羯
羯(読み)けつ(英語表記)Jie; Chieh
×羯
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
五胡の一つで,匈奴系の一部族名。中国の山西省に住んでいたが,五胡十六国時代華北を荒した。五胡十六国の一つである後趙国を建てた石勒は,羯の出身。匈奴系の諸部族全般,さらに北方民族全体をさして羯ということもある。
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デジタル大辞泉の解説
中国、匈奴の一種族で、五胡の一。名は山西省の羯に居住したことによるという。4世紀初め、族長の石勒(せきろく)が五胡十六国の一つ、後趙(こうちょう)を建国。
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百科事典マイペディアの解説
中国,魏晋南北朝時代の4世紀に北方に侵入した異民族の一つで,匈奴(きょうど)の一種族と考えられる。いわゆる〈五胡〉の一つ。華北に興亡した五胡十六国の一つの後趙(こうちょう)(319年―351年)を建国した石勒(せきろく)は羯人であった。
→関連項目魏晋南北朝時代|石勒|仏図澄
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
中国、五胡(ごこ)十六国時代の五胡の一つ。319年に後趙(こうちょう)を建てた石勒(せきろく)は羯族出身である。彼らが「羯」とよばれたのは、2~3世紀に中国北部に南下した匈奴(きょうど)の19の構成種族の一つで、山西省中部山間部に入居したKhes(あるいはKit。石を意味するエニセイ語)を、「去勢した羊(ひつじ)」を意味する「羯」と音訳したため、とする説が有力である。後趙王室がその姓氏を石と称したのもKhesの意訳と思われる。彼らは隆鼻、深目、長鬚(ちょうしゅ)(長いあごひげ)という身体的特徴をもっていたことから、その民族系統を、匈奴に服属した中央アジアのイラン系民族とする説もある。後趙が滅亡すると羯族は分散してしまうが、南北朝から隋(ずい)・唐(とう)時代の文献には、匈奴や鮮卑さらには契丹(きったん)など華北に入居した異民族の蔑称(べっしょう)として「羯胡」「羯虜(けつりょ)」「戎羯(じゅうけつ)」などの語がしばしば使われている。
[佐藤智水]
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精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 二、三世紀ごろ中国北辺に入居した遊放民。匈奴(きょうど)の一種族で、四世紀には五胡十六国のひとつ後趙(こうちょう)を建てた石勒(せきろく)が出た。
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
匈奴の一派で五胡の1つ
4世紀初め中国北部に侵入し,五胡十六国の混乱をひき起こした。その族長である石勒 (せきろく) が,河北に後趙 (こうちよう) を建てた。
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世界大百科事典内の羯の言及
【五胡十六国】より
…4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・羯(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(せんぴ)(東胡系)・氐(てい)(チベット系)・羌(きよう)(チベット系)の非漢族で,これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形成にまで発展した,文化史上特色ある時代である。…
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