歴史・人名

江戸時代

1603年(慶長8)徳川家康によって創設され,1867年(慶応3)徳川慶喜の大政奉還によって消滅するまで265年間つづいた武家政権。

政権の所在地が江戸の地であったため「江戸幕府」と呼び,また政権の主体が将軍たる徳川氏であったところから「徳川幕府」ともいう。
鎌倉時代室町時代につづき,武家政治上最も高度に整備された封建的統一政権である。

【成立過程】

徳川家康は,はじめ三河の一小大名として戦国争乱の世に出,桶狭間の戦い以後は織田信長と,信長の没後は、一時的対立はあったもののやがて豊臣秀吉と結んで、天下統一の事業に協力した。

この間、その所領も、本来の基盤である三河から東進し,遠江を押え,武田氏滅亡(1582)後はその旧領も併せ、「駿遠三甲信」五カ国の大領主となる。
小田原後北条氏の討滅(1590)後は、その旧領を秀吉から与えられて関東に移封,江戸を居城地とし,240万石の大大名に成長した。

また、五カ国所領時代の天正末期,家康は「五カ国総検地」を実施して領主権の強化をはかったが,後、北条氏滅亡後の関東移封により徳川家臣団は在地性を払拭させられ,近世大名へと脱皮していった。
関東入部後は,江戸周辺に「蔵入地」と「直属常備軍」を構成する小給家臣の知行地を配置し,万石以上の上級家臣42人は江戸から距たった諸城の城主として配置し,領国の外縁を固め、関東はこれ以後、長く徳川氏直接の権力基盤となった。

秀吉政権下の最有力大名となった家康は,秀吉の晩年には「五大老」の筆頭となり,その没後は、諸大名間の対立軋轢を巧みに利用してその地位を強化した。
秀吉腹心の部将石田三成は,家康の政治的地位の強化に強く反発して家康に決戦をいどんだが,関ヶ原の戦いにおいて東軍を率いた家康は,西軍を率いた三成を撃破し,覇権を確立した。

家康は、戦後の論功行賞のなかで、西軍に味方した大名の大規模な改易・減転封と東軍に味方した大名の増封,一門および譜代家臣の大名取立てなどを実施した。
こうして、徳川氏は全国を支配する統一政権であることを知らしめた。

しかし、なお一大名として豊臣氏は大坂城に残っていたし,豊臣恩顧の大名も残存していたため、1603年(慶長8)朝廷に奏請して征夷大将軍に就任,幕府を開いた。
これによって徳川の覇権は「私的権力」から「公的権力」に転化したものと認められるので,幕府の成立をこの時点とする説が一般的である。

家康は、将軍職にあること2年で,子の秀忠に将軍職をゆずり(1605)駿府に隠退したが、隠居後も、駿府において「大御所」として幕政を指導したため,幕府政治は駿府と江戸に分れて二元化した。
やがて大坂の役がおこり,豊臣氏が滅亡したことにより江戸幕府の全国支配が完成,翌年家康が没したため江戸・駿府の二元政治も解消した。

時代区分

1603-1605 初代 徳川家康
1605-1623 2代 徳川秀忠
1623-1651 3代 徳川家光
1651-1680 4代 徳川家綱
1680-1709 5代 徳川綱吉
1709-1712 6代 徳川家宣
1713-1716 7代 徳川家継
1716-1745 8代 徳川吉宗
1745-1760 9代 徳川家重
1760-1786 10代 徳川家治
1787-1837 11代 徳川家斉
1837-1853 12代 徳川家慶
1853-1858 13代 徳川家定
1858-1866 14代 徳川家茂
1866-1867 15代 徳川慶喜

江戸時代は、安土桃山時代と合わせて「近世」とも呼ばれている。
また,幕府・諸藩の二重支配による政治組織と,それを支える社会構造を統一し「幕藩体制」(幕藩制社会)ともいわれる。
したがって,普通は「江戸時代」と称した場合,政治史的視角から、政権の推移や政治機構の変化を中心に捉えていく傾向が強い。

始期は、徳川氏が覇権を確立した1600年(慶長5)関ヶ原の戦いとする見解もあるが,一般には徳川家康が幕府を開設した1603年(慶長8)とし,15代将軍慶喜が大政奉還した1867年(慶応3)を終期とする265年間をいう。

江戸時代時代区分は前・後期や幕藩体制の成立・解体期に分ける2分法,また前・中・後期や確立・展開・解体期の3分法が一般にとられているが,ここでは初・前・中・後・幕末期の5分法によることにする。

江戸時代初期

まず初期(慶長・元和)は、幕藩体制の土台ができた時期とみる。
江戸幕府の開設後,徳川家康は2年で将軍職を2代秀忠に譲り,江戸・駿府の二元政治により政権世襲の布石とし,1615年(元和1)大坂の役で豊臣氏を滅亡させると,大名統制を強化しながら「元和偃武」により全国支配を推し進めていった。

江戸時代初期の文化
江戸時代初期の産業
江戸時代初期の商業

江戸時代前期

前期(寛永~寛文・延宝)は,3代家光から4代家綱にいたる幕藩体制の確立期である。

幕府は寛永10年代に集権的政治機構の整備を行い,外様大名の独立性を弱体化させることにより、「大名領知権」が将軍の全国支配権のなかに包摂する体制を整える。
また、幕府政治は,家康の死後3代家光の時代まで、戦国的な「武断政治」が行われ,大名・公家・寺社などに対してもきびしい統制が加えられ,1637年の島原の乱を経て、1639年の寛永十六年禁令にいたって「キリシタン禁圧」と「貿易独占」(長崎貿易)の体制が確立した。

こうして幕政の基礎が固まったことと,「武断政治」による不満の増大によって、4代将軍徳川家綱就任の時代から、幕府は儒教の「教化主義」にもとづく「文治政治」に転換した。(元禄時代)
そこで、小農経営を幕藩権力の基盤とする「近世村落体制」を確立し,領国の断行により幕府の長期政権への道を強化した。
また幕府は、その直轄地全体にわたって「寛文・延宝の検地」を実施し,農村支配の体制を固めた。
こうして17世紀後半に幕藩体制が確立した。

江戸時代中期

中期(元禄~享保)は5代将軍徳川綱吉就任から8代将軍徳川吉宗就任にいたる幕藩体制の展開の時期である。

「天和の治」に始まる綱吉の治政は「元禄期」(元禄文化)を迎え、「文治政治」の性格を濃厚にし,6代将軍___の時代、新井白石の「正徳の治」にいたり最高潮に達した。
ここでは、従来の老臣門閥による「老中合議政治」から「将軍専制政治」への移行がみられ,将軍側近の「御用人」が実権を握りながら専制権の強化をはかり、6代家宣・7代家継の治政は、政策面では異なるが、基本的にはこれを継承した。

17世紀後半に確立した幕藩体制は繁栄をつづけたが、18世紀にはいると、商品経済の発展が農村にも波及し,農民の階層分化の進行,封建的農村構造の変質(本百姓経営の分解・農民の反抗激化・領主財政の窮乏)が始まり,こうした封建的危機によって幕府・諸藩に財政難が深刻になった。(江戸時代中期の社会)

つぎの8代将軍徳川吉宗就任の「享保の改革」は、財政再建を中心とし、30年に及ぶ,はじめての総合的改革が行われ、改革の前半では、農政中心に貢租体系の強化が図られたが,後半は、台頭する商品経済の発展のなかで、商業資本を利用し、「殖産興業」を重視せざるをえなかった。
だが、その政治路戦は「文治政治」の進展に伴う将軍権威の実質的成長であり,幕藩政治機構においても番方から役方の進出が顕著となり,封建官僚制の拡充・制度の整備・法典の編纂・刑罰の緩和など、元禄期に指向した政治体制の完結がはかられた。

幕政の行きづまりは、この後、次第に目に現れるようになり、享保の改革につづき寛政の改革・天保の改革においても財政改革を中心に打破がはかられたが、結局、根本的なたて直しはできなかった。

江戸時代後期

後期(宝暦・天保)は幕藩体制の動揺・解体の時期である。
近世封建社会の経済的推移に基づく社会現象は,宝暦~天明期になると本格的危機の様相をおび始め、階級闘争は質的変化をとげながら激化し,年貢増徴の限界,都市物価問題,商品生産や流通の展開に伴う「地域的分業の深化」や「豪農の成立」がみられた。(江戸時代中期の社会)

老中田沼意次就任時代(田沼時代)の政策は、新田開発や国役普請による大規模工事の励行,株仲間の結成,蝦夷地開発計画,開国貿易計画など特権商人の力により経済発達の成果を吸収しながら幕府の財政規模を拡大していこうとしたもので,多分に近代日本の黎明を告げる側面をもっていた。
しかし,天明の大飢饉などの災害が,連続かつ集中的に発生し人災または政災的要素が加わると,この時期から解体過程に突入することになった。

幕府・諸藩の改革は封建危機の進行に対応するものであったが,老中松平定信による寛政の改革は、関東・東北地方の農村の荒廃から復興を急務としたが,文化・文政時代(化政文化)の関東中心の幕政改革も、封建危機への新たな対応を示すものであった。
幕府・諸藩の改革は年貢増徴方針のほか,農民的商品生産の発展に対処して,広く商人に依存しながら江戸の需要を確保し、物価の安定をはかろうとした。
老中水野忠邦が享保の改革・寛政の改革期への復帰を目ざして断行した天保の改革の政策の一つである「株仲間の解散」も,こうした考えの基底をなしていた。

だが、内政の危機を示す百姓一揆の激化,封建支配の後退のうえに18世紀未からおきたロシア・イギリス・アメリカなど外国勢力の接近も加わり,天保の改革の時期、幕藩体制はついに構造的な危機におちいり,危機打開をめざす幕府・諸藩の模索のなかで藩政改革に成功した「西南雄藩」が幕末の政局に指導的役割を果たすようになり,幕府の専制権力は弱化して1867年(慶応3)にいたり倒壊する。

江戸時代末期

幕末期(安政~慶応)は幕藩体制の崩壊期である。
1853年(嘉永6)黒船来航を契機とする鎖国から開国への転換は,長州・薩摩など西南雄藩を中心とする尊王攘夷運動を激化させ,さらに全国的な都市・農村の諸矛盾が顕在化するなかで1867年(慶応3)10月,15代慶喜による大政奉還が行われた。

江戸時代は、こうした政治・社会経済的推移とともに、文化・学問の発達も注目される。
まず、寛永期には、幕藩体制の成立と相まって、武芸や伝統文化が城下町を中心に武家社会に普及した(「寛永文化」),元禄期には上方中心に町人階級が台頭し,都文化(「元禄文化」)創造への基盤が形成された。
宝暦~天明期には江戸町人を中心に創造的活力がみられ(「宝天文化」),さらに文化・文政時代には町人・農民による庶民文化が成長し,地方文化の盛況をもたらした(「化政文化」)。
また、封建社会としての封建教学の発達の反面,宝暦以降にみられる国学・蘭学による新しい学問・思想・科学の発達が,封建権力に立ち向う民衆の動きのなかで,江戸時代の動揺をもたらす重要な要素になったことが特筆される。

【幕府と大名】

江戸幕府は全国を支配する中央政権であるが,その中心にある徳川氏自体は最大の一大名であり,諸国には地方領主としての諸大名(藩)が分封されていた。
したがって、幕府の権力維持のためには「大名統制」がもっとも重要であった。

このため武家諸法度を制定し,参勤交代制を定め,領地の石高を基準とする軍役負担の制度(石高制)を定めて諸大名に遵守させた。

また、関ヶ原の戦い以後、3代将軍家光の時代ころまでに有力外様大名の改易,全国的規模の大名の配置替えなどによって大名統制を強化した。
さらに、大名の所領は私領であることを否定され,将軍から恩給されるものとの考え方が一般化し,その証拠として、将軍の「花押」あるいは「朱印」を押した「領知判物・領知朱印状」が,領地の郡村名を記した「領知目録」を添えて下付された。
この証拠書類は、将軍の代替りごとに発給され,また大名の家督相続のときも将軍から「本領安堵の朱印状」が下付された。

このことは、全領土が将軍の統治権下にあり,諸大名はその統治権を分与・依託されるという原則と,この原則は将軍と各大名間に個別に結ばれる関係であることを示している。
この意味では将軍(幕府)は最大の大名であるとともに,諸大名の上に立つ君主であり,諸大名の藩内統治を監視・統制し,落度ありと認めた場合には領地没収,所領の移動を命じることができた。

【幕府の政治機構】

初期の政治機構は「庄屋したて」といわれたように簡素なもので,三河の松平氏時代の家政組織を必要に応じて充実・強化し,幕府の成立とともに公的政治組織に転化したものである。

その機構は3代将軍家光から4代将軍家綱の時代にかけて整備された。
役職は、大別して、行政担当の「役方」と軍事警衛担当の「番方」の両系統に分かれるが,就職には相互間に人事交流があり、固定したものではない。

行政上重要な役職は老中・若年寄・大目付・目付・寺社奉行・町奉行・勘定奉行,その他の諸奉行などで,老中の上に大老が置かれたが常置の職ではなく,江戸時代を通じて10人しか任命されていない。

最高首脳である老中・若年寄は江戸城中の御用部屋に出勤し政務をとったが,執務は「月番交代の合議制」が原則であった。

将軍と御用部屋のあいだの政務の取次ぎについては5代綱吉の代に「側用人」が設けられた。
江戸時代には「三権分立」が成立していないので,各役職はそれぞれ行政・司法・立法の各権を行使した。
最高の審理機関としては「評定所」があり,寺社奉行・町奉行・勘定奉行の3奉行,案件により「大目付」なども参加して,3奉行の管轄範囲をこえた訴訟の裁判や重要事件の裁決はここで行った。

全国に分布する幕府直轄領(天領)は勘定奉行支配下の郡代・代官が分担管轄し,地方の直轄都市にはそれぞれ町奉行が置かれた。これらの地方行政の役人を「遠国役人」という。

【幕府の経済的基礎】

江戸幕府の経済的基礎は第一には約700万石にのぼる幕府領(天領)で,これは全国の石高3000万石の約4分の1を占めた。
幕府領のうち約300万石は旗本領として分配されたから,代官が管轄する直轄領は約400万石である。
また土地のほかに佐渡・石見・但馬・摂津など重要な金銀山を直轄した。

また江戸のほかに都市手工業の中心地でもある京都,諸国物資の集散地である大坂,鎖国体制下唯一の貿易港であった長崎をはじめ,諸国に直轄都市を設けたことも重要である。
これらを通じて幕府は金貨・銀貨・銭の貨幣鋳造・発行権を独占し,また貿易においてもかならずしも直営ではないが強力な統制権を行使することができた。

江戸時代後期になると,江戸・大坂など都市の富商に多額の御用金を課すこともあった。

江戸時代の概観】

江戸時代は、日本の封建制が最高度に発展したこと,支配の中心的存在をなした幕府と藩の権力集中化が著しかったことから,中世の「分権的封建制」に対し「集権的封建制」の社会といわれ、後半にいたると、封建的危機が顕在化し、その解体過程から崩壊期に入るという見方がとられている。
しかし,他方では、江戸時代をもって,すでに日本の封建制が解体過程に入ったとする考え方や、封建制の再編成期とする捉え方もある。

江戸時代は、封建身分制を支柱として展開するとともに,ヨーロッパのフューダリズム国家の王権に比べると、「将軍」(幕府)の権力はきわめて集権的で強大であった。
そして、この「将軍」を頂点とした幕府諸藩の政治体制は,「兵農分離」と「石高制」「領国制」によって特質づけられている。
このうち「兵農分離」と「石高制」は,安土桃山時代、豊臣政権における太閤検地と刀狩に「身分法令」を主とする諸政策を基礎にしたものである。
そして幕府開設後の17世紀の前半,とくに寛永年間に、幕府の「職制の整備」と「鎖国の完成」によって対外方針も確定した。

しかし幕藩体制が確立するのは,全国的視野でみるとき,1661~80年(寛文・延宝期)という見解が一般にとられている。
この見解は、慶安の幕政改革をへて,「幕藩領の検地」によって小農民を主体に「村請制」を中心とした「近世村落」が全国的に成立し,「領主的土地所有」が確定したからである。

「鎖国制」は、対外的には、清成立に伴う、日本の華夷意識に支えられた国家主権の確立であり,幕藩体制を体制的に維持するための手段であった。
なお,島原の乱以降230年にわたって対外・対内戦がなく、平和なうちに展開しており,現代の日本社会の直接の原型は江戸時代に形成されたという見方もある。

江戸時代は「幕府領」(天領)「大名領」(藩領)「旗本領」「寺社領」および「皇室・公家領」の分割領有により支配されていたが,所領の大半を占める各大名は、個別領主権をもちながら、公儀権力である将軍を中心に集権的に編成されることにより,初めて領主支配が貫徹することになった。
大名領では、藩体制の確立に伴い、城下町の経済的位置が確定した17世紀後半以降江戸・大坂・京都の3都が中央市場の役割を果たすことによって商品流通が全国的に展開した。

また、社会構成は、封建的主従制を中核とした身分制にもとづいたが,大名や家臣の家,商人仲間,職人の組などにより構成され,人々は集団に属し規制を受けながら生活していた。
また,「領主=農民」を基本的関係に置き,「村」を財政基盤としながら,都市・商工業の発達,全国的商品流通により「町人文化」の発展が顕著であり,それだけに、封建官僚制に基づく幕府・諸藩の政治機構によって、周到に中央・地方行政が行われた時代である。

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