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後金

後金(読み)こうきん(英語表記)Hou-jin; Hou-chin
あとがねあときんごきん後金 Hòu Jīn
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,清朝の建国当初の国号。満州語では国をアイシン・グルン Aisin Gurunと称する。女直 (→女真 ) の統一をほぼなしとげたヌルハチ (奴児哈赤)は,万暦 44 (1616) 年にハン (汗) 位についた。そのときに国号をと定め,天命と建したとされるが,清朝の根本史料には国号制定の記載がないことから作為したとの説もある。 12世紀の女直人の国家である朝を継ぐ意味で,あるいは後金と称したが,アイシン・グルンとともにマンジュ・グルン,ジュシェン・グルンなどの国号も併称していたとみられる。第2代の太宗 (ホンタイジ〈皇太極〉 ) が,チャハル (察哈爾) 部を従え,大伝国の璽を得たのを機会に,天聡 10 (36,明の崇禎9) 年4月に国号を大と改め,崇徳と改し, (アイシン) やマンジュの国号は消滅した。
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デジタル大辞泉の解説
1 品物を受け取ったあとで代を支払うこと。⇔前(まえきん)。
2 代のうち、手付けや内(うちきん)を払った残りの。残。あとがね。
中国、の建国時の国号。1616年、女真(じょしん)族の首長ヌルハチ(太祖)が建国。都は興京。1636年、2代太宗によってと改称。
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百科事典マイペディアの解説

中国の王朝名。清朝の前身。女真族を統一したヌルハチは,1616年帝位につき,国号をアイシン()と称した。同じ女真族のにならったものである。よって後金と呼ばれる。次の太宗の1636年と改称。
→関連項目万暦帝|ホンタイジ(皇太極)
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世界大百科事典 第2版の解説
の太祖ヌルハチの建てた国。ヌルハチは建州女真族の名家の出であったが,その25歳の1583年に祖父と父とを明軍に誤って殺されたのを機に,わずかの手勢をもって自立して女真族の統一事業に乗り出した。88年までに建州女真族の統一を達したが,その間87年に本拠地の蘇子河畔にフェアラ城(今の寧省賓県旧老城にあたる)を築いた。いっぽう明朝に対してはつとに恭順の態度をとって和好をつづけ,89年(万暦17)明から都督僉事(せんじ)に任ぜられ,95年には竜虎将軍に封ぜられた。
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大辞林 第三版の解説

⇒ あときん(後金
①契約の額のうち、一部を支払った残りの額。残。あとがね。 ⇔ 内うちきん
②代の支払いをあとですること。また、その
しん朝初期の国号。1616年、ヌルハチ(太祖)が女真族を統一して建国。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
中国、(しん)朝建国以前(1616~36年の間)の国号。建州左(けんしゅうさえい)出身の太祖ヌルハチは女直(じょちょく)(女真(じょしん))民族の統合に伴い、1616年に八旗の諸貴族、大臣に推されて、スレ・ゲンギエン・ハン(聡明(そうめい)なる汗)の尊号を受けてハンの位についた。のちになって編纂(へんさん)された『満州実録』(清朝の官撰(かんせん)歴史書)では、このときを後金国(朝の後継王朝という意)の建国、天命年としている。当時、女直民族統合国家の名称としてはマンジュ国があり、一方、対外的には、明(みん)や朝鮮に対して、(アイシン)、後金国が使われていた。後金は2代太宗ホンタイジの1636年、満州・蒙古(もうこ)・人を支配する中央集権的な国家への転換期に「大」の国号に変わった。[細谷良夫]
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精選版 日本国語大辞典の解説

〘名〙 契約の額のうち、手付または内を支払った残りの。残。あときん。
※浄瑠璃・関取千両幟(1767)二「五百両といふまで渡し、跡の二百両才覚する其内に、太夫殿を外の手へ渡しては」
〘名〙
① =あとがね(後金
※是は是は(1889)〈幸田露伴〉一「一千円を手付けにして跡(アトキン)今日までに間に合はす約束を定め」
② 品物を受け取ったあとで代を払うこと。また、その。⇔前
中国、の前身。太祖(ヌルハチ)が一六一六年女真(女直)族を統一して称した国号。その子太宗(ホンタイジ)が一六三六年大と改称。
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
の前身。1616年,ヌルハチ(の太祖)が満州統一後に称した国号
かつての満州の大国の後継者であるという意味。1619年サルフの戦いで明を破り,都を陽,さらに瀋陽(現在の奉天)に遷した。1636年に太宗ホンタイジがと改称。
⇨ こうきん
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世界大百科事典内の後金の言及
】より

…1616‐1912年。はじめ国号を後金と称し,1636年(崇徳1)にと改めた。東北を統一した後,44年(順治1)長城をえて中国本土に入って国都を瀋陽から北京にうつし,明朝滅亡の後を継いで全中国を統治する征服王朝となった。…

※「後金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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