0o0dグッ

(読み)てい(英語表記)Zheng; Chêng
字項目 Zhèng
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,代の諸侯国の一つ (前 806~375) 。姫 (き) 姓。の 厲 (れい) 王の子の桓公が兄の宣王によって宣王 22 (前 806) 年に (陝西省) に封じられたのが始りで,桓公はの幽王とともに犬戎 (けんじゅう) に殺されたが,その子武公は平王とともに東遷し,の藩屏 (はんぺい) として (河南省) に移った。前8世紀後半の荘公の頃盛んとなり,王室を圧迫した。その後,厲公7 (前 673) 年の王子たいの乱にはの王を救ったこともあった。隣国との対立が激しかったうえ,の衝突が繰返されるに及んで両国からも圧迫され,苦しい状況に追込まれた。春秋時代後期に簡公が子産を用いて各種の制度を改革し,国内の貴族の紛争を処理し,外交面では両国の圧迫を巧みに排除して国家の保全に功したが,子産の死後はふるわなくなり,の侵入を絶えず受けながら,康公 21 (前 375) 年の哀侯に滅ぼされた。
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デジタル大辞泉の解説
中国、春秋時代の列国の一。の宣王の弟桓公友が、西周末、(陝西(せんせい)省華県)に封じられたのに始まる。のち河南省県に移り、前375年、の哀侯によって滅ぼされた。
[人名用字] [音]テイ(
1 ねんごろ。丁寧。「重(ていちょう)」
2 中国、代の国名。「声」
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世界大百科事典 第2版の解説

中国,春秋時代の侯国。前806年の宣王が弟の友(桓公)を(陝西華県東)に封じたのに始まる。の幽王のとき,桓公はの滅亡を見し,東の(河南県)に遷都することに着手しようとしたが,幽王とともに桓公も犬戎に殺された。その子の武公は東遷したの平王を助け,王室の卿として力を振るった。のち内乱が続き,春秋時代にはとの間にあって,両者の圧迫に苦しんだ。その間,子産が国政を改革したが,退勢を挽回できず,戦国になるとに攻められ,前375年に滅ぼされた。
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大辞林 第三版の解説
中国、春秋時代の諸侯国の一(前806~前375)。の宣王の弟、桓公友を祖とする姫き姓の国。子産が宰のとき、国力は充実したが、その死後衰え、戦国時代の初めにに滅ぼされた。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国、代の諸侯国の一つ。姫姓。の宣王の弟の桓公友(かんこうゆう)が、西周末に(陝西(せんせい)省華県)に封ぜられたのに始まる。桓公はの幽王が犬戎(けんじゅう)に殺されたとき(前771)王に殉じたが、その子の武公はの東遷に従い、(かい)と東(とうかく)の二国を滅ぼして河南省県の地に国を建てた。この武公とその子荘公(そうこう)はの平王の卿士(けいし)となり、の国政を左右した。しかし、荘公の死後内紛が続いて国は衰え、さらに(しん)、(そ)の南北抗争の間にあって帰趨(きすう)が定まらず、かろうじて国を保つ状態であった。紀前6世紀中葉、一族の子産(しさん)が執政となると、その内政外交の手腕によってやや国力を持ち直したが、その死後はますます衰微し、紀前375年、(かん)に滅ぼされた。[江村治樹]
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精選版 日本国語大辞典の解説
中国、春秋時代の侯国(前八〇六‐前三七五)。姫(き)姓。の宣王の弟桓公が(陝西省華県)に封ぜられて立国。のちに(河南省県)に移り、一時国勢を揮したが、内紛のため二一代での哀侯に滅された。
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