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年表3

-2144王朝 ―启―太康―仲康―少康―杼―不降―扃―廑―孔甲――癸―(上古時代-シナ大陸-)--
-2144、治水に功し、天子の位につく、始まる(木徳・青・東)(-シナ大陸-)--
-2070[前2070?~1600B.C.?](-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070[前21世紀~前17世紀](-シナ大陸-)--
[B.C.2070~B.C.1600]
中国王朝立(伝説)
王朝・・ 帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)(- -1600)

 中国の最初の王朝。その実在は疑われていたが、最近は実在説が有力となっている。
 司馬遷の『史記』では三皇五帝に次いで出現し、(商)王朝に先立つ王朝とされる。その始祖の(う)は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られたという。最後の天子のは暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され王朝に交代したという。日本においては、王朝の存在は甲骨文字などの文字資料が出土していないので否定的な意見が強く、伝承上の王朝とされている。現在のところ、高校の世界史でもその程度の説明にとどまっているが、中国では戦後のめざましい考古学調査の進展によって、王朝の実在は確定したとされ、教科書でもそのように扱われている。その王都は河南省の二里頭遺跡であるというのがほぼ定説となっている(次の記事を参照)。最近では王朝よりさかのぼる尭や舜についても、それを実在の皇帝とする見解が強まっている。日本の学界でも「王朝」を実在した王朝として取り上げる学者が増えており、近い将来は日本の教科書の記述も変わることが想されている。
-2070[前2070?~前1600?]帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)(-シナ大陸-)--
-2070(前2070?~前1600?)]
 帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 姓は姒、名は文命。后氏。鯀の子。父のあとをうけて十三年の歳月をかけて、黄河の治水をおこなった。舜の代に司空となる。舜に後継者として指名された。舜帝の死後、舜の子の商均に譲って陽城に移ったが、諸侯がみな商均のもとを離れてのもとに来たので、ついに天子となった。王朝をひらき、九州・九道・九川・九山を治めた。東方に巡狩して会稽に崩じたという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070益(?~?)
 舜に仕えて虞官をつとめ、山沢をつかさどった。が立つと、が天下をおさめるのを助けた。が崩ずると、の遺言によって帝となったが、三年の喪が明けるとの子の啓に位を譲り、箕山の南に隠棲した。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070帝啓(?~?)
 帝開、后開ともいう。の子。は臣下の益を後継者に指名していたが、益はの喪が明けると啓に位を譲ったので、啓はの天子となった。一説には啓が益を殺して天下を奪ったともいう。同姓の有扈氏が叛いたので、これを討った。以後、天下の諸侯はみなに入朝した。また西河を攻めたという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070太康(?~?)
 啓の子。啓の跡を継ぎ、の天子となった。酒色に溺れて政治を顧みなかった。東夷の有窮氏の后羿がこの機に乗じての都の斟尋を攻めたため、国外に逃げてまもなく没した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070中康(?~?)
 啓の子。太康の弟にあたる。太康の跡を継ぎ、の天子となった。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 中康の子。中康の跡を継ぎ、商丘で即位した。年、淮夷を攻めた。二年、風夷や黄夷を攻めた。七年、于夷が入朝してきた。寒浞の子の澆に殺されたという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070少康(?~?)
 帝の子。父が澆に殺されたので、母の実家である有仍氏に育てられた。人して有仍氏の牧正となった。澆の追捕を逃れて、有虞氏のもとに身を寄せた。庖正となり、有虞氏の娘をめとった。の旧臣を集めて、の再興を計画した。の遺臣の伯靡が斟灌氏や斟尋氏の残党を集めて、寒浞を攻め滅ぼすと、王に立てられた。の天子となる。さらに澆を過で滅ぼし、の中興の主となった。帝の殺害事件と少康の中興の記事は『左伝』に見えるのみで、『史記』や『竹書紀年』に見えないため、異論も多い。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070帝杼(?~?)
 少康の子。少康の跡を継ぎ、の天子となった。はじめ原におり、老丘にうつった。杼の子が東海と王寿を攻め、九尾の狐を得たという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、の天子となった。三年、九夷が来朝してきた。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 后荒ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。二十一年、畎夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷らに領地と官職を授けた。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070不降(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。六年、九苑を攻めた。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070帝扃(?~?)
 帝の子。帝不降の弟にあたる。帝不降の跡を継ぎ、の天子となった。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 またの名は胤甲。帝扃の子。帝扃の跡を継ぎ、の天子となった。西河に都した。かれの治世に十個の太陽が同時にのぼったという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070孔甲(?~?)
 帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。鬼神のことを好み、荒淫にふけった。徳が衰え、諸侯がそむいたという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070劉累(?~?)
 陶氏の子孫。竜をならすことで、帝孔甲に仕えた。御竜氏という姓を与えられ、豕韋の跡を継いだ。竜の牝の肉を后氏に食わせたが、美味だったため、さらに所望され、恐れて逃亡したという。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 孔甲の子。帝孔甲の跡を継ぎ、の天子となった。 (-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070(?~?)
 后敬、または恵ともいう。帝の子。帝の跡を継ぎ、の天子となった。年、諸夷が王門に来朝した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
-2070王(?~?)
 名は履癸。王朝の最後の天子。帝の子。妹喜との情におぼれて、百官を殺傷し、民を苦しめた。の湯王の軍に敗れて、天下の実権を奪われた。鳴条に逃げたが、歴山に放逐されて死んだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-
(伝説)王朝・・帝(文命)…〔帝益〕…帝啓-太康中康-帝少康-帝杼-帝(芬)-帝(荒)-帝不降-帝扃-帝(胤甲)-孔甲-帝-帝(敬)-王(履癸)
前21世紀~前16世紀頃か_x000B_伝説上の最古の王朝。開祖は(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代(けつ)のとき(いん)に滅ぼされる。その実在は確認されていないが、河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により、存在が強く主張される。
王朝中国最古と伝承される王朝。
歴史書には王の系譜まで載っており、血族による皇帝制度はこの王朝から始まったとされています。最近になってやっとその存在を証明するようなものが見されています。(- -1600)