呉
呉(読み)クレ
くさ・るく・れるご呉 Wú地名姓氏漢字項目
デジタル大辞泉の解説
1 中国春秋時代の呉(ご)の国。転じて、中国のこと。
2 広く、中国から伝来した事物に冠していう語。他の名詞の上に付いて複合語をつくる。「呉竹」「呉楽」
広島県南西部の市。もと軍港で、海軍鎮守府があった。造船業・重工業が盛ん。人口24.0万(2010)。
姓氏の一。
[補説]「呉」姓の人物
呉茂一(くれしげいち)
呉秀三(くれしゅうぞう)
中国の国名。
春秋時代の列国の一。揚子江下流地方を領有。都は呉(蘇州)。前6世紀ごろから強大となり楚を脅かしたが、前473年、夫差(ふさ)の時、越王勾践(こうせん)に滅ぼされた。
三国の一。222年、孫権が江南に建国。都は建業(南京(ナンキン))。280年、西晋に滅ぼされた。
五代十国の一。902年、楊行密(ようこうみつ)が淮南(わいなん)・江東地方に建国。都は揚州。937年、南唐に滅ぼされた。
中国江蘇省の異称。
[常用漢字] [音]ゴ(呉)(漢) [訓]くれ くれる
1 古代中国の国名。今の江蘇省・浙江(せっこう)省一帯。「呉越・呉音」
2 中国のこと。「呉服」
[名のり]くに
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
(1)中国,周代の侯国。姫姓。春秋時代の末(前6世紀末),闔閭(こうりょ)・夫差(ふさ)の2代,長江の下流域を本拠として勢力を拡大,中原にも進出したが,前473年越王句践(こうせん)に敗れ,併合された。→春秋戦国時代(2)中国,三国の一つ。222年―280年存続。魏・蜀と鼎立した。父孫堅,兄孫策を継いだ孫権は劉備と結んで曹操の軍を赤壁に破り(220年),222年江南に建国,建業(現,南京)に都した。江南の開発を進め,北部ベトナムまで領域を広げたが,孫権の死後は国勢振るわず,晋に滅ぼされた。→三国時代(3)中国,五代十国の一つ。902年―937年存続。別名は淮南(わいなん)国。淮南節度使として揚州に拠った楊行密が,唐朝から902年呉王に封ぜられて建国。その死後は軍権を握った権臣の徐氏が国政を左右し,4代にして徐氏の南唐(唐)にとって代わられた。
→関連項目越|魏晋南北朝時代|蘇州|孫子|太宗(宋)|覇者|扶南|六朝文化
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
古代日本において中国の長江(揚子江)下流地域をさす名称。拡大して中国全体をさすこともある。《新撰姓氏録》では呉は諸蕃(しよばん)の漢・百済・高麗・新羅・任那のうちの〈漢〉に属し,春秋時代の呉(ご),三国時代の呉,南北朝時代の梁(りよう)がそれぞれ〈呉〉と記されている。《日本書紀》には応神天皇から斉明天皇の条にかけて呉(くれ)の名がみえるが,そのさす内容は必ずしも一定しない。大部分は長江下流地域(南北朝時代でいえば南朝の地)をさすが,遣唐使の吉士長丹(きしのながに)がその功によって〈呉氏〉という姓を授けられたり,遣唐使の航路が〈呉唐(くれもろこし)の路〉と記されているのは,呉(くれ)の名で中国全体をさすこともあった証拠である。
中国の三国時代に魏・蜀と鼎立し,ついで晋と対峙して長江(揚子江)中下流域から華南を支配した国。222‐280年。呉郡富春(浙江省富陽県)出身の孫堅が後漢末の群雄の一人として活躍したのち,子の孫策が長江下流域を制したが若死する。その地盤をついだ弟の孫権は劉備と同盟して208年(建安13),南下する曹操の軍を赤壁に破り,さらに219年,劉備に勝って長江中流域以南を領有した。魏と蜀があいついで帝号を称したのに対抗して,222年(黄武1),孫権は呉王として独立したのち,229年(黄竜1)に帝位について首都を建業(南京)に定めた。
中国,五代十国の一つ。902‐937年。淮南(わいなん)ともいう。唐末の群雄より身をおこした淮南節度使楊行密が建てた国。揚州を拠点に安徽,湖北,江西にまで支配を及ぼした。軍閥割拠の弊を改め中央軍(牙軍)を強化したが,牙軍を掌握する徐温らに実権が移り,2代目以後は完全に徐氏が国政を牛耳り楊氏はその傀儡(かいらい)と化した。919年(武義1),呉国王と称し,927年(乾貞1)にはさらにすすんで皇帝号を称した。
中国,春秋時代の侯国。?‐前473年。句(こう)呉,攻呉とも書かれる。周太王の子の太伯と仲雍が,弟の王季に位を譲り,江南に行き,文身・断髪して蛮族の君となって建てた国という。春秋後期になって史上に活躍し,江蘇省蘇州に都をおき,一時は楚の都の郢(えい)(湖北江陵県)を攻めおとし,王夫差のとき南の越を屈服させ,北上して晋と覇を争うなどしたが,そのすきに越に攻められ,前473年夫差は越王句践に包囲され,自殺し,呉は滅んだ。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
①古く、中国の呉ごの国をいった語。江南地方をもいい、また、広く中国を意味した。
②中国伝来の事物である意の複合語を作る。 「 -竹」 「 -楽」
広島県南部の市。広島湾に面し、江田島に対する。戦前は海軍工廠こうしようがおかれた軍港。現在は呉港を中心に重工業が発達。
姓氏の一。
①中国、春秋時代の列国の一(?~前473)。長江下流域を領有。楚そ・越と抗争し中原進出をはかったが、闔閭こうりよの子夫差ふさのとき、越王勾践こうせんに滅ぼされた。
②三国時代の王朝の一(222~280)。都は建業(今の南京)。孫権が江南に樹立。彼の死後衰え、西晋の武帝に滅ぼされた。
③五代十国の一(902~937)。淮南わいなん節度使の楊行密が揚州を中心に樹立。徐知誥じよちこうに滅ぼされた。
④ ◇今の江蘇省のうち長江以南一帯の地名。
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
精選版 日本国語大辞典の解説
〘他ラ四〙 「呉れる」の尊敬語。くださる。上方の語。
※浄瑠璃・蘆屋道満大内鑑(1734)四「定(さだめ)ておりためがあらふ。売(うっ)てほしやと思ふからなんとうってくさりませぬかい」
広島県南部の地名。広島湾に面し、旧海軍の軍港として知られた。第二次世界大戦後は、工業・港湾都市として発展。明治三五年(一九〇二)市制。
[1] 中国の春秋時代、江南の地にあった呉(ご)の国。転じて、中国をいう。
※書紀(720)応神三七年二月(北野本南北朝期訓)「阿知使主(あちのをむ)・都加使主(とかのおむ)を呉(クレ)に遣(また)す、命(みことのり)して縫工女(きぬぬひめ)を求(ま)く」
[2] 〘語素〙 呉の国、また広く中国から伝来したもの、伝来したと伝えられるものに冠していう語。「呉織(くれはとり)」「呉竹(くれたけ)」など。
姓氏の一つ。
〘他ラ下一〙 く・る 〘他ラ下二〙
[一] 人に物を与える。やる。
① ある人が、話者または話者側の者に、物を与える。
※書紀(720)神代上(水戸本訓)「汝が持(も)たる八坂瓊の曲玉を予に授(クレ)よ」
② 一般に、人または動植物に物を与える。受け手の身分や地位が与え手より低い場合、または、話者が受け手を軽蔑(けいべつ)している場合に用いることが多い。
※土左(935頃)承平五年一月七日「この長櫃(ながひつ)のものは、みな人、わらはまでにくれたれば」
※帽子(1906)〈国木田独歩〉「そんな帽子お前に呉(ク)れてやる」
③ 緊張を解く。余裕を与える。ゆるめる。
※平家(13C前)四「馬の足のおよばうほどは、手綱をくれてあゆませよ」
④ 染めつける。
[二] 補助動詞として用いる。多く動詞の連用形に接続助詞「て」を添えた形に付く。
① 話者または話者側の者に対してなされた他者の行為の下に付けて、その行為が好意的になされたり、こちらに利益や恩恵をもたらしたりするものであることを表わす。感謝や懇願の意を含むことが多い。
※太平記(14C後)一八「如何にもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ」
※夢酔独言(1843)「龍太夫と云おしの処へいって、〈略〉かくのしだい故留めてくれろといふがいい」
② 話者または話者側の者に及んだ他者の行為の下に付けて、その行為が非好意的になされたり、こちらに不利益や損害をもたらしたりするものであることを表わす。
※人情本・仮名文章娘節用(1831‐34)三「こんなにわづらってくれちゃア、実にどうも困りきるぜ」
③ 話者が他人に対してする行為の下に付けて、その行為が非好意的になされたり、相手に不利益や損害をもたらしたりするものであることを表わす。相手への敵意や、あなどり、あてつけの気持を伴う。やる。
※虎明本狂言・髭櫓(室町末‐近世初)「ひげをむしりてくれんとてきっさきをそろへてかかりけり」
[補注]現代の共通語では他者が話者に物を与えることを表わすが、古くは話者が他者や動植物に対して物を与える意をも表わした。話者が他者に物を与える場合、現代の共通語では「やる」を用いることが多いが、方言では「くれる」で表わす地方も少なくない。
中国の王朝名。
[一] 春秋時代、揚子江下流にあった国。都は呉(蘇州)。紀元前六世紀頃から強盛となり、楚、越と抗争し、一時中原に覇を争ったが、紀元前四七三年越に滅ぼされた。
[二] 後漢末、三国の一つ。二二二年孫権が江南に建国。都は建業(南京)。魏、蜀と天下を三分したが、二八〇年晉に滅ぼされた。
[三] 五代十国の一つ。九〇二年、楊行密が淮南、江東に建国。都は揚州。九三七年南唐に滅ぼされた。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
旺文社世界史事典 三訂版の解説
①周代に長江下流(現在の蘇州)にあった国
②三国時代の一国 222〜280
③五代十国の一国 902〜937
春秋時代末期に五覇の1つとして強大となったが,南方の越としばしば争い,夫差のとき,越王勾践 (こうせん) に滅ぼされた(前473)。
後漢 (ごかん) 末期の豪族孫権が蜀 (しよく) と結んで魏の曹操の大軍を赤壁 (せきへき) の戦いで破り(208),地位を確立。建業(現在の南京)を都として建国。基盤とした江南の開発につとめ,六朝の最初に数えられる。晋に滅ぼされた。
節度使楊行密が揚州を中心に建国した。後梁 (こうりよう) の朱全忠と戦う。4代で南唐に国を奪われた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典内の呉の言及
【魏晋南北朝時代】より
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
【三国時代】より
…3世紀の中国で魏,呉,蜀(漢)の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った漢王朝の瓦解によって生まれた政局で,魏晋南北朝の分裂時代がここに始まる。…
【五代十国】より
…中国で,907年(天祐4)に唐が滅び,960年(建隆1)に宋が成立して979年(太平興国4)に統一を完了するまでの時期を,五代十国時代という。この間,華北では後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したので五代といい,その他の地域に前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越,閩(びん),荆南(南平),楚,南漢,北漢などが併存したので十国という。唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。…
※「呉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
[三国時代(220~280)]
[呉(222~280)]
[後漢・孫氏]破虜将軍(孫堅)-討逆将軍(孫策)…
[呉]大帝(孫権)-会稽王(孫亮)-景帝(孫休)-末帝(孫晧)
孫権(182~252)
呉の大皇帝⇒。
士燮(137~226)
字は威彦。蒼梧郡広信の人。士賜の子。若くして洛陽に遊学し、劉陶に師事した。孝廉に推挙され、尚書令となった。茂才に挙げられ、巫県の令を経て、交趾太守となった。後漢の献帝のとき、天下は大乱となり、弟の士壱を合浦太守に、士イ※1を九真太守に、士武を南海太守にあてるよう上表して認められた。中原から難を避けた士人を保護し、交州の実権を握った。綏南中郎将となり、のちに安遠将軍に任ぜられ、度亭侯に封ぜられた。建安十五年(210)、孫権が歩隲を交州刺史として派遣すると、孫権に帰順し、左将軍となった。益州の豪族の雍闓に働きかけて孫権に帰属させた。衛将軍となり、竜編侯に封ぜられた。交趾郡にあること四十余年で没した。
虞翻(164~233)
字は仲翔。会稽郡余姚の人。はじめ会稽太守の王朗の下で功曹をつとめた。孫策が軍を進めてきたとき、避難するよう王朗に勧めた。王朗はその意見を聞かず孫策と戦って敗れ、海上に逃れた。東部侯官までいたったが、老母のために会稽に戻り、孫策に仕えて功曹となった。のち富春県の長になった。孫策が死んだとき、変事に備えて任地にとどまったまま喪に服した。茂才に推挙されて曹操に招かれたがこれを拒絶した。孔融と交際して『易経』の註釈を論じた。孫権に騎都尉に任ぜられたが、意に沿わない諫言をたびたびおこなったので、丹楊の涇県に遷された。呂蒙が虞翻を許されるように取りはからって、対関羽戦に従軍した。このとき関羽の死を予見したといわれる。関羽に捕らわれていた魏の于禁を解放すると、孫権が親しく待遇しようとしたが、虞翻は于禁が礼遇を受けるのに反対し、魏に帰還させず処刑するよう主張した。また降将の麋芳を侮辱した。人のことを顧慮せずに正しいと思うことを押し通し、酒の席での失敗が多かった。孫権に憎まれて交州に遷された。その後も学問研究を続けて『老子』『国語』『論語』などに註釈をつけた。配流地で没した。『周易注』。
僧支謙(?~?)
字は恭明。月氏の後裔。胡書を学び、六カ国語に精通した。支亮に師事して仏教を学んだ。建安末年に中原の混乱を避けて、呉に逃れた。孫権に召されて博士となった。黄武・建興年間にかけて四十九部の大小乗経典を漢訳した。また『賛菩薩連句梵歌』を創作した。孫権の信任厚く、太子孫登を補佐した。孫登が早逝すると穹隆山に隠居し、六十歳で寂した。
諸葛瑾(174~241)
字は子瑜。瑯邪郡陽都の人。諸葛亮の兄にあたる。後漢末に江東に移住し、孫権に仕えて長史となった。建安二十年(215)、蜀の劉備との間の使者として好を通じることに成功し、孫権の信任をえた。関羽の討伐に加わって宣城侯に封ぜられ、綏南将軍となり、呂蒙に代わって南郡太守をつとめた。黄武元年(222)、左将軍・公安督・仮節となり、宛陵侯に封ぜられた。五年(226)、襄陽を攻めて司馬懿に敗れた。黄龍元年(229)、孫権が登極すると、呉の大将軍・左都護・領豫州牧に上った。嘉禾三年(234)、孫権が合肥を囲んだとき、夏口に駐屯したが、魏の明帝が親征してきたため退却した。赤烏四年(241)、軍を率いて柤中を攻めたが、司馬懿が魏の援軍として現れたため退却した。この年に没した。
顧雍(168~243)
字は元歎。呉郡呉県の人。若いころ蔡邕に師事して、学問と琴の伝授を受けた。婁・曲阿・上虞で治績をあげた。孫権が会稽太守となると、丞として政務を代行した。孫権が呉王となると、大理・奉常・尚書令に累進し、陽遂郷侯に封ぜられた。黄武四年(225)、太常となり、醴陵侯に封ぜられた。孫邵に代わって丞相・平尚書事となった。しばしば献策して、用いられれば孫権の発案として主君の顔を立て、用いられない場合は他言しなかったという。嘉禾二年(233)、孫権が遼東の公孫淵を燕王に封じようとしたとき、これを諫めたが聞き入れられなかった。のち呂壱の専横にあって、冤を受けて譴責された。呂壱の罪が発覚してこれを取り調べたが、私怨にとらわれずこれを公正にあつかった。相位にあること十九年にして没した。
陸遜(183~245)
字は伯言。もとの名は議。呉郡呉県の人。二十一歳のときに孫権の幕下に入り、のちに海昌屯田都尉となった。山越の潘臨や尤突の乱を鎮圧して、定威校尉に任ぜられた。兵を率いて丹陽の費桟を破り、精兵数万人を得た。建安二十四年(219)、蜀の関羽が魏将・曹仁の守る襄陽を攻めたとき、呉の陸口に鎮していた呂蒙が病と称して建業に退き、陸遜が代わって偏将軍右部督として陸口に鎮した。関羽の油断を誘って、ついに呂蒙とともに関羽を攻めて、公安・南郡を落とした。功績により華亭侯に封ぜられた。のちに右護軍・鎮西将軍となった。黄武元年(222)、蜀の劉備が呉に攻めてくると、大都督・仮節に任ぜられて、軍を率いて蜀軍に火攻し、大勝を博した(夷陵の戦い)。輔国将軍・領荊州牧を加えられ、江陵侯に封ぜられた。七年(228)、魏の揚州牧・曹休の軍を石亭で破った。黄龍元年(229)、上大将軍・右都護に上った。嘉禾五年(236)、孫権が合肥を囲んだとき、諸葛瑾とともに襄陽を攻めたが、孫権の本軍が退却したため孤立の危機に陥った。このときむしろ襄陽に攻めかけて威勢を示し、戦果をえて退却した。赤烏七年(244)、顧雍に代わって丞相となった。ときに魯王・孫覇が孫権の寵を受け、太子・孫和に不安が出てくると、陸遜は嫡庶の順を論じて上疏したが聞き入れられなかった。外甥の顧譚らが太子に親侍していたために流罪とされ、友人の吾粲は殺され、たびたび孫権からの問責の使者が来るにいたって、憤りのあまり死んだ。
諸葛恪(203~253)
字は元遜。瑯邪郡陽都の人。諸葛瑾の長男。はじめ騎都尉に任ぜられ、呉の皇太子・孫登の賓友となった。嘉禾三年(234)、撫越将軍に任ぜられ、丹陽太守を領し、兵を率いて山越を攻めた。兵糧攻めで山越を降し、功績によって威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。赤烏年間に陸遜が没すると、大将軍・仮節に上り、武昌に鎮し、陸遜に代わって荊州を守った。孫権が薨じ、孫亮が立つと、太傅に任ぜられて国政の改革に尽力して人心を得た。建興元年(252)、魏軍を東興で破り、陽都侯に封ぜられ、荊州牧・揚州牧・都督中外諸軍事を加えられた。翌年、魏を攻めて勝てず、士卒の多くに傷病を負わせたため、国内に怨嗟の声が満ちた。のちに孫峻に殺された。
張布(?~264)
はじめ呉の琅邪王・孫休の左右督となり、信任を受けた。孫休が即位すると、長水校尉から輔義将軍に遷り、永康侯に封ぜられた。永安元年(258)に左将軍をつとめていたとき、丞相・孫綝が専横をきわめ孫休の廃立を図ったため、丁奉とともにこれを誅殺した。代わって丞相となった濮陽興とともに呉の朝政を牛耳った。元興元年(264)、孫休が薨ずると、濮陽興らとともに孫晧を擁立した。孫晧は即位すると粗暴驕慢となり、そのため張布は後悔したが、そのことを万彧に密告されて罪を得て広州に流され、道中に殺された。
丁奉(?~271)
字は承淵。廬江郡安豊の人。若くして甘寧・陸遜らに従って戦功を挙げ、偏将軍となった。孫亮が即位すると、冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられた。建興元年(252)、魏将諸葛誕を東興で破り、滅寇将軍・都郷侯に進んだ。太平二年(257)、左将軍となる。孫休が即位すると、張布らと謀って大将軍孫綝を殺し、大将軍に上り、左右都護を加えた。永安三年(260)、徐州牧を領した。六年(263)、魏が蜀を攻めると、寿春に向かって魏を牽制したが、蜀が滅んだため軍を返した。孫休が薨ずると、濮陽興らとともに孫晧を擁立した。宝鼎三年(268)、合肥を攻めて、晋の石苞を計略で退けた。
丁固(198~273)
もとの名は密。字は子賎。会稽郡山陰の人。幼くして父を失い、家は貧しかった。太平二年(257)、鄱陽・新都の民の叛乱を鎮圧した。永安五年(262)、左御史大夫となる。甘露元年(265)、武昌への遷都に際して、諸葛靚とともに建業にとどまり鎮した。宝鼎元年(266)、永安の山民施但の乱を平定した。三年(268)に司徒に上った。
韋昭(?~273)
史書では韋曜と書く。字は弘嗣。呉郡雲陽の人。若い頃から学問を好んだ。丞相府掾・西安県令・尚書郎を経て太子中庶子に上った。太子の孫和に仕えて、文章を作った。孫和が廃されると黄門侍郎となった。孫亮が即位すると諸葛恪に推挙されて太史令に上り、『呉書』の撰述にあたった。孫休が即位すると中書郎・博士祭酒に任ぜられた。孫晧が即位すると、高陵県侯に封ぜられ、中書僕射に上り、侍中に任ぜられた。孫晧に憎まれて捕縛された。獄中から上書し、華覈らが救おうとしたが、孫晧は聞き入れなかったため、処刑されて、家族は零陵に流された。『国語注』。
陸抗(226~274)
字は幼節。呉郡呉県の人。陸遜の次男。二十歳のとき、父を亡くして、建武校尉に任ぜられた。父・陸遜に対する二十箇条の疑惑に逐一答えて、孫権の疑心を解いた。赤烏九年(246)、立節中郎将に上り、柴桑に鎮した。建興元年(252)、奮威将軍に任ぜられた。永安二年(259)、鎮軍将軍に任ぜられ、都督西陵・白帝諸軍事となった。七年(264)、蜀が魏に併呑されてのち、巴東の守将・羅憲が呉に降るのを拒んだため、兵を率いてこれを攻めた。建衡二年(270)、鎮軍大将軍、都督信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事となり、楽郷に鎮した。晋の荊州都督・羊祜と対峙し、また陣営を越えた交友を結んだ。鳳凰元年(272)、西陵督の歩闡が晋に降ったため、軍を率いて西陵を囲んで落とした。翌年、大司馬・荊州牧に上った。三年(274)、病没した。
[註]
1.イ=イ
↓次の時代=西晋
人物事典トップへもどる
[五代十国(907~960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,楚,荊南,呉越,閩,北漢)
[呉(902~937)]
太祖(楊行密)-烈祖(楊渥)-高祖(楊隆演)-睿宗(楊溥)
楊行密(852~905)
字は化源。呉の初代太祖武皇帝と追尊された。在位902~905。廬州合肥の人。怪力の巨漢で、容貌魁偉だったという。はじめ群盗に加わっていたが、唐の軍隊に応募して西北の守備にあたった。勢力をたくわえて兵乱を起こし、廬州を占拠した。中和三年(883)、廬州刺史となった。秦彦・畢師鐸らと戦い、揚州に入った。景福元年(892)、淮南節度使に任ぜられた。孫儒を破って、江淮を兼併した。乾寧四年(897)、朱全忠の将の龐師古を淮水清口で破った。天復二年(902)、太師・中書令となり、呉王に封ぜられた。かれに叛いた田頵らを討ち、内患を除去した。高勗らの策に従って、農耕養蚕を勧奨し、賦役を軽減して、江淮に比較的穏健な政権を樹立した。
楊渥(886~908)
字は承天。呉の二代烈祖景皇帝と追尊された。在位905~908。楊行密の長男。宣州観察使をつとめた。父が亡くなると、淮南節度使・呉王を称した。劉存を遣わして岳州を取り、秦裴を遣わして洪州を奪って、江西を併せた。もとより人望がなく、驕侈なふるまいがひどくなり、父の代からの旧将を次々と粛清した。東院馬軍を設け、球戯に節度なくふけるなど、失政が多かった。張顥や徐温らにより政変が発動され、寝室で殺された。
楊隆演(897~920)
字は鴻源。呉の三代高祖宣皇帝と追尊された。在位908~920。楊行密の次男。天祐五年(908)、張顥や徐温らが兄の楊渥を殺すと、徐温と厳可求が張顥を殺し、楊隆演を主として擁立した。九年(912)、太師・中書令・呉王を称した。徐温が執政して、呉越との戦いを終わらせ、民力を休養させ、経済は発展した。十六年(919)、呉国王位につき、武義と改元し、宗廟を置き、百官を設けた。徐温が専権をふるっているのを喜ばず、甘飲少食のため病となり、夭逝した。
楊溥(901~938)
呉の四代睿宗。在位920~937。楊行密の四男。兄の楊隆演が呉国を建てると丹陽郡公に封ぜられた。兄王が没すると、位を継いだ。徐温が太師となり、厳可求が右僕射となって、民力休養の政策を継続した。乾貞元年(927)、帝位についた。徐知誥が太尉・侍中となって、軍政の大権を握った。升元元年(937)、徐知誥に迫られて位を譲り、呉国は滅んだ。翌年、潤州で没した。
李建勲(?~925)
広陵の人。唐末、中書侍郎・平章事(宰相)に任ぜられたが、後に勢力を失い、撫州節度使に左遷された。さらに呼び戻され、司空を拝命したが、鍾山に別荘を建て、辞職して引きこもった。鍾山公の称号を授かった。『李丞相詩集』。
徐温(862~927)
字は敦美。海州昫山の人。徐知誥(南唐烈祖李昪)の父にあたる。塩商人から身を立て、唐末の乱では楊行密に従って、謀を献じた。呉が建国されると、大丞相に上った。国境の安定と民力の休養のため力を尽くし、自身は節倹をいとわなかったという。
人物事典トップへもどる