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7世紀から10世紀初めまで長期にわたり中国を支配した王朝。辺諸地域にもその支配を及ぼす世界帝国として展し、都長安では国際的な文化が展した。しかし、均田制を基盤とした律令体制は次第に行き詰まり、8世紀中頃の安史の乱を機に次第にそのあり方を変た。それでも帝国として支配を長らえたが、10世紀初め、黄巣の乱に代表される農民反乱が多して滅亡し、中国は再び五代十国の分裂期となった。
 618年から907年までの中国の統一王朝。朝を起こした李淵はの官僚であったが、末の混乱に乗じて初代皇帝高祖となった。都はの大興城を継承して、長安とされた。次の李世民(太宗)は父を退位させて実権を握り、628年に全国を統一した。は、の律令制度を受け継ぎ、均田制、租庸調制、府兵制を基礎とする中央集権体制を整備し、科挙による官吏登用制を実施し、官僚政治を達させ、907年に滅亡するまでの約300年にわたって存続した。

の全盛期
 李淵の子の李世民は兄を殺し、父を対させて第2代皇帝太宗として即位、7世紀前半のの全盛期を実現した。この時代は貞観の治といわれ、律令制の整備など内政が最も充実していたとされている。また太宗は東突厥を破り、西北の遊牧諸民族から天可汗の称号を与えられ、中華世界のみならず、遊牧民の世界を含む統治者として認定された。

最大領土を実現
 7世紀の後半、第3代の高宗の時にその領土は最大となった。東は660年に百済、668年に高句麗を滅ぼし、西は遠く西トルキスタンの西突厥を657年に滅ぼし、南ではベトナム(2)に進出した。はこれらの征服地に対しては羈縻政策といわれる、一定の枠組みの中で自治を認める支配体制を採った。

武韋の禍
 高宗は政治を皇后にまかせるようになり、ついには則天武后が実権を握ることとなった。彼女は女性として中国の歴史上唯一の女帝を称し、国号をと改めるなど、専応を極めた。次の韋后と女性の支配が続く。この7世紀末から8世紀初めの混乱を武韋の禍という。しかし、この時期は、西以来の門閥武官貴族に替わって、科挙によって人材本位で登用された官僚が皇帝の政治を補佐するようになり、むしろ律令制官僚政治が展した側面もある。

8世紀の危機
 8世紀前半には玄宗が政治の引き締めをはかり、科挙によって進出した官僚による政治が行われて、一定の果を上げて開の治と言われる安定を取り戻した。しかし玄宗皇帝の晩年は楊貴妃の兄の楊国忠など側近の専横が見られるようになって政治が乱れ、反した節度使の安禄山が反乱を起こすと、755~763年にわたる大乱の安史の乱となった。反乱はウイグルの協力などによって鎮圧されたが、その後は各地の節度使の台頭、宮廷での宦官と官僚の争いなどが続いた。

律令制の変質
 はそれでも、南方の穀倉地帯を抑えていたので、その支配をなおも1世紀ほど続けることができた。しかし、その間、律令制国家を支える土地公有制の原則である均田制は、次第にくずれて土地私有である荘園が増加し、そのために租庸調制と府兵制を維持することが困難となってきた。そのような社会の変動に対応して、780年に両税法が施行されて税制の基本が転換された。また府兵制に替わって募兵制に移行した。

の衰退
 9世紀にはいると財政はさらに困窮したために塩専売制を強化したが、帰って塩密売人の活動は活となり、875年に黄巣の乱が起こった。この反乱の鎮圧に手間取るうちに、南方の穀倉地帯が荒廃したため、はその経済的基盤を失い、節度使として勢力を伸ばした朱全忠によって、907年に滅ぼされた。

と隣接諸国
 は特に西の突厥、東の高句麗という強敵を滅ぼし、東アジアの国際秩序に安定をもたらした。それによって辺諸地域、諸民族に対し、優的な関係を結ぶ世界帝国として存在するようになった。そのため、都長安は世界各地から商人や使節が集まり、国際的な繁栄がもたらされた。文化史上も文化はもっとも華やかで国際的な広がりを持つものであった。
 東アジアで帝国が勃興した7世紀初め、西アジアではムハンマドがイスラーム教を創始(622年がヒジュラ=イスラーム紀年)し、イスラーム帝国の隆盛が始まっている。751年にはとアッバース朝イスラーム帝国がタラス河畔の戦いで直接戦っている。

世界帝国
 アジアにおける世界帝国の例として及びをあげることができる。しかし、その支配のあり方は一様では無く、いくつかの異なった辺との関係性を認められ、「世界帝国」と捉えることに慎重な意見もある。その辺諸国との関係は次のような異なる性格を持っていた。
冊封体制:帝国以来、辺諸国の国王を封臣としてその地位を認める。では、高句麗・百済・羅・渤海などの朝鮮半島諸国に対してとられた。
朝貢:王朝の皇帝に貢ぎ物を献じ、変わりの下賜品をあたえられる貿易の一形態。冊封に伴うが、奈良時代の日本の場合は冊封を受けることは無く、遣使をつうじての朝貢にとどまった。東南アジア諸民族の多くもに朝貢した。
羈縻政策:の征服を受け帰順した北方民族や西域諸国に対する統治政策で、都護府を紂王から派遣して支配するが、現地の首長らをその下での官吏に登用し、実際の統治は任せる方式。降伏後の突厥に対する例が典型。ただし北方民族でもウイグルに対しては冊封関係を結んだ。東南アジアでもベトナムに対しては安南都護府をおいて羈縻政策をとった。
対等な関係:冊封体制にも羈縻政策にも当てはまらず、との対等な関係を維持したのが吐蕃(チベット)であり、ソンツェン=ガンポはの皇帝の子女を后(文公主の例が有名)として入れるという通婚政策をとった。
 以上のようにの場合は「世界帝国」といっても一律な支配体制がとられたわけでは無い。しかし、辺諸民族、諸地域には優的な関係を持っていたことは事実であり、それは特に民族の「中華思想」にもとづいて、字・儒教・律令制など文化的な面で強い影響力を有したことからも「世界帝国」と捉えてよいと思われる。


(読み)とう(英語表記)Tang; T`ang
からから・ぶとう タウとう〔タウ〕 Táng/▽/▽字項目
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国の王朝(618~907)。李淵(→高祖),李世民(→太宗)父子が末の群雄を平定して建国。三省六部(→三省六部制度),九寺五監および御史台などを中心とし,地方を道,州,県に分け,律令格式を整備した。の中央政界は代に引き続いて貴族の勢力が強かったが,一方では科挙制度をしいて官僚制を推進した。財政面では均田制に基づく租・庸・調ならびに雑徭の徴収を原則とし,軍事面では全国に折衝府を配置して徴兵を行ない,国家権力による人民把握に努めた。初は対外的展もめざましく,東突厥(→突厥)を滅ぼし,西突厥を討ち,吐谷渾や吐蕃を破って西域を支配するとともに,百済,高句麗をくだして朝鮮をも征した。たに勢力の及んだ四方辺境の地には 6都護府を設置し,いわゆる羈縻政策を行なった。しかし 7世紀末,高宗が没すると,皇后武氏(→則天武后)が政権を握って帝位につくにいたった(690~705)。武政権は中宗復位によって終わったが,再び皇后韋氏の専権があり,の政治はしばしば動揺した(→武韋の禍)。玄宗が立つと復興に努め,の文化は最盛期に達したが,一方この頃から均田制は崩れて農民の没落が起こり,府兵制も行なわれなくなり募兵制が採用され,社会不安は増大した。玄宗は 10節度使を配置し,辺境守備にあたらせたが,やがてそのなかから安史の乱(755~763)が生し,朝はにわかに衰退に向かった。かくて均田体制は完全に崩壊し,荘園が王侯貴族,官僚,豪商あるいは寺観によって大々的に開され,農民は小作人(佃戸)化した。その結果,国家財政が逼迫し,これを打開するため両税法が施行された。また節度使も一般的に内地に置かれるようになり,地方分権化も進んだため,律令政治は行きづまった。特に河朔三鎮(河北の節度使)は激しく朝に抵抗したうえ,中央政界でも宦官の跋扈や党争が次ぎ,政治は乱れた。9世紀後半,朝の経済的基盤であった江南において龐勛らの反乱が起こり,山東でも王仙芝,黄巣の乱が 10年に及んだため,中央の権威は失墜。やがてもと黄巣の部将だった朱全忠が政権を握り,開平1(907)年哀帝を廃し,後朝(→五代)を建てた。
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デジタル大辞泉の解説

《朝鮮半島にあった国名から》
1 朝鮮・中国の古称。多く、中国をさす。また、中世以降、広く外国のこと。「―天竺(てんじく)」
「その夜の歌ども、―のも(やまと)のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ」〈源・鈴虫〉
「日本の事は申すに及ばず、―南蛮まで参りたりとも」〈虎明狂・賽の目〉
2 名詞の上に付いて、朝鮮・中国、さらに、外国から渡来したことを表す。「―歌」「―衣」「―錦(にしき)」
3 「織(からお)り」の略。
中国の国名。618年、李淵がの恭帝の禅譲を受けて建国。都は長安。制を継いで律令制・均田制・府兵制などを確立。統一王朝は南北の文化の融合をもたらすとともに、領域の拡大と東西文化の交流は国際的な文化を展させた。8世紀半ば以後衰退し、907年、20代哀帝のとき朱全忠に滅ぼされた。→後(こうとう) →南
中国のこと。また、外国。
[常用字] [音]トウ(タウ)() [訓]から もろこし
〈トウ〉
1 中国の王朝の名。「詩/盛・入(にっとう)・晩・李・遣使」
2 中国のこと。「音・人・土・本」
3 でたらめ。「荒無稽(こうとうむけい)」
4 だしぬけ。「突」
〈から〉中国。「草・手(からて)・様(からよう)」
[難読]棣花(はねず)・土(もろこし)・黍(もろこし・とうきび)
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百科事典マイペディアの解説

(1)中国の統一王朝。李とも。末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して,煬帝(ようだい)の孫恭帝の禅譲を受け,618年に建国。李世民は兄の皇太子建,弟吉を殺して即位し,628年天下を統一,均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整え,その子高宗とともに突厥(とっくつ)・鉄勒(てつろく)・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。高宗代末期には,皇后の則天武后は均田制のゆるみに不満をもつ中小官僚や興地主の支持により政権を奪い,690年―704年朝を立て,朝は中断した。武后の没後復位した中宗の皇后韋(い)后も夫を殺そうとしたが,玄宗のクーデタにより失敗し,睿(えい)宗・玄宗が次いで即位。は最盛期(開の治)を迎えた。玄宗は均田制の改革,運河による財源の確保,節度使の派遣により国力を充実させた。文化史上も,李白,杜甫(とほ),道玄,王維,顔真卿らが輩出し,詩・画・書などの極盛期となった。玄宗代末期には安史の乱によって朝の繁栄は終わり,節度使の反乱が多く起こった。均田制は崩壊し,塩専売,両税法,茶税が行われた。この財政措置により,憲宗代に一時中興を迎え,白居易,愈(かんゆ),柳宗らが出て,詩・文に晩の輝きをみせたが,宮廷内では宦官(かんがん)の専横,党人の抗争が続き,地方では農民の没落が黄巣(こうそう)の乱を起こし,その中から出た朱全忠が907年,禅譲の形で国を奪い,20代約300年続いたは滅んだ。遣使を通じ,日本古代の国家や文化に大きな影響を及ぼした。(2)中国,五代十国の一つ。後と呼ばれる。始祖はトルコ系の李克用。太原に位置して王となり,朱全忠と対立した。その子の李存勗(りそんきょく)(荘宗)は923年帝位について国号をと称し,後を滅ぼし,洛陽に都した。次の明宗はよく内治を整えたが,その死後は乱れ,女婿の石敬【とう】(せきけいとう)(高祖)が契丹(きったん)と結んで国を奪った。(3)中国,五代十国の一つ。南。徐知誥(じょちこう)が937年帝の譲位をうけて帝位につき,陵(南京)に都した。江南をおさえて,五代の列国のうち,最も富強。纏足(てんそく)の風もこの国に起こるという。958年後に服し,以後は国力振るわず,975年に滅ぼされた。
→関連項目角杯|画像石||条坊制|中華人民共和国突厥|白村江の戦|李【いく】|律令制度
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世界大百科事典 第2版の解説

中国,に続く統一王朝。618‐907年。首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北王室の宇文氏,王室の楊氏とともに,北が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,の政治と制度には北のそれらを継承するものが多い。朝の国号は,李淵の祖父李虎がの太原郡にあたる国公の封爵を北より受け,また李淵がより王に進封されたことに由来するという。
中国,五代第2番目の王朝。後ともいう。923‐936年。突厥(とつくつ)沙陀部出身で朝から李姓を賜った家系の李克用は,黄巣の乱平定に大功があり,河東節度使,王となった。彼は朱全忠(後太祖)と激しく覇を争ったが,その子李存勗(りそんきよく)(荘宗)はついに後を滅ぼし,洛陽を都として後を樹立した。ついで明宗がたつと,禁軍を改編強化し,財政基盤を整備するなど,五代で皇帝権が強化された時期の一つに数えられる。
中国,五代十国の一つ。南,江南(国)ともいう。937‐975年。の実力者徐知誥(じよちこう)(李昪(りべん))が帝の譲位をうけてたてた国。の正統後継を自任し,北方の契丹との通好関係をもって中原の回復を意図した。その領域はをほぼそのまま継承して,富饒な江蘇,安徽,湖北,江西に及び,十国中最強であった。955年(保大13)以降は,北世宗の征討により淮南(わいなん)・江北の産塩地帯を含む経済拠点を奪われて衰亡にむかい,75年にに下って,3主38年で滅んだ。
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大辞林 第三版の解説

①中国の王朝名。
㋐李淵(高祖)がの恭帝の禅譲をうけて建てた統一王朝(618~907)。都は長安。律令制・均田制・租庸調制・府兵制による中央集権体制を確立。文化が大いに興隆、当時世界の一大文明国となり、日本も遣使を派遣して文物・制度の導入に努めた。安史あんしの乱以降衰え、朱全忠に滅ぼされた。李
㋑五代の一。→ 後こうとう
五代十国の一。→ 南なんとう
②転じて、中国のこと。また、外国。
[句項目] へ投げ銀
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国の王朝(618~907)。帝室は李(り)氏、14世代20代を数え、首都は長安。洛陽(らくよう)を東都、太原(たいげん)を北都とした。中国古代帝国の最後を飾る時代で、国威は辺に広がり世界帝国の偉容を誇った。[池田 温]
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創業
室の李氏は隴西(ろうせい)を本貫とし、西涼五胡十六国の一つ)の王室の裔(えい)を称するが、北(ほくぎ)時代モンゴリアと接する北辺の軍鎮に駐屯していた軍人の家柄で、北の宇文氏、(ずい)の楊氏と姻戚(いんせき)関係にあり、鮮卑(せんぴ)族と通婚して北族的要素も受け継いでいた。室やそれを中核とする支配者集団を、中国の歴史寅恪(ちんいんかく)(1890―1969)は「関隴(かんろう)集団」と名づけ、広く学界で採用されている。彼らは6世紀を通じ陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)地方の土着勢力と融合した鮮卑混血貴族グループで、武勇に優れ、代以来の華北の伝統文化を吸収していた。約400年続いた(ぎしん)南北朝の分裂を克服し、ふたたび大統一をもたらした朝が、急速な中央集権化の破綻(はたん)と高句麗(こうくり)遠征の失敗によって、末期は農民蜂起(ほうき)の怒濤(どとう)のなかで崩壊に瀕(ひん)し、各地に群雄が割拠した。当時、突厥(とっけつ)防の要衝太原に留守(りゅうしゅ)として駐在した李淵(りえん)父子は、天下の形勢をうかがい旗揚げし、突厥の援助を得て南進、数か月で長安を抑え、の皇子代王侑(ゆう)を擁立した。まもなく江都に遊幸中の煬帝(ようだい)が親隊の叛(はん)にあい弑(しい)されたと聞くと、受禅を強要して李淵(諡(おくりな)高祖)が朝を創建した。朝の国号は、北以来李氏が郡公・国公に封ぜられたのにちなむ。太子建と世民兄弟の活躍により、数年間のうちに王世充、李密、竇建徳(とうけんとく)、師都(りょうしと)、薛挙(せっきょ)、杜伏威(とふくい)、蕭銑(しょうせん)ら群雄を平定、全国を統一した。初の内政のスローガンは、煬帝の暴政を廃しすべて初の開皇の制に復帰することであり、の官僚や群雄配下の知識人も多く王朝に吸収された。[池田 温]
貞観の治
兄の建と弟の吉を玄武門の変により打倒した李世民は、父の禅を受け2代皇帝(諡は太宗(たいそう))となり、房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、徴(ぎちょう)らの名臣をよく用い、民生安定と国威伸張に努め、貞観の治を現出した。いわゆる律令(りつれい)体制は貞観律令と引き続く永徽(えいき)律令・律疏(りつそ)の編纂(へんさん)を通じ完期を迎え、広範な小農民を基礎とする大帝国の充実をみた。李靖(りせい)、李勣(りせき)ら名将の活躍により東突厥、吐谷渾(とよくこん)、鉄勒(てつろく)諸部、西突厥次いで撃破し、吐蕃(とばん)を抑え、高昌(こうしょう)から亀茲(きじ)(クチャ)、于(うてん)(ホータン)など西域(せいいき)の要地に前進基地を置き、代以来空前の版図を広げた。このような背景の下に、インドへ求法(ぐほう)の大旅行をした玄奘(げんじょう)や、三度インドに使者となり武功で名をあげた王玄策も現れた。高句麗に対しては太宗の親征も失敗したが、3代高宗期に興の羅(しらぎ)と連合してまず百済(くだら)を滅ぼし、腹背から攻撃を加えついに高句麗を倒した。しかし遺民の抵抗はなお続き、結局朝鮮半島では羅の支配が確立し、高句麗遺民の一部はやがて靺鞨(まっかつ)と合流して東北に渤海(ぼっかい)国を形するに至る。初から盛まで、各種族の内部自治を保障し、都護府の管轄下に名目的な州県支配を行ういわゆる羈縻(きび)政策はおおむね功を奏し、六都護府体制の下に世界帝国の繁栄が続き、通商は隆盛を極めた。[池田 温]
革命
この間、高宗の妃武照(則天武后)は、術策を弄(ろう)して皇后となり、やがて帝権をも左右し、ついに中国史上唯一の女帝として朝(690~705)を建てた。武后の評価は善悪極端に分かれているが、六朝(りくちょう)以来の貴族官僚の支配が行き詰まり、しい文臣官僚が進出し、また社会経済の安定につれて地主や商人が勢力を伸ばし伝統的体制にしだいに対抗するようになった時代状況を考えると、武后の破格の用人や旧来の法度を無視した諸施策も一定の積極的役割を果たしたとみなされよう。武后政権がついえたあとも、中宗の韋(い)后や安楽公主、太平公主らプリンセスの政権干渉が続き、国政は退廃したが、李隆基(諡は玄宗(げんそう))のクーデター(710)により彼女らは一掃され、やがて玄宗の即位とともに盛の華やかな幕が開かれた。[池田 温]
・天宝の治
姚崇(ようすう)、(そうえい)、張説(ちょうえつ)、張九齢ら名にリードされた開の時代は、人口増による耕地不足、商人高利貸などの農民収奪、逃戸の増加、兵農一致の府兵制の崩壊、仕官希望者の激増、上流の奢侈(しゃし)と貧富の懸隔など、増大する社会矛盾に対処して、国初の貞観の制への復帰を目ざし、武后期の潮流に対してむしろ反動的政策を推進した。一方、社会の変化に対応するため、専門能力に優れる実務官僚を登用し、律令制の外皮の下で、戸口の流動や流通経済の浸透に応ずる異質な国制――使職の増加、税銭増徴、料銭支給、徴募兵制の普及、漕運(そううん)の改革――が形されていった。玄宗治世の後半の天宝時代は、老境に入った帝の政務弛緩(しかん)と楊貴妃(ようきひ)とのロマンス、姦臣(かんしん)の聞こえ高い李林甫(りりんぽ)・楊国忠らの専権、辺防十節度使体制と藩将の重用などにより、中央の圧倒的強みが揺らぎ、地方勢力の比重が高まる形勢となり、深刻な危機が進行した。伝統的に史家が開・天宝の間に時代のくぎりを置き、上昇下降の分界としたのも理由がある。[池田 温]
安史の乱
西域ではタラス川の戦い(751)で東進するアッバース朝勢力に敗れ、対外的にも退勢に向かい、755年「漁陽(河北省の郡名、安禄山(あんろくざん)の根拠地)の兵鼓」をどよもして十数万の・蕃兵を率いる安禄山の反乱が勃(ぼっぱつ)し政局は激変した。太平に慣れた中央政府や正規軍は叛軍に対抗しえず、洛陽、長安も占領され、玄宗は四川(しせん)に逃れ、途上で楊国忠と貴妃は激高した兵士により、禍乱の源として血祭りにあげられた。一方、反乱に対抗して顔真卿(がんしんけい)らが義兵をあげ、許遠が陽(すいよう)の守城に死力を尽くすなどにより揚子江(ようすこう)流域を確保した朝は、西北で即位した粛宗(しゅくそう)の指導下に体制の立て直しを図り、叛軍将帥が内訌(ないこう)により安禄山、安慶緒、史思明、史朝儀と次々に交代したのにつけこみ、回(かいこつ)(ウイグル)の援兵を頼って乱の平定にこぎ着けた。しかし10年近いこの動乱を通じ前期の支配体制は決定的打撃を受け、律令制的人民支配は全面的に破綻(はたん)し、在地勢力による軍事的割拠が表面化した。さらに反乱討伐に辺防軍が動員されたすきをついて、外族が軍事的に優勢を占め、吐蕃が河西を席巻(せっけん)して一時長安まで侵入し、の勢力は西域からまったく駆逐された。漠北では突厥にかわった回が全盛となり、への兵馬援助につけこみ回人が華北に進駐し、また絹馬交易を通じ経済的に朝を苦しめた。西南では南詔がしばしば侵入の勢いを示し、8世紀後半以降はそれまでの族優位が全面的に逆転し、辺諸民族の積極的活動期を迎えた。[池田 温]
節度使の台頭
安史の乱中に内地各所にも兵権を握る節度使が列置され、民政をつかさどる観察使などを兼ね、文人を幕下に召すとともに、牙(衙)(が)軍を中核とし鎮将以下の出先機関を設け、強力な支配権力を築いてしばしば朝に反抗するようになった。財政的にも両税の過半を留使・留州として保留し、中央へは3分の1しか上供せず、また領内でかってに通関商税などを賦課しながら、兵士の軍糧を中央に強要するなどして朝を窮迫させた。なかでも反乱の本拠となった河朔(かさく)地方の博(ぎはく)・幽州・徳の三鎮では藩帥の世襲が実現し半独立地帯となった。かくて中以降は王朝中央権力と有力藩鎮の対立抗争が政治・軍事の主流となり、徳宗の宥和(ゆうわ)策にかわって憲宗の強圧策が採用され、は関中と江南などをおもな地盤としてなお1世紀存続した。[池田 温]
古代帝国のたそがれ
中央では三省六部が形骸(けいがい)化し、翰林(かんりん)学士ら内の権力が外朝に拮抗(きっこう)し、そのうえ、皇帝に近侍する宦官(かんがん)が政治的実権を握り、神策軍(北衙(ほくが)禁軍の一)を率い、監軍使として出征軍を監察するなど兵権にさえ関与するようになった。中・晩の皇帝はみな宦官の擁立により帝位に上ったので、「定策国老」「門生天子」(宦官が試験官にあたる国家の老で、天子は彼らに及落を決められる受験生の意)といわれた。かかる情勢下に中央官僚は科挙を媒介として党派をつくり、名高い牛李の党争が起こり、流動的な職任や行政方式が目だつようになり、(そう)以後の中世的官僚支配への傾斜を示した。盛以前に比し国勢規模は減半し中央の権威も対的に衰えたが、陸贄(りくし)、裴度(はいど)、李徳裕、牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)ら著名な宰が輩出し、在地に根を張る地主土豪層や富商・知識人らと連係を深め、朝の維持に努め、憲宗の和年間(806~820)や宣宗の大中年間(847~859)のような中興をうたわれる安定期を生み出した。これら外朝の官僚と宦官の抗争は甘露の変(835)のような政変を挟みながら末に及んだ。地方では揚子江沿いの揚州や四川盆地の都、華南の広州など、交通貿易の要衝は非常な繁栄をみせ、貨幣流通も農山村に浸透し、塩をはじめ茶・酒に及ぶ専売の利益が財政収入の主流となり、城市の伝統的市制が崩れて営業の自由が増すといった変化が静かに進行し、社会経済面でも中世的様が漸次姿を現した。
 藩鎮は兵士の給養のため過酷な収奪を管内の農民・商人に加えたので人民の怨嗟(えんさ)は深まり、軍隊では下剋上(げこくじょう)の紛乱が後を絶たず、政治権力の分散多化は政局をますます混迷に陥れた。やがて裘甫(きゅうほ)・(ほうくん)の乱を経て僖宗(きそう)の乾符年間(874~879)に至り、災害の飢饉(ききん)も伴い、ついに王仙芝(おうせんし)・黄巣の大農民反乱が起こり、流寇(りゅうこう)が全国的規模で移動しつつ広範な民衆を抵抗に立ち上がらせた。専売に苦しむ住民と連帯関係にある私塩の徒がこの乱の中核となり、下級兵士や飢民を加えて一時は長安を占領し天下に号令する勢いをみせたものの、有力藩帥、とくにトルコ系沙陀(さだ)族出身の李克用らが僖宗に従って討伐に力を尽くしたので、内部分裂もあって農民軍は瓦解(がかい)した。その後は黄巣の部下で(べん)州の要地を押さえた朱温(のち五代後(こうりょう)の太祖)の勢力が強まり、やがて宦官を一網打尽にして実権を握り、ついにの禅を受けて五代の局面に移行した。[池田 温]
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律(刑法)、令(れい)(行政法)、格(かく)(律令を補訂する勅令集)、式(官庁の例規・書式)が整備され、正一品(せいいっぴん)~従九品(じゅうきゅうひん)の流内、流外、雑任の3段階よりなる身分官人制を基軸としたの支配体制は、優れて法規の体系性と形式的整合性を備え、一貫した文書主義により統治技術として実効をあげ、辺の東アジア諸国にまで継受された。皇帝の命令たる詔勅の起草にあたる中書省、上奏・詔勅案の審査検討に任ずる門下省、そして吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)とそれを統括する左右司の都省よりなる行政中枢としての尚書省、以上三省を中心に、九寺、五監などの中央行政官庁、十二以下の近(きんえい)軍、全国10~15道の約300府州、千数百県に及ぶ地方行政機構と約600の折衝府(せっしょうふ)を通じ、帝国支配の貫徹を期した。盛の登籍戸数1000万に近く、人口5000万を数える大帝国は、流内京官二千数百人(うち五品以上の貴族官人約300人)、流内の外官一万数千人、流外その他下級吏員内外計五万数千人、そして底辺の雑任など職掌人約30万人の定員で統治されるたてまえであった。
 国政を総括し政策決定を行う宰には、初は三省の長官が任じ、盛では中書門下の政事堂で皇帝の委任を受けた数名の高官が同平章事などの銜(かん)を帯び合議により政務を決した。安史の乱後、前期の三省六部二十四司の機構は漸次形骸化し、臨時の差遣により任ぜられる使職が達し、ことに財政は判戸部、度支使、塩鉄使の三者を中心に運用され、やがてこれらが合体して五代には三司使が立した。官人任用には、詩賦(しふ)の文才をおもに試験する進士科が重視され、父祖の官品による蔭(おん)の出身や経書の暗記を主とする明経科を押しのけるようになり、後期の宰や学士の主流は進士出身者が占めるようになった。安史の乱後は、節度使以下の使職の辟召(へきしょう)(人材を招いて部下に任命すること)による任用が一般化し、さらに公課や役務を免れるため、商人・土豪などが官庁に名目的ポストを占める影庇(えいひ)さえ盛行をみるに至る。
 州県郷里を通ずる人民支配の網の目は全国を覆い、100戸1里、5里1郷を基準に毎年戸主の申告に基づいて計帳をつくり、また3年ごとに全戸口と各戸の已受田土(いじゅでんど)を網羅する戸籍を作製して中央に申報させた。丁(せいてい)を中心に一定面積の田土を班給する均田制が定められ、それに対応して丁男1人当り毎年粟(あわ)2石(租)と絹2匹(8丈)、綿(まわた)3両あるいは麻布2端(10丈)、麻糸3斤(庸調)を徴収する税制が行われた。給田は一部の地域を除き実施困難であったにもかかわらず、徴収は実現された。両京を中心とする折衝府配置地域では3丁に1人の割で府兵が差点され、交代で首都の宮警備に上番し、また国境の防備に派遣された。地方州県では年間50日(一説40日)以内の力役が雑徭(ざつよう)として丁男と中男に課された。これら前期の諸制度は盛期に崩れ、780年に租庸調廃止と両税法の制定により大転換を遂げた。これにより課税対象は人丁から田地にかわり、従来すべて中央の差配にまった集権的財政は、以降在地の自主性が強化され、地方の留州・留使と上供に三分され、節鎮の分立の形勢に対応した。後期の蕃鎮の分立抗争は重税をもたらしたが、同時に特産品の生産を促し流通経済や貿易も達し、州窯・銅官窯の陶磁器、徽(き)州や(しょく)の紙・文具、并(へい)州の鉄、華南の銅など重要産業の長をみた。[池田 温]
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古代王朝文化の完を迎えた代は、宗教・文学・美術各分野に多彩な黄時代であった。初の『五経正義』欽定(きんてい)により、経学は思想的生命力の枯渇を免れなかったのに対し、伝訳の充実を背景として仏教は最高の人材を輩出し、吉蔵(きちぞう)の三論、智(ちぎ)の天台、玄奘(げんじょう)の法(ほっそう)、道宣の律、法蔵の華厳(けごん)、善導の浄土と多彩な中国的教学体系を産出し、8世紀以降は南北の禅宗諸派が旺盛(おうせい)な活動を展開した。室の庇護(ひご)を得た道教も玄宗の天宝期をピークに伸張し、釈蔵に倣って道蔵を編するに至る。後世への影響のとくに大きかったのは文学で、詩は中国文学の精華とされ、李白(りはく)、杜甫(とほ)、王維(おうい)、白居易(はくきょい)ら大詩人が競い起こり、今日まで5万首近い作品を伝存する。また中愈(かんゆ)、柳宗(りゅうそうげん)らが六朝以来の修辞技巧の勝った駢文(べんぶん)を排し、達意の古文を鼓吹してからしい文風が広まり、同時に伝奇小説も流行し、庶民教化をねらう語物(変文)の普及がみられ、より広い階層に文学が受け入れられるようになった。中以降社会の変質に呼応して文化にも傾向が芽生え、もっとも伝統的な経学にあっても経典に対する批判的検討が柳宗らを先駆けとしておこり、また李(りこう)らによる禅家思想の摂取融合は、学の源流となった。学術面でも、制度史の範をなす杜佑(とゆう)の『通典(つてん)』や、賈耽(かたん)の地志地図が生まれ、絵画も前代の彩色絢爛(けんらん)たる壁画にかわり、心意を重んずる単色の水墨技法が達し小品の鑑賞が広まり、書法も初に虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゅん)、遂良(ちょすいりょう)により古典的完をみた流れが、顔真卿に至って均整より意志的表現が目だってくる。文化の担い手が貴族から士大夫(したいふ)、さらに富裕な庶民に広がるにつれ、その性格も変質を示した。
 他方代は東西文化交流の最盛期にあたり、侍の質子や使節・蕃将をはじめ来華外人もおびただしく、両京や主要都市に雲集し、仕官して顕著な事績を残した者も少なくない。凹凸画で名高い尉遅(うっち)氏父子や、インド暦法の瞿曇悉達(くどんしった)、密教を伝えた善無畏(ぜんむい)、不空三蔵はその代表であり、日本の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(朝衡)も高官に上り、王維、李白ら詩人と交わり、歴史に名を残している。
 初にササン朝ペルシアから王子が亡命してきたほか、中央アジアを経て(けん)教(ゾロアスター教)、波斯(はし)教(マニ教)、景教(ネストリウス派キリスト教)の西方3宗教が伝えられ、長安はじめ、若干の都市に夷(い)寺が建設され、マニ教、景教の教典が訳された。これら外教は在留外人の庇護下に栄えたが、9世紀の会昌の廃仏で大弾圧を被り、表面から姿を消した。イスラム圏との交渉が南海貿易を通じ深まると、広州などに蕃坊とよばれるイスラム商人居住区ができた。そのほか音楽、舞踏、雑戯、飲食など生活に密着した諸文化に外来要素が豊富に取り込まれ、エキゾチシズムの盛行が著しい。[池田 温]
『布目潮・栗原益男著『中国の歴史 4 帝国』(1974・講談社) ▽日比野丈夫編『図説中国の歴史 4 華麗なる帝国』(1977・講談社) ▽D. Twitchett ed. The Cambridge History of China vol. 3, Sui and T'ang. Part 1 (1979, Cambridge Univ. Press.)』
[参照項目] | 遣使 | 中国美術 | 日中交渉史 | 東アジア世界
[年表] | の時代(年表)

(李氏)/略系図

の版図(669年)

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精選版 日本国語大辞典の解説
〘自バ上二〙 風である。中国風である。めく。
※風姿花伝(1400‐02頃)二「何となくからびたるやうに、よそ目に見なせば、やがてそれになるなり」
[一] 中国の国名、王朝名。
のあとを受けて中国を統一した王朝(六一八‐九〇七)。高祖(李淵)から哀帝まで二〇世。都は長安。科挙制度をとり、三省六部を整え、律令体制を完。均田法・租庸調制を施行。太宗・高宗から玄宗の初期の時代までが最盛期で、突厥・高句麗を破り、西域・ペルシア・南海・インドとも交通し、国際色豊かな文化を生んだ。安史の乱以後は財政の窮乏と異民族の侵入に苦しみ、租庸調制にかえて両税法を採用、財政難を救おうとしたが、黄巣の乱によって衰亡、後の太祖(朱全忠)に滅ぼされた。
② 五代の一つ(九二三‐九三六)。通称、後突厥の李存勗(りそんきょく)が後を滅ぼして建国。都は洛陽。後晉の高祖(石敬瑭)に滅ぼされた。
五代十国の一つ(九三七‐九七五)。通称、南の李昪(りべん)の建てた国。都は陵(南京)。揚子江下流域を領有。に併合された。
[二] 転じて、一般に中国または中国本土のこと。後には、広く外国をさしてもいった。から。
尋母集(1073頃)「たうにこたい山といふところに、文珠のおはしましけるあとの」
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旺文社世界史事典 三訂版の解説

の高祖(李淵)がの滅亡後に建てた国618〜907
②五代の2番目の王朝 923〜936
五代十国の1つ 937〜975
都は長安。次の太宗(李世民)が国内を統一し,内に制度を定め,外には領土を広め,朝の基礎を固めて貞観 (じようがん) の治を現出。第3代高宗の没後,その皇后武氏(則天武后 (そくてんぶこう) )は中宗・睿 (えい) 宗を廃して帝位につき,国号を(武)と改めた。のち復位した中宗の皇后韋氏 (いし) (韋后 (いこう) )もまた権勢をふるった。合わせて武韋 (ぶい) の禍という。韋后を粛正して即位した6代玄宗は,初め政治に精励し,開の治という盛世を現出したが,晩年,楊貴妃 (ようきひ) を寵愛し,楊一族を重用して政治を乱し,安史の乱を招いた。この大乱で国内は荒廃し,室の権威は失われて節度使(藩鎮)が勢力を増し,地方で半独立化するとともに,ウイグル・吐蕃 (とばん) の中国侵入も始まった。また朝内部では,宦官 (かんがん) の専横と官僚の党争により,政治は乱れ,社会不安が高まった。875年黄巣 (こうそう) の乱が起こると,多くの農民が加わり,884年に鎮定されたが,この機に乗じて藩鎮勢力が強化され,907年節度使のひとり朱全忠(後 (こうりよう) の太祖)により,は皇帝20代290年で滅亡した。は古来の制度を集大して律令体制を確立し,中書・門下・尚書3省と六部 (りくぶ) の制を整備した。また均田制を基礎として租庸調・府兵制を施行したが,安史の乱を契機として均田制はくずれ,両税法・募兵制に移行した。経済面では農業生産力が著しく向上するとともに,手工業・商業も達した。文化的には南北の文化が融合し,外来文化を加え,国際的・貴族的文化の熟期を迎えた。
通称は後 (こうとう) 。
通称は南。十国中最強をほこった。
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旺文社日本史事典 三訂版の解説
中国,に続く統一王朝(618〜907)
都は長安。李淵 (りえん) (高祖)が末の反乱を平定して建国。のあとをうけて均田制を基盤とする中央集権国家体制を確立,外征によってその領土を拡大し,大帝国となった。辺の諸国家は,その律令体制や国際色豊かな文化から多大な影響をうけた。日本は630年以後しばしば遣使を派遣して,文化の摂取につとめ,律令制的中央集権国家を建設し,白鳳・天平の文化が開花した。8世紀中ごろの安史の乱後,藩鎮(節度使)が台頭し,黄巣の乱を経て滅亡した。
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世界大百科事典内のの言及
】より

…首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北王室の宇文氏,王室の楊氏とともに,北が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,の政治と制度には北のそれらを継承するものが多い。朝の国号は,李淵の祖父李虎がの太原郡にあたる国公の封爵を北より受け,また李淵がより王に進封されたことに由来するという。…

【地主】より
…〈地主(ちしゆ)〉という語そのものは近代以前の文献に見られるものの一般的ではなく,むしろ他の呼称が普及しており,それが本格的に用いられるようになったのは1920年代の現代農民運動以来のことである。
以前]
 すでに春秋末期から戦国時代,前5世紀前半から前3世紀後半にかけ,各国の卿(けい),大夫(たいふ),士などの支配階級が国君からの賜与やみずからの武力行使によって私的に土地を領有しており,商人や地方の豪民の私的大土地所有も存在した。代とくに後漢では,地方における有力豪族の大土地所有が達し,自営の小経営農民の土地所有と,年長者の統率する地域の在来の共同体の存立とをおびやかした。…

※「」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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