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第13回 宋の文化

中国史(第13回 代の文化)
○まず前提ですが
 が実に国際色豊かな物であったのに対し、はやや中国独自というか、外国からの影響がに比べて薄くなっています。また、の文化の担い手は地主、官僚と言った士大夫の階級が中心で、庶民性を持つと共に、幽玄・深遠なる物を好みます。また、経済が展したこともあり、は歌舞曲、演劇、講談などの庶民文化も多く誕生しました。

 その中では、恋愛物と軍記物が特に好まれたとか。こうした部分がとの大きな違いですね。

〇朱子学と陽明学
 んで、学問・思想では,宇宙の原理と人間の本性は何か?これを研究するため、儒学の経典の字句の解釈にとらわれず,経典そのものから儒学の精神・本質をあきらかにしようとする学がおこり、ここに儒学が体系化されました。

 北敦頤(1017~1973年)と張載(1020~1977年)にはじまり,このうち南の朱熹(朱子 1130~1200年)によって大されたものは、朱子学といわれます。朱熹は「理」と、全ての物は気から出来る、という2つの基本的なカテゴリーの上に作られた二論の哲学を唱え、「理」が人の本質・本性であり(性即理説)、道徳の実践は、外から与えられる物ではなく、人間自身がする物だと規定し、知識を得るだけではなく道徳も身につけていくことも重要である(車の両輪のような物だ)と唱えます。

 また、従来から儒学というのは目上の人等に対する礼儀、身分の尊重が重視されていますが、南時代にはいると異民族である女真族のが華北を支配したことから、特に朱熹は華夷の区別を論じ,君臣・父子の身分関係(臣下の忠誠など)を正す大義名分論がとなえました。これによって、我々こそが中華の正統である、と主張したのです。そして朱子学はその後長く儒学の正統とされ,日本や朝鮮の思想にも大きな影響をあたえます。

 一方、朱熹と並んで陸九淵(陸象山)という人物も儒学に大きな影響を与えています。それは、朱熹が学問や知識を重んじたのに対し、陸九淵(陸象山)は人間の心性を重んずる立場から論じます(心即理説)。彼が大した儒学は陽明学と言われます。

 儒学以外では,代には民族意識が高まり歴史・地理などの学問が重視され,書物も多くあらわされます。特に編年体を使って書いた戦国時代から五代十国までの中国通史である司馬光の『資治通鑑』はとくに名高く、幕末の日本にも影響を与えています。編年体というのは、の時代を扱った時にも書きましたが年代順に事件が書かれたものです。これに対して、紀伝体というのは人物や、出来事ごとに紹介していく歴史の書き方。

〇美術・陶芸分野
 美術分野では、皇帝の徽宗と、宮廷画院の絵師による色鮮やかで写実的な院体画、そして士大夫中心でモノクロ的な水墨画の文人画という2流派が登場。現在でも大人気で、このうちという南の宮廷画家は、水墨画に秀で、さらに禅僧との交わりの中で減筆体という独特な筆致を大し、牧谿等と共に日本の室町時代における山水画に大きな影響を与えました。山水画と言えば雪舟が有名ですね。

 さらに、青磁・白磁など陶磁器がめざましい達をとげ、これはヨーロッパ人に好まれ「陶磁器=チャイナ」とよばれるようになります。ちなみにの陶磁器は余計な装飾が無く、簡素で美しいのが特徴です。

〇火薬を使った武器~ミサイルまで登場!
 さらに、ないし代初期に明されたとされる木版印刷術が代に普及。版材をほって文字を凸型に浮きだたせた木版に墨をぬり、その上に紙をのせてバレンで刷る、という工程で印刷するものです。版画を想像すればいいでしょうか(全然違っていたらご免なさい)。登場初期には主に仏教や儒教関連の書物の印刷がメインでしたが、代にはいると世界初の紙幣・交子(こうし)が印刷されるようになります。

 ちなみにこれは、四川(三国志で言えばがあった場所ですね)を中心に流通したもの。こうした紙幣は時代や地域によって呼び名が異なりまして、では会子・交子・銭引などと呼ばれた他、(げん)では交鈔,明の時代には宝鈔と呼ばれています。ちなみに「交」とはつきあわせて確かめる,「抄・鈔・引」は書券、という意味です。画期的な明であったのですが、なにぶん、銀や銅と違って紙に価値がある、と人々に認めさせるのは大変で、さらに印刷さえすればいくらでも行できるので、政府が乱してインフレとなるなど、まだこの時代には管理が難しく、次第に銀貨や銅銭などに戻りました。

 それから、火薬・羅針盤がヨーロッパよりはやく、この時期に実用化されました。 羅針盤はヨーロッパの大航海時代に大きく貢献します。このうち火薬についてみていきましょう。これは、世界史を大きく変えていく明品です。
 
 の頃に明されたのは黒色火薬と、それを扱う火器です。黒色火薬は、硝石(しょうせき)・硫黄・木炭の三種を混合し、これによって硝石と硫黄が反応して爆することを利用し、この爆力で物を速く遠くに飛ばします。原理自体は、の時代には見されていたのですが、の時代になって実用化されたみたいです。北には、原油を精製したガソリンを原料とする火炎放射器(猛火油櫃=もうかゆき)もあったんですよ。

 実戦で使用されたのは徽宗・欽宗を始め、皇族・高官ら数千人が捕らえられ北方へ連れ去られた靖康の変の時。ロケット(火箭=ひや)が使われました。もっとも、この頃の火薬は威力が弱く、敵陣に火を付けたり、毒をまく程度だったようです。そのためには勝てなかったみたいね。

 それから、黒色火薬を使った武器として、大砲の形をした火砲がありますが、こちらは、まだ時代をくだったあと、モンゴル族によるという国家が中国を支配している時代になります。

 と言えば、日本にも攻め込んできましたが、この時はまだ火砲は明されていなかったので、使用されたのはロケットの方(正確には手榴弾型か)になります。空中で炸裂する「てつはう」と言う火薬によって武士達の馬がビックリしたというエピソードはお馴染みですね。また、では実弾を射する筒型の銅銃(銃と言っても大砲)も開され、ちと大きいですが手持ちの物もあります。

 そのモンゴル族、モンゴル帝国(次の回でみていきます)を通じて、この火薬に関する技術はヨーロッパに伝わります。ヨーロッパでは15世紀初めに手に持つ小銃である火縄銃が登場するなど、独自の進化を始めます。その火縄銃はポルトガル人を通じて日本に伝わり、さらに日本や中国を舞台にして活動していた多国籍の人々からなる海賊「倭寇」によって中国(明)に伝わるのですから、まあ、なんと紆余曲折の末の到着でしょうか。

 折角なのでまだ歴史を書いておきますと、明の時代なってさらに火薬、銃や大砲は改良を重ねられ、大型化しても壊れにくく、威力のあるように改良を積み重ねられます。また、面白いのが火龍出水(かりゅうしゅっすい)という二段式のロケット弾。なんと先頭部が龍の顔をしておりまして、口からも火箭が飛び出るという世界初の多段式ロケットとなります。

 さらに神火飛鴉(しんかひあ)というのは、カラスの模型の腹の下に4本の火箭をつけたミサイルで、300mも飛びます。これは、攻城戦で使われました。こんなに技術があって、西洋の侵攻に耐えられなかったのが何とも・・・。

第14回 モンゴル帝国
第12回 華北の金と江南の南宋