仕えて室町幕府成立に貢献し、出雲国守護に任じられました。ところが、尊氏の執事・高師直と不仲になったために讒言され、山名時氏によって討伐されてしまいます。  『南条記』によると、高貞の嫡男はこのとき高貞とともに死にましたが、次男はひそかに逃れ、長じて南条貞宗を名乗ったとされています。  さらに、この貞宗の三男・経時を「尼子経時」とし、その子孫が尼子経久である、と記されているのです。  つまりこの説によれば、尼子氏初代は高久ではなくて経時、ということになります。  さらに、興味深いのは『出雲私史』に出てくる記述です。  この史料では、『南条記』の記述と同じく塩冶高貞の次男は山名時氏の追っ手を逃れます。彼は楠木正成の子・正行にひきとられ、その後、出雲国守護となった山名氏の庇護を受け、元服して玄貞を名乗ります。  そして玄貞はやがて近江に赴いて京極高秀のもとに身を寄せ、人々から『出雲殿』と呼ばれた、とあるのです。  『出雲私史』にはちゃんと尼子高久が登場しますが、強引に解釈すれば玄貞=高久という説も出てきます(ホント強引かも)。  これらの説の信憑性はあまり高くないと思われるので、ここでは異説もある、ということだけを述べるにとどめておきます。  が、この異説どおり、出雲にゆかりの塩冶氏の家系が出雲に返り咲いたとすれば、なかなか興味深いものがありますね。
尼子経久(あまご つねひさ)? 1458~1541
出雲守護代尼子氏当主。出雲月山富田城主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ一代で“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。大内家との戦いの最中、死去。
尼子倫久(あまご ともひさ)? 1546-1623
出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。やがて許されて、毛利氏に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加し、その後は僧となった。
尼子豊久(あまご とよひさ)? ????~1548
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし、橋津川の合戦で戦死。
尼子晴久(あまご はるひさ)? 1514~1560
尼子経久の孫。 父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏の毛利元就の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱め、尼子氏の弱体化を招いた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。
尼子久幸(あまご ひさゆき)? 1473-1541
出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。 「尼子氏が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めた「郡山合戦」で討死した尼子家の重臣で,兄はかの有名な尼子経久ですから,重臣中の重臣といえます。 経久が1537年に若い孫の詮久(晴久)に家督を譲ると,補佐役に任じられたとかで,そもそもこの時期に毛利家を攻めることに久幸は反対だったとか。 経久かた詮久(晴久)への代替わりの直後だけに,もう少し毛利周辺の安芸・国人衆を固めてからでも遅くないとの考えもあったのではないでしょうか。 結局,郡山合戦は大内氏が毛利を支援したこともあり失敗。撤退戦の混乱の中で討死し,この地に埋葬された。
尼子秀久(あまご ひでひさ)? ????~1609
出雲・尼子氏一族。当主である兄尼子義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて以後、佐々木氏を名乗って毛利氏に仕えた。
尼子政久(あまご まさひさ)? 1488~1518
出雲・尼子経久嫡男。武勇、思慮に長けた智勇兼備の将として、父経久の期待は大きかった。又軍略のみならず、詩歌管弦にも高い評価を得ており、花実相の大将と評された。1518年出雲・麻石山城に籠城する桜井宗的を囲んで兵糧攻めにした際、厭戦を慰労し、城兵の士気低下を図るため、宴を催して政久自身も得意の笛を吹いていたところ、笛の音めがけて放たれた矢が見事に政久に命中、31歳の若さで亡くなったという。61歳の経久はこれを聞き、“瞋れる眼に紅の涙流し”深く悲嘆したという。尚、この後経久は麻石山城の強襲を命じ、宗的は自害、城兵は皆虐殺された。
尼子誠久(あまご まさひさ)? ????~1554
出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の中心として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし己の武功を誇り、傍若無人な振る舞いが目立った為、同僚の反感を買う。また、新宮党内の内訌もあって、やがて新宮党は当主晴久に滅ぼされる。誠久もその際殺された。
尼子持久(あまご もちひさ)? 1381-1437
京極高詮の命で、出雲国守護代となる。雲州尼子氏初代とされる。  尼子持久は、高久の子にあたります。  高久には二人の子がおり、長男は詮久(満秀)、次男が持久です。持久は上野介を称しました。  『佐々木系図』には、注として長男・詮久を「江州尼子」、次男・持久を「雲州尼子」と記述してあります。このことから、詮久が近江の本領を継ぎ、持久が出雲国にはいったことがわかります。  つまりこの持久が雲州尼子氏の祖となるのです。  持久は、京極氏の守護代として出雲に入国しました。  京極高詮が、明徳の乱(1391)によって没落した山名氏に代わって出雲・隠岐の守護に任ぜられましたが、高詮は自らは赴任せず、持久に任せたのです。  室町時代、多くの守護大名は、このように自らは任地に赴任せず、守護代を置いて領国を治めていました。  京極氏もこの例に漏れなかったわけですが、京極氏の場合、室町幕府の侍所所司といった要職にあったため、赴任したくても赴任できない、という事情もあったようです。  ただ、高詮と他の多くの守護大名との違いは、諸大名が任地の有力国人(豪族)を守護代に任じていたのに対し、高詮は自分の一族を守護代として送った、ということです。  隠岐には左衛門尉清泰、出雲には、はじめ隠岐五郎左衛門、のち尼子持久を守護代として送った、とされています。  高詮が、このように一族を守護代に送ったのには、理由がありました。  かつて、高詮の祖父・高氏も出雲国守護を任じられたのですが、このときは在地の国人・吉田厳覚という者をあてて守護代としました。  ところが、出雲は本拠・近江から離れていることもあり、出雲までは京極氏の影響力は及びにくく、また出雲地方は寺社領などが複雑に入り組んだきわめて治めにくい土地であったため、守護代・吉田厳覚の力だけではどうしても支配力が弱かったのです。  そのために隣国の山名氏の侵入を許してしまい、出雲は山名氏に抑えられてしまいました。  この苦い経験を繰り返さないためにも、京極氏の存在を出雲に浸透させる必要性がありました。そのために自分の一族を守護代にあてることになったのです。  なお、出雲に守護代として入国したのは持久ではなく高久だ、とする説もあります。  『多外記手記』に「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置しなされ候」とあるのがその根拠です。  いずれにしても、京極氏の守護代として尼子氏が出雲に入国した、という事実だけは確かで、雲州尼子氏の歴史はここからはじまるのです。
尼子義久(あまご よしひさ)? 1540-1610
父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。
尼子氏(あまごし)? 
尼子氏の発展 守護京極氏の守護代として出雲に勢力を拡大。  尼子氏は京極氏の守護代として出雲に入国した持久以後、守護代職を世襲し、京極氏の出雲支配を助けた。しかし、応仁の乱以来、京極氏は出雲を不在にし、領国の政治は尼子氏に任せた。  持久の子清定は応仁以来の乱世のなかを隣国の山名氏の出雲侵入を撃退し、また、国内の反京極勢力の平定に従事し、京極氏の勢力安泰に努めた。 ●尼子清定の活躍  応仁の乱が起こると守護京極持清は、東軍の有力武将として京都・近江に転戦し、出雲は守護代尼子清定に全面的に一任せざるを得なかった。  清定の妻は出雲仁多郡の豪族真木上野介の娘であった。かれは、「出雲タタラ」の本拠地である仁多郡を押さえる真木氏と結び、また、出雲美保関の代官職として山陰・北陸方面との貿易を利用し勢力を固め、一方、京極氏の守護代として京極家臣を統率、次第にその勢力を強化していった。応仁の乱以前の出雲大社・日御埼神社 の社領紛争では、京極家臣を統率してその解決につとめた。  応仁二年(1468)六月、安来庄の十神山城を根拠とする松田備前守が富田庄堺村に攻め込んだ。出雲東部きっての豪族松田氏の富田城攻撃は西軍の山名氏の後押しによったらしい。こうして、広瀬月山富田城と安来十神山城の合戦がはじまった。清定は名ある被官ら数名が負傷したが、松田勢を撃退することができた。この松田氏の先制攻撃により清定は兵を動かす名目ができた。いよいよ、尼子清定の領国形成のための制服戦が開始されることになる。  手始めに十神山城の攻略にかかり、応仁二年七月の戦で出雲・伯耆・隠岐の国人ら百余人を討ち取った。ついで岩坂・外波の諸城を攻め、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取ったが、出雲郷の春日城攻略は失敗し、神保・西木らの被官を失った。八月、矛先を転じて再び十神山城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れた。  九月、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して春日城を落とした。さらに湯郷の岩屋城の糧道を断って孤立無縁とし、山名六郎や松田備前守らの立て篭る十神山城を陥落させた。ついで、美保関に出陣し、山名党を蹴散らした。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦であった。  この尼子清定の健闘に対し、守護京極持清は、兵糧を貯えて富田城を厳重に守備せよ、と命じ、しきりに感状を発し、 さらに恩賞として飯石郡多久和庄知行分、島根郡生馬郷、能義郡利弘庄、同中次闕所分、同郡舎人保内松田備前守 買得田畠屋敷、松田備前守買得分、安来庄領家分代官職、能義郡奉行職、美保関代官職といった所領・所職を与えた。 ここに尼子氏の戦国大名への道が開けたのである。 ・奥出雲の強豪-三沢氏が拠った三沢城址 ●戦国大名への途  明くる文明元年(1469)も清定の国内制服戦は続行される。七月、尼子軍は牛尾一族を主力として大東草尾に進軍したが大敗北を喫した。そこで清定は軍忠状を上申し、牛尾一族に京極持清からの感状をもらってやった。同月、大東野田原に戦い、八月中城進山では清定自ら軍配をふるい、名ある出雲・伯耆の武士数十人を討ち取った。清定の要求により、持清が感状を与えたのはいうまでもない。  翌年、仁多郡横田庄地頭で横田藤ケ瀬城を本拠とする三沢対馬守が与党を集めて国一揆を起こした。これに対し清定は三沢一味の知行差押えを持清に要求した。その結果、知行を押さえられた国人は、三沢をはじめ多・山佐・佐方・飯沼・下笠・野波・小境の各氏で、これから仁多・大原・能義・八束の各郡にわたる広範な地域的連合の一揆であったことがわかる。清定はこの国一揆を守護京極持清の権威を背景に鎮圧したのである。  文明二年八月守護持清が没したが、長男勝秀はすでに亡く孫の孫童子が京極の主となり、叔父政経が後見した。しかし、孫童子は病弱であったようで、翌文明三年政経は、出雲・隠岐・飛騨の三国の守護、文明五年近江守護を加え、京極氏の実権を握った。  この間尼子清定は、伯耆境松の合戦、美保関の合戦、井尻の難波城の戦いと連戦した。そして、伯耆の山名党は清定の奮戦の前に月山富田城を奪うことはできなかったのである。  文明六年、清定は長男の又四郎を上洛させ、これまでの所領を京極政経に確認してもらった。同時に主家の実力を打診させたのであろう。又四郎はのちの経久で、ときに十七歳であった。  出雲にあっては、文明八年の四月から五月にかけて、能義郡土一揆が富田城を急襲した。これは、美保郷の領有問題で争い、不利になった松田三河守を張本人とする国一揆であったようである。このとき守護京極政経は、前年十月末、江北の一戦に敗北したため出雲に下向していた。清定は政経に一揆征伐の感状を要求している。そして、清定は一揆征伐の戦功により、美保関代官職を安堵された。しかし、いまだに清定の背後に守護京極氏の権威のあることは見逃せない。  文明九年、又四郎二十歳のころ、民部少輔経久と名乗り家督を継ぎ、京都から帰国したようである。おそらく、この前後に清定は没したものと思われる。そして、尼子氏はこの経久の時代に戦国大名化をとげることになるのである。 ■参考略系図 尼子氏系図に併せて、尼子氏の被官となった出雲佐々木氏流諸氏の系譜を掲載。
天津彦根神(あまつひこねのかみ) 
天津彦根神 ,あまつひこねのかみ,
天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと) 
邇邇芸命
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 
邇邇芸命
天照大神(あまてらすおおみかみ) 
太陽神、高天原の主神、皇祖神、日本の総氏神、八百万の神々の中でもトップに位置する女神。 伊耶那岐神が御祓をしたときに、光を表す左目から生まれたとされる三貴神の一柱。 あらゆる生命にとって必要な太陽を象徴する神である。日本では古くから太陽を「日の神」として信仰し、天照大神ももともとはそうした太陽信仰から発展した神霊である。ただ、ほかの信仰と違い、古代日本人は太陽神そのものを信仰するほかに「日の神」に民族の祖神というイメージを重ねて祀った。そうした二重の性格を備えた神が天照大神である。 天照大神についての神話としては、「天岩戸隠れ」が有名である。天照大神が岩戸に隠れたために、世の中は光を失い、悪霊が満ち、災いが起こる。このことは日照時間が減ることによる不作、あらゆる生命の衰弱、そのことによる飢饉、餓死、疫病などを指しているのだろう。さらに「太陽が隠れる」ことには、古代の人々は冬至の頃とイメージを重ねていたようだ。その時期には、人々は太陽の再生を願って神祭りを行った。これは太陽の”死と再生”の儀式でもあった。「天岩戸隠れ」には、こうした農耕儀礼が反映されている。このことから、天照大神は大地の豊穣性を体現する母なる女神ともいえる。 一方、地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。弓矢というのは、古来軍事力を象徴する道具であった。天照大神は、男性的な側面もある軍事を象徴する神でもあったといえるだろう。 #html{{ <STYLE TYPE="text/css"> <!-- body,tr,td,th { font-size: 9pt } a:hover { color: #000000 } a:visited { color: #000000 } a { color: #000000 } big { font-size: 12pt } small { font-size: 9pt } span { font-size: 8pt } --> </STYLE> }}
天野元政(あまの もとまさ)? 1559~1609
○毛利氏 千虎丸 少輔次郎 六郎左衛門尉 掃部頭 讃岐守 右田氏 ◇父:毛利元就 養父:天野元定、右田隆量 室:天野元定女、阿曾沼広秀女 子:毛利孫四郎元倶、天野元以、阿曽沼元信、天野元雅、就員、毛利元嘉  安芸・毛利元就七男。安芸・米山城主天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。関ヶ原の戦いの後、周防・三丘さらには周防・右田に領地を得て、右田(天野)毛利家の祖となった。
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ) 
天之御中主神  天御中主尊  天御中主命
阿麻毘舎卿(あまひさ) 
①父:大小橋 母:不明 ②子供:阿毘古  阿毘古との間に「音穂命」なる人物がいる系譜もあるが一般的でない。 ③21雄略天皇・19允恭天皇朝の人?
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 
天石門別神 ,あめのいわとわけのかみ,,
天鈿女神(あめのうずめのかみ) 
天鈿女神 ,あめのうずめのかみ
天宇受売神(あめのうずめのかみ) 
巫女の元祖。道祖神
天押雲(あめのおしくも) 
①父:天児屋根命 母:天万拷幡比売 ②子供:天種子命  別名:天押雲根命
天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ) 
邇邇芸命の父。
天香久山神(あめのかぐやまのかみ) 
天香久山神 ,あめのかぐやまのかみ,
天児屋根命(あめのこやね) 
③中臣連祖。大鳥連祖? ④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。 祝詞の祖神、言霊の神。 ・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。 ⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。 ⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。 #style(class=box_blue_ssm){{ }} 天児屋根命 (あめこやねのみこと) 父・興台産霊  天照大神(あまてらすおおみかみ)も、うっとりと聞き惚(ほ)れて惚れて、ついに天の岩戸を開けてしまったという美声の持ち主。 天下一品の祝詞(のりと)奏者 天児屋根命(あめこやねのみこと)は、高天原(たかまがはら)で専(もっぱ)ら祭祀(さいし)をつかさどる興台産霊神(こことむすびのかみ)(天照大神の子)の子で、 天照大神の侍臣(じしん) として仕えていた。命名の由来はよくわからないらしい。  天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと) を妻として、一子をもうけたが名は知られていない。神武天皇(じんむてんのう)の東征(とうせい)に加わって働いた天種子命(あめのたねこのみこと)は、この天児屋根命(あめこやねのみこと)の孫である。  天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩戸隠れをしたとき、八百萬(やおよろず)の神々が、天の安河原(あめのやすかわら)に集まって会議をした結果、それぞれの役割を決めた。 天児屋根命(あめこやねのみこと)は、非常な美声の持ち主であったため、天の岩戸の前で祝詞(のりと)を奏する役を担当したのである。  後に天孫瓊杵尊(てんそんにぎのみこと)の降臨に従い、常に国政に参与して、国土経営に大きく貢献したが、主な任務は祭祀(さいし:神と人との中を取り持ち、仕える役)をつかさどることであった。後世の中臣氏(なかとみうじ:藤原氏の遠祖)の祖神でもある。
天児屋根神(あめのこやねのかみ) 
天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣氏の祖神 (のち藤原氏) 神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 ***天児屋根命 [#eb965e78] 市千魂命━━━興台産霊神━━━天児屋根命━━━天押雲命━━━天多祢伎命                              (天種子命) ***天児屋根命 [#uef663fd] 天児屋命 名称 天児屋命(あめのこやねのみこと)、天児屋根命興台産霊(こごとむすひ) 子 天押雲根命 子孫 中臣連 神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。 岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。 |居々登魂命|━|天児屋根命|━|天押雲命| 天児屋根命──天押雲命──天種子命──宇佐津臣命──大御気津臣命──伊香津臣命梨津臣命─┼神聞勝命──久志宇賀主命─┬国摩大鹿島命──巨狭山命──雷大臣命─├大小橋命 伊達家? ---- 天児屋根神 アメノコヤネノカミ 別称:天児屋命天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 ---- 天児屋根命(あめのこやね) ①父:興澄魂  母:許登能麻遅姫 異説:浅加姫 ②妻:天万拷幡比売(天背男命女)異説:武甕槌命女 子供:天押雲命 別名:八意志兼命天児屋命、天小屋根命、天之子八根命 ③中臣連祖。大鳥連祖? ④記紀神代記事・天照大神が天岩戸に隠れた時岩戸の前で祝詞を奏上して祭祀を行った。 祝詞の祖神、言霊の神。 ・天孫降臨に際して、五伴緒(いつとものお)の一人として天下った。 ⑤枚岡神社・春日大社・吉田神社、大原野神社などの祭神。 ⑥記紀には出自は記されていない。上記出自系譜の基は先代旧事本紀などに記されているものを基にしたもので、尊卑分脈などは一般的に上記のようになっている。 ***天児屋根神 [#ie2e6623] 天児屋根神 父:居々登魂命(こごとむすび) 妻:天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと) 天児屋根神 アメノコヤネノカミ 別称:天児屋命天之子八根命性別:♂系譜:天岩戸の前に集まった神々の一柱。興台産霊神(コゴトムスビノカミ)の子。中臣(のち藤原)氏の祖神神格:言霊の神、祝詞(ノリト)の祖神神社:牧岡神社、春日大社、大原野神社、吉田神社、蜂田神社、五社神社  神社の祭礼や地鎮祭などの儀式の時に、神主が唱えるのが祝詞である。神に対して、その力に感謝し、たたえる言葉を申し上げ、さらなる幸運の導きを願うのだ。ただ、祝詞というのは、本来、祭祀などさまざまな儀礼の場で、神人つまり神懸かり者が、神の意志を伝える呪力のあるものであった。これに対して祝詞の中に寿詞(ヨゴト)と呼ばれるものがあるが、こちらは神に対して、祈願が成就したことを感謝してその力をたたえるという意味が含まれている。後者の方が今日の祝詞の意味合いに近いようだ。いずれにせよ、祝詞というのは、人間が神とコミュニケーションする手段だといえよう。  その祝詞の祖神が天児屋根神である。由来としては、天岩戸事件の際の役割があげられる。詳しくは天岩戸隠れの項を参照していただきたい。とにかく、天岩戸の前で天児屋根神は太祝詞(フトノリト)を読み上げ、天照大神の心を大いに晴らしたということである。結局、天鈿女神の神楽などが功を奏して目的は達成された。ここで、祝詞を唱えるということは、祭を執り行ったということになる。そうすると、天児屋根神には神を奉祀するという役割がその本来の性格に備わっているといえるわけである。  天岩戸の話は、言霊(コトダマ)信仰のルーツとも言われている。天児屋根神が天岩戸の前で唱えた祝詞の力は、言霊の持つ呪力に通じると考えられているのだ。言霊とは、言葉が神秘的な力と働きを持っているという考え方に基づき、その働きを司る神霊を指す呼び名である。言葉は人の心を動かし、いろいろな現象となって表れる。だから、言葉そのものには吉凶をもたらす神秘的な霊力がある、と考えるのが言霊信仰である。祝詞や寿詞は、その言葉によって吉をもたらし、凶を避ける行事ということになる。  言葉を駆使するものは、天地も動かすことができると言ったら大げさだが、要するに言葉をしゃべると、その言霊の魔力によって物事が支配され、吉凶の結果が生じるということである。話術の巧みな人の演説などを聞いていて、その人が会場全体を支配している感覚にとらわれたことがないだろうか。こういったときには、理屈でなく感覚的に言霊の霊力を感じることができよう。今日ゲームにまで登場する魔法や、ヨーロッパの黒魔術の呪文、仏教のお経も、この言霊に働きかけて森羅万象を変化させるための言葉といえるだろう。  天児屋根神が祝詞の祖神とされることは、この神が中臣氏の祖先神であることと深く関係している。「中臣」とは、神と人との間を取り持つという意味で、この一族は宮廷の神事を統括していた。それだけに政治的にも強大な力を持ち、しばしば一族の女性を天皇の后にしている。それほどの一族だけに、その氏族の伝承が記紀神話の中に多く入り込んでいる。そのひとつが祖先神の天児屋根神というわけである。  祭政一致の古代においては、祭祀の権限を持つことが、すなわち権力を握ることであった。宮廷の神事で中臣氏がもっていた役職は、禊(ミソギ)と祓(ハラエ)を行うことだったようだ。その禊祓(ミソギハラエ(関連は禊祓へ))の祭儀を行うときには、神に捧げる言葉つまり祝詞を唱えたわけである。そういう役割からしても、神話の中での天児屋根神の活動は、ほとんど中臣氏の役職と一致しているということだ。 概要 神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。 岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は思兼神と同一神であるとしている。 信仰 中臣連の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された。祝詞の神、出世の神ともされる。中臣神社(京都市山科区)、枚岡神社(大阪府東大阪市)、春日大社(奈良県奈良市)、吉田神社(京都市左京区)などに祀られている。また、全国の大鳥神社に祀られる「大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)」は天児屋命と同神とされることがある。 伊達家
天児屋命(あめのこやねのみこと) 
天児屋根神
天手力男神(あめのたぢからおのかみ) 
力の強い神。天岩戸の前に集まった神々の一柱。天照大神をこの世に戻した。  天手力男神は、天岩戸隠れのときに天岩戸の扉を開けて天照大神を引き出す役目で活躍した神として知られる。名前の通りに手の力(腕力)の象徴、つまり人間の筋力に宿る霊を神格化した神である。  強力な肉体的なパワーを所有したいという欲求は、人間の永遠に持ち続ける夢といえよう。それを擬似的な空想の世界で実現しているのがスーパーマンやアニメのキャラクターといったものだ。天手力男神の姿には、そうした人間の肉体的なパワーへのあこがれが反映されているといっていいだろう。神話では、怪力ばかりが強烈にイメージされるが、この神は一般にスポーツの守護神としても信仰を集めている。筋力を鍛え、それを生かす技術を含めたパワーを与えてくれる霊力を備えた神さまでもある。  この剛力のイメージを持つ神の姿というのは昔から庶民には人気があったようで、それをうかがわせるのが日本の各地に伝わる神楽である。たとえば、全国的にもよく知られている宮崎県高千穂町の夜神楽があるが、そのなかに天手力男神が主役となって舞われる「戸取舞(トトリノマイ)」というのがある。この神がその怪力で岩戸を投げ飛ばしたという伝承に基づいたもので、力感的で勇壮な舞は夜神楽のなかでも特に人気を博している。そのほか、里神楽のなかの「岩戸神楽」と呼ばれるものも、天手力男神が主役の「岩戸開き」の場面に重きを置いて演じられる神楽のひとつである。  日本の昔話や民俗伝承には、しばしば怪力を誇る怪異なキャラクターが登場する。要するに妖怪の類に近い存在なのだが、多くは人々に親しまれている。国技の相撲に象徴されるように、日本人は剛力のイメージに対して独特な嗜好があるように思える。そういう感覚があるから、神楽などでも天手力男神の力強い踊りが人気になるともいえよう。
天種子(あめのたね) 
①父:天押雲 母:不明 ②子供:宇佐津臣 別名:天多彌伎命 妻:宇佐津姫(宇佐津彦女又は妹) ③神武東征に従う。この時筑紫国宇佐にいたり、菟狭津媛を妻に賜った。(紀) 参考「菟狭津彦」菟狭(豊後国宇佐郡)国造祖。神武東征時菟狭津媛とともに饗を奉った。 高魂尊の孫(国造本紀)
天之常立神(あめのとこたちのかみ) 
天地開闢の神々の一柱。 『古事記』では、八百万神に先駆け、天之御中主神高御産巣日神神産巣日神造化三神の次に宇摩志阿斯訶備比古遅神が生まれ、次に生まれた天之常立神を加えて、別天神という。 『日本書紀』の一書では、天地が分かれた時、葦の芽のように空の中に最初に生まれた神とある。 天地の軸のような神で、『先代旧事本紀』では天之御中主神と同神とある。
天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと) 
邇邇芸命
天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ) 

天日槍神(あめのひぼこのかみ) 

天太玉神(あめのふとだまのかみ) 

天火明神(あめのほあかりのかみ) 

天穂日神(あめのほひのかみ) 
出雲族・武蔵族などの祖神。 農業神、稲穂の神  天穂日神が生まれたのは、天照大神と素盞鳴尊が誓約をしたときである。順番でいうと天忍穂耳神に次ぐ2番目である。神名のホは「秀」に、ヒは「火」にも通じ、生命力が火のように燃えさかる他より秀でた稲穂ということになる。  国譲りの際に登場する天穂日神は、天照大神の命で地上の統治者大国主命のもとに交渉役として遣わされる。ところが、彼を説得するどころか逆に大国主命に心服して地上に住み着き、3年経っても高天原にはなんの連絡もしなかった。こうした話からすると、天穂日神はよく言えばけっこう柔軟な感覚の持ち主とも言えようが、やっぱり意志が弱く、だから役目をサボることになった不忠者というイメージが強い。まあ、どうとらえるかは読者の感覚や学生時代の過ごし方によっても左右されるところであろう。とまあ、これが「古事記」に記されている姿である。  ところが、これとは逆のイメージを伝えるものもある。天穂日神を祖神とする出雲氏に関係する「出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカムヨゴト)」に、やはりこの神が天照大神から地上の悪心を鎮めることを命じられたことが記されている。このとき天穂日神は、自分の息子の天鳥神と剣神経津主神を派遣し、見事に地上の乱れを平定したというのである。こちらでは、決していい加減な性格ではなく、天孫降臨に先立って地上の地ならしをし、露払いの役目を果たした偉大な神であることが強調されている。  天穂日神を祖神とする出雲一族は、出雲東部の意宇群を支配する豪族である。一般に各地の豪族の祖神とされる神は、その各地の国土開発、産業振興の神としての性格を持ち、さらに人々の生活全般の守護神として信仰されていることが多い。この神もそうしたことから考えれば、偉大な業績を成し遂げた神としてのイメージの方が本来の姿に近いといっていいだろう。実際、農業をはじめ養蚕、絹糸、木綿の神として産業開発の面でその霊力を大いに発揮している。
天目一箇神(あめのまひとつのかみ) 

天之御影神(あめのみかげのかみ)? 

天三下尊(あめのみさがち) 
①父:なし 母:なし ②第2世独天神 妻子供なし。別名:天三降尊
天之御中主神(あめのみなかぬし) 
『至高の根源』を司る神 「古事記」には造化三神として天御中主神が最初に現れ、その後高御産巣日神神産巣日神が現れすぐに姿を隠したとある。すべて性別の無い独り神である。 江戸時代の国学者平田篤胤は『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。 ---- 古事記-------------------天之御中主神 古語拾遺-----------------天御中主神 日本書紀・先代旧事本紀----天御中主尊 伊勢国風土記逸文・住吉大社神代記--天御中主尊 新撰姓氏録・続日本紀----天御中主命 ---- 造化三神(ゾウカノサンシン)の一柱で、別天神(コトアマツカミ)五神の第一神神格:宇宙の根源神  天之御中主神は天地開闢(カイビャク)神話で宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。 その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている。 そういう偉い神なのだが、その姿はほとんど神秘のベールに包まれているといっていい。 なぜなら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。 顔も姿も現さなければ、語ることもなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。 本来が「その姿を知らしめない」という日本の神さまの典型ともいえる。 仏像のような偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすればなんとも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそういうものなのである。  そんなふうに人間界と隔絶した感じのする神さまであるが、だから何もしなかったというわけではない。 要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令することがその役割だったといえる。 つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。  以上のように宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という考え方から、天之御中主神は神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとする、いろいろな神道説のなかでも中心的な神として位置づけられたりしている。 たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。  天之御中主神が一般に馴染みのある姿を現しているのが「妙見さん」である。 神話では「古事記」の冒頭と「日本書紀」の一書第四にしかこの神の名は登場しない。 それだけでなく、平安時代初期の全国4132の主な神社が載っている「延喜式」の神名帳などにも、この神を祀る神社が見あたらない。 そんなふうに、中世までは庶民の信仰に顔を出さなかった天之御中主神であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つようになる。  そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰などがベースになって成立したものと考えられている。 そこから、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰されるようになった妙見信仰と習合したのである。 妙見信仰は北斗妙見信仰ともいい、北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は北極星の神格化されたものである。 天のはるか高みに隠れていた天之御中主神は、妙見菩薩と同一視されるようになったことによって、庶民の信仰レベルに降りてきたわけである。
天御中主尊(あめのみなかぬしみこと) 
天之御中主神  天御中主神  天御中主命
天御中主命(あめのみなかぬしみこと) 
天之御中主神  天御中主神  天御中主尊
天御柱神(あめのみはしらのかみ)? 

天八百日尊(あめのやおひ) 
①父:なし 母:なし ②第4世独天神
天八下尊(あめのやさがち) 
①父:なし 母:なし ②第1世独天神  妻子供なし。先代旧事本紀
天八十万魂(あめのやそよろだま) 
①父:なし 母:なし ②第5世独天神 別名:百日萬魂
天若日子(あめのわかひこ) 
アマノジャクのルーツ?。
天若日子神(あめのわかひこのかみ)? 

阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 
地開闢の神々の一柱。 『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第六の神。 淤母陀流神阿夜訶志古泥神は、男女の神。 『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊、 土 尊・沙土 尊、大戸之道尊大苫辺尊に続いた神世七代の第六代の神。 神から人への橋渡しとして、人体の完成を表わす神とする説、 整った容貌に対する畏怖を示すとする説、 神の言葉の神格化とする説、 あるいは、防塞守護の神とする説などいろいろ。 一般には青橿城根尊阿夜訶志古泥神の別名だが、 『先代旧事本紀』では、青橿城根尊の別名は面足尊沫蕩尊とあり、淤母陀流神としている。 『日本書紀』の一書では、青橿城根尊伊弉諾尊伊弉冉尊の親と書かれている。 また、他の一書では、国常立尊の子が天鏡尊天鏡尊の子が天万尊、天万尊の子が沫蕩尊沫蕩尊の子が伊弉諾尊と書かれている。 記紀ともに神世七代の第六の神であることから、 仏教(修験道)で信奉される天界最高位である第六の魔王・第六天に擬せられ、本地垂迹に説かれる場合がある。
淡島明神(あわしまみょうじん) 
婦人病に霊験あらたか。
粟田真人(あわたのまひと)? ????~719
奈良時代の公卿。 生年不詳-養老3.2.5 (719.2.28) 粟田氏は春日、大宅、小野、柿本氏らとともに、古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。 天武10(681)年小錦下の位を受け、同13年朝臣の姓を与えられた。 持統3(689)年には筑紫大宰としてみえ、文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。 大宝1(701)年直大弐の位で、民部尚書の職にあり遣唐執節使に任命されたが、この年は天候に恵まれず翌2年6月唐へ出発した。 同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。 翌3年、唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見、経史をよく読み、容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。 慶雲1(704)年に帰国、その功績によって大和国(奈良県)に水田20町、穀1000石を与えられた。 同2年中納言に任命され、政局に参加。 和銅1(708)年に大宰帥に再任。 遣唐使としての功績は、白村江の戦(663)以来初めての遣唐使として、直接唐との正規の外交を樹立し、外交政治上も重要な任務を果たしたことである。 天武14年には位を父(春日粟田臣百済か)に譲ろうとするなど性質は温雅で経史にも詳しかったから、律令の編纂にも参加させられ、ひさびさの遣唐使の大任もまかされたのであろう。