0o0dグッ

(読み)ギ

   魏 Wèi

デジタル大辞泉の解説

戦国時代の一国 前403〜前225

戦国時代の一国(前403〜前225)

古代中国の国名。戦国七雄の一。

の六卿の一として勢力を拡大、氏・氏とともにを滅ぼし、その領土を3分。前403年、文侯のときの諸侯に列せられ、現在の山西省南部から河南省北部を領有。都は安邑、のち大(開封)。前225年、(しん)に滅ぼされた。

中国,戦国七雄の一つ。

前403‐前225年。始祖の畢万(ひつばん)はの大夫で,(山西省芮城県)を領地とし,氏と称した。勢力を蓄え,春秋末には・知氏とともにの国政を握った。前453年と知氏を滅ぼしてを三分,前403年王より独立を認められ,安邑(山西省県)に都を置いた。文侯は政治を改革し,戦国初期第一の強国となり,境域を拡大した。文侯死後,の攻撃を受け,都を大(河南省開封市)に遷し,国をとも称した。
中国の三国時代の2国と対峙して華北を支配した国(220‐265)。氏を皇帝とするのでともいう。後漢末の動乱期に,操が対立する群雄を倒して華北を平定し,213年(建安18),献帝から鄴(ぎよう)(河北省臨漳県)を中心とする国公に封ぜられたのが始まりで,3年後に王に進められたが,220年のはじめに死ぬ。後をついだ子の丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする国が正式に立した。
中国,南北朝時代の北朝の一つで,鮮卑族拓跋部が4世紀末から約1世紀半華北に建設した国家。北,後,拓跋などともいう。拓跋部の故地は興安嶺北部と見られ,西遷して盛楽(内モンゴルのホリンゴール)を根拠に諸部族の盟主となり,部族連合によってなる代王国を建設,両王朝とも交渉をもった。西晋の滅亡過程には山西方面から南進を試み,397年代王拓跋珪は後燕の首都中山を攻略して河北一帯を領有,その翌年平城(山西省大同)を首都として帝国を建てた(道武帝)。

[一] 戦国七雄の一つ。

もと安邑(山西)に封ぜられた晉の六卿の筆頭。前四五三年、とともに晉の領土を三分し、山西の南部から陝西の東部および河南の北部を領有。前四〇三年、文公のとき、諸侯として認められ強盛を誇ったが、常にの圧迫を受け、大(河南)に遷都し、前二二五年に滅ぼされる。

(1)中国,戦国七雄の一つ。前453年自立。前225年に滅ぼされる。

を三分して,前403年には王により諸侯に列せられた。山西の大部分を領有,初め安邑(現,山西省県)に都したが,のち大(現,河南省開封市)に移る。よってとも呼ばれた。

古代中国の国名。

春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国の家臣であったの3代が主家を三分独立し,は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれるの対立抗争の時代となるからである。
歴史
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,(山東省曲阜),(山東省臨淄(りんし)),(山東省定陶),(河南省淇県,のち滑県),(河南省),(河南省商丘),(河南省淮陽(わいよう)),(河南省上,のち,さらに安徽省鳳台),(山西省曲沃),(陝西省鳳翔,のち咸陽),(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には王室があった。…
魏晋南北朝時代】より

…しかしやがて州牧の地位は軍閥勢力に奪われる。このような経過によって,の三国政権が生まれた(三国時代)。 操の子丕(そうひ)が帝の禅譲を受けて王朝を建てると(文帝),もそれぞれ帝国を称し,ここに帝国は完全に崩壊した。…

三国時代の一国(220〜265)

三国時代】より

…3世紀の中国で()の3国が鼎立していた時代をいう。統一帝国として400年の命脈を保った王朝の瓦解によって生まれた政局で,南北朝の分裂時代がここに始まる。…

三国時代の一国 220〜265

三国の一。

操(そうそう)が華北を統一し、その子の丕(そうひ)が220年に建国。首都は洛陽(らくよう)。(しょく)・(ご)とともに天下を3分したが、265年、帝はの武帝に禅譲。

[二] 三国の一つ。

二二〇年、操の子丕(ひ)が後漢の献帝を廃してたてた国。首都は洛陽。華北を領し、と天下を三分したが、二六五年、臣下司馬氏の晉に代わった。

三国時代

三国時代操が王となった後、220年にその子丕(文帝)が建国。九品中正などを施行。邪馬台国女王に親王の称号を与える。249年に司馬氏に実権を奪われ、司馬氏は265年にを建国。
 三国時代は、220~265年、洛陽を都として華北一帯を支配した。後漢末の操が、献帝を擁して実権を握り、213年公、216年王となる。220年、操の子の丕が献帝に譲位を迫り、禅譲の形式で皇帝となった。それがの文帝である。

屯田制と九品中正
 では操の始めた屯田制、丕が始めた九品中正制が重要で、後の王朝にも継承された。屯田制は、後漢末の戦乱で荒廃した華北の生産力を回復するために失業者に政府の土地を耕作させ、その生産物を国が租税として徴収しようというものであり、九品中正制は人材登用の基準を整備しての官僚制をの官僚制に組み込むためのものであった。いずれも王朝に始まったが、短命だった王朝のもとでは未完に終わり、王朝と次の南朝、北朝でそれぞれ形をかえながら、随の律令体制という貴族政社会を生み出していくこととなる。<宮崎市定『九品官人法』1997 中公文庫 p.26-32>

と東アジア世界
 または、三国の中でもっとも東に位置していたので3世紀の東アジア情勢に大きな影響を与えた。まず、東の公孫氏や朝鮮半島の高句麗と戦い、その支配は帯方郡に及んだ。そのため、朝鮮半島のさらに東に位置する日本にも関心が高く、239年に邪馬台国の女王卑弥呼が、に使者を送ると、親王の称号を与え冊封体制に組み込んだ。

司馬氏の権力掌握過程
 操が建国した王朝が、わずか数代で司馬氏に実権を奪われ、王朝に代わっていく過程は高校教科書ではまず触れられていないので、わかりずらいことのひとつである。いきなり司馬炎が出て来るが、その祖父の司馬懿、父の司馬昭に遡る長い権力奪取の過程があったことをまず抑えておこう。
司馬懿 は文帝(丕)の死(226年)の後、第2代の明帝の次にその子芳が立ったが幼少であったため、大将軍の爽と太尉司馬懿の二人が補佐した。司馬懿(仲達)は丕の腹心で、特にの諸葛孔明の好敵手として『三国志演義』では敵役として活躍する。を倒す上で大きな功績を立て、次に238年には東の公孫淵を討ち、の満洲・朝鮮半島への領土拡大を実現した。爽は権力の独占を図り司馬懿を引退させると、249年に司馬懿がクーデタを起こし、爽らを殺害、実権を握った。王朝の皇帝は幼帝が続き、しかも王朝の劉氏のような一族を優遇していなかったので、氏の中に実力者が育たず、官僚に支持された司馬氏の実質的権力樹立は容易だった。
司馬昭 司馬懿の後、その子司馬師、その弟司馬昭と続けて大臣となった。司馬昭は263年にを滅ぼして、皇帝から王に封じられた。司馬昭は帝位を譲られる寸前まで行ったが、265年に急死、その子の司馬炎が帝から禅譲を受けて西晋)を建国した。
談 このような司馬氏による帝位簒奪を快く思わなかったの知識人のなかには、政争を避け、詩文の創作などにむかった人々がいた。彼ら風流を好む生き方は談と言われ、後に阮籍などが竹林の七賢といわれるようになる。その一人、嵆康(けいこう)は司馬氏のもとでの仕官を断り、司馬昭によって殺害されている。

参考 司馬氏の権力掌握の意味
 司馬氏の権力奪取の意味については、次の説明が分かりやすい。

   (引用)曹操政権のなによりの特色は、軍人よりも文官(シビリアン)を優遇したことであり、上層を占める文官の大多数は、いうまでもなく清流派知識人(引用者注、後漢時代に宦官と対立した官僚、つまり党人派で多くは党錮の禁で弾圧された)だった。こうして清流派すなわち後漢末抵抗派知識人から、文官重視の曹操政権の重鎮となった人々およびその子孫が、そのまま魏王朝の政治機構の中枢を占めつづけることになる。
    魏王朝の中核的な存在となりながら、依然として彼らの間には、後漢を滅ぼして成立した曹氏王朝に対する根深い違和感が、くすぶりつづけていた。そんななかで、清流派の出身者にはめずらしく、軍事的才能に恵まれ実戦経験も豊富な司馬懿が、正始十年(4月、嘉平と改元=249)、クーデタをおこし実権を掌握したのだから、あとの成り行きは火を見るより明らかだった。魏王朝の高官たちは、三代四人の司馬氏一族が謀略の限りを尽くして、曹氏の魏王朝を滅ぼしてゆく過程を平然と見過ごした。それどころか、彼らの多くは司馬氏の簒奪劇の共犯者となったのである。<井波律子『三国志曼荼羅』2007 岩波現代新書 p.62-63>

三国時代の国の1つです。

中国の王朝の1つで、220年から265年まで続きました。

(2)中国,三国の一つ。220年―265年存続。

後漢末に操が朝の実権をにぎり,華北を統一。子の丕(そうひ)(文帝)は帝位を奪ってしい王朝を開く。との関係も深く,邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)を親王に任じた。洛陽に都し,三国のうち最も強大であった。やがて司馬氏の勢力が高まり,5代にして司馬炎(西晋の武帝)に帝位を奪われる。

南北朝時代の北朝最初の王朝。

386年、鮮卑(せんぴ)族の拓跋珪(たくばつけい)(道武帝)が建国。第3代の太武帝の時、華北を統一。都は初め平城(山西省大同)、のち493年洛陽に遷都。534年に東西に分裂。東は550年、西は556年に滅亡。北。後。拓跋

(3)中国,北朝の一つ。386年―534年存続。

または後とも。鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が前秦の瓦解に乗じて建国,平城(現,山西省大同)を都とした。439年華北を統一,南朝のと対立し,南北朝の時代を現出する。5世紀末孝文帝は洛陽に遷都,化政策をすすめ,均田法などを施行。また歴代諸王は仏教を尊信し,雲岡,竜門などの石窟を開く。しかし6世紀には内乱が起こって実権は将軍たちの手に移り,東西に分裂。これを東(534年―550年),西(534年―556年)という。それぞれ高氏と宇文氏が実権をにぎり,やがて帝位を奪って(北)および(北)を建国する。
→関連項目烏桓|魏晋南北朝時代|高句麗|五胡十六国三国時代(中国)|司馬懿|柔然|春秋戦国時代戦国の七雄|臺與|屯田|府兵制|李【かい】|

[三] 南北朝時代の北朝の一つ。

鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)(=道武帝)が三八六年に建国し、四三九年、五胡十六国の北中国を統一した。極端な化政策をとり、その矛盾から反乱が起きて五三四年東西に分裂し、東は五五〇年、西は五五六年に滅んだ。北。後。拓跋

南北朝時代の北朝の王朝 386〜534

戦国の七雄の1つ。代々 (しん) に仕え,(山西)に封ぜられたので氏を称したが, (ちよう) とともに領を3分して独立,襄 (じよう) 王のときには王を称して威をふるったが,前225年に滅ぼされた。前362年,都を大 (たいりよう) に移してのちはとも呼ぶ。
後漢 (ごかん) 末,操が献帝を擁して実権を握り,王に封ぜられた。その子丕 (ひ) は献帝に強要して譲位させ,後漢は滅亡。洛陽に都してと号し, (しよくかん) ・ (ご) と天下を3分した。屯田制と九品中正を始めたが,権臣司馬氏の勢が強く,司馬炎(武帝)に国を奪われた。
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。平城(山西省大同),のちに洛陽に都した。北・後ともいう。534年東・西に分裂。

南北朝時代の北朝の王朝(386〜534)

戦国七雄の一つ。の始皇帝に滅ぼされた。
後漢末に操 (そうそう) が華北の実権を掌握して王となり,その長男の丕 (そうひ) が帝に迫り,位を譲らせ建国。都は洛陽。『志』人伝は倭国の地理・風俗,邪馬台国 (やまたいこく) 女王卑弥呼のことなどを記し,3世紀の日本に関する貴重な文献。
鮮卑 (せんぴ) の拓跋 (たくばつ) 氏が華北に建国。通称「北」または「後」。534年東・西に分裂。

三国時代(220~280)]
,,
(220~265)]
後漢氏](節)-高帝(騰)-太帝(嵩)-武帝(操)…
]文帝(丕)-明帝(叡)-王(芳)-高貴郷公(髦)-帝(奐)
操(155~220)
  字は孟徳。の太祖武皇帝と追尊された。沛国譙県の人。嵩の子。嵩は侯氏の出で、宦官・騰の養子に入り、太尉にいたった。操は若いころ、遊侠無頼に明け暮れたが、長じては洛陽北部尉・頓丘令などを歴任して後漢の官界で出世を重ねた。黄巾の乱が起こると、これを討伐。董卓が専横を極めると諸侯に檄を飛ばして起兵した。兗州に地盤を固めて、兗州牧となり、後漢の献帝(劉協)を擁して、都を許に移した。やがて袁紹と対立して、官渡にこれを破り、袁氏の残党を滅ぼして華北を統一する。荊州を攻めて、南方に進出するが、赤壁に敗れて、孫権を江南に、劉備をに割拠させてしまった。後に公、丞、さらに王に階位をすすめ、王朝の実権を握ったが、彼の代では簒奪をおこなわなかった。内政においては兵戸制・屯田制を創設し、文学においては建安七子を集めて自らも詩を賦した。また『孫子』に注釈を入れて後世に残した。後世、『三国志演義』の敵役として扱われたため、不当な評価が与えられてきたが、近年その再評価がなされている。
侯惇(?~220)
  字は譲。沛国譙県の人。後漢末に操の裨将となり転戦した。初平年(190)、折衝校尉・東郡太守となった。操が陶謙を攻めたとき、濮陽の留守をつとめ、呂布の襲撃を受けて捕らえられたが、浩の機知に救われた。のちに操の呂布征討に従い、左眼に矢傷を受けた。再び留・済陰太守となり、建武将軍を加え、高安郷侯に封ぜられた。このときに旱害・蝗害に遭い、太寿の河をせきとめて堤を築き、将士を率いて勧農につとめた。河南尹に転じ、伏波将軍に遷った。建安二十二年(217)、二十六軍の督軍として居巣に鎮し、と対峙した。黄初年(220)、丕が帝位につくと、大将軍に上った。その数ヶ月後に没した。
丁儀(?~220)
  字は正礼。沛国の人。操に仕えて丞掾となった。丁イ※1・楊脩らとともに植を後継者とすべく運動した。丕が王位につくと、植の監視を命ぜられたが、従わなかった。丕が帝位に登ると殺された。『刑礼論』。
丁イ※1(?~220)
  字は敬礼。沛国の人。丁儀の弟。操に仕えて黄門侍郎となる。丁儀・楊脩らとともに植を後継者とすべく運動した。丕が王位につくと、植の党与として殺された。
于禁(?~221)
  字は文則。泰山郡鉅平の人。初平年(190)、済北のの鮑信に従って起兵した。のち操に帰順し、都伯となる。建安年(196)、黄巾残党の劉辟・黄邵を征討するのに従い、その衆をことごとく降して、平虜校尉に進んだ。翌年、張繍が降りまた叛いたため、操軍は混乱に陥ったが、ひとり陣容を整えて帰還した。また麾下の青州兵の暴行を取り締まった。功により益寿亭侯に封ぜられた。官渡の戦いでは、袁紹軍を連破した。十一年(206)、昌豨を東海で破り、虎威将軍となり、左将軍に進んだ。二十四年(219)、仁を助けて関羽と樊城で戦ったが、大雨に遭い、水が決壊して孤立したため、降伏した。孫権が関羽を捕らえたとき、ともに捕らえられた。の黄初二年(221)にに還され、安遠将軍となった。文帝はかれが関羽に降ったいきさつを画に描かせており、これを恥じて病をして没した。
(169~222)
  字は文遠。もとの姓は聶。雁門郡馬邑の人。はじめ并州刺史の従事となり、何進・董卓・呂布に属した。建安三年(198)、操が呂布を破ると、操に降って中郎将に任ぜられ、関内侯を賜った。昌豨を東海に降し、袁尚を鄴に攻めるのに従い、烏桓を白狼山に破り、蘭・梅の乱を潜山に平定した。功績によって盪寇将軍となり、都亭侯に封ぜられた。合肥に鎮し、対孫権の前線を守った。建安二十年(215)、孫権が十万の兵を率いて合肥を囲んだとき、精鋭八百人で軍を撃ち、その士気を阻喪させた。孫権が軍を退くところをさらに追撃し、孫権の本陣に肉薄した。の文帝が即位すると、前将軍に任ぜられた。黄初三年(222)、休らとともにの呂範の軍を破った。江都で病死した。
丕(187~226)
の文帝,世祖⇒。
王朗(?~228)
  字は景興。諡は侯。東海郡郯県の人。経書に通じていたため、郎中に任ぜられ、菑丘の長となった。太尉楊賜が没すると、官を捨てて喪に服した。のち会稽太守となった。建安年(196)、孫策が浙江に渡り経略をはじめると、兵をしてこれをはばんだが、固陵において敗れた。海を渡って東冶に逃れたが、追撃を受けて孫策に降った。操に召し出され、諫議大夫・参司空軍事となった。国が建てられると、郡太守となり、少府・奉常・大理を歴任した。丕が王位につくと、御史大夫に進み、安陵亭侯に封ぜられた。丕が帝位につくと、司空に任ぜられた。明帝のとき、司徒に転じた。刑政は寛容につとめ、しばしば上疏して歴代の主を諫めた。
賈逵(174~228)
  字は道。諡は粛侯。河東郡襄陵の人。名家の出で、祖父の賈習に兵法を学んだ。はじめ河東郡の役人となり、絳邑の長を代行した。郭援が河東を攻撃したとき、捕虜となったが、拝伏することを承知しなかった。郭援が敗れると、祝公道に救われて解放された。のちに茂才に推挙され、澠池の令に任ぜられた。このとき高幹の叛逆に呼応した張琰に抵抗した。祖父の喪に服すためひとたび官を去ったが、のちに司徒掾・議郎となり、丞主簿を経て、諫議大夫に上った。操が没すると、丕に仕え、鄴の令・丞主簿祭酒を経て豫州刺史に上った。文帝は彼を都督としようとしたが、休が反対したため取りやめた。
鍾繇(151~230)
  字は常。諡は侯。潁川郡長社の人。族父の鍾瑜に育てられ、学問に励んだ。孝廉に推挙され、尚書令・陽陵県令となったが、病を理由に退いた。再び召されて廷尉正・黄門侍郎となった。李カク※2・郭汜のもとより、献帝を脱出させるのに功績があり、御史中丞に任ぜられた。侍中・尚書僕射に上り、東武亭侯に封ぜられた。隴西で馬騰・遂が強力となると、司隷校尉を兼務して、長安に赴任し、関中の軍を指揮した。袁尚の任じた河東太守・郭援が来攻すると、汾水河畔でこれを破った。関中の住民を洛陽に移住させ、この功で前軍師に任ぜられた。操が王となると、大理となり、国に上った。諷の叛乱未遂に連座して免職となったが、丕が王となるとふたたび大理となった。丕が帝位につき、朝が開かれると、廷尉・崇高郷侯となった。太尉・平陽郷侯に上った。明帝が立つと、太傅・定陵侯に上った。古代の肉刑を復活させることを進言し、死刑を軽減させようとした。
覬(?~230)
  字は伯儒。河東郡安邑の人。若くして才学によって称揚された。後漢末に操に召し出されて司空掾属となり、茂陵令・尚書令に任ぜられた。建安四年(199)、関中に鎮し、塩の売買を監督し、農耕を勧奨し、流民の帰郷を促すよう建議して、操が司隷校尉を置いてこれらを実行させたため、関中諸将を服従させることができた。尚書に上り、のちの侍中となった。文帝が即位すると、再び尚書となり、陽吉亭侯に封ぜられた。明帝のとき、閺郷侯に進み、律博士を置き、官吏に刑法を教えるよう上奏した。また民の労役を軽減し、宮廷の奢侈を改めるよう諫めた。古文を好み、烏篆・隷草をよくした。『官儀』。
華歆(157~231)
  字は子魚。諡は敬侯。平原郡高の人。孝廉に推挙され、郎中となったが、病を理由に退いた。何進に召されて、尚書郎となった。董卓が長安に遷都すると、下邽県令として赴任する途中、袁術のもとに身を寄せた。のち馬日テイ※3の掾となり、ついで豫章太守に任ぜられた。孫策を迎えて仕えた。孫策が没すると、操に召されて議郎となり、尚書・侍中・尚書令・御史大夫を歴任した。丕が王に上ると、国に上って安楽郷侯に封ぜられた。丕が帝に即位すると、司徒となった。明帝が即位すると、太尉をつとめた。顕位に上っても廉公正なことで知られた。太和年間、真らを伐から引き揚げさせるよう上奏して聞き入れられた。
植(192~232)
  字は子建。思王。操の四男。母は卞皇后。十歳のときに文辞賦数十万言を暗誦して、優れた才能を見せた。七歩の間に詩を作るといわれた。質素を好み、操の諮問にはすぐ答えを出したという。平原侯から臨淄侯となった。操は、彼を太子にと考えたこともあった。だが、気ままな行動が多く、飲酒を好んで節制を欠いたので取りやめた。丕が即位すると疑いの目を向けられた。鄄城・雍丘・浚儀・東阿など封地をたびたび変えられた。最後にに封じられて王となった。兄皇帝に重用されることなく、失意のうちに病没した。
邯鄲淳(?~?)
  字は子叔。一名は竺ともいう。潁川の人。広く学問を学び、とくに『説文解字』や『古今字指』などに通じて、文字に詳しかった。また扶風の喜に篆書を学び能書家として知られた。丕と植はこの人を招くことを争ったが、操は植のもとに行かせた。博士給事中まで上った。『笑林』。
爽(?~249)
  字は昭伯。沛国譙県の人。真の子。の明帝のとき、散騎侍郎となり、累進して大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事に上った。明帝の遺詔を受けて、司馬懿とともに芳を補弼した。芳が即位すると、侍中を加えられ、武安侯に封ぜられた。専権を握るべく、司馬懿を名誉職の太傅にまつりあげ、兵権を奪った。諸弟を侍従として兵を掌握させ、何晏らを腹心として据えて、朝政を専断した。正始五年(244)、大軍を率いて駱谷からに侵入したが、険阻な地形に阻まれて多くの軍衆を失った。十年(249)、帝に従って高平陵に参拝したとき、司馬懿が皇太后の令を受けたと称して洛陽の武器庫を占拠し、爽の罪状を並べ立てた上で城門を閉ざしたが、爽はすすべなく屈服し、捕らえられて一族郎党もろとも処刑された。
王弼(226~249)
  字は輔嗣。山陽郡高平の人。王業の子。王宏の弟にあたる。に仕えて、尚書郎にまで上った。『老子注』、『易注』。
何晏(?~249)
  字は平叔。南陽郡宛県の人。何進の孫にあたる。母が操の夫人となったため、その宮廷で育った。文帝には嫌われて任官できなかった。明帝の時代に閑職に回された。王芳の時代になって、爽に迎合して、散騎侍郎に任ぜられ、侍中尚書に上った。官吏の任用を司って、旧知の者を多く登用した。司馬懿が爽の一派を族滅したとき、ともに誅殺された。自己愛が強く、どんなときも白粉を手に放さず、自分の影を振り返り眺めるほどであったという。『道徳論』、『論語集解』。
丁謐(?~249)
  字は彦靖。沛国譙県の人。丁斐の子。はじめ鄴に住んだ。明帝のとき度支郎中として召された。芳が立つと、散騎常侍となり、尚書に転じて、爽に重んじられた。しばしば人を弾劾し、貴人を侮蔑したので憎まれた。正始十年(249)、司馬懿の起こした政変により殺された。
胡昭(162~250)
  字は孔明。潁川郡の人。はじめ袁紹に招聘されたがこれを断った。次いで操に招聘されて応じたが、自分は国家の役には立たないことを述べて、致仕を請うた。許されて陸渾山の山中に居を構え、農耕に従事し経籍を読むことを楽しんだ。孫狼が乱を起こしたとき、辺の郡県を荒らしたことがあったが、胡昭の徳を慕って彼の住所は襲わなかったという。のち、宜陽に移り住んだ。正始年間にたびたび推薦されて、嘉平二年(250)に召命が下ったが、ちょうど亡くなっていた。高士のひとり。隷書に巧みであった。
王淩(172~251)
  字は彦雲。太原郡祁県の人。王允の甥にあたる。後漢の献帝のとき、孝廉に挙げられ、干の県長となり、中山太守に累進した。操に召されて丞掾属をつとめた。の文帝のとき、散騎常侍・兗州刺史となり、張らとともにを討つのに功があり、宜城亭侯に封ぜられ、建武将軍を加えた。揚州刺史・豫州刺史を歴任して、治績を挙げた。正始初年に征東将軍・仮節・都督揚州諸軍事となり、の全琮の攻撃を撃退し、南郷侯に改封された。車騎将軍に進み、のち司空・太尉に進んだ。ときに外甥の令狐愚が兗州刺史となり、叔父甥がともに兵を預かっていた。ふたりは共謀して芳を廃し、彪を擁立しようと計画した。嘉平三年(251)、黄華と楊弘により司馬懿に密告され、討伐を受けて司馬懿に降った。洛陽に送られる途中、項において毒を飲んで没した。子の屯騎校尉王広もまた誅された。
司馬懿(179~251)
  字は仲達。の宣帝と追尊された。河内郡温県の人。司馬防の次男。建安十三年(208)、操に招かれたが、はじめ病を理由に拒絶していた。強引に招聘されて任官し、文学掾に任ぜられた。のち丞主簿に転じた。二十年(215)、操が中を奪うと、を征討することを進言したが、取りあげられなかった(「望」の故事)。二十四年(219)、関羽が樊城を囲んだとき、と連合する策を進言して功させた。に入って、黄初七年(226)に文帝(丕)が崩ずるとき、真・羣らとともに明帝(叡)の補佐を遺嘱された。太和年(227)、都督荊・豫州諸軍事に任ぜられた。からの降将・孟達が再びに寝返ると、速攻して城を陥して孟達を斬った。関中を守備して、の諸葛亮の北伐に対抗した。景初二年(238)、東の公孫淵を討って勢力を強めた。明帝の死後、侍中・都督中外諸軍事・録尚書事に上ったが、爽との権力闘争に敗れた。十年の雌伏ののちの嘉平年(249)、爽一派をことごとく誅殺した。丞に上り、王朝の専権を握った。のちの王朝の基礎を築いた。
応璩(190~252)
  字は休璉。汝南郡南頓の人。応瑒の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。
韋誕(179~253)
  字は仲将。京兆郡杜陵の人。韋端の子。韋康の弟にあたる。はじめ郡の上計吏となったが、郎中に起用され、侍中・中書監に累進し、光禄大夫にまで上った。草書に巧みで「草聖」と呼ばれた。
毋丘倹(?~255)
  字は仲恭。河東郡聞喜の人。の武威太守毋丘興の子。父の高陽郷侯の爵位を継ぎ、平原王文学をつとめた。明帝(叡)が立つと、尚書郎となり、羽林監に進んだ。洛陽典農・荊州刺史・幽州刺史を歴任し、度将軍・持節・護烏桓校尉の位を加えた。景初年(237)、軍を率いて東の公孫淵と隧で戦い、利あらずして退いた。翌年、司馬懿に従って公孫淵を破り、東を平定すると、功により安邑侯に封ぜられた。正始年間に高句麗を攻めて、丸都を破壊した。左将軍・仮節監豫州諸軍事に進み、豫州刺史を兼ね、鎮南将軍に転じた。諸葛誕に代わって鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。正二年(255)、揚州刺史文欽とともに挙兵して司馬師にそむいた。戦い敗れて殺された。
司馬師(209~255)
  字は子の景帝と追尊された。河内郡温県の人。司馬懿の長男。の景初年間に散騎常侍に任ぜられ、中護軍に累進した。司馬懿が爽を誅殺するのに参与した。長平郷侯に封ぜられ、まもなく将軍を加えられた。司馬懿が没すると、撫軍大将軍として輔政にあたった。嘉平四年(252)、大将軍となり、侍中・持節・都督中外諸軍を加えた。翌年、の諸葛恪が淮南を攻めると、毋丘倹・文欽を遣わしてこれを破った。六年(254)、芳と中書令李豊が司馬氏を排して侯玄を輔政としようと図ったため、李豊・侯玄らを誅殺した。帝を廃して彭城王拠を立てようとしたが、皇太后が従わなかったので、高貴郷公髦を擁立した。正二年(255)、兵十数万を率いて淮南におもむき、毋丘倹・文欽の乱を討った。凱旋する途中、許昌で没した。
王粛(195~256)
  字は子雍。諡は景侯。東海郡郯県の人。王朗の子。十八歳のとき、忠のもとで『太玄経』を読み、その解釈を作った。文帝の時代に散騎侍郎となり、明帝の時代になると散騎常侍に上った。太和四年(230)、真の征討の難航を見して撤退を上書した。のち、秘書監・崇文観祭酒を兼任した。景初年間、土木工事を控え民力を休養させるよう上書した。広平太守・議郎・侍中を経て、太常に上った。いっとき免職となったが、復職して光禄勲となり、持節・太常に上った。毋丘倹・文欽の乱を見したといわれる。『孔子家語』を偽作した。
諸葛誕(?~258)
  字は公休。瑯邪郡陽都の人。尚書郎から滎陽令となり、御史中丞尚書に累進した。しかし、明帝に憎まれて官を免ぜられた。芳のとき、揚州刺史・鎮東将軍に任ぜられた。嘉平四年(252)、七万の軍を率いての東関を攻め、敗れて鎮南将軍に遷された。正初年、毋丘倹・文欽が叛乱したため、司馬師の征討に従った。この功績で、征東大将軍・揚州都督に上り、高平侯に封ぜられた。司馬氏の執政のもと不安が昂じ、兵を十万に増員することを請い、淮水に臨んで築城して保身を図った。甘露二年(257)、司空に任ぜられたため、兵権を奪われることを恐れ、ついに揚州刺史の楽綝を殺し、寿春で叛乱を起こした。の援助を求めて左都護・驍騎将軍の位を授けられたが、司馬昭の軍に寿春を囲まれ、自軍からの脱走が次ぎ、援軍の軍が囲みを解くことができないうちに兵糧も尽きて敗死した。
王昶(?~259)
  字は文舒。太原郡陽の人。はじめ太子文学となり、中庶子に進んだ。の文帝が即位すると、散騎侍郎・洛陽典農に任ぜられ、墾田を勧奨して治績をあげ、兗州刺史となった。明帝のとき、揚烈将軍を加えられ、関内侯の爵位を賜った。正始年間に征南将軍・仮節・都督荊豫諸軍事となった。司馬懿が爽を誅したのち、広く大臣の得失について意見を求めた。王昶は方策五箇条を奏上して、官吏の賞罰の基準を定めさせた。嘉平二年(250)、の内紛のありさまを上奏し、この機に乗ずるよう勧めた。兵を率いて江陵を攻め、軍を大いに破り、征南大将軍に進んだ。正二年(255)、毋丘倹が叛くと、毋丘倹の軍をはばんで功があり、驃騎将軍となった。甘露三年(258)、諸葛誕が叛くと、夾石に拠って江陵に迫り、軍が諸葛誕救援に向かうのをはばんだ。司空に上った。『治論』、『兵書』。
王基(190~261)
  字は伯輿。東莱郡曲城の人。幼くして孤児となり、叔父の王翁に育てられた。琅邪に遊学し、玄の学を受けた。の黄初年間に孝廉に挙げられ、郎中に任ぜられた。青州別駕・秘書郞を歴任した。司馬懿に抜擢されて中書侍郎となる。明帝のとき、爽に請われて従事中郞となり、安豊太守・討寇将軍をつとめた。爽が専横をふるうと、『時要論』を著して時世に警鐘を鳴らした。爽が司馬懿に誅殺されると、爽の属官だった経歴があったため罷免された。尚書として復活し、荊州刺史・揚烈将軍となってを攻めた。正二年(255)、司馬師が毋丘倹・文欽を討つのに従い、前軍を率いて速戦して勝利した。鎮南将軍・豫州刺史に遷り、安楽郷侯に封ぜられた。甘露二年(257)、司馬昭に従い揚州・豫州の軍を率いて諸葛誕を討った。四年(259)、征南将軍・都督荊州諸軍事となった。の将の鄧由らが帰順を申し入れたが、疑念を持ち、受け入れなかった。『毛詩駁』。
嵆康(223~262)
  字は叔夜。譙郡の人。嵆昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。
阮籍(210~263)
  字は嗣宗。留郡尉氏の人。阮瑀の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。
鍾会(225~264)
  字は士季。潁川郡長社の人。鍾繇(常)の末子。たいへん早熟で五歳のときには蒋済が「なみはずれた人間だ」と評価したといわれる。はじめ秘書郎に任ぜられ、尚書中書侍郎に上り、関内侯の爵位をえた。毋丘倹の叛乱討伐に従軍し、司馬昭の下で謀を献じた。黄門侍郎に上り、東武亭侯に封ぜられた。またとの戦いで、謀を献じて全懌らを降伏させた。このため司隷校尉に上った。このころ私怨を晴らすため、嵆康が処刑されるよう画策した。討伐のため鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任ぜられ、鄧艾・諸葛緒らを率いて遠征した。将・姜維の軍を圧倒し、鄧艾の軍が長駆して緜竹を落とし、都の劉禅を降らせた。鍾会は司徒に上り、一万戸の加増の沙汰を受けた。鄧艾を叛逆の罪で告して追い、都で自立を図ったが、胡烈の軍に阻まれて斬られた。
司馬昭(211~265)
  字は子上。の文帝と追尊された。河内郡温県の人。司馬懿の次男。景初二年(238)、城郷侯に封ぜられた。正始初年、洛陽典農中郎将となった。兄の司馬師が没すると、大将軍に上り、侍中・都督中外諸軍事・録尚書事を加えた。甘露二年(257)、高貴郷侯(髦)と太后を奉じて、淮南に出征した。翌年、諸葛誕の叛乱を平定した。公に封ぜられ、国に上った。景年(260)、高貴郷公が府を攻めたため、賈充にその防備を任せ、済に高貴郷公を殺させた。ことののち、済に罪を着せて処刑した。常道郷公・奐を擁立して、帝とした。四年(263)、鄧艾・諸葛緒・鍾会らに命じて、三路に分けてを討たせた。主・劉禅を降らせた。翌年、王に上った。

[註]
1.イ=イ
2.カク=カク
3.テイ=テイ
↓次の時代=西晋

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