歴史・人名

明朝

最後の漢民族王朝・明の建国

○今回の年表
1449年 土木の変。モンゴルのオイラート部が侵入し、迎撃にでた英宗が捕まる。
1368年 朱元璋、明を建国する。
1370年 ティムールが中央アジアにティムール帝国を建国。
1392年 李成桂が李氏朝鮮を建国。
1392年 (日本) 足利義満の主導で、南北朝の朝廷が合一。
1402年 永楽帝が即位。
1405年 鄭和の南海大遠征が始まる。 ティムール、中国攻略を目指す途中で死去。
1407年 永楽帝、ヴェトナムの陳朝大越国を滅ぼす。モンゴルに向けて24年までに5回の遠征開始。
1413年 (トルコ) メフメト1世、オスマン帝国を再興。
1415年 (フランス) ジャンヌ・ダルク、オレルアンを解放。
1421年 永楽帝、北京に遷都。 24年に永楽帝死去。

○明王朝の成立
 さて、元の後に登場したのが、漢民族による王朝の「明」(1368~1644年)です。金も元も、この明も、国号を昔の国名(趙とか晉とか唐とか・・)からとっていません。そして、この後に続く清も同様。そして現在は中華人民共和国となっていますね。

 それはさておき、この明王朝を建国したのが朱元璋という人物です。貧しい農民の生まれで、前漢の劉邦と並び、農民から国を興した2人のうちの1人です。彼は、1347年に、郭子興の反乱軍に身を投じ、彼に気に入られて出世します。そして、郭子興が死去すると反乱軍の頭領となり、そして李善長、劉基という能力ある人を参謀に迎えます。

 李善長は朱元璋に「劉邦と同じようにしなさい」と進言します。そして劉基は張良と同じような働き、つまり参謀として活躍をします(後世、張良との比較をよくされる)。こうした人々の助けもあり、朱元璋は他の反乱軍を倒し、そしてその勢いで元を滅ぼすに致るのです。

 1368年、朱元璋は即位(位1368~98年)し、元号を「洪武」とします。それまで、元号はお目出度いときや災害が続いたときに変更されていましたが、朱元璋は一世一元の制を定めます。今の日本と同じで、皇帝1人の在位につき元号を1つだけにすることにしました。ゆえに、朱元璋は太祖という廟号と別に洪武帝とも呼ばれます。 また、これ以後の皇帝は清も含め元号+帝という形で呼ばれます。

 また、都を金陵におくのですが、中国統一王朝としては、それまでにないことです。金陵は中国南部、長江の南すなわち江南の都市です。建業とか建康などという名前で、呉や東晉など地方政権の都としてはよく使われていましたね。

 では、明の官制と政策を見ていきましょう。
 明の大きな特徴は、それまでの王朝で政治の最高機関だった中書省と、また丞相の地位を廃止し、さらに人事や刑法などを担当する六部(総称としての名前)を皇帝に直属させます。これは、よりいっそうの皇帝中心(親政)体制を固めるためです。また、元末に荒廃した農村の建て直しのため、村落行政組織を再編成し、里甲制が実施されます。これは、100戸で1里を構成し、さらに財力のある10戸を里長戸に、他の100戸を10甲にわけて、各甲に甲首戸をおいたものです。この里長戸の中から里長を、甲首戸の中から甲首をだして、10年任期で徴税や徭役の責任者にしました。また、租税や戸籍の台帳である賦役黄冊、土地の台帳魚鱗図冊を作成します。
 
 次に、民衆の教化という点からは、南宋の朱熹が始めた儒学の一派朱子学を官学とし、また民衆には6箇条からなる教訓(六諭)を定めます。

 それから、対外的にはまだ強大なモンゴルの残存勢力に備え一族の諸王を配置します。また、海禁策を行い、中国人が海外に出ることを許しませんでした。そして、貿易は朝貢貿易という従来の体制に戻します。フビライの海洋国家構想はもろくも崩れ去ったと言えましょう。ちなみに、日本からは室町幕府将軍足利義満の使者が来て、日本国王に任命する、という形で貿易を行わせました。義満は、天皇がいるのに日本国王になってしまったのです。

 ところで元来、朱元璋は猜疑心の強い人物でした。彼は貧しい下層の出身だったため、知識人を憎んでいたとも言われています。また、明に対する反抗がないように恐怖政治を行ったとも考えられます。ともあれ1380年、丞相兼中書省長官の胡惟庸(朱元璋の最も古い友人でもある)を謀反の罪で処刑すると、1万8000人を処刑(この時に丞相と中書省を廃止 この粛清を胡獄という)。

 さらに10年後には功臣の李善長を含む3万人を処刑し、さらに2年後には2万人が処刑されます。ああ恐ろしい・・・。ちなみに張良と比較される劉基は、大粛清が行われる前の1375年に死去していますが、胡惟庸によって毒殺されたとも言われています。彼は、朱元璋が丞相を選ぶために相談を受けた時、「胡惟庸は丞相の器ではない」と評価していました。ただし、だからといって自分がなろうとしたのではなく、あくまで正当に評価したものだったようです。ちなみに劉基は中国では大変有名な人物です。日本で知られていないだけ。

  朱元璋は、次々と旧友を殺してゆく中で自分の息子達を王として各地に配置します。ところがその王達の権力が強大だったことが問題でした。当然、中央政府の言うことを聞きづらくなります。そのため、朱元璋が死に、孫の建文帝が即位すると(位1398~1402年 なお、建文帝の父は既に死去)、叔父達の権力を削減することから始めました。ところが、これが彼の命取りになります。

○永楽帝の政治
 本人としても、本当は反乱する気はなかったみたいですが、建文帝によって追いつめられたようで。
 1399年、朱元璋の4男の燕王朱棣(しゅてい)が挙兵します。スローガンは「幼い天子が、奸臣(悪い家臣)によって惑わされ、我々を迫害しているから、この奸臣を除いて、明を立て直そう!」というもの。おきまりの台詞ですね。

 当初、動員兵数が少なく不利かと思われた燕王側でしたが、朱元璋は少しでも危険と思われる将軍を全て誅殺していたので、建文帝側には優秀な人材がいなく、一方、北方でモンゴルとよく戦っていた朱棣は実戦経験豊富なため、次第に建文帝を追いつめます。

 そして1402年に首都金陵を陥落。建文帝は自殺して果てました。ちなみに当時から、建文帝は僧になって、逃げ延びたという話も残っています。いずれにせよ、燕王朱棣は明の3代皇帝として即位します。永楽帝です(位1402~24年)。

 当たり前ですが、永楽帝の行為は公然たる反乱でした。そのため、金陵の人々は彼に反感を持っています。建文帝生存伝説はその中の1つです。さらに、知識人や政府の中にも彼に公然と反抗し処刑された人もいます。そのため、永楽帝は金陵に居づらくなり遷都することにしました。遷都先は自分の根拠地である燕の地です。そして元の大都があったところに都を定め、ここを北京と改称します。また同時に、金陵を南京と改称しました。

 また、朱元璋は「宦官は国を滅亡させるから使ってはならない」と厳命していましたが、永楽帝の場合、金陵の知識人・政府関係者に評判が悪く協力を得られない。そこで、必然的に宦官に頼っていくことになります。これが、明にとって命取りになります。

 さて、永楽帝は対外遠征を盛んに行います。彼はヴェトナムやモンゴルと多く戦いました。明ではモンゴル高原の東部にいる部族をタタール部、西部にいる部族をオイラート部と呼んでいます。これらが北元とどのような関係にあったかは諸説あります。タタール部=北元というのが有力ですが、そもそもオイラートとタタールは同一だったのではないかとも言われています。ともあれ、対外遠征は余り大きな効果を上げることなく、1424年、永楽帝はモンゴル遠征中に病死します。どうやら、燕王に任命されたときから、モンゴル侵攻が永楽帝のライフワークだったようです。


中国・明の時代
 
 モンゴル勢力の「元」もフビライ=ハンが没すると、徐々に弱体化していくことになります。そこに現れたのが漢民族の朱元璋(しゅげんそう)でした。

 この朱元璋という人物が、紅巾の乱(こうきんのらん)の指導者の1人として頭角を現し、後に明を築き上げることになります。(1368年)

 ちなみに、三国志の序盤に出てくる有名な乱は黄巾の乱。こっちは紅ですよ。読み方がどちらもコウキンなのでややこしいですが・・・。

 この朱元璋という人は、幼少期は元の支配下にあった江南で貧しい暮らしを強いられていました。しかし、モンゴル人支配に不満をもつ人たちと共に立ち上がり、各地で元軍を撃破!やがて乱の中でも頭角を現していき1368年に明を建国してからは、洪武帝(こうぶてい)として即位します。

 この洪武帝が行った政治は、まず皇帝1代につき1元号とする一世一元の制(いっせいいちげんのせい)を定めます。これは、皇帝が存命中は年号を変えない。つまり、明治以降の日本と同じですね。これにより、皇帝の権限強化に努めます。

 また、農民の数を正しく把握する為に土地台帳(魚鱗図冊・ぎょりんずさつ)や租税・戸籍台帳(賦役黄冊・ぶえきこうさつ)を整えました。土地台帳では、誰がどれだけの土地を耕しているのか?戸籍台帳では家族の人数、氏名などが記されていました。

 さらに、洪武帝は独裁権力の確立を目指します。具体的にどういうことかというと、皇帝があれも、これも口を出すという感じです。中書省(ちゅうしょしょう)を廃止し、六部を皇帝直轄にします。さらには、軍も皇帝直轄と直轄だらけですね。

 この洪武帝の死後は、第2代皇帝として建文帝(けんぶんてい)が即位します。しかし、靖難の変といわれるクーデターにより朱棣(しゅてい)という人物に皇位を奪われてしまいます。ちなみに、この朱棣という人は洪武帝の第4子。建文帝のおじさんですね。

 その後、朱棣は永楽帝(えいらくてい)として即位し、明はもっとも安定した時代を迎えることになります。

 永楽帝は、自ら軍隊を率いて遠征し、モンゴル系部族に対して攻撃をします。また、ベトナムにあった陳朝(ちんちょう)という王朝が滅びると、この混乱に乗じてベトナムも支配。また、1405年からは鄭和(ていわ)という人物に大艦隊を率いさせ南海大遠征に向かわせました。その船は、長さ150m幅60mほどもあったといわれ、この巨大な船でインド西岸からペルシャ湾あたりまで。別部隊にはアフリカ東海岸やアラビア半島まで向かわせました。

 これにより、明は積極的な対外政策を行います。つまり、この遠征は征服が目的ではなくて、明王朝の圧倒的武力を見せ付けて南海諸国に朝貢を促すのが目的だったのですね。

 しかし、1424年永楽帝が亡くなると明は衰退に向かい始めることになります。北虜南倭(ほくりょなんわ)といわれる外敵に苦しめられるのですが、この北虜とは北方からの異民族。モンゴル系の民族です。その中のオイラートという部族のエセンというリーダーに明の正統帝(せいとうてい)が捕虜になるという大事件が起きます。1449年のことで、この事件により明の威厳が大きく失墜することになります。

 また、南倭とは海賊です。これは一般的に日本人の海賊を指しますが、16世紀後期には中国人の密貿易者の割合の方が多くなってくるようです。

 そして1590年代には明は短い期間に3つもの戦争にて出費がかさむことになります。

 1592年には「ボハイの乱」、そして同じ年豊臣秀吉による朝鮮出兵。これにも明は援軍を出します。1597年には「播州の乱」。

 さらに宮廷では、派閥争いにより混乱。

 そして、1644年には農民反乱軍によって北京を攻略され、明最後の皇帝、崇禎帝(すうていてい)が自害し明王朝は滅びることになります。

 この農民反乱のリーダーが李自成(りじせい)という人物だったことから、この乱を李自成の乱といいます。

 そして、時代は清の時代へと移っていくのですが、では、この李自成が次の王朝の座に座ったかというとそうではないのですねぇ。


1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。都は南京から北京に遷る。

元末の紅巾の乱の混乱の中から台頭した朱元璋が1368年に南京(金陵)で即位(太祖洪武帝)して建国した、漢民族の王朝。征服王朝である元のモンゴル色を一掃し、漢民族による中国大陸の統一支配を回復した。また、江南に起こった勢力が中国を統一し、江南に統一中国の都がおかれたのも初めてである。1368年8月に明軍は元の大都を攻略し、元の勢力をモンゴル高原に後退させ(北元として残る)、さらに四川地方、雲南地方にも遠征軍を送り、中国本土すべてを服属させ、漢・唐を上回る広大な領土を獲得した。北京郊外には永楽帝以降の皇帝の陵墓である明の十三陵が造営されている。

14世紀後半
:洪武帝は、農村の回復に努め、賦役黄冊・魚鱗図冊による徴税システムと里甲制を作り上げ、農民支配を基本とした皇帝独裁体制を確立した。そのため、中書省を廃止した。また、軍事体制では同じく洪武帝の時、衛所制を設け、軍戸から一定数の兵士を徴発し、都指揮司に統率させた。

 外交・貿易政策では倭寇対策に力を入れ、民間人の交易や渡航を制限する海禁を厳しくした。 

15世紀前半
:靖難の役(1399~1402)をへて、1402年に皇帝となった永楽帝の時、明の国力は全盛期を迎えた。永楽帝は北京に遷都して中華帝国の建設を進め、北方のモンゴルへの遠征、南方のベトナムの支配を行って領土を拡張するとともに、鄭和をインド洋方面派遣したのはじめ、明中心の朝貢貿易の世界を出現させた。日本との間でも勘合貿易を開始した。

15世紀後半
:しかし北方のモンゴル人の活動が活発になり、1449年には土木の変で正統帝がモンゴル軍に敗れ捕虜となるという敗北を喫し、その前年には国内で鄧茂七の乱(租税負担の軽減を要求する農民反乱)が起き、明の衰退が始まる。

16世紀前半
:北虜南倭に悩まされながら、宮廷では宦官政治が横行し、停滞した。社会内部では抗租運動が激しくなった。

16世紀後半
:嘉靖帝の1500年にはアルタンに北京を包囲され、1557年にはポルトガルのマカオ居住を認めるなど外圧が始まった。万暦帝の始めに張居正の改革が行われたがその後は宦官と東林派の党争が激しくなり、16世紀の末の日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略を受けて出兵して国力が衰えた。

17世紀前半
:東北に女真族の清が建国されると次第に圧迫され、李自成の乱が起こり1644年、最後の皇帝崇禎帝が自殺して崩壊する。

明の滅亡

1644年、李自成の反乱によって滅亡した。

16世紀末から17世紀初めの万暦帝時代は、表面は明の繁栄は続いていたが、内には東林派と非東林派の党争、抗租運動などが起こり、外に日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略があって動揺は隠せなくなってきた。17世紀にはいると東北方面の女真族がにわかに勢力を増し、1616年にはヌルハチが統一、後金を建国して明を脅かし、さらに1636年、国号を清と改めた。明は山海関の守りを固めて防戦し、宣教師から学んだ大砲の利用などもあって防戦していたが、その戦費調達のための増税は農民を苦しめ、1627年の大飢饉をきっかけに各地で反乱が勃発した。その中の最大の勢力が李自成の乱であり、李自成は1644年首都の北京を包囲、明朝の最後の皇帝崇禎帝(毅宗)は自殺して滅亡した。明朝成立以来、277年目のことであった。李自成は一時は皇帝を称したが統制を取ることが出来ず、山海関を超えて侵攻した清に鎮圧され、清の中国支配が成立した。

Episode 明朝最後の皇帝毅宗の自殺
 1644年、李自成軍に北京をかこまれた毅宗の最後。「最後の時をむかえた毅宗は、皇子を城外へ退去させたのち、皇后と別れの杯をくみかわした。皇后はほどなくみずから首をくくって世を去り、毅宗は十五歳になったばかりの皇女をよんで、自分の手で彼女を斬った。「そちはなんの因果で皇帝の家などに生まれたのであるか」これが最愛の娘に刃を向けたさいの毅宗の言葉であったと伝えられる。十九日未明、毅宗は、みずから非常鐘をうちならして召集をかけたが、かけつけるもはひとりもいなかった。やむなく、毅宗は紫禁城の北、景山に登り、寿皇亭で縊死して果てた。帝に従ったものは太監の王承恩ただひとりだけであった。」<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.479>
明の遺臣の抵抗
 1644年に崇禎帝が自殺した後も、華南ではなおも明王朝の一族を担いだ地方政権が、清朝に抵抗した。それらを総称して、南明という。特に南京には、福王が弘光帝を称し、その部将の史可法が揚州を拠点に清軍と戦っていた。史可法の戦いを舞台とした史劇が清代につくられた『桃花扇伝奇』である。他にも鄭芝竜・鄭成功親子に擁立された福州の唐王(隆武帝)、紹興の魯王、広州の紹武帝、肇慶の永暦帝などがあった。そのうち史可法は1645年に清軍にとらえられて殺され、最も永らえた永暦帝もビルマまで逃げたが1661年に捕らえられて、南明の抵抗は終わった。
鄭氏台湾の抵抗
 鄭成功はその後も抵抗を続け、1661年に台湾を攻略して、独自政権を樹立した。それに対して清朝は遷界令を出して大陸沿岸の住民を内陸に移住させて台湾との交易を禁止して圧力を加えた。この鄭氏台湾はその後、三代にわたって続いたが内紛から衰え、1683年、康煕帝によって征服された。三藩の乱と鄭氏台湾の制圧をもって清朝の中国全土統一は完成した。


http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu17.html
http://www12.plala.or.jp/rekisi/min.html
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-004.html