江戸時代前期
江戸時代(1603 - 1868) | |||||
1623 | 3代徳川家光徳川家光が3代将軍になり、幕府の官僚政治体制が整う。(1623-1651)(--)-- | ||||
1623 | 仁祖反正で光海君廃位(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1623 | 仁祖反正(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1623 | 仁祖反正.西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1623 | 仁祖反正国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1623 | 江戸時代前期 | ||||
1623 | 儀間親方真常・儀間村人を福建に派遣し、製糖法を伝習する(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 泉屋(住友)が大坂内淡路町に銅吹所を開設(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 徳川家光が3代目将軍となる(乳母:春日局)-イギリスが日本との交易を撤退(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 7.27 3代将軍 徳川家光(1623-1651)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 7.27 徳川家光が江戸幕府第3代将軍に就任(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 8.4 黒田長政歿。(武将,福岡藩主(初代))<数え56歳>(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1623 | 11.19 興子親王(明正天皇)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1624 | オランダが台湾を占領(--)-- | ||||
1624 | 日光東照宮陽明門日光東照宮陽明門完成。(--)-- | ||||
1624 | フランス、リシュリュー宰相となる(-西欧-フランス)-- | ||||
1624 | 台湾、オランダ時代(1624-1661) | ||||
1624 | しかし、その後の台湾ではオランダが幅を利かせるようになっていきます。1624年にはオランダによるゼーランディア城という要塞が造られました。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1624 | オランダ、台湾を占領。ゼーランジャ城、プロビンシャ城を造る。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1624 | 國姓爺オランダ、スペイン人を台湾から駆逐~1662(-東アジア-台湾)-- | ||||
1624 | オランダが台湾を占領(~1661)(-東アジア-台湾、オランダ)-- | ||||
1624 | 李?の乱(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1624 | 李?の乱.仁祖反正後の論功行賞に対する不満(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1624 | 李?の乱国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1624 | スペイン船の来航を禁止する(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1624 | 2.3 元和から寛永(かんえい)(1624.2.3-1643)に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1624 | 2.30 伊予立川銅山開鉱(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1624 | 7.13 福島正則歿享年64(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1625 | 三十年戦争第二期〔デンマーク戦争〕に入る(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1625 | オランダ、グロティウス(1583-1645)の『戦争と平和の法』成る(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1625 | 僧天海、寛永寺を創設(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1626 | イギリスの哲学者フランシス・ベーコン没(1561~)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1626 | 三十年戦争で皇帝軍(ワレンシュタイン)、デンマーク王を破る(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1626 | スペイン、基隆(キールン)を占領。サン・サルバドル要塞を造る。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1626 | 清・愛新覚羅氏・・太宗文皇帝(崇徳帝、天聡帝、ホンタイジ(皇太極))(-東アジア-中国、清)-- | ||||
ホンタイジ(1592~1643) 名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。清の第二代太宗。在位1626~1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年(1626)、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した漢人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。漢人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、漢土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・漢軍八旗を新たに編成した。天聡九年(1635)、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大元伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大清皇帝の位につき、国号を大清(清、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改元した。崇徳五年(1640)、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関を越えることなく翌年に没した。 | |||||
1626 | 幕府、人身売買を禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1626 | 4.27 江戸幕府が人身売買を禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1627 | ニューフランス会社を設立、カナダを支配(-北米-アメリカ)-- | ||||
1627 | ニューフランス会社を設立、カナダを支配(-北米-カナダ、フランス)-- | ||||
1627 | 朝鮮に侵入する(天聡1)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1627 | 明・朱氏・・思宗崇禎帝(朱由檢)(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1627 | 明・朱氏・・ 崇禎帝(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1627 | 朱由検(1610~1644) 明の十七代崇禎帝。廟号は思宗、のちに改めて毅宗。在位1627~1644。光宗(朱常洛)の五男。天啓二年(1622)、信王に封ぜられた。七年(1627)、兄の天啓帝(朱由校)が崩ずると、遺命を受けて帝位についた。即位後、魏忠賢らの党与を処罰して政争を鎮め、国政の再建につとめた。しかし、袁崇煥を冤罪で殺してしまうなど功臣を信じず、北方から後金が台頭してくるのをとどめることはできなかった。また内政においても、重税と飢饉が重なって農村は荒廃をきわめ、民衆叛乱の火は燃え広がるばかりとなった。崇禎十七年(1644)、李自成軍が北京を攻め落とし、帝は煤山において自殺した。かれの死によって明は滅んだ。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1627 | 丁卯胡乱国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1627 | 丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | ||||
1627 | 丁卯胡乱、後金(後の清)鴨緑江を越え朝鮮侵入(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | ||||
後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。 | |||||
1627 | キリスト教徒340人を長崎奉行処刑(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1627 | 紫衣事件(しえじけん)-朝廷の紫衣を巡る法令違反(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1627 | 思宗崇禎帝(朱由檢)(--、明)-- | ||||
1628 | イギリスで「権利の請願」成立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1628 | イギリスで「権利の請願」成立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1628 | イギリスの医師ハーベー、「血液循環の法」を発見(-西欧-イギリス)-- | ||||
1628 | インドのシャー=ジャハン即位(ムガール帝国全盛)(-南アジア-インド)-- | ||||
1628 | 台湾(1)鄭氏台湾と清の支配 琉球王国と倭寇 宋・元時代には、東アジアの海上貿易の中心地であった現在の沖縄が大琉球つまり琉球王国といわれ、台湾を小琉球と言われていたらしい。明代には15世紀後半から16世紀にかけて倭寇が活躍し、その活動に加わった華南沿岸の漢人が台湾に移住することが多くなった。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1628 | 鄭芝竜・鄭成功の進出 オランダの台湾進出に対して、明朝はその地が正式な領土ではなかったので黙認せざるを得なかったが、オランダ支配が定着することを畏れ、1628年、当時東シナ海一帯の海賊集団であった鄭芝竜を官につけて台湾に進出させた。鄭芝竜は福建の住民を台湾西部に入植させて基盤をつくり、オランダの支配に対抗した。1644年に明が滅亡すると、鄭芝竜・鄭成功の親子は台湾を拠点に反清復明の運動を展開した。鄭成功は1661年、2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を占領、翌年にオランダは台湾から撤退した。これ以後、1683年までの22年間は本土の清王朝から独立した、鄭氏台湾が存続する。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1628 | スペイン、淡水(タンスイ)を占領。サン・ドミンゴ要塞を造る。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1628 | 崇禎帝・即位 -1644(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1628 | オランダ人ベルテブレ,済州島漂着.帰化し朝鮮人女性と結婚(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1628 | ベルテブレ、済州島漂着国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1628 | 百姓の衣類に絹類を禁じ、木綿に限定(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1628 | 6.10 徳川光圀生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 紫衣事件…大徳寺の僧、沢庵ら流される 女歌舞伎等禁止(--)-- | ||||
1629 | イギリス議会長期解散(~1640)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1629 | ホイヘンス(1629-1695)、物理学者(-西欧-オランダ)-- | ||||
1629 | 平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1629 | 江戸城普請につき角材500本を幕府に献納(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 紫衣事件…大徳寺の僧、沢庵ら流される女歌舞伎等禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | キリスト教の発見の為に踏み絵を導入する(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 11/8第108代 後水尾天皇(-日本-日本)-- | ||||
1629 | 11/8第109代 明正天皇(-日本-日本)-- | ||||
1629 | 7.25 紫衣事件。江戸幕府が高位・高徳の僧への紫衣の勅許を停止。抗議した沢庵らを東北へ流罪に(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 10.3 江戸幕府が山田長政に朱印状を交付しシャムとの貿易を許可(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 10.23 江戸幕府が、風紀を乱すとして女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 明正天皇(寛永6(1629)11.8~寛永20(1643)10.3)(-日本-日本)-天皇- | ||||
1629 | 11.8 第109代 明正天皇(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1629 | 11.8 「勅許の紫衣」を幕府が無視・反対したことに悲憤し、第108代 後水尾天皇が7歳の第二皇女興子内親王に譲位、第109代 明正天皇となる。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1630 | ボストン建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1630 | 三十年戦争第三期、グスタフ・アドルフ、ドイツに侵入(-西欧-ドイツ)-- | ||||
1630 | ケプラー没(1571~)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1630 | 山田長政毒殺される(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1630 | 4.30 織田信雄没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1630 | 10.5 藤堂高虎没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1631 | 李自成の乱(--)-- | ||||
1631 | 朱印船の制を定める 海外渡航に老忠奉書必須とす(--)-- | ||||
1631 | 李自成の乱(順-東アジア-順)-- | ||||
1631 | 鄭斗源,明から千里眼,時計,鉄砲を伝える(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1631 | 鄭斗源が明から千里鏡、 | ||||
1631 | 朱印船の制を定める海外渡航に老忠奉書必須とす(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1631 | 貿易を拡張するため琉球在番奉行を置く(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1631 | 9.12 加藤嘉明歿(伊予松山城主)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1632 | 諸士法度(旗本法度)制定 大目付設置(--)-- | ||||
1632 | アンティグアが英国植民地となる(-北米-アンティグア、イギリス)-- | ||||
1632 | ジョン・ロック(1632-1704)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1632 | インドのシャー=ジャハンがタージ=マハルを造営(~1653)(-南アジア-インド)-- | ||||
1632 | リュッツェンの戦いで、グスタフ・アドルフ戦死〔三十年戦争〕(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1632 | ガリレイ(1564-1642)の宗教裁判(異端審問)、翌年有罪宣告(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1632 | 一向宗の改宗で日向高原その他諸所の門徒を処分(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1632 | 諸士法度(旗本法度)制定大目付設置(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1632 | 1.24 徳川秀忠歿(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1632 | 12.17 江戸幕府が、大名監視の為の「大目附」を設置。柳生宗矩ら4人が任命される(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1633 | ガリレイが宗教裁判をうける(--)-- | ||||
1633 | 鎖国令…奉書船以外の海外渡航を禁ず 日本人帰国制限(--)-- | ||||
1633 | ガリレイが宗教裁判をうける(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1633 | 鎖国令…奉書船以外の海外渡航を禁ず日本人帰国制限(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1633 | 秋田阿仁銅山開坑(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1633 | 第一次鎖国令-奉書船(ほうしょせん)以外の海外渡航を禁止する。5年以上の海外渡航者は帰国の禁止。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1633 | 黒田騒動黒田家のお家騒動(-日本-日本)-- | ||||
1633 | 1.25 佐竹義宣(久保田藩主)没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1633 | 3.12 紹仁(後光明天皇)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 明船の封内海陸に入るを禁ずる 藩債銀5000貫に及ぶ(--)-- | ||||
1634 | メリーランド植民地建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1634 | 鎖国令…海外往来・通商制限(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 明船の封内海陸に入るを禁ずる藩債銀5000貫に及ぶ(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 内藤平藩の知行家臣人数が259人、63150石との記述(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 第二次鎖国令-第一鎖国令と同様。再通達。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 5.28 江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 8.4 江戸幕府が譜代大名に妻子の江戸居住を命じる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1634 | 11.7 伊賀越仇討。渡辺数馬が河合又五郎らと決闘。荒木又右衛門が助太刀(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1635 | 牛馬改を行い、牛馬札を交付して牛馬出銀を課する 宗門手札改の制を定める(--)-- | ||||
1635 | 参勤交代制度確立。武家諸法度改正 鎖国令…渡航禁止(--)-- | ||||
1635 | 鎖国令日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する。(--)-- | ||||
1635 | 参勤交代大名は1毎に江戸に出て、将軍に仕える。妻子は江戸住まい。(--)-- | ||||
1635 | 三十年戦争第四期、フランス・スウェーデン同盟(-西欧-フランス)-- | ||||
1635 | フランス、アカデミー・フランセーズ創設(-西欧-フランス)-- | ||||
1635 | チャハル部を討ち内モンゴルを平定する(天聡9)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1635 | 牛馬改を行い、牛馬札を交付して牛馬出銀を課する宗門手札改の制を定める(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1635 | 参勤交代制度確立。武家諸法度改正鎖国令…渡航禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1635 | 参勤交代-藩主を1年おきに江戸に出仕させて大名行列の費用などで藩力を衰えさせた。一方、大名行列により全国の街道・宿場が栄えた。-第三次鎖国令-外国船の来港を長崎に限定する。日本人の渡航と帰国を禁止する。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1635 | 朝鮮貿易復活。歳遣船1船を釜山に出す。 慶長16 重臣柳川調興が宗氏の国書改ざんを幕府へ直訴したが(柳川事件)、将軍家光の裁きにより調興は津軽へ、外交僧規伯玄方は盛岡に流罪となる。 寛永12(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1635 | 5.28 江戸幕府が第三次鎖国令を布告。海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1635 | 11.9 江戸幕府が寺社奉行を設置(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1636 | 出島の構築長崎に出島を構築。(--)-- | ||||
1636 | ハーバード大学創設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1636 | 清(金)[1636(1616)~1912](-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1636 | 金、国号を清と改める。朝鮮を属国とする(崇徳1)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1636 | 丙子胡乱、清国への朝貢を行う(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1636 | 丙子胡乱.清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1636 | 丙子胡乱国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1636 | 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | ||||
1636 | 1636年丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、後金:清)--李氏朝鮮時代 | ||||
後金から清へ ヌルハチの建国したアイシン(後金)はしだいに周辺民族を制圧して、第2代のホンタイジの時の1636年に、中国風に国号を清に改め、さらに明が李自成の反乱で滅亡した後に北京に入り、李自成を討って1644年に中国全土を統一した。 | |||||
1636 | 泉屋(住友)が銅吹所を大坂長堀に移転(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1636 | 第四次鎖国令-貿易に関わりがないポルトガル人を追放。貿易関係者は長崎の出島に移住させる。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1636 | 鎖国令…ポルトガル人を長崎出島に移す(江戸時代-日本-日本、ポルトガル)-- | ||||
1636 | 5.19 江戸幕府が第四次鎖国令を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など(江戸時代-日本-日本、ポルトガル)-- | ||||
1636 | 5.24 伊達政宗歿。江戸の桜田屋敷で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。辞世の句は、「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」。石田将監ら15名が殉死している。遺言:「この後、我が姿を描くことあらば、両目とせよ」(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 島原の乱小西行長の遺臣、益田好次の子で16歳の天草四郎時貞を盟主とするキリシタン浪人が、農民層を駆り立てて蜂起させた土一揆。(--)-- | ||||
1637 | フランスでデカルトの「方法序説」なる(-西欧-フランス)-- | ||||
1637 | フランスのデカルト(1596-1650)、『方法序説』刊行(-西欧-フランス)-- | ||||
1637 | 1637年~1897年:清(属国) | ||||
1637 | 仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1637 | 清の北京に国家使節として燕行使派遣.1894年まで続く(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1637 | 島原の乱(→1638)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 藩債銀181貫におよび、未済中知行給与の停止を令す(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 島原の乱(しまばらのらん)-キリシタンの天草四郎らによる一揆--1638(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 2.3 本阿彌光悦歿80歳(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 10.25 島原の乱。天草・島原の農民が藩・領主の圧政、キリシタン弾圧に反抗して蜂起(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 11.9 江戸幕府が島原の乱の鎮圧に板倉重昌らを派遣(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 11.16 良仁親王(後西天皇)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1637 | 12.3 島原の乱で島原・天草の一揆勢が原城に蘢城(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1638 | 1638-1655年スウェーデンがニュースウェーデン植民地を形成する(江戸時代-北欧-スウェーデン)-- | ||||
1638 | 六部、理藩院、都察院を設置(崇徳3)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1638 | キリスト教厳禁(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1639 | コネティカット植民地の建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1639 | 清王朝との関係 1639~1911(-東アジア-チベット)-- | ||||
1639 | 鎖国の強化ポルトガル船来航禁止。以後、オランダ、中国(清)のみと交易を行う。(-東アジア-中国、清、オランダ)-- | ||||
1639 | 大島奉行を大島代官と改める(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1639 | 今村知商が竪亥録を100部だけ江戸で出版(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1639 | 第五次鎖国令-ポルトガル人の来航禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1639 | 鎖国令…ポルトガル船の来航禁止(江戸時代-日本-日本、ポルトガル)-- | ||||
1639 | 幕府の命により釜山倭館(和館)内に茶碗窯を開き、上納品を焼成する(釜山窯)。 寛永16 義成(20)(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1639 | 7.5 「第五次鎖国令」発布。ポルトガル船の来航を禁止。幕府による貿易管理が完成(江戸時代-日本-日本、ポルトガル)-- | ||||
1639 | 8.11 江戸城本丸が全焼(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1640 | イギリス、短期議会・長期議会(-西欧-イギリス)-- | ||||
1640 | イギリスでピューリタン革命始まる(~1660)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1640 | 宗門改役を設置(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1640 | 寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)-飢饉--43(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1640 | 2. 宮本武蔵が熊本に落ち着く(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1641 | 永野金山を幕府に上納しようとする(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1641 | 銅商大坂屋久左衛門(2代)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1641 | 鎖国の完成オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。(-日本-日本)-- | ||||
1641 | 平戸のオランダ商館を長崎出島に移す(鎖国の完成)(江戸時代-日本-日本、オランダ)-- | ||||
1641 | 鎖国体制(幕府の対外政策)の完成-オランダ商館を出島へ移す。オランダと中国は幕府直轄の出島、朝鮮とは対馬藩、琉球は薩摩藩、アイヌは松前藩で貿易が行われた。(江戸時代-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1641 | 5.17 江戸幕府が平戸のオランダ人を長崎の出島に移住させる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1641 | 8.3 徳川家綱生誕(江戸幕府将軍(4代))[1680年歿](江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1642 | 参勤交代諸大名に参勤交代を命じる。(--)-- | ||||
1642 | モントリオール建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1642 | イギリスでピューリタン革命(~1649)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1642 | イギリスで清教徒革命勃発(~1649)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1642 | イギリスでピューリタン革命(-西欧-イギリス)-- | ||||
1642 | モントリオール建設(-北米-カナダ)-- | ||||
1642 | 1642オランダ、台湾北部からスペインを追放。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1642 | スペインの進出と撤退 一方、フィリピンを植民地化したスペインは、オランダの台湾進出に対抗して台湾北部に進出し砦を築いた。しかし北部台湾では山地民族中、もっとも勇猛で、最大勢力を誇るアタイヤル族がスペインの植民地支配に抵抗し、カトリック伝道もままならぬ状態が続き、やがて優勢なオランダ艦隊に追われて、1642年には16年間の北部台湾支配を終えて撤退した。(-東アジア-台湾、スペイン)-- | ||||
1642 | 譜代大名にも参勤交代を命ず(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1642 | 幕府、永野金山の上納を賞し今年中の採掘を許す(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1642 | 3.3 江戸幕府が勘定奉行を設置(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1642 | 5.9 江戸幕府が譜代大名にも参勤交代を命ずる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 田畑永代売買の禁田畑の売買を禁じ、階層分化が厳しくなることを禁じた(1872まで続く)(--)-- | ||||
1643 | フランス、ルイ14世の治世(~1715)(-西欧-フランス)-- | ||||
1643 | フランス、ルイ14世の治世(-西欧-フランス)-- | ||||
1643 | フランス、ルイ14世即位(~1715)。マザラン、宰相となる(-西欧-フランス)-- | ||||
1643 | 清・愛新覚羅氏・・世祖章皇帝(順治帝、福臨)・即位 -1661(-東アジア-中国、清)-- | ||||
フリン(1638~1661) 福臨。清の三代順治帝。廟号は世祖。法名は行痴。号は痴道人、太和主人。在位1643~1661。太宗(ホンタイジ)の九男。崇徳八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位についた。叔父の鄭親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治元年(1644)、呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。二年(1645)、予親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。翌年、病のため養心殿で崩じた。 | |||||
1643 | 田畑永代売買禁止令(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 宮本武蔵、熊本岩殿山の零巌洞に籠って『五輪の書』を著わす。(随筆宮本武蔵)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 田畑永代売買禁止令-田畑売買の禁止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 10/3第110代 後光明天皇(-日本-日本)-- | ||||
1643 | 3.11 富農への土地集中防止の為、江戸幕府は「田畑永代売買の禁」を発布。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 9.14 春日局没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 10.2 天台宗の僧南光坊天海(慈眼大師)没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 後光明天皇(寛永20(1643)10.3~承応3(1654)9.20)(-日本-日本)-天皇- | ||||
1643 | 10.3 第110代 後光明天皇(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1643 | 10.3 第109代 明正天皇が退位し、紹仁親王が第110代 後光明天皇となる。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1644 | 12/16正保(しょうほう)(1644.12.16-1647)(--)-- | ||||
1644 | 「清」建国明が滅亡し、清建国。(--)-- | ||||
1644 | 闖王永昌帝(李自成)(順-東アジア-順)-- | ||||
1644 | 安宗弘光帝(朱由崧)(--順)-- | ||||
1644 | 大順帝 張献忠(--順)-- | ||||
1644 | 闖王 永昌帝(李自成)(--順)-- | ||||
1644 | ですが、このオランダは中国人(漢人)によって追い出されることになるのです。1644年に明が滅亡。すると、明の復活を目論む鄭成功たちが台湾にやってきてオランダと戦い1662年にはオランダを追い出してしまうんですね。せっかく、オランダを追い出した鄭成功たちでしたが、中国大陸では清の時代がやってきます。彼らによって1683年、鄭成功らは滅ぼされ台湾は清によって治められます。 この時点では、台湾は清、つまり中国の領土ってことですね。ですけど、その後、台湾は日本の植民地になるんです。これは知っている人が多いでしょ。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1644 | 満州族の王朝。この時代は優秀な皇帝が多くいました。二代皇帝康煕帝の時代に始まり、その後雍正帝、乾隆帝と続く三代の皇帝が1世紀以上にわたる清朝の繁栄と平和をもたらしました。 しかし1790年代の後半から各地で続発する民衆反乱を皮切りに、清王朝の統制が利かなくなり、1840年のアヘン戦争で列強に徹底的に痛めつけられます。さらに1850年の太平天国の乱と続き、末代皇帝宣統帝(溥儀)の代・1912年、辛亥革命によって王朝時代の幕が下りました。 ~1912清(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1644 | 李自成が北京に入り、明滅亡。清軍が山海関を越える。北京に遷都(順治1)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1644 | 大順帝張献忠(西-東アジア-中国、西)-- | ||||
1644 | 明・朱氏・・安宗弘光帝(朱由崧)(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1644 | 明・朱氏・・ 弘光帝(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1644 | 朱由崧(1607~1646) 南明の弘光帝。廟号は安宗。在位1644~1645。福王朱常洵の長男。崇禎十四年(1641)、李自成が洛陽を陥落させ、父の常洵が殺されると、河南の懐慶に逃れた。十六年(1643)、福王の爵位を継いだ。十七年(1644)、李自成が懐慶を落とすと淮安に逃れ、北京が陥落すると鳳陽総督の馬士英に擁されて南京にいたった。まず監国を称し、まもなく帝を称した。朝臣に内紛が絶えず、主戦派の史可法を排した。弘光元年(1645)、清軍が南下して南京を占領すると、蕪湖に逃れて黄得功を頼ったが、まもなく捕らえられ、北京に送られた。翌年に殺された。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1644 | 朱以海(1618~1662) 南明の魯王。明の太祖(朱元璋)十世の孫にあたる。崇禎十七年(1644)、魯王を継いだ。弘光帝(朱由崧)が清軍に捕らえられると、銭粛楽・朱大典らに擁されて、紹興で監国となった。ときに浙東で抗清の軍が次々と起こり、諸軍を遣わして銭塘江を守らせた。また各地の南明将領の間の抗争は熾烈で、福建の隆武朝と正統を争った。魯監国元年(1646)、清軍が銭塘江を渡ると、浙東を守ることができず、海上に逃亡した。四年(1649)、舟山に進駐した。六年(1651)、清軍が舟山を攻め落とすと、張煌言らに従って厦門にいたり、まもなく金門にうつった。八年(1653)、監国の号を除いた。のち金門で病没した。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1644 | 正保(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1644 | 幕府、明の救援要求を拒む(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1644 | 12.16 正保(しょうほう)(1644.12.16-1647)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1644 | 12.16 後光明天皇の即位に伴い正保[しょうほう/しやうほう]に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1645 | イギリスでネーズビーの戦い、王党軍決定的敗北〔ピューリタン革命〕(-西欧-イギリス)-- | ||||
1645 | 清、南京を攻略。弁髪・胡服を強要する(薙髪(ちはつ)令)(順治2)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1645 | 明・朱氏・・紹宗隆武帝(朱聿鍵)(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1645 | 明・朱氏・・ 隆武帝(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1645 | 朱聿鍵(1602~1646) 南明の隆武帝。廟号は紹宗。在位1645~1646。崇禎五年(1632)、唐王の爵位を継ぎ、南陽に鎮した。九年(1636)、軍をほしいままに動かしたとして、廃されて庶人とされ、鳳陽に軟禁された。弘光のとき、恩赦にあって広西の平楽にうつされることになった。道中、弘光帝(朱由崧)が清軍に捕らえられると、福州で鄭鴻逵・黄道周らに擁立されて、帝を称した。隆武二年(1646)、清軍が福建に入ると、汀州に逃れ、清将の李成棟に殺された。永暦朝により思文皇帝と追尊された。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1645 | 昭顕世子,清から化学,カトリック教などの洋書を伝える(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1645 | 昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1645 | 昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍など | ||||
1645 | 大小刀の寸法、髪・頬髯の制を定め、無頼者を追捕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1645 | 紹宗隆武帝(朱聿鍵)(--、明)-- | ||||
1645 | 5.19 宮元武蔵歿(62歳)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・紹武帝(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・ 紹武帝(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 昭宗永暦帝(朱由榔)(江戸時代-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・永暦(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・魯王以海(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明の遺臣、鄭成功が挙兵(明-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・ 永暦(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 明・朱氏・・ 魯王以海(-東アジア-中国、明)-- | ||||
1646 | 朱聿鍔(?~1646) 南明の紹武帝。在位1646。隆武二年(1646)、唐王に封ぜられた。兄の隆武帝(朱聿鍵)が滅ぶと、広州に逃れ、まもなく帝を称した。肇慶で立った永暦帝(朱由榔)の攻撃を受けたが、撃退した。のち清軍に広州を陥され、李成棟に捕らえられて殺された。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1646 | 朱由榔(1623~1662) 南明の永暦帝。在位1646~1662。桂王朱常瀛の子。崇禎九年(1636)、永明王に封ぜられた。隆武のとき、桂王を継いだ。隆武二年(1646)、丁魁楚・瞿式耜らに擁されて、肇慶で監国となり、まもなく帝位についた。両広・雲貴・湖広・四川・江西の地に展開し、大順・大西の農民軍の残党の帰順を容れ、鄭成功の海上での活動と連絡して、一時期は抗清の気勢が高まった。しかし、朝臣の党争はつづき、行在も定まらなかった。農民軍出身の孫可望が清に降って、情勢は決定的に不利になった。永暦十年(1656)、李定国に迎えられて昆明にいたった。十二年(1658)、清軍が雲南に入ると、?西に逃れた。翌年、ビルマに入った。ビルマ人によって捕らえられて清軍に引き渡され、呉三桂により昆明篦子坡で殺害された。(-東アジア-中国、明)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1646 | 林慶業の乱.下層民衆の反乱.失敗に終わる(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1646 | 日光例幣使始まる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1647 | 赤絵焼き酒井田柿右衛門が「赤絵焼き」に成功。(--)-- | ||||
1647 | 酒井田柿右衛門、赤絵焼に成功(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1647 | 万松院を現在地の金石山の麓に移す。 山門は1615建造中興の英主(宗家の黄金期) 正保4 (-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1648 | 2/15慶安(けいあん)(1648.2.15-1651)(--)-- | ||||
1648 | 私鋳銭を禁ず 田畑の永代売買を禁ず(--)-- | ||||
1648 | ポーランドでユダヤ人10万人が虐殺される(~1656年)。(-中東-イスラエル)-イスラエルの歴史- | ||||
1648 | フランスでフロンドの乱起こる(~1653)(-西欧-フランス)-- | ||||
1648 | (ウエストファリア条約締結)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1648 | 三十年戦争終結(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1648 | ウェストファリア条約で三十年戦争終結。スイス・オランダの独立承認(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1648 | 慶安(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1648 | 私鋳銭を禁ず田畑の永代売買を禁ず(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1648 | 2.15 慶安(けいあん)(1648.2.15-1651)に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1648 | 2.15 正保から慶安(けいあん)に改元。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1649 | 慶安の御触書農民の生活制限の集大成と言うべき慶安の御触書が出される。貢徴収の確立。(--)-- | ||||
1649 | 清教徒革命イギリスで清教徒革命(--)-- | ||||
1649 | メリーランドで信教の自由を認められる(-北米-アメリカ)-- | ||||
1649 | イギリスのチャールズ1世処刑、共和制を宣言(-西欧-イギリス)-- | ||||
1649 | イギリスの王政が倒れ、クロンウェルの共和制が始まる(~1660)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1649 | イギリスの王政が倒れ、クロンウェルの共和制へ(-西欧-イギリス)-- | ||||
1649 | イギリス、チャールズ1世処刑、共和政宣言(-西欧-イギリス)-- | ||||
1649 | 慶安御触書公布(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1649 | 東郷重方を郡奉行に任じ、初めて郡座を建てる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1649 | 慶安の御触書(けいあんのおふれがき)-農民の法令(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1650 | . 大雨で鹿児島城大破(--)-- | ||||
1650 | 17世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1650 | 17世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1650 | 大雨で鹿児島城大破(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1650 | 佐須に銀山を開く。 慶安3(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1651 | 4代徳川家綱文治政治を行う。(1651-1680)(--)-- | ||||
1651 | 慶安の変由井正雪を首謀者とする浪人たちがくわだてた幕府批判の反乱未遂事件。(--)-- | ||||
1651 | イギリスのクロムウェルが航海条例を発布(-西欧-イギリス)-- | ||||
1651 | イギリス航海条例(-西欧-イギリス)-- | ||||
1651 | イギリス航海条例(-西欧-イギリス)-- | ||||
1651 | イギリスのクロムウェル、航海法を発布(-西欧-イギリス)-- | ||||
1651 | イギリスのホッブズ(1588-1679)、『リバイアサン』刊行(-西欧-イギリス)-- | ||||
1651 | 4代将軍徳川家綱(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 慶安事件…由井正雪謀反(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 4代目将軍徳川家綱(いえつな)1651-1680(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 慶安の変-由井正雪らによる浪人救済と幕府転覆計画。失敗(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 徳川家綱が4代目将軍となる-末期養子の禁(大名が死ぬ直前に養子を迎える事を禁止)の緩和(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 4代将軍 徳川家綱(-日本-日本)-- | ||||
1651 | 3.15 水野勝成歿(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 4.24 江戸城大奥を改新。女中3700人以上を解雇し、不要な建物を取壊す。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 7.23 慶安の変。兵学者・由井正雪の幕府顛覆計画が発覚(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 7.26 由井正雪自害。(軍学者,慶安の変の首謀者)<数え47歳>(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1651 | 8.18 徳川家綱が江戸幕府4代将軍に。朝廷の勅使が江戸城に下向して将軍宣下(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1652 | 9/18承応(じょうおう)(1652.9.18-1654)(--)-- | ||||
1652 | オランダがケープ植民地を建設(-アフリカ-アフリカ、オランダ)-- | ||||
1652 | 第一次イギリス・オランダ戦争(~1654)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1652 | 第1次英蘭戦争(~1654)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1652 | オランダ、ケープ植民地建設(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1652 | 1652オランダに抵抗する郭懐一の蜂起。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1652 | 承応(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1652 | 承応事件…牢人、戸次庄左衛門らの老中殺害未遂事件(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1652 | 9.18 承応(じょうおう)(1652.9.18-1654)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1652 | 9.18 徳川家綱の将軍就任に伴い慶安から承応[じょうおう]に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1653 | パスカルが「パスカルの原理」を発見(--)-- | ||||
1653 | 秤目の制を定める 東国は守隋氏の、西国は神氏の秤使用(--)-- | ||||
1653 | フランスのパスカルが「パスカルの原理」を発見(-西欧-フランス)-- | ||||
1653 | フランスのパスカル、パスカルの原理を提唱(-西欧-フランス)-- | ||||
1653 | フランスのマザラン、フロンドの乱を鎮圧(-西欧-フランス)-- | ||||
1653 | クロムウェル、護国卿となる(~1658)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1653 | ハメル,済州島漂着.後に脱出し「朝鮮幽囚記」を著す(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1653 | 時憲暦採択.太陰暦と太陽暦を合わせて,二十四節気と1日の時間を計算(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1653 | ハメル、済州島漂着国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1653 | 時憲暦採択国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1653 | 秤目の制を定める東国は守隋氏の、西国は神氏の秤使用(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1653 | 2.27 江戸幕府が、町人・清右衞門が建議した多摩川からの江戸への導水路(現在の玉川上水)着工を許可(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 玉川上水竣工 利根川付替を完成(--)-- | ||||
1654 | ロシア、総主教ニコンの宗教改革(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1654 | 1654年羅禅征伐(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1654 | 第一次羅禪(ロシア)征伐.黒龍江へ侵略した羅禪を清の要請で撃退(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1654 | 玉川上水竣工利根川付替を完成(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 11/28第111代 後西天皇(-日本-日本)-- | ||||
1654 | 5.25 識仁親王(霊元天皇)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 7.5 明の禅僧・隠元が長崎に到着(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 9.20 第110代 後光明天皇崩御22歳(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 後西天皇(承応3(1654)11.28~寛文3(1663)正.26)(-日本-日本)-天皇- | ||||
1654 | 11.28 第111代 後西天皇(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1654 | 11.28 良仁親王が第111代 後西天皇として即位(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1655 | 4/13明暦(めいれき)(1655.4.13-1657)(--)-- | ||||
1655 | ニュースウェーデン植民地はニューネーデルラント植民地に併合(江戸時代-北米-アメリカ)-- | ||||
1655 | イギリス、西インド諸島に進出、スペインよりジャマイカを奪取(-北米-アメリカ、イギリス)-- | ||||
1655 | スペイン継承戦争(-西欧-スペイン)-- | ||||
1655 | スウェーデン王カール10世、ポーランドに侵入(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1655 | 糸割符制を廃止し、長崎貿易を相対貿易とする(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1655 | 4.13 明暦(めいれき)(1655.4.13-1657)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1655 | 4.13 承応から明暦に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1656 | . 永野金山再開を許される(--)-- | ||||
1656 | 永野金山再開を許される(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1656 | 12.24 江戸幕府が、日本橋葭町の葭原(吉原)遊廓の浅草千束への移転を命令(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1657 | 江戸大火、江戸城本丸・二の丸焼失 「大日本史」編集着手(--)-- | ||||
1657 | 産金500両を幕府に進納 内検丈量始まる(--)-- | ||||
1657 | 明暦の大火江戸城本丸焼失。翌再建。(--)-- | ||||
1657 | 江戸大火、江戸城本丸・二の丸焼失「大日本史」編集着手(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1657 | 産金500両を幕府に進納内検丈量始まる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1657 | 平藩(内藤氏)が、知行制を録米制に変更。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1657 | 明暦の大火-江戸の大火事で6割が焼失(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1657 | 義真封を継ぐ。陶山訥庵生まれる。 明暦3 義真(21)(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1657 | 1.18 江戸で明暦の大火(振袖火事)。死者10万人以上。江戸城天守閣が焼失(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 7/23万治(まんじ)(1658.7.23-1660)(--)-- | ||||
1658 | クロムウェル没(1599~)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1658 | デンマーク、スコーネをスウェーデンに割譲(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1658 | 第二次羅禪征伐.朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1658 | 第二次羅禅征伐国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1658 | 万治(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 内検丈量終わる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 3.22 三浦明敬生誕(後の延岡城主)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 7.23 万治(まんじ)(1658.7.23-1660)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 7.23 明暦の大火が起きた為、明暦から萬治[まんじ/まんぢ]に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1658 | 9.8 江戸幕府が旗本4人を火消役に任命(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1659 | ピレネー条約で、フランス・スペイン間の戦争終結(-西欧-フランス)-- | ||||
1659 | 雲南を平定して中国統一をほぼ完成(順治16)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1659 | 胡西地方に大同法実施.民衆の税負担を減らす(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1659 | 湖西地方に大同法実施国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1659 | 隠元、黄檗宗を伝える(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1659 | 加治木西別府川の用水工事に着手(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1659 | 阿須川の開削に着工。 万治2(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1659 | 12.13 隅田川に初めての橋・両国橋が架かる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1660 | ボイルが「ボイルの法則」を発見(--)-- | ||||
1660 | 道中奉行を置く 江戸城の再興なる(--)-- | ||||
1660 | イギリスのチャールズ2世が王政復古を宣言(-西欧-イギリス)-- | ||||
1660 | イギリスのボイルが「ボイルの法則」を発見(-西欧-イギリス)-- | ||||
1660 | イギリスの王政が復活(-西欧-イギリス)-- | ||||
1660 | イギリス、チャールズ2世即位(~1685)、王政復古(-西欧-イギリス)-- | ||||
1660 | 1660己亥礼訟(礼論が起こる)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1660 | 己亥礼訟(礼論が起こる)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1660 | 芹ケ野金山を試掘して、永野金山の枝山とする(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1660 | 道中奉行を置く江戸城の再興なる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1660 | 伊達騒動-伊達家のお家騒動(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1660 | 8.25 将軍徳川家綱が、仙台藩主・伊達綱宗を廃し2歳の亀千代(伊達綱村)の後継を裁断。伊達騒動の発端(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1661 | ルイ14世の親政が始まる(--)-- | ||||
1661 | 4/25寛文(かんぶん)(1661.4.25-1672)(--)-- | ||||
1661 | 康煕帝・即位 -1722(--)-- | ||||
1661 | バージニアで奴隷制度法制化(-北米-アメリカ)-- | ||||
1661 | フランスのルイ14世の親政が始まる~絶対王政の最盛期(-西欧-フランス)-- | ||||
1661 | フランスのルイ14世の親政が始まる ~絶対王政の最盛期(-西欧-フランス)-- | ||||
1661 | 鄭氏政権時代(1661-1683) | ||||
1661 | 1661鄭成功、オランダを台湾から追放。(-東アジア-台湾)-- | ||||
1661 | 大陸が台湾に関与するようになったのは、「反清復明」を図る鄭成功が台湾を支配するオランダに挑んでここを橋頭堡とした1661年以降のことである。鄭氏台湾は一族の内紛と清国からの軍事的圧力によって1683年に崩壊し、この地は翌1684年より福建省台湾府となって、歴史上初めて大陸の版図に正式に組み込まれた。もっとも清国政府は台湾を正式に領有はしたものの、ここが反清勢力の拠点となることを防御するという政治・軍事的な関心にとどまり、台湾の経済開発に意欲をみせることはなかった。台湾は騒擾を繰り返す「化外の民」の住む野蛮な僻遠の地であり、風土病のはびこる「化外の地」だとみなされ、清国官僚も波高い台湾海峡をこえてここに出向くことを潔としなかった。(-東アジア-台湾)-- | ||||
鄭成功(父:鄭芝龍、母:平戸の田川七左衛門の娘マツ) | |||||
1661 | 鄭成功の時代 しかし、明はまだ復活できる!と諦めていない人物がいました。鄭成功(ていせいこう)という人です。彼らは明朝再興を目指して、台湾を拠点とすべくオランダに戦いを挑むのです。1661年に始まり翌年にはゼーランディア城を落とし、オランダを撤退させます。そして鄭成功らは台湾を東都と改名し統治するのでした。 台湾の開発に乗り出しながら、明の復興を目指す鄭成功でしたが1662年に病死。彼の息子らが後を継ぐことになります。ですが、明の後に中国を治めた清により彼らは攻撃を受けることに・・・。結局、鄭一族による台湾統治は3代で終わりを告げることなり、その後は清朝がこの台湾を統治することになるのでした。 とはいえ、台湾は清にとっては、辺境の地。長いことあまり重視されてきませんでした。 しか~し!1884年に清はフランスと戦争に突入。フランス海軍は台湾に侵攻します。これは、ヤバイと清は翌年に台湾省を設置。やっと清も台湾の本格的な経営に乗り出すことになるのですが、その10年後、清は日本と争うことになります。そう、日清戦争ですね。 日本は、この戦争に勝利。下関条約によって台湾を手に入れることになりました。(-東アジア-台湾、フランス)-- | ||||
1661 | 清・愛新覚羅氏・・聖祖・仁皇帝(康熙帝、玄燁)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1661 | 康煕(こうき)帝即位。鄭成功(ていせいこう)が台湾に拠る(順治18)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1661 | 玄燁(1654~1722) 清の四代康熙帝。廟号は聖祖。在位1661~1722。順治帝(福臨)の三男。順治十八年(1661)、八歳で即位。翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、康煕三年(1664)には大順軍(李自成)の残党も一掃した。八年(1669)、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。十二年(1673)に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。海上では鄭氏海軍を破り、台湾を占領。二十八年(1689)、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。運河交通や黄河の治水に意を用いて治績をあげ、六回にわたって江南への巡幸をおこなった。文字の獄によって思想統制をおこなう一方、『全唐詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大清会典』『古今図書集成』などを編纂させた。西洋の技術や自然科学にも造詣が深く、フェルビーストらを用いて暦法を制定させた。皇太子允?を四十七年(1708)に廃し、まもなく再び立て、また廃した。後継者をめぐる諸子の間の争闘は激しくなり、帝は皇太子の選択に悩んで、太子密建を創始した。六十一年(1722)、病のため暢春園で崩じた。一説に四男の胤禛(雍正帝)に毒殺されたともいう。康煕年間は清代でも乾隆年間とならぶ盛時とされ、康煕帝は中国の歴代王朝を通じて有数の名君とされる。(-東アジア-中国、清)-中国史人物事典⇒歴代皇帝- | ||||
1661 | 徳川綱重を甲府に、綱吉を館林に封ずる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1661 | 銅商大坂屋久左衛門(初代)が隠居2代目大坂屋久左衛門(20)が家督相続(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1661 | 4.25 寛文(かんぶん)(1661.4.25-1672)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1661 | 4.25 1月に京都大火が起きた為、寛文[かんぶん/くわんぶん]に改元(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1662 | . 垂水の小田喜三次、阿波徳島より甘藷を垂水・市来に植栽(--)-- | ||||
1662 | 康熙帝即位、所謂「三世の春」始まる(--)-- | ||||
1662 | イギリスの化学者ボイル、ボイルの法則を提出(-西欧-イギリス)-- | ||||
1662 | フランスのパスカル没(1623~)(-西欧-フランス)-- | ||||
1662 | 均田均役法が初めて施行される(康煕1)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1662 | 明が滅亡(明-東アジア-中国、明)-- | ||||
1662 | 堤堰司設置(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1662 | 堤堰司設置国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1662 | 垂水の小田喜三次、阿波徳島より甘藷を垂水・市来に植栽(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1662 | 明が滅亡(--明)-- | ||||
1662 | 7.12 酒井忠勝(小浜藩主)没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1663 | 殉死禁止令殉死が禁止された。(--)-- | ||||
1663 | 南北カロライナ植民地建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1663 | 加治木西別府川の用水工事完成、新田高5000石開発(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1663 | 殉死を禁止(武家諸法度改定)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1663 | 武家諸法度を改正して殉死(じゅんし)を禁止する(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1663 | 1/26第112代 霊元天皇(-日本-日本)-- | ||||
1663 | お船江(久田白子船渠)を築造。 寛文3(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1663 | 霊元天皇(寛文3(1663)正.26~貞享4(1687)3.21)(-日本-日本)-天皇- | ||||
1663 | 1.26 第112代 霊元天皇(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1663 | 3. 第111代 後西天皇が退位し、識仁親王が第112代 霊元天皇として即位(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1664 | ニュー・ジャージー植民地建設(-北米-アメリカ)-- | ||||
1664 | カナダ、フランス西インド会社管轄下に入る(-北米-アメリカ)-- | ||||
1664 | イギリス軍、オランダ領ニュー・アムステルダムを奪い、ニューヨークと改称(-北米-アメリカ、イギリス、オランダ)-- | ||||
1664 | カナダ、フランス西インド会社管轄下に入る(-北米-カナダ、フランス)-- | ||||
1664 | 諸藩に宗門改めの専任を置くよう命ず(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1665 | 諸宗寺院法度・諸社神主法度を制定 諸大名の人質廃止(--)-- | ||||
1665 | 証人の制を廃止幕府に差し出す人質の制が解除された。(--)-- | ||||
1665 | 「正教要録」古学者、山鹿素行が「正教要録」を著す。(--)-- | ||||
1665 | 第二次イギリス・オランダ戦争始まる(~1667)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1665 | 諸宗寺院法度・諸社神主法度を制定諸大名の人質廃止(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1665 | 八木元信が谷山錫山を発見(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1665 | 1.2 大坂城天守閣が落雷により焼失(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1666 | バーブーダが英国植民地となる(--)-- | ||||
1666 | 「オランダ風説書」 (--)-- | ||||
1666 | 酒井忠清、大老となる山鹿素行を赤穂に流す(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1666 | 3代目大坂屋久左衛門清浚(初代久左衛門次男)生誕。初名は長松。ちなみに父久左衛門は90歳であった。(豪商大坂屋久左衛門HP)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1666 | オランダ風説書-オランダ商館に提出させた海外事情の書類(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1666 | 酒井忠清、大老となる 山鹿素行を赤穂に流す(-日本-日本)-- | ||||
1666 | 2.6 千姫没享年70(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1667 | ニューヨーク、正式にイギリス領となる(ブレダ条約)(-北米-アメリカ、イギリス)-- | ||||
1667 | アンティグアが英国領となる(-北米-アンティグア、イギリス)-- | ||||
1667 | ブレダの和約(第二次イギリス・オランダ戦争終結)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1667 | イギリスのミルトン(1608-1674)、『失楽園』刊行(-西欧-イギリス)-- | ||||
1667 | 第三次イギリス・オランダ戦争(~1674)(-西欧-イギリス)-- | ||||
1667 | フランス、ルイ14世の第一次侵略戦争〔フランドル戦争〕(-西欧-フランス)-- | ||||
1667 | ロシアでステンカ・ラージンの乱(~1671)(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1667 | 畿内・近江などの本田畑に煙草の栽培を禁ず(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1667 | 大坂屋久左衛門の手代大坂屋七郎右衛門が秋田阿仁銅山を発見。秋田藩の鉱山事業を立て直し江戸御用邸資金として4万両の貸付を行うなど藩政に貢献。阿仁の銅は米代川を川舟で下り能代湊で北前船に積み替えられ、越前敦賀でいったん陸揚げされ、その後琵琶湖を船で南下河川交通を利用して大阪屋まで運送された。反対に大坂から下りものとして生活物資など上方の文化が秋田の富裕層に伝えられた。特に上方特有の赤御影石は高級で珍重された、秋田各地には石灯籠や墓石として今も文化財として残されている。(豪商大阪屋久左衛門HP)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1668 | 長崎貿易の銀貨支払いを金貨に改める 井伊直弼、大老に(--)-- | ||||
1668 | アーヘンの和約で仏、侵略地を返還(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1668 | 長崎貿易の銀貨支払いを金貨に改める井伊直弼、大老に(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1668 | 7.15 銅商大坂屋久左衛門(初代)が敦賀で没(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1669 | カリブ海での海賊行為、最高潮に達する(-北米-アメリカ)-- | ||||
1669 | イギリスのニュートン、光学を講義(-西欧-イギリス)-- | ||||
1669 | オランダの画家レンブラント死去(-西欧-オランダ)-- | ||||
1669 | 松前氏、蝦夷を平定(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1669 | シャクシャインの戦い-シャクシャイン(アイヌ人)と松前藩の戦い(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1669 | 府中金石の館に城櫓(櫓門)を築き、金石城と称する。 寛文9(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1669 | 10.23 アイヌのシャクシャインが、和睦の為に訪ねた松前泰広の陣で謀殺される(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1670 | 「本朝通鑑」幕府が林羅山らに命じて作らせた歴史書。(--)-- | ||||
1670 | ロシアでステンカ=ラージンの反乱、ドン=コサックの反乱(-中欧-ロシア)-- | ||||
1670 | 高山の用水工事完成し、田高2000石を開発(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1670 | 箱根用水竣工(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1670 | 大坂屋手代七郎右衛門が秋田阿仁銅山の調査を行い三枚山に銅鉱を発見。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1670 | 箱根用水(用水路)がつくられる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1671 | 東廻り航路河村瑞軒が東回り航路をひらく。(--)-- | ||||
1671 | 河村端軒、東周り航路開設(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1671 | 河村瑞賢(かわむらずいけん)が東廻り航路をひらく(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1672 | 西廻り航路河村瑞軒が西回り航路をひらく。(--)-- | ||||
1672 | ルイ14世のオランダ侵略〔オランダ戦争(~1678)〕(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1672 | 河村端軒、西周り航路開設(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1672 | 小根占の用水工事完成(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1672 | 河村瑞賢が西廻り航路をひらく(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1672 | 大船越瀬戸を開削。 寛文12(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1672 | 2.2 江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で宇都宮藩の奧平源八が父の仇を討つ。日本三大仇討の一つ(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1673 | 9/21延宝(えんぽう)(1673.9.21-1680)(--)-- | ||||
1673 | イギリス、審査法の制定(-西欧-イギリス)-- | ||||
1673 | 清で呉三柱らの三藩の乱起こる(~1681)(康煕12)(-東アジア-中国、清)-- | ||||
1673 | 延宝(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1673 | 分地制限令(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1673 | 9.21 延宝(えんぽう)(1673.9.21-1680)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1673 | 9.21 寛文から延宝(えんぽう)に改元。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1673 | 10.1 岩国藩が錦帯橋を架橋(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1674 | . 風水害あり飢饉となる(--)-- | ||||
1674 | ニューネーデルラント植民地はイギリス領となる(-東アジア-アメリカ、イギリス)-- | ||||
1674 | 甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1674 | 甲虎礼訴が起こり、南人政権が成立(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1674 | .風水害あり飢饉となる(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1674 | 内藤平藩の知行家臣212人、外扶持を含めると299人と報告されている。(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1675 | イギリスのグリニッジ天文台設立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1675 | イギリスのグリニッジ天文台設立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1675 | 伊奈忠易、小笠原諸島探検(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1675 | 9.3 朝仁(東山天皇)生誕(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1676 | ベーコンの反乱(-北米-アメリカ)-- | ||||
1678 | 和事 歌舞伎大阪で、坂田籐十郎が歌舞伎を確立。(--)-- | ||||
1678 | イギリスの物理学者フック、フックの法則を提出(-西欧-イギリス)-- | ||||
1678 | イギリスのバニヤン(1628-1688)、『天路歴程』前編刊行(-西欧-イギリス)-- | ||||
1678 | ナイメーヘンの和約でオランダ戦争終結(-欧州-ヨーロッパ)-- | ||||
1678 | 呉三桂(周-東アジア-周)-- | ||||
1678 | 呉世璠(周-東アジア-周)-- | ||||
1678 | 常平通宝鋳造.朝鮮後期の法貨の誕生(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1678 | 常平通宝鋳造国史年表(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)-国史年表-李氏朝鮮時代 | ||||
1678 | 桟原の新館落成。釜山の新倭館が草梁に移転落成。 延宝6(-日本-日本、対馬)-対馬- | ||||
1678 | 7.16 保井算哲が秋分点を観測(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1679 | イギリス議会で人身保護法が成立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1679 | イギリス議会で人身保護法が成立(-西欧-イギリス)-- | ||||
1679 | イギリス、人身保護法の制定(-西欧-イギリス)-- | ||||
1679 | 出羽矢島騒動、越後騒動…越後高田城のお家騒動(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 5代徳川綱吉徳川綱吉が5代将軍となる。補佐=初期:大老堀田正俊→後期:側用人柳沢吉保。(--)-- | ||||
1680 | ベルサイユ宮殿が完成(-西欧-フランス)-- | ||||
1680 | 1680庚申換局(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | 西人政権(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | 庚申換局.南人派が失脚し西人政権樹立.一党専制化始まる(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | 庚申換局(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | 酉人政権が成立(庚申換局)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | 酉人政権が成立(庚申換局)(-東アジア-朝鮮、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | ||||
1680 | '江戸時代中期'(-日本-日本)-- | ||||
1680 | 5代将軍徳川綱吉(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 綱吉、将軍となる大老酒井忠清、罷免される(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 鹿児島大火(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 5代目将軍徳川綱吉(つなよし)1680-1709(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 徳川綱吉が5代目将軍になる(犬公方)(江戸時代-日本-日本)-- | ||||
1680 | 5代将軍 徳川綱吉(-日本-日本)-- | ||||
1680 | 綱吉、将軍となる 大老酒井忠清、罷免される(-日本-日本)-- | ||||
1680 | 8.19 後水尾天皇崩御。(政仁親王,三宮)(天皇(108代))<数え85歳>(江戸時代-日本-日本)-- |