歴史・人名

邪馬壹国をめぐる議論(Historical)

古代史の論点(Historical)

邪馬壹国をめぐる議論
初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/21(火) 18:27:51

活発な論議が交わされ固唾を飲んで拝見しています。巫女さんとの論争も一段落したようですのでお尋ねします。貴殿の巫女さんへの応答です。

巫女さん> 1・水行十日・陸行一月の区間はどことお考えでしょうか?

かわさん> 1→帯方郡治から女王国(=邪馬壹国)まで

巫女さん> 魏志倭人伝では韓半島は水行していませんでしたでしょうか?

かわさん> ・・「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国」という文面から、そのような解釈が生じたことは、たしかに仕方のない部分はありますが、「歴」は、「韓国の内部(つまり陸地)を通る」ことを意味しており、「韓半島水行」という解釈は成り立ちません。さらに、その距離は「七千里」ですが、韓国は「方四千里」と韓伝に記されており、これは、「四千里四方の四角形」を意味しており、もし、韓半島を全て水行したとすれば、四千里の二辺を通過したのであり、そうすれば、「七千里」ではなく、「八千里」でないと足りない、ということになります。しかも「七千里」は、帯方郡治から韓国への「水行」分も含んでおり、韓国の陸地を突っ切らないと、「七千里」では、とても足りない、と言うことが分かります。

これは古田氏の説と同じものだと思いますが。貴HPでは、古田氏の「九州王朝説」を紹介して見えるところでは当然上記のように書かれていますが、これを全面的に支持(自分の説でもある)されているということでしょうか。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/21(火) 23:22:35

どういった主旨なのか、わかりかねますが、

>これは古田氏の説と同じものだと思いますが。

そのとおりです。
まぁ、確かに、巫女さんとの議論の中では明言していませんが。

>これを全面的に支持(自分の説でもある)されているということでしょうか。

そうです。
当然、巫女さんとの論争の中では、「私の立場」を述べており、その出所がどこにあるのかを必ずしも明言しないこともあります。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/22(水) 23:44:22

> どういった主旨なのか、わかりかねますが

申し訳ありません。河西さんのHPはよく読ませていただいているのですが、

> Re: 九州説の検証 投稿者:巫女 投稿日:2004/09/13(月)10:24:54 HPの行程地図を拝見させていただきました。すばらしい。

と合わせ、倭人伝の上記の個所の解釈について初めて伺うものですから、確認させていただきました。HPの読み洩らしがあるんでしょうね、すいません。

早速お尋ねします。

> 「歴」は、「韓国の内部(つまり陸地)を通る」ことを意味しており

歴には、まず水行陸行を特定する意味はありませんね。「経歴」という言葉があるように、経とも違います。歴訪・歴代の使用例のように、次ぎから次ぎへいわばデジタル的にわたっていくことです。歴史の歴も、年・月・日を単位として過去の記録をたどることでしょうか。

歴には「内部を通る」という意味を含むのでしょうか。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/23(木) 03:38:36

ふむふむ。

>歴には、まず水行陸行を特定する意味はありませんね。
これはそのとおりだと思います。
>歴には「内部を通る」という意味を含むのでしょうか。
いつかの「達」の問題での「経」と同じような琴田と思います。
海から遠めに眺めることを「歴」とは言わないと思います。
「経」とも、ね。
「歴韓国」と言う場合、韓国は陸地ですから、上陸しているわけです。
同じ港から出航した、という可能性を否定できませんが、これは、七千里という距離から、否定されます。
古田氏が挙げている他の理由としては、「乍南乍東」という用法(南と東を交互に繰り返す)とか、「朝鮮半島の南は倭であるから、韓国の南を水行できない」というものがあります。
これは、これでそのとおりだと思いますが、「乍」の用法に関しては、韓国内部陸行を説くには、弱く、韓国の南は「倭」というのも、ストレートには、誰もがそう見なすような話ではないことから、巫女さんとの論争という観点からは、割愛しました。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/23(木) 17:58:46

なるほど。

> 海から遠めに眺めることを「歴」とは言わないと思います。

そうだと思います。しかし、水行であっても寄港するわけですから上陸しますね。三重の安濃津のように地震で壊滅する港もありますが、天然の良港は古代もほとんど変わらないでしょう。南浦・海州・仁川・木原・群山・木浦・麗水・馬山そして釜山などでは上陸し、良港には村邑(邑君が冊封されている記事があります)があり、これらの歓迎を受け、魏皇帝の威信を示しながら航海を続けたと思われます。まさに沿岸沿いの航行即水行であり、デジタル的に「歴」したのでは。

「歴韓国」が陸地を通らなければならないのは、陸行一月の根拠とする、言わば先読みされているからではないでしょうか。

「歴」が積極的に陸行を指示しないとすれば、文面通り「循海岸水行」と解釈するのが妥当なのではないでしょうか。

もう一点は、帯方郡の郡家(郡庁?)から韓国国境までを計算されていますが、不自然ですね。千葉県にあっても東京空港であり、京都から発っても関空からです。日本から外国へ行く場合空港までの行程は省略するのが普通だと思います(関空からアメリカへであって、自宅からアメリカへではない)が。いわゆる「楽浪郡境を去ること・・(?)」です。これも水行十日を稼ぐために先読みされているのではないでしょうか。

> ストレートには、誰もがそう見なすような話ではない

と認められていますが、

「乍南乍東」(南と東を交互に繰り返す)はまさに韓半島西側・南側のリアス式海岸の地形を言い当てて巧みな表現です。韓半島縦断は道路地図がありませんから想像にすぎませんし、想像にしては当たり前過ぎて深みのない表現です。

韓半島の南は倭も、狗邪韓国と明記していますからね。これも後漢書の「極南界」の論拠のための解釈のような気がします。

巫女さんにおしゃったと同じように、「当時突出した弥生遺跡の集中した筑前こそ倭国の中心だったはずだ。そのまた中心に都たる邪馬台国があったはずだ。」それが古田行路説のすべてではないでしょうか。考古学的事実から魏志倭人伝解読を行なったとすれば、邪馬台国畿内説と同じことです。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/23(木) 21:04:13

「水行でところどころの港による」ことを「歴」と言うのか、といえば、私はいわないと思います。
一般的に言って、韓国を「歴」つまり経過する場合、韓国の内部を通過していると考えるのが自然です。
飛行機なんかの言い方では、「経由」という言い方で、空港に立ち寄ることを言いますが、ね。

>「歴韓国」が陸地を通らなければならないのは、陸行一月の根拠とする、言わば先読みされているからではないでしょうか。

うがちすぎです。
誰かの論法に似ている気もしますが、
私に言わせれば、このケースでその言い分は通りません。
なぜなら、私は、
「水行でなければ矛盾する」と言っています。
「七千里」問題です。
「うがった」だけで、「矛盾」をないものとすることは出来ません。

>> ストレートには、誰もがそう見なすような話ではない

この点について、説明を加えておくと、私がこのように言ったのは、「巫女さんとの論争でいきなりこの話をしても議論が拡散するから」という理由で、割愛しただけのことであり、長くなってもよければ、きちんと説明させていただきます。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/23(木) 21:05:50

>「水行でなければ矛盾する」と言っています。

我ながらとんでもない言い間違いですね(汗)
もちろん、「水行であっては矛盾する」です。
失礼いたしました^^;
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/23(木) 22:57:05

> 「水行でところどころの港による」ことを「歴」と言うのか、といえば、私はいわないと思います。

「海岸に達す」が陸から来たか、海から来て達すのかの再現になりそうです。(今も船で海から来て海岸に達したと思っていますハハハ)

七千里問題です。方4千里の2辺の全長ではありません。つまり、底辺(南辺)は頂点まで至りませんね。狗邪韓国が韓半島の東南の角ならおっしゃる通りですが、少し西寄りですから、その分相当千里を引いて七千里です。正確です。

陸行なら韓国がちょっとヒシャげた方形として対角線は最大5.6千里。「乍南乍東」では、2等辺三角形の原理2で、それこそ八千里なければなりません。七千里は水行を支持しても、陸行には苦しいことになります。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/24(金) 00:58:16

>七千里問題です。方4千里の2辺の全長ではありません。つまり、底辺(南辺)は頂点まで至りませんね。狗邪韓国が韓半島の東南の角ならおっしゃる通りですが、少し西寄りですから、その分相当千里を引いて七千里です。正確です。

狗邪韓国は、私は一般に言われている通り、釜山のあたりで問題ないと思っています。
そこは、まさに東南の角です。
測ってみるほうが早いでしょう。
ソウルから釜山までの陸行と水行距離。陸行=約360キロ、水行=約580キロ
帯方郡治は、一般にソウルとする説と平壌南方の沙里院(サリウォン)とする説があります。
ソウルからだとすると、(海路をうまく地図で測るのは難しいですが)約580キロほどあり、途中陸路ならほとんど真っ直ぐ進んだとして約360キロほどだと思います。一里=約75メートルとすれば、それぞれ、7733里、4800里ほどということとなりますが、そもそも方4000里というにはソウルでは近すぎると考えられますが、7000里をオーバーしていますね。
沙里院だとすると、明らかに陸路でなければなりません。

ちなみに陸路ということでは、ソウル→テグ→釜山というルートが現在も鉄道が走っており、一般的なルートだと聞いたことがあります。
>陸行なら韓国がちょっとヒシャげた方形として対角線は最大5.6千里

さらに帯方郡治→韓国の水行があるわけですから、ぴったりではかえって具合が悪いわけです。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:巫女 投稿日:2004/09/24(金) 19:41:43

かわさん。
畿内錯覚説の私にとっては衝撃的な説でしたが、
本居宣長の九州での陸行「一月」=「一日」の誤記説(錯覚説でもいいですが)についてはどういう観を抱いておられますでしょうか?
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/24(金) 20:17:24

地図までつけていただき有難うございます。う~ん、東南角かどうか公平に見て五分五分ですね。千里引くのはちょっと苦しいかも知れません。

東南角として「乍東乍南」が文字通りなら、どのように歩いても結局二辺の合計になりますから歩行距離は8千里になります。(二等辺三角形の原理から) それに郡から韓の距離千五百里(古田氏/輝いて・・)を足すと9千五百里になります。齟齬をきたすように思いますが。

巫女さん、お互い忙しいですねハハハ。どちらも宜しくお願いします。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/24(金) 21:24:40

巫女さん、差し出がましいようですが・・

私は以前、陸行一月=一日の誤記説を掲げていました。どう考えても九州をはみ出してしまうからです。といって、古田行程説には河西さんとの上記のやりとりのように納得できませんでした。そのため、本居宣長氏や白鳥庫吉氏の説を引用しました。

ところが河西さんにコッピドク叱られましてね(笑、そうでしたよね)、原資料の校訂には例え一文字であっても一生をかける覚悟が必要だ、とね。

それでやはり河西さんの言われるように原典尊重が文献史学の条件だと思い直しまして、ウンウンと熱が出るほど考えました。そうしたら、謝銘仁著『邪馬台国 中国人はこう読む』(昭和58年刊)に日数行程は鬼神への配慮や祝日・節日などのため道を急ぐのを控えたりでそれらを含む総日数であり、ともかく役人の旅行はきわめてゆっくりしたものです。とあって、白居易が長安から江州へ流されたとき三ケ月かかっている例を挙げておられるようです。

また、時代は下りますが、高表仁が対馬に泊まったのが舒明四年秋八月、難波津の江口に迎えたのが十月、帰りに対馬まで送ったのが五年一月です。片道約三か月(閏月は解らないが)かかっています。(某掲示板書き込みで教えられた)

つまり、陸行一月を歩き続けると思い込んで、一日○里なら30日でウンヌンだったのが眼からウロコで、海岸に達して(水行が終わって)から卑彌呼謁見までが一月の意味だと思うようになりました。

巫女さんには述べましたが、宇土半島の三角港へ上陸し宇土半島を歩き阿蘇山麓の宮に至り、さらに余裕を見て卑彌呼に会ったのだ、それに一か月かかったと。これで原文改訂もなく本文との齟齬もなくまず自然な解釈ができたと自負しております。

亡くなった祖母がどこかへ出かけるとき、八十八宿や三燐亡などをみながら、何日はダメとか今日は縁起が悪いからヤメとか、明日は「東の方角旅によし」でよい日柄だから明日にしようとか、とにかくうるさい人でした。生きた化石的ですがもう一時代前はそれが普通だったのです。それを思い出しましてね・・
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/24(金) 21:29:22

>東南角として「乍東乍南」が文字通りなら、どのように歩いても結局二辺の合計になりますから歩行距離は8千里になります

これは、大きな誤解です。
ひしゃげた平行四辺形とするならば、再度図面を示しますが、
対角線を仮に東、南とジグザグに進んだとしても、8,000里にはなりません。
ひしゃげた平行四辺形なら、広いほうの角の対角線は、二辺の和よりも小さい。

もちろん、現実には、地図で示したとおり、ほとんど東南の方向に進んだと見てもいいと思いますけれどね。
「乍A乍B」は、「あるいはA、あるいはB」であり、Aのときもあれば、Bのときもある、ということです。
つまり、南へ移動したり、東へ移動したり、ということを繰り返した、ということですが、現実には、要するに東南方向へ道なりに進んだ、ということです。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/24(金) 21:39:46

>本居宣長の九州での陸行「一月」=「一日」の誤記説(錯覚説でもいいですが)についてはどういう観を抱いておられますでしょうか?

宮津さんのおっしゃっていることと、おおよそ同様です。
要するに、「日程」と「里程」は異なる、ということです。
(ただ、宮津説とは、立場は異なりますけれど、ね)

もちろん、周到な調査の末、誤記や錯覚を言うのはかまわないのですが、単純に「こう変更すれば…」という動機だけで、原文の変更をする、ということは、動機の面で不純だと思います。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/24(金) 22:56:12

う~ん、そうですね、勘違いしていました。どうもお手数かけて申し訳ありません。(今だに数学に弱いですね)

次ぎの問題点をお伺いします。船の問題です。私は郡から三角港(邪馬台国の国際港)まで全行程を郡の船で移動したと見ます。この時代船は唯一の大量輸送交通手段だったでしょう。だから現在でもそうですが都の近く(歩行一日以内くらい)には良港があります。長安のような内陸部でも長江を遡上して城下にいたります。北京は運河を作りましたね。

この時代船は命です。郡使の場合は長い航海の生活の場であり大使館になり、万一の場合は城(攻防とも)にもなり、第一安全上信頼の置けるものでなければなりません。他国の船に乗った時のトラブルが書紀にあります。

郡船で来ても、対馬からは倭人が水先案内するでしょう。中国の遣使の往来には、対馬で迎えるとか対馬まで送るとかの記事が書紀に頻出します。

貴説だと、郡から郡船、狗邪韓国から末盧の外洋、倭国内の水行の航海の船はどうしますか。倭船チャーターですか。

自国の船で全行程(勿論海上です)を航海すると思い込んでいますので、倭船チャーターだと不自然に見えますが。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/25(土) 02:14:49

ふむ。

当時の状況を考えれば、韓国は魏の直接の統治下にありました。
「時(帯方)太守弓遵、楽浪太守劉茂與兵伐之。遵戦死、二郡遂滅韓」(韓伝)
ですから、韓の船というのも使えるでしょうし、

>この時代船は命です。郡使の場合は長い航海の生活の場であり大使館になり、万一の場合は城(攻防とも)にもなり、第一安全上信頼の置けるものでなければなりません。

倭国の船を使うケースもなかったとは思いません。
むしろ、倭国の船(海洋民の船)を利用したほうが安全かもしれませんし、「友好」と言う意味での政治的判断、倭国側の国内向けのアピールなど、単純に、そういった想定、つまり、それこそ「軍艦」で訪れるような想定が可能であるか、私は、わかりません。

いつかもお話しましたが、魏志倭人伝の行路は特定の魏使の行路であろうと思います。
いつでもこの行路を使うのでは無いだろうと考えますが、
そもそも全水行の場合、韓国西岸の一帯は、海流の複雑な難しい領域であり、むしろ、陸に近づかないほうが安全だといいます。
つまり、まったく韓国を「歴」ないほうが安全なのです。
大回りに一気に釜山あるいは済州まできてしまったほうがいい。
それから、対馬、壱岐を経て、確かに博多湾岸まで来るほうが行路としては安全です。
軍事上の理由を掲げて博多湾岸に他国の船を入れるわけがない、という論者もいるようですが、それを入れるから「友好」のアピールになるんだと言う言い方も出来るわけです。
ですから、
>自国の船で全行程(勿論海上です)を航海すると思い込んでいますので、倭船チャーターだと不自然に見えますが。
倭船チャーターもありだと思いますけど、ね。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/25(土) 20:05:11

そうですか、う~ん。ま、立証の問題ではなく、どう思うか感性のそれですから・・決定打は難しいですね。

さて古田氏行程説のうち、「邪馬台国の水行十日陸行一月は郡を起点とする」説に対して疑問を呈します。

「女王国より以北、其の戸数・道里を略載す可きも、・・(魏志倭人伝)」というように、対馬国から邪馬台国まで国毎に、戸数・距離などを記しています。

すると、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月についても道里を示すとみなければなりません。また、郡から不彌国までは、その直前の国から当該の国までの「道里」を記しています。とすれば、投馬国・邪馬台国も同じように、「その直前の国から当該の国までの道里」と見なさざるを得ません。もし、古田説の如くこの二国に限って郡からの行程だとするなら、表示法の変更を明示する必要があるのではないでしょうか。

また、官名は末盧を除く各国に明記され、対馬国から末盧国までは方角・距離+地理誌つき、伊都国から不彌国までは方角と距離のみ、投馬・邪馬台国は方角・日程表記とスタイルが様々に異なるものの、投馬国・邪馬台国が日程表示だからと言って、「その直前の国から当該の国までの道里」の表記原則を、郡を起点とする距離と変更する根拠になり得ないでしょう。

また、そもそも行程記事は、郡から順次邪馬台国までの行程を示し、次ぎに女王に属する国々を示し、そして女王に属さない狗邪国を指摘し、倭国の事情を説明します。その後、倭国を取り巻く国々(東方の倭種・裸国・黒歯国など)を紹介しています。それはともかく、倭国内の事情を説明し終わった後で「郡より女王国に至る萬二千餘里」と総距離で締め括っています。それなのに郡からの総日程を、邪馬台国の説明文に入れることは文章の流れから唐突です。「郡より女王国に至る、萬二千餘里、水行十日陸行一月」なら解りますが。(続きます)
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/25(土) 20:07:28

(2004/09/25(土) 20:05:11 からの続きです)

古田氏は女王国に至るとは倭都の邪馬台国に至ること(目的)であり、当然邪馬台国到着記事中に総日程を入れたと説明されていますが、「郡より女王国に至る萬二千餘里」も当然邪馬台国の宮都までの総距離であることは当たり前じゃないでしょうか。また邪馬台国へ行くことが目的だからと言うなら、なぜ投馬国も同じ日程表示であるのか、説明できません。人口が多いからとありますが、それじゃ郡を起点することの理由と矛盾します。

古田氏は、『「邪馬台国の水行十日陸行一月」を郡からの総日程するほか、どのような解釈があると言うのか(失われた日本)』と問われますが、伊都国・不彌国・投馬国などからの区間距離であるとする説も出ており、必ずしも唯一のものとは思われません。

「邪馬台国の水行十日陸行一月」を郡からの総日程とする説には釈然としません。どのようにお考えでしょうか。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/26(日) 00:55:55

ふむ。

私は、この点に関して、確かに考える余地がない、とは思っていません。
前々から、言ってはいることですが、まったく疑問を持っていないわけではありません。
ただし、今は決定的な対案はなく、今のところ、古田氏の立論が一番穏当なところだろう、とは思っています。

さて、
>すると、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月についても道里を示すとみなければなりません。
と言いますが、これは「道里」ではなく「日程」です。
日程と里程は違う、ということを何度も申し上げています。
>伊都国・不彌国・投馬国などからの区間距離であるとする説も出ており、必ずしも唯一のものとは思われません。
ですから、これらの説は悉く、日程と里程をごっちゃにした議論であり、少なくとも、郡から邪馬壹国にいたる行路記事としては、成立し難いと考えています。
ここで重要なのは、郡から倭国への距離はハッキリしており、一万二千里である、ということです。
古田氏の計算では、邪馬壹国に至るまでに表示された里数を合計すれば一万二千里である、と見ており、この理解が先で、不弥国→邪馬壹国の距離は0である、と考えた結果、残った日程を総里程と解釈するのが相応しい、と言っているのです。

そろそろ、率直な感想をいいましょう。
私は、この辺の論点を古田氏の魏志倭人伝解釈の急所と見ており、おっしゃるとおり、釈然としない部分を残しています。
それは、古田氏の理解は、「里程」が先であり、この「総日程」という解釈は、残り物に与えた解釈に過ぎないからです。
ですが、それだけで、「里程」が先の解釈は間違っている!とは言えません。少なくとも、里程の理解に関しては、古田氏の読解が最も首尾一貫しており、そちらを突き崩さない限り、古田氏は
>『「邪馬台国の水行十日陸行一月」を郡からの総日程するほか、どのような解釈があると言うのか(失われた日本)』
と問うのです。
この論理的な順序を考慮したうえでの反論でない限り、私は、そう簡単には、うなずくことはできません。

以前も言いましたが、まだ、その点において弱いのだと思います。
私も、その点において「強い」何かを得ているわけではないため、今のところ、古田氏の解釈でよい、と考えています。
(裏では、その「強い」何かを探しているんですよ)
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 13:50:16

> 日程と里程は違う、ということを何度も申し上げています。

そうです。私自身も日程記事は魏使の出張記録であって、区間の距離そのものではないと主張しています。

里程論こそ倭人伝の花、直截にいきましょう(玉砕覚悟でハハハ)。

「『部分をなす区間里程の総合計は、総里程に一致しなければならなぬ。』これは、いわれてみれば当然の論理だ。」(「古代史は輝いていたI」) 間違いないです。洋の古今東西を通じて誰にも異存はありますまい。

この公理を言う場合には当然前提があります。(1)すべての区間里程・総合計が「史料」に明示されていることが絶対的条件になります。古田説です。もうひとつは、(2)区間里程がひとつまたは総合計が明示されなくても成立することです。これもまた「万人の首肯すべき自明の命題」ではないでしょうか。

問題は、この部分をなす区間里程が「史料上の事実として」(同) 記載されている『はずだ』、つまり(1)のはずだという「主観主義に」ある。「これに対する学問研究のとるべき王道、それは、万人の首肯すべき自明の命題・・論理に従った解読法を採用する。これが真の客観主義である。」(同)と言いながら。

結局は、陳壽はどちらを用いて書いたかにかかるのであって、その論証は充分ではなくここに古田氏の独善があります。

古田氏の論証のひとつが里程表示と日程表示の違いを述べた部分です。「『水行十日陸行一月』は、当然区間里程には入らない。なぜなら、それは『里程』ではないからだ。一方で『総里程』が分かっているのに、他方で全体の一部を「日程」で記す、そんなことは考えられないからである。」(同) 言っている事は当たり前のことであって、(1)との思い込みの激しさを語っても、だから全区間の里程記事が史料にある事実を少しも証しはしない。むしろだからこそ、日程表示であること(里程でないこと)が、(2)であることを動かし難く支持します。

日程で書かれた区間は「里程ではない」から、里程=0として両国が接するという珍妙な結論です。言い方を変えれば「全区間距離が書かれているはずだ、日程で書かれていて里程はない、だから0だではなく、だから全区間距離が書かれていない」と導くべきではないでしょうか。書かれていないのであって0とは一切言っていません。0なら「接する」でしょう。(続く)
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 13:51:50

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 13:50:16 からの続きです。

次ぎが、古田式放射読みです。この漢文分析はとても万人を首肯はさせません。投馬国もやはり日程で書かれているから里程=0で、不彌国に接するのでしょうか。確か投馬国の比定は鹿児島のはず。倭国の地理のイメージが出てきません。

また、全区間里程が書かれているとの「信念」は、明記全区間距離=萬二千里とするべく、対馬・壱岐の方○○里を加えます。「ここに問題の千四百里(注、萬二千里と明記全区間距離の総計の差)がピタリとあらわれる。」(同)は、奥野正男氏に対する反論と同じで「これでは、計算が合うのが当たり前、およそ合わないはずがない。なぜなら”合うように・・数値を算出された”であるから。」(同) 二島方○里の読法に理屈はつけても、結局は距離の二重加算に過ぎない。川崎駅から仙台駅までの直距離に経由の山手線の距離を加算するもので、高い運賃になります。

次ぎに周旋問題を挙げています。周旋の意味を取り違えています。決して萬二千余里ー周旋距離=狗邪韓国・邪馬壱国間というような直線距離ではない。そのため狗邪韓国倭国内とせねばならず強引な読みにつながります。魏志韓地「南は倭に接す」を根拠とするがこれは前史(山海経など倭人の住む地)による引用・解釈であり、弁辰十二国(狗邪国はその一国)のまとまりとして倭国と分離し始めており、決して倭国領でなくまして女王に属す訳でない。韓国という国はなくともいまや政治的に韓域に属すると陳壽はみています。「大津市の北岸には賎が岳がある」と言ってこの歴史上有名な山が大津市にあるわけではない。倭国が海を隔てていることは頭書に明示しているのですから、同じことです。

これらのことから陳壽が「全区間距離を史料上に明示しているはずだ」を少しも証しないのです。だとすれば、(2)の公理であることは言うまでもありません。邪馬台国は、伊都国の南二千余里、つまり不彌国の南千三百余里である(宮津の自説)ことは自明です。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 16:21:03

追加します。距離の2重読みを指摘する部分で、

>> 川崎駅から仙台駅までの直距離に経由の山手線の距離を加算するもの

極論でご理解いただけないと思いますので、言い換えます。

川崎駅から仙台駅(何駅でもいいんですが)までの実距離に経由の各駅の構内部分を加算するもの

駅の構内は大きな駅では数km十数kmにも及びます。これらを加算するとかなりの距離になります。鉄道距離は駅中心部に中央標があって駅間距離を正確に算出しています。倭人伝の場合も対馬と壱岐の一点(港)からの距離を千余里と表示しており、仮に半周読法で書かれているなら末盧も伊都もその経由距離(領土の面積)を言わねばなりませんよね。

「全区間距離=萬二千里」を求める余りの非論理と言わざるを得ません。

> 裏では、その「強い」何かを探しているんですよ

河西さん、ですから一番最初に確認したのです。私は、野人的な勘で邪馬台国の位置を想定できても万人を納得させる論証ができていません。貴殿から以前に批判された通りです。論議を通じて「> 論理的な順序を考慮したうえでの反論」と、万人が首肯せざるを得ない論理を見出したいと思っています。

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/26(日) 18:21:24

ふむ。

では、私、不肖ながら、古田説論者として、古田氏の所論から、反論させていただきましょう。

宮津さんの論点は、「全区間里程が魏志倭人伝には明記されているのか/いないのか」と言う点であり、宮津さんは、以下の3つを挙げて「全区間里程は魏志倭人伝に明記されていない」と結論付けます。
1.「最終行程=0」は、おかしい。
「書かれていないのであって0とは一切言っていません。0なら「接する」でしょう。」
2.「島めぐり読法」は、おかしい。
「二島方○里の読法に理屈はつけても、結局は距離の二重加算に過ぎない。」
3.「周旋五千里」は、狗邪韓国→邪馬壹国間の距離ではなく、したがって、一万二千里=七千里(郡→狗邪韓国)+五千里は、明記されているわけではない。
という3点です。
おのおのについて、古田氏の見解を確認してみましょう。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/26(日) 18:21:44

1.最終行程=0
「『漢書』西域伝は、各国をいわば「点在」する形で表記し、そのうえで、それぞれの首都からの「四至」を書く形で、他の隣接する国々があらわされている。この場合、「接」という形で、両国の地理関係を示すのは当然だ。だから、陳寿も、東夷伝中の各国間の関係を「大観」する場合、この「接」の字をもちいたのである。
これに対し、倭人伝の記載様式は、明らかに他の東夷伝中の各国の場合とは異なった特徴を持っている。すなわち、これは「行路記事」の形式なのである」
つまり、「国と国との位置関係を言う場合、「接」ということは出来るが、行路記事、つまり、移動の過程を言う場合、「接」は使わない」ということです。
距離=0と言うと奇妙な感じを持つかもしれませんが、不弥国に着いたら、もう着いたも同然、目と鼻の先に邪馬壹国がある、ということです。
言い方を換えれば、「接」と言う場合、厳密に「接」してなければならなくなります。
国と国ならそういうこともありましょう。
ですが、行路―そこにはスタート地点と到着地点がある―においてスタートと到着地点が「接」するはずがないのです。
ですから、「接」は使えません。
厳密に言えば、伊都国→不弥国の到着地点から、次の邪馬壹国の到着地点までは、いくらかの距離があったでしょう。
ポイントは、「全区間距離を史料上に明示しているはずだ。」というのは「陳寿の算法」を問題にしているのであり、不弥国→邪馬壹国間には、里程として足すべきものがない、ということなのです。
もちろん、不弥国→邪馬壹国の距離は、大勢に影響を与えるような大きな距離ではありません。数里か、数十里か、実際にはあったのだと思います。
ですから、ここで言う「距離=0」を現実の地図上の距離が0である、と考えるべきではありません。「書かれていない」ということは、「何も足さない」なのか、「自分で数値を埋めて足しなさい」なのか、これは、今の議論の焦点ですから、どちらもありうるとしておきましょう。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/26(日) 18:22:33

2.「島めぐり読法」
これも、行路記事という問題と連結すると思います。
これについて古田氏の所説は、多様であり、まとめるのは容易ではありませんが(というか、ほとんど「区間里程の合計は総里程」の議論に費やされていて、今の議論に合わない)、私なりに補強したいと思います。
陸地だけの行路記事でまず、考えましょう。
たとえば、末盧国→伊都国まで五百里となっています。この場合、五百里とはどこからどこの距離でしょうか。末盧の東南端から伊都の西端まででしょうか。
違います。
もしそうであるなら、次の伊都国→不弥国の百里も、伊都の東端から不弥の西端ということになります(奴国を行路と見なしても同様)。
そうすると、伊都国は、一定の面積を持っているわけですから、伊都国の西端から東端の距離が分からないと、魏使が実際に歩いた距離が分からない、ということになります。
読者には伊都国が広いのか狭いのか分からないので、これが続くと、結局、距離感が全くつかめません。
行路記事なのですから、実際に進んでいるのと同様に、末盧→伊都の五百里とは、末盧のある一地点から、伊都のある一地点までの距離が五百里である、ということです。次の不弥国までの百里は、当然、この地点からの距離と言うことになります。
もちろん、これは机上の計算です。ですが、ちょうど、道路標示で、某市何キロと標示されていれば、それは、その地点から、某市のある一定地点(普通は市役所?だったと思いますが)までの距離なのと同様なのです。
これが陸路の場合の「陳寿の算法」です。
これについては、宮津さんもご指摘のとおりでしょう。
さて、島の場合、どう考えたらいいでしょうか。
3通りあります(もっと言えば、一辺通過ということも考えられるでしょう)。
(1)一点通過、(2)半周通過、(3)全周通過
ここで、大事なのは、繰り返しますが「陳寿の算法」はどれか、ということなのです。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/26(日) 18:23:01

古田氏はここで、「計算が合う」(2)の半周通過を算法として選択しました。
しかし、今は、「何故(1)一点通過ではないのか」を別の角度から言うことにしましょう。
一般に「国」とは、陸地の概念です。ですから、当然、「対海国」は、陸地の概念です。「対海国」に至る、とは、ですから陸地に至る、ということです。「対海国」を行路の途中に通る、というのは、ですから、陸地を通る、ということなのです。もちろん、「概念上」です。ですから、どこからどこまで?というのが問題になります。論理的には、ですから(1)は取れない、ということになります。(2)か(3)かは、決定打がありませんけれど、ね。(1)を採る場合を、陸地の国で考えてみれば明らかです。どこか「国境」の一点に達して、そこから、国内に入らずに、出て行ったとすれば、それは、その国を通過したことになるでしょうか。ならないでしょう。同じく、「対海国」の一点を通過したのなら、それは、「対海国」を通過したことにならない、と言うことです。
3.「周旋五千里」
宮津さんも何度かおっしゃっているとおり、魏志倭人伝の行路は、郡から倭への最短距離では無いと思います。ですから、末盧→伊都→不弥という径路は、それこそ、倭国を「めぐっている」のです。
また、狗邪韓国倭国内であるかどうか、という観点ですが、
>魏志韓地「南は倭に接す」を根拠とするがこれは前史(山海経など倭人の住む地)による引用・解釈であり、弁辰十二国(狗邪国はその一国)のまとまりとして倭国と分離し始めており、決して倭国領でなくまして女王に属す訳でない。
まったく、根拠がないと言うしかありません。
前史の言葉を引用したとして(山海経を「前史」と見なすべきか疑問ですが)、魏志にそれが書かれていると言うことは、陳寿もそれを追認していると言うことであり、「魏使が倭に至った」ということは、もし山海経の言っていることが誤っていれば、それを言える状況にあったのですから、だから無視すると言うのは、単に、宮津さんにとって都合が悪いから切り捨てたと言うだけの話であり、お話になりません。
また、弁辰十二国に関しては、議論が別です。古田氏が言っているのは、「弁辰が倭国の北」にある、ということです。

したがって、決定打は未だないと言わざるを得ないでしょう。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 22:02:48

古田説論者として、古田氏の所論からの長文の反論を頂き有難うございます。まとめて再反論します。

>『漢書』西域伝は、各国をいわば「点在」する形で表記し、そのうえで、それぞれの首都からの「四至」を書く形で、他の隣接する国々があらわされている。

そうです。つまり、陳壽はこのような形で倭の国を把握でできていなかったのです。これが反論のすべてです。

郡使のもたらした資料以外には、不確かな前史(地理誌としては引用していますが今は論外ですので)しかなかったのです。だから実証主義者の陳壽はこの資料に基づき行路記事的に倭国(倭人の住む当時の近代国家をこう呼びます)をイメージしたのです。

冒頭の「倭人は帯方の東南大海の中に在り」はどうして知り得たのか。現代人と違って正確な地図が眼前にある訳ではありません。人工衛星に乗って眺めたわけではありません。郡使のもたらした行路記事から得たのです。

つまり、狗奴韓国ー末盧国は南北軸、ここから東南へ五百里・東へ百里・東南へ百里と南北軸を東へズラします。直角三角形の定理から東へ(500*0.7、100、100*0.7)で520里です。勿論南へも420里ズレます。この地点からさらに南北軸に投馬国・邪馬台国を位置付けたのです。もう一度言いましょう。韓からの南北軸を末盧から不彌へ東520里南420里へズラしそこを基点として南北軸上に投馬・邪馬台国を設定したのです。郡使の報告はそうなっていたからです。(続く)
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/26(日) 22:04:05

投稿日:2004/09/26(日) 22:02:48 から続きます。

途中で少し東へズレながらも倭国を南北に連なる国だとイメージしたのです。漢書の例のように面としてではなく太い線のように南北に細長い国だと。狗邪国(韓)ー伊都国ー邪馬台国が、ズレの分だけ真に南北でないにしてもおおよそ(北西より北と南西より南)南北に、あるいは少しズレた2本の正南北軸の内外に小国が点在すると。つまり倭国は、この軸を中心として構成されていると。

それを証するのが、「女王国以北、其の戸数・道里は略載す可も、『其の餘の旁国』は遠絶にして得て詳かにす可からず」です。つまり女王に属する二十八国はこの南北主軸の傍国(両側)なのです。

邪馬台国が熊本県南部とすれば、以北の記事を持って回った言い方をしなくても「北そのもの」です。さらにこの南北軸上の延長上に狗奴国が位置し、どこまでも南北軸なのです。これが畿内論者(あるいは中国人も)が誤解する南北に長い倭国なのです。(いくら長くても次に示す南への距離から見て会稽付近の緯度ですがね) 後漢書の范曄も倭人伝を解析し極南界としたのです。委奴国=邪馬台国としていますから結果的には誤っていますが、魏志倭人伝の解読は正確なのです。

陳壽は、(1)狗邪韓国から邪馬台国は南へ(3000+420+1300)4720里東へ520里、(2)郡を基点にすれば、南5000里から8720里、東4000里から4520里の長方形を主軸とする周りの国を含む国とみました。だから東南なのです。

末盧から邪馬台国間の南北二千里、同じく東西五百二十里の長方形の周旋が五千餘里(2000+520+2000+520)なのです。周旋は九州本島を対象とし付属する島(対馬・壱岐)は含みません。普通九州の大きさを問われて周辺の島(五島や甑島屋久島など)まで細かく勘案しては言わないでしょう。大半が海なのですから。

陳壽の描いたイメージは九州を良く知る私たちも当を得ていると言わざるを得ません。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/27(月) 00:13:41

>途中で少し東へズレながらも倭国を南北に連なる国だとイメージしたのです。漢書の例のように面としてではなく太い線のように南北に細長い国だと。

これは、大きな誤りだと思います。
陳寿は、倭国の全体像を把握していない。把握できているのは、魏使が訪れた行路上の国だけです。
「女王国以北、其の戸数・道里は略載す可も、『其の餘の旁国』は遠絶にして得て詳かにす可からず」
本気で二十一国も行路の脇にならんでいる、と考えますか?
商店街のように。
そうではなく、これは、「ここまでの女王国より北の行路の国々以外は、周辺の国々については、どこにあるのか、どのくらいの規模なのか、知らない」といっているだけのことであり、ここから、倭国が南北に細長く連なった国と見なすのは、無理があります。誰も、そんなことは言っていない。

もちろん、大局的に見て、「倭は帯方郡の東南の海の上」にあるのは、事実であり、その事実を陳寿も、(もちろん、今と同等の正確さを求めるのは無理な話ですが)把握していた、ということです。

>陳壽はこのような形で倭の国を把握でできていなかったのです。

陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった。だから、行路記事として、記述している、ということです。ここで重要なのは、行路記事には行路記事としての流儀があり、これを漢書のような地誌的な記述の流儀と混同してはいけない、ということです。
Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/27(月) 00:13:57

前回の私の議論では、今ひとつ明確ではなかったので、再度言い直しますが、ここで重要なのは、「島巡り読法」によって、対海国、一大国の面積を部分里程と見なした結果、計算が合う、という事実です。
これによって、「全区間里程が魏志倭人伝には明記されているのか/いないのか」という問いには、最終的な結果が出ており、「明記されている」が答えです。
にも拘らず、「明記されていない可能性もあるじゃないか」と言った所で、なんら議論は進みません。
なぜなら、「明記されている」という答えを棄却できないからです。

そこへ、例によって、陳寿の不正確さを盾に、自己流の読み方を提示したところで、「明記されている」ものが変わるわけではありません。
そもそも、「全区間里程が魏志倭人伝には明記されているのか/いないのか」という論点で、「いない」が結論だったからといって、宮津さんのような読みになるとは到底いえません。
それを言うことは、最初の問いの答えにはまったくなっていないのであり、逆の言い方をすれば、「明記されていない」と言った瞬間に、陳寿の算法を「不正確なもの」と見なさなければ、自説を維持できないのだとすれば、それは、陳寿が間違っているのではなくて、宮津さんの説のほうが間違っているのではないですか?

Re: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/27(月) 23:42:50

真摯なご返信を有難うございます。

> 陳寿が間違っているのではなくて、宮津さんの説のほうが間違っているのではないですか

ま、そうおっしゃらず、もう少し付き合ってください。

> 陳寿は、倭国の全体像を把握していない
> 「ここまでの女王国より北の行路の国々以外は、周辺の国々については、どこにあるのか、どのくらいの規模なのか、知らない」といっているだけのこと
> 陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった

と私も思っている(賛成)のですが、そのように伝わっていないようですね。陳壽は倭国の地理を正確に把握していなかった、だからイメージ(おぼろげなもの)を描いたのだと表現したのですが。河西さんと私でなにか基本的なところで食い違っているようです。

そこで確認かたがたお尋ねします。

> 陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった。だから、行路記事として、記述している、ということです。

「だから」以前は私も言っています。「だから」以下の文の意味をさらに聞かせてください。
RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/28(火) 00:28:42

宮津さん、

>> 陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった。だから、行路記事として、記述している、ということです。

>「だから」以前は私も言っています。「だから」以下の文の意味をさらに聞かせてください。

おそらく、宮津さんの言う「把握できなかった」と私の言う「把握できなかった」は、微妙に意味が違いそうです。
私が言っているのは、陳寿は、自分自身が全体像を把握できていないことを知っている、と言いたいのです。

>陳壽は倭国の地理を正確に把握していなかった、だからイメージ(おぼろげなもの)を描いたのだと表現したのですが。河西さんと私でなにか基本的なところで食い違っているようです。

宮津さんは、その場合、「正確さにかけたものしか書けない」と考えているようです。
それが間違いだと思います。
誰でもそうですが、「全ての情報を知らない」のなら、「知っていることだけを正確に書けばいい」だけの話です。
陳寿は、狗邪韓国→邪馬壹国の行路の情報は知っている、しかし、その行路を外れた国のことは知らない。
「女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可も、『其の餘の旁国』は遠絶にして得て詳かにす可からず」
それは、ただそれだけのことであり、だからといって、知っている行路の記述が曖昧になることはありません。
陳寿は正直に知らないものは知らない、と言っているのであり、知りもしないものを「おぼろげなイメージ」でいい加減に書いているわけではありません。
全体像を知らなくても、陳寿には、知っている行路の情報を書くことは出来、その時には、「行路記事」というやり方で、書いている、といっているのです。その「行路記事」は決して「おぼろげなイメージ」などではありません。
「全体は知らない(けれども部分は知っている)」と言っているのを「全体がわからないから部分も曖昧だ」と勝手に言い換えてはいけません。
私が言っているのはこの点です。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/28(火) 00:35:16

付け加えておきますと、
陳寿は、何故、「行路以外の国を知らないのか」
この答えは簡単です。
「周旋」していないからです。
したがって、倭国の全体を「周旋」した、というのは、誤りだと思います。やはり、径路上の国々を指すと言うべきでしょう。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 18:06:43

掲示板の修復有難うございます。メールは見て頂きましたでしょうか。河西さんとの論議を通じて、私の倭人伝行程論の解明は著しく進みました。客観的な反論を頂かなくては出来ぬことでした。お礼もうしあげます。さて、

河西さんと私でほとんど認識に差はないようです。ただ意見の表現の仕方が違うだけのようです。いや、私がうまく文章に表現して意見を正確に伝えることが出来ていなのでしょう。

> 陳寿は、自分自身が全体像を把握できていないことを知っている、と言いたいのです。

全くその通りです。

> 誰でもそうですが、「全ての情報を知らない」のなら、「知っていることだけを正確に書けばいい」だけの話です。

全くその通りです。それが倭人伝です。

> 陳寿は正直に知らないものは知らない、と言っているのであり、知りもしないものを「おぼろげなイメージ」でいい加減に書いているわけではありません。

私が申し上げているのは、倭人伝がいい加減に書かれたのではなく、陳壽は倭国全体像についてはおぼろげなイメージしかなかったから、把握している国々の位置関係だけを倭人伝では記したのだ、ということです。私は、一度も陳壽が不正確な倭人伝を書いたと思ったこともありません。古田氏の同じく「倭人伝は正確だ、信じきる」というのが基本姿勢です。

ま、正直に言えば苦しさの余り「一月は一日の間違いじゃないか」と思いました(笑)が、河西さんの指摘を受け考え直したのは、既に述べた通りです。

すると、河西さんと私とでこの先の結論が異なるのは、「島巡り読法」に帰しますね。この非論理性を述べます。(続く)
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:07:43

> Re: 初めて聞きますが・・ 投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/27(月) 23:42:50
の投稿が途中で切れてしまい、全文ではありません。切れたままですと、第三者のBBS読者が理解できないと思いますので、改めて全文を書かせて頂きます。
> 陳寿は、倭国の全体像を把握していない
> 「ここまでの女王国より北の行路の国々以外は、周辺の国々については、どこにあるのか、どのくらいの規模なのか、知らない」といっているだけのこと
> 陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった

と私も思っている(賛成)のですが、そのように伝わっていないようですね。陳壽は倭国の地理を正確に把握していなかった、だからイメージ(おぼろげなもの)を描いたのだと表現したのですが。河西さんと私でなにか基本的なところで食い違っているようです。

そこで確認かたがたお尋ねします。

> 陳寿は、漢書西域伝のように、全体像を把握した記述を行なうことが出来なかった。だから、行路記事として、記述している、ということです。

「だから」以前は私も言っています。「だから」以下の文の意味をさらに聞かせてください。

私は、行路記事は「(投馬国は)水行二十日、(邪馬台国へは)水行十日陸行一月」だけだと思っています。不彌国までは国と国の位置関係を、そして最終的には邪馬台国の位置を説明しているのだと。とても移動の過程を記述しているとは思えません。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:09:52

それを端的に示すのが、私は、「魏使が伊都国に行ったのは確かだ、なぜなら帯方の使いが常駐するとあるからで、末盧・奴・不彌各国については行ったかどうか分からず、実際に行ったかどうかを問うことさえ必要ない。」と思っています(理由は次ぎに書いています)。勿論狗邪韓国・対馬島・壱岐島は通らなければ邪馬台国に行けないから通ったでしょうがね。

ではなぜ末盧・奴・不彌の各国は方角・距離を記してその位置関係を示したかと言えば、邪馬台国を不彌の南に当たると説明するために南北軸をズラすためです。魏使が行ったかどうかが問題ではありません。また、投馬国が示されるのは人口が多いだけではなく、不彌と邪馬台国の間に位置することを説明するためです。つまり不彌・投馬・邪馬台国が南北に並ぶのです。陳壽にはこれらの国々の位置関係は掌を見るように解っていたのです。

不彌までは直前の国からの距離が明示されるが、不彌・投馬間と投馬・邪馬台国間の距離が記されないのは上記のように接しているからです。例えば末盧・伊都五百里は接しておらず或は介在国がある可能性を否定できません。正確には、末盧国と伊都国が隣国だとは断定できないのです。だから通り道を示す行路記事でないと。

いや「国と国の位置関係を示して邪馬台国の位置を明確にした」のではなく、「魏使が歩んだとおりにその経過国を再現することによって魏使が行き着いたように邪馬台国を読者に示したのだ」との相違のように思われます。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:11:12

[ 今回投稿文 ]

前回は、陳壽は倭国の全体像は把握できていないが、邪馬壱国の位置は正確に知悉していた。だから、魏使の報告書をなぞるよう(写すよう)に行路記事として書いたのではなく、帯方郡から邪馬壹国に至る国々の位置関係を、あたかも俯瞰するように漢書の如く記述した、と申し上げました。

古田氏の里程論を支える「全区間里程が明記されている」の非論理性を古田氏の著述から述べます。著書はすべて『古代は輝いていたI』(昭和59年刊)です。p.211末からです。

古田氏は放射読法により郡から邪馬壱国までのうち、明確に記された里程の合計を一万六百里とされます。ところが郡から邪馬壱国までの総里程は一万二千里と明記されていますから、まだ千四百里足りない。これでは陳壽は全区間距離を「史料上の事実として」明記している(はずだ)、とする古田氏の説が成り立ちません。このあたりの苦悶の日々は『邪馬壱国はなかった』に書かれていますね。「ここが解読のポイント、正念場だった」です。

「模索の日々の後、到達した一点、それは(3)と(5)だ。これは『方-里』という面積の形で書かれている。だから(宮津注:付点あり)、従来は主線行路に入れなかった。区間里程とは見なさなかったのである。」(3)は対馬(5)は壱岐を指す。これは当然です。面積と距離は加えることすらできない。

「今言った『だから(宮津注:付点あり)』という言葉。これには前提がある。海上の島国民族の目だ。つまり”これは対馬と壱岐である。島だ。だから、ここは舟で通りすぎただけ。区間里程には入らない”。無意識のうちに、そう考えてきたのだ。」これも当然である。無意識だろうが有意識だろうがこう考えるのが常識だ。だが古田氏は続けて言う。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:12:13

「しかし『三国志』の著者(陳寿)は中国人。大陸人間、陸地民族だ。北から南下してきて、そこに『方四百里』『方三百里』といった、レッキたる面積が書かれているのに、その陸地(島)を一切無視し、主線行路に入れない、区間里程としては『0』とみなす。そんなことがありえようか。”この面積も当然『里程』のうち(宮津注:「うち」に付点あり)”、。
そう考える方が自然ではないだろうか。」という不自然な思惟に発展する。

A> つまり”これは対馬と壱岐である。島だ。だから、ここは舟で通りすぎただけ。区間里程には入らない”(従来説)

B> 大陸人間、陸地民族だ。北から南下してきて、そこに『方四百里』『方三百里』といった、レッキたる面積が書かれているのに、その陸地(島)を一切無視し、主線行路に入れない、区間里程としては『0』とみなす。そんなことがありえようか。”(古田説)

と考えるかの問題です。これは論理ではなく、「どう考えるか」なのです。だとすれば、AとBは論理的には等価なのであり、AとBはそれぞれ他を棄却できません。河西さんが私に何度となく教示されたことです。

いやそれはそうだが、「>計算が合う、という事実です。」と言われるなら、これは循環論法ではないですか。それを述べてみます。古田氏の著述を続けます。

「少なくとも、海上通過ときめて(宮津注:「きめて」に付点あり)かかって、この面積の通過の仕方、より正確には、陳寿の里程計算の仕方について、疑いもしなかった。これは大きな盲点ではないだろうか。」私は、陳寿の里程計算の仕方については知らない。「全部分里程の合計は総里程である」という算数の公理以外には。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:13:25

その島に複数の国があって、複数の国を経たのなら、そこに区間「里程」は生ずるだろう。当然区間距離が示されるはずです。ですが、対馬島も壱岐島も対馬国・壱岐国と一島一国のようです。仮に複数の国が存在したとしても、記されているのはこの一島一国計二国だけです。

もう少しいきましょう。「では、この面積をいかに通過するか、否、通過したと考えたか。(宮津注:「考えたか」に付点あり) その可能性は三つある。」として、かの有名な(1)一点通過(従来の解読法) (2)二辺通過(半周読法) (3)四辺通過(全周読法) の模式図を示しています。

続いて、「このうち、(1)については先にのべた。(3)については、この二島が、あくまでも経過地であり、(宮津注:「経過地」に付点あり) 目的地ではない点から見ると、不当だ。」とにかく(2)に決めたというからそれはいい。が、次に注目すべき文章がある。

「何より、最大の決め手。それは計算結果だ。この(2)の半周読法の場合のみ、
対海国の半周--八百里
一大国の半周--六百里
合計 ---千四百里
ここに問題の『千四百里』がピタリあらわれる。すなわち区間里程の総合計は、一万二千里となり、(B)の総里程とピッタリ一致する。陳寿の計算法が判明したのである。(宮津注:「陳寿の計算法」に付点あり)」

この(B)とは「(B)一万二千里 帯方郡治→女王国(邪馬一国)」(p.209)を指す。これで古田氏の『古代史は輝いていたI』からの引用を終わります。

半周読法だって、一点通過・全周通過を「非」とする論拠等はありはしない。これも明白だ。半周読法を支えるもの、それは「何より、最大の決め手。それは計算結果だ。」です。奥野正男氏の反論に古田氏が再反論した「これでは、計算が合うのが当たり前、およそ合わないはずがない。なぜなら”合うように・・数値を算出された”であるから。」はそっくり古田氏に返ることになります。

たまたま方四百里と方三百里だったのが不運です。だが仮に、方二百里と方百五十里だったら(3)の全周読法と取ったでしょう。ここに「島めぐり読法」の本質があります。だから(1)一点通過も排除できません。また千四百里を求めて苦悶の日々です。

つまり「島めぐり読法」は「なんにも証明していない」のです。これで古田氏が里程論の最大の根拠としてきた「全区間里程が魏志倭人伝には明記されている」が成り立たないことを意味します。「明記されていない」を排除できないのです。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/28(火) 22:14:24

魏志倭人伝には、「全区間里程が明記されている」と言うためには、改めて立証する必要があります。

> 「(明記されて)いない」が結論だったからといって、宮津さんのような読みになるとは到底いえません。

との厳しい指摘も頂いています。謙虚に受け止めております。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/29(水) 15:02:43

巨人古田氏に果敢に挑戦しているのは解るが、やはり無理があるとお考えでしょうか。(ほんと海皇関を背負ってヒョロヒョロしている感じです)

古田氏はあくまでも「史料上の事実として」の方四百里・方三百里を用いているのであり、論理としては彼なりに一貫していて問題ない、単なる偶然の一致に過ぎない、のでしょうか。(なるほど史料にない数値を算出したのではない。だが史料の数に合うように読法を思惟的に選択している。同じです。)

偶然の一致こそ古田氏の解読の妙味です。強みです。霊能者がある人を占い余命は一年と告げたらその通りになった、霊能者は超能力があると言って崇敬するか、偶然とするか、です。人は霊能者の予言の方を信じやすいものです。

たまたま「方四百里・方三百里」だったに過ぎない。これが仮に「方五百里・方四百里」だったら、帯方郡治-邪馬壱国間を一万二千四百餘里と表記したか、否、一万二千里餘里は概数です。むしろピタリと一致するはずがないのです。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/29(水) 23:12:25

論点が非常に多岐にわたりますが、一つずつ進めていきましょう。
1.
>私は、「魏使が伊都国に行ったのは確かだ、なぜなら帯方の使いが常駐するとあるからで、末盧・奴・不彌各国については行ったかどうか分からず、実際に行ったかどうかを問うことさえ必要ない。」と思っています(理由は次ぎに書いています)。

宮津さんがここでおっしゃっている「理由」とは、「陳寿が何故、(実際は行っていない)末盧・奴・不弥を記述したのか」という理由であり、それは、「実際行っていない」ことが「決定した後」の話です。
宮津さんがここで挙げなければならないのは、「宮津さんが何故末盧・奴・不弥には実際には行っていないと判断したのか」という理由です。
ちなみに、この議論は、古田氏が「奴国・投馬国は傍線行程」と言っている議論に比較的近いですが、そこでは「行」及びそれに類する動詞が、「至」の前、方角の後に存在するかが問題になります。そういった文献上の根拠がない限り、それは宮津さんの想像に過ぎないのであり、説として成立しません。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/29(水) 23:49:49

2.
>いやそれはそうだが、「>計算が合う、という事実です。」と言われるなら、これは循環論法ではないですか。

より詳細に説明しましょう。
宮津さんは、論理的関係を混同しています。
要するに、こういうことなのです。

12,000=7,000+1,000+(400@)+1,000+(300@)+1,000+500+100…A式

が成立する時、@という記号が何を示しているか、ということは、「二倍すれば計算が合う」という事実によって証明される、と。
更に、その「二倍する」という操作を現実の文献の解釈に照らした場合に、十分に確からしい解釈として成立しうる。
このとき、「@は二倍する」という操作を導入することによって、A式には、「全ての里程が明記されている」と結論付けることが出来る、ということです。
これが、「明記しているか/していないか」という問題に対する答えです。

>。」(3)は対馬(5)は壱岐を指す。これは当然です。面積と距離は加えることすらできない。

と言いますが、宮津さんも、述べていたはずです。

>倭人伝の場合も対馬と壱岐の一点(港)からの距離を千余里と表示しており、仮に半周読法で書かれているなら末盧も伊都もその経由距離(領土の面積)を言わねばなりませんよね。

この場合、例えば、末盧までの距離が、末盧の入り口の一点を指しており、次の伊都までの距離が末盧の出口の一点を指すとすれば、全ての距離を言うには「末盧」の面積を言わねばならないわけです。
対馬の場合、「渡海千里」は、「対馬の港」までの距離を表わしており、その1点だけを通過したのであれば、「対馬」を通過したことになるのか、ということが問題になるのです。
これが、

>「しかし『三国志』の著者(陳寿)は中国人。大陸人間、陸地民族だ。北から南下してきて、そこに『方四百里』『方三百里』といった、レッキたる面積が書かれているのに、その陸地(島)を一切無視し、主線行路に入れない、区間里程としては『0』とみなす。そんなことがありえようか。”この面積も当然『里程』のうち(宮津注:「うち」に付点あり)”、。
そう考える方が自然ではないだろうか。」

という記述の内実です。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/09/30(木) 00:07:57

>たまたま方四百里と方三百里だったのが不運です。だが仮に、方二百里と方百五十里だったら(3)の全周読法と取ったでしょう。

「偶然」だ、と見なす根拠を問うべきではありませんか?
先の数式において、@が「2倍を表わす」ということは、偶然ではありません。それは、まさにそのとおりのことです。@の前にあるのが200と150だったら、@は「4倍を表わす」で問題ありません。
奥野氏や宮津さんの提出した論理

12,000=7,000+1,000+1,000+1,000+500+100+X

との決定的な違いは、この X が文献上どこにも存在しない数字である、ということです。
一方、古田氏の式においては「@」は、「ルール」であり、「陳寿の計算方法」である、という点です。
「陳寿の算法」という言葉を多用するのは、そういうことです。
「陳寿がどのように計算したか」は、どこにも書いていないのであり、我々には知る由もありません。これは事実です。
しかしながら、「陳寿は二倍したに違いない」という「想像」に根拠を与えるのは、「計算が合う」という事実である、ということです。

もちろん、実のところ、古田氏が「陳寿は二倍したに違いない」という「想像」に達したのは、「計算が合う」からですが、ね。
どこから持ってきても、それは「想像」です。
(「面積は除外」というのも、ね)
この経緯と、計算式の証明と言う意味での「根拠」とを混同しているのです。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/30(木) 14:32:19

長文の返信を差し上げて恐縮しています。古田氏里程論の核心ですので、つい力が入ってしまします。お許しください。

論点に沿って返信します。

> 「宮津さんが何故末盧・奴・不弥には実際には行っていないと判断したのか」とい理由です。

行っていないとは断定しておりません。伊都国へ行ったのは間違いないが、「>>末盧・奴・不彌各国については行ったかどうか分からず」と、行ったか行かなかったか分らないと言っています。不彌国は水行二十日から判断して、行った可能性が高いと思いますが。

島めぐり読法と対をなすのが放射説です。これによって千六百里を算出しているのですから。言わばワンセットです。これについては異議がありますので、後ほど書かせて頂きいます。

> 奥野氏や宮津さんの提出した論理
12,000=7,000+1,000+1,000+1,000+500+100+X
との決定的な違いは、この X が文献上どこにも存在しない数字である、ということです。

[ 投稿日:2004/09/29(水) 15:02:43 ] で申し上げましたが、つまり、「>>@の前にあるのが200と150だったら、@は「4倍を表わす」で問題ありません」というように、合う数字の読法を選択するということが思惟的です。一点通過は従来説ですが、半周読法・全周読法は古田氏が編み出したものであって、客観的根拠となりえません。(古田氏のことですから、三国志に用例があれば提示されるでしょうが、おそらくありえないでしょう。)

> 実のところ、古田氏が「陳寿は二倍したに違いない」という「想像」に達したのは、「計算が合う」からですが、ね。

ここに古田マジック(島巡り読法の本質)があるのです。陳寿の算法なるものを仮定し、たまたま@の倍数が「史料上の事実として」あっただけのことです。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/30(木) 14:33:07

> 「偶然」だ、と見なす根拠を問うべきではありませんか

先の返信メールのとおり「霊能者の話」と同じです。偶然に根拠などありません。ないから偶然なのです。「偶然に街角で友人に会った、なぜだ。」一人は会社へ出かけるところだと言い、もう一人がコンビニへと言ってみたところで、偶然を説明しているだけでなぜ偶然が起きたか神ならぬ身、解るはずがないじゃありませんか。

誤解されては困るのは、古田氏がこの偶然によって立論したと言っているのではありません。おそらく真実に迫りたい一心で、それこそ神に導かれたのでしょう。「これだ!」と。私にはこの心境が痛いほどわかります。(私も苦しかった原典の一節に涙します。あのときはと。特に倭建の系譜を解いたときなど二晩徹夜三晩半徹夜でした。ハハハ、ウワーン)
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/09/30(木) 16:01:40

すいません、書き間違いがありました。

投稿日:2004/09/30(木) 14:32:19 の文中(八行目かな)、

>>不彌国は水行二十日から判断して、行った可能性が高いと思いますが。

は削除頂くか、不彌国を投馬国と読み変えください。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/01(金) 01:58:02

>行っていないとは断定しておりません。伊都国へ行ったのは間違いないが、「>>末盧・奴・不彌各国については行ったかどうか分からず」と、行ったか行かなかったか分らないと言っています。

では、問い直しましょう。
「宮津さんが、行ったか行かなかったか分からない」と判断した理由です。文献上の根拠です。狗邪韓国は「行った」で、不弥国は「分からない」とする根拠です。「駐」は「行った」で、「行」は「分からない」とする根拠と言いなおしてもいいでしょう。それを問うています。

>> 「偶然」だ、と見なす根拠を問うべきではありませんか

>先の返信メールのとおり「霊能者の話」と同じです。偶然に根拠などありません。ないから偶然なのです。「偶然に街角で友人に会った、なぜだ。」一人は会社へ出かけるところだと言い、もう一人がコンビニへと言ってみたところで、偶然を説明しているだけでなぜ偶然が起きたか神ならぬ身、解るはずがないじゃありませんか。

私が言っているのは、「宮津さんが偶然だと『判断した』根拠」です。
「町で友人に会った」
それだけで偶然と判断しますか?
「自分は会社へ出かけるところで、相手はコンビニに出かけるところだった」なら、その時、つまり、その事実を把握した時はじめて「偶然」と判断できるのです。
もしも、相手が、あなたと出会うためにその場所で待っていたのだとすれば、それは、偶然ではありません。
たとえ、あなたがそのことを知らなくても、です。(ストーカー!?)

霊能者が未来を予言するのは偶然である、と言いますが、私が、手に持ったりんごを手放せば、地面に落ちる、といったとき、それが非常に近い未来のことであっても、「偶然」とは判断しないでしょう。
気象予報士が明日の天気を「予言」して、そのとおりになったとして、それを「偶然」と言いますか?

気象予報士のそれが偶然でなくて、霊能者のそれが偶然である、ということは、確かに一般的に正しいのでしょうが、私が聞いているのは、「なぜ、『あなたが』そのように判断するのか」ということです。
もっと言えば、今回の「計算の一致」を、今、宮津さんが「偶然」である、と言ったのはなぜか、と言っているのです。
気象予報士のそれではなく、霊能者のそれと見なしたのは何故でしょう。
それを聞いています。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/01(金) 02:34:58

> 奥野氏や宮津さんの提出した論理
12,000=7,000+1,000+1,000+1,000+500+100+X
との決定的な違いは、この X が文献上どこにも存在しない数字である、ということです。

別の角度から、説明しましょう。
宮津さん、この X の中身は千三百以外にない、と思いますか?
しかし、Xが単一の数値である、とは誰も言っていないし、文献上の根拠もありません。では2つ?でしょうか。
それも根拠はありません。
Xが「最後に足されるべきもの」かも分かりません。途中のどこかに入ってはいけませんか?
ですから、X が「書いていない部分の距離に当る」は、少しも自明ではないのです。
「余里」の部分(7,000余里、三つの1000余里の)に当る、と言った論者さえいます。
なぜ、そうなるのか。
それは、文献上、何の論拠を持たない、仮定であるからです。
だから、何一つ特定できない。投馬国と邪馬壹国までの距離が千三百である、というのは、一見、正しいように見えて、実は、非常に不安定な、「勝手な」憶測です。
一方、@を満足させるルールは、一つしかありません。
それは、「この里数を除外せよ」でも「四倍する」でもなくて、「二倍する」です。
「他のルールがあるなら示して欲しい」という古田氏の主張は、この点においてなされるのです。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/01(金) 22:03:58

なるほど、偶然ではなく陳寿の算法である、との立場からは論理一貫しているように見えます。前にも言いましたように、A一点通過(従来説)とB島巡り読法は、相対的なものであり、Aを排除できません。陳寿は陸地民族だから島巡り読法に違いないと古田氏が考えただけですから。計算が合うではないかと言って見たところで、それが島巡り読法に依っている限り、循環論法に陥っていると述べました。「陸地民族は島巡り読法で計算する」が証明されない以上なんの論証もしていない、と言わざるをえません。

古田氏里程論は、たまたま対馬・壱岐が方四百里・方三百里だった現実の砂上の楼閣との立場です。もしこれが二百里と百五十里だったら全周読法を取っただけのことだから、ここに作為があるということです。三百里と二百里だったら、第四の島巡り読法を発明しない限り成り立たないということですから。

> 「宮津さんが、行ったか行かなかったか分からない」と判断した理由です。

どうも私の説明が拙いようです。私は、『私は、「魏使が伊都国に行ったのは確かだ、なぜなら帯方の使いが常駐するとあるからで、末盧・奴・不彌各国については行ったかどうか分からず、実際に行ったかどうかを問うことさえ必要ない。」と思っています。』(投稿日:2004/09/28(火) 22:09:52) から、問うていないから知らないということです。分からないのは検討(文献解釈)したことがないから、私には分からないのです。行程記事(日程表示区間は別)とは読んでいないから、行ったか行かなかったかは関心の外でしたから。

放射読法の中で私の意見を詳しく述べさせて頂きます。ここでお断りしなければならないのは、検討すらしていなかったので郡から邪馬壱国まで順次並んでいることを前提に考えてきました。今回、国と国の位置を確定する作業の中で訂正を余儀なくされました。

結論だけ申し上げれば、郡から伊都国までは順次に列挙され、伊都国から奴国は伊都国の東で、不彌国は伊都国の東南、その不彌国の南に投馬国、さらにその南に邪馬壱国という配置になるようです。ですから、この結果、不彌国ー邪馬壱国間は千四百里となります(自説千三百里を千四百里に訂正=論争のおかげです謝謝)。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/01(金) 22:04:48

偶然問題はどうもお互い思うところが食い違っているようです。

> 宮津さん、この X の中身は千三百以外にない、と思いますか? しかし、Xが単一の数値である、とは誰も言っていないし、文献上の根拠もありません。では2つ?でしょうか。 それも根拠はありません。

これで河西さんが仰りたいことがよく分かりました。私の説明不足です。「>「余里」の部分(7,000余里、三つの1000余里の)に当る、と言った論者さえいます。」の論者、いますね。

陳寿は女王の都する邪馬壱国を示すことが倭人伝を書く目的のひとつであったはずです。邪馬壱国の位置を示されなかったら倭人伝は画龍点睛を欠きます。不彌国までは各国の位置を里程で説明してきて、最後の不彌国から肝腎の邪馬壱国までの里程を欠く筈がないじゃありませんか。読者は邪馬壱国の位置示されないまま放り出されます。それなら、明記区間里程の合計と総里程の差が、その欠くべからず不彌国ー邪馬壱国の里程に決まっているのではないでしょうか。これは文献上の根拠以前の問題だと思いますが。

餘里の合計が千四百里とするならば、不彌国と邪馬壱国が接していることを言わねばなりません。この論の弱点は一万二千里ではなく、一万二千餘里であることです。餘里を論議しても仕方のないことを表しています。単に「だいたい・おおよそ」と言っているに過ぎないのですから。

xは、それは文献解釈によって算出された一意の数であって、絶対唯一の数値であることです。立派に文献に依拠した数値であって、「史料上の事実として」の数値と言っていいでしょう。

では陳寿はなぜ不彌国に続けて「南陸行千四百里邪馬壱国に到る」の一句を書かなかったのか。それは陸行しなかったからです。ではなぜ「南千四百里邪馬壱国に至る」と書かなかったのか。それは不彌国の南は投馬国だからです。「南千四百里邪馬壱国に至る」と書けば、読者が投馬国の位置を確定し難くなるからです。「南○里投馬国に至る、南×里邪馬壱国に至る(○+×=1400里)」では、水行(実際の行路)記事とダブルからです。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/01(金) 22:05:32

それと示された里程は邪馬壱国に至るに必要な里程のみです。必要とは、方向変換を伴なうから省略できないの意です。(仮に邪馬台国が伊都国の南なら、「南邪馬壱国に至る水行○日陸行○月」だけで不彌国は省略できるということです。南への渡海は東南海上であることを具体化したもの。) 正確に邪馬壱国の位置を示すために不彌国を記したのです。唯一奴国のみ例外です(脇道)。今の論点からズレますが、なぜ例外として奴国を示したかと言えば漢の時代の倭都だったからです。読者があー、あの倭奴国かと分かるからです。王権の断絶を示唆していますが、あまり論点を広げてもボケますから、別途の論議を楽しみにします。

だから、「・・南至投馬国・・南至邪馬壱国」と不彌国から南に順次に並んでいると記述しています。その邪馬壱国へは「総里程と明記区間里程の合計の差」という読者と共有する常識(公理)で暗にしかも正確に示したのです。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/02(土) 15:39:54

未だ、私が申し上げている「宮津さんの論理の混同」についてご理解いただいていないようなので、改めて説明します。

>前にも言いましたように、A一点通過(従来説)とB島巡り読法は、相対的なものであり、Aを排除できません。

6 @ 2 = 0
5 @ 4 = 1
6 @ 4 = 2
8 @ 5 = 3

である場合、「@」は、「この記号の左側の数を右側の数で割り、そのあまりを示す演算」である、と見なすことが出来ます。
それは、「計算が合う」という事実によって証明されるのです。
ここで「@」がそういう演算の記号であるとはかぎらないではないか、と言うのが、宮津さんの立場です。
しかし、それは、「論理」のルールに違反しています。
「計算が合う」以上、「@」は「剰余算」を示している、という立場に一定の理があり、「そうではないかもしれない」と言うのは、「そうではなくて欲しい」という願望を示すのであり、その願望から別の演算の可能性を模索することを禁止しませんが、だからといって「剰余算」と見なす立場を批判することは出来ません。宮津さんのおっしゃっていることは、つまり、この「@」を「剰余算」とは見なしたくない論者の言い分なのです。

>計算が合うではないかと言って見たところで、それが島巡り読法に依っている限り、循環論法に陥っていると述べました

この言い方が論理的に言って誤りであることは、以上から明らかです。
もしも、例で挙げた数式が、

3 @ 2 = 9
2 @ 2 = 4
2 @ 3 = 8

であったなら「@」は確かに「この記号の左側の数を右側の数で割り、そのあまりを示す演算」ではなく、「この記号の左側の数を右側の数乗する「べき算」という演算」を意味することになります。
「だから「計算が合う」のは偶然だ」と宮津さんは言います。
しかし、最初の例の「@」と後の例の「@」―こちらは、仮定の話です―とはまったく別の話であり、それを言ったからといって、何かが変わるわけではありません。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/02(土) 21:11:39

う~ん、えらい難しい論理ですね。さっぱり何を仰っているのか分かりません。申し訳ないですが。

剰余算はプログラムでも使いますので、この算式自体は正しいことを理解しますが、


6 @ 2 = 0
5 @ 4 = 1
6 @ 4 = 2
8 @ 5 = 3

左辺の数値はなんですか。剰余値は何を指しますか。こんな難しい論理を使うとは陳壽も罪な人です。読者が魏朝のインテリであることは認めますが、この数式が解らなければ倭人伝が読めないとはちょっと合点がいきません。

河西さんもこの論理が解らない者を説得するのも難しかろうと思います。この論議の帰趨を、この掲示板の読者に委ねるということでどうでしょう。
Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/02(土) 21:23:58

宮津さん、

これはたとえ話です。
一つ一つ、詳細に説明すべきですか?

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/02(土) 21:39:27

私は、今、「陳寿の論理」を言っているのではありません。
宮津さんの論理が、誤りである、と言っています。

>剰余算はプログラムでも使いますので、この算式自体は正しいことを理解します

なぜ「正しい」と理解できるのでしょうか。
それは、「計算が合う」からです。
違いますか?

>しかしながら、「陳寿は二倍したに違いない」という「想像」に根拠を与えるのは、「計算が合う」という事実である、ということです。

と言うことと、この剰余算が正しい、と言うことは、同様の論理によって言っています。
それを理解していただくための、例え話です。

>この数式が解らなければ倭人伝が読めないとはちょっと合点がいきません

そんなことは言っていません。
それに、これは、何等難しい論理ではありません。
宮津さんがこの「剰余算」が「正しい」と「理解」した、ということがそれを証明する、と言ってもいいでしょう。
では、問題です。

12,000=7,000+1,000+(400@)+1,000+(300@)+1,000+500+100

この場合の「@」は、どういう「演算(操作)」を意味するでしょうか。

Re: RE: 初めて聞きますが・・

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/02(土) 22:20:07

困りましたね。

> この場合の「@」は、どういう「演算(操作)」を意味するでしょうか。

お互いに同じことを言わねばなりません。どうも平行論議のようです。「真実はひとつ」です。私が間違っているのかも知れません。でも多くのことを勉強させて頂きました。河西さんには熱心な教示のし甲斐がなくて申し訳ありません。古代史に憑かれた論者を今後ともよろしくお願いします。(またまたなにを言い出すやら、お楽しみにハハハ)

余里

投稿者:だぶる 投稿日:2004/09/30(木) 11:49:17

再びお邪魔します。
「里程」で盛り上がっているようなので、息抜きにKawaさん弄って(笑)ください。
女王国までの距離はたしか1万2千「余」里となっていたと思いますが陳寿が以下の様に考えたという「アイデア」は如何でしょう。

・里程を表示するに当って百里単位に丸めるというルールを決める
・不弥国 -> 邪馬壹国は50里(あるいは百里?)に満たないので0とする
・合計1万2千里になるが、不弥国 -> 邪馬壹国を考慮して「余里」を加える

今(仕事をサボっているうちに)思いついたので深く考えてません。
Re: 余里

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/01(金) 02:16:22

>里程を表示するに当って百里単位に丸めるというルール

これは、確かに存在していそうです。
しかし、「余里」は、他の個所にもあり(例えば狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国のそれぞれ千余里)、「一万二千余里」の「余里」は不弥国→邪馬壹国間だけではないだろうと思います。

Re: 余里

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/01(金) 09:42:50

>「余里」は不弥国→邪馬壹国間だけではない

知っていてわざと省きました。
う~ん、なんかこうすっきりとした考え方はないものか・・・
Re: 余里

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/02(土) 15:38:13

ふむ。

とはいえ、「余」が付いているというのは、予め概数であること(しかも、表示した数値を下回ることは無い)を示しているのですから、倭人伝の全般的な部分から考えれば、百里未満の数値であることは考えられると思います。
一方では、「一万二千あまり」と言った場合に、百里前後の「あまり」を考えると言うことも、出来ると思いますね。
独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/04(月) 20:29:30

「独り言(03-Oct-2004)」を拝見しました。前半はよく理解できるのですが、後半は抽象的で私には難解です。若干質問させてください。

まず「想像」という言葉の意味ですが、史料にこうあるから私はこう思う、という議論(意見)が万人に妥当性・合理性あると認められれば、それは「想像」ではなく「史実」としていいということでしょうか。

それとも、そうして確定した史実も突き詰めてみれば、誰も同時代に立ち会った訳ではない。つまり古代に対しては無知なのですから「想像」に過ぎないとでも。この場合史実は永遠なりです。

根拠に妥当性・合理性が認められない場合に「想像」と言うならば、自説以外はすべて想像だということになりかねませんが。

だぶるさんじゃないけど「どうも私の言語能力に問題がありそうなので・・」と思っちゃいますね。(冗談ですが)
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/04(月) 23:41:11

>まず「想像」という言葉の意味ですが、史料にこうあるから私はこう思う、という議論(意見)が万人に妥当性・合理性あると認められれば、それは「想像」ではなく「史実」としていいということでしょうか。

難しく考えすぎです。

そうぞう【想像】頭の中に思い描くこと。既知の事柄をもとにして推し量ったり、現実にはありえないことを頭の中だけで思ったりすること。

もちろん、突き詰めた言い方をすれば、
>つまり古代に対しては無知なのですから「想像」に過ぎない
という言い方は正しいかもしれません。
重要なことは、そのことを自覚することだと思います。
「わたしはそう思う。故に事実」
こんな言い方が、通るはずがありません。

>根拠に妥当性・合理性が認められない場合に「想像」と言うならば、自説以外はすべて想像だということになりかねませんが。

そうですか?
それならば、今の全ての「学問」はふっとんでしまいます。

現実に、今、ここで、存在しているものは、史料しかない。
そのとき、史料だけが、事実なのであり、「根拠」とは、その史料事実のことだけを指すのです。
それが私の強調したいことです。
無知な我々古代史論者が「頭の中に描いたこと」は、なんら「根拠」ではない、ということです。
常に、その「想像」は、どの史料事実によって、そう言えるのか、ということだけが問われているのだと言いたいのです。
「既知の事柄をもとにして推し量る」とき、一体、どういう「既知の事柄」があるのか、が問われなければならないのです。
そういうことを言っています。
Re: 独り言

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/05(火) 09:38:12

どうも、引用していただいた(笑)ので一言。

史料だけが、事実なのであり、「根拠」とは、その史料事実のことだけを指すのです(Kawaさん)

その通りとは思いますが、「資料事実」が真実とは限らないわけで当然真実に近づくための手続きが必要ですよね。

Re: 独り言

投稿者:巫女 投稿日:2004/10/05(火) 09:52:50

>現実に、今、ここで、存在しているものは、史料しかない。
そのとき、史料だけが、事実なのであり、「根拠」とは、その史料事実のことだけを指すのです。
それが私の強調したいことです。
無知な我々古代史論者が「頭の中に描いたこと」は、なんら「根拠」ではない、ということです。
常に、その「想像」は、どの史料事実によって、そう言えるのか、ということだけが問われているのだと言いたいのです。
「既知の事柄をもとにして推し量る」とき、一体、どういう「既知の事柄」があるのか、が問われなければならないのです。
そういうことを言っています。

宮津さんの仰りたいことは
恐らく、その「史料事実」が正しいか正しくないかを
研究するのが学問だということではないかと思います。

「史料事実」検証法では「科学」という手段もあります。

考古学者はほとんどは「科学」しか信望しておらず、
「資料事実」による検証は邪道視してます。
ですが史料に書いてあったという事実を無視されるのは
感心する態度ではありませんね。

かわさんの仰りたいことは
古代史探求は個人のものであっては駄目だということだと思います。
他学問とは違って、推論にもとずく想像性は邪魔であるという事かと思います。
「あそこにああ書いてあった」発言だけしか認められない学問であるということだと思います。
宮津さんにお叱りを受けるかもしれませんが、小学生でもわかるものでなくては駄目だということではないでしょうか。
私は同感です。

Re: 独り言

投稿者:巫女 投稿日:2004/10/05(火) 10:04:06

そして、その史料事実が間違ってるとなった場合、
結論はそこまでであって、
だからこうなるといった論はあくまでも想像でしかないと思います。

それは、単に史料事実を崩壊させただけであって、
新たな検証が求められる訳です。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 11:00:45

> 史料だけが、事実なのであり、「根拠」とは、その史料事実のことだけを指す

> 無知な我々古代史論者が「頭の中に描いたこと」は、なんら「根拠」ではない

> 既知の事柄をもとにして推し量るとき、一体、どういう「既知の事柄」があるのか

おっしゃっていることはよく理解できました。河西さんが常に言っておられることです。この三ケ条は大切にしたいと思います。わたしはつい想像の翼を広げてしまうのでしょうね。

今回の問題で言えば、「半周読法」の史料事実が問題になります。そのような史料は聞いたことも読んだこともないように思うんですが。

半周の具体的なイメージとはなんでしょう。島の沿岸沿いに島の半分を航行するのか、島の一端で下船して反対側まで歩いて回船してあった船へのるのか、それとも観念的に数値だけを加えるのか、なんの説明もありません。ただ千四百里がピタリと合うとだけ。

「計算が合う」そのことが史料事実だとすれば、

例えば、宝くじの当選番号が「へ組1234567」だったとき、「当選番号の算出法は、1234568から1引いた数である。」と言っているのと同じです。なるほど算出法に間違いはない、だが次回はハズレです。それでも算出法(当選番号が答になるように)を変えれば、計算は合う。半周読法で計算すれば計算が合うのは、半周読法なる算出法で計算したからです。

宝くじと違って対馬と壱岐の面積は変わりませんから、ひとつの算出法で間に合います。だからその唯一の算出法が絶対のもであると錯覚する。

史料にない「頭に描いた算出法」で説明してもそれは根拠になりません。またまた、私の方で大きな誤解をしているのでしょうか。

Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 11:15:32

わたしは陳壽氏がなにを伝えようとしたのか、言い方を変えれば、陳壽氏がつかんだ史実とはなにかを知りたいだけです。

Re: 独り言

投稿者:巫女 投稿日:2004/10/05(火) 17:18:47

若干、宮津さんを援護いたします。
これも史料事実です。
・伊都国の方角が末盧国から見て東南の方向にある。

ですから、伊都国を末盧国から東南の方向ではない現地図上の前原に比定するのは想像でしかないので事実ではない。

これとは反対に正確には私はこう考えます。
陳寿が伊都国を末盧国から東南の方向にあったと考えていたのは紛れもない史料事実であり、
陳寿が伊都国を末盧国から東北の方向にあると考えていたということは個人の想像にすぎない。

Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 18:32:40

この問題は九州説・近畿説ともアキレス腱です。写本段階のミスか、あるいは末盧国に官名がないことや末盧国までは国毎の地理誌があることから複数資料の紛れと思われます。けれども原資料のないいま論証のしようがありません。定説通り末盧国は松浦・伊都国は前原に比定しています。

Re: 独り言

投稿者:巫女 投稿日:2004/10/05(火) 19:49:38

宮津さんのアキレス腱にはなっておりません。

>陳壽氏がつかんだ史実とはなにかを知りたいだけです。

これが宮津さんの主張された通りの
史料事実が真実とは限らないという話のわかり易い事例です。

あくまでも、陳寿の頭の中での事実を史料事実から知るということです。

もしくは、>写本段階のミス、複数資料の紛れた
後の史料事実を知るということです。

それらの伊都国の史料事実は現地図とでは方角が違っていたということです。

若干、宮津さんを援護してる訳です。
Re: 独り言

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/05(火) 20:31:00

残業していて覗いてみました。

宮津さん

半周読法で計算すれば計算が合うのは、半周読法なる算出法で計算したからです。

史料にない「頭に描いた算出法」で説明してもそれは根拠になりません。

それは違います。半周読法以外に部分里程から1万2千里を合理的に計算できる仮定が(今のところ)無いために最も妥当な説であるということです。
Kawaさんがくわしく書かれると思うので簡単に。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 22:26:08

だぶるさん、

> それは違います

う~ん、そうですか。古田氏里程論が合理的に説明できていることは理解できるのですが。河西さんに迷惑かけてるかな~。
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/05(火) 23:09:47

>その通りとは思いますが、「資料事実」が真実とは限らないわけで当然真実に近づくための手続きが必要ですよね。
(だぶるさん)

>宮津さんの仰りたいことは
恐らく、その「史料事実」が正しいか正しくないかを
研究するのが学問だということではないかと思います。
(巫女さん)

>わたしは陳壽氏がなにを伝えようとしたのか、言い方を変えれば、陳壽氏がつかんだ史実とはなにかを知りたいだけです。
(宮津さん)

巫女さんのまとめてくださったことが、的を射ていると思います。
だぶるさんの言う「真実」あるいは宮津さんのいう「史実」という言い方に問題を感じます。
まるで、「史料」以外の所に「真実」乃至「史実」があるかのような、より、正確に言えば、「真実」乃至「史実」に、「史料以外の所から触れることが出来る」と言わんばかりの、その言い方に、です。
Aという史料が、「嘘」を語っている、或いは、「間違っている」ということは、もちろん、ありうる話です。
重要なのは、そのAという史料が「間違っている」と言うために必要なのは、別の史料である、ということです。
ある史料が示す内容が正しいかどうかを判断する為に必要なのは、「史料」である、ということです。
この際、「史料」という言葉には、文献以外の、考古学的出土事実も含んでいます。
これが私の主張したい点です。

「半周読法」をめぐる議論については、宮津さんの主張は、相変わらず、混同しており、私はその点を指摘したつもりですが、まだ、ご理解いただいていないようです。
少なくとも、私が言わんとしていることを(納得するかは別としても)ご理解いただいていないようです。
おそらく、「可能性」をめぐる議論に関する重大な誤解があるように見えます。
それについては、別途、指摘させていただくことにします。
Re: 独り言

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/06(水) 12:42:16

> だぶるさんの言う「真実」あるいは宮津さんのいう「史実」という言い方に問題を感じます。

私に関して言えばKawaさんの誤読です。

> ある史料が示す内容が正しいかどうかを判断する為に必要なのは、「史料」である、ということです。

とお書きになっている「判断」の部分が必要だと言っているだけです。

>宮津さんの仰りたいことは
恐らく、その「史料事実」が正しいか正しくないかを
研究するのが学問だということではないかと思います。
(巫女さん)

と同じことを言っています。
Kawaさんの主張とどう違うのか私の寝ぼけた頭では理解できません。
どうもあまり歓迎されていないようなのでこれで失礼します。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/06(水) 18:44:57

だぶるさん、また助言ください。私が言っているのは、素人の素朴な思いです。「狗邪韓国から千余里で対馬、さらに千余里で壱岐、さらに千余里で末盧に着く」との、いわば誰にも解る単純な文章と思っていたのに、なぜか二島の半周分を加えるのだというのが解せないのです。すると狗邪韓国ー末盧間が概算でも四千里を超え、船で南下すると松浦湾から陸に上がって杵島山に、それこそ「船が山に上る」なんて有り得ないことに思うんですが。倭人伝は正史だから簡易には読めないのでしょうか。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/07(木) 22:57:10

河西さん、

解らないことを、仮にこうだとして、説明できればその仮の答は正しい。今回の場合は数値計算であって誰にも異存はない、千四百里が足りない、仮に半周読法にして、ピタリ計算が合う、だから論理的に正しい。そうゆうことでしょうか。

ですが、倭人伝の一例だけから導き出している法則(半周読法)?であって、蓋然性が極端に低い。白い犬を一匹だけみて、犬は白いものだ、と同じです。詭弁です。

つまり「目の前の犬は白いだろう、な、だから犬は白いものなんだ」といくら詰め寄られても認められません。そうゆうことです。

Re: 独り言

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/07(木) 23:01:22

激しく気が進まないのですが、折角のご氏名なので・・・

素人の素朴な思いです。
とのことなので類推から始めましょう。

東京から海路・陸路を利用して東回りにロンドンに行く事を考えてみてください。倭人伝にとらわれる必要は無いのでありそうなルートを見つけましょう。

Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/07(木) 23:18:17

だぶるさん、有難う。

なんか決定的な勘違いをしてるようで恐くなってきましたが、

東京から水行してハワイホノルル港(古き良き時代)、続いてサンフランシスコ、鉄道でニューヨークへ、また船旅でロンドンへ。
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/07(木) 23:54:35

ふむ。

>白い犬を一匹だけみて、犬は白いものだ、と同じです。詭弁です。

これが、「可能性」に対する決定的な誤解です。
「犬」という集合があり、その集合の属性として「犬は白い」という命題が偽であることが明らかで、それにも関わらず部分である「一匹の犬」を取り上げて、云々する、そのことは確かに誤りだといえます。
しかし、「今、ここで」問題になっているのは、陳寿の「魏志倭人伝」という「たった一つの」文献を問題にしているのであり、ここでこういう集合の議論は適用できないのです。
宮津さんは、「勝手に」行路記事の集合を作り上げ、そこでは「総里程が明記されていない」かもしれないから、「魏志倭人伝」一つが「偶然」そのように見えたとしても、それは「偶然」であり、事実は「明記されていない」のだ、と言います。
しかし、その「行路記事の集合」なるものが、宮津さんの想像でしかなく、誰にとっても、不明のことである以上、その集合の論理は、根拠のないものである、と言わざるを得ません。
問題は限定されなければなりません。
「陳寿」は「魏志倭人伝」で、どのような記述を採ったのか、という一点が問題なのです。

要するにこういうことです。

6 @ 2 = 0
5 @ 4 = 1
6 @ 4 = 2
8 @ 5 = 3

このルールは何でしょう、というクイズが出ました。
正解は、「この記号の左側の数を右側の数で割り、そのあまりを示す演算」ということであり、ここで、
「いや、もしここでクイズの問題が、
3 @ 2 = 9
2 @ 2 = 4
2 @ 3 = 8
だったなら、答えは違ったはずだ」
と述べているようなものです。
このクイズで問題になっているのは、問題の、一つのケースだけであり、ここでそれが違った場合を考えても意味はありません。
その点が「可能性」に関する重大な誤解なのです。
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/08(金) 00:03:11

だぶるさん、

>私に関して言えばKawaさんの誤読です。

なるほど。
まぁ、短いだぶるさんの発言からすると、私の「誤読」は無理からぬところとして、ご了承いただきたいと思います。
だぶるさんのご意見は、理解できました。

>どうもあまり歓迎されていないようなのでこれで失礼します。

まったく、そんなことはありません。
今後ともどうぞ積極的にご発言ください。
では、よろしくお願いします。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/08(金) 12:07:29

河西さんがおっしゃりたいことはよく解りました。まさにその点を問題にしています。

私>> 古田氏里程論が合理的に説明できていることは理解できるのですが

古田里程論がひとつの完結をしている(矛盾がない)ことは認めますが、だからそれが正しいかどうかは相対的であり、ひとつの試論に過ぎないのでは。とても他の里程論を退けるほどの論拠にはならない。

東夷伝に同じ記述があればそこから帰納的に解読法がわかりますが、不幸にも他の八夷はすべて中国と陸続きで島伝いではない。だから唯一の例を分析してこれこそ正しいと言われてもね。

目の前にいる一匹の白い犬の尻尾の先が黒い。そら見ろ、犬とは尻尾の先が黒い動物だと言われても・・

私の論理は、「総里程が解っていれば、ひとつの区間里程は明示する必要がない」と公理に従っています。

河西さんは、私の意見を理解頂ける(賛成はできなくても)のでしょうか。今日からまた、ちびっこギャングが現れPCを使えません(あわれオモチャに)。申し訳ないですが、返信は十二日以降になります。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/08(金) 15:46:55

もう少し言い足りないかも。

古田里程論は、「全区間の里程が明示されている」は"完全に論証"されていても、だからと言って「明示されていない」を排除できないと言っています。なぜなら倭人伝(一例だけ)に限るからです。論証したことを以って論証せざるに及ぼすのはいかがなものか。

普通はひとつの命題が論証されれば、それを否定することができません。だがいまは、「いかに明示されているか」ではなく、「明示される/明示されない」を論議しています。ひとつの特殊で以って私の論理が排除されてはかなわない、と思います。

それにもう一点、

A (古田氏) 郡から不彌国に至る - 萬二千余里
B (倭人伝) 郡から女王国に至る - 萬二千余里

この違いに目をつぶってもいいんですか。BをAに修正する史料根拠がありません。いやA=Bだ、との意見は、だからAの命題自体は論証されていても、A=Bは論証されていません、ということです。

残余の千四百里は不彌国ー女王国間とする、説の場合は、史料Bそのものですから、論証の必要がありません。これを否定する場合(史料が間違っている)に論証が必要になります。

辛抱強く議論いただき感謝しています。結局あなたの言われることを理解できないのかも知れません。いずれにしても申し訳ないと思います。

ま、古田里程論の根幹をなすといっても、これだけが倭人伝の論点ではありませんから・・どうかあきれないでお付き合いください。河西さんは余人をもって変え難いのですから。
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/09(土) 07:34:09

>私の論理は、「総里程が解っていれば、ひとつの区間里程は明示する必要がない」と公理に従っています。

>だがいまは、「いかに明示されているか」ではなく、「明示される/明示されない」を論議しています。

そのとおりです。
しかしながら、今は一般論を議論しているのではありません。
「特殊」だ、「例外」だ、と言いますが、それは、宮津さんが勝手にそう決めただけのことであり、宮津さんがそのようにおっしゃる為には、「文献の行路記事は全里程を明記しないのが一般的である」が論証されていなければなりません。
「公理」だ、と都合よく言いますが、「明示されているか/いないか」を議論しているのですから、それを言ったところで議論は全く進みません。
「一般的には明示することもしないこともありうる」ということは、私も承知しており、では、この「魏志倭人伝」はどちらなのか、を議論しているのです。
対象は具体的なのです。
一般論と個別の議論を混同すべきではありません。

>目の前にいる一匹の白い犬の尻尾の先が黒い。そら見ろ、犬とは尻尾の先が黒い動物だと言われても・・

私は、「目の前にいる一匹の犬」についていっているのです。
それを犬全般に言うつもりはありません。
宮津さんは、
目の前にいる一匹の白い犬の尻尾の先が黒いように見えても、でも、それは犬一般の属性では無いから、目の前の犬の尻尾は黒くないかもしれないじゃないか。
と言っているのです。
Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/09(土) 07:57:25

>A (古田氏) 郡から不彌国に至る - 萬二千余里
>B (倭人伝) 郡から女王国に至る - 萬二千余里

>この違いに目をつぶってもいいんですか。BをAに修正する史料根拠がありません。

実地の距離と、陳寿の記述を混同しています。
「史料根拠が無い」と言いますが、根拠は、「不弥国から女王国までの間に里程表記がひとつもない」ということであり、それが全く書かれていないにも拘らず、「何か違わなければいけない」という論理のほうが、(気持ちは分からないでもないですが)根拠が無いのです。確かに「違っていて」何もおかしくはありませんから、「違っている可能性がある」ことは事実ですが、「同じではいけない」とまで踏み込めますか?
「可能性がある」は、何の論証でもありません。
それだけを言いたいのなら、いくらでも何とでも、言うことが出来ます。

>残余の千四百里は不彌国ー女王国間とする、説の場合は、史料Bそのものですから、論証の必要がありません。これを否定する場合(史料が間違っている)に論証が必要になります。

全くの誤解です。
「何も書いていない」が史料事実です。
「書いていないものを足そう」としています。
そのことを勘違いしてはいけません。宮津さんは、「1400里はここで足される」ということが、自明のことだと思っているようですが、少しも自明ではありません。

今、「明記されているか/いないか」を議論しているにも関わらず、宮津さんは、そんなことお構い無しに、「明記されていない」以外考えられない、と前提して、単にそれ以外の議論は認めない、といっているだけです。「可能性」を盾にして。

一見、見えてこないように感じる「足りない里数」(それが、1300なのか1400なのか、さえ、議論があるところです)は、明記されていないのだとすれば、「どこに入れたらいいのか」さえ分かりません。
一方、対海国、一大国の「方X里」という記述を、計算に入れてみれば、計算が合うという事実があるわけですから、そう考えるほうが、「理にかなう」と言っています。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/13(水) 14:45:03

> 「文献の行路記事は全里程を明記しないのが一般的である」が論証されていなければなりません。

目の前に(イ)「A地点からB地点までは10600里で、A地点からC地点間は12000里である。」という文章があれば、その読解が(ロ)「B地点からC地点までは1400里である。」を論証する必要がありますか。おっしゃっていることに意味がありません。

> 全くの誤解です。
> 「何も書いていない」が史料事実です。
> 「書いていないものを足そう」としています。

私も不彌ー女王国間の里程が書かれていないという史料事実から発しています。数値として明示する必要がない、いやそれ以上に正確な唯一の数値を読者に伝えたのです。1400里を文中に探したのではなく、文章そのままの解釈です。(若干の足し算と一回の引き算はしましたが)

(イ)の文章は普通誰でも(ロ)と理解するでしょう。三国志は、千七百年の歳月と非凡の才能を以ってやっと解読できたという性格の書物でしょうか。勿論細部は今だ論争があるとしても、筋立てにかかわる根幹の部分で、当時理解不能の文章を書いたのですか。誰もが誰でも読めるように書かれたはずです(非凡の才能がなくてもネ)。

1.> 今、「明記されているか/いないか」を議論しているにも関わらず、宮津さんは、そんなことお構い無しに、「明記されていない」以外考えられない、と前提して、単にそれ以外の議論は認めない、といっているだけです。
2.> 「何も書いていない」が史料事実です。

おっしゃることが矛盾しています。
Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/13(水) 14:46:02

> 一見、見えてこないように感じる「足りない里数」(それが、1300なのか1400なのか、さえ、議論があるところです)は、明記されていないのだとすれば、「どこに入れたらいいのか」さえ分かりません。

これはまた異なことを、「どこに入れたらいいのか」分からないとは。木を見て森を見ざるですか。読者がもっとも知りたい、書かれていない最終行程の不彌国ー女王国間の里数に決まっているじゃないですか。ここしか入れるところはないじゃないですか。

三国志は単なる官僚的な報告書ではない。だからすべての区間・里数を単調に並べて読者を退屈させないように文章が工夫されている。これが三国志の面白さであり、今でも多くのフアンがいるのもこのためでしょう。(史料という以上に読み物としての視点が必要かと思います)

> 一方、対海国、一大国の「方X里」という記述を、計算に入れてみれば、計算が合うという事実があるわけですから、そう考えるほうが、「理にかなう」と言っています。

むしろ、陳寿の算法(方法)など史料のどこにも明示されず、つまり足せとも言っていない島の半周を加えるなど、史料操作とも言えるかも。

計算が合えば「理だ」というのは危険です。人は一見理があるように見えるものに弱い。問題は計算の意味です。面積の数値として表記したものを距離に加えるとは。意味のない数値を、意味のない計算をして、結果だけが合えば良い、とは。

Re: 独り言

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/14(木) 02:05:23

宮津さん、がんばってください。応援しています。
郡から不彌国に至る - 萬二千余里 のとき
12,000=7,000+1,000+(400@)+1,000+(300@)+1,000+500+100…が成り立つ
よって郡から不彌国に至る - 萬二千余里は正しい
これでは、証明になりません。
文意を理解するのに隠された掛け算が必要であるでは、通常の文章ではありません。
また実際の2島の形状、大きさを考えても2倍することに、合理性がありません。
よってこの計算式しか根拠が無いのであれば、郡から不彌国に至る - 萬二千余里の読み方は、成立しないと考えるべきだと思います。
やはり 郡から女王国に至る - 萬二千余里であろうと思います。
しかし、残り1400里は、自明の理でもなければ、公理でもありません。
伊都国から女王国 1500里
伊都国から不彌国経由 女王国 1400里
伊都国から奴国不彌国経由 女王国 1300里
その他にも、行路記事の書き手(魏使とは限らない)が、誰かの依頼で旅行したならば、旅費請求のための水増し?等
想定できる仮説のひとつです。
宮津さんが、伊都国から不彌国経由 女王国 1400里であると考えるとき、合理的な説明がつけられるか、どうかであると思います。
ちなみに、私の読み方
水行1日=1000里 (使用する船にもよる、他の水行記事がおなじとは、かぎらない。)
陸行1日=100里 (陸行1月には、移動しない日も含む)
これらの里程は、体感距離とでもいうようなものと考えています。
方角は、行くべき道がどの方向に向かっているかであると考える。
旅行者にとって、地図のような正確な位置情報が無くても、目的地には、着けるのである。
女王国がどこであるかは、わかりません。
再度、自説構築、がんばってください。
陳寿の算法を問う

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 18:24:07

古田氏は、陳壽の算法を裏付けるものとして、「周旋五千余里なる可し」を援用されています。同じく『古代は輝いていたI』から引用して、古田氏の主張に反論してみます。同書中、第二章里程論(p.213)から、「」内が引用文です。

「倭地を参問するに、海中州島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里なる可し。(倭人伝)
この『倭地』が、
一万二千余里 - 帯方郡治→邪馬一国
七千余里 - 帯方郡治→狗邪韓国
差引 = 五千余里 - 狗邪韓国→邪馬一国(倭地)
という形で算出されたものであることは、疑いえない。ここにも陳壽の義理がたい算法、明晰な算出の仕方の実例が見られる。」

果たしてそうだろうか。この簡単な算法を参問(問い計る)しなければならないだろうか。狗邪韓国から末盧国まで海上三千余里、対馬は方四百里、壱岐は方三百里と明らかにしているのであって、これらを含めてさらに明示する必要はない。読者も明解に理解している。問題は、これらを除く九州島の大きさがどれくらいなのかを示したかったはずだ。

だが陳寿は倭地の大きさを知らなかった。三国志のほかの国のように○○国方何千里ばかりと表すことができなかった。周旋とは回り巡ることだから、倭地内の回り巡った陸行水行のすべての距離で、このうち日程記事の水行陸行を距離に換算することに参問したのである。参問した結果三千余里とみた。そうして知り得た周旋の距離五千余里を記した。周旋と断りながら倭地の大きさの一部を正確に示したのです。

周旋とは回り巡ることですから、二点間の距離ではなく、ある地点から同一地点を経ることなく元の地点に戻る視点です。古田氏の誤解です。

「さて、ここに『州島 - 周旋』という表現が注目される。島は辺縁を経めぐるもの。そうゆう考え方が示されている。この考え方に従って、算出されているのだ。その点、従来の一点通過読法は、この一文を深くかえりみなかったのではるまいか。(この周縁経過が、四周でありえないことは、すでに述べた通りだ。)」

Re: 陳寿の算法を問う

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 18:24:53

「(倭人伝)海中州島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、」は、九州いや列島のどこを描いてもこの表現になるのであって、周旋と結びつけるのはどうだろう。島は辺縁を経めぐるもの(船で巡るのか徒歩でなのか意味が不明だが)、も必ずしもそうは言えまい。半周読法を根拠にしたいとの思いのようだが、ちと苦しい。

「以上によって、ようやくにして、先の(A)の総和が(B)と一致する。そのような結果をえた。これは何を意味するか。次の命題である。 - 『不彌国到着を持って、女王の都するところ、邪馬一国の玄関に立つことになる』」(筆者注:(A)とは帯方郡治から不彌国までの明記区間里程の和で一万六百里、(B)は帯方郡治から女王国までの総里程一万二千餘里/古田氏の著述からの引用を終わります)

これはまた奇怪な文章である。邪馬壱国を案内しているはずが不彌国で終わるとは。ましてや不彌国と邪馬壱国の間に投馬国を挟んでいるのは構文上無理だ。また、不彌国が玄関である、との言辞は倭人伝にはない。不彌国ー邪馬壱国間の距離が明示されていないから、あるいは一万二千里をすべて使い果たして0(ゼロ)だから、不彌国到着を以って邪馬台国への到着とみなすとは、普通の文章表現ではありません。

Re: 陳寿の算法を問う

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/05(火) 22:15:36

説明不足がありました。周旋五千余里は、日程記事を距離に換算した三千余里と、郡ー邪馬壱国間の総里程一万二千余里から郡ー末盧国間一万余里を引いた差の二千里を加えたものです。

Re: 陳寿の算法を問う

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/09(土) 14:10:10

>周旋とは回り巡ることですから、二点間の距離ではなく、ある地点から同一地点を経ることなく元の地点に戻る視点です。古田氏の誤解です。

【周旋】
(1)売買や雇用などの交渉で、仲に立って世話をすること。なかだち。斡旋(あつせん)。
「―業」「適当な人物を―しますよ/破戒(藤村)」
(2)事をなすため立ちまわること。世話をすること。
「甲斐しく酒杯の間に―し/鬼啾々(夢柳)」
(3)あちこちめぐり歩くこと。周遊。
「ひろく所々を―して/洒落本・雑文穿袋」
(4)ぐるぐるまわること。めぐりめぐること。
「みな本証の仏花を―する故に/正法眼蔵」

別段、「一周回らなければいけない」という用語ではありません。以前も述べたとおりです。

>宮津さんも何度かおっしゃっているとおり、魏志倭人伝の行路は、郡から倭への最短距離では無いと思います。ですから、末盧→伊都→不弥という径路は、それこそ、倭国を「めぐっている」のです。

>陳寿は、何故、「行路以外の国を知らないのか」
この答えは簡単です。
>「周旋」していないからです。
>したがって、倭国の全体を「周旋」した、というのは、誤りだと思います。やはり、径路上の国々を指すと言うべきでしょう。
Re: 陳寿の算法を問う

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/09(土) 14:12:51

次に、

>これはまた奇怪な文章である。邪馬壱国を案内しているはずが不彌国で終わるとは。ましてや不彌国と邪馬壱国の間に投馬国を挟んでいるのは構文上無理だ。また、不彌国が玄関である、との言辞は倭人伝にはない。不彌国ー邪馬壱国間の距離が明示されていないから、あるいは一万二千里をすべて使い果たして0(ゼロ)だから、不彌国到着を以って邪馬台国への到着とみなすとは、普通の文章表現ではありません。

についても、私は既に述べており、
>距離=0と言うと奇妙な感じを持つかもしれませんが、不弥国に着いたら、もう着いたも同然、目と鼻の先に邪馬壹国がある、ということです。
>言い方を換えれば、「接」と言う場合、厳密に「接」してなければならなくなります。
>国と国ならそういうこともありましょう。
>ですが、行路―そこにはスタート地点と到着地点がある―においてスタートと到着地点が「接」するはずがないのです。
>ですから、「接」は使えません。
>厳密に言えば、伊都国→不弥国の到着地点から、次の邪馬壹国の到着地点までは、いくらかの距離があったでしょう。
>ポイントは、「全区間距離を史料上に明示しているはずだ。」というのは「陳寿の算法」を問題にしているのであり、不弥国→邪馬壹国間には、里程として足すべきものがない、ということなのです。
>もちろん、不弥国→邪馬壹国の距離は、大勢に影響を与えるような大きな距離ではありません。数里か、数十里か、実際にはあったのだと思います。
>ですから、ここで言う「距離=0」を現実の地図上の距離が0である、と考えるべきではありません。「書かれていない」ということは、「何も足さない」なのか、「自分で数値を埋めて足しなさい」なのか、これは、今の議論の焦点ですから、どちらもありうるとしておきましょう。

さらに、

>・里程を表示するに当って百里単位に丸めるというルールを決める
>・不弥国 -> 邪馬壹国は50里(あるいは百里?)に満たないので0とする

というだぶるさんのご指摘もあり、私はこの理解でよいと考えます。
Re: 陳寿の算法を問う

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/13(水) 16:23:46

「周旋」の語の意味は、河西さんと私で微妙に違うようですが、「倭地(全体)を周旋していない」と「周旋した倭地(その一部)を表記した」のように使い方も異なっています。ですが、周旋した範囲は郡使の経路であり、「郡使が周旋した里数は五千余里である」も同じ解釈です。

また「倭地」は、狗邪韓国・対馬・壱岐から博多湾岸の狭い地域ですが、私は狗邪韓国・対馬・壱岐を除く九州島を想定します。

五千余里のため参問しています。なぜ参問の必要があったのでしょう。

古田氏は女王国の北にある投馬国を鹿児島に比定し、女王国の南の狗奴国は確か筑後でしたか、倭国が敵国の内在するイメージの描き難いものです。海峡国家との位置付けが破綻をきたしています。

> 不弥国→邪馬壹国間には、里程として足すべきものがない、ということなのです。

史料上の事実としてどこにも明示されていません。
水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/08(金) 10:56:29

長くなったので新スレ立てさせてもらいました。>Kawaさん

さて、宮津さん。

> 東京から水行してハワイホノルル港(古き良き時代)、続いてサンフランシスコ、鉄道でニューヨークへ、また船旅でロンドンへ。
う~ん、自分が旅したくなってきたぞ。
私が「陸路」と書いたので誘導されて鉄道を利用していただいたのかもしれませんが、「場合によって」海路の間に陸路が挟まる事自体は特に不自然なことではないと思います。
この点はいかがでしょうか?

と、こんな感じでちょっとづついきます。かなり長くなるかもしれませんが覚悟してください(笑)。それと私は休日には書き込みにえらく不自由な環境になるので次回は休み明けになると思います。

Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/08(金) 12:14:36

なにしろ船でハワイを経由する時代ですからね。海路ー陸路ー海路なんて普通のことでしょう。

私も連休はPCも電源を入れられません。休み明けを楽しみにしています。
Re: 水行陸行

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/09(土) 14:41:46

>と、こんな感じでちょっとづついきます。かなり長くなるかもしれませんが覚悟してください(笑)。

私も楽しみにしています。
Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/12(火) 13:14:06

間が開いたので以後どのように進むのか予想されているかもしれませんが、とりあえず続けます。
さて、宮津さんのご指定のルートに沿って簡単な紀行文を書いてみます。

東京港を出航して浦賀水道を抜けた後、海路を東へ6400km進むと、オアフ島ホノルル港に到着。
埠頭そばのホテルで一泊して英気を養う。
翌日再び海路を東へ向かい、3900kmの航海の後、北アメリカの西の玄関サンフランシスコ港に入港した。
ここから鉄道で陸路を行くことにする。
海岸沿いの都市部を離れると、しばらく山岳地帯や沙漠などの荒地が続く。
ようやくロッキー山脈を越えると、そこには大草原地帯"プレーリー"が地平線のかなたまで広がっていた。
その後、いくつかの都市で小休止しながら6000kmを走破してニューヨークに到着、ここからまた船に乗り換えて、東へ6100km行くとついに目的地のロンドンに着いた。
総行程22400kmあまりの大旅行であった。

文章が稚拙なのは置いておいて、なにか不自然な部分はありますか?
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/13(水) 11:47:19

自然描写もあって素晴らしい文章です。いいですね、不自然な部分は見当たりません。
Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/13(水) 19:17:25

素晴らしい文章

恐れ入ります(*~v~*)。じつは後の展開のために無理して書きました。

OKをいただいたところで次の課題に移りますが、以上の状況において日本 -> USAの距離はどう表すのが良いでしょうか?

Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/13(水) 21:00:26

日本からアメリカまでの距離と言えば、一般的には首都から首都までの距離で表します。今回は残念ながらワシントンには寄っていません。アメリカ各地までの距離を表すしかないでしょう。

倭人伝も「女王の都」する邪馬台国までの里程で表示しています。変わらないですね。

古田流の読みで言えば、ニューヨークからワシントンまで南西に400kmですから1000kmで丸めて0とし、ニューヨーク到着を以ってアメリカの首都に着いた、と言うでしょうか。

Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/14(木) 14:23:33

宮津さん、今は古田説は無関係ですよ。

> ニューヨーク到着を以ってアメリカの首都に着いた

「アメリカの首都」までではなくて「アメリカ」までの距離です。

それではスケールを変えます。
「フェリーで東京港を立ち、苫小牧港に入港して自動車で札幌まで移動」
上記で「北海道」着はどの時点ですか?
Re: 水行陸行

投稿者:巫女 投稿日:2004/10/14(木) 16:32:13

>「アメリカの首都」までではなくて「アメリカ」までの距離です。
それではスケールを変えます。
「フェリーで東京港を立ち、苫小牧港に入港して自動車で札幌まで移動」
上記で「北海道」着はどの時点ですか?

苫小牧港です。

これはどちらかといえば、
魏使の訪れた女王国までの距離は郡から伊都国・一大率着までの概ね一万二千余里であるとする
畿内説の一論法ではないのですか?
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/14(木) 22:42:39

一般的には苫小牧港で北海道に着いたと携帯するでしょうね。北海道の一部ですから。ですが、東京ー北海道間の距離は○kmという場合は、東京港ー苫小牧港間でないことも確か。

倭地に着いたのは狗邪韓国というのと同じです。其の北岸ですからね。

Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/15(金) 09:19:44

> ですが、東京ー北海道間の距離は○kmという場合は、東京港ー苫小牧港間でないことも確か。

本当にそうですか?それは常識に属する事ですか?
あらゆる場合に適応してよい測定方法ですか?
繰り返しますが、地理として日本ーアメリカあるいは東京ー札幌の距離をどう測定するか?、ではなくて「私の書いた文」においてどう表示したら「自然」か?という命題ですよ。
「アメリカまでの距離」でググると

www.erina.or.jp/Jp/Lib/Bn/BN-pdf/bn26.pdf
(無断引用)

という文書がヒットしますが、その6ページに
「現在、琿春はロシアのザルビノ港、ポシェット港と朝鮮羅津港 を利用し、日本、韓国、北アメリカに至る海陸運送
航路を開通させ、 日本、韓国、北アメリカまでの距離を短縮し」
という文が出てきます。
宮津さんはこれをどう「読む」のですか?

それからお願いですから「倭人伝」から離れてもらえませんか。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 15:36:42

> これをどう「読む」のですか

問いの意味がよくわかりませんが、一般的にはこのように表現しますね。類した文章はよくみかけます。

新幹線が開業したとき(40年前)、東京と大阪の「距離を短縮した」と言いました。

正確には東京駅と新大阪駅の距離が短縮されたのですが、東京駅は東京都に新大阪駅は大阪府にありますから、東京と大阪の距離が短縮されたと表現するのでしょう。

皇居は東京都千代田区一番地ですが、「皇居は東京にある」と同じ表現ですね。
Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/15(金) 19:10:41

一般的にはこのように表現しますね。

東京駅は東京都に新大阪駅は大阪府にありますから、東京と大阪の距離が短縮されたと表現するのでしょう。

その通りです。
したがって、私の紀行文に「日本を発って10300kmの航海の後、アメリカ合衆国に到着した。」という文を追加しても特に「不自然とは言えない」と言う事に同意していただけると思いますが、いかがでしょう?

Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 19:57:00

> 一般的には苫小牧港で北海道に着いたと携帯するでしょうね

と同じです。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 23:33:22

同意します。

Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/16(土) 15:09:25

同意をいただいたところで整理します。

「陸(国)間を海路で移動するとき、その海路距離によって陸(国)間距離とする場合がある」

やっと一つ目のマイルストーンにたどり着きました。
続きは休み明けに。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/16(土) 20:33:54

ハハハ、「陸(国)間を海路で移動するとき、その海路距離によって陸(国)間距離とする場合がある」 とは言っていませんよ。だぶるさんもお人が悪い・・

「その到着地点のある国に着いたと表現することがある」と言っただけです。距離で言うなら、あくまでも

> 東京港を出航して浦賀水道を抜けた後、海路を東へ6400km進むと、オアフ島ホノルル港に到着。埠頭そばのホテルで一泊して英気を養う。翌日再び海路を東へ向かい、3900kmの航海の後、北アメリカの西の玄関サンフランシスコ港に入港した。

ですから

> 「日本を発って10300kmの航海の後、アメリカ合衆国に到着した。」という文

は、正確に言えば、「東京港を発って10300kmの航海の後、サンフランシスコに到着した。」です。あなたの紀行文のように表現することもある、です。

あくまでも10300kmは、東京港ーサンフランシスコ港間の距離です。そうじゃないですか。

どちらにお住まいか存じませんから、全国的に知名度の高い例を書いてみます。川崎駅前の第二京浜を走っていて、「東京20km」と案内が出ていても、多摩川を渡ればそこは東京都で、東京に着いたと言っても間違いじゃないでしょうが、距離は東京まで20弱kmありますね。

どうなんでしょう。
Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/18(月) 10:52:01

では書き直しましょう。

(前略)
翌日再び海路を東へ向かい、3900kmの航海の後、サンフランシスコ港に入港した。
ここから鉄道で陸路を行くことにする。
海岸沿いの都市部を離れると、しばらく山岳地帯や沙漠などの荒地が続く。
ようやくロッキー山脈を越えると、そこには大草原地帯"プレーリー"が地平線のかなたまで広がっていた。
その後、いくつかの都市で小休止しながら6000kmを走破して『アメリカ合衆国に到着』、ここからまた船に乗り換えて、
(後略)

不自然と思われるならどの地点をもって『アメリカ合衆国に到着』したと言うべきか、書き直してみてください。
この文ではそのような表現の余地が無いとお考えなら残念ながら 宮津さんは旅行の経験が無いのではないか?などと思えますが。

Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/18(月) 11:17:00

意地の悪い言い様になりますが、宮津さんが反論として「第二京浜の標識」のような例を
あげられることはこのスレッドを立てた段階で予想していました。
しかし、そのような引用が的外れであることを宮津さんにご自分で気づいてもらうにはどうしたらよいのでしょうかねえ。
カギのひとつは宮津さんご自身が別のところで書かれた(と記憶している)「それだけの距離を南下すると
陸地深く進入する事になるので水行は不可能」との趣旨の文章(の意味する事)なんですが・・・。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/18(月) 13:31:16

> カギのひとつは宮津さんご自身が別のところで書かれた(と記憶している)「それだけの距離を南下すると陸地深く進入する事になるので水行は不可能」との趣旨の文章(の意味する事)なんですが・・・。

私も記憶は定かでありません。私が書いたのなら、

不彌国から「南至投馬国、水行・・南至邪馬壱国、水行陸国・・」ですが、不彌国(博多湾岸)から南へ水行はできませんね。福岡平野なんですから。だから不彌国から水行して南へ行くためには、松浦・島原半島を迂回して、有明海に入らねばなりません、と書いたはずです。

勿論、古田氏と異なって日程記事を郡ー女王国間とはせず、不彌国から投馬国、不彌国から邪馬壱国間の実日程とします。(不彌国からの傍線行路というか放射読みというか)

> (第二京浜の例の) 引用が的外れであることを宮津さんにご自分で気づいてもらうにはどうしたらよいのでしょうかねえ。

そうですか、的外れですか。川崎ー東京間の距離(その地点を特に指定しない場合、一般的には川崎市の市役所と東京都庁間の距離を指すようです)と、東京都へ入った地点とは別の話しと思いますが、間違っていますか。千葉から東京都へ入る地点はこれまた違いますから、東京へ着くのは入った地点によって変わってきます。ですから東京へ着いたというだけでは距離を特定しませんよね。

多分「不彌国は邪馬壱国の玄関であって、不彌国に着けば女王の都へ着いたのも同然だ」を解らせようとしておられるのかも知れませんが、その意味は通じても(解りますよ)、だから距離は計算上0(ゼロ)なんだとはならないでしょう。不彌国と女王国が同一なら別ですが。失礼ながら私には、こちらの方が的外れに思いますが。

なにか勘違いしているのでしょうか。
Re: 水行陸行

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/19(火) 10:08:14

> だぶるさん、また助言ください。私が言っているのは、素人の素朴な思いです。「狗邪韓国から千余里で対馬、さらに千余里で壱岐、さらに千余里で末盧に着く」との、いわば誰にも解る単純な文章と思っていたのに、なぜか二島の半周分を加えるのだというのが解せないのです。すると狗邪韓国ー末盧間が概算でも四千里を超え、船で南下すると松浦湾から陸に上がって杵島山に、それこそ「船が山に上る」なんて有り得ないことに思うんですが。

忘れておいでのようですが、上記に対しての私なりの解説であって「古田説」の証明をしているのではありませんよ(水行不可のくだりもここでしたね)。

> 多分「不彌国は邪馬壱国の玄関であって、不彌国に着けば女王の都へ着いたのも同然だ」を解らせようとしておられるのかも知れませんが、

したがってまったく見当違いです。
私が言わんとしているのは「水行時の距離測定を陸行時と同等にあつかうのは不自然である」ということです(特に記述者が同等に扱う意図を持っていない場合において)。
前掲の紀行文を事前に手近の10人ほどに読ませたところ、(ハワイ州の扱いを除いて)全員が日本-USAの距離イコール東京-サンフランシスコの距離と答えました。
別のところでKawaさんが

> 今まで、「直線距離」だけで測っていたのですか?
それなら、ソウルなり沙里城なり、「帯方郡」から一万二千里の円を描いて、その円周上にある、で議論は終わりです。

との指摘をされていますが、このスレッドでも同次元の錯覚をされているように私には感じられます。
強調したいのは、最終的に私が主張する予定だったことは
「水行の途中に島半周分の距離を挿入する事は『常識に照らして即座に否定される』ほど不自然な表記法ではない」
という消極的肯定に過ぎず、「古田説」の証明に直結するものではありません。そのために紀行文中に複数の「トラップ」を仕掛けてもみたのですが、それぞれでいちいち「説得」する気力ももはや果ててしまいました。
私自身特に「古田信者」というわけではない(自分ではKawaさんと同じようなスタンスと思っています)ので、「古田説」の普及に努力する必要も感じておらず、このスレッドはこの辺で止めようと思います。

長々と書かせていただいたKawaさんに感謝いたします。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/19(火) 16:10:29

甲斐のないことで申し訳ないと思います。

> 「水行の途中に島半周分の距離を挿入する事は『常識に照らして即座に否定される』ほど不自然な表記法ではない」

河西さんも言われるように方○里と里程で書かれており、おっしゃることは解らないでもありません。古田里程論のアキレス腱とばかりに攻めるに急過ぎるのかも。いえ古田氏には勿論著書を通じて多くを教えられ、古代史の面白さを知らされた人で尊敬しています。だから余計に不審点が気になるのかも。

だぶるさん、ありがとう。河西さんありがとう。
Re: 水行陸行

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/20(水) 09:15:03

もう一度読み返しました。だぶるさんは無理なことを言っておらず、私の方で頑な過ぎるのかも知れません。表現に神経質なものですから、つい。

古代史の探求を楽しみましょう。
Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/14(木) 00:41:40

宮津さん。

まったく議論がかみ合っていない上に、論点も分散していますので、整理します。

1.魏志倭人伝には「各里程が明記されているのか/いないのか」

ここで問題になっているのは、

>私も不彌ー女王国間の里程が書かれていないという史料事実から発しています。

と言うとおり、「何も書かれていない」という史料事実に対する理解の仕方が問題になっています。
宮津さんは、ここで、

>数値として明示する必要がない、いやそれ以上に正確な唯一の数値を読者に伝えたのです。

という理解を示しました。
そして、

>(イ)の文章は普通誰でも(ロ)B地点からC地点までは1400里である。」と理解するでしょう。
>これはまた異なことを、「どこに入れたらいいのか」分からないとは。木を見て森を見ざるですか。読者がもっとも知りたい、書かれていない最終行程の不彌国ー女王国間の里数に決まっているじゃないですか。ここしか入れるところはないじゃないですか。

つまり、「ここに何も書いていないのは、不足分の里数を補う」という理解に「決まって」おり、それ以外の理解はありえない、と宮津さんはおっしゃるわけです。
言い方を換えれば、「ここに何も書いていないのは「各里程を明記していない」以外の理解はありえない」とおっしゃるわけです。
この点を、私は、

>宮津さんは、「1400里はここで足される」ということが、自明のことだと思っているようですが、少しも自明ではありません。
>今、「明記されているか/いないか」を議論しているにも関わらず、宮津さんは、そんなことお構い無しに、「明記されていない」以外考えられない、と前提して、単にそれ以外の議論は認めない、といっているだけです。「可能性」を盾にして。

と言っているのです。
私は、「不足分をここに補う」に「決まって」はいない、と考えており、それを議論しているのです。
「決まっている」と宮津さんが勝手に「結論付けて」それ以上、議論する気がさらさらないのであれば、これ以上議論は進みません。
宮津さん、率直に申し上げれば、宮津さんは宮津さんご自身の論理そのものを、宮津さんご自身がまったく理解していない、と言わざるを得ません。
「決まっている」とは、何を根拠に、そう言っているのですか
。その点がここでの「明記しているか/していないか」という議論なのです。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/14(木) 01:33:40

著者の側の立場から言いましょう。

総里程と各部分里程があるとすれば、それを「全て記述する」か「一部は当然分かるもの」として、省略するか、は、どちらもありえます。
その際、「一部は分かる」としても、そこに紛らわしい記述がまじっていたとすれば、著者は「分かるでしょ?」と思っていてもそれが伝わらないこともあります。
そうして、著者は、「一応全部書いておこう」と考えるか、「いや、分かるだろう」として、そのままにしておくか、は、著者によって、どちらもありえるでしょう。

宮津さんは、

>(イ)の文章は普通誰でも(ロ)B地点からC地点までは1400里である。」と理解するでしょう。

といい、不弥国→邪馬壹国間が、1400里であることは間違いない、と見なします。
ところが、これは「奴国」へいたる百里を「傍線行路」と見なして、計算から省いた結果です。
しかしながら、この百里を「間違って」足してしまう論者がいるかもしれません。
と、言うより、ほとんどの論者は「足して」いるわけです。
それを「誤読」と言うことは出来るかもしれません。
しかし、それは、計算上は確認不可能です。
また、「方何里」と示された里数を、「足さない」結果、1400里或いは1300里という数字が出てくるわけですが、これを「誤って」足してしまったとしても、計算上は確認不可能です。
ですから、「書かなくても分かる」は、間違いなのです。
「間違っても確認不可能」なのですから。
もちろん、それでも、「間違うのが悪い」と言うように、記述する著者はいます。
一方、そういう誤解を避ける為に、あえて全ての部分を記述する著者もいるでしょう。

今、問題になっているのは、陳寿は、どちらのタイプなのか、ということです。

「方何里」の記述は、「何も足さない」と宮津さんは仮定しますが、その結果は、計算上は確認不可能です。宮津さんの論理に従えば。
つまり、「方何里」の記述は足すべきか否か、という点について、宮津さんの論理では、「文脈上足さないに決まっている」という回答以外出来ないのです。
ですが、「文脈上足さない」は、あくまで宮津さんの解釈であり、その文脈理解が「正しい」かどうか、を、今は議論しているのであり、宮津さんはそれについて「決まっている」としか、答えていないのです。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/14(木) 01:40:47

ですから、

>1.> 今、「明記されているか/いないか」を議論しているにも関わらず、宮津さんは、そんなことお構い無しに、「明記されていない」以外考えられない、と前提して、単にそれ以外の議論は認めない、といっているだけです。
>2.> 「何も書いていない」が史料事実です。

>おっしゃることが矛盾しています。

は、完全に宮津さんの誤解であり、1.は、今述べた議論を、
2.は、
>私も不彌ー女王国間の里程が書かれていないという史料事実から発しています。
と言う、全く同じ事を指しています。

次に、

>明記されていないのだとすれば、「どこに入れたらいいのか」さえ分かりません

は、例えば、「奴国」までの100里は計算に入れるべきなのか否か、「方何里」は、計算に入れるべきなのか否か、たとえ入れないとしても、「余里」はどうするのか、他の部分は、全て計算に入れていいのか、といったことが、「明記していない」という宮津さんの論理に従う以上、計算上は「確認不可能」である、ということを言っています。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/14(木) 22:05:54

論理その一

魏志倭人伝の里程記事を簡略化すれば、

>>(イ)「郡から不彌国までは10600里で、郡から女王国間は12000里である。」

(ハ)> 「一部は当然分かるもの」として、省略する(著書の引用文)

の省略した文型とすれば、この場合普通は、

>>(ロ)「不彌国から女王国までは1400里である。」

と理解します。「決めつける」とおっしゃいますが、(ハ)の文型もあると古田氏も認め、それは(ロ)と計算することを当然の前提とするのであって、私の独善で述べているのではありません。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/14(木) 22:07:18

その二

ところが古田氏は

> 総里程と各部分里程があるとすれば、それを「全て記述する」

として、(イ)の文章を、

「郡から不彌国まで12000里、郡から女王国までも同じく12000里」

という特異な解釈をして、

>A (古田氏) 郡から不彌国に至る - 萬二千余里
>B (倭人伝) 郡から女王国に至る - 萬二千余里

です。ところがこの解釈は不彌国ー女王国の区間に限って、「区間があって里程が無い」という特殊なものです。計算上はそうですね。

それまでの区間にはすべて里程があるのですから誤解する恐れがあります。当然「郡ー不彌国と郡ー女王国の里程が同じである」旨の記述、ないしはそれを匂わす記述が明記されるはずです。そのような記述がどこにありますか。この特殊な読みが当然なのだという史料がどこにありますか。陳寿の算法も史料上の事実としてどこにもない。これは解釈でなくて史料操作です。

「不彌国は女王国の玄関」とか「方○里の2辺を加える」など古田氏の捻出したものであって、史料に依拠しません。例え計算が合ったとしても。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/14(木) 22:08:00

その三

従って、その二は否定され、その二「>> 省略した文型とすれば」の仮定は仮定でなく真となります。陳壽は「一部は当然分かるものとして省略する」文型を選んだのです。

つまり、「不彌国ー女王国間が明記されていない」ここまでは我其れで違いがありません。だから「(イ)の文型である」とするか「全区間明記の文型である」とするかの違いです。

ところが「全区間里程は明記されている」と言われても、古田氏も探すのに苦労されたのでしょう。そのことが雄弁に語っているじゃありませんか。古田氏を待たねば読めないのですか。やはり普通の読解の(ロ)と理解する以外にはないのでは。

私の論理が強引に見えるのは、あなたの支持する説を否定しているからです。古田説をいったん忘れてみてください。普通のことを普通に言っていることに気付かれるでしょう。

> 宮津さんの論理に従う以上、計算上は「確認不可能」である、ということを言っています。

そうです、そこに陳寿の真骨頂があります。邪馬台国論争を聞いた中国人が、その几帳面さというか微にいり細にいりで、笑ったと聞いたことがあります。電卓を叩いてキチッと計算が合わなくてはならない、ことはないのです。

> 「奴国」までの100里は計算に入れるべきなのか否か、「方何里」は、計算に入れるべきなのか否か、たとえ入れないとしても、「余里」はどうするのか、他の部分は、全て計算に入れていいのか、といったことが、

それが「不彌国ー女王国間千四百里」と書かなかった理由のひとつでしょう。全区間里程を明記しなかった、「慎重な配慮」です。「確認不可能」にして、読者のあなたが計算するように「だいたい千四百里くらいまでだと見当してください」という意味です。それが明示する以上に陳寿の思いを伝え文章に膨らみを持たせているのです。

この結果は女王国が博多湾岸はおろか筑後さえ越えて南下することを意味します。それが恐ろしいのですか。白鳥庫吉博士ですら、自らのこの文献解釈の結論を容認できなくて、死の直前に筑後山門へ移したのですから。結局は考古学に引き摺られたのです。文献史学の自殺です。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/14(木) 23:53:18

宮津さん、
議論がまったくかみ合っていないことに気づいていますか?
論点が、違います。
私が、宮津さんの説を「批判している個所」は、全くそこではありません。
もう、何度も繰り返していますが。
ずれたところに対して、反問しているのですから、

>私の論理が強引に見えるのは、あなたの支持する説を否定しているからです。古田説をいったん忘れてみてください。普通のことを普通に言っていることに気付かれるでしょう。

などなど、全く、的外れです。

1.総里程が書いてあり、部分里程も全て書いてある。
2.総里程が書いてあるが、部分里程は、一部書いていない。

どちらも「普通」だ、と言っているでしょう。
「ありえる文章だ」と言っているでしょう。
このことは、この議論の一番初めに確認したはずです。

>「『部分をなす区間里程の総合計は、総里程に一致しなければならなぬ。』これは、いわれてみれば当然の論理だ。」(「古代史は輝いていたI」) 間違いないです。洋の古今東西を通じて誰にも異存はありますまい。

>この公理を言う場合には当然前提があります。(1)すべての区間里程・総合計が「史料」に明示されていることが絶対的条件になります。古田説です。もうひとつは、(2)区間里程がひとつまたは総合計が明示されなくても成立することです。これもまた「万人の首肯すべき自明の命題」ではないでしょうか。

と宮津さん自身が言っており、

>宮津さんの論点は、「全区間里程が魏志倭人伝には明記されているのか/いないのか」と言う点であり、宮津さんは、以下の3つを挙げて「全区間里程は魏志倭人伝に明記されていない」と結論付けます。

と私が整理したとおりです。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/14(木) 23:55:22

そのどちらなのか、ということを議論しているにも拘らず、今、宮津さんがおっしゃっていることは、倭人伝には(イ)と書いてある、という前提です。
何の検証もなしに。
「方何里」は、「面積」のようですが、違います。
「一辺何里の方形」と言っているのであり、「南北何里、東西何里」と言うのと同じく、標示されている数字は「里数」です。「距離」です。
これを使うのか、使わないのか、という点が、
「魏志倭人伝には全ての里程が書いてあるのかいないのか」という議論の争点になります。
「使わない」と、何を根拠に決めました?
そこを議論しているのです。
「里数」です。これは。
何等単位矛盾しているわけでもありません。
「奴国」の「百里」を「使うかどうか」も議論になるでしょう。
それと同じことです。
目の前にある「里」を「使うか使わないか」と言うことによって、「総里程の他に全ての部分里程が明記されているか/いないか」を議論しているのです。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 15:18:43

なんども繰り返しますが、

> 「方何里」は、「面積」のようですが、違います。

三国志東夷伝から引用します。

夫餘在長城之北・・方可二千里
高句麗在遼東之東千里・・方可二千里
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東・・基地形東北狭 西南長 可千里・・(方は脱字ではない)
韓在帯方之南・・方可四千里

「方」は面積でしょう。東沃沮だけは細長い国とみえて長さだけで「可千里」と表しています。面積と距離は明らかに表示が異なっています。

> (方○里を)「使わない」と、何を根拠に決めました? そこを議論しているのです。

私が古田里程論に反論しています。「使うと何を根拠に決めたのか」が先ですね。(ホ)「陳壽は大陸人間だから『方』という面積が書かれていれば陸地とみてその距離を加える。」という史料根拠はどこですかと問うています。するとそれを示さず、計算が合うと返ってきます。計算の根拠・内容が先でかつ問題でしょう。普通は、「こうこう、こうだから、この計算をする」でしょう。結果的に計算が合うからその前提も正しいとは限らないでしょう。(足すべきでないものを足しても意味がない)

(ホ)が、史料を根拠に論証されない限り、陳寿の算法はいかに便利でも使えないのです。そうでしょう。でなければ勝手に算法を編み出して、史料を都合のいいように解釈するじゃないですか。

使わない根拠は、島だから一点通過である、という常識に従っています。晴海埠頭からハワイ経由でサンフランシスコの航路距離を言う場合、ハワイの面積を距離に加えますか。

> 「奴国」の「百里」を「使うかどうか」も議論になるでしょう。

これは加えません。なぜなら「東南奴国に至る百里」とあるだけですから、単に伊都国から奴国を紹介しているだけです。使う説は誤読です。古田説も同じですから省略しました。

論議の初めに古田氏の著作『古代は輝いていたI』から里程論全文を引用して反論を述べました。一般論も大切ですがいまは古田氏里程論をターゲットにして論じています。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 15:19:51

論点が噛み合っていないと指摘されますが、一貫して「全区間里程が表記されているか、されていないか」を争点にしています。この命題は二者択一であって、一方が否定されればもう一方の正しさが証明されると解しています。「全区間里程が表記されている」とする古田氏の里程論を批判・反論することにより自説の「一部区間は表記されていない」の正しいことを証明しようとしています。ですから、私にとって「全区間里程が表記されているか、されていないか」が問題であって、それ以外の論点はありません。

1.総里程が書いてあり、部分里程も全て書いてある。
2.総里程が書いてあるが、部分里程は、一部書いていない。

地理文書の場合この二つの文型がある。それは河西さんも私も認め、古田氏も著述で認めておられます。むしろ、これは当然のことを再確認しただけで普遍の原則です。問題は具体的対象文書たる『倭人伝』はこのどちらで書かれているかです。1.2.のどちらで書かれているかによって女王国の位置が大きく異なるからです。そのため真剣な論議をしてきました。

倭人伝では、「総里程と、郡から不彌国までの区間と里程が明記されている」が不彌国ー女王国間については里程は表記されていない、までは一致しました。そうですね。

古田里程論は、1.のタイプで全区間の里程が史料に数値として明記されているはずだ、としました。その結果、不彌国ー女王国間の里程が書かれていないのはわずかな里程であって里程計算に影響のない、つまり有名な不彌国は女王国の玄関であるとしました。そして総里程と全区間里程の合計の差千四百里を求められ、対海国の方四百里と一大国の方三百里の各二辺の合計が千四百里と一致することを奇貨としてこれを加え、総里程と全区間里程の合計が一致するとして、1.を証明されたのです。なにか間違いがありますか。

この古田里程論に対して、二島の方○里の二辺を加えるのは思惟的であり史料根拠を持たないと反論しました。面積は両辺の距離で表すのが決まりで「方」とある以上区間里数として二点間距離として加えるのは常識外でしょう。計算が合うのは「結果であって理からではない」。

女王国への道理を示しながら里程記事が不彌国で終わるとの解釈も不自然、いかにも苦しい。これらは別の国として表記されているのですから、不彌国到着がなぜ女王国到着と同じなのかを記述しなければ、読者は女王国に至らずして放り出されます。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/15(金) 15:20:49

結論として私の主張は、不彌国ー女王国間の里程が書かれていない史料事実自体が明瞭に「2.書かれていない」ことを示しているではないか、です。上記で「不彌国ー女王国間の里程が書かれていない」は一致していますからこの際なんら論証を要しません。二島の二辺を加えずとも、不彌国とは千四百里ほども離れた女王国へ到着します。なにか矛盾しているでしょうか。

古田里程論の根拠に反論を加え成り立たない以上「1.全区間里程が明記されている」は否定され、当然「2.一部里程は省略されている」以外にはあり得ません。これを決めつけ(前提にしている)と論難されるなら、議論が進みませんが。

古田里程論は、「全区間里程が明記されている」との予断のもとに倭人伝を解読したもので、不彌国ー女王国間の里程が書かれていない史料事実を根拠に、「なによりも計算が合う」ことで反論を封じ、女王国を博多湾岸に想定したもので、「誤読である」と言わざるを得ません。

私は自説が現代古代史の常識からみて基本的な誤りがないか、を問うています。河西さんにはこれだけ真剣に議論いただき感謝しています。自説を曲げるのも潔しとしませんし、それ以上に学ぶべき河西さんに破門になるのも困ります。うつになりそう。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/15(金) 22:25:41

>倭人伝では、「総里程と、郡から不彌国までの区間と里程が明記されている」が不彌国ー女王国間については里程は表記されていない、までは一致しました。そうですね。

そのとおりです。

>古田里程論は、1.のタイプで全区間の里程が史料に数値として明記されているはずだ、としました。その結果、不彌国ー女王国間の里程が書かれていないのはわずかな里程であって里程計算に影響のない、つまり有名な不彌国は女王国の玄関であるとしました。そして総里程と全区間里程の合計の差千四百里を求められ、対海国の方四百里と一大国の方三百里の各二辺の合計が千四百里と一致することを奇貨としてこれを加え、総里程と全区間里程の合計が一致するとして、1.を証明されたのです。なにか間違いがありますか。

言葉遣いの問題になりますが、ここの認識を誤っています。
順序は、こうです。

1.全部分里程が明記されているかどうかを検証するには、魏志倭人伝に示されている部分里程を(何らかのルールに則って)計算して総里程になる、ということを示せるか否か、にかかっている。
2.「単純に(つまり、それまでの論者が行なったようなルールで)」足しただけでは、足りないことは既に分かっている。つまり、「単純に足す」というルールではない。
3.その「ルール」を探したところ、それまで無視されていた「方何里」の記述を用い、「二倍する」という「ルール」を適用したところ、計算が合った。
4.「二倍する」という「ルール」そのものは、「半周する」という解釈を採ることで、文献上、不自然なものではない(例えば、1.5倍するとか、2で割るというような場合と比べて、行路記事として不自然ではない)。
5.だから、陳寿は、1のタイプである、と言うことが出来る。

ということです。
確かに、古田氏は、この経緯を、自らの探究の経緯とごっちゃにしており、明確には説明していません。
しかし、その主張の論理的構造は、ここに示したとおりです。

ここで、明確になった、宮津さんとの認識の相違は、「方何里」は「面積」かという点です。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/15(金) 22:37:44

宮津さんは、「方何里」は「面積」だ、と言います。
もちろん、厳密な定義の上にたってのご発言だとは思いません。
しかしながら、ここは、重要な問題ですから、こだわることにしましょう。
「面積」と宮津さんが言うとき、それは、数学的な概念である、と言うことが出来ます。
つまり、「1600平方里」と言うときの「1600」は、部分里程に足すことは出来ない、ということです。
これは、そのとおりです。
ですが、ここで言う「方400里」は違います。
もちろん、示したい方形の「大きさ」という意味では、同じものです。同じ「面積」を示している、と言えましょう。
ですが、ここに現われてくる数字は、面積ではありません。
当然ながら、「方400里」と「方300里」の領域を足しても「方700里」というわけには行きません。
「1600平方里」と「900平方里」を足して「2500平方里」と言うことは出来ますが、ね。
当然ながら、「面積と面積」は足すことが出来るし、「距離と距離」は足すことが出来ます。
しかし、「面積と距離」は、足すことが出来ません。

>面積は両辺の距離で表すのが決まりで「方」とある以上区間里数として二点間距離として加えるのは常識外でしょう。

という宮津さんの言い分は、この点を指している、と言うことが出来ます。
しかし、「両辺の距離」と「距離」を足すことは間違いではない。
同じ「距離」を示す数値であるからです。
したがって、「距離」を示す数値が、ここにも存在しているわけです。
「全部分里程が明記されているかどうかを検証するには、魏志倭人伝に示されている部分里程を(何らかのルールに則って)計算して総里程になる、ということを示せるか否か、にかかっている」
ということを検証する時、ここにも「里程(距離)」を示しうる数値が存在しているのですから、これを計算に含めるべきか否か、を考慮することは、当然のことです。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/15(金) 23:01:52

ここにおいて、先述の、「クイズ問題」の議論が、意味を持ちます。
倭人伝の全ての「里程」を挙げれば、そこには「行」のような動詞を伴うもの、伴わないもの、それに「方何里」という「領域の大きさを表わす為に使われた里数」とが存在します。
それらの「里数」を使って、「総里程」になる、というような計算方法があるのか、ということが問題になります。
その結果、「行」のような動詞を伴うものは、その里数を足し、伴わないものは、計算から除外、そして、「方何里」という種類の「里数」は、「二倍する」というルールを全て適用した場合に、「総里程に一致する」ことが分かりました。

さて、ここで、それぞれのルールについて考えてみれば、
「行」を伴うものは足し、伴わないものは足さない、というルールは、この記事が「行路記事である」ということを考慮してみれば、文献上も無理の無い解釈です。
「方何里」は「二倍する」というルールも「半周する」と考えると、無理な解釈ではありません。
このような文献上の確認を経てみれば、上記のルールは、「陳寿が行なった計算方法」として、おかしなものではない、と、言うことが出来ます。

そのようなルールを見出すことができた以上、最初の、「明記しているか/していないか」という論点には、「明記していた」という結論を下すほうが、「理にかなっている」と言うことが出来ます。

そこで、次に、「明記していない」とした場合のことを考えて見ましょう。
その場合、冷静に言えば、「邪馬壹国」の位置は特定できない、と言わなければなりません。
なぜなら、「行」を伴った里数を足すべきか否か、伴わない里数を足すべきか否か、「方何里」として用いられた里数を足すべきか否か、全て「確認のしようが無い」からです。
ですから、「方何里」を宮津さんのように、計算から除外すべきだ、とも言えますし、そうではなく、一辺だけ足すべきだ、とも言えます。
計算が合わないことは、「明記していない」と仮定した以上、当然のことであり、「足りない分」が残りの里程である、と言えるからです。
ところで、「邪馬壹国」の位置が特定できない、という状況は、「行路記事」という側面を考えた場合、あまり、有意義な記述とは言えません。(宮津さんは「残り」を、疑いの余地無く決定できる、と考えているようですが、ね。それは、今言った観点から否定されます)
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/15(金) 23:02:59

したがって、
1.「明記している」と考えた場合、その「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。
2.「明記していない」と考えた場合、「計算方法」は特定できず、従って、「邪馬壹国」の位置も特定できない。
という状況なのです。

この場合、1.を採るほうの解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来るのです。

宮津さんとの議論のおかげで、説明しなければならないことが随分と明確になった、という気がします。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/16(土) 01:32:12

水曜の深夜、参考意見として、投稿したのですが、読んでもらえてないようです。おせっかいのようですが、

宮津さんとの議論のおかげで、説明しなければならないことが随分と明確になった、という気がします。
15日の河西さんの説明では、宮津さんは、納得できないのでは、と思います。
以下私の投稿より

郡から不彌国に至る - 萬二千余里 のとき
12,000=7,000+1,000+(400@)+1,000+(300@)+1,000+500+100…が成り立つ
よって郡から不彌国に至る - 萬二千余里は正しい
これでは、証明になりません。
文意を理解するのに隠された掛け算が必要であるでは、通常の文章ではありません。
また実際の2島の形状、大きさを考えても2倍することに、合理性がありません。
よってこの計算式しか根拠が無いのであれば、郡から不彌国に至る - 萬二千余里の読み方は、成立しないと考えるべきだと思います。

このことに対する、河西さんの具体的な反論 (方400里は、島のどこを持って1辺とするのかとか)を、宮津さんは、求めています。また読者である私も期待しています。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/16(土) 03:24:06

>水曜の深夜、参考意見として、投稿したのですが、読んでもらえてないようです。

失礼いたしました。
新規のレスを立ててしまったために、読んでおりませんでした。

さて、

>よってこの計算式しか根拠が無いのであれば、郡から不彌国に至る - 萬二千余里の読み方は、成立しないと考えるべきだと思います。
>やはり 郡から女王国に至る - 萬二千余里であろうと思います。
>しかし、残り1400里は、自明の理でもなければ、公理でもありません。

ほぼ、同じ地点に立っています。
これで、私は、当初の地点、

>私は、この点に関して、確かに考える余地がない、とは思っていません。
>前々から、言ってはいることですが、まったく疑問を持っていないわけではありません。
>ただし、今は決定的な対案はなく、今のところ、古田氏の立論が一番穏当なところだろう、とは思っています。

に立ち返ることが出来ます。
ですから、「よってこの計算式しか根拠が無いのであれば、郡から不彌国に至る - 萬二千余里の読み方は、成立しないと考えるべきだと思います」と言うときの「考えるべきだ」の部分は、私と少し立場が違います。

>私も、その点において「強い」何かを得ているわけではないため、今のところ、古田氏の解釈でよい、と考えています。

要するに、現時点で、「計算が合う」という事実は、他のどの読み方にもまして、合理性があり、説として有力である、と「考えるべきだ」と思います。
もちろん、「考えるべきだ」とは、「現代の古代史論者」の姿勢のことを言っており、以前の『独り言』で、
>プロ(つまりアカデミックな学者)であろうとアマチュアであろうと、学問のルールは守らなくてはいけません。
と述べたとおりです。

>女王国がどこであるかは、わかりません。
>再度、自説構築、がんばってください。

ここに、「邪馬壹国」論争が「終わらない」一つの秘密があります。

>そういった中で、また新たな「邪馬台国」論を産出しよう、ということは、それ自体は問題ではないけれど、何故そうしなければならないのか、という理由というか、動機をきちんと見つめなおす必要があると、私は考えます。(『独り言』07-Feb-2004)

ということです。
この議論のおかげで、私の考えも精錬されたようです。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/16(土) 21:12:40

詳しい解説をありがとうございました。

> 確かに、古田氏は、この経緯を、自らの探究の経緯とごっちゃにしており、明確には説明していません。 しかし、その主張の論理的構造は、ここに示したとおりです。

参りました。これで疑問というより不信感の半分が解消されました。

> そのようなルールを見出すことができた以上、最初の、「明記しているか/していないか」という論点には、「明記していた」という結論を下すほうが、「理にかなっている」と言うことが出来ます。

> したがって、
1.「明記している」と考えた場合、その「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。
> この場合、1.を採るほうの解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来るのです。

河西さんのおっしゃりたいことは理解できました。それでも古田里程論が理に適っているとは思えません。

まず面積問題、

>> 面積は両辺の距離で表すのが決まりで「方」とある以上区間里数として二点間距離として加えるのは常識外でしょう。

方○里が里という距離であることは理解しています。(実は、古田氏の著述に「夫餘・・方、二千里」と表記されていたのを見て悟りました)

>「両辺の距離」と「距離」を足すことは間違いではない

数学ではそうです。私が言っているのは、陳壽が面積として表記したものを、距離として表記したものに足せますか、という意味です。いわば文学的な問題を言っています。

計算問題、

古田氏も私も、(イ)各区間距離の総和=総里程 であるという普遍の原理によっています。古田氏は全区間明記説ですから、いわば足し算で(イ)を証明しようとします。私は一1区間省略説ですから、いわば引き算で(イ)を証明しようとします。総里程から、確かな里程を引いていって、その残が省略された1区間の里程である、とするものです。

この場合の計算精度は、加減する数値に依存し、計算方法の違いは精度に関係ありません。加減する数値がいかに資料の裏付けを持つかによって決まります。どちらでも同じと考えますが。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/16(土) 22:02:14

宮津さんの「納得できない」というご意見を踏まえ、わたしなりに、「半周」について考えてみました。
「独り言」に示しています。ご参照ください。

>私は一1区間省略説ですから、いわば引き算で(イ)を証明しようとします。総里程から、確かな里程を引いていって、その残が省略された1区間の里程である、とするものです。

ここは、誤解です。
「全ての里程が明記されていない」と仮定した以上、何をやっても「計算は合わない」のであり、「計算」云々によっては、読解の正確さを保証できない、ということです。
もしも、その上で「明記されていない」と仮定して、読解の正確さを保証するには、別の論拠が必要なのです。
「計算が合うか合わないか」は、誰でも確認できます。
「合わない」と一旦、言った以上、どんな計算方法を示しても、その計算が正しいことは、何によっても示すことが出来ないのですから、別の論拠に拠らなければなりません。
この点は、よく確認しておかなければなりません。

そうした意味で言えば、古田氏が「計算が合うのは当然だ」云々といって奥野氏らを批判したのは、この点であまり正確な批判だとはいえないかもしれません。
少なくとも、誤解を生む表現です。
おそらく、根底にある理論は、私が今示したようなことなのですが、古田氏自身もあまり整理できていないのだろうと言う感じがします。
私もそうでしたが。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/16(土) 22:04:54

> 宮津さん、がんばってください。応援しています。

応援して頂いているのに返信が遅れまして恐縮です。

私は、邪馬台国論争史のダイジェスト版を軽く?(頭脳に合わせまして)読みまして、どれどれどんなことが、が始まりです。倭人伝を読みまして、

1、不彌国ー女王国間の里程が表記されていない。(史料上の事実)
2、総里程は解っているから、1区間は里程を省略しても文意は通る(普遍の原理)
3、2から当然、総里程から各区間里程を引いてゆき、その残が省略された区間の里程である。
4、魏志・漢書の用例から動詞のある区間は主線、動詞のない区間は傍線である。(日野氏の論証による)
(参考文献:日野氏HP「古代史のページ」/『漢書』西域伝と魏志倭人伝(筆名は川村明氏))
5、総里程12,000餘里ー(マイナス記号)明記主線区間里程の合計10,600里=(等号)里程が省略された区間の里程1,400餘里。(簡単な計算式)
6、したがって、不彌国ー女王国間はほぼ1,400里である。

としたものです。単純かつ明解でしょう。以上は倭国内の地理を表示したものです。

日程表記は、魏使の旅行記から実際の行路を示したものです。日程そのものに出張報告の意味がありますね。郡から不彌国(博多湾岸)まですべて水行(「東南五百里陸行伊都国」は方角に誤りがあり原資料の混在がある、と考えます。今のところ立証不能。)で、不彌国ー女王国間は水行十日陸行一月ですから、これも水行の末、陸行して都へ到着です。女王の都は水の中ではないですからね、最後は陸行します。私の邪馬台国論のすべてです。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/16(土) 22:33:26

> 「全ての里程が明記されていない」と仮定した以上、何をやっても「計算は合わない」のであり、「計算」云々によっては、読解の正確さを保証できない、ということです。

う~ん、また解らなくなりそうです。里程を省略できる区間は1区間に限ります。そうでなければ省略できません。計算自体は足すか引くかの裏表で正確さは同じでしょう。

つまるところ、千四百里が二島二辺の長さなのか、不彌ー女王国の里数か、です。不彌ー女王国が五百里とか九百里とかは計算上あり得ませんからね。千四百里の数しかないのです。

> 「計算が合うか合わないか」は、誰でも確認できます。「合わない」と一旦、言った以上、どんな計算方法を示しても、その計算が正しいことは、何によっても示すことが出来ないのですから、別の論拠に拠らなければなりません。

なにをおっしゃっているのか意味がよく解りません。申し訳ありません。

「>「合わない」と一旦、言った以上」ってなんでしょう。足す場合はすべての数値が明らかですが、引く場合は計算しなければ解らないということでしょうか。省略しているのですから当然です。

う~ん、熱が出そう。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/16(土) 22:39:49

> 読解の正確さを保証できない

あ~、そうですか。なるほど。(考え中・・)

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/16(土) 22:43:09

>4、魏志・漢書の用例から動詞のある区間は主線、動詞のない区間は傍線である。(日野氏の論証による)
(参考文献:日野氏HP「古代史のページ」/『漢書』西域伝と魏志倭人伝(筆名は川村明氏))

この議論が「正しい」ということを何によって証明しましょう。
漢書西域伝では「総里程と部分里程」を両方示している例は無く、日野=川村さんがおっしゃっていることは、「至」という用例についての考察であり、今の議論とは直接結び付くとは思いません。
それを結び付けたのは、宮津さんであり(川村さんがどういうご意見をお持ちか分かりませんが)、総里程と部分里程の関係を示すものである、とは、西域伝だけで言い切れるようなものではありません。

私に言わせれば、古田氏が言い始め、川村氏が補強した「至」に関する議論の「正しさ」は、魏志倭人伝において「計算が合う」という「事実」によって保証されるのであり、その逆ではないのです。
「明記していない」とした時の不弥国→邪馬壹国が1400里である、という議論は、全く自明のことでは無いですし、それを正しいとするための「根拠」が、結局のところありません。

例えば、「親魏倭王」の印が発見されたり、「卑弥呼の墓」が発見されたりすれば、我々の「読解」を全て吹き飛ばしてしまうかもしれません。
それはそれでよい。
もっとも、今の考古学の立論には、考古学の立論として問題があると思いますが。
先の例のようなものであれば、考古学者でなくとも、誰の目にも結びつけがハッキリするのですけど、ね。
そうは簡単にいかない、というのが本当のところです。

他のものでもいい。
「根拠」―「私はこう思う」以外の―を示すことが出来ない限り、それは「説」ですらありません。
「常識」という言葉で、読解の正確さを示そうと言うのなら、「常識である」ことを十分に証明しなければ、「そんな常識無い」と思っている人間を納得させることなど不可能です。
同意してくれる人ならいいですけど、ね。
Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 13:12:14

ちょっと待ってください、河西さん。

漢書西域伝では「総里程と部分里程」を両方示している例は無く、日野=川村さんがおっしゃっていることは、「至」という用例についての考察であり、今の議論とは直接結び付くとは思いません。

そうは言っておりません。

>> 4、魏志・漢書の用例から動詞のある区間は主線、動詞のない区間は傍線である。(日野氏の論証による)
(参考文献:日野氏HP「古代史のページ」/『漢書』西域伝と魏志倭人伝(筆名は川村明氏))

主線行路か傍線行路かの分析に日野さんの研究を参考にさせていただいたと申しあげています。ぜひ誤解をといてください。お願いします。日野さんのHPを曲解したことになりますから。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 13:29:29

(続き) 主線行路がはっきりすればその区間は総里程から差し引けるという意味です。(傍線行路は引けない) 主線行路はどの区間かを判定するために日野さんのHPを参考にさせていただきました。

> この議論が「正しい」ということを何によって証明しましょう。

つまり全区間里程が明記されるとすれば計算結果によって証明できる、ということですね。

> 「常識」という言葉で、読解の正確さを示そうと言うのなら、「常識である」ことを十分に証明しなければ、「そんな常識無い」と思っている人間を納得させることなど不可能です。

そうかも知れません。私には常識を証明する力はありません。自分の常識を信じるしか。この論議は実り多いものでした。河西さん、ありがとう。

Re: Re: 陳寿の算法を問う Re: 独り言

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/17(日) 20:57:26

>主線行路か傍線行路かの分析に日野さんの研究を参考にさせていただいたと申しあげています。

ふむ、
私は、そのとおり、「総里程の議論に結び付けるのは、日野さんの議論ではなく、日野さんの議論をベースに宮津さんが考えたことですよね」と言っているつもりです。
ですから、宮津さんの側に、「正しさ」を主張するための根拠を用意する責任がある、と。
そういうことです。

>私には常識を証明する力はありません。

こう言い換えたら出来るかもしれません。
「あなたの常識が如何に常識的なのか、説明し、説得する」
それでいいと思います。
行路の疑問

投稿者:ike 投稿日:2004/10/17(日) 11:02:19

基本的に「邪馬台国はなかった」の論証を是認する立場ですが,末廬国から「東南陸行500里」の伊都国が現在の前原付近というのは承服しかねます。
第一に,方向が違う点。歩き始めるとすれば東南方向しかないという「道しるべ」解釈については,範囲,位置が分からず,おおよそ現在の唐津あたりであろうというしかない「末廬国」からの出発地点を現在の「唐津港」に定めるのは恣意的ではないでしょうか? 「伊都国は現在の前原あたり」という定説に基づき「壱岐から1000余里,前原まで500里」の地点を探してあてはめたにすぎない疑いがあります。そのうえで唐津港から前原では方向が合わないため,歩きはじめの方向が「東南」であれば矛盾しないという「道しるべ」解釈を付会せざるを得なかったようですが,この「道しるべ」解釈が妥当する記載例は東夷伝や三国志にはないと思います(古田説は直接の例を挙示していない)。むしろ伊都国は末廬国から東南方向にあるという解釈がもっとも簡明です。

行路の疑問その2

投稿者:ike 投稿日:2004/10/17(日) 11:04:08

第二に,前原に行くのになぜ歩かなければならないのか。末廬国に寄港した船でそのまま前原に行けば足り,弥生時代に糸島半島の付け根に水路があったとする説が正しいとすれば,一気に博多湾岸に達することができるはずですし,そうでなくても現在の糸島半島を周旋すればいいわけです。いきなり表玄関に至るのは礼を失するという「郊迎」説は間に不彌国があることからすれば妥当しないでしょう。後述するように今の「虹ノ松原」が弥生時代に形成されていたとは考えにくいのですが,仮にそうであったとすれば唐津から浜玉町へ行くまでは容易ですが,浜玉から二丈町に抜けるには海まで迫った急峻な崖沿いに進まなければなりません。今では海岸に刻みつけたような道路やトンネルの多い鉄道路線がありますが,弥生時代に人が通れる道があったとは思えませんし,海岸沿いのルートであれば,草木茂盛行不見前人という記述と合いません。浜玉から玉島川沿いにさかのぼっても山は険しくなるばかりで,前原平野に抜ける道はありません。船で行けばこんな難所を通過する必要はまったくないのに,なぜわざわざ末廬国に上陸して陸行しなければならないのか。そうせざるを得なかった理由があるとすれば,伊都国は前原ではなく,草木が生い茂った内陸の東南方向,有明海方面にあったからと考えるのが自然ではないでしょうか。

行路の疑問その3

投稿者:ike 投稿日:2004/10/17(日) 11:04:59

この方向で唐津から「500里」約3kmの距離というと,今の多久市から小城町付近に至ります。このルートだと,相知町から厳木町付近まではおおむね平地であり,これから山道に入り,笹原峠を越えるとすぐ多久の平野に出ることができ,強いて難所といえば笹原峠しかありませんが,これとても標高65m以下であり,険しいというほどのものではありません。多久,小城から「東南100里」約7kmの奴国は今の肥前山口,有明町付近,「東行100里」の不彌国は吉野ヶ里付近,不彌国から「南至邪馬壱国」は筑後川の河口付近となります。
今の唐津付近の平野の形成前は松浦川はもっと内陸に河口があったと見る余地があり(「濱山海居」海と山が迫り合って僅かな浜辺があった様子を示していますが,現在の唐津付近は松浦川によって運ばれた土砂により平野部が広がっています。倭人伝の時代にはこのような平野は存在していなかったと見るべきでしょう),そうすると上陸地点はもっと内陸部で,これから東南500里の伊都国は吉野ヶ里遺跡があるあたり,これから東南100里の奴国は筑後川の河口から城島町付近,東100里の不彌国は久留米付近,その南の邪馬壱国は八女のあたりになるのではないかと思います。
Re: 行路の疑問その3

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 12:21:31

ikeさんどうぞよろしく。

「東南陸行五百里」問題に斬り込んだ大胆な発言に刺激されます。この問題はあまりにも解明の手掛かりがなく、今まで頬かむりですね。まともに倭人伝を読む限り根幹にかかわる問題を含みます。

私が考えるのは、末盧国を多数説に従って唐津とします。笹原峠越えルートで東南陸行五百里の位置が「伊都国」だとは限らないと思います。というのは、

1.正始元年に太守弓遵が詔書・金印を携えて天子の使節として女王国で卑彌呼に接見します。
2.その八年に塞曹エン史張政等が詔書・黄幡を難升米にもたらします。

中国の使者はこの2回倭国を訪れています。ですから郡使の報告書も2冊あったはずです。1.は魏の威信にかけて荘厳なもの、2.は狗奴国との戦いを告げ卑彌呼も死すという緊急・非常事態です。ですから、1は多人口地帯を通る糸島・博多経由で、2は最短距離の笹原・有明海ルートだった。

陳壽はどうして二つの史料の二つのルートを錯綜した倭人伝のルートにしたか。それは漢書の知識から倭までは万里と思い込んでいたからです。ですから、2の報告「渡海末盧国万里」は欠かせなかった(前提だった)のです。1の報告「壱岐国東南水行五百里」は末盧の後に配置され、水行は陸行と辻褄を合わせたのではないか。

理由A:だから1のルートは各小国の官が歓迎行事を行ない官名が記されますが、2のルートの末盧国には官名が書かれていない(それどころじゃない)。

理由B:対馬・壱岐・末盧は各国ごとに風土・風俗記事があるが、伊都国以下は本文にまとめて書かれている。前者は2の報告書、後者は1による。島と本土(九州島ですが)に別けたのではない。

理由C:水行十日陸行一月もかかっていては、2の場合戦いに黄幡と檄が間に合わない。従ってこの日程は1である。まして2の時は投馬国二十日は意味がない。2の時の日程は書いてない、ということです。この日程を総日程説を取る古田説では解明できない。

原資料のない今、論証ができないのです。結局は状況証拠による想像なのです。が、このように想像すると辻褄が合うということです。

あなたの説は、史料に依ろうとするあまり(当然ですが)、錯綜した陳寿のルートをそのまま倭人伝のルートと信じたため、特異な位置を持つ伊都国を九州北岸部から有明海北岸に移さねばならなくなったのです。どうか冷静に読んで頂くことをお願いします。
Re: 行路の疑問その3

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 12:28:38

倭人伝に忠実に読む限りこの問題はおろそかにできないし、正直に読む限りあなたのように有明海ルートを想定しなければ解せません。女王国は有明海沿岸を避けられませんね。

Re: 行路の疑問その3

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/17(日) 13:44:24

伊都国は「東南」なのに、前原では「東北」だ、という議論は、巫女さんも何度かおっしゃっていたように思います。

しかしながら、ikeさんと巫女さん(というよりも近畿説論者)では、少し、その趣が違いますね。

まず、この点を申し上げておきます。
過去の議論を蒸し返すようで恐縮ですが。
ここで「東南」なのに「東北」とある、と言うとき、「伊都国」の位置は正しいとして、「方向が違っている」と主張するのが、近畿説の立場では多く見られます。

>私は伊都国は平原弥生古墳のある前原だと想定してますが、
>魏志倭人伝ではマツロ国から方角が90度近くずれてます。
>(私の解釈ですが)
<以前の巫女さんの書き込み>

だから、「東のヤマト」であっても、問題は無い、と。
こういう議論が一方にあるわけです。

さて、古田氏が「「邪馬台国」はなかった」で、批判しているのは、こちらの論者に対してであり、確かに「伊都国」の位置については従来説を批判しているわけではありませんね。
むしろ、従来説に則って、「東南」という方向を説明する仮説を立てた、というikeさんのご指摘は正しいと思います。

率直に言えば、私は「伊都国」=糸島という従来説に、何等疑問を持っていません。
「伊都神社」などの地名から見ても、考古学的な状況を見ても、です。
もちろん、ikeさんのおっしゃっていることは、論理的には、適合しそうな感じもしますが、「道標読法」も別に無理のある解釈のようには思いません。
この議論に関しては、「末盧国」を「佐世保」や「宗像」に比定した論者に対する古田氏の反論を引用しておくことにします。
私はそれで問題ないと思っています。
Re: 行路の疑問その3

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/17(日) 13:56:16

「従来の「邪馬台国」論争では、行路記事中の最終国名「邪馬台国」という改定国名を、まず「大和」「山門」等に比定し、そのあと、それ以前の行路記事に対してつじつまをあわせてきた。わたしはこれを非としたのである。ことに過去の中心国名が現在に(あるいは記紀に)遺存している可能性は必ずしも多くない(滅亡して、継受されていない場合)。
これに対し、かえって港津などの小国名は遺存するケースもありえよう。その上、重要なのは次の点だ。「一大国=壱岐」が定点とすれば、その定点を基点として、到り着くべき要津としての「末盧=松浦」の地名類似は無視しがたい。同じく「伊都=怡土」の場合も、それが同一地点である可能性は大変高いのである。その上、唐津と前原付近がいずれも弥生遺跡の重要地点である点、見逃しがたい」(『「風土記」にいた卑弥呼』朝日文庫, p.229)
半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 14:11:06

『独り言』拝見しました。

理解し難かった「半周読法」をビジュアル化され、誰にも具体的によく解り説得力を増したと思います。言われることにも無理がありません。実際の航海を彷彿とさせます。

ところで説明は、この半周分の里程を総里程に加えたということですが、すると狗邪韓国ー末盧国間は(千餘里+八百里+千餘里+六百里+千餘里)で合計四千四百餘里となりますね。

韓は方四千里ですから、これより幾分長いことになります。地図ではそう見えないのですが。現地理がそうであっても陳壽は異なる理解をしていたのでしょうか。(方四千里を長さとして使用しています)

また、古田氏の短里説に従えば330kmほどになり、実距離より100kmほど長くなるように思われますが。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/17(日) 15:34:04

>理解し難かった「半周読法」をビジュアル化され、誰にも具体的によく解り説得力を増したと思います。言われることにも無理がありません。実際の航海を彷彿とさせます

ありがとうございます。

>韓は方四千里ですから、これより幾分長いことになります。地図ではそう見えないのですが。現地理がそうであっても陳壽は異なる理解をしていたのでしょうか。(方四千里を長さとして使用しています)

おっしゃっていることの意味がよく分かりません。
「直線距離」と「道のり」を混同しています?

Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/17(日) 17:59:24

そうですか。方四百里は直線距離的な表現だと思いますが、実際の航海は直線じゃありませんからね。それじゃ萬二千餘里から女王国の位置を確定しようというのも難しそうですね。伊都国から奴国百里はほぼ直線にすれば百里というのではないのでしょうか。

Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/17(日) 18:49:43

「直線距離」という一般的な概念なのですが…。

>実距離より100kmほど長くなるように

どこからどこの距離を言っていますか?
どこからどこをどのように測っていますか?
一直線に地図の上に定規を当てて測ってます?

「直線距離」と「道のり」。

地点Aと地点Bを一直線に測った距離が「直線距離」、
地点Aから地点Bまで、「道なりに」、或いは蛇行し、或いは逆行しつつ、進んだ距離を「道のり」。
算数の常識ですけれど…。

>それじゃ萬二千餘里から女王国の位置を確定しようというのも難しそうですね。

今まで、「直線距離」だけで測っていたのですか?
それなら、ソウルなり沙里城なり、「帯方郡」から一万二千里の円を描いて、その円周上にある、で議論は終わりです。

私が言っているのは、たったそれだけのことですけれど・・・。

Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/18(月) 13:42:18

なるほど、よく理解できました。陳壽の算法が揺るがない以上ビクともしないということですね。「常識を証明する必要」はこの業界常識も通用しないぞ、ってことですね。返信をなんども読み返して納得できました。貴重な指摘を頂き感謝します。

鬼コーチの面目躍如、メゲそう。ハハハ

お陰で「強いなにか」を掴みかけ、頑張ります。

Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/18(月) 13:53:10

すいません、訂正です。

>> この業界常識も通用しないぞ

は、「この業界(河西氏用語)は、一般常識も通用しないぞ」です。

しばらく頭を冷やします。またよろしくお願いします。
Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/18(月) 15:06:16

これまでのやり取りを確認させてください。

私> 邪馬壱国は不彌国から南千四百里です
河西さん(K)> 邪馬壱国をまたひとつ増やすだけです
私> 古田里程論は、不合理な半周読法に基づく陳壽の算法によっており認められない
K> 古田説は「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。だから古田説は解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来る
私> 倭人伝の文章を常識的に読めば私の解釈は正しい
K> 検証が全くなく解釈論にすらならない
私> う~っ

貴重なご意見

だぶるさん> それは違います。半周読法以外に部分里程から1万2千里を合理的に計算できる仮定が(今のところ)無いために最も妥当な説であるということです。

門外さん> 宮津さんが、伊都国から不彌国経由 女王国 1400里であると考えるとき、合理的な説明がつけられるか、どうかであると思います。

巫女さん> 宮津さんを援護いたします

今度はここから始まりますので、いいですか。(なんかスタートラインと変わらないようですが、ま、いいか)
Re: 半周読法

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/18(月) 19:28:25

『独り言』私も、拝見しました。
そこで、質問があります。

1 想定した航路は、根拠があるのでしょうか?
神功紀では、和邇の津を使用していますが、島の西回りに したのは、潮流の関係でしょうか?

2さて、確かに半周していますが、航路の半周であり、島の半周ではありません。2倍する元となる、400里は、どの辺のことでしょうか、普通に考えれば、2倍して800里となるのは、正方形若しくは、それに順ずる形です。少なくとも2辺が、同じでなければなりません。島の形が、三角形で、面積が1600平方里の場合、1辺の長さは、変化します。
このことから、2倍することに合理性は無いと、私は、考えます。いかがでしょうか?

陳寿の机上の算法のことであり、実際の行路とは必ずしも一致しない

これは、禁じ手です。

もし陳寿が、作意を加えたとするなら、郡ヨリ女王国12000里
の記載自体の、信憑性が揺らぎます。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/19(火) 00:47:46

「常識」という語を使う時、気をつけてください。
あなたの「常識」は他者の「非常識」かもしれません。
「常識」とは、みんなが同意してはじめて「常識」なのです。
私が言っているのは、この点です。
1400里を「常識」と思っているのは、宮津さんだけです。(「だけ」は言い過ぎかもしれませんけど)
1500里と言う人もいれば、1300里と言う人もいます。
むしろ、「みんな」の中では少数派です(古田説=「奴国は旁国」の支持者かつ「半周読法」非支持者)。
別に、「真実」は多数決で決まるわけではありませんから、だから自説を取り下げる必要はありませんけれど、「常識」と言えばみんな納得する、というのは、率直に言って「甘い」考えです。

Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/19(火) 00:48:09

門外貫一さん、
>1 想定した航路は、根拠があるのでしょうか?
いいえ、まったく根拠はありません。
「半周」は「不自然だ」と言う論者に向けて、「これなら不自然ではないのでは?」と思って考えた解釈です。

>2さて、確かに半周していますが、航路の半周であり、島の半周ではありません。2倍する元となる、400里は、どの辺のことでしょうか、普通に考えれば、2倍して800里となるのは、正方形若しくは、それに順ずる形です。少なくとも2辺が、同じでなければなりません。島の形が、三角形で、面積が1600平方里の場合、1辺の長さは、変化します。
このことから、2倍することに合理性は無いと、私は、考えます。いかがでしょうか?
>>陳寿の机上の算法のことであり、実際の行路とは必ずしも一致しない

勘違いがあります。
例えば、当然ながら、「対海国」に上陸した時、島の中を「うろうろ」歩いているかもしれません(歩いている可能性のほうが高いでしょう)。その「うろうろ」を全て「里程」に加算したのか、といえば、していないでしょう。
例えば、「実際の行路」が私の示した図だったとしましょう。あれをどうやって「測り」ましょうか。
ひとつの目安として、「島の大きさ」を「使って」計算することは可能なわけです。
その上で、12000里を「つじつまの合う数値」として、用意することは出来ます。
12000里という数値が、「現実の、寸分たがわぬ実地行路の距離」と考えるとすれば、そもそも端数の無い時点であやしいと言うべきです。
これは概数です。
その概数であっても「つじつまの合う数値」を記述している、というのが、私の主張です。
「作為」というほどのことではありません。
私の言っている「信憑性」とは、「陳寿は嘘を言っていない」ということであり、「厳密な地形と寸分たがわぬ測定をしている」ということではさらさらありません。
もし、「寸分たがわぬ測定」であれば、三つの「渡海」が一律に「1000里」のわけがないでしょう。

Re: 半周読法

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/19(火) 19:32:26

どうも、文才がないせいか、意が伝わらないようです。

陳寿の机上の算法のことであり、実際の行路とは必ずしも一致しない

魏志倭人伝が、資料としうるのは、陳寿が書き手として元資料に、何も足さない、何も引かない、入手した情報に作為を加えていないという、前提があるからです。
もし陳寿が、12000里について、自分で計算したというのなら、その時点で、論外なのです。

裁判で、検事が自白調書について、これは、犯人の自白にもとづいて、私の絶対信頼する刑事が、加筆修正したものですといったら、その時点で、調書は、証拠能力を失い、検事は処分を受けるでしょう。たとえ、結果が真実であってもです。
半周読法は、古田氏の説であり、川西さんが論ずるときそれは、川西さんの説なのです。川西さんが、合理的に説明できるかなのです。
私は、距離についての正確さをいっているのでは、ありません。
2倍するということが、面積(島の大きさ)から割り出して成立するのは、島が正方形のときだけなのです。
まだ、島づたいに航行しているときの、距離に関する記述があったけれど、それは、欠落してしまったというほうが、説得力があります。それなら、当時の航路を特定して、説明できるかもしれません。

Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 00:23:45

門外貫一さん、

2つの次元で誤解と言うか、思い違いをしているようです。
第一の次元は、「行路記事」における「距離の測定」に関して。
だぶるさんがちょうど、「紀行文」を例としてあげてくださったので、これを使わせていただきましょう。

>東京港を出航して浦賀水道を抜けた後、海路を東へ6400km進むと、オアフ島ホノルル港に到着。
>埠頭そばのホテルで一泊して英気を養う。
>翌日再び海路を東へ向かい、3900kmの航海の後、北アメリカの西の玄関サンフランシスコ港に入港した。
>ここから鉄道で陸路を行くことにする。
>海岸沿いの都市部を離れると、しばらく山岳地帯や沙漠などの荒地が続く。
>ようやくロッキー山脈を越えると、そこには大草原地帯"プレーリー"が地平線のかなたまで広がっていた。
>その後、いくつかの都市で小休止しながら6000kmを走破してニューヨークに到着、ここからまた船に乗り換えて、東へ6100km行くとついに目的地のロンドンに着いた。
>総行程22400kmあまりの大旅行であった。

まず、ハワイ、オアフ島のくだりです。
ここでは、「港の埠頭からホテルまでの距離」は当然書かれていません。
細かいことのようですが、これは実は重要なことなのです。
「翌日再び海路を東へ向かい」とありますが、ここで、厳密に先の「海路を東へ6400km」の終点ちょうどから、計測を始めたわけではありません。
ここで「埠頭からホテルまでの距離」を省略したのは、「些少だから」ということは出来るかもしれませんが、必ずしもそうではありません。今の「ロンドンまでの紀行」という主旨から言えば、たとえ、オアフ島で何キロ歩いたとしても、それは省略するでしょう(そういう書き方があって何等おかしくない、という意味です)。

つまり、最後の、「総行程22400kmあまり」には、「港からホテルまでの距離は含まれていない」。
しかしながら、今、重要なのは、部分として提示した距離と総行程とが一致している、ということなのです。
そして、この「紀行文」は、何等、信憑性を欠く文章ではない。
現に足し算の対象となる行路から、「埠頭からホテルまでの距離」は抜けている。これは、「だぶるさんの計算」から、「実際の行程の一部が抜けている」ということです。
つまり、「だぶるさんの計算」と「実際の行路」が異なっている。

私が、「陳寿の計算と実際の行程が同じとは限らない」と言っているのは、この点です。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 00:39:49

第二に、「信憑性」について。

>裁判で、検事が自白調書について、これは、犯人の自白にもとづいて、私の絶対信頼する刑事が、加筆修正したものですといったら、その時点で、調書は、証拠能力を失い、検事は処分を受けるでしょう。たとえ、結果が真実であってもです。

根本的なところで、思い違いをしています。
『三国志』は、「史書」です。
「自白調書」ではない。
もし、比較するなら、これは、「新聞」と比較されるべきなのです。
新聞は、事件を報道する時、決して誰かの「自白」をそのまま引用して終わり、ということはない。
様々な取材を通して、新聞の記事は「記者」が組み立てるのです。
「だから」新聞の信憑性が無い、ということはありません。
実際に事件を目の当たりにしたわけではない、記者が事件のあらましからその経緯までを、取材を通して描き出す。
そういうことは、何等、新聞の信憑性を失わせるものではありません。
さらに、「新聞」の社説や後追い記事、雑誌などでの「事件の総括」的な記事においては、積極的に、記者によって、文章の組み立てが行なわれるのです。
「史書」も同様です。

>もし陳寿が、12000里について、自分で計算したというのなら、その時点で、論外なのです。

とんでもない暴論です。
これを「架空の数値を勝手に用いた」という意味でおっしゃるなら、それは私の一言も言っていない主張であり、「自白調書」でないから「信憑性」がない、と考えて、「史書」として当然ありうる「文章の組み立て」を一切否定するなら、「史書」というものを何一つ理解しない暴論と言わざるを得ません。
陳寿は、この「魏志倭人伝」において、この文章として、成立するように考えて文章を構成したと考えることは、「史書」として当然ありうることであり、それは「陳寿が嘘を書いている」という意味ではさらさらない。

もしも、「魏志倭人伝」が「魏使の報告書を一字一句変えずに、そのまま引用した」と考えるのであれば、それは、(そういう可能性が無いとは言いませんが)文面上、何等根拠の無いことであり、その主張そのものが、十分な論証を要する課題です。
Re: 半周読法

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/20(水) 22:00:19

通称「魏志倭人伝」をも含む、異邦・異民の族伝を集録している「東夷伝(とういでん)」の冒頭に、[遠く離れた僻地(へきち)のことは、度々何ヵ国語にも翻訳され、しかも時代を経て到達してきたものであり、実地踏査(とうさ)していないので良く分かりません]と編者の陳寿が明記している。
上記引用は、どこから引いたのか、わからなくなってしまいました。

さて、

陳寿は、この「魏志倭人伝」において、この文章として、成立するように考えて文章を構成したと考えることは、「史書」として当然ありうることであり、それは「陳寿が嘘を書いている」という意味ではさらさらない。

当然、文章を、まとめるにあたって、書き手の意思は、はいります。資料の取捨選択をふくめ、また表現を変えることもあるでしょう。
しかし、私は、三国志全体のことを、言っているわけでは、ありません。私は、12000という数字に関して言っているのです。

とんでもない暴論です。
これを「架空の数値を勝手に用いた」という意味でおっしゃるなら、それは私の一言も言っていない主張であり
そうでしょうか
陳寿の計算という以上、12000という数字は、陳寿の計算の結果であり、元の資料によるものではない。と川西さんが主張していると解釈するのは、私だけでしょうか?
12000=7000+3000)+(300*2)+(400*2)+500+100
この計算は、あくまで、川西さんの計算であって、陳寿の計算ではないのです。
その意味で、

半周読法は、古田氏の説であり、川西さんが論ずるときそれは、川西さんの説なのです。川西さんが、合理的に説明できるかなのです。
私は、距離についての正確さをいっているのでは、ありません。
こう、記したのです。
計算が合う、は 結果であって根拠ではないのです。
私は、川西さんを否定しているのでは、ないのです。
Re: 半周読法

投稿者:門外貫一 投稿日:2004/10/20(水) 22:01:34

(300*2)+(400*2) の根拠を求めているのです。島を迂回する以上、半周することになる。だけでは、納得できないのです。俗に言えば、裏の取れる論証を期待しているのです。
第一の次元について、私は、距離についての正確性について、言っておりません。もともと私は、100里とか、1000里について、正確な数字とは、考えていないのです。
水行1000里は、1日で1000里移動したと感じる速度の船で、1日かかったから1000里とした、と考えています。
正確な距離や、位置情報を取得するのは、難しいのです。
ましてや数10kmもはなれた、2点間の直線距離や、方向を認識するためには、高度な、数学の知識と、測量技術がいるのです。この時代にできたとは、思っていません。
明日から出かけます。返信は、できません。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 22:27:14

>陳寿の計算という以上、12000という数字は、陳寿の計算の結果であり、元の資料によるものではない。と川西さんが主張していると解釈するのは、私だけでしょうか?

誤解です。
私が「陳寿の算法」と「実際の行路」とを対比して述べていることからそのように受け取られたのであろう、と思いますが、まったくそういう意味で言っているのではありません。

>この計算は、あくまで、川西さんの計算であって、陳寿の計算ではないのです。

そのとおりです。
宮津さんと繰り返した議論の繰り返しになりますが、

>6 @ 2 = 0
>5 @ 4 = 1
>6 @ 4 = 2
>8 @ 5 = 3

>である場合、「@」は、「この記号の左側の数を右側の数で割り、そのあまりを示す演算」である、と見なすことが出来ます。
>それは、「計算が合う」という事実によって証明されるのです。
>ここで「@」がそういう演算の記号であるとはかぎらないではないか、と言うのが、宮津さんの立場です。
>しかし、それは、「論理」のルールに違反しています。
>「計算が合う」以上、「@」は「剰余算」を示している、という立場に一定の理があり、「そうではないかもしれない」と言うのは、「そうではなくて欲しい」という願望を示すのであり、その願望から別の演算の可能性を模索することを禁止しませんが、だからといって「剰余算」と見なす立場を批判することは出来ません。宮津さんのおっしゃっていることは、つまり、この「@」を「剰余算」とは見なしたくない論者の言い分なのです。

というクイズ問題の議論です。
また、最終的に整理した
>したがって、
>1.「明記している」と考えた場合、その「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。
>2.「明記していない」と考えた場合、「計算方法」は特定できず、従って、「邪馬壹国」の位置も特定できない。
という状況なのです。

>この場合、1.を採るほうの解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来るのです。

ということです。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 22:40:48

>第一の次元について、私は、距離についての正確性について、言っておりません。もともと私は、100里とか、1000里について、正確な数字とは、考えていないのです。

「正確さ」の問題といえばそうですが、それ以前に、「行路記事における距離」と「測量における距離」との、「求められる精度」というか、そうしたことを言っています。

>高度な、数学の知識と、測量技術がいるのです。

高度な数学的知識と測量技術を持っていたとしても、「行路記事」にその「精度」が求められるのか、ということのほうが問題です。
だぶるさんの紀行文は、決して「不正確な文章」ではないし、「行路記事」として「未熟」でもありません。

「陳寿の算法」と「魏使の報告者の算法」を区別してもかまいませんが、「報告者」が、「測量をしながら」対海国に至ったとは、考えていません。
こういう事態を想像すれば良いのでは無いでしょうか。
>水行1000里は、1日で1000里移動したと感じる速度の船で、1日かかったから1000里とした、と考えています。
「1日かけて海を渡ったら対海国の島が見えた(この時点で上陸することは可能だし、「対海国」に着いた)。そこから更に、ぐるりと半周して港に着いたから、1000里のところに「対海国」は存在しており、行路としては、港に着くのにさらに半周かかった。島の面積は方400里(これは例えば200里×800里の方形と等しい大きさという意味ではなく、400里四方の正方形に近い形であるという意味)であり、そこから考えれば行路としては更に800里すすんで港に着いたことになる」
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 22:44:05

私が「陳寿の」ということにこだわった理由は、単に、「報告書」なるものは、どこにも現存していない仮説であり、「報告書」が一つのものなのか2つ以上のものなのかも分かっておらず、そうした中で徒に「報告者」なるものを仮構して議論を進めることは、余計な仮説を増やすだけで、今の議論において必要ないと考えているからです。
「報告書にはこうあったと想像するから、実際の行路はこうで、したがって「邪馬台国」はどこどこだ」という議論を避ける為です。
>もしも、「魏志倭人伝」が「魏使の報告書を一字一句変えずに、そのまま引用した」と考えるのであれば、それは、(そういう可能性が無いとは言いませんが)文面上、何等根拠の無いことであり、その主張そのものが、十分な論証を要する課題です。
私は、これはこれとして、「魏志倭人伝」の史料批判として重要なテーマの課題である、と思っています。
しかし、これと今の「邪馬壹国」の位置に関する議論とは、リンクする必要がなく、別個に論じられるべきだと思っているために、「報告者」という語(概念)をあえて使用しないようにしています。

計算を行なったのが「陳寿」なのか、それとも「報告者」なのか、という点に関して言えば、不明としておきましょう。
しかし、『三国志』は陳寿の著書なのだから、そこに書かれているものは、「陳寿が書いた」と言っておこうじゃないか、と私は考えています。

確かにこの点について私はここまで明確に述べたことはありませんでした。
これで少しは誤解が解けたでしょうか?
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 23:15:04

>「陳寿の算法」と「魏使の報告者の算法」を区別してもかまいませんが、「報告者」が、「測量をしながら」対海国に至ったとは、考えていません。

この言い方は誤解を生じるかもしれませんね。
ここで言う「測量」というのは、
「高度な、数学の知識と、測量技術」というときのその「技術」(当時の測量技術も、決して何もなかったわけではありません)を用いて距離を測ることを指しており、ここで言わんとしているのは、そういった当時の測量技術に基づいて距離を測ったのではなく、「報告者」でも誰でもかまいませんが、何らかの方法で距離を「計算」した(それは体感からかもしれませんし、速度と時間からかもしれません。或いは、倭人からの情報を基に算出することもあるかもしれません)結果である、と言うことを言っています。

私は、先も申し上げたとおり、「報告者」と「陳寿」をあえて区別していません。
ですから、今言ったような計算方法(1000里に関する門外貫一さんの示された方法も含めて)のことを「陳寿の算法」と申し上げています。
Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/22(金) 18:36:38

少し頭が冷えました。

>「常識」とは、みんなが同意してはじめて「常識」なのです。
私が言っているのは、この点です。

そうです。その常識を言っています。

「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」ということは常識ではないですか、と申し上げています。島の半周を総里程に加えるのは非常識ではないですか、と言っています。東京ーハワイ寄港ーサンフランシスコの総航海里程にハワイの半周を加えますか。道のりなどと強弁(迷い)は河西さんらしくありません。

河西さんの常識と異なりますか。いや、この常識の倭人伝への適用には反論あること重々承知しておりますが、常識を甘くみたのは誤算です。学問は常識(先学の成果)の上に築かれます。

河西さんとの論議を通じて、多くのヒントを頂き、自分の考えがきれいに整理できました。余人の誰がここまで親切に論議してくれましょうや。心から感謝します。

古田氏じゃないですけど、追い込まれた中でヒョンなことから真理はひらめくものです。

>>
K> 古田説は「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。だから古田説は解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来る
K> 検証が全くなく解釈論にすらならない
私> う~っ

名コーチはその選手の力以上の力を出させるものです。そのためには追い込むことです。窮鼠も猫を噛むのです。ハハハ あなたは名コーチです。河西さんありがとう。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 00:55:03

>「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」ということは常識

本当ですか?
この命題は、「総里程が明示されるとき、一区間を省略する」という以外の書き方は、非常識である、ということを含意していますか?
もしも、そうであるならば、これには同意できませんね。
なぜなら、「総里程を明示しつつ、部分里程を明示する」という書き方も、普通だと考えるからです。
最初に確認したとおりです。
そうではなく、どちらもありうる、とするなら、やはり、「「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」ということは常識」という言い方は厳密ではなく、「どちらもありうるというのが常識」と言うべきです。

次に、「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」としても、「だから、残りは1400里である」と結び付けることが「常識」ではない、と言っているのです。
「1300里」かもしれないし「1500里」かもしれない、のです。
「常識」云々は、この点を批判しているのです。

次に

>道のりなどと強弁

「道のり」と「直線距離」の概念を、丁寧に説明したほうがいいですか?
「馬鹿にするな」と言われそうなのでしなかったのですが。
私は、それくらい「常識」的なことを言っているつもりだったんですけど、ね。

宮津さん、
率直に申し上げて、「自説を批判的に検証」すべきだと思います。
もちろん、その結果、自説を取り下げろ、ということではありません。
少なくとも、一旦、自説から離れて見る姿勢は必要だと思います。
「常識」をめぐる議論にせよ、「道のり」にせよ、「自説」から少しも離れることが出来ないが故に、まさに「強弁」に陥っています。
否、「強弁」は適切ではないのでしょう。
「深み」に嵌っています。
議論の経過を宮津さんがまとめてくださいましたが、
「言い方次第」という感じもしますが、
こうしてみると、やはり、少し的が外れています。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 00:55:39

>>「常識」とは、みんなが同意してはじめて「常識」なのです。
>>私が言っているのは、この点です。

>そうです。その常識を言っています。

「常識」というキーワードだけです。
宮津さんの主張と、私の主張が一致しているのは。
結局、私の言うことを何も踏まえてくれていません。
踏まえたうえで反論いただければ、それでいいのですけれど、ね。
別に私は、「常識」を盾に、宮津さんに「非常識」というレッテルを貼り付けて議論を回避しようとしているのではさらさら無い。
宮津さんが、「常識」を盾に、議論を回避しようとしていることを批判しているのです。
Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 15:21:16

誤解が誤解を生みますね。不幸なことです。

宮津 >>「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」ということは常識
河西さん > 「総里程を明示しつつ、部分里程を明示する」という書き方も、普通だと考えるからです。最初に確認したとおりです。

そうです、その確認の上で言っています。当然じゃないですか。私の立場は、(1)島巡り読法が認められない以上(2)「総里程を明示しつつ、(すべての)部分里程を明示する」は成り立たないから、それならば二者択一の(3)「「一部省略できる」という常識が適用できる」と言っています。私の言い分をご理解いただけるでしょうか。

> 「総里程が明示されるとき、一区間は省略できる」としても、「だから、残りは1400里である」と結び付けることが「常識」ではない、と言っているのです。

それはごもっとも当然です。「一区間は省略できる」としても総里程からどの区間里数を差し引くのかは論者によって異なるでしょうから。伊都国放射説論者ですと1500里です。ですが、それは「省略できる・できない」問題にとっては副次的(二次的)な問題です。「省略できる」が確認できなければいくら論議しても意味がないですからね。あえて踏み込まなかったのです。「全区間里程が明示されている」が論証できなければ、「一区間は省略できる」という常識も使えますね、ということです。

今回は「全区間里程が明示されている/いない」がテーマだったはずなのに、

したがって、
1.「明記している」と考えた場合、その「計算方法」が特定でき、「邪馬壹国」の位置は特定できる。
2.「明記していない」と考えた場合、「計算方法」は特定できず、従って、「邪馬壹国」の位置も特定できない。
という状況なのです。
この場合、1.を採るほうの解釈に一定の理がある、と結論付けることが出来るのです。
仮定の結論を前提にしたことから、「明示されない」という仮定にも同じように理があると応じたのが混乱の始まり。スタートに戻ってしまっていたのです。河西さんも島巡り読法が私を含む万人を説得できないから、それでも現時点での最高の解答だと言うのなら、それで結論が出ていたのです。だから「明示されない」にも正答のチャンスはあるとすればそれで終わっていたのです。テーマに関してはなんの結論もないことになります。徒労だったか、面白かったかは本人次第、私は面白かったですよ。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 18:05:42

「半周」読法は、すでに、宮津さんが認めてくださった、と認識しておりましたが。

>理解し難かった「半周読法」をビジュアル化され、誰にも具体的によく解り説得力を増したと思います。言われることにも無理がありません。実際の航海を彷彿とさせます。

>古田氏の短里説に従えば330kmほどになり、実距離より100kmほど長くなるように思われますが。

について、詳細に論じなければなりませんか。
私は、
>どこからどこの距離を言っていますか?
>どこからどこをどのように測っていますか?
>一直線に地図の上に定規を当てて測ってます?
と問いかけており、そのお答えをまだ、いただいていません。
いただいていませんが、私にはおおよそ見当がついています。

釜山から唐津まで約200キロ

図示したように、狗邪韓国と末盧国を一直線に結んだ距離のことを、宮津さんは「実距離」と言っているようです。
一方、私が言っているのは、「道のり」。
すなわち、この区間を蛇行したりした分を含んだ長さを測らなければなりません。
2点間の距離を言うとき、直線で結ぶのが最短ですから、蛇行したりすれば、当然、距離はそれより長くなります。
したがって、「長い」ということに何の問題もありません。
宮津さんは、「本当は」この概念を知っているはずですし、「蛇行したりすればその分を測る」というのがこの魏志倭人伝の書き方である、という前提で議論をしていたはずです。
現に、狗邪韓国までの7000里を、朝鮮半島の西側と南側を通った行路、と見なして、その距離である、と主張してたわけです。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 18:11:04

>だから「明示されない」にも正答のチャンスはあるとすればそれで終わっていたのです。

始めに言ったはずです。

>前々から、言ってはいることですが、まったく疑問を持っていないわけではありません。
>ただし、今は決定的な対案はなく、今のところ、古田氏の立論が一番穏当なところだろう、とは思っています。

「半周」読法を「認めない」というのは、別段、明確な根拠を持ってそう言っているのではなく、単に「そんな読み方信じられない」「そんな読み方は変だ」と言っているのであり、私は、「そんなことはない、こう考えれば、変では無いでしょう」と言う議論がある。
ですが、それは、「半周読法」は「絶対にあり得ない」と証明されたわけでもなく、もちろん、「半周読法でなければだめだ」と証明したわけでもない。
「半周読法」にせよ、「明記されている」にせよ、積極的にそれ自身を証明するものは何も無いし、それを積極的に否定する根拠も無い。
ですが、これは「明記されていない」と「等価」ではない。
なぜなら、「明記されていない」と言ってしまえば、「邪馬壹国」の位置は不明、というのが結論であり、「明記されている」と言えば、「邪馬壹国」の位置は特定できる。
このとき、我々は、ひとまず、「明記されている」というほうの優位性を認めるべきだ、と言っているのです。
「明記されていない」に優位性を認める理由が無い、と言ってもいいでしょう。

「半周読法」を一旦認めておきながら、未だにそのような議論を行なっている、と私は見なした為に、
>宮津さんが、「常識」を盾に、議論を回避しようとしていることを批判しているのです。
と言っているのです。
結局のところ、「半周読法」には「納得」いただけました?
Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 19:40:39

> 結局のところ、「半周読法」には「納得」いただけました?

参ったな~・・困った。できないと言えば河西さんに逆らうし、できると言えば嘘になるし・・(オー)

> ひとまず、「明記されている」というほうの優位性を認める

なら半周読法を納得せざるを得ないでしょうね。河西さんの言い分は言い分として、私のも聞いてみてくれませんか。お願いします。

古田里程論は各区間(二島の半周も加えて)を加算して万二千余里ですから、万二千余里を証明ずみです。ですが私の考え方では、陳壽がどうして郡・女王国間が万二千余里としたかを証明する必要があります。でなければ明記区間の里程の合計との差が不彌国・邪馬壱国間だと言っても説得力がありません。

そのために二つの前提を必要とします。ひとつは「余里」の余とはその数値より大きくかつ半分の5よりは小さいと考えてよいか、です。もうひとつは、東夷伝には方○里という表記法が出てきます。問題の対馬・壱岐も同じです。この方に対する概念として円の円周を指す用語として周旋であるとできないかです。つまり周旋五千余里とは円周を五千~五千四百里とする円である、です。方○里に対する円の広さの表記法です。

この前提が認められるなら、数学的に万二千余里は証明できます。いわゆる私の陳壽の算法です。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 19:43:17

さらに付け加えれば、私は、この議論によって、
「明記していない」と仮定した場合、絶対に邪馬壹国の位置は魏志倭人伝によって特定できない、と確信するに至りました。
里程記事の「計算」が「合わない」ことは問題ではなくなってしまうからです。
すでに、確実な根拠を、「里程」から得ることは出来ない。
「明記していない」とは、論理的にそういう結論に至らざるを得ないことが、この議論によってハッキリしました。

「明記しない」という仮定で、魏志倭人伝を読むのなら、里程記事以外に根拠を見出すことが先決です。

今なら、ハッキリ言うことが出来ます。
宮津さんが、「明記していない」という方向で検討したいのならば、もはや、「里程」から離れるべきです。
それ以外の所に根拠を見出すべきです。

私は、この議論の前には、「明記していない」前提で「里程記事」から邪馬壹国の位置を特定できる可能性もある、と思っていましたが、この議論によって、それは不可能である、ことを確信しました。
「明記していない」と主張するならば、「里程記事からは邪馬壹国を特定できない」として、別の根拠を探しに出なければならないのです。
既に、宮津さんは、「里程」を離れるべきです。
「里程」を離れない限り、宮津さんが「明記していない積極的な根拠」に達することは絶対に無い、と言い切ってもいいでしょう。
そういう史料状況であることを確認できました。
Re: 半周読法

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/23(土) 19:51:24

交錯したようです。

「方何里」に対応する表現としては、「径何里」という表現があります。
これは円で「直径」のようです。
また、「周何里」という表現もあり、これは、形に関わらず周りを一周したときの里数です。
「径百余歩」(魏志倭人伝、卑弥呼の墓)
「方二里、周八里」(漢書注所引、三輔黄図)
「周旋」の語をそういう意味に解することはおそらく出来ないでしょう。
Re: 半周読法

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 21:57:23

> 「明記していない」と仮定した場合、絶対に邪馬壹国の位置は魏志倭人伝によって特定できない、と確信するに至りました。
> 既に、宮津さんは、「里程」を離れるべきです。
「里程」を離れない限り、宮津さんが「明記していない積極的な根拠」に達することは絶対に無い、と言い切ってもいいでしょう。

そうですか。止むを得ません。

> 「方二里、周八里」(漢書注所引、三輔黄図)

これはありがたいです。なるほど周は円とはかぎらない。けれども直線ではない、面積をもつものの外縁となりますか。すると周旋とは、旋の周となります。旋はぐるぐる回るの意もありますから、円状に動くものの周に近いです。こじつけか、用例があるかですね。

もう少し勉強してみます。
[至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/18(月) 23:39:32

はじめまして

古代史の専門家ではないのでこの場で発言する資格がないかも知れません。翻訳のほうを生業としている中野です。「至る」のテーマについてだけ発言させてください。

「至」について、河西さんの興味深い書き込みをみまして私の感想を書かせてもらいます。

以下は翻訳者として言語面から見た私の見解です。

□<渡>一海千余里<至>對海國
この文は、<渡>と<至>が時系列に動作が進んでいる、いわゆる現代中国語で言う連動詞文、結果として對海國に「至る」となると考えます。

□東<行><至>不祢國百里
こちらも、古田氏が唱えるように一見時系列に動作が進んでいるようですが、決定的な相違は末尾に百里がきています。
これは現代の中国でもそうですが、至(到)不祢國百里のような文は、介詞フレーズと言って、本来の動詞の意味が薄れた前置詞扱いにされています。意味は「不祢國マデ百里」です。

到着の有無には無関係な普遍的な距離表現にも使用されています。(「不祢國に至る、百里」の訳では本来自明のはずの主語が不明になってしまいます。)
この場合は、実際の意味は、路の途中の通過点ではなく、道筋の「ゼロ起点カラ他端の不祢國マデ百里」です。一方、對海國の場合の、<渡>と<至>にはさまれた距離は、路の始点の有無に関係なく、渡り始めた地点から至る地点までの加算距離になります。
ついでに他の個所で河西さんがふれておられました「誰が至った」のかという問題ですが、中国語は今も昔も、最初からわかりきった主語は省略してしまうという不精が許される、日本語とよく似たとこのある言語ではないでしょうか? 本来中国語とよく似たところのある英語とは、この主語のとらえかたでは決定的にちがうように思われます。「〇〇里」が述語とすれば、主語は当然それに見合う語になるのではないでしょうか? あくまでも言語の面からの見解です。
中野
Re: [至る]について

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/19(火) 01:11:38

ふむふむ。

中野さんのご意見を踏まえれば、各々、
「海を千里渡った後、対海国に至る」
「東(に?)行き、不弥国まで百里(である)」
というような和訳で、正しいでしょうか。
おおよそ、私の考えていた解釈と遠くなくて心強い限りです。
特に「不弥国」の例ですが、「行」という動詞と「至」という動詞は、無関係のものではないと思っていいでしょうか。

>ついでに他の個所で河西さんがふれておられました「誰が至った」のかという問題ですが、中国語は今も昔も、最初からわかりきった主語は省略してしまうという不精が許される、日本語とよく似たとこのある言語ではないでしょうか?

ふむ。
品詞という概念から言えば、中国語には「品詞」はあてはまりにくい、というのが本当のところのような気がします。
いつか、漢文を英文に訳してみたことがありますが、そのとき、気づいた印象としては、「主語」を省略しているというより、「関係詞」のように見える気もしました。
まぁ、「主語」というのは、「印欧語」の特徴に過ぎなくて、言語一般の現象ではない、という考えも出来るかもしれませんね。
「象は鼻が長い」
この「主語」がなんだか分からないように、日本語も「主語」という概念があるのか、分からないところもありますね。
Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/20(水) 11:18:07

>「海を千里渡った後、対海国に至る」
>「東(に?)行き、不弥国まで百里(である)」

「東に行けば、不弥国まで百里(である)」
というような和訳になるのではないでしょうか。
>おおよそ、私の考えていた解釈と遠くなくて心強い限りです。
>特に「不弥国」の例ですが、「行」という動詞と「至」
>という動詞は、無関係なのものではないと思っていいでしょうか。
同感です。「行」と「至」とはセットでないと正確な意味に
ならないのではないかと思いますが。主体が同じ筈ですから。

河西さんは、訓読み解釈の限界についても触れられていた
ように思いますが、私もほぼ同感です。漢字読み下し文は、
日本語にするのには極めて有効な手法だと思いますけどね。

中野
Re: [至る]について

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/20(水) 14:42:59

ふむふむ。

微妙なニュアンスの問題になりますが、
「東に行けば」の「行けば」という日本語には、「仮定」のニュアンスが多少なりとも含まれますが、漢文上には「仮定を示す語句」こそないけれど、「仮定」のニュアンスが含まれていると考えるべきでしょうか。
それとも、私の訳「東に行き、不弥国まで百里(である)」では、日本語として、確かに、「行」と「至」が時系列的に並んでいるようにも見え、それよりも「行けば」という日本語を用いてこの「時系列的な並び」というニュアンスを弱めるべき、ということでしょうか。

古田氏の読解との関係もあり、ここのニュアンスの違いによって議論に影響があるかもしれないために、ちょっと細かい話になりますが、お聞きしたい、と思いました。

翻訳って、本当に難しいですね。
Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/21(木) 12:01:45

>微妙なニュアンスの問題になりますが、
>「東に行けば」の「行けば」という日本語には、「仮定」のニュアンスが多少>なりとも含まれますが、漢文上には「仮定を示す語句」こそないけれど、「仮>定」のニュアンスが含>まれていると考えるべきでしょうか。
仰るように中国語にはたしかに現在、過去、未来、仮定の概念はありませんよね。
中国語は,仰るようにたしかに品詞できまるものでもないということにまったく同感です。決定的なのは原文の語順で「テニヲハ」がすべてきまってしまうということではないかと思います。

古田武彦氏の不祢國行きは、對海國行の<渡>と<至>を同一視してしまっています。
末尾の述語句(結語)の本来の重要性を少し軽く見られているように見受けられるわけです。至不祢國の記述はどちらかというと条件句に近いものであり、末尾の距離は結句に相当すると言えるのではないでしょうか。

少し,補則しますと
渡→千余里→至對海國の語順の」解」は行先の一点(對海國)だけです。
一方、至不祢國百里は、起点→至不祢國=線分単位の百里(二点)です。
これを次の起点にしようとすると二点が候補になってしまい、一点に特定することができなくなります。

>それとも、私の訳「東に行き、不弥国まで百里(である)」では、日本語とし>て、確かに、>「行」と「至」が時系列的に並んでいるようにも見え、それよりも「行けば」という日本語>を用いてこの「時系列的な並び」というニュアンス>を弱めるべき、ということでしょうか。
「不祢國まで百里」の表現には、やはり、「不祢國までならば」「不祢國まで」「・・ニハ」など、複数の解釈が可能になるように思います。
上述しましたように、ここはやはり末尾句を問題にすべきではないでしょうか?
何といっても締め括り句ですから。

(ついでに表現法に関連してふれさせてください。倭人伝の道筋文全体の話題(隠れ主語)は、道筋ですよね。この路を途中に出てくる(水)行、渡海、行不見人、(陸)行、(東)行や方位のそれぞれ後に路をつなげると、道筋がとてもわかりやすくなるように思われます。
渡海路→千余里→至對海國、行路不見人、東南陸路→到伊都国、東行路→至不祢國、さらには東南路→奴國、南水路→投馬國、南路→邪馬壹國。古代史も門外漢の私から見ますと、行→至は単に道筋であるように私には思われるのですが。

中野

Re: [至る]について

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/21(木) 15:07:33

結論として中野さんの理解では、邪馬壹国の位置は不弥国の「南」ですか?「南西」ですか?

Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/22(金) 07:14:46

結論は、伊都国のすぐ南です。榎→牧説(前漢書)の放射説の理解と一致しています。ただし、その後に続く水行十日陸行一月の理解は古田説に近くなっています。

道筋の延長表現(動詞・延長理数・至)は伊都国でとまっています。残りは方面距離です。(ただし邪馬壹國は少し違います)
中野

Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/22(金) 15:43:27

先ほどのレスの水行十日陸行一月の補則
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月の句読点について

・中国語は、基本的には動詞を中心として、その左に主語と称するもの、右に目的語(または補語)がつきます。
・左の主語と称する話題の対象となる主語は、それこそ自明の場合は簡単に省略されてしまいます。しかし、自明の里説などのように、述語句(結語)の数詞を省略することなど、文章作法からしてあり得ないことです。

上記の文は、自明の主語を省略した二つの述語文(動詞、数詞)からなっています。
一つは、南<至>邪馬壹國女王之所都です。
南は、女王の都する所の邪馬壹國に至る。

もう一つは、(ゼロ起点からの行路は)水行十日陸行一月だ。
になると思います。
一般的解釈では、邪馬壹國、女王の都する所に至る。水行十日陸行一月になるようですが、女王之所都があるため、そのように読むのはいささか無理があるように思います。どちらにしても都の直後に句読点が入るはずです。

これは、狗邪韓國のところと共通した表現ではないかと思います。
<循>→<行>→<歴>→<南>→<東>→<到>狗邪韓國。
(この連動詞文の行路は)七千余里だ。

ここで最大の問題点は、行路の延長表現がとまっている伊都国はもちろん終点ではないということです。(幹線路)到伊都国南至邪馬壹國。水行十日陸行一月。・・・可七萬餘戸。次に斯馬国有り・・・奴國と続きます。
行路は確かに邪馬壹國で消えてしまいましたが、邪馬壹國の「次に」の句で、行路に代わる連鎖状配列表現でつないでいます。どのような方向で連鎖をなしているのかは不明です。そして「今使訳所通じる所の三十国」の紹介を終えたところで、郡から女王国まで萬二千余里として合計距離を明示しています。邪馬壹國の直後は、紹介途中であり、合計里数を記述する必要がなかった言うことだけでしょう。その代わりおおまかな所要日数を示しています。合計を示している以上、個別距離・経路などにあまり拘泥していないことが伺われます。
Re: [至る]について

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/22(金) 19:18:13

宮津と申します。

伊都国から不彌国を表記したのは、投馬国・邪馬壱国をその南と記述するためと考えます。不彌・投馬・邪馬壱国が南北軸に並ぶことです。仮にこれらの国が伊都国の南(実地は有明海) にあるなら、不彌国までの行路は書かれなかたったと思います。

ですから主行路は伊都国から邪馬壱国および二十一国の女王の境界まででしょう。そしてその南の狗奴国と続きます。

伊都国から水行ですから不彌国の南の投馬国は福岡平野ではありえません。その南の邪馬壱国も勿論。

> 合計を示している以上、個別距離・経路などにあまり拘泥していないことが伺われます。

そうでしょう、陳壽にとっては史記漢書の及ばざるところを書き継ぐことこそ天命と思っていましたから、先行史書にない倭まで万二千餘理を書き足すことこそが関心なのです。倭人伝は「自郡至女王国萬二千餘理」を書かんがために編纂されたと言っても過言ではないでしょう。

Re: [至る]について

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/22(金) 19:40:33

> もう一つは、(ゼロ起点からの行路は)水行十日陸行一月だ。
になると思います。

このゼロ起点とは、行路の延長表現が止まっている伊都国と解しますがどうでしょう。仮にこのゼロ起点が帯方郡なら、その終点たる「自郡至女王国萬二千餘理」の後に書かれると思いますが。また投馬国水行二十日が郡からの日程である意味がありません。

どうか教示ください。
Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/23(土) 09:18:12

宮津さん

はじめまして。河西さんの「至について」に魅せられて迷い込んできてしまいました。何せこのような書き込みは初体験に近いもので、どうぞお手柔らかにお願い致します。

>伊都国から不彌国を表記したのは、投馬国・邪馬壱国をその南と記述するためと考えます。

陳寿が何を思い描いていたかは私には定かではありません。彼が書き残した文にあることから判断させていただきます。
到伊都国|東南至奴國陸行百里|東行至不祢國百里|南至投馬國水行二十日|
この三つは距離を結び句としています。その結果、奴國、不祢國、投馬國は、違う意味ですが、古田氏のいう「傍線行路」に当たっていると判断します。何故ならば、ゼロ里起点からそれぞれの距離で路を閉じている表現になっています。宮津さんが不祢國を主行路として、判断されているならば、私のほうからいろいろ質問させていただきたいと思います。

もう一本の閉じられていない邪馬台路はどうでしょうか?
国名を末尾とする道筋延長表現に近く、筆先の進みを示しています。路のつなぎ表現です。そして三十国の名をきちっと挙げたところで、ここは「倭」ではなく、「女王国」として、自郡至女王國萬二千餘里で、残り一本の道を閉じています。これで四方面路のすべてが距離を末尾句としたことになり、閉じられて、完結ということになります。
つまり、延長表現が続かない限り、各道筋文の末尾が「距離」のときは、道筋を閉じ、「国名」の時はまだつながる可能性があるということになると思います。

水行十日陸行一月と自郡至女王國萬二千餘里については、
今日はとりあえず、簡単にということでお願いいたします。
水行十日陸行一月は、その記述位置から見て、そこまでのその隠れ主語である(奴國・不祢國を含む「從郡至倭の路」)一巡行路(現代でも通常は日数表現)を受けていると思います。一方、自郡至女王國萬二千餘里は、直進行路と判断します。
他のご意見については、長くなりますので後日にまわさせてください。

Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/23(土) 18:19:44

宮津さん

>また投馬国水行二十日が郡からの日程である意味がありません。 どうか教示ください。

これは私への疑問だったのでしょうか?大変失礼しました。伊都国からの放射路の一つです。ゼロ里起点とは、仰られるとおり、郡と伊都国です。
Re: [至る]について

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 21:18:36

有難うございました。勉強させていただきました。
また、ぜひともお聞かせください。

Re: [至る]について

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/27(水) 13:53:05

古田説「東行不祢國行」への疑問

古田氏が「不祢國」だけを特別扱いした根拠が私には理解できません。

狗邪韓國への行路を見ると、「乍南乍東至其北岸狗邪韓国」とあります。
この南・東については岩波文庫解釈本や辞典などにありますように、
南行・東行として普通は理解されているのではないでしょうか?
そうでないと、狗邪韓國へ到達できないはずです。

奴國、投馬國、邪馬壹國も同様に、すべて方位・行(仮定)・至で進む
行路表現になっていると私は思います。上述したように上記の中で
決定的な分岐点は語順最後の結語「距離」であると思います。
したがって、この「行」だけで奴國を傍線行路とする根拠は薄弱では
ないでしょうか?

末尾句に里数のない邪馬壹國以外は奴國、不祢國、投馬國の
文の構造はまったく同一であると私は考えます。

「行」の用法は、下記のように原文から抜粋した個所を見る限り、
直線を暗示する「渡」とは対照的に入り組んだ海岸の道のりや
既知でない(<>曲線行)などに使用したふしがうかがえます。
方位の入っていない区間は、比較的単純な道のりだから行を省略した
といったところではないでしょうか? これはあくまでも私の類推です。

乍<南>乍<東>至其北岸狗邪韓国
始|度|一海千余里至対馬国
又南|渡|一海千余里名曰瀚海至一支国
又|渡|一海千余里至末廬国
東南陸<行>五百里到伊都國
東南至奴國百里
東<行>至不彌國百里
南至投馬国水<行>二十曰
南至邪馬臺國女王之所都
(從郡至倭)水<行>十曰陸行一月
復在其東南船<行>一年可至
Re: [至る]について

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/29(金) 23:07:11

返信が遅れてしまいました。

まず、「南」「東」について。

これは仰るとおりだろうと思います。
こういった「方角」を示す文字が、「その方角への移動」を意味することがある、というのは、私も存じておりますし、異存はありません。

>したがって、この「行」だけで奴國を傍線行路とする根拠は薄弱ではないでしょうか?

ふむ。
しかしながら、私は「東行至何里」と「東至何里」という表現は区別しておくべきだろうと思います。
現に「南至投馬国」「南至邪馬壹国」と、直後に出てくるわけですから、「行」は、「なんとなく」ではなくて、何らかの違いを想像することは、間違いでは無いだろうと思います。

ここから先は、私もまだ整理し切れていませんが、これは、「中国語」に限った問題では無いように思います。
「至」の問題で、私は「実際に至ったのは誰か」ということを考えましたが、そういった観点が必要になるのではないかと、今は思っています。
「ここから東へ何キロ「行くと」某所に着く」と、
「ここの東、何キロで某所に着く」との微妙なニュアンスの違いに着目してみようと思います。
これはまだ、私の想像に過ぎませんが、「行く」が入れば、仰るように、「行路」として、ある程度、曲がりくねっているかもしれませんし、少なくとも、ここで示された距離は、「道のりである」と言っていいのだろうと思います。
一方、「行く」のない、後者でしたら、それは、「地図上の話」かもしれず、「直線距離」かもしれません。
(「道のり」ではない、とは思いませんけれど)
そういうニュアンスの問題なのだろうと、私は考えています。
道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 22:02:32

オーバーで書けなくなりましたので・・

> 「明記していない」と仮定した場合、絶対に邪馬壹国の位置は魏志倭人伝によって特定できない、と確信するに至りました。
> 既に、宮津さんは、「里程」を離れるべきです。
「里程」を離れない限り、宮津さんが「明記していない積極的な根拠」に達することは絶対に無い、と言い切ってもいいでしょう。

そうですか。止むを得ません。

> 「方二里、周八里」(漢書注所引、三輔黄図)

これはありがたいです。なるほど周は円とはかぎらない。けれども直線ではない、面積をもつものの外縁となりますか。すると周旋とは、旋の周となります。旋はぐるぐる回るの意もありますから、円状に動くものの周に近いです。こじつけか、用例があるかですね。

もう少し勉強してみます。


申し訳ないことに次ぎの返信を見逃していました。

> 図示したように、狗邪韓国と末盧国を一直線に結んだ距離のことを、宮津さんは「実距離」と言っているようです。
一方、私が言っているのは、「道のり」。
> 宮津さんは、「本当は」この概念を知っているはずですし、「蛇行したりすればその分を測る」というのがこの魏志倭人伝の書き方である、という前提で議論をしていたはずです。
現に、狗邪韓国までの7000里を、朝鮮半島の西側と南側を通った行路、と見なして、その距離である、と主張してたわけです。

いやそうではないです。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 22:12:48

河西さんの「七千里どころか距離がオーバーする」との反論を聞いてなるほどと思いました。ですが「海岸に従いて水行し」も捨て難く・・(股裂きですトホホ) 熱が出るほど考えた結果が、

「海岸に循って水行し、たちまち南したちまち東する」は半島の地形に合っている。里程は七千里である。これを検討する。東夷伝には、「(夫余)方、二千里なる可し」や「(韓)方、四千里なる可し」と面積を正方形で表す表記法がいくつか出てくる。だがこれは面積だけのことだろうか。つまり正方形にしてしまえば対角線がルート2、つまり約1.4になることである。だから一辺の長さを測ることができれば、二点間の距離が推定できることである。このことは例えば「(韓)方、四千里なる可し」は帯方郡境からプサン(釜山)までの直線距離五千六百五十里が推定できるのである。「乍南乍東」とは方形の二辺を指している。こうして実測ができない直線距離を推定する。
帯方郡庁はソウル(京城)の北西のケーソン(開城)付近と思われる。「海岸に循って水行」から郡庁は港の近くであって、しかも真っ直ぐに南下する必要がある。沙里院の場合は、沙里院と郡境の距離が明示される必要がある。陳壽にとって既知の帯方郡庁から韓境まで千四百里を足せば七千余里となる。
地理の距離は直線距離でなければ意味がない。例えば、帯方郡庁からプサンまでの実際の水行行程距離は、九千四百里(1400+4000+4000)となる。だが海路は複雑であるから航海の度に距離は変わる。また、陸行すればジグザクを含む道なりの歩行距離となり、また選んだ道路によって異なる。このことはプサンの位置が移動・変化することを意味する。これでは地理(地図)としては役に立たない。倭人伝ではすべて二点間の直線距離で示される。その場合、重要なことはその直線の方向である。この二つの条件によって地理は具体的なイメージを持つ。

と変わりました。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/23(土) 22:34:29

河西さんに頂いた反論・批判を受け、どんどん進歩します。じゃ半周読法もどうですか、って? いや~道なり距離でも水行説を捨てず、韓方四千里で半周読法の結果、直線距離推定法を思いついたようなもの。

これと同じことが円で推定したのが二千餘里です。つまり周旋五千余里を5400里とすれば、その直径(末盧邪馬壱国軸)が1720里となり、不彌は東に450里南に350里ズレますから、これを修正すると不彌国・邪馬壱国間は1370里になりますね。すると末盧・邪馬壱国間は1970里、ほぼ二千里で万余里と合わせて万二千余里です。計算による推定里程だから陳壽は几帳面に不彌国・邪馬壱国間は1370里と表記しなかったのです。

二点間の直線距離を方向でつないで地理を表記するということです。そのいくつかの二点間つまり区間の直線距離の合計が始点と終点の総里程となります。

邪馬壱国は熊本市の南、八代市の北。これで邪馬台国論争は終了です。残念ながら・・
Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/24(日) 00:42:10

つまり、自分は、「陳寿は直線距離で測っている」ことにしたから、これは「道のり」ではない、と仰るわけですね。

>宮津さん、
>率直に申し上げて、「自説を批判的に検証」すべきだと思います。
>もちろん、その結果、自説を取り下げろ、ということではありません。
>少なくとも、一旦、自説から離れて見る姿勢は必要だと思います。
>「常識」をめぐる議論にせよ、「道のり」にせよ、「自説」から少しも離れることが出来ないが故に、まさに「強弁」に陥っています。
>否、「強弁」は適切ではないのでしょう。
>「深み」に嵌っています。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/24(日) 00:50:56

>本当の意味で、批判的に他説も自説もじっくり検討していないから、「批判」と「罵詈雑言」を区別できない。
>他者から自説に対する指摘を受ければ、それを「中傷」としか受け取れず、自らが他説を批判しようとすれば、「中傷」しかできない。
>それに、対立する説に対して、「私を信じなさい」「あなたは真実を知らない」以上のことを言うことが出来ない。
>それが、今のアマチュア論者の陥っている、「病」なのだと思います。
(独り言、2004.2.7)

…これでは議論にならないですね。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/24(日) 05:08:26

宮津さんは、「常識的な読みに照らして違う」でも「半周読法は矛盾する」でもなくて、「自分の読みと違う」と仰います。
それは全く「批判」ではない。

「常識的な読みに照らして違う」という批判に対しては、私は「半周は水行」という解釈を示し、それによって、「理解し難かった「半周読法」をビジュアル化され、誰にも具体的によく解り説得力を増したと思います。言われることにも無理がありません。実際の航海を彷彿とさせます。」との評価を戴きました。
これが宮津さんの「社交辞令」つまり「心にも無い評価」でない限り、この「批判」には応えることが出来たと思っています。
「半周読法は矛盾がある」という批判は、今のところ聞いていません。

「自分の読解と違う」

お話になりません。
「私はこう思う。故に事実」
同語反復です。

宮津さんの読解は次の点で、矛盾があります。
1.
>地理の距離は直線距離でなければ意味がない。
全く根拠の無い暴論です。「道のり」という概念を本当に知らないようです。
これは行路記事であり、経路をこまごまと記述しているのですから、それを踏まえた距離であることは、当然です。
宮津さんの言い方で言えば、「倭国は帯方郡の東南一万二千里に在り」と言えばそれでいいのです。
途中経過は必要ない。
宮津さんの読解に従えば、「循海岸水行」も「歴韓国」も無意味であり、事実上、宮津さんはこれらの記述を無視していることになります。

次に、「平方根」まで用いた「複雑すぎる計算」であること。
これを「読みとれ」と言うほうが無理です。
「半周」でさえ、「不自然だ」と仰っていたのですから、言わずもがなでしょう。

最後に、宮津さんは「陳寿は全ての里程を明記していない」と仮定しているわけです。ですから、「計算」は無意味です。
残りが1400なのか1370なのか1500なのかを、計算によって示すことは出来ない。
これは古田氏が奥野氏に対して「計算が合うのは当然だ」といっているのと同じ批判を示します。
宮津さんは、自ら「新たな計算」によって、それまで言っていた1400里を、簡単に訂正した。
1400里が間違っていて、1370里が正しいのですか?
1400里が正しかったのに、1370里に間違ってしまったのですか?
この訂正が正しいかどうかは、確認不可能です。
残りの里程は「明記されていない」のですから。
古田氏が「明記している」と仮定して「計算が合う」ことを根拠にしたのとは似て非です。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/24(日) 08:37:33

> 「社交辞令」

の関係から先に、私が言っているのは、半周読法を説明するのにはいい教材ですという意味で、別に半周読法に賛成した訳ではありません。ずっと半周読法批判をテーマにしているじゃないですか。

短くかいつまんで書きましたのでご理解いただけないのかも知れません。私はあなたが書いてくださる批判を組み込んでどんどん変えてゆきます。

そうですか、評価していただけませんか。喜んでもらえると思ったんですが・・・ガックリ
Re: 道のりと直線距離

投稿者:中野 雅弘 投稿日:2004/10/24(日) 09:10:59

割り込んですみません。河西さんの独り言10月24日を読みました。
半周読法の結論 私は賛成です。
生活環境がコンピュータに対峙している時間が少ないため感想だけにとどめます。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/24(日) 09:12:27

要するに、「私は違う読み方がしたい」。
それだけのことです。
別に禁止はしませんが、それは全く「半周読法」批判の「理由」ではない。
もはや、「半周読法」を批判する理由が無いのでしょう?

>そういった中で、また新たな「邪馬台国」論を産出しよう、ということは、それ自体は問題ではないけれど、何故そうしなければならないのか、という理由というか、動機をきちんと見つめなおす必要があると、私は考えます。
>言い方を換えると、今「邪馬台国」の候補地が百あって、自分は新たに百一個目を追加登録しようとしているのか、それとも、他の百個の候補地は全て間違いで、自分が唯一の候補地を掲げようとしているのか、ということです。
>もし、単に百一個目を追加して、自分も「邪馬台国」論者の仲間入りをしたい、というだけなら、それは私にとって全く価値のないものですし、おそらく、真摯に古代史を探究している多くの方々から言わせれば、甚だ迷惑な行為だと言わざるを得ません。

私は、意地悪を言っているのではありません。
無理に「自説」などというものを掲げようとして、珍妙な解釈に陥って、批判に耳を傾けることさえ出来なくなったら、「古代史探究」など、これほどつまらないことは無いと思います。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/24(日) 09:13:56

中野さん、
書き込みが交錯したようです。

>半周読法の結論 私は賛成です。

ありがとうございます。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/24(日) 10:05:58

はしょって書いたのでご理解頂けないのだと思います。HPにアップしましたので、ぜひとも目を通して頂きたく存じます。あなたから寄せられる批判は解消すると思います。

> 私は、意地悪を言っているのではありません。

勿論そうだと信じています。そして公正な判断もできると。論理が通っていれば評価頂けるとも期待しています。

> 無理に「自説」などというものを掲げようとして、珍妙な解釈に陥って、批判に耳を傾けることさえ出来なくなったら、「古代史探究」など、これほどつまらないことは無いと思います。

私は古田里程論に釈然としませんから自分なりに倭人伝を解釈しただけであって、それ以上でも以下でもありません。河西さんに教えられるところ(知識も方法も)を入れて書いたものです。それなくばできなかったことです。古代史研究は硬直化したらおしまいですからね。

どうか好意的に読んで頂きますよう伏してお願い申し上げます。

http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/
Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/25(月) 01:27:34

宮津さん、

読みました。
読みましたが、率直に言って、あまり変わってはいません。

>つまり正方形にしてしまえば対角線がルート2(2の平方根)、つまり短辺の約1.4倍になることである。だから一辺の長さを測ることができれば、二点間の直線距離が推定できる。このことは例えば「(韓)方、四千里なる可し」は帯方郡境からプサン(釜山)までの直線距離五千六百五十里が推定できるのである。

例えば、この推定は、何によって確認すればいいのでしょう。
他にも例えば、如淳注が言っている一万里が、「末盧国」までの距離である、と何故言えるのでしょう。
如淳注の距離が末盧国までの距離である、とは、それだけで、十分な考証がいるでしょう。
更に、陳寿が如淳の言うような一万里という知識から、三千里の数値を充当し、それを均等に配分したと、何を持って確認すればいいのでしょう。

>最後に、宮津さんは「陳寿は全ての里程を明記していない」と仮定しているわけです。ですから、「計算」は無意味です。
>残りが1400なのか1370なのか1500なのかを、計算によって示すことは出来ない。
>これは古田氏が奥野氏に対して「計算が合うのは当然だ」といっているのと同じ批判を示します。
>宮津さんは、自ら「新たな計算」によって、それまで言っていた1400里を、簡単に訂正した。
>1400里が間違っていて、1370里が正しいのですか?
>1400里が正しかったのに、1370里に間違ってしまったのですか?
>この訂正が正しいかどうかは、確認不可能です。
>残りの里程は「明記されていない」のですから。
>古田氏が「明記している」と仮定して「計算が合う」ことを根拠にしたのとは似て非です。

むしろ、問題は、
>はしょって書いたのでご理解頂けないのだと思います。
>勿論そうだと信じています。そして公正な判断もできると。
>どうか好意的に読んで頂きますよう伏してお願い申し上げます。

私は、宮津さんの言う内容を「理解できない」から批判しているのでも、公正な判断を欠いているわけでも、悪意を持って読んでいるわけでも無いつもりです。
そうしたことが原因で、自分の「正しい」読解が理解されないのだと、少しでも思っているのでしたら、私が「何を」批判しているのか、読んでください。
その場所に立っている限り、議論になりません。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/25(月) 14:17:15

> 読みました。

お手数かけました。「全区間の里程が明記されない」から総里程と10600里(各区間の合計/伊都・奴間百里は加算せず)の差の1400里が不彌・女王の距離である、というのは倭人伝の文章としての読みです。里程記事の論理は、総里程が証明できれば、確定する区間距離を引けば、目的であり唯一の不明の区間である不彌国・女王間の里程が出る、ということです。陳壽はなぜ全区間表記をしなかったのか、も問題です。

> >最後に、宮津さんは「陳寿は全ての里程を明記していない」と仮定しているわけです。ですから、「計算」は無意味です。

古田氏は各区間(二島の半周も含め)を加算して万二千余里ですが、私の場合は総里程万二千余里を証明する必要があります。万二千余里は正しい前提で残余を求めても意味がありません。万二千余里は自明ではないのです。つまり陳壽がなぜ万二千余里と明記したか、です。そのためには計算が必要です。周・漢の数学は想像以上に発達していたようです。古田氏の著述にも引用が多くあって認識を改めました。(昔だから数学は未発達とあなどれない、ほんとに)

> 1400里が間違っていて、1370里が正しいのですか?
> 1400里が正しかったのに、1370里に間違ってしまったのですか

1400里は倭人伝の文章から推定し得る総里程との差、1370里は陳寿の計算過程(陳寿の舞台裏)の数値です。

最大の問題は「余」です。七千・三千・五百など桁数未満の桁の数値がない、唯一一万二千里だけが例外という状況です。この資料状況の限界がこの問題を数値的に解く場合の限界です。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/25(月) 14:22:14

> 自分の「正しい」読解が理解されないのだと、少しでも思っているのでしたら、私が「何を」批判しているのか、読んでください。

それは、自分は正しいことを言っていると思って書き込んでいますが、それが河西さんの史学上のあるいは論理上の厳しい目で見て耐え得るものかどうかが問題だと思っています(ひとりよがりのことをHPで書いてもトンデモでチョンですから)。それがこちらの掲示板を河西さんを信頼する所以じゃないですか。ですからその受ける批判を期待し、また頂いた批判は自分のものにしています。また頂いた批判が理解できなくて再質問したり、ことによれば再反論させて貰います。それが論議のルールじゃないですか。ですから私は、自分が絶対的に正しいと思っているなら河西さんのお手を煩わすことはない訳です。「>その場所に立っている限り、議論になりません」ははなはだしい誤解であり、それこそ論議を封じるものです。

今回のテーマが古田氏里程論を「> 一定の理があるから評価できる」と「一定の評価しかできない」に分かれていたことですから、結論が一致するわけがないのです。

「>強いなにかを求めています」の何かとは論理でしょ。私はここに一縷の望みをかけて一定評価の古田里程論を超えよう(後学者の使命)と、論議の中から一つの方向が見えたら素晴らしいなと思ったのですが・・・チョボン。今回の論議は私には実り多いものでした。河西さんありがとう。

あらゆる既成の束縛から逃れて自由に陳寿の描いた三世紀の日本の姿を追い求めます。なんどトンデモで頭を打ったっていい。このいいかげんさが学者肌の河西さんからみるとイラツクのでしょうね。あなたの「>強いなにかを求めています」を見つけられますよう祈っています。また愛機が一台だけの小さな小さな書斎に戻ります。じゃあ。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/25(月) 15:21:31

ひとつ忘れました。

> 次に、「平方根」まで用いた「複雑すぎる計算」であること。これを「読みとれ」と言うほうが無理です。

古田氏の陳寿の算法は「読者」が計算しなければ総里程が理解できない算法、私の陳壽の算法は「陳壽」が行なった算法、いわば裏計算です。読者が読み取る必要はない。

最初の原稿では末盧・女王の都の直線距離を測定と書いていましたが、南北軸を利用して不彌・女王の都の直線距離を測定と書き改めています(どんどん変化します、余も5~9から1~9へ)。南北或は東西は直線距離を測定する方法があったと、確信します。どうやってやったか?、宿題です。(この辺がダメで、河西さんを怒らせるのでしょうね、ハハハ)

Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/27(水) 02:00:26

>例えば、この推定は、何によって確認すればいいのでしょう。

>無知な我々古代史論者が「頭の中に描いたこと」は、なんら「根拠」ではない、ということです。
>常に、その「想像」は、どの史料事実によって、そう言えるのか、ということだけが問われているのだと言いたいのです。

>その場所に立っている限り、議論になりません。

>客観的な目とは、何かと言えば、つまるところ、「誰が見ても同じであるような見方」です。
>客観的な見方に基づく論理とは、「誰が見ても、誰が考えても、同じ結論にしか至りようがない」というものです。

>例えば、この推定は、何によって確認すればいいのでしょう。

>それに、対立する説に対して、「私を信じなさい」「あなたは真実を知らない」以上のことを言うことが出来ない。

>自分が古代に関して無知な現代人であることを忘れて、古代に身をおいて、確かに、古代の大地がその人の脳裡には鮮明に浮かんでいるのかもしれませんが、それが「史実」のように見なしてしまう。
>このとき、「私は A だと考える。だからこの文献は B と読むべきであり、だから、A は事実である」と言ってしまうのです。
>私は、ここで「A に根拠は無いではないか」と問うわけですが、「古代の時代背景」が返ってくる。
>つまり、その論者は本当に「古代の時代背景」が揺ぎ無い事実のように見えており、それが確固とした「根拠」としてその論者を支えているのです。
>ですが、それは、想像に過ぎません。

>あらゆる既成の束縛から逃れて自由に陳寿の描いた三世紀の日本の姿を追い求めます。

その結果、「あなたが」描き出した古代史が、私には「確認不可能(つまり、「確認する方法が無い」)」である、と言っています。

突っ走る前に、立ち止まって、自らの「アイデア」がどこから来たものなのか、それを問うのが、「論理」です。
その点を、私は繰り返し問うているのです。

>論議の中から一つの方向が見えたら素晴らしいなと思ったのですが・・・

そのためには、立ち止まって、自らの足元を確認してください。
私は、そのことをずっと言っている。
「その場所は、もはや「根拠」という足場を失っている」と言っているのです。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/27(水) 14:14:46

もうてっきり破門だろうと思っていましたが、返信を頂けましたのでうれしい限りです。

正直申しまして、失礼ながら私に寄せられる抽象的な批判は古田氏里程論に対するものに見えてしまいます。

自分自身では、数値的論理も史料根拠もあり、陳壽の書かんとしたことを理解できたと思っています。倭人伝は倭国道中記ではなく、漢書を手本としたレッキとした地理誌です。だからこそ、史書・漢書・三国志・後漢書を四古史書と称えられるのでしょう。

古代の歴史論は読者に選択を迫るものです。読者が選択したものがその時代をその社会を象徴します。本居宣長から古田氏まで、それが論争史です。だからあなたもいつか言われたように、古代史は優れて現代史なのじゃないでしょうか。

河西さんが、私に対して「あ~無茶苦茶だ、見ておられぬ」とお思いなら具体的にご教示ください。(島めぐり読法を認めろはご免ですけど//距離とは二点間(区間)の直線距離を言い、総距離とはその区間距離の和である、と規定していますから)

破門でないなら、まだたくさんある古代史のほかの論点で、またよろしくお願いします。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/27(水) 15:40:51

笑われるかも知れませんが私の思うところを少し書きます。

現代が変革の時期であることは誰もが認めますね。世界では15世紀的国家が崩壊する過程にあります。経済・文化・政治そして戦争すべてがその方向を向いています。国内では戦後の五十五体制はとっくに崩壊、憲法改正さえ論議されます。日本の国家体制強化は世界の流れへの反発・抵抗の動きでしょう。

変革は当然過去を破壊しながらその上に築かれます。7・8世紀に大和王朝が最終的に列島の支配権を持つのも、先行する九州王朝があったればこそ、明治維新がうまくいったのも徳川三百年の実績があればこそです。ですがそれの破壊の上にしか築かれないのです。

戻りますが、古代史ひとりがこの大きな流れの中で超然の存在とはなれません。戦後史学を分けた古田史学も無傷で存続はできますまい。津田史学の上にそれを否定して古田史学が成立しても、津田史学なくしては古田史学もなかったのです。

古田史学の最大の難点は九州王朝と大和王朝の整合性がないことです。両存在を指摘しただけです。(このことが古田史学の功績をいささかも損ないません)ですから、古田史学の破壊と古田史学の上に成り立つ新しい古代史(矛盾していません)を歴史的に要求されています。それが古田史学を学んだ者の使命であり恩返しです。他の誰にやらせましょうや。

それが私の肥後説です。河西さんなら解るでしょう、記紀に言う「熊襲」そのもじゃないですか。ここに九州王朝(最近は古田氏も九州王国といっているのですか?)と大和王朝との接点・突破口が開けるのです。

大分前になりますが、私が大和一元史観に落ちそうになったとき、『いいんですか、過去に天皇家が圧倒的な支配力のもとに置かれたことを否定しても。』と言ってくれたのが河西さんあなたです。

今度は私がいいました。『島巡り読法には合理性がない』と。

私はあなたがどんな古代史学社会の立場におられるのか全然知りませんし知りたくもありません。ですから純粋に情熱だけで論じてきました。だから私ほど全く自由でなかったら、悪いことしたことになり、心からお詫びしなければなりません。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/27(水) 16:43:48

横レス失礼。

私ほど全く自由でなかったら

Kawaさんはあなたが自分で思っているほど「自由に考えていない」ことを指摘してるんですがねえ。Kawaさん自身は極めて「自由な立場」と思いますよ。
ここにレスしていいのか判りませんが、宮津さんが以前に書かれたことで引っかかっていることを書きますと・・・
「古田説を否定する事によって自動的に自説が証明される」との趣旨の書き込みをされたと記憶していますが、
その事自体が大きな間違いであるのを宮津さんはどうしても理解されないようですね。
仮に古田説を明確に否定する事ができても単に「古田説が否定された」というだけであって、
それとは別に全ての論者は持論を証明する必要があることは変わりません。
Kawaさんが指摘している通り、宮津さんは思うところをきちんと証明できていないので(むしろ不可能)
「説」にならないのです。
繰り返しになりますが、自説の論証に古田説の攻撃は不要なのですよ。自「説」がきちんと合理化されたときに
初めて他説との優劣が問題になるのです。
私は物理ファンですが、説明抜きで典型的な例を上げると、
「地動説」と「天動説」、「エーテル仮説」と「特殊相対性理論」などですかね。
天動説などはコペルニクスが提唱してからニュートンが証明するまで100年もかかっています。それまではどちらが合理的か判断しかねるような状態だったのです。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/27(水) 17:12:29

すみません、訂正します。
天動説などは

地動説は
ついでに少し解説すると「天動説」も「エーテル仮説」もそれなりに精密な計算が可能な理論でした。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/27(水) 17:50:01

> 「古田説を否定する事によって自動的に自説が証明される」との趣旨の書き込みをされたと記憶していますが、その事自体が大きな間違いであるのを宮津さんはどうしても理解されないようですね。

これには河西さんとのやり取りが今年の一月頃にありまして、そのときに古田説がある以上これへの有効な反論がないかぎりどの説も成立し得ないとの指摘があったのです。

実際問題として、古田氏以前の論はすべて古田氏によって論破され成立し得ないのです。だから古田氏の論(里程論だけに限りますよ)を反論できでばいいのです。

> Kawaさんが指摘している通り、宮津さんは思うところをきちんと証明できていないので(むしろ不可能) 「説」にならないのです。

具体的な指摘なら説明のしようもありますが・・
果たしてどちらが地動説なのかを問います。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/28(木) 00:55:34

残念です。

>これには河西さんとのやり取りが今年の一月頃にありまして、そのときに古田説がある以上これへの有効な反論がないかぎりどの説も成立し得ないとの指摘があったのです。

まったく、ご理解いただいていないようです。
私が言っているのは、(少し今の議論の為だけに譲って見ましょう)仮に、古田説が成立できなかったとして、宮津さんの仰っている説は、到底、成立できない、と言っているのです。
もっとハッキリ言えば、

>実際問題として、古田氏以前の論はすべて古田氏によって論破され成立し得ないのです。

宮津さんの説が「論破」されていないのは、時期的に、古田氏より後に言ったから、というだけで、それ以前の説に対して、何等、優位な説ではない、と言っているのです。
私は別に「古田説を否定したら必ず説として成立できる」と言った覚えはありません。
「他の説を否定していないような説は、「正しい」説の資格はない」と言った覚えはありますけどね。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/28(木) 09:16:22

「他の説を否定していないような説は、「正しい」説の資格はない」と言った覚えはありますけどね。

誤解が生じないうちに補足しますと、他説を直接否定する事は必須ではないですよね。自説が圧倒的に合理的ならばそんな手間は不要です。
ニュートンやアインシュタインは天動説やエーテルの不合理性について触れずに理論を構築しています。
もちろん今我々が議論している「問題」についてそんなにすっきりと立論できるかどうかは別問題ですが。

Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/28(木) 23:43:56

ふむ。

天動説にせよ、エーテルにせよ、それまでの論者が「論破」しようにも、到底、できないと思わせるような、それだけの説得力を持った説だった。
今でさえ、天動説もエーテルも、いつでも「復活」の日を待っている、と言ってもいいのかもしれません。

それはさておき、私が強調したいのは、「姿勢」の問題です。
「邪馬台国」については、各々独自の説を独自に掲げ、収拾のつかない状態です。(特に、「アマチュア」)
そのことを一顧だにせず、「自らの読み」を掲げて、それでよしとする、「安易な姿勢」を、私は批判しているつもりです。
私はそういう論者に向けて、「他説を見よ」と言っているのであり、宮津さんにもそれを申し上げたのです。

ニュートンにせよ、アインシュタインにせよ、「誰もが確認できる」手法に従って、「全く新しい解釈」を生み出したことに意味があるのであって、つまり、やはり「方法」が問題なのだと思います。

私は、今、「方法」を問題にしています。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:だぶる 投稿日:2004/10/29(金) 09:17:54

私自身はKawaさんのおっしゃる事を全面的に支持している(と言うより持論)ことを表明した上で・・・

「自らの読み」を掲げて、それでよしとする、「安易な姿勢」を、私は批判しているつもりです。

私は、今、「方法」を問題にしています。

Kawaさんはご存知と思いますが、故 竹内均 東大名誉教授 は古田説を支持していました。ところが、物理学者でSF作家の某氏は邪馬台国畿内説を自ら発表しています。
何が言いたいかというと、自然科学者といえども「トンデモ」論理に陥る可能性が低くなく、ましてや「アマチュア」が「安易な姿勢」になりがちなのは止むを得ないのでは、と思います。

いつまでも割り込んでいては申し訳ないのでこの辺にしておきます。
Re: 道のりと直線距離

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/29(金) 22:51:26

>ましてや「アマチュア」が「安易な姿勢」になりがちなのは止むを得ないのでは、と思います。

事情は、分かります。

「おらぁ、そんなことでは強くなれないぞ!」
とビシビシしごく、キャプテンと、
「俺はただ、楽しくやりたかったんだ。こんなのはついていけない」
と離れていく部員…。
「…強くなれば、もっと楽しいのに…」

ある漫画の一節ですが、そんなシーンを思い出しました。

でも、実際、「方法」を議論することは、とても大事なことだと思っています。
現実的には、私は、「部活動」に熱心に打ち込んだ青春を送ったような者では、まったくありません(むしろ「帰宅部」)で、「離れていく部員」の気持ちはよぅく分かります。

それでも私は、「注意を喚起」せずには、いられません。

>自然科学者といえども「トンデモ」論理に陥る可能性が低くなく、

私に言わせれば、自然科学者であろうと、歴史学者であろうと、アマチュアであろうと、同列に扱っています。
だから、「アマチュア」と言えども、そういった「姿勢」の問題を指摘せずにはいられないのだろうと思います。

超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:清水一郎 投稿日:2004/10/29(金) 12:27:42

初めまして、いつもこの掲示板で皆さんの楽しい議論を見ているアマチュアです。私自身も以前は皇国史観によった漠然とした歴史観しか持ち合わせていなかったのですが、3年ほど前から日本古代史に興味を持ち始め、そして古田史学の存在を知ってこのサイトに辿り着きました。元々歴史には関心があり好きな分野の一つだったのですが「魏志倭人伝」を解読できるような漢文読解の能力も無く、
ただ々日本人として自国の本当の歴史が知りたいと思っている超初心者のアマチュア古代史ファンです。

そんな私が今回の討論を客観的に見ていて感じた感想を申し上げたいと思います。
まず宮津さんの「里程論」は、自説を自ら説得させようとした独り善がりな発想だと言わざるを得ません。
Kawaさんが言っておられるように、魏志倭人伝に書かれている「道則」を「邪馬壱国までの距離」と勘違いされているようです。

例えば自動車で旅行をする時などは、一日の走行距離によって行程を考えます。この場合都市間の移動は直線距離では無く、実際の走行距離から時間を考えて、各地での観光に当てられる時間を割り出しますよね。実際に私が北海道を1週間で旅行した時、走行速度を60km/hで想定し一日の行程を計画したのですが、実際に走ってみると毎日宿泊予定地に早く到着してしまい、時間が余ってしまった事がありました。これは想定していた走行速度60km/hよりも車のスピードが出てしまうのと、北海道には都市部を除いて信号機が極端に少ない事が原因でした。
(北海道では皆80~100km/h位でビュンビュン飛ばしている)

また関東近辺を一般道で走る時などは40km/hで走行速度を想定して計画します。この事は目的地に行こうと考えたとき、その行程計画する時は直線距離ではなく、実際の走行距離じゃないと全く意味が無いと言う事です。すなわち「道則」と言う事になります。
「魏志倭人伝」は陳壽が読者に対して距離を説明しているのでは無く、その道則を説明していると常識的に考えれば理解できます。

Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:清水一郎 投稿日:2004/10/29(金) 12:36:03

>倭人伝は倭国道中記ではなく、漢書を手本としたレッキとした地理誌です。

宮津さんの里程論は、「魏志倭人伝を地理誌と思い込んでしまった」事が原因による混乱だと私は理解します。
当時正確な測量技術も無く、当全の事ながら正確な地図も無かった時代に、直線距離は全く意味が無い事に気が付いて無いのでしょう。
(直線的に動ける飛行機でもあったのなら別ですが)
ただ皆さんの宮津さんへの批判が、宮津さんの説(説として認めるかどうかは別ですが)への批判になってしまい、
この単純な事柄にも思考回路が停止してしまったのでしょう。

宮津さんを擁護するつもりで書きますが、やはり掲示板での議論には多少無理があるように思えます。
口頭での議論の場合、相手の表情が判るしジェスチャーを織り交ぜながらの議論になるので言葉のニュアンスも伝わりますが、
文面だけではそれも難しい所がありますよね。また宮津さんはKawaさんを師と仰いでおられるようですが、
年齢もKawaさんよりかなり年上で、その当りのプライドも関係しているように思えます。
Kawaさんも御若いのにしっかりした文章を書かれますし、相当頭脳明晰でおられるようです。
ただ師と仰ぐ宮津さんに対しては、いささか手厳しい批判をされていて、この当りは若さゆえなのかな?と思ったりしていました。
(確かに年齢や上下関係の無い所で議論が出来るのもネットのいい所ですが)
ここのサイトを見ていて益々Kawaさんの仕事が気になりましたので、いったいどんな仕事をされているのか教えて頂けないでしょうか?
初めて書き込みする新参者の質問で申し訳有りませんが宜しく御願いします。
ところで日本シリーズは残念でしたね。ちなみに私も中日ファンです。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/29(金) 13:35:30

「私の里程論」はどんどん変化しています。最近のHPでの批判をお願いしたいと思います。

> 宮津さんの里程論は、「魏志倭人伝を地理誌と思い込んでしまった」事が原因による混乱だと私は理解します。

逆ですね、倭人伝を解析すればこれはキチッとした地理(地図)で書いてあると結論したのです。ここに至るヒントは、河西さんが私の韓半島水行説では七千餘里の距離が説明できないという指摘を頂いたことです。直線距離でなければ説明できないのです。

自動車旅行の例を上げておられましたが、そのような計画が立てられるのは道なり距離表示だからではなく、それ以前に正確な地図があるからです。道なり距離表示は正確な地図(現代なら衛星やGPSや三角測量で測量した地図)の応用です。東西南北・直線距離(地図に記入するかどうかは別/経度線緯度線の役目を考えてください)が確認されて道が書き込まれます。逆じゃありませんね。

> 当時正確な測量技術も無く、当全の事ながら正確な地図も無かった時代に、直線距離は全く意味が無い事に気が付いて無いのでしょう。

これは実は私も漠然と同じように考えていました。ですが事実は違います。小文にも書きましたが、

>> また幾何学も発達し予想以上に測量技術は確立していたと思われる。そうでなければ広大な中国大陸、東の粛慎氏国から西の西域諸国までどうして把握できようか。

迷子にならずに目的地に着くためには、正確な地図(言語表現も含む)が必要です。道なりは道が変わったり別の道だったらアウトです。ご自分で史料を確認されるとよいでしょう。

私は変わらず河西さんを尊敬していますし、今回は不幸にも結論が異なりました(頭がふたつだから仕方ないでしょう)が、これが初めてじゃありません。全く同じじゃ論議する意味がありませんしね。(そうだそうだで終り)異なる意見を持ち寄って論争の中からなにが正しいかを探るのが掲示板の長所ですからね。論争が激しいので(派手だったなぁハハハ)心配頂きありがとうございます。なにまた掃いて捨てるほどある古代史の論点でガンガンやりますよ。(破門にされてないならネ)
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/29(金) 13:52:14

またひとつ忘れました。

> 年齢もKawaさんよりかなり年上で、その当りのプライドも関係しているように思えます。

河西さんは二十代後半、私は六十代半ばです。いくら私の方が長生きでも、卑彌呼の時代には生きていませんネ。(冗談) 史実の探求に年齢は関係ありません。そのことは河西さんはよく承知しておられます。私は40年かかっても河西さんに教えられるばかりです。だから師なんですよ。

Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:清水一郎 投稿日:2004/10/29(金) 19:05:59

すみません。宮津さんのHPを最近は見てませんでした。
ただ
>自動車旅行の例を上げておられましたが、そのような計画が立てられるのは道なり距離表示だからではなく、それ以前に正確な地図があるからです。

その通りです。移動距離が判るから時間が判ります。
だから「半周読方」に矛盾は無いと思っていました。

出しゃばったようですみませんでした。

Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/29(金) 20:05:38

清水一郎さま

とんでもありません、貴重なご意見をいただきました。私もひとりの「超初心者のアマチュア古代史ファン」です。気軽に声をかけてください。

> いささか手厳しい批判をされていて、この当りは若さゆえなのかな?と思ったりしていました。

いえそれも当然なのです。私が彼の持論を否定すると言うヒドイことをしているのですから。そうですね、彼が自分の発言に思い至った時彼も中年になったことを覚るでしょう。私も若いときは同じでしたから。

河西さんは、「倭と日本」「初国知らしし考」「古事記の成立」など多くの論文を発表されていますね。いずれも古田史学を超える新鮮な発想の素晴らしいものです。私如きの「論?」をふっとばす里程論を発表されると期待しています。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/29(金) 22:32:12

はじめまして、清水さん。

>ただ師と仰ぐ宮津さんに対しては、いささか手厳しい批判をされていて、この当りは若さゆえなのかな?と思ったりしていました。

そのとおりかもしれませんね。
ただ、宮津さんは、

>論争が激しいので(派手だったなぁハハハ)心配頂きありがとうございます。なにまた掃いて捨てるほどある古代史の論点でガンガンやりますよ。(破門にされてないならネ)

というような方であることもあり、私は、安心して批判を述べています。(そして、同時に、常に、不特定多数の論者への批判でもあります)
まぁ、言い方を変えれば、そのような宮津さんの懐に甘えて好きにさせてもらっている、と言ってもいいのかもしれません。
それでも私、本人としては、「戦う」のはリングの上だけ、というつもりではいます。

職業ですが、うーん、どうしようかな。
あまり、言うつもりは無いのですが、「ソフトウェアエンジニア」とくくれるのかな。
そういう仕事をしています。
ちなみに、仕事上の「会議」でも、「お前らはけんかしているのか」と言われるような議論をしていたりします。

>日本シリーズ

残念でしたね。
名古屋に戻ってきた時はイケると思ったんですけど。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:清水一郎 投稿日:2004/10/30(土) 04:55:12

kawaさん、宮津さん、ご返事を頂きありがとうございます。
何か御二人が、そのまま決裂しそうな勢いだったものですから心配致しました。(笑)
今後もまた御二人の激しいバトルのような議論を期待しています。

kawaさんの仕事は、趣味とは掛離れていたんですね。正直言って驚きました。
てっきり大学の教授でもしておられるのかな?と思っておりましたもので・・・
ちなみに私は建設関係なのですが、古代史に急激に惹かれたきっかけは出雲大社の神柱が発掘されてからです。

御二人様とも、今後とも宜しく御願い致します。

Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/30(土) 10:36:07

清水さん、
よろしくお願いします。

宮津さん、

>いえそれも当然なのです。私が彼の持論を否定すると言うヒドイことをしているのですから。そうですね、彼が自分の発言に思い至った時彼も中年になったことを覚るでしょう。私も若いときは同じでしたから。

見過ごすわけにいきませんので、述べさせていただきます。
私は、そういう次元で反論しているのではありません。
宮津さんが一度として「自説を離れてみる」ことをしていないから、そのように聞こえるのです。
私は、「たとえ、宮津さんの古田説批判が正しかったとしても、宮津説は成立できない」と言っているのです。
私は二つの論点で議論しています。
一つは宮津さんの古田説批判が成立するか否か、
もう一つは宮津さんの読解が成立するか否か。
宮津さんの古田説批判は、結局、「半周読法」が「単に宮津さんのお気に召さない」だけであることがハッキリし、別段の根拠があるわけではないことが分かりました。
宮津さんの読解は、たとえ古田説批判が正しいとしても、読解そのものに何の根拠も無く、到底成立できない、と言っています。
すでにこの論点においては、「私の説」は無関係です。

>本当の意味で、批判的に他説も自説もじっくり検討していないから、「批判」と「罵詈雑言」を区別できない。
>他者から自説に対する指摘を受ければ、それを「中傷」としか受け取れず、自らが他説を批判しようとすれば、「中傷」しかできない。
>それに、対立する説に対して、「私を信じなさい」「あなたは真実を知らない」以上のことを言うことが出来ない。

まさに、今の宮津さんは、この状態です。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/30(土) 13:35:28

> 私は、そういう次元で反論しているのではありません。宮津さんが一度として「自説を離れてみる」ことをしていないから、そのように聞こえるのです。

古代史にかける情熱で言っておられると信じています。

河西さん、論議は膠着状態になっています。同じ事の繰り返しです。また仮に「>まさに、今の宮津さんは、この状態です。」とみえるとしても、少し時間を置きましょう。そのうちに論理が成り立たない部分、論拠に欠ける部分など具体的な指摘・反論も頂けるでしょうから。そうすればまた議論も噛み合いましょう。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:宮津徳也 投稿日:2004/10/30(土) 15:28:28

門外貫一さんから河西さんへの伝言です。

> 掲示板にて、私の問いかけに対して、河西さんが、長文の説明をして下さったのですが、時機を逸して返信できませんでした。よろしくお伝えください。これから忙しくなるので、書き込みは、できません。お二人の議論楽しく読ませてもらうだけになります。

とのことです。
Re: 超初心者のアマチュア古代史ファン

投稿者:Kawa 投稿日:2004/10/31(日) 16:48:13

>門外貫一さん

また、いつでも、ご意見ください。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。