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フリードリヒ・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(Historical)

書評(Historical)

フリードリヒ・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』

フリードリヒ・エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(1884年)土田保男訳、新日本出版社、1999年

日本の戦後史学を語るなら、是非一読しておきたい書の一つですね。良くも悪くも、戦後の「唯物史観」の原典です。
この書と、エンゲルスの『反デューリング論』は、必読でしょう。
所謂「マルクス主義」は、エンゲルスの力なくしてはありえなかった、という見方は既に一般的です。
確かに、少なくとも日本の歴史学にとって、大きな影響を及ぼしたのは、この書です。
この書を経由してはじめてモーガン『古代社会』は読まれるのですし、この研究をベースに、例えば、ヴェーバーの『古代農業事情』が省みられるのだといっていいと思います。
エンゲルスのこうした理論は、日本の歴史学にも取り入れられ、古代史にも多くの影響を及ぼしました。
渡部義通や早川二郎、それに石母田正といった、マルクス主義の歴史家はもとより、井上光貞はじめ、多くの論者がそれに触れてきたのでした。
そうした意味で、エンゲルスのこの書は、必読です。

日本古代史における、「唯物史観」の立論には、不満があります。
それは、国家にせよ、私有財産にせよ、家族制度にせよ、あまりに一直線に、一つの流れだけを考えすぎている、ということ。
そのストーリーは、「天皇」が登場しないだけであって、「皇国史観」のそれとどれほど違うと言うのでしょうか。
「日本列島には、日本民族がおり、家族制度、私有財産、国家の諸制度を経て、今の国家がある」
このストーリーは、確かに、歴史学を豊かに発展させましたが、一貫して「日本」という集団があると前提し、「日本」という集団の起源を問う、と言う意味で、単一的なのであり、その「統一」が「天皇」を中心になされたものである以上、「天皇家中心的」なのです。
ですから、「唯物史観」は、「皇国史観」を一歩も踏み越えてはいません。
まぁ、「皇国史観」を「あからさまに「天皇賛美」を唱えること」と規定するならば、話は別ですが。
この問題は、エンゲルスに原因があるのでは無いでしょう。
しかしながら、エンゲルスの立論が、そうした事態を招いた、ということはあるのかもしれません。

話はそれましたが、日本における「唯物史観」――今や、そうした区分さえ必要ないのかもしれません――を、支持するにせよ、批判するにせよ、一読を要する書です。
私は、ここに、理論というものの「宿命」のようなものを見出さずに入られません。
マルクスにせよ、エンゲルスにせよ、或いはヴェーバー或いはモーガン、それにウィットフォーゲルの議論は、決して、法則を語っているのではないと、読むことが出来ます。
もちろん、個々の論者にそうした視野が無いとは言いませんが。
彼らは決して、「予め存在する法則を発見」したのではなく、「歴史を見ることによって、法則を発明した」のです。
その過程が示されているのが、『家族・私有財産・国家の起源』であり、『古代社会』であり『古代農業事情』なのだと言うべきです。
その過程を読んでおくことは、非常に大切なことと思います。