越
越(読み)えつ(英語表記)Yue; Yüeh
えちえつ ヱツえつ〔ヱツ〕おちく・ゆこしこそこ・ゆごえごし漢字項目越 Yuè越/高志
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国の春秋・戦国時代の諸侯国の一つ。都は会稽 (浙江省) 。越人は入墨,断髪の風習があり,漢人とは異なる民族といわれる。春秋時代末期に強くなり,北隣の呉と抗争を繰返した。勾践 (こうせん) が前 496年,呉王闔閭 (こうりょ) を破ったが,その子夫差のため前 494年に大敗北。范蠡 (はんれい) らの補佐により苦心の末,前 473年夫差を滅ぼし,恥をそそいだ。以後はふるわず,前 334年楚に滅ぼされた。春秋の五覇の一つに数えられることがある。
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デジタル大辞泉の解説
中国、春秋時代の列国の一。都は会稽(かいけい)。前473年、呉を滅ぼして北上、中原に覇を唱えたが、前334年、楚(そ)に滅ぼされた。
中国浙江(せっこう)省の異称。
⇒えつ(粤)
[常用漢字] [音]エツ(ヱツ)(漢) オチ(ヲチ)(呉) エチ(ヱチ)(呉) [訓]こす こえる
〈エツ〉
1 ある所・時の境をこえる。「越境・越冬・越年」
2 物事の範囲・程度をこえる。「越権/僭越(せんえつ)・卓越・超越・優越」
3 古代中国の国名。「呉越」
4 「越前」「越後」「越中」の略。「越州/上越・北越・甲信越」
5 ベトナム。「中越」
〈エチ〉越(こし)の国。「越後・越前」
[名のり]お・こえ・こし
[難読]越天楽(えてんらく)・越度(おちど)・越階(おっかい)・越訴(おっそ)・檀越(だんおち・だんおつ)・夏越(なごし)・越南(ベトナム)
⇒えつ
⇒えつ
⇒越(こし)の国
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百科事典マイペディアの解説
(1)中国,春秋末期から戦国時代に,今の浙江地方にあった国。会稽(浙江省紹興)に都した。北方の呉と争い,王句践(こうせん)は前473年呉王夫差(ふさ)を破り覇者となった。その死後は衰え,前306年ごろ楚に滅ぼされる。→春秋戦国時代(2)五代十国の一つ。呉越とも。908年―978年存続。銭塘(杭州)に都し,宋に滅ぼされた。(3)ベトナムの王朝も〈越〉を称したものが多い。10世紀には大瞿越(ダイコーベト)が建国し,11世紀のリ(李)朝,13世紀のチャン(陳)朝は国号を〈大越〉(ダイベト)とした。ベトナムという国号も,漢字の〈越南〉を現地音で読んだものである。
→関連項目粤|太宗(宋)|覇者
古代における本州の日本海沿岸域北東部を指す地名で,古志・高志・古之とも書く。律令期以降の越前・加賀・能登・越中・越後・出羽各国にあたる。《日本書紀》には〈越国〉のほか,〈越海〉〈越之路〉〈越之丁〉〈越辺蝦夷〉などとみえ,白鹿・燃土・燃水が献上されたとの記事があり,畿内(きない)王権における労働力源,蝦夷(えぞ)対策の補給基地,高句麗(こうくり)使の渡来経路などとして現れる。《日本書紀》の国生み神話には,本州を意味する〈大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)〉とは別に〈越洲(こしのしま)〉があげられており,遅くまで畿内王権と関係の薄い独立性の高い地域であったと考えられる。《古事記》の〈高志の八俣(やまた)の遠呂智(おろち)〉や《出雲国風土記》の〈高志の都都(つつ)の三埼(みさき)〉の国引き伝承などは西方の山陰地方との結びつきを示唆し,《日本書紀》欽明(きんめい)天皇31年条の高句麗使着岸の記事などは,日本海対岸地域との交流を伝えている。百済大(くだらだい)寺の造営に越の丁(よほろ)などが徴発されたといい(同書),厳密な意味で越が畿内王権の管理下に置かれたことを示す初見記事とされる。7世紀末の国評(こくひょう)制施行によって越前・越中・越後の3国に分立。その後越後国から出羽国,越前国から能登国・加賀国が分立した。なお越に対する古代貴族の観念は,枕詞(まくらことば)の〈しな離(ざか)る〉に象徴されている。
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世界大百科事典 第2版の解説
中国古代,春秋戦国時代の侯国,都は会稽(浙江省紹興市)。夏王少康の子無余が封ぜられた国というが,不明。郕・粤・於越とも書く。春秋後半に強大となり,呉と争い,王句践(こうせん)は前473年呉王夫差を破り,呉を併合。北進して晋・楚と対立し,魯など山東諸侯国の争いに介入し,周王に覇者と認められる。この間一時都を北の瑯琊(ろうや)(山東省胶南県)にうつしたと言われる。戦国時代に入ると,急速に衰え,前306年ころ楚に滅ぼされた。
中国,前漢代前期に越王句践(こうせん)の子孫と称した越族が,閩江(びんこう)流域に閩越国,甌江(おうこう)流域に東越(東甌)国をたてた。秦末,君長の騶無諸(すうむしよ)と騶揺はそれぞれの部族を率いて漢王朝の成立をたすけ,騶無諸は前202年閩越王に,騶揺は前191年東越王に安堵された。東越は,〈呉楚七国の乱〉に関与したことが遠因で滅亡,閩越も,一時は南越を侵すほど隆盛をほこったが,前110年(元封1),漢に滅ぼされ,東越と同様にその住民は今の江蘇省北部へ移住させられた。
古代の広域地名。高志,古志,古之とも書く。本州の日本海沿岸域北半,敦賀湾から津軽半島までを包括する。律令期以降の越前,加賀,能登,越中,越後,出羽に相当し,若狭,佐渡は含まれない。《日本書紀》の国生み神話の多くは,本州を意味する〈大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)〉とは別に〈越洲(こしのしま)〉を掲げており,かなり遅くまで畿内の王権とのつながりの薄い独立性の強い地域であったと考えられるが,507年には継体天皇を畿内に送り出したと伝承される。
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大辞林 第三版の解説
①中国南部に居住していた南方系民族。春秋時代の越や、漢時代の閩越びんえつなどの国を建てたのはこの一部族とされる。
②中国の浙江せつこう地方を支配した春秋戦国時代の諸侯国の一。都は会稽かいけい。呉と争い、紀元前473年越王勾践こうせんは呉王夫差を滅ぼし、北上して覇者となる。紀元前334年に楚そに滅ぼされた。
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精選版 日本国語大辞典の解説
[一] 中国、春秋戦国時代の国。春秋十四列国の一つ。会稽を都として浙江地方を治める。前六〇一年より史書にその名が現われるが、紀元前五世紀初めの勾践(こうせん)のとき、北方の呉を破って江蘇、山東に進出。紀元前三三四年楚に滅ぼされる。
[二] 中国、浙江省の別称。
[三] 越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)の略。
〘自ヤ下二〙 「こゆ(越)」の上代東国方言。越える。
※万葉(8C後)二〇・四三七二「不破の関 久江(クエ)て我は行く」
[語誌]挙例は常陸国防人歌であり、中央語の「こゆ」が「くゆ」の形になっているが、このようにオ列甲類の音がウ列音になるのは他に「イモ(妹)」が「イム」に〔万葉‐四三六四〕、「ヨドコ(夜床)」が「ユトコ」に〔万葉‐四三六九〕なるなど数例見られる。
〘語素〙 国名・峠の名など、地名に付いて、そこを越える経路を表わす語。「伊賀越え」「龍華越え」「ひよどり越え」
[1] 〘名〙
① 能楽で、囃子(はやし)の打ち方の名称。
② 連歌、俳諧で、付句から一句隔てた前の句。また、一句を隔てて句と句が相対することをいう。打越(うちこし)。
[2] 〘接尾〙 ちりめん織物で、左右から互いにさしこむ緯(よこいと)の数を数えるのに用いる。
〘語素〙
① 名詞に付いて、その物を越して、あるいは隔てて、何かをすることの意を表わす。「垣根ごし」「ガラスごし」
※書紀(720)崇神一〇年九月・歌謡「大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手(た)誤辞(ゴシ)に越さば 越しかてむかも」
② 時間的長さを表わす語に付いて、その間中続いてきたことを表わす。ある年月にまたがって。
※浄瑠璃・国性爺後日合戦(1717)一「二年ごし三年ごし、来る日も来る日も」
四段活用動詞「こす(越)」の連体形「こす」の上代東国方言。
※万葉(8C後)二〇・四三八九「潮船の舳(へ)古祖(コソ)白波にはしくもおふせ給ほか思はへなくに」
〘自ヤ下二〙 ⇒こえる(越)
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
春秋時代から戦国時代に浙江 (せつこう) 地方にあった諸侯国の1つ
会稽 (かいけい) (現在の紹興 (しようこう) )に都した。同じ南方系異民族の北隣(現在の江蘇地方)の呉と争うことが多く,前473年越王勾践 (こうせん) は呉王夫差を討って中原に進出し,覇者になった。勾践の子孫無彊 (むきよう) のとき楚 (そ) と争い,敗れて前334年滅亡した。
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世界大百科事典内の越の言及
【会稽山】より
…また秦の始皇帝も禹をまつって石碑を建てたという(秦望山という別称はこれによる)。この付近は古代の越国の中心で,杭州湾から江南全体を展望しうる会稽山はその象徴であった。秦・漢を通じても江南全体は会稽郡と呼ばれた。…
【越後国】より
…現在の佐渡を除く新潟県に当たる。
【古代】
大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵,磐舟(いわふね)柵がつくられた。7世紀末に越は越前,越中,越後の3国に分かれた。…
【越前国】より
…現在の福井県のうち南西部の旧若狭国を除いた北東部を占める。
【古代】
北陸地方は古くは越(こし)(高志)とよばれ,越前に当たる地域には角鹿(つぬが)国造,三国国造がいた。越は蝦夷経営の前進基地としての政治的役割をもち,589年に阿倍臣を北陸道に遣わし越等の諸国の境を視察させている。…
【越中国】より
…
【古代】
北陸道に属する上国(《延喜式》)。北陸の地一帯は古くは越(こし)と総称されたが,律令国家の形成過程で越前,越中,越後の3国に分割された。その時期は明確ではないが,《日本書紀》持統6年(692)9月癸丑条に〈越前国司白蛾を献ず〉と見えるのが分割された国名の初見である。…
※「越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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東越(読み)とうえつ
世界大百科事典内の東越の言及
【越】より
…中国,前漢代前期に越王句践(こうせん)の子孫と称した越族が,閩江(びんこう)流域に閩越国,甌江(おうこう)流域に東越(東甌)国をたてた。秦末,君長の騶無諸(すうむしよ)と騶揺はそれぞれの部族を率いて漢王朝の成立をたすけ,騶無諸は前202年閩越王に,騶揺は前191年東越王に安堵された。…
※「東越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
閩越(読み)びんえつ(英語表記)Min-yue; Min-yüeh
びんえつ ‥ヱツびんえつ〔ビンヱツ〕越
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国,漢代に現在の福建省地方に活躍していた越族の一つ,および彼らが建てた国 (前 202~135) 。秦の始皇帝は中国を統一すると,閩越王の無諸を廃してここに 閩中郡をおいた。秦末に無諸は漢に味方したので,前漢の高祖は高祖5 (前 202) 年無諸を王とし,東冶 (福建省 閩侯県) を都として 閩越国を建てた。王郢 (えい) のとき 閩越は東甌 (とうおう) ,南越など周辺の国に侵入した。前漢の武帝は出兵して 閩越を討ったので,郢の弟余善は郢を殺して漢にくだったが,まもなく自立して東越王を名のり,漢もこれを認めた。しかしこの国も 20年余で元封1 (前 110) 年に滅んだ。
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デジタル大辞泉の解説
中国、秦・漢時代、現在の福建地方に住んでいた越族。また、この一族が前202年に建てた王国。前135年、漢の武帝に滅ぼされた。
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大辞林 第三版の解説
中国、古代、江南の閩江流域を中心に福建地方から台湾などの海島にかけて分布した越族。また、その国。秦・漢時代に閩越王が自立したが、漢の武帝に滅ぼされた。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
中国の福建省方面にいた越(えつ)族の一派、また同時に彼らの国をさす。江流域を本拠とした。秦(しん)の始皇帝は中国統一ののち、この付近に中郡を置いたが、名ばかりで、実際には無諸という越の王がいた。漢の高祖劉邦(りゅうほう)はこれを認め、王は東冶(とうや)(福建省侯県付近)を都とした。武帝(在位前141~前87)の時代には強勢となり、北隣の東甌(とうおう)や南隣の南越を侵攻するに至ったので、武帝は兵を出して攻めた。王の郢(えい)はこれに抗したが、王弟余善が王を殺して降(くだ)り国は滅んだ。[藤原利一郎]
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精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 中国の閩江流域を中心に福建地方に居住した越族の一種。また、秦・漢代にこの種族が建国した王朝(前二〇二‐前一三五)。漢の武帝に滅ぼされた。
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世界大百科事典内の閩越の言及
【越】より
…中国,前漢代前期に越王句践(こうせん)の子孫と称した越族が,閩江(びんこう)流域に閩越国,甌江(おうこう)流域に東越(東甌)国をたてた。秦末,君長の騶無諸(すうむしよ)と騶揺はそれぞれの部族を率いて漢王朝の成立をたすけ,騶無諸は前202年閩越王に,騶揺は前191年東越王に安堵された。…
【越族】より
…越(於越)は文身断髪の習をもち,春秋時代に会稽(かいけい)に建国,前306年ころの滅亡後は各地に散居した。秦から漢にかけて甌越(おうえつ),閩越(びんえつ),南越がそれぞれ甌江,閩江,珠江の下流域に自立したが,漢の武帝に平圧された。山越は三国時代に丹楊(丹陽,江蘇省)を中心に活発に活動した。…
【福建[省]】より
…毎年5,6月は降雨量が最大で,7~9月には台風が災害を起こし,沿海交通を妨げることがある。
[歴史]
この地方には古くから越族の一派である閩越という原住民がおり,秦の始皇帝は天下を統一するとそこに閩中郡をおいて中国化を図った。しかし,その支配は名目的で,やがて漢初に閩越国(都は東冶(とうや),今日の福州市)として独立したが,武帝のとき滅ぼされ,閩越族は江淮(こうわい)の間に強制移住させられたという。…
※「閩越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
呉越(読み)ゴエツ
ごえつ ‥ヱツごえつ〔ヱツ〕呉越 Wú yuè
デジタル大辞泉の解説
中国で、春秋時代にあった呉と越の2国。また、その国の人。
中国、五代十国の一。907年、唐の節度使銭鏐(せんりゅう)が浙江(せっこう)・江蘇地方に建国。都は杭州(こうしゅう)。978年、宋にくだった。
《呉と越とが長く敵対していたところから》仲が極めて悪いこと。
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世界大百科事典 第2版の解説
中国,五代十国の一つ。907‐978年。唐末の動乱期に杭州の自衛団を背景に銭鏐(せんりゆう)が建てた国。両浙13州を領有し,ゆたかな農業生産力によって,小国ながら経済・文化面で高水準を示した。西隣の呉(南唐),南隣の閩(びん)との激しい抗争のため遠交近攻策をとり,契丹や高麗とも通じ,日本へも貿易船を派遣して交渉があった。978年(太平興国3)に5主72年で滅ぶが,この呉越の宋への帰属によって,宋の江南全域の併合がようやく完了した。
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大辞林 第三版の解説
①中国、五代十国の一。唐の節度使銭鏐せんりゆうが建てた王朝(907~978)。都は杭州。
②春秋時代の呉と越の国。
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精選版 日本国語大辞典の解説
中国、春秋時代の呉の国と越の国。また、呉人と越人。転じて、呉王夫差と越王勾践とがしばしば戦い合ったところから、仲が悪く敵意をいだくことのたとえ。また、遠く隔たっていることのたとえ。
※懐風藻(751)釈智蔵伝「遣二学唐国一。時呉越之間、有二高学尼一。法師就レ尼受レ業」
※歌舞伎・御摂勧進帳(1773)二番目「頼朝・義経、呉越と別れし折を窺ひ、再度義経を匿ひ置き」 〔国語‐呉語〕
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
907〜978
五代十国の一国
唐末期の動乱期に杭州の銭鏐 (せんりゆう) が,自衛団を基礎に節度使となり,唐の滅亡後自立した。杭州を都とし,江南の主要地を占めた。978年宋に降伏。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
「銭鏐」のページをご覧ください。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
→ 五代十国
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世界大百科事典内の呉越の言及
【五代十国】より
…中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。…
※「呉越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
南越(読み)ナンエツ
なんえつ ‥ヱツなんえつ〔ヱツ〕南越 Nán Yuè
デジタル大辞泉の解説
古代中国の国名。前207年、秦の南海郡尉趙佗(ちょうだ)が建国。都は番禺(ばんぐう)(現在の広州)。現在の福建・広東省からベトナム北部を支配して南海貿易の利を独占したが、前111年、漢の武帝に滅ぼされた。
越前の別称。
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百科事典マイペディアの解説
中国の広東,広西とベトナム北部に,秦末の混乱に乗じ前207年南海郡尉趙陀(ちょうた)が建てた国。番禺(ばんぐう)(現,広州市)に都して南海貿易をおさえ,約100年ほど栄えたが,前111年漢に滅ぼされた。
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世界大百科事典 第2版の解説
中国,前漢代前期に嶺南地方にあった漢人趙氏を王とする越人(越族)の国家。南粤とも記す。秦末の混乱に乗じて南海郡尉の趙佗(ちようた)が番禺(広州市)を首都に建国した(前207)。漢がおこると藩国となったが,呂后が鉄器の輸出を止めたために挙兵して自立し,福建やベトナム地方にも勢力をのばした。第4代の趙興のころになると国内は親漢派と越人派が対立,越人派が政権を握ったが,武帝の大軍に平圧されて5代で滅びた(前111)。
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大辞林 第三版の解説
①古代中国、秦末漢初に、広東・広西地方からベトナム北部にかけてあった国(前207~前111)。漢人の趙佗ちようだが建国し漢の高祖によって南越王に封ぜられたが、武帝のときに滅ぼされた。南粤。
②越前国の南部。現在の福井県の南東部にあたる。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
秦(しん)の始皇帝の嶺南(れいなん)征討に従っていた河北真定の武将趙佗(ちょうた)が、秦滅亡の混乱に乗じて南海郡尉(ぐんい)となり、紀元前207年に自立して番禺(ばんぐう)(広州)に建てた国。武帝を称した趙佗は漢に対して服属を拒み、嶺南に勢力を張ってベトナム北部までの諸民族を支配し、漢もその前半期には南越の分権的統治を認めた。第2代文帝の時代まで勢力が盛んであったが、第3代明王の死後、漢への服属をめぐって国論が分裂し、丞相(じょうしょう)呂嘉(りょか)のクーデターで反漢派が主導権を握った。漢の武帝は大軍を派遣して第5代の王、建徳や呂嘉らを殺し、南越は5代97年で滅びた(前111)。これによって漢の天下統一が完成し、武帝は中国南辺とベトナム一帯に交趾(こうち)9郡を置き、ハノイ付近の地を交趾部の治所に定めた。[川本邦衛]
[参照項目] | 趙佗
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精選版 日本国語大辞典の解説
[一] 中国古代の国名(前二〇七‐前一一一)。漢人官僚の趙佗が自立して建国。広東・広西・ベトナム北部を領域とし、越族を支配して一時は南方に威を振るったが、漢の武帝に滅ぼされた。首都は番禺(広州)。南粤。
[二] 越前国(福井県)の南部をさしていう。
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
前203〜前111
秦が滅亡してから前漢の武帝時代まで,広東・広西両省とヴェトナム北部を領有していた国
秦末期の混乱に乗じて南海郡尉の職にあった中国人の趙佗 (ちようだ) が独立政権をつくり,番禺 (ばんぐう) (広州)に都した。前漢に朝貢したがのち離反し,前111年に武帝に滅ぼされた。
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世界大百科事典内の南越の言及
【インドシナ】より
…インドシナ〈中国化〉の重要な契機は経済的理由であった。前漢の武帝による南越国征服(前111)は,中国によるベトナム植民地支配の始まりであったが,武帝が北部ベトナムに交趾,九真,日南の3郡を置いてこの地に郡県制を及ぼした背景には,真珠,タイマイ,象牙など,ここにもたらされる南海の珍貨獲得に対する中国人の強い欲求の存在を見ることができる。ベトナムが10世紀に完全独立を達成するまでの1000年間,中国の植民勢力は中国の伝統的統治思想に基づく原住民教化に努力し,社会生活の広範な領域にわたって中国文化の受容を強制した。…
【越】より
…秦末,君長の騶無諸(すうむしよ)と騶揺はそれぞれの部族を率いて漢王朝の成立をたすけ,騶無諸は前202年閩越王に,騶揺は前191年東越王に安堵された。東越は,〈呉楚七国の乱〉に関与したことが遠因で滅亡,閩越も,一時は南越を侵すほど隆盛をほこったが,前110年(元封1),漢に滅ぼされ,東越と同様にその住民は今の江蘇省北部へ移住させられた。この結果,今の福建省は無人の地と化したといわれる。…
【越族】より
…越(於越)は文身断髪の習をもち,春秋時代に会稽(かいけい)に建国,前306年ころの滅亡後は各地に散居した。秦から漢にかけて甌越(おうえつ),閩越(びんえつ),南越がそれぞれ甌江,閩江,珠江の下流域に自立したが,漢の武帝に平圧された。山越は三国時代に丹楊(丹陽,江蘇省)を中心に活発に活動した。…
【広東[省]】より
…秦代に始皇帝が大軍を派遣して征服し,南海,桂林,象の3郡を置いた。秦末,中原の混乱に乗じて趙佗が南越国を建てたが漢に滅ぼされた。漢は南海,儋耳(たんじ),合浦,蒼梧など嶺南9郡を置いて漢人の移住を推し進めた。…
※「南越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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