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西周

西周

中国のに続く王朝。前1050年頃、鎬京を都に華北を統一。前770年、都を東方の洛陽に移す。その前半を西周、後半を東周というが、東周王の支配力は弱まり、春秋戦国時代となる。
 は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめの支配を受けていた。文王の時に宰太公望などの補佐もあって有力となり、前1050年頃、文王の子の武王がの紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配した。都は渭水流域の鎬京(こうけい)に置いたが、を滅ぼして中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛陽(かつての洛邑)を副都とした。

Episode 「の粟(ぞく)は食(は)まず」
 からへの王朝交替の時、「の粟(ぞく)は食(は)まず」(不食粟)という故事句が生まれた。武王がの暴君紂王を倒そうとしたとき、武王の家臣の伯夷(はくい)と叔(しゅくせい)は武王の行く手をさえぎり、「父君が亡くなられ、葬儀もすまさずに戦争をすることは孝行の道にはずれます。臣下の身で主君(紂王)を征伐するのは仁義にもとります」と制止した。しかし武王はその制止を振り切り、軍勢を動かして紂王を討ってを滅ぼし、周王朝を建てた。すると伯夷・粛の二人は「の粟は食まず」との言葉を残し、首陽山に引きこもり、薇(わらび)を採って飢えを凌いだが、ついに餓死してしまった。の粟を食まずとは、の臣下となって俸禄を受けることを拒否する、という意味。つまり二人は、孝行と仁義の道にはずれたの武王には仕えない、と筋を通したのだった。この話は司馬遷の『史記』列伝の最初に取り上げられて有名になった。「不食粟」は、日本では旧幕臣が明治政府に出仕するのを拒んだときなどにも使われたが、もとの意味は「道に反する主君には仕えない」ということであり、2018年の日本でいえば、財務や文科省の役人に不食粟の気概のある人はいないのか?というのが正しい使い方となる。<井波律子『故事句でたどる引用書名』2004 岩波ジュニア書 p.17-18>

封建制の創始
 文王、武王に続いて王の時には王位継承をめぐって反乱が起こったが、武王の兄弟の公が王を補佐して乱を鎮め、支配を安定させた。時代の卜占による神権政治を脱し、封建制を作り上げ、諸侯を各地に封じて長期にわたって華中地方に支配秩序を維持した。
 は文化史的にはの青銅器文化や甲骨文字を引き継いだだけでたな文化的な展開にはとぼしかったが、王室と血縁関係にある諸侯を各地に封じ、国を建てて統治させるという封建制の体制を作りあげた。後の孔子ら儒家の思想家はこのの時代を「礼」の理念で統治された理想的な時代ととらえている。

王と諸侯の関係
 王室に従う諸侯が封じられた諸国には、公が封じられた、太公望に始まるの他に、王の一族では召公が叔虞が、康叔がの故地に建てられた)をそれぞれ建国するなど王室と血縁関係を持つものが多かった。他に五帝の王の後裔を名乗る地方の有力者が諸侯として国を建てた。彼らは、王を宗主と仰ぎ、王から公・侯・伯・子・男という爵位を授けられ、秩序立てられていた。はその例で五帝の一人顓頊の後裔と称している。したがってこれらの国の君主はそれぞれ○公とか、△候と自称した。しかし、東周の段階になると、これらの黄河流域の中原以外に有力な勢力が台頭し、彼らは王と関係がないことから、爵位にとらわれず堂々と○王と称した。江南地方に興ったは最初から王を称した。 → 封建制

の衰えと東遷
 前9世紀頃から諸侯の反乱、西北からの異民族の侵入が繰り返されるようになって、王の権威は次第に弱まっていった。、前770年、北方の遊牧民犬戎が南下しての都鎬京を占領し、の幽王は殺されていったん終わった。王室の一人が諸侯に助けられて都を東方の副都洛陽に逃れ、平王となってを再建した。これをの東遷という。またそれ以前を「西周」、以後を「東周」として区別している。

東周春秋戦国時代
 前770年からの始皇帝によって王が滅ぼされる前256年までは洛陽に王室が存在した「東周」時代であるが、その実態は、の王権は衰え、地方に有力諸侯が自立してそれぞれ王を称して争う分裂期であった。その前半期は、それでもまだ王の権威は残っており、諸侯も尊王攘夷を唱えて王を立て、あるいは王を利用しようという時代であったが、前5世紀末になると王は全く有名無実化し、各国でも下克上が進んで中国は有力な七国(戦国の七雄)に分割されることとなる。その前半を春秋時代と言い、その後半の前221年のの始皇帝による中国統一までを戦国時代という。
西周(前1046?~前770)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
武王(姫)-王(姫誦)-康王(姫釗)-昭王(姫瑕)-穆王(姫満)-共王(姫繄扈)-懿王(姫囏)-孝王(姫辟方)-夷王(姫燮)-厲王(姫胡)-〔共和〕-宣王(姫静)-幽王(姫涅)
の文王(?~前1057?)
  姓は姫、名は昌。季歴の子で、古公亶父の孫にあたる。岐の人。仁に篤く、老人を敬い、幼少の者を慈しんだので、多くの人士が彼のもとに帰属した。の西伯となる。あるとき崇侯虎に讒言され、紂王によって羑里に捕らえられた。閎夭らが心配して、美女や駿馬を献上して許された。このとき弓矢斧鉞を賜って、諸侯征伐の権が与えられた。犬戎・密須・耆国を破り、崇侯虎を討った。豊邑を造営して、都とした。紂王が妲己に迷って、人心を失うと、討の兵を挙げ、王号を名乗ったともいう。途半ばにして病没した。
の武王(?~前1043?)
  姓は姫、名は。在位前1046?~前1043?。の文王(姫昌)の次男。父の業を継いで、討のため盟津に兵を進め、八百の諸侯を集めたが、「天命はまだから去っていない」と言って引き返した。紂王の暴虐がますますつのってくると、再び兵を挙げて牧野に紂王の軍と決戦し、を滅ぼした。朝歌で祭祀を行い、天命を受けて天子となったことを宣言した。鹿台の銭を散じ、親族や功臣を諸侯を封じたのち、西帰した。豊邑の東に鎬京を造営して、都とした。まもなく病没した。
公旦(?~?)
  姓は姫、名は旦。の文王(姫昌)の四男。武王(姫)の弟。の武王・王を補佐した賢臣。孔子が理想とした君子。武王によってに封じられ、子の伯禽を下向させた。国の祖。武王が没し、王(姫誦)が即位すると、摂政となり、叛乱を起こした管叔(姫鮮)・叔(姫度)・武庚(の紂王の子)らを討伐した。洛邑を造営してとし、鎬京を宗とした。井田制を推進して、経済基盤を固めた。また「太誥」「微子之命」「帰禾」「嘉禾」などの文章を作った。政治を執ること七年、王に政権を返して、群臣の地位についた。彼の統治時代にの天下は安定したという。
召公奭(?~?)
  姓は姫、名は奭。の王族。はじめ召に封じられた。武王によって北燕に封じられた。国の祖。王の時代になると洛邑を造営し、陝を二分してその西の地方の政治を管轄した。公旦が王から天子の位を奪うのではないかと疑ったが、公旦が「君奭」を作って与えたので満足した。王が親政すると、太保に任ぜられた。王が崩ずると、諸侯を説いて康王(姫釗)に従わせた。陝西をよく治め、民衆にしたわれたという。文ではは匽と書かれる。実際のの封建は王年間か康王初年のことで、召公奭の一族が封ぜられたらしい。
呂尚(?~?)
  本来の姓は姜。もとの封地の名を取って呂姓。日本では太公望呂尚として知られる。中国では姜子牙が通名。また師尚父ともいう。東海のほとりの人。の文王・武王に仕え、その師となり、を滅ぼすのに貢献した。伝説的軍師。武王によっての営丘に封じられた。国の祖。亡くなったときは、百余歳だったという。文王と出会うとき、釣り糸を垂れていた挿話より、太公望は釣り愛好家の代名詞である。『封神演義』の主人公。
王(?~前1021?)
  姓は姫、名は誦。在位前1043?~前1021?。の武王(姫)の子。年少で即位し、公旦が摂政にあたった。管叔(姫鮮)・叔(姫度)・武庚の乱が起こったが、公が兵をして乱を鎮圧した。微子をに封じ、康叔をに封じた。公が政権を返すと、東は淮夷を討ち、奄国を滅ぼした。官を作り、の礼楽を興したので、人民は太平を讃えたという。
康叔封(?~?)
  姓は姫、名は封。の文王(姫昌)の九男。武王(姫)の弟。はじめ康に封じられた。王の時代、武庚の叛乱が鎮圧されると、の旧都・朝歌の近辺が与えられた。国の祖。王が親政すると、司寇に任ぜられた。
叔虞(?~?)
  姓は姫、名は虞。字は子于。の武王(姫)の子。王(姫誦)の弟。王の時代、に叛乱が起こってこれを公旦が平定した。このとき、王が戯れに桐の葉を削って珪をつくり、「これをもって汝を封ずる」と姫虞に言った。その後、の太史の史佚は、王に対して吉日を選んで姫虞を分封するように請うた。王は「あれは戯れのつもりだった」と渋ったが、史佚は「天子に戯言はありません」と諫めて、姫虞をに封ぜしめた。国の祖とされる。
の康王(?~前996?)
  姓は姫、名は釗。在位前1021?~前996?。王(姫誦)の子。即位後、召公奭や畢公高らが輔政にあたり、王の業を継いで、「天下安寧で刑錯が四十余年用いられない」と称された。
盂(?~?)
  の康王に仕えた臣。鬼方討伐に活躍した。康王から徳を慎むよう命ぜられて「大盂鼎」を賜ったという。
の昭王(?~前977?)
  姓は姫、名は瑕。在位前996?~前977?。の康王(姫釗)の子。南方計略に力をそそぎ、十六年に荊を討ち、十九年に六軍を水に失って、自らも水に没して死んだという。
の穆王(?~前922?)
  姓は姫、名は満。在位前977?~前922?。の昭王(姫瑕)の子。年五十にして即位した。伯臩を太僕に任じて、国政は安定した。西のかた犬戎を討ち、南は九江にいたった。また甫侯に刑罰の体系を作らせた。西晋のとき、汲家から『穆天子伝』が出土し、かれの西遊の伝説が記されていた。
祭公謀父(?~?)
  の穆王に仕えた臣。穆王が犬戎を征伐しようとしたのを諫めたが、聞き入れられなかった。穆王のころに最も西周の武威は輝いたが、王道衰微せりと後人を嘆かせた。
甫侯(?~?)
  の穆王に仕えた臣。五刑・五罰・五過の刑罰の体系を作ったとされる。
の共王(?~前900?)
  恭王。姓は姫、名は繄扈。伊扈ともいう。在位前922?~前900?。の穆王(姫満)の子。昭王・穆王の領土拡大策をやめ、明法息民につとめた。
の懿王(?~前892?)
  姓は姫、名は囏。堅ともいう。在位前900?~前892?。の共王(姫繄扈)の子。王室は衰微し、しばしば玁狁の侵入を受けた。
の孝王(?~前886?)
  姓は姫、名は辟方。在位前892?~前886?。の穆王(姫満)の子。共王(姫繄扈)の弟にあたる。一説に懿王(姫囏)の弟ともいう。懿王が崩ずると立った。非子を王室の牧馬とし、邑に封じた。
の夷王(?~前878?)
  姓は姫、名は燮。在位前886?~前878?。懿王(姫囏)の子。孝王の死後、諸侯に擁立されて立った。虢公に命じて太原戎を討った。
の厲王(?~前828)
  姓は姫、名は胡。在位前878?~前841。の夷王(姫燮)の子。栄の夷公を卿士に任じて、国政は乱れた。厲王は暴虐驕慢なため、国人たちに王位を追われ彘に逃れたという。実際は諸侯の権限を抑制したため、追放されたらしい。このため玉座が空位となり、有力な大臣(召公・公)による共同統治が行われたとされる。いわゆる「共和」だが、実際は共伯和による統治であった。厲王は共和十四年に没した。太子の静が宣王として即位した。
共伯和(?~?)
  子龢父、師和父とも称される。の厲王が国人たちに王位を追われたのち、玉座が空位となったため、国政を握った。一説にはの武公のことだという。
の宣王(?~前782)
  姓は姫、名は静。在位前827~前782。の厲王(姫胡)の子。国人が厲王を追放すると、召穆公の家にかくまわれた。厲王が彘で死んだのちに、大臣により擁立された。治政に精励し、西北に玁狁を逐い、東南に荊徐淮の地を開拓した。申伯を謝に封じ、弟の姫友をに封じた。晩年、の公位継承に関与し、の武公の末子を太子として立てようとしたため、諸侯の不満を引き起こした。また姜戎と千畝で戦い、国力を消耗させた。
尹吉甫(?~?)
  姓は兮、名は甲。字は吉父。の宣王に仕え、その中興を支えた賢臣。北方の玁狁の侵入を撃退した。また南に淮夷を討った。
仲山甫(?~?)
  樊穆仲、樊仲山父ともいう。の宣王に仕えた臣。宣王のとき、西戎との戦いに南方諸侯国の兵力を消耗したため、王自らが戸口調査をして徴兵しようとしたのを諫めたが容れられなかった。また、の公子ふたりが入朝したとき、宣王は弟の戯を気に入っての太子に立てさせようとしたので、これを諫めたが聞き入れられなかった。
太史籒(?~?)
  の宣王に仕え、太史となった。籒文(大篆)を作ったとされる。
の幽王(?~前771)
  姓は姫、名は涅。在位前782~前771。の宣王(姫静)の子。虢石父を執政として任用し、政治は腐敗した。また辺境は動揺し、地震や旱害は頻して、民生は不安定になった。後宮において褒姒を寵愛した。申后と太子宜臼を廃し、褒姒を后に立てた。笑わない褒姒を笑わせるため、たびたび狼煙を挙げて諸侯を集めてみせて喜ばせたという。諸侯の信を失い、申侯や犬戎・西夷が都に攻めてきたとき参集した諸侯がいなかった。鎬京は落城し、幽王は驪山のふもとで殺された。申侯が宣臼(平王)を立てて王とし、洛邑に都を遷した(の東遷)。幽王以前の西周といい、平王以後を東周という。
褒姒(?~?)
  褒姒⇒。
の携王(?~?)
  攜王。姓は姫、名は余、または余臣。幽王と伯服が殺されたのち、虢公翰によって擁立された。洛邑に立った平王とともに二王並立することになった。
↓次の時代=東周

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