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(1636~1912)]
後金,初,康熙期,雍正期,乾隆期,嘉慶道光期,咸豊同治期,光緒宣統期),チベット,ジュンガル部
太祖(ヌルハチ)-太宗(ホンタイジ)-順治帝(福臨)-康熙帝(玄燁)-雍正帝(胤禛)-乾隆帝(弘暦)-嘉慶帝(顒琰)-道光帝(旻寧)-咸豊帝(奕詝)-同治帝(載淳)-光緒帝(載湉)-宣統帝(溥儀)
後金(1616~1636)]
ヌルハチ(1559~1626)
  の太祖⇒。
費英東(1564~1620)
  瓜爾佳氏。1588年、父に従ってヌルハチに帰順し、ヌルハチの孫娘をめとって大紮爾固と尊称された。一等大臣・固山額真に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。統兵治政につとめ、女真各部や明に対する征戦に従って、戦功を挙げた。死後に直義公に追封された。
額亦都(1562~1621)
  鈕祜禄氏。満洲鑲黄旗の出身。代々長白山に住んだ。1583年、ヌルハチに従って起兵した。女真各部や明に対する征戦に従って、しばしば戦功を挙げた。固山額真に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。のちに病没した。崇徳年(1636)、宏毅公に追封された。
安費揚古(1559~1622)
  覚爾察氏。満洲鑲藍旗の出身。1583年、ヌルハチに従って起兵し、女真各部に対する征戦に従って、戦功を挙げた。碩翁科羅巴図の号を賜り、五大臣のひとりとなった。天命年間に明を攻撃し、撫順・瀋陽・陽などの地を奪取するのに功績を挙げた。額亦都とともに開国の功臣の筆頭としてならび称された。
扈爾(1576~1623)
  佟佳氏。満洲正白旗の出身。1588年、父に従ってヌルハチに帰順し、ヌルハチの養子となって侍に任ぜられた。女真各部や明に対する征戦に従って、戦功を挙げ、一等総兵官世職に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。達爾轄の号を賜った。天命六年(1621)、罪をえて、国政から退き、副将に降格された。のち病没した。
額爾徳尼(?~1623)
  納喇氏。満洲正黄旗の出身。代々都英額の地に住んだ。ヌルハチの起兵のときに、帰順した。文・蒙文に通じて、巴克什(学者)の号を賜った。ヌルハチに近侍して、征戦に従った。1599年、命を受けてモンゴルの字母と女真音を合わせて満文(圏点のない満文、老満文)を創始した。天命年(1616)、後金が建てられると、法制の多くはかれの手によってった。功により参将・副将などの職を歴任した。ホンタイジはかれを評して一代の人傑と呼んだ。のちに命に違反したため殺された。
何和礼(1561~1624)
  棟鄂氏。満洲正紅旗の出身。1588年、部衆を率いてヌルハチに帰順し、ヌルハチの長女をめとって、棟鄂額駙と尊称された。しばしばヌルハチの征戦に従軍し、固山額真・一等大臣に任ぜられ、五大臣のひとりとなった。
達海(1595~1632)
  覚爾察氏。満洲正藍旗の出身。満の文字に通じ、後金と明・朝鮮・モンゴルの間の文書の往来は多くかれの手によってった。天聡初年、値文館に入り、文書籍を翻訳した。天聡六年(1632)、満文字体の改定にあたり、十二字頭を増し、圏点を加えて、満文あるいは圏点満文と称した。
マングルタイ(1587~1633)
  莽古爾泰。太祖ヌルハチの五男。後金の天命年(1616)、和碩貝勒に封ぜられ、正藍旗を統括した。四大貝勒のひとりとなる。序列三位で三貝勒と称された。サルフの戦いに従軍し、またイェヘ部を討滅し、モンゴルを攻め、瀋陽・陽などの戦役に従って、しばしば軍功を立てた。天聡五年(1631)、太宗ホンタイジによる大貝勒抑制の対象となり、五牛録を奪われ、一万両の罰銀を受けた。のちに病没した。死後に貝勒位を削られ、宗室の籍と爵位を剥奪された。
李永芳(?~1634)
  東鉄嶺の人。明の撫順游撃。万暦四十六年(1618)、後金に降った。太祖ヌルハチにより三等総兵官に任ぜられた。明の巡撫王化貞らが彼を招撫しようとしたが、応じなかった。太宗が即位すると、アミンに従って朝鮮を攻めた。
揚古利(1572~1637)
  舒穆禄氏。満洲正黄旗の出身。幼くして父に従ってヌルハチに帰順し、額駙となった。女真各部や明に対する征戦に従って、戦功を挙げ、左翼兵の統括を命じられ、一等総兵官に任ぜられた。崇徳二年(1637)、太宗ホンタイジが朝鮮を攻めるのに従い、戦後に戦場を巡視していたところを朝鮮兵に射殺された。武勛王に追封された。
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⇒歴代皇帝(,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,明,
(1636~1912)]
ヌルハチ(1559~1626)
  姓はアイシンギョロ(愛覚羅)、名はヌルハチ(努児哈赤)。追尊しての初代太祖。タクシ(塔克世)の子。建州女真のスクスフ部の首長の子として生まれた。十九歳のとき、家を出て、明の将軍の李に従い、才覚を認められた。万暦十一年(1583)、ヌルハチの祖父と父が、李に従って戦ったが、明軍に誤殺された。そのため建州左都指揮使を継いだ。李のはからいで明の左都督・龍虎将軍となった。海西女真の内紛により力をつけ、万暦十七年(1589)には建州女真五部を統一した。その後、海西女真のハダ部・ホイファ部・ウラ部を次々と征服した。万暦四十四年(1616)、ヘトゥアラでハーン位に就き、国号を大とした(後金、アイシン・グルン)。天命と建し、軍事組織を八旗に編した。天命三年(1618)、七大恨を挙げて明朝にそむいた。撫順の戦い、サルフの戦いで明軍に大勝し、海西女真最強のイェヘ部も平定した。天命六年(1621)には瀋陽・陽を落とし、天命十年(1625)には瀋陽に遷都して盛京と改名した。寧遠を攻撃して明の将軍の袁崇煥のために敗退し、そのとき受けた砲弾による負傷がもとで死去したという。
ホンタイジ(1592~1643)
  名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。の第二代太宗。在位1626~1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年(1626)、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・軍八旗をたに編した。天聡九年(1635)、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大皇帝の位につき、国号を大、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改した。崇徳五年(1640)、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関をえることなく翌年に没した。
フリン(1638~1661)
  福臨。の三代順治帝。廟号は世祖。法名は行痴。号は痴道人、太和主人。在位1643~1661。太宗(ホンタイジ)の九男。崇徳八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位についた。叔父の親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治年(1644)、呉三桂の先導により軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、人に弁髪を強要した。二年(1645)、親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木忞らを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。翌年、病のため養心殿で崩じた。
玄燁(1654~1722)
  の四代康熙帝。廟号は聖祖。在位1661~1722。順治帝(福臨)の三男。順治十八年(1661)、八歳で即位。翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、康煕三年(1664)には大順軍(李自)の残党も一掃した。八年(1669)、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。十二年(1673)に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。海上では氏海軍を破り、台湾を占領。二十八年(1689)、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。運河交通や黄河の治水に意を用いて治績をあげ、六回にわたって江南への巡幸をおこなった。文字の獄によって思想統制をおこなう一方、『全詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大会典』『古今図書集』などを編纂させた。西洋の技術や自然科学にも造詣が深く、フェルビーストらを用いて暦法を制定させた。皇太子允礽を四十七年(1708)に廃し、まもなく再び立て、また廃した。後継者をめぐる諸子の間の争闘は激しくなり、帝は皇太子の選択に悩んで、太子密建を創始した。六十一年(1722)、病のため暢春園で崩じた。一説に四男の胤禛(雍正帝)に毒殺されたともいう。康煕年間は代でも乾隆年間とならぶ盛時とされ、康煕帝は中国の歴代王朝を通じて有数の名君とされる。
胤禛(1678~1735)
  の五代雍正帝。廟号は世宗。在位1722~1735。康熙帝(玄燁)の四男。康煕三十七年(1698)に貝勒に封ぜられ、四十八年(1709)に雍親王となった。熾烈な後継者争いに勝ち抜き、六十一年(1722)に即位した。軍機処をもうけて、内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して、税収を安定化させた。対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。施政は厳格で、近臣や弟であっても処刑・処罰をおこなったという。為政者の義務を果たすために一日四時間しか眠らず、全国の官僚に内密の上奏文を提出させて、地方政治を監督する独特の「奏摺政治」を展開した。中国の独裁君主の典型とされており、その評価は褒貶二分されている。
弘暦(1711~1799)
  の六代乾隆帝。廟号は高宗。十回の遠征に功したため、十全老人と号したという。在位1735~1795。雍正帝(胤禛)の四男。雍正十一年(1733)、和碩宝親王に封ぜられた。十三年(1735)、雍正帝が崩ずると、帝位についた。即位後、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを討ち、大小ホージャの乱を平定して疆をおさめた。チベットを安定させるため、「欽定西蔵章程」を公布して民政・軍事の権力を駐蔵大臣に委ねた。また雲南、ビルマ、台湾などに遠征し、これによって清朝の最大版図を形した。寧波・厦門・雲台山を閉港し、西洋との交易を広州一港に制限した。英国の使節マカートニーの通商の要求もことごとく拒否した。文化面では『四庫全書』を編纂させ、一代のうちに完させた。また多くの文化財を蒐集して紫禁城に集めた。しばしば巡遊をおこない、馬上朝廷の称もあった。土木工事を好み、多くの人力財力を消費した。帝個人はさまざまな濫費を好んだが、かれの治世は銀の入超に支えられて、前代に類をみない好景気の時代であり、清朝の最盛期であった。在位六十年で退位して嘉慶帝に譲り、太上皇帝となった。その後の三年間、院政を布いた。晩年は和珅を信任して国政が乱れ、白蓮教の乱が起こった。『楽善堂詩文全集』。
顒琰(1760~1820)
  の七代嘉慶帝。廟号は仁宗。在位1796~1820。乾隆帝(弘暦)の十五男。乾隆五十四年(1789)、嘉親王に封ぜられた。六十年(1795)、皇太子に立てられた。翌年、父帝に譲られて帝位についた。父が太上皇となり引き続き執政し、和珅が国政を専断した。嘉慶四年(1799)、父太上皇が崩ずると、親政をはじめた。和珅を逮捕して獄に下し、二十大罪を数えて、自殺を迫った。湖北・四川で起こった白蓮教徒の叛乱は五省に波及し、足かけ九年この鎮圧のために全力を尽くした。まもなく牽・朱濆の乱が東南海上で起こり、北方で天理教の乱が起こって京師に迫った。乾隆中期以後、軍紀はゆるみ、軍費は増大し、官僚の汚職はきわまり、連年にわたって黄河が氾濫し、運河の交通も滞って、財政は悪化の一途をたどった。貿易収支も悪化して、嘉慶期には銀の出超となり、デフレによる賦税の実質増によって農民を苦しめた。二十五年(1820)、熱河の避暑山荘で崩じた。
旻寧(1782~1850)
  の八代道光帝。廟号は宣宗。在位1820~1850。嘉慶帝(顒琰)の次男。嘉慶二十五年(1820)八月、帝位についた。道光六年(1826)、ジハーンギールがカシュガル・ヤルカンドを占領し、台湾では黄文淵が乱を起こした。このころ、天災や政治腐敗や重税が重なり、農民の叛乱や少数民族の反抗が次いだ。十八年(1838)、林則徐を欽差大臣に任じて広東におもむかせ、アヘンの吸引と販売を厳禁させた。二十年(1840)、イギリスがアヘン戦争をしかけ、舟山島の定海を占領した。のちに英軍は、広州虎門の砲台を激戦の末落とし、鎮海・寧波・乍浦を陥落させ、南京を攻撃した。二十二年(1842)、和平派の耆英が欽差大臣となって、英との間に南京条約が結ばれ、香港の割譲、五港の開港、賠償の支払いが約された。二十四年(1844)、米との間に望厦条約が、仏との間に黄埔条約が結ばれて、治外法権を認めさせられた。三十年(1850)、病のため崩じた。
奕詝(1831~1861)
  の九代咸豊帝。廟号は文宗。在位1850~1861。道光帝(旻寧)の四男。道光三十年(1850)、道光帝が崩ずると、帝位についた。咸豊年(1851)、太平天国の乱鎮圧のため兵を派遣したが、たびたび敗北した。三年(1853)、曾国藩ら族の郷紳を起用して団練を編させ、蕭順らを任用して財政を改革させた。六年(1856)、英仏がアロー戦争を仕掛けると、対外妥協的態度を取った。八年(1858)、露との間にアイグン条約を結び、英仏米露との間にそれぞれ天津条約を結んだ。十年(1860)、英仏軍が北京に侵攻したため、帝は熱河に逃れた。弟の恭親王奕訢に京師の留守を任せて英仏と折衝させ、北京条約を結ばせた。十一年(1861)、病のため熱河の行宮で崩じた。
載淳(1856~1875)
  の十代同治帝。廟号は穆宗。在位1861~1875。咸豊帝(奕詝)の長男。咸豊十一年(1861)、六歳で帝位についた。蕭順ら八大臣が補佐し、祺祥と改した。西太后や恭親王奕訢が政変を起こして権力を握ると、同治と改した。東太后(慈安太后)西太后(慈禧太后)が垂簾聴政にあたるという形式を取ったが、実質は西太后が権力を握った。かれの治世に太平天国の乱が鎮圧され、洋務運動が起こって諸改革が試みられた。同治十二年(1873)正月、親政を開始したが、なお西太后の専権下にあった。翌年、病のため崩じた。
載湉(1871~1908)
  の十一代光緒帝。廟号は徳宗。在位1875~1908。醇親王奕譞の子。同治帝(載淳)が崩ずると、五歳で帝位についた。光緒十五年(1889)から親政したが、西太后に実権を握られて、対立を深めた。日戦争後は革思想に傾斜。光緒二十四年(1898)四月、康有為や啓超らと図って戊戌の変法を断行したが、保守派の反撃を受けて、わずか百日で失敗した。その後、西太后によって瀛台に幽閉された。翌年に義和団事件が起こり、二十六年(1900)に義和団が北京に入って外国公使館などを襲撃すると、八カ国連合軍が天津を占領して北京に迫った。帝は西太后らとともに西安に逃れた。翌年、辛丑条約が立すると北京に帰った。三十四年(1908)、西太后の死の少し前に病没した。毒殺説もある。
溥儀(1906~1967)
  の十二代宣統帝。ラスト・エンペラー。在位1908~1912。醇親王載澧の長男。母は栄禄の娘。光緒帝(載湉)が崩ずると、西太后の意向により、三歳で即位。父の醇親王が後見した。宣統三年(1911)に辛亥革命が起こると、翌年に革命派と妥協した袁世凱によって退位させられた。宣統帝の号は保持しながらも、紫禁城に軟禁された。1917年、張勲の復辟運動によってわずか十二日間の復位。1924年、直隷派の馮玉祥によって紫禁城を追われ、北京の日本公使館に避難。翌年、天津の日本租界に移った。1932年には日本の保護のもと満洲国の執政となり、1934年満洲国皇帝となった。康徳と建。しかし、完全な日本の傀儡であった。在位中、二度訪日。1945年、日本降伏後に退位を宣言。日本に亡命する途中、ソ連に逮捕された。1950年、中華人民共和国に引き渡され、撫順・ハルビンの刑務所に服役した。1959年、特赦で出所。一平民となり、植物園の庭師となった。看護婦をしていた婦人と結婚した。1964年、政治協商会議委員をつとめる。歴史学会会員。文革の初期に病死した。『わが半生』。

(読み)しん(英語表記)Qing; Ch`ing
きよ・いきよ・しきよ・むすがしすがし・いせい Qīng/請字項目
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国史上,最後の王朝(1636~1912)。満州族の建てた征服王朝であり,清朝末期から中国近代史が始まる。満州人は明朝末期に海西女直,建州女直,野人女直の 3部に分かれ,明の支配下にあったが,建州女直出身のヌルハチ(奴児哈赤)が満州族を統一してハン(汗)位につき,1616年に国号を後金と号したのに始まり,以後宣統帝(→溥儀)まで 12代続いた。ヌルハチはサルフの戦いで明軍を破り東に進出し,第2代ホンタイジ(皇太極)は内モンゴルを征討すると崇徳1(1636)年に国号を大と改めて皇帝に即位した。順治1(1644)年に李自が明を滅ぼしたのに乗じ(→李自の乱),呉三桂に導かれて中国内地に進出し北京を都とした。第4代康煕帝のときに三藩の乱を鎮圧し,最後の反復明勢力であった功の子孫も帰順し,全中国の統一に功した。またネルチンスク条約でロシアの東進を阻止した。続く雍正帝,乾隆帝時代に準部,回部に支配権を及ぼし,チベットを保護領にするなど今日の中国領土の原形をつくり上げた。安定した政治による経済展もめざましく,「康煕,乾隆の盛治」を現出した。乾隆末年から嘉慶帝時代に白蓮教徒の乱(→白蓮教)などの国内の動揺,加えてヨーロッパ資本主義の進出が始まり,第8代道光帝のときに武力による開国,アヘン戦争が起こった。アヘン戦争を契機にヨーロッパ列強の中国進出は激化し,中国は半植民地化するにいたった。咸豊帝時代に太平天国の革命運動も展開され,清朝は内憂外患に大きく動揺する。同治帝から光緒帝初期の洋務運動に代表される富国強兵策,あるいは日戦争敗北以後の伝統的支配体制の変革を目的とする戊戌の変法が展開され,支配体制内部からの改革も試みられたが功せず,さらに義和団事変ののちには立憲案などの諸改革も推進されたが,「滅満興(満州人の支配体制を滅ぼし,人の支配体制を目指す)」の民族主義と反封建主義とに立脚した孫文に代表される革命勢力は辛亥革命を功させ,1912年宣統帝は退位して清朝は滅亡し,中華民国立した。
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デジタル大辞泉の解説
中国最後の王朝。1616年、女真族のヌルハチ(太祖)が明を滅ぼし、国号を後金として建国。1636年、2代太宗が国号をと改称。都を瀋陽から北京に移した。康熙・乾隆両帝のとき全盛。19世紀に入って欧米列強の侵略や、太平天国などの農民反乱により衰退。1912年、辛亥革命によって滅亡した。
[音]セイ() ショウ(シャウ)() シン() [訓]きよい きよまる きよめる すむ さやか すがやか
[学習字]4年
〈セイ〉
1 水がきよらかに澄みきる。「水・濁・流・冽(せいれつ)/河
2 けがれがなくさっぱりしている。すがすがしい。「栄・潔・純・浄・(せいせい)・(せいそ)・/血
3 心や行いがきよく正しい。「貧・廉」
4 払いきよめる。きれいにかたづける。「算・掃/粛
〈ショウ〉きよらか。「浄」
〈シン〉中国の王朝名。「清朝/日
[名のり]きよ・きよし・すが・すみ
[難読]水(しみず)・(すがすが)しい
〉⇒せい
〈請〉⇒せい
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百科事典マイペディアの解説

中国史上,最後の王朝。満州の女真族が建国し,3世紀にわたって中国を支配した。姓は愛覚羅(あいしんかくら)/(アイシンギョロ)。始祖ヌルハチは女真族を統一,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。その子のホンタイジ(太宗)は1636年と改称。第3代順治帝の1644年,明朝の滅亡に乗じて中国に入り,北京に遷都した。これより18世紀末まで,康煕(こうき)帝,乾隆帝の時代には極盛期に達した。領土も中国全土からモンゴル・チベット・台湾・疆(しんきょう)に及び,歴代王朝の中で最大となった。は満州人に対しては八旗の制度によって統制したが,中国支配は明朝の伝統を受けて,人を登用して行わせた。しかし,19世紀からは白蓮教徒の乱,太平天国の乱などの内乱とアヘン戦争,アロー戦争などの外圧が次いで起こり,日戦争に敗北するや義和団事件が起こった。光緒帝,康有為の戊戌(ぼじゅつ)変法も西太后の反対でつぶれ,他方,孫文らの革命運動が盛んになり,1911年辛亥(しんがい)革命の結果,中華民国立した。1912年宣統帝(溥儀(ふぎ))が退位して清朝は滅亡した。
→関連項目山丹交易|薪水給与令|台湾|中華人民共和国|ツングース語系諸族|徳川家慶|ドルゴン(多爾袞)|満州族|明|琉球|琉球処分
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世界大百科事典 第2版の解説

中国の東北(満州)地方から興った満州族(人,族に対して満人,満族とよばれる)の王朝。1616‐1912年。はじめ国号を後金と称し,1636年(崇徳1)にと改めた。東北を統一した後,44年(順治1)長城をえて中国本土に入って国都を瀋陽から北京にうつし,明朝滅亡の後を継いで全中国を統治する征服王朝となった。44年万里の長城の東端にある〈山海関〉を通って中国本土に進入したので,それ以前の東北統治時代を〈入関前〉,それ以後を〈入関後〉と時代区分している。
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大辞林 第三版の解説
中国最後の王朝(1616~1912)。女真族出身のヌルハチが諸部族を統一して後金こうきん国を建て、その子ホンタイジ(太宗)が国号をと改めた(1636年)。順治帝の時、明の滅亡に乗じて中国内地に進出、北京に遷都。康熙こうき・雍正ようせい・乾隆けんりゆうの頃最盛期を迎えたが、以後農民反乱の続と欧米列強の外圧とに苦しみ、辛亥しんがい革命によって滅んだ。
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国の東北(満州)から興り、明(みん)を継いで中国を支配した満洲族の王朝(1616~1912)。中国史上最後の王朝で、その末期は中国近代史に入る。[川勝 守]
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全国統一まで
満洲族は半猟、半牧、半農の生活を営んだツングース系民族で、女真(じょしん)または女直(じょちょく)といわれていた。(きん)の滅亡(1234)後、(げん)・明(みん)に服属したが、明では海西(かいせい)、建州(けんしゅう)、野人(やじん)の3部に分かれ、所(えいしょ)制が敷かれた。海西、建州は耕牛や人労働の利用により、しだいに文化・経済生活を向上させた。17世紀に入ると、建州女直のヌルハチは、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵によって明の統制力が緩んだのを機として、女直諸部を統合し、1616年ハン位(の太祖)について、国号を後金(こうきん))と称した。明は大軍を派遣したが、19年のサルフの戦いに敗れた。ヌルハチは東(りょうとう)平野に進出し、瀋陽(しんよう)(奉天府(ほうてんふ))に遷都した。26年ヌルハチが死ぬと、子のホンタイジ(太宗)が位につき、内モンゴルのチャハル部を討ち、「大伝国(だいげんでんこく)の璽(じ)」を得たので、36年改めて皇帝の位につき、国号をと称した。同年、朝鮮を完全に屈服させ、その宗主国となった。当時、中国では都市の民変、農村の抗租などの民衆運動が激化し、また朝廷内部の党争が尾を引き、明の支配は揺らいでいた。明からへ投降する士大夫が多くなり、中国的な行政組織が整備された。1643年、太宗が没し、子の順治帝(じゅんちてい)が幼少で即位すると、睿親王(えいしんのう)ドルゴンが摂政(せっしょう)となり、翌年李自(りじせい)によって北京(ペキン)が攻略されると、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と交渉し、呉三桂を援助し明皇帝の仇(あだ)に報いるとして、山海関をえ、華北に入った(の入関)。の大軍は北京を回復し、李自を追って華北一帯を制圧した。は北京に遷都し、明の後を継ぐ中国王朝となった。異民族支配への抵抗は、まず福王、王、桂王(けいおう)ら明の皇族、遺臣らによる南明(なんみん)の動きとなったが、大勢を回復することはできなかった。むしろの統一への障害は、一つには初の三大思想家、顧炎武(こえんぶ)、黄宗羲(こうそうぎ)、王船山(おうせんざん)の流れをくむ江南士大夫の反感情であり、もう一つは平定に功があった呉三桂(平西王、雲南)、尚可喜(しょうかき)(平南王、福建)、耿仲明(こうちゅうめい)(靖南(せいなん)王、広東(カントン))のいわゆる三藩の強大化にあった。1645年、南京(ナンキン)を攻略すると、女真の風習である弁髪を強制したのも、中華の誇り高き江南人士にへの服従を強いる踏絵であった。そのほか機会をとらえては奏銷案(そうしょうあん)(税の未納者を処罰したもの)などの疑獄を構えて反排満感情を抑圧し、文字の獄、禁書を行った。三藩に対しては、急死した順治帝のあと、8歳で即位した康煕(こうき)帝が人して親政を始めるや、1673年の撤藩(てっぱん)の議を契機に三藩削除の策を進めた。そのため三藩の乱が起こり、一時は南方6省を失うという事態にまで及んだが、81年、鎮圧に功した。ついで83年には、最後の明の遺臣で台湾に拠(よ)った功(ていせいこう)の子孫も帰順し、の統一は完した。[川勝 守]
全盛期
康煕帝から雍正帝(ようせいてい)を経て乾隆帝(けんりゅうてい)の中ごろまでの約130年間はの全盛期で、その版図は拡大した。康煕帝は東進南下したロシアと1689年ネルチンスク条約を結んで、ロシア人を黒竜江(こくりゅうこう)流域から駆逐した。ついでモンゴル高原に覇を唱えたジュンガルに雍正、乾隆の3代にわたって遠征し、青海を版図に加え、チベットを保護国化し、ジュンガルの故地に準部(じゅんぶ)・回部(かいぶ)(後の疆(しんきょう)省)を置いた。乾隆帝の時代には、さらに西トルキスタンのコーカンド、ブハラ、アフガニスタンにも勢力を伸ばし、ビルマ(現ミャンマー)、ベトナムから、ネパールのグルカにまで遠征軍が送られ、諸国はの朝貢国となった。
 康煕、雍正、乾隆の3帝はいずれも有能な専制君主で、中国の文化や伝統を尊重して人官僚を重用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正を断行して民心を集め、社会の安定に寄与した。しかし、乾隆帝の晩年になると、権臣和(わしん)が賄賂(わいろ)をむさぼるなど、官吏の腐敗が著しくなって政治が乱れた。しかも、人口が3億人を超え、余剰人口は都市の流民や遊民、秘密結社や宗教結社を頼る者となった。そのほか少数民族地区へ入り込む者や海外へ出て華僑(かきょう)となる者も増大した。支配民族である満洲族の生活も苦しくなった。社会矛盾が増大して、地方に反乱が起こった。乾隆末年、四川(しせん)、雲南の辺境に起こったイスラム教徒(回民)やミャオ族などの諸反乱は、乾隆帝が嘉慶帝(かけいてい)に譲位した(1795)ころ、10年にわたって湖北ほか5省を席捲(せっけん)した白蓮(びゃくれん)教徒の大反乱となった。官兵である八旗(はっき)は無力で、民間の地主の軍(郷勇(きょうゆう))の力を借りた。しかし、その後も華南の海寇(かいこう)や北京の天理教の乱などが続き、世情は騒然としてきた。[川勝 守]
列強の侵略
すでに18世紀末に産業革命の段階に入ったイギリスは、販路拡大を企図して、乾隆帝のときにマカートニー、嘉慶帝のときにアマースト、道光帝のころネーピアなどを派遣して交渉にあたったが功せず、1840年アヘン問題に端をしてついに戦争となった(アヘン戦争)。広州の林則徐(りんそくじょ)らの活躍は目覚ましかったが、戦争の長期化を恐れた朝廷は、イギリスと講和し、1842年南京条約を結んだ。この条約で香港(ホンコン)島が割譲され、上海(シャンハイ)ほかの5港が開港された。翌43年には開港場における居留地(租界)の設置、領事裁判権などを認める不平等条約である虎門寨(こもんさい)追加条約が結ばれた。44年にはアメリカ(望廈(ぼうか)条約)、フランス(黄埔(こうほ)条約)もイギリス同様の条約を結んだ。以後、清朝は列強の中国侵略の媒体としての性格を強めた。しかも中国人の中華意識と中国の土地が広く物が豊か(地大物博)であることに支えられたは、自由貿易と国際法になじまず、再度の戦争を繰り返した。1856年のアロー戦争、84年の仏戦争、94年の日戦争など、は戦争に敗北し多大な賠償を負担した。こうした結果、大量の銀が流出し、人々は物価騰貴に苦しみ、また、列強による中国内の権益拡大とともに、従来の生活の変更を余儀なくされる者も増大した。洪秀全(こうしゅうぜん)が清朝打倒と地上の天国の建設を目ざした太平天国も、地主制などの封建的諸関係の変革とともに、外国勢力と対決せざるをえなかったのは、中国近代史の必然であった。軍の無力を知った地主や大商人は情勢の進展に驚き、郷土の自軍を組織した。なかでも曽国藩(そうこくはん)の湘勇(しょうゆう)、李鴻章(りこうしょう)の淮勇(わいゆう)がその中心となった。
 太平天国の鎮圧後、曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らの民族出身の官僚は政府の要職を占め、西洋の技術を取り入れ、富国強兵・殖産興業に努めた。これを洋務運動といったが、「中体西用(ちゅうたいせいよう)」といわれるように中国の政治体制を変えずに西洋の科学技術を取り入れようとしたもので、社会の近代化は進まなかった。日戦争の敗北は洋務運動の破綻(はたん)を示し、しかも日本への東半島割譲に反対するロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の結果、列強の中国における利権獲得競争が激化した。康有為(こうゆうい)、啓超(りょうけいちょう)らは、の支配体制を日本の明治維に倣って立憲君主制にすべきであると主張し(変法自強)、1898年光緒帝(こうしょてい)にその主張が認められ、改革が始まった(戊戌(ぼじゅつ)の変法(へんぽう))。しかし西太后らの保守派は、軍を握る袁世凱(えんせいがい)と結び、改革派を弾圧、康有為らは日本へ亡命し、改革は100日で挫折(ざせつ)した(戊戌の政変)。[川勝 守]
専制国家の終焉
当時、民衆のキリスト教排斥(仇教(きゅうきょう))と列強の経済的進出への反対が高まり、これを山東を中心とした民間宗教結社の義和団が組織した。義和団は1898年暴動を起こし、「扶滅洋(ふしんめつよう)」を旗印に教会、鉄道などを破壊しながら北京に迫り、外国公使館地域を包囲した。これに対し列強は、日本・ロシアを中心に軍隊を派遣し、義和団を鎮圧した。多大な賠償の支払いと巨額の借款は中国の半植民地化を促進させたが、しかし中国民衆の動向は革命の機運に向かっており、「滅満興(めつまんこうかん)」の民族主義は華僑(かきょう)、留学生、民族資本家の反封建主義と合し、孫文(そんぶん/スンウェン)の中国同盟会に結集した。これに対し清朝は、1908年憲法大綱を表し、9年後の国会開設を約束したが、すでに遅く、四川省での鉄道国有化反対運動が各地へ波及し、11年10月10日には武昌(ぶしょう)の湖北軍が蜂起(ほうき)して辛亥(しんがい)革命となり、12年1月、革命派は孫文を臨時大総統に推し、南京に中華民国立を宣言した。ここに清朝最後の皇帝宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ/プーイー)は退位したが、それは中国専制君主制数千年の終焉(しゅうえん)でもあった。[川勝 守]
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300万人に満たない満洲族が、100倍の人口をもち進んだ社会経済状態の中国を制圧できたのは、満洲族を残らず皆兵とした八旗の制度によって圧倒的な軍事力を支えとした一方、政治・行政制度では、前代の明の官制を、欠陥を是正しながらほぼ全面的に踏襲したことによる。しかし、やはり異民族支配の王朝としての特色が官制上にみられる。なお、末に至り、西洋の制度を取り入れて諸改革が行われた。[川勝 守]
中央官制
太祖時代の1629年、文翻訳・国事記録の機関として文館が設置され、次の太宗時代の1636年に内国史院、内秘書院、内弘文院の内三院となり、各大学士が置かれたが、皇帝直属の書記室にすぎなかった。1658年、内三院は改められ、明制の内閣が設けられ、殿閣大学士と協弁大学士が置かれた。また別に最高政務機関としては太宗時代から皇族・満洲族貴族からなる議政王大臣があり、1644年の入関後も軍事をはじめ重要な国務の審議にあたったが、雍正年間(1723~35)に至りたに軍機処が設けられ、内閣大学士、六部(りくぶ)尚書・侍郎のなかから軍機大臣が任ぜられ、重要な政務はここに集中するようになった。政務執行機関は吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)、大理寺以下の5寺、監察機関の都察院(とさついん)のほか、翰林院(かんりんいん)、国子監(こくしかん)、欽天監(きんてんかん)など明制を継承した。満洲族関係の宗人府、内務府や藩部の事務を扱う理藩院(りはんいん)などを除く中央官庁の長官は、いずれも満併用(まんかんへいよう)であった。なおそのほかには宗室欠(そうしつけつ)、満州欠、蒙古欠(もうこけつ)などの専欠(ある特定の身分に限って、官職上の地位を与える)の制もとられていた。末になると外交が重要となり、1861年に総理各国事務衙門(がもん)が設けられ、義和団事件後さらに外務部に改められた。1906年立憲準備とともに官制の大改革が行われ、一一部二院制が行われた。08年には資政院が開かれ、11年には内閣・軍機処が廃止され、責任内閣制が実施された。なお、この間1905年には、(ずい)・以来行われた科挙が廃止され、学校出身者が任用された。[川勝 守]
地方官制
中国本土、東北、台湾を直轄地とし、モンゴル、青海、チベット、疆を藩部とした。中国本土は18省に分けられ、各省に巡撫(じゅんぶ)、数省ごとに総督が置かれ、総督は地方の最高長官であった。省の下は府、州、県、庁に分けられ、長官を知府、知州、知県、同知といった。なお省と府との中間に道が置かれ、道員がいた。満州は清朝祥の地として重視され、盛京、吉林(きつりん)、黒竜江の3将軍が置かれ、特別の軍政が敷かれた。[川勝 守]
兵制
兵制は清朝独特で、その中心は八旗である。八旗はの興起とともに行われた軍事ならびに行政の組織で、黄・白・紅・藍(あい)の四色旗と各色旗にへりをつけた4旗の計8旗に全満洲族が編された。各旗は男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1旗とした。のち、太宗時代にモンゴル、民族各八旗がつくられた。入関後にはもっぱら民族による緑営も創設され、北京の治安警察のほか、各省総督、巡撫、提督、総兵の指揮下で各地の治安維持にあたった。しかし、末の白蓮教徒の乱や太平天国では、八旗、緑営ともに無力で、かわって郷勇が用いられた。同治(1862~74)中興期には李鴻章が郷勇に洋式武器を与えたり、八旗、緑営から選抜した練軍をもって洋式陸軍化を試み、また曽国藩が長江水師をつくり、ついで南洋・北洋水師がつくられた。とくに李鴻章の北洋水師は強力で近代海軍となったが、の陸・海軍ともに日戦争で大敗し、以後は張之洞(ちょうしどう)の自強軍に始まる各省の軍が次々とでき、これを軍と称した。なかでも袁世凱の率いる北洋常備軍がもっとも精鋭であった。[川勝 守]
税制・財政
税制は、明末の一条鞭法(いちじょうべんぽう)を継承したが、康煕帝の末年に盛世滋生人丁(せいせいじせいじんてい)の制定が行われ、丁額(人頭税額)全体が固定されたことによって、人頭税(丁税)を土地税(地税)のなかに繰り入れることが実現した。やがて、これは雍正帝の時代に地丁銀制となったが、こうした税法の大改革により、これまで中国で長く行われてきた、税と徭役(ようえき)という2種の国家収取は税一本にまとめられた。税制と関連した制度に村落・郷村制度があるが、これも明代以来の里甲制が地方的変差をみせながら継承された。江南の江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)では明末以来、均田均役が行われたが、これも雍正年間以後、順荘編里となった。その他の地域については不明な点が多い。一方、治安維持の郷村組織としては、近隣どうしの連帯責任を重んじる保甲制度と、郷紳地主の農村指導を期待した郷約が行われた。
 地丁銀の歳入全体に占める比重は乾隆年間(1736~95)にほぼ70%に達したが、これに次ぐ主要税目である塩課、関税の二者がしだいに増加した。とくに末には、五港開港後の海関税や、太平天国鎮圧の軍費として設された釐(りきん)など、内地、外国両面の関税の増設があった。[川勝 守]
法制
入関前には文法典はほとんどみられなかったが、1646年刑法典として明律を踏襲した律集解附例(しんりつしっかいふれい)が制定され、ついで79年刑部現行則例がつくられ、それが律に取り入れられ、1740年に律令として集された。行政法典も明会典を踏襲して1690年康煕の大会典が作され、以後、雍正、乾隆、嘉慶、光緒の各代にわたって編纂(へんさん)されたが、初め会典内に入れられてあった事例は乾隆以後、会典則例または会典事例として分離独立させた。ただし会典は大綱を示したにすぎず、実際の運用には各官庁別につくられた則例、事例が重んぜられた。[川勝 守]
社会・経済目次を見る
(そう)・・明と同じく官僚、地主、商人が社会の支配層であり、彼らの所有地は佃戸(でんこ)によって耕作された。一方、都市に住む職人や商人も零細な経営者が多く、しかも官僚の統制下にあった。明の中期以後、銀が流通すると、農村に定期市が増え、それらは鎮や市に達した。この間、農村の貧富の差がさらに拡大し、多くの農民が土地を失って佃戸となり、また都市の遊民となった。その反面、没落した者の土地を買収した大地主が出現し、彼らは科挙に及第して進士や挙人などの身分を獲得し、また官職を手に入れて郷紳とよばれ、都市に広大な邸宅を構えた。明末初の戦禍の後、清朝政府が流通の抑制や物価の安定を図ったこともあって、農村の回復がみられた時期もあったが、一般的には農村はしだいに疲弊するのに対し、都市は支配層や商工業者を中心ににぎわいをみせた。都市の繁栄は諸産業の展にも支えられていた。農業では揚子江(ようすこう)中流域の湖南・湖北地方の開が進み、揚子江の下流デルタをしのぐ穀倉地帯となったが、後期には台湾、広西、さらに東北三省にも開拓が始まった。一般に華中・華南は稲作、華北は麦・粟(あわ)作が中心であるが、二毛作や二期作など集約農業が行われ、養蚕、綿花栽培のほか、茶、紙、藍(あい)、麻、豆などの手工業の原料生産が増加し、代からたにトウモロコシ、甘藷(かんしょ)、タバコ、ラッカセイなどの栽培が普及した。これらの種の作物はおもに飢饉(ききん)対策用や換作物であったから、その普及は農民や都市住民の生活の安定に寄与した。工業では伝統的な生糸・絹織物のほか、揚子江下流デルタ地方の上海付近に、明代以来綿織物業の農村家内工業が普及しており、また景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器生産には数十万の職人が従事し、生産過程での分業も行われた。農業・工業の生産の展は商業を盛んにした。北の山西商人(山西省・陝西(せんせい)省出身)、南の安商人(安徽(あんき)省出身)などは、各地に同業あるいは同郷ごとに会館や公所を設けて結束し、全国的な取引に応じた。代中期以後には、福建商人(商(びんしょう))、寧波(ニンポー)商人(または浙江商人)も上海などに進出したが、やがて華僑の活動とともに海外での活躍が目だった。また1757年以後、対外貿易は広東1港に限られていたが、そこで取引をしていたのはいわゆる広東十三行とよぶ特許商人公行(コーホン)であった。
 経済の展によって人口は激増した。18世紀には中国の隅々まで開が進み、湖南、四川、広西、貴州、雲南などに分布するミャオ族、チワン族などの少数民族の居地まで及んだ。しかしその結果、彼らと族との摩擦を生じ、少数民族の反乱を招いた。また、辺境に流亡してきた農民は白蓮教などの秘密宗教に頼って、しばしば反乱を起こした。なお、辺境や少数民族地区でなくとも、農村の過剰人口は、ともすれば都市に流入し、遊民や無頼となったが、この階層を中核として代には政治秘密結社の幇(パン)(青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)など)や会党(三合会や哥老(かろう)会)ができた。末の太平天国運動や辛亥革命にもこうした会党の活動がみられる。
 は初め海禁を厳しくし、広東1港で、貿易は茶、生糸輸出を主とする片貿易であったが、19世紀に入り、インド産アヘンが密輸入されるとその関係は逆になった。アヘン戦争後、引き続くアヘン輸入と銀の流出のため中国経済は疲弊したが、農業と結合して驚くべき経済性をもつ在来家内綿工業が抵抗し、イギリス産業資本の綿織物輸出の思惑は外れた。しかしその後の執拗(しつよう)な戦争、条約取決め、政治圧力によって、1880年代には綿製品の輸入はアヘンをしのぎ、逆に綿花が出超に転じるなど貿易構造は原料植民地的な型を示した。この時期、洋務運動が展開し、軍需工業のほか上海機器織布局など民需企業にも官僚資本の進出があったが、いたずらに民間企業の展を抑えただけであった。他方、日戦争後、帝国主義段階に入った列強の中国分割は露骨となり、借款、融、鉄道利権の獲得、企業の直接進出の形で強められ、中国は完全に半植民地化した。[川勝 守]
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は好学の皇帝が多かったが、とくに康煕帝は呉三桂ら三藩に対抗して、江南士大夫の心をつかむためにも、学者を招いて講学させ、朱子学を正統的な官学とし、文化になじんだ。一方、明末以来の学者顧炎武、黄宗羲、王夫之(おうふうし)らは野にあって、反満洲族的な民族意識や政治観をもった書物を著した。清朝はやがてこれらに対し厳しい態度で臨み(文字の獄、禁書)、書物の編集事業に事寄せて国家検定の作業を行った。そのため学問は政治から遊離し、ひたすら古典の実証と解釈に沈潜した。この学を考証学とよぶが、その祖の顧炎武がもっていた激しい経世(政治的実践思想)の念は失われていった。史学の銭大(せんたいきん)、哲学思想の戴震(たいしん)、文字音韻学の段玉裁らの学者が輩出し、康煕帝の『康煕字典』、康煕・雍正帝の『古今図書集』、乾隆帝の『四庫全書』などの大規模な文化事業に動員された。考証学には近代的批判精神や科学思想の萌芽(ほうが)もみられるが、やがてその非実践性から、道光以後の中国社会の危機のなかで、経世を重んじる公羊(くよう)学派の康有為、啓超の台頭をよび、古文学派においても曽国藩や張之洞の学復興の運動となった。曽、張らの主張は洋務運動のなかで「中体西用」となって展開されたが、やがて厳復らによる西洋思想の本格的紹介や、欧米、日本への留学による思想、学問の経験によって清朝文化は幕を下ろす。孫文の民族・民権・民生の三民主義はその結晶であった。
 代の文学は、・明に引き続いて戯曲や小説が多いが、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』が二大名作とされ、これらは中国古典劇の集である京劇で上演された。小説では『聊斎志異(りょうさいしい)』『浮生六記』などのほか、『儒林外史』『紅楼夢(こうろうむ)』の二大長編がつくられた。これらはいずれも、爛熟(らんじゅく)しきった旧中国社会の満洲族貴族や民族官僚の家庭と人物を具体的に描写している。また末には林(りんじょ)らによって西欧近代小説の紹介が始まる一方、『官場現形記』『老残遊記』『二十年目睹之怪現状(もくとのかいげんじょう)』など官界の腐敗を暴露した小説が現れ、『申報』『蘇報』『益聞録』などの聞の刊も始まった。
 絵画の主流は、明以来の南画であるが、初に明末の董其昌(とうきしょう)の流れをくむ王時敏、王鑑(おうかん)、王(おうき)、王原祁(おうげんき)、歴、寿平(うんじゅへい)の四王が現れ宮廷画壇をつくったが、石濤(せきとう)、八大山人らの激しい抵抗精神をもつ作風も盛んであった。なお、イタリア人カスティリオーネ(郎世寧(ろうせいねい))が、西洋の遠近法や陰影法などの作風をもたらし、中国絵画に影響を与えた。
 書道は、中期までは明末の董其昌の流れが大勢を占めたが、末に北朝の碑の書法が重視され、阮(げんげん)、包世臣(ほうせいしん)らによって風がおこった。
 工芸は陶磁器、玉器、ガラス器、文房具などに豪華で精巧なものがつくられ、宮廷や官僚士大夫の文人趣味を増長させた。
 建築は、~明の伝統様式を継承したが、建築技法や彩色に技巧が凝らされた。なお離宮である円明園にはバロック式洋風建築もつくられた。[川勝 守]
『増井経夫著『中国の歴史7 帝国』(1974・講談社)』
[参照項目] | 日中交渉史
[年表] | の時代(年表)

(愛覚羅氏)/略系図

の版図

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精選版 日本国語大辞典の解説

〘形口〙 きよ・し 〘形ク〙
[一] 物事について、けがれやよごれがなく、美しいさまである。
① けがれのないさま。浄なさま。また、水や月などの澄みわたっているさまをもいう。
※万葉(8C後)一五・三七〇六「玉敷ける伎欲吉(キヨキ)渚(なぎさ)を潮満てば飽かず我行く還(かへ)るさに見む」
※源氏(1001‐14頃)桐壺「空きようすみわたれるに」
② さわやかで、気持のよいさま。
※万葉(8C後)六・一〇〇五「川速み 瀬の音そ寸(きよき) 神さびて 見れば貴く」
[二] 心、気持、動機などについて、けがれやよごれがなく、美しいさまである。
① 心によこしまな、濁ったところのないさま。公明正大なさま。二心のないさま。忠義なさま。
※万葉(8C後)一八・四〇九四「ますらをの 伎欲吉(キヨキ)その名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子等そ」
② いさぎよいさま。卑怯でないさま。
※曾我物語(南北朝頃)一〇「人手にかからんより、きよき自害してみせ申さん」
[三] (連用形が副詞的に使われて) 残すところのないさま。
※枕(10C終)二七六「つねにおぼえたる事も、また人の問ふに、きよう忘れてやみぬるをりぞ多かる」
きよ‐げ
〘形動〙
きよ‐さ
〘名〙
一六一六年から一九一二年まで続いた中国最後の王朝名。建州女真出身のヌルハチ(太祖)が満州族を統一し後金を建国、子のホンタイジ(太宗)が一六三六年に国号をとした。世祖(順治帝)のとき明の滅亡に乗じて中国にはいり北京に遷都。版図は台湾・外蒙古・チベット・ジュンガル・カシュガルにおよび、をしのいだ。康熙・雍正・乾隆時代に最盛期に達したが、一八世紀末から国内に反乱が続、欧米列強の外圧も加わって衰退し、一九一一年の辛亥革命により翌一二年宣統帝が退位して滅亡した。
〘形口〙 すがし 〘形シク〙 さわやかで気持がよい。すがすがしい。
※長塚節歌集(1917)〈長塚節〉大正三年「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」
〘名〙 (形動)
① 澄みきってきよいこと。けがれのないこと。さっぱりしていること。また、そのさま。
※正法眼蔵(1231‐53)行持下「開闢よりこのかた化俗の人なし、国をすますときをきかず。いはゆるは、いかなるか、いかなるか濁としらざるによる」
※花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉五「其声の且つ美なるは」 〔書経‐舜典〕
② 「せいおん(音)」の略。
③ 酒のことをいう、人形浄瑠璃社会などの隠語。
※滑稽本・戯場粋言幕の外(1806)下「酒の事を三郎、略して三と云。ざぶらうともいふて古めかしきゆゑ、せいなどと又略してつかふ也」
〘形ク〙 ⇒きよい(
〘他マ下二〙 ⇒きよめる(
〘形シク〙 ⇒すがしい(
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版の解説

1616〜1912
女真族が建てた中国最後の王朝
建州女真のヌルハチ(太祖)が女真族を統一,興京 (こうけい) に都し,後金 (こうきん) を建国(1616)。明と戦い,瀋陽 (しんよう) に遷都(1625)。子の太宗ホンタイジは朝鮮・内モンゴルを従え,国号をと改めた(1636)。3代世祖順治帝のとき,李自 (りじせい) の乱に乗じて中国に進出,北京を都とし(1644),明に代わって中国の王朝となった。4代聖祖康熙 (こうき) 帝までに明の残存勢力による三藩の乱,台湾の (てい) 氏を平定して中国支配を確立し,5代世宗雍正 (ようせい) 帝,6代高宗乾隆 (けんりゆう) 帝までのいわゆる康熙・乾隆時代(1661〜1795)の130年間は全盛期であった。領土は台湾・外モンゴル・チベット・疆 (しんきよう) から中央アジアに及び,広大な地域をほぼ完全に支配した。財政が豊かで,人口が急増し,商工業が展して銀が広く流通し,地丁銀 (ちていぎん) の税制が立した。文化面では大編纂 (へんさん) 事業がおこり,考証学が盛んになった。征服王朝として,多数の人を支配するために,官制に満併用制をとると同時に,辮髪令・禁書・文字 (もんじ) の獄などの統制も行った。7代仁宗嘉慶 (かけい) 帝以後しだいに衰え,白蓮 (びやくれん) 教徒の乱(1796〜1804),太平天国の乱(1851〜64)などの内乱,1840年のアヘン戦争,42年の南京条約,1856〜60年のアロー戦争,1858〜60年のロシアの黒竜江地方奪取などの外圧によって動揺し,洋務運動の建て直しも実効があがらなかった。11代徳宗光緒 (こうしよ) 帝の代にはイリ事件・仏戦争・日戦争に敗れ,列強による中国分割が進み,康有為 (こうゆうい) の変法 (へんぽう) 運動も失敗(戊戌 (ぼじゆつ) の政変),1900年の義和団事件で外国軍が北京を占領し,立憲政治の準備も間にあわなかった。12代の幼帝宣統 (せんとう) 帝溥儀 (ふぎ) のときの1911年に辛亥 (しんがい) 革命が起こり,12年皇帝が退位しては滅亡した。
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旺文社日本史事典 三訂版の解説

中国最後の統一王朝(1616〜1912)
満州から侵入した女真族の王朝で,2代太宗の1636年国号をと改称。康煕 (こうき) ・雍正・乾隆 (けんりゆう) 3代の時代は中国王朝史上空前の繁栄をとげた。18世紀後半から衰えはじめ,19世紀後半以後の欧米の進出でその衰退は決定的となり,辛亥革命によって1912年滅亡。江戸時代,日本との正式国交はなかったが,船は長崎に多数入港し,学問・文化(朱子学・考証学など)に影響を与えた。1871(明治4)年日修好条規によって正式に国交が立。しかし朝鮮支配をめぐる争いは日戦争に展し,以後日本は積極的に中国進出に乗り出した。
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世界大百科事典内のの言及
【地主】より
…こうして,預所が当該荘園の地主であるという事例が認められるが,かといってつねに地主=預所とは限らない。1310年(延慶3)9月の大和国平野殿荘預所平光状案に,課役負担をめぐる預所と百姓との論に際しての預所側の主張として,〈凡そ当国諸庄薗之習,地上果役に於ては,地主(名主の事也)半分,百姓半分沙汰致すは通例也〉(原文)と述べられているような例もある(東寺百合文書)。また戦国期の興福寺大乗院領神殿荘に関して,院主尋尊は〈地作一円重職御領也〉といっているが(大乗院寺社雑事記),これは同荘の地主職と作主職とを領主大乗院があわせ所有するのだという主張である。…

【琉球処分】より
…明治政府は王国体制のまま存続しつづける琉球の処遇について画策し,1872年(明治5)9月,琉球王国をひとまず〈琉球藩〉とし外務省の管轄とした。つづいて〈琉球藩〉を廃して〈沖縄県〉を設置しようとしたが,琉球側の執拗な抵抗と琉球に対して宗主権を主張する中国(清朝)の強い抗議にあい,容易に意図を実現することができなかった。74年,明治政府は先に台湾に漂着して殺害された琉球人に対する報復措置を名目に台湾出兵を行い,琉球が自国の版図であることを中国側に示した。…

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