歴史・人名

欽明紀と任那日本府(Historical)

倭国と日本(Historical)

3.欽明紀と任那日本府

では、『日本書紀』を見てみよう。問題となるのは、『日本書紀』における、「百済本記」である。まず、全ての引文を挙げよう。

   1、久羅麻致支弥、日本従り来る。<継体紀三年条所引>
   2、委意斯移麻岐弥。<継体紀七年条所引>
   3、物部至至連。<継体紀九年条所引>
   4、太歳辛亥三月、軍進みて安羅に至り、乞[宅-宀]城を営る。是月、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず。<継体紀二十五年条所引>
   5、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等。<欽明紀二年条所引>
   6、津守連己麻奴跪。<欽明紀五年条所引>
   7、河内直・移那斯・麻都。<欽明紀五年条所引>
   8、汝の先、那干陀甲背・加蝋直岐甲背。亦云う、那奇陀甲背・鷹奇岐弥、と。<欽明紀五年条所引>
   9、為哥岐弥。名は有非岐。<欽明紀五年条所引>
   10、烏胡破臣を召さしむ。<欽明紀五年条所引>
   11、安羅を以て父と為す。日本府を以て本と為す。<欽明紀五年条所引>
   12、我、留まること、印支弥の後。既洒臣の時に至る。<欽明紀五年条所引>
   13、冬十月、奈率得文、奈率奇麻等、日本より還りて曰く「奏す所の河内直・移那斯・麻都等の事、報勅無し」と。<欽明紀五年条所引>
   14、十二月甲午、高麗国、細群と麁群と、宮門に戦う。鼓を伐ち戦闘す。細群敗れ兵を解かざること、三日。尽く細群の子孫を捕え誅す。<欽明紀六年条所引>
   15、高麗、正月丙午を以て、中夫人の子を立て王と為す。年八歳。狛王三夫人有り。正夫人、子無し。中夫人世子を生む。其の舅氏、麁群なり。小夫人、子を生む。其の舅氏、細群なり。狛王疾篤に及び、細群・麁群、各其の夫人の子を立てんと欲す。故、細群の死者、二千余人なり。<欽明紀七年条>
   16、三月十二日辛酉、日本の使人阿比多、三舟を率ゐ来り、都下に至る。<欽明紀十一年条所引>
   17、四月一日庚辰、日本の阿比多、還るなり。<欽明紀十一年条所引>
   18、筑紫君児、火中君の弟。<欽明紀十七年条>

一見して明らかなように、その多くは「本文の何某と言う人物は、百済本記にはこう書かれている」という、注釈だ。したがって、これらの限られた情報から、「百済本記」の「日本」がいずれを指すのかは、決しがたい。

これが、率直なところだ。

ただ、『書紀』特に欽明紀は「百済本記」やその他の史料を下敷きにしている。よって、『書紀』本文を分析することで、「百済本記」の記述を推察することは可能であろう。

まず、欽明紀において、もっとも印象的な人物。それは、紛れも無く「百済の聖明王」である。特に欽明紀前半は聖明王を中心に語られていると言ってよい。天皇の事跡を語ることが『書紀』の役目であるにもかかわらず、欽明自身よりもはるかに聖明王の「活躍」の度合いが高い。景行紀における、日本武尊の活躍や、推古紀における聖徳太子の活躍に匹敵すると言っていいのではないか。ただ、彼等は皇子である。即位することの無かった「皇太子」だ。その時代の天皇に匹敵する活躍の場が与えられたとしても、一応、理解はできる。他国の王がこれほど活躍すると言うのは、やはり、奇妙なものを覚える。同時に、もっぱら朝鮮半島を舞台とし、日本列島側の地名が皆無である。たとえば、「難波津」「那津」といった日本側の港がもう少し登場してもよさそうなものだ。事実、継体紀にはどちらも現れているし、敏達紀以降には「難波」の登場回数が非常に多いことを考えると、不自然だ。欽明朝ともなると、すでに飛鳥時代の大物がいる(蘇我稲目、物部尾輿、大伴金村など)。なのに、彼らが登場するのは、「崇仏論争」くらいだ。とくに欽明紀前半部分の任那日本府関連記事の中には、1度も登場しない。後半の新羅との戦闘記事に大伴紗手彦(金村の子)が大将軍として登場する程度である。もっと「活躍」できるはずだ。(継体紀の任那記事(四県割譲事件など)では、継体朝の大物、物部麁鹿火・大伴金村のほかに、勾大兄皇子(安閑天皇)も活躍している)そもそも、欽明天皇の皇子女といえば、蒼々たる面子だ。敏達・用明・崇峻・推古天皇、穴穂部皇子などである。つまり、あまりに、百済中心に偏りすぎているという点は否めないのである。ところが、聖明王は何をするにも、「天皇の詔勅」に耳を傾け、これを根拠としている。「詔勅」とか「朝貢」とかの語は、『書紀』特有の言いまわしであろうが、それを差し引いても、聖明王の一種卑屈な態度は、やはり奇妙である。少なくとも、直前の「倭王武」と「百済王余隆」は、梁書においては、ほぼ対等だ(武は「征東大将軍」、隆は「寧東大将軍」)。したがって、欽明紀の記述は、「百済の百済による」記述だとは言えないだろう。「日本列島側の視点で書かれた可能性」が充分に存在するのである。

さて、欽明紀を通読してみると、以下の事実に気づく。それは、「天皇と任那日本府のやり取りが存在しない」と言うことだ。そこで、欽明紀における「会話」の主体・客体を数えてみた。登場人物の関係を知る上で、「会話」の頻度を重視する為である。欽明紀全体としても、「会話」(詔勅・伝令のやり取りや会談など)が重要な位置を占めている。友好的関係においても、対立関係においても、外交上の基本だからだ。

具体的には、「曰」の主語と、その対象を数えたのが、以下の表だ。縦が主体、横が客体である。

  天皇 聖明王 日本府 日本府執事 任那執事 任那旱岐 余昌 大伴金村 蘇我稲目 中臣鎌子 物部尾輿 安羅 加羅 百済王子恵 新羅 河内直 日本使 任那 百済群臣 天皇群臣 その他
112 27 28 6 0 2 5 3 1 2 1 1 1 1 3 2 1 1 1 6 4 16
天皇 24 - 12           1 1 1 1 1 1             4 2
聖明王 31 9 - 6   2 5                   1 1 1 4   2
日本府 3   3 -                                    
日本府執事 2   2   -                                  
任那執事 2   2     -                                
任那旱岐 4   4       -                              
余昌 5 1           -                       2   2
大伴金村 1 1             -                          
蘇我稲目 3 1               -         2              
中臣鎌子 2 2                 -                      
物部尾輿 3 3                   -                    
安羅 1 1                     -                  
加羅 1 1                       -                
百済王子恵 1                 1         -              
新羅 5 1                           -           4
河内直 0                               -          
日本使 0                                 -        
任那 0                                   -      
百済群臣 4   3         1                       -    
天皇群臣 0                                       -  
その他 20 7 2         2             1 2           6

以上によって、確かめられることは、

1.聖明王が天皇とほぼ主・客ともに同数である。これは、先の「印象」を裏付ける結果だ。
2.聖明王と日本府や任那(諸王)との関係は存在するが、やはり、日本府や任那(諸王)と天皇の関係は存在していない。

この二点である。

さらに、具体例を挙げよう。

   十一月、百済、使いを遣わし、日本府の臣・任那の執事を召びて曰く「天皇に遣朝せる、奈率得文・許勢奈率奇麻。物部奈率奇非等、日本より還る。今、日本府の臣及び任那国の執事、来りて勅を聴き、同じく任那を議れ」と。日本の吉備臣・・・(略)、仍りて百済に赴く。是に、百済王聖明、略、詔書を以て示して曰く「・・・」と。<欽明紀、五年十一月>

このように、百済王が任那日本府の吉備臣らに、「天皇」の詔書を伝えている。これは、異常だ、といったら、言い過ぎだろうか。あたかも、「日本府側は、天皇と直接繋がっていない」ことを象徴しているかのようである。

なお、慎重に論ずれば、

   日本府(聖明王に)答えて曰く「任那の執事、召ぶに赴かざるは、是吾が遣わさざるに由りて、往くこと得ざるなり。吾、天皇に奏しに遣わすに、還使、宣りて曰く「・・・」と。」<欽明紀、五年二月>

とあって、「天皇」と「日本府」のやり取りがあったことをうかがわせるものもある。ただ、この部分は、百済側と任那日本府の言い分が大きく食い違う部分でもあり(百済側は「天皇」の詔勅に添う形で、任那日本府や任那諸王を召喚しようとしたが、任那日本府側は百済の召喚に応じなかったのは「天皇」の詔勅によるものだという)、注意が必要である。

天皇」は直接百済王への「詔勅」は発布するが、任那日本府に対しては、直接はなんら詔勅を下すことがない。或は極端に少ない、と言えるのである。また、「天皇」の詔勅の内容はやはり、「百済は任那・日本府と協力して、任那を再興せよ」というものであって、百済側の立場に一致すると見える。一方の任那日本府側(河内直など)は新羅と通じることを望んでいるようだ。両者は、立場も異なり、直接の関係もない。あらゆる先入観を除いて考えれば、「少なくとも「天皇」と日本府には上下関係がない」と考えざるを得ないのではないか。また、「天皇」が任那日本府の人事に口を出そうとしていないのも、これを裏付ける。

   (天皇、百済王に)宣して曰く「・・・汝若し早に任那を建てば、河内直等は、自ずから止退くべし。豈云うに足らんや。」と。<欽明紀、二年十一月>

この天皇の言は、「河内直」の主人としての言とは、とても思えないのである。

では、なぜ、任那日本府は、これほどの強い力を手にしたのであろうか。当然ながら、彼等の地位はあくまで「官僚」だ。したがって、彼等には主人となる「王」がいたと考えるのが自然だ。「天皇」の下の官僚ではない。それは、ここまでで明らかとなった。他の誰かである。

整理しよう。

   「天皇」・・・百済と親交が深い。古くから通好を続けていたようだ。また、任那諸国とも古くからの親交があった。
   「任那日本府」・・・新羅と通じている。現在、任那諸国を統率しているらしいふしがある。また、歴史としては、「(書紀で言う所の)雄略」(5世紀後半)以降のように見うけられる。

私は、「天皇」が九州王朝であることは疑えない。なぜなら、高句麗好太王の時代(4世紀末から5世紀前半)から既に、百済と倭(九州王朝)とは、親密な同盟関係にあったことが確実だからである。また、これより先、たとえば、卑弥呼の頃に、朝鮮半島側と交流していたのが九州王朝であることも、疑いなきところ。ならば、当然、より対朝鮮交渉の歴史の古い「天皇」が九州王朝にふさわしいことになろう。言いかえれば、欽明紀において「天皇」と記されているのが、実は「倭王」である、ということだ。こういった例は『書紀』には数多く見出せる。例えば景行紀。ここでは、「九州遠征」のほとんどが、実は九州王朝の発展史であったこと、古田武彦の明らかにしたとおりだ。また、神功紀。ここには、『魏志』が引用されているが、その「倭王」が神功皇后ではなく卑弥呼であること、疑いない。そして、この欽明紀も。こう考えてくると、欽明紀の原史料は、他でもない九州王朝の史書ではないか、と思われるのであるが、それはまた別述しよう。

今は、

天皇」=九州王朝

という構図を確認し得たことで、充分なのである。

さて、もう一方の「任那日本府」。これが近畿の「天皇家」を指すのであろう。勿論、吉備や出雲や越などである可能性を否定しきったわけではないが、今の所は、「天皇家」と考えて問題はないだろう。とすれば、この「日本」が、どこを指すのかは、すでに明らかであろう。「任那日本府」という語の構成は「任那にあった日本の軍事施設(府)」と考えるのが一番自然だ。従って、

「日本」=天皇

という構図が見えてくるのである。

これは、書紀本文の話だ。だが、

   安羅を以て父と為す。日本府を以て本と為す。<百済本記、欽明紀五年条所引>

とあるように、「百済本記」にもその名が見える。書紀本文の「日本府」と百済本記の「日本府」が別個のものである可能性は極めて低い。従って、「百済本記」の示す構図も、

倭国」=九州王朝
「日本」=天皇

である。(百済本記の「日本天皇」問題については、後で再び論じる)