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高句麗と渤海と高麗

高句麗と渤海と高麗

羅が三国統一をなしとげたのちも
高句麗では高句麗を復興しようという運動が繰り広げられ
ついに698年に渤海が建国された。

渤海は高句麗が滅亡してから30年後に

高句麗のの民族が大祚栄(だいそえい )を中心にして靺鞨(まっかつ)人を率いて、建国した国である。

しかし、高麗時代に編纂された富軾の「三国史記」らは、渤海は記録されていない。
これは、羅の王族の依存である富軾が羅に重点を置き執筆したからである。
彼は渤海を靺鞨人の国としてあつかい意識的に国の歴史からのぞいたのである。
(彼は羅出身なので、三国時代羅と対立した高句麗や百済を批判的に書いた)

(高麗は契丹に対して鴨緑江辺の土地を昔の高句麗の領土だと主張して取り返したように、対外的には高句麗の継承国であることを強調した。しかし、国内的には統一羅の領土を受け継ぎ、とくに羅の後裔たちによって多くの影響を受けていた。そのため富軾のような羅支配層の後裔もいたから、富軾が羅の立場のみ歴史に記録し、高句麗が満州に支配していた領土や歴史を記録しなかったことを、後の国人から批判されている)

1784年に編纂された柳得恭「渤海考」の序文には統一羅と渤海を南北国と呼び、渤海の歴史に多く関心をもたなければならないと書いている。
「...百済・高句麗が滅びたあと、国南方らは羅が、北方には渤海が存在したが、この時代を南北国時代という。それゆえ高麗時代には当然南北国の歴史が編纂されなければならなかった。しかし、高麗はこの事実を記録に残さなかった。いったい、渤海の大祚栄とはどんな人物なのだろうか。高句麗人である。彼が領有した土地は誰の土地なのか。高句麗の領土である。ただ渤海ではその領土を東・西・北方に開拓していっただけなのだ。そしてその後、羅と渤海がほろび王建高麗がこれを統一したのである。しかし、高麗は南方にあった羅の昔の領土はすべて取り戻したが、北方にあった渤海の領土はほとんど領有できなかった。結局、渤海の昔の領土は女真や契丹のものになってしまったのである。このとき、高麗はいちはやく渤海の歴史を記録に残さなければならなかった。そしてこの記録をもって女真族および契丹と交渉して、渤海の昔の領土を返還するよう要請しなければならなかったのである。そうすればもっと簡単に高麗は高句麗の昔の領土を領有することができたであろう。だが、高麗は渤海の歴史を記録に残さなかったため、昔の高句麗の領土は、もともと誰のものだったのかわからなくなってしまったのである」
 羅史だけ国の歴史の正統として、渤海史を記録しなかった高麗時代の歴史家は大きなあやまちをおかしたというのである。
 こうして、富軾が「三国史記」で渤海史をのぞいたのは間違いであったと後世の歴史家から批判されている。

渤海の歴史国の歴史と認識し、叙述しはじめたのは17,18世紀に入り実学が展してからである。

実際に渤海の支配層が朝鮮民族の意識を確かに持っていたことは、渤海が日本に使臣を派遣するとき送った国書によくあらわれている。渤海の武王が日本に送った国書には、「渤海は高句麗の昔の領土を取り戻し、扶余の風俗を保つ」と書いてある。
武王以後、日本に送った国書では渤海の王がみずからを「高句麗王」と呼んだりもしている。
それだけでなく、日本から渤海に送った国書にも「高句麗王におたずね申し上げます」という文句ではじまる文が書かれているものがある。
これらの点から渤海は、みずからが高句麗の後裔であることを対外的に広く知らしめていたとみることができる。