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東周

東周

前770年、周王朝が都を洛邑に遷してから、滅亡した前256年までをいう。
が都を渭水流域の鎬京においていた時期を西周というのに対して、東方の洛邑に都を遷したの東遷の以降を東周という。王室の実質的な支配権は失われ、封建諸侯の自立が著しかったが、特にその前半の前403年までを春秋時代、後半を戦国時代という。王室は戦国時代には一地方政権に過ぎない存在となっていたが、それも前256年にに滅ぼされ、の時代は名実共に終わる。(東周の滅亡年代は249年説もある。)

東周(前770~前256)]

西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
平王(姫宣臼)-桓王(姫林)-荘王(姫佗)-釐王(姫胡)-恵王(姫閬)-襄王(姫)-頃王(姫壬臣)-匡王(姫班)-定王(姫瑜)-簡王(姫夷)-霊王(姫心)-景王(姫貴)-悼王(姫猛)-敬王(姫カイ)-王(姫仁)-定王(姫介)-哀王(姫去疾)-思王(姫叔)-考王(姫嵬)-威烈王(姫午)-安王(姫驕)-烈王(姫喜)-顕王(姫扁)-慎靚王(姫定)-赧王(姫延)
の平王(?~前720)
  姓は姫、名は宣臼。在位前771~前720。の幽王(姫涅)の子。申侯や侯や許の文公らによって雒邑(洛陽)で王に立てられた。の武公と荘公の父子を卿士に任じて、王室の政をつかさどらせた。またの襄公を諸侯として封じた。の東遷以後、朝の実力は衰退し、といった実力ある諸侯を統制できなくなった。
の桓王(?~前697)
  姓は姫、名は林。在位前720~前697。洩父の子。平王(姫宣臼)の孫にあたる。平王が崩ずると、即位した。の荘公を礼遇しなかったため、は勝手にと許の田を交換した。十三年(前707)、桓王はの王師との軍を率いてを討ち、繻葛で戦ったが敗れ、弓矢に当たって肩を負傷した。
の荘王(?~前682)
  姓は姫、名は佗。在位前697~前682。桓王(姫林)の子。桓王が崩ずると即位した。三年(前694)、公黒肩が王子克を立てて王を謀殺しようと図ったので、王は公を殺し、王子克はに逃れた。
の釐王(?~前677)
  僖王ともいう。姓は姫、名は胡。在位前682~前677。荘王(姫佗)の子。荘王が崩ずると即位した。釐王の代にの桓公が覇者となった。四年(前678)、諸侯が幽で会し、ともに王室を立てることを誓い合った。同年、邾国の克を子爵に封じ、邾子と称させた。
の恵王(?~前652)
  姓は姫、名は閬。在位前677~前652。釐王(姫胡)の子。釐王が崩ずると即位した。異母弟の穨と反目し、穨の臣下の庭を取りあげて鳥獣を飼う園とした。二年(前675)、蔿国・辺伯・詹父・子禽・祝危の五大夫が乱を起こし、の兵を招いた。恵王は温に逃げ、翌年にはの櫟にうつった。穨は王を称したが、・虢に討たれた。恵王は・虢に迎えられて都に帰った。十年(前667)、の桓公を侯とし、を討たせた。恵王は叔帯を後継としたいと考えていたが、二十二年(前655)、の桓公が諸侯と会し、姫(のちの襄王)を太子とするよう定めさせた。
の襄王(?~前619)
  姓は姫、名は。在位前652~前619。恵王(姫閬)の子。恵王が崩ずると即位した。異母弟の叔帯が戎翟とはかって叛き、叔帯は敗れてに逃れた。王はの管仲を礼遇しようとしたが、辞退された。が王の臣の遊孫・伯服を捕らえたので、王は翟の兵をもってを討ち、翟人の后を迎えた。王が翟后をしりぞけると、翟が来襲し、これに乗じて叔帯が再起したため、王はに逃れた。の文公(重耳)が王を立てて叔帯を誅すと、返り咲いた。の文公が王を招き、河陽で会見すると、諸侯はことごとく入朝した。
富辰(?~前636)
  の襄王の臣。襄王が翟の兵を引き入れてを討とうとするのを諫めた。また襄王が娘を翟君にとつがせようとするのを諫めた。翟人がを襲うと、「しばしば王を諫めたが聞き入れられなかった」との言葉を残して、一族を率いて奮戦し、戦死した。
の頃王(?~前613)
  姓は姫、名は壬臣。在位前619~前613。襄王(姫)の子。襄王が崩ずると即位した。公閲と王孫蘇が政権を争ったが、王は問題を解決するに無力だった。
の匡王(?~前607)
  姓は姫、名は班。在位前613~前607。頃王(姫壬臣)の子。頃王のとき、公閲と王孫蘇が政権を争った。姫班は王孫蘇を支持することを約束して即位した。しかし即位後は公閲の立場を立てようとし、大夫の尹氏と聃をの霊公のもとに派遣した。盾を遣わして王室の内紛を調停させた。三年(前610)、戎人が王都を侵したので、大夫甘歜に迎撃させてこれを破った。
の定王(?~前586)
  姓は姫、名は瑜。在位前607~前586。頃王(姫壬臣)の子。匡王(姫班)の弟にあたる。匡王が崩ずると即位した。年(前606)、の荘王が軍を率いて陸渾の戎を討ち、王都の郊外までいたった。定王は王孫満を遣わしての労をねぎらわせたが、王に鼎の軽重を問われたため、王孫満は「の徳は衰えたといえども、天命は未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問うべからず」と応答して言い逃れたので、の軍は去った。
の簡王(?~前572)
  姓は姫、名は夷。在位前586~前572。定王(姫瑜)の子。定王が崩ずると即位した。六年(前580)、は王族との折り合いが悪く、伯輿と政権を争って敗れて、陽樊に出奔した。簡王は劉康公を遣わしてに戻らせた。三日後、は再び出奔してに行った。同年、温邑の田土をめぐっての郤至と争った。王は劉康公・単襄公をに遣わして争訟させた。ふたりは郤至を論破して、の厲公は郤至に争うのをやめさせた。
の霊王(?~前545)
  姓は姫、名は心。在位前572~前545。簡王(姫夷)の子。簡王が崩ずると即位した。九年(前563)、伯輿と王叔生が卿士の地位を巡って争うと、霊王は伯輿に味方したため、王叔は怒って出奔した。霊王は王叔の憎む史狡を殺して謝罪したが、王叔はに入らなかった。の悼公が范宣子を遣わして調停させると、王叔の宰と伯輿の大夫瑕禽が王庭で対決した。王叔側は証拠を提出できず、王叔はに亡命した。単靖公が卿士となって王を補佐した。十四年(前558)、の公女を迎えて后とした。
の景王(?~前520)
  姓は姫、名は貴。在位前545~前520。霊王(姫心)の子。霊王が崩ずると即位した。后と太子寿を早くに失った。子朝を愛して位を継がせようとしたが、果たさないまま亡くなった。
の悼王(?~前520)
  姓は姫、名は猛。在位前520。景王(姫貴)の子。景王が崩ずると即位した。子朝に攻められて殺された。
子朝(?~前505)
  王子朝とも。景王(姫貴)の子。景王が崩ずると、悼王(姫猛)が立てられたが、これを殺して自立した。人に擁立された敬王(姫匄)と並立した。敬王四年(前516)、軍に攻められ、召伯盈の裏切りで追放された。の典籍を持ち出してに亡命した。十五年(前505)、で暗殺された。
の敬王(?~前476)
  姓は姫、名は匄。在位前520~前476。景王(姫貴)の子。悼王(姫猛)が殺されると人に擁立された。子朝のために都に入ることができず、狄泉にあった。四年(前516)、が諸侯を率いて敬王を都に入れ、子朝はに逃れた。諸侯がの都城を築いた。十五年(前505)、を破ったのに乗じて人を遣わして子朝を暗殺させた。翌年、子朝の余党が叛くと、またに逃れた。十七年(前503)、の定公が王をに入らせた。
王(?~前469)
  姓は姫、名は姫仁。またの名は赤。在位前476~前469。敬王(姫匄)の子。敬王が崩ずると即位した。
の定王(?~前441)
  姓は姫、名は介。在位前469~前441。王(姫仁)の子。王が崩ずると即位した。十六年(前453)、が知伯を滅ぼし、その地を三分した。かれらが事実上の諸侯となったが、王は制御することができなかった。王の死後、諸子があい争闘し、王室の勢力はますます衰えた。
の哀王(?~前441)
  姓は姫、名は去疾。在位前441。定王(姫介)の子。定王が崩ずると即位した。在位三カ月で弟の姫叔に殺された。
の思王(?~前441)
  姓は姫、名は姫叔。在位前441。定王(姫介)の子。哀王(姫去疾)の弟にあたる。哀王を殺して自立した。在位四カ月で弟の姫嵬に殺された。
の考王(?~前426)
  姓は姫、名は嵬。在位前441~前426。定王(姫介)の子。哀王(姫去疾)や思王(姫叔)の弟にあたる。思王を殺して自立した。弟を河南に封じて桓公とし、公の職を継がせた(西周)。
の威烈王(?~前402)
  姓は姫、名は午。在位前426~前402。考王(姫嵬)の子。考王が崩ずると即位した。二十三年(前403)、斯・籍・虔を諸侯とした。
の安王(?~前376)
  姓は姫、名は驕。在位前402~前376。威烈王(姫午)の子。威烈王が崩ずると即位した。十六年(前386)、の田和を諸侯とした。
の烈王(?~前369)
  姓は姫、名は喜。在位前376~前369。安王(姫驕)の子。安王が崩ずると即位した。室はますます衰え、諸侯は入朝しなかった。
の顕王(?~前321)
  姓は姫、名は扁。在位前369~前321。安王(姫驕)の子。烈王(姫喜)の弟にあたる。烈王が崩ずると即位した。五年(前364)、が石門でに大勝し、王は祝い、の献公が覇を称した。二十五年(前344)、諸侯が逢沢に会した。四十四年(前325)、の恵文王が王を称すると、諸侯は次いで王を称するようになった。
の慎靚王(?~前315)
  姓は姫、名は定。在位前321~前315。顕王(姫扁)の子。顕王が崩ずると即位した。
の赧王(?~前256)
  姓は姫、名は延。在位前315~前256。慎靚王(姫定)の子。慎靚王が崩ずると即位した。都を鞏にうつし、西周の武公の庇護を頼った。五十九年(前256)、の陽城を取ると、西周はおそれてにそむき、諸侯とともに陽城を封鎖した。の昭王は怒って将軍摎を遣わして西周を攻めさせた。西周君はに降り、赧王もまもなく没した。ここにの天子は名実ともに滅んだ。の荘襄王の年(前256)、東周を滅ぼすと、はここに滅んだ。
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