歴史・人名

まとめ(Historical)

在位年代推定の方法(Historical)

5.まとめ

さて、ここまでで、神武の没年が177年ごろであろうことを推定した。もちろん、これは、おおよその推定であり、実際は、個々の「没年齢」「年齢差」について詳しく検証する必要がある。

今後、より詳細かつ精密な推定を行いたいと思う。

最後に、いくつかの点について確認しておこう。
1.神武の実在性

神武については、津田左右吉以来、架空の人物であると考えられてきた。その根拠は以下のようである。

(1)神武の出発点が「日向」であることの不審

津田は、天皇家の祖が、ほかならぬ熊襲の地であることに不審を抱いた。そこから、天皇を日の神の子孫であるとした以上、その故郷は天であり、地上においては、「日に向かう国」=日向でなくてはならない為に、日向を出発して大和に至る為の説話が必要になった、と考え、神武東征説話を神代物語(津田は「神代」を全て架空としている)の構想の一環として造られた説話であると考えたのである。(岩波古典文学大系本『日本書紀』補注3-四、等参照)。

(2)神武にまつわる人物の神話性の問題

さらに、神武の父・うがやふきあへずが、海神の娘から生まれたこと、神武の母も同じく海神の娘であるとされることなどから、このような神話的登場人物に囲まれた神武が実在の人物ではない、とした。

一方、古田武彦は、以下の点を挙げ、神武の実在を説いている。

(1)淡路島以西不戦

神武東征説話に因れば、淡路島以西の地域(宇佐・筑紫・安芸・吉備)では、一度の戦闘も行われず、淡路島を過ぎてはじめて戦闘が開始される。これは、弥生時代の銅鐸・銅矛の分布圏と銅鐸の分布圏と符合する。これは、六~八世紀の天皇家史官の造作できることではない。

(2)日下の地勢

神武達は、長髄彦と戦った際、船で日下の地に至っている。だが、日下は現在(六~八世紀も)内陸にある。船で辿りつける場所ではない。ところが、弥生時代の地勢図に因れば、この辺りは、「河内湾」(のちに河内湖)であって、日下はその海岸に当たる。従って、神武東征説話は、弥生の地勢図とよく符合するのである。これも、六~八世紀の史官の造作の及ぶところではない。

思うに、津田の挙げた問題も、神武架空の証拠とはならない。なぜなら、順番が逆だからである。

1)天皇家は「日に向かう地」「日の神信仰の中心地」から、やってきた(と言い伝えられている)。
2)だから、天皇家は日の神の子孫なのだ。

これが、記紀の語る論理性である上、「伝承」の生じ方・発展の仕方としても、普通ではないか。また、「日向」の地が熊襲の地であることについても、「不審」を覚えるのは、「天皇は神聖不可侵」の皇国思想の現れに過ぎない。さらに、神武の周りを、神話的な人物が囲んでいることも、私にはそれほど不審を感じない。チンギス=ハンなども、同様に、神話的な人物を祖先に持っている。源義経が天狗に育てられたという逸話や、鵺を退治したという源頼政などの「実在の人物」は数え上げればきりが無い。彼等に共通するのは、彼等自身は人並みはずれた能力の持ち主であっても、決して超能力者ではない、という点だ。神武もその例に漏れないのである。

さて、以上の点を踏まえると、推定の結果、得られた、神武没年=177年という数値は、ちょうど弥生時代に当たっており、古田の行った論証を支持している。
2.欠史八代について。

綏靖から開化に至る、いわゆる「欠史八代」について、現在では架空の人物であるとする説が一般的である。その理由の第一は神武の架空にある、と言っていい。従って、神武の実在の可能性が考えられる今、「欠史八代」だけは架空、などということはない。「十代続けて親子での継承」を不審に思う論者もあるが(安本美典等)、これは当たらない。確かに、「王」やそれに準じた地位を十代続けて親子で継承する可能性は、かなり低いと言える。だが、ここで疑われるべきは、八代の「実在性」ではない。真に問われるべきなのは、「八代の地位」である。本当は「王」ではなかったのではないか、この問いである。安本の挙げた「世界の諸王の在位年数平均」が、古代天皇家において妥当でないのは、このためなのである。
3.天照大神卑弥呼説について。

最後に、安本美典の根本の説について、私の行った推定の方法から、検証してみよう。安本は天照大神卑弥呼と同時代であるとした。しかし、そうであるためには、敏達~天照大神までの「先代との年齢差」の合計が、(585-220=365年)くらいでないとならない。

   親子…忍穂耳、瓊瓊杵、山幸、ウガヤフキアヘズ、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、応神、仁徳、履中、安康、清寧、武烈、安閑、敏達…計2425人
   兄弟…反正、允恭、雄略、仁賢、宣化、欽明…計6人
   その他…仲哀(甥)、顕宗(従兄弟の子供同士)、継体(ほとんど血縁無し)

ここで、兄弟その他の年齢差を0歳にしても、親子である2425人の年齢差は

365÷24=15.2歳365÷25=14.6歳

でなくてはならないのである。実際には、兄弟の年齢差も考えねばならないから、いかに無理のある推定値であるかが明らかになるだろう。そこで、「架空説」か「系図造作説」へ走らねばならなくなるのである。(安本は、八代の系図が実は兄弟なのでは、とも説いている)

以上、在位年代の推定方法を紹介した。しかしながら、個々の天皇の在位年代は、各の史料から割り出すことが最も大事である。この方法は、その「験算」として用いるべきであることを、最後に記しておきたい。