歴史・人名

明治時代4

   明治時代4(日本-日本-)追加
1905ベンガル分割令(--)編集
19056世界産業別労働者組合(IWW)結成さる(北米-アメリカ-)編集
19057-14黒人の権利宣言(ナイアガラ運動)(北米-アメリカ-)編集
1905ユダヤ移民の第二波、主にロシアより到着。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
1905ドイツでアインシュタインが「特殊相対性理論」を発表(西欧-ドイツ-)編集
19054フランス社会党の結成(西欧-フランス-)編集
190512フランス、政教分離法成立(西欧-フランス-)編集
1905第1次モロッコ事件(ドイツがタンジールに上陸)(アフリカ-モロッコ-)編集
1905第1次モロッコ事件(ドイツがタンジールに上陸)(アフリカ-モロッコ、ドイツ-)編集
19051-22「血の日曜日」。3-31第一次モロッコ事件。5最初のソビエトの結成。6-27ポチョムキン号の反乱。9-5ポーツマス条約。10モスクワのゼネスト、全国に広がる。ニコライ2世、ウィッテを首相に任命、十月宣言を公布。12モスクワ・ソビエト、武装蜂起す〔ロシア第一革命〕(欧州-ヨーロッパ-)編集
19056ノルウェー、スウェーデンより分離独立(欧州-ヨーロッパ-)編集
190510モスクワのゼネスト、全国に広がる。ニコライ2世、ウィッテを首相に任命、十月宣言を公布。(欧州-ヨーロッパ-)編集
1905ロシアで血の日曜日事件(中欧-ロシア-)編集
1905第1次ロシア革命(中欧-ロシア-)編集
1905ロシアで血の日曜日事件(中欧-ロシア-)編集
1905第1次ロシア革命(中欧-ロシア-)編集
1905孫文らが中国革命同盟会を結成(東アジア-清-)編集
1905日本統治時代の台湾には、官僚や警察官、商工業者を中心に、大勢の日本人が移住しており、その数は1905年の約6万人から、霧社事件の3年前に当たる1927年には20万人に増加していました。しかし、文化の違いなどに起因する紛糾や摩擦は、台湾でも日本人と現地の住民の間で繰り返し発生しており、日本人が日本統治時代の台湾について語る際には、こうした「負の歴史」にも一定の注意を払う必要があります。(東アジア-台湾-)編集
1905孫文らが中国革命同盟会を結成(東アジア-中国、清-清)編集
19051905年~1945年:日本(保護国、併合)(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
1905日本の保護国の時期1905~1910(東アジア-朝鮮、大韓帝国-日本の保護国)編集
19051905.07高宗のロシア帝国への密使が発覚する、桂・タフト協定(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905.08(第二回日英同盟の締結)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905.11.17第二次日韓協約の締結(日本の保護国となる)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905.11.17第二次日韓協約を結ぶ。韓国は外交権を日本に譲渡、日本の保護国となる。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905年7月高宗のロシア帝国への密使が発覚する。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905年乙巳条線(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905年ポーツマス条約日本の韓国における優越権を認める。日露両軍を満州から撤退する。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905日露講和条約(ポーツマス条約)締結1905(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905保護条約、乙巳条約(第2次日韓協約)調印(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905関釜連絡船航路就航.現在,関釜フェリーとして運行(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905第二次日韓協約(乙巳条約).日本の強制的な保護条約(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905第二次日韓協約調印(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905東学の第3代教主孫秉熙,天道教創始(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905日本,竹島(独島)の占有権を公示(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905乙巳条約国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1905天道教創立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19051905年8月日英同盟改定。イギリスが日本の韓国保護国化を承認。(東アジア-朝鮮、大韓帝国、イギリス、日本-)編集
19051. 旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握(4. 全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。3. 奉天会戦。4. 閣議、韓国保護権確立方針決定。5. イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。6. アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。7. 桂・タフト協定成立。8. 日露講和会議(10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。8.9. 露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。10. 朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。11. 伊藤博文を特派大使として韓国派遣(15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印(17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。12. 韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1905ポーツマス条約(日露講和)(日本-日本-)編集
1905ポーツマス条約調印(日本-日本-明治時代)編集
1905-09-05
ポーツマス条約
アメリカのポーツマスで日本とロシア帝国が講和条約を結ぶ。
1.ロシア帝国は日本の朝鮮半島における優越権を認める。
2.ロシア帝国は南樺太を日本へ譲渡する。
3.ロシア帝国は南満州鉄道・遼東半島租借権・漁業権などを日本へ譲渡する
日比谷焼打事件-ポーツマス条約に賠償金がない事で暴動が発生(日本-日本-明治時代)
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1905ポーツマス条約(日本-日本-)編集
1905ポーツマス条約(日露講和)(日本-日本、ロシア-)編集
1905日本海海戦 ポーツマス条約調印(日本-日本、ロシア-)編集
19051旅順要塞開城。(--)編集
19051夏目漱石の「吾輩は猫である」ができる(日本-日本-明治時代)編集
1905114福田赳夫(生)(日本-日本-)編集
19052竹島が島根県に編入される(日本-日本-明治時代)編集
1905220日露戦争・奉天会戦が開戦。大山巌満洲軍総司令官率いる25万人がロシア軍35万人を包囲(日本-日本-明治時代)編集
19053奉天会戦-日本とロシアとの大規模会戦。日本の勝利(日本-日本-明治時代)編集
19055日本海海戦。(日本-日本、ロシア-)編集
1905527東郷平八郎が率いる日本海軍聯合艦隊とロシア・バルチック艦隊との日本海海戦(対馬沖海戦)が始る。日本の勝利(日本-日本、ロシア-明治時代)編集
19057桂・タフト協定。(東アジア-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本-)編集
1905729桂・タフト協定
首相:桂太郎とタフト(アメリカ)による協定。日本はアメリカのフィリピン支配権を認める。アメリカは日本の大韓帝国支配権を認める。(東アジア-朝鮮、大韓帝国、アメリカ、日本-明治時代)
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1905731ロシア軍が降伏し日露戦争が終結(日本-日本-明治時代)編集
19058第二次日英同盟
日英同盟の改定。イギリスは日本の大韓帝国の支配権を認める。大韓帝国の朴斉純外相はイギリスと日本を非難する。(大韓帝国の独立性が存在)(日本-日本-明治時代)
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19058第二次日英同盟。(日本-日本-)編集
1905820孫文ら、東京で中国同盟会を結成(東アジア-清-)編集
1905820同盟会成立(東アジア-清-)編集
19059アメリカの斡旋でポーツマス条約締結(小村寿太郎全権)。日露戦争終結。(北米-アメリカ-)編集
19059日露講和条約(ポーツマス条約)、注:それぞれにフィリピンとインドに対する支配を承認することを引き換えに、朝鮮に対する保護権確立を米・英・露に認めさせた(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19059日露講和に反対する日比谷焼き討ち事件発生(史上初の大衆暴動)。(日本-日本-)編集
190592科挙廃止(東アジア-清-)編集
190595ポーツマス条約(東アジア-清-)編集
190595ポーツマス講話条約調印(東アジア-台湾-)編集
190510桂太郎が南満州鉄道をアメリカの鉄道王に売却計画。その後、白紙(日本-日本-明治時代)編集
1905105日本狼[にほんおおかみ]の最後の1頭が吉野山中で射殺される(日本-日本-明治時代)編集
190511第二次日韓協約-大韓帝国の外交権を日本が握る(保護国化)(日本-日本-明治時代)編集
190511第二次日韓協約(日本-日本-)編集
1905112日本政府、清国留学生取締規則を公布(東アジア-清-)編集
190512大韓帝国に統監府(とうかんふ)を設置する(日本-日本-明治時代)編集
19051220日本、韓国統監府設置(東アジア-清-)編集
19062-24キューバ内乱、アメリカ軍出動(北米-アメリカ-)編集
19066-29ヘップバーン法(鉄道統制)成立(北米-アメリカ-)編集
1906この年、第3回汎アメリカ会議(リオ・デ・ジャネイロ)(北米-アメリカ-)編集
1906年12月24日レジナルド・フェッセンデン世界初のラジオ放送(北米-アメリカ-)編集
19062-24キューバ内乱、アメリカ軍出動(北米-アメリカ-)編集
1906この年、第3回汎アメリカ会議(リオ・デ・ジャネイロ)(北米-アメリカ-)編集
1906年 12月24日  レジナルド・フェッセンデン 世界初のラジオ放送(北米-アメリカ-)編集
1906イギリスの労働代表委員会、労働党と改称(西欧-イギリス-)編集
1906フランス最高裁、ドレフュスの無罪を宣告(西欧-フランス-)編集
19061~4アルヘシラス会議でモロッコ、仏の勢力範囲となる(欧州-ヨーロッパ-)編集
19065ロシア帝、ウィッテを罷免、国家基本法(憲法)を公布。第一国会を召集(~7)。7ストルイピン、首相となり、反動強化。11ストルイピンの農業改革(欧州-ヨーロッパ-)編集
1906日本、統監府を設置(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19061906.02韓国統監府の設置(統監に伊藤博文が赴任)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19061906年漢城に韓国統監府設置。初代統監に伊藤博文。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1906大韓自強会結成.愛国運動開始(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1906統監府設置.日本人次官が韓国内政全般を取り仕切る(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1906日本、韓国統監府を設置(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1906統監府設置国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19061. 韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。2. 韓国統監府開庁。3. 興業借款1000万円供与。5. 閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退(11月逮捕される)。6. 崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられ1907年1. 対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。8. 関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。9. 日本人参与官を朝鮮各地方に配置。10. 鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。11. 満州鉄道会社設立。12. ロシア外相、日露協商を示唆。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1906鉄道国有法公布(日本-日本-明治時代)編集
1906鉄道国有法公布(日本-日本-)編集
19061第一次桂内閣総辞職。政友会総裁西園寺公望に大命降下。(日本-日本-)編集
190617第12代首相西園寺公望②(~明41.7.14)(日本-日本-明治時代)編集
190617第12代首相 西園寺公望②(~明41.7.14)(日本-日本-)編集
19062韓国統監府開庁。(東アジア-朝鮮-)編集
19063大韓帝国の統監府初代統監に伊藤博文が就任する(日本-日本-明治時代)編集
19063鉄道国有法-鉄道を国有化する(日本-日本-明治時代)編集
19063米英、満州の門戸開放を日本に要請。(日本-日本-)編集
1906325島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版(日本-日本-明治時代)編集
19064115代総督陸軍大将佐久間左馬太(山口)後藤新平(東アジア-台湾-)編集
1906411陸軍大将児玉源太郎参謀総長就任(東アジア-台湾-)編集
19066ロシアから南樺太を受領。(中欧-ロシア、日本-)編集
1906723陸軍大将児玉源太郎(逝去:54才)児玉神社(江ノ島)(東アジア-台湾-)編集
19068関東都督府を設置する(関東州(遼東半島)の統治機関)(日本-日本-明治時代)編集
190681日米直通の海底有線電話が開通(日本-日本-明治時代)編集
190611南満州鉄道株式会社を設立する(日本-日本-明治時代)編集
19061224アメリカ・マサチューセッツで世界初のラジオ放送(北米-アメリカ-)編集
19061224アメリカ・マサチューセッツで世界初のラジオ放送(北米-アメリカ-)編集
1907英・仏・露の三国協商が成立(--)編集
1907イギリス・フランス・ロシアの三国協商が成立(-EU-)編集
1907三国協商の成立(イギリス、フランス、ロシア)(-EU-)編集
19073-13アメリカで日本移民制限法(移民法)(北米-アメリカ-)編集
1907この年、中央アメリカ平和仲裁会議(北米-アメリカ-)編集
1907アメリカで日本移民制限法が成立(北米-アメリカ-)編集
19073-13アメリカで日本移民制限法(移民法)(北米-アメリカ-)編集
1907この年、中央アメリカ平和仲裁会議(北米-アメリカ-)編集
1907アメリカで日本移民制限法が成立(北米-アメリカ-)編集
1907アメリカで日本移民制限法が成立(北米-アメリカ、日本-)編集
1907イギリス・フランス・ロシアの三国協商が成立(西欧-イギリス-)編集
1907三国協商の成立(イギリス、フランス、ロシア)(西欧-イギリス-)編集
19078イギリス・ロシア協商締結し、三国協商成る(西欧-イギリス-)編集
19072~6ロシア、第二国会開会(欧州-ヨーロッパ-)編集
19076第2回ハーグ平和会議(44か国)(欧州-ヨーロッパ-)編集
1907この年、ニュージーランド自治領成立(欧州-ヨーロッパ-)編集
19071907.04~愛国啓蒙運動の活動が起こる、国債報償運動(日本からの借款を募金により返済すると云う)が起こる(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907.06高宗によるハーグ密使事件(オランダのハーグで開催された第二回万国平和会議の失敗)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907年国債報償運動(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907年6月ハーグ密使事件。オランダのハーグで開かれた第2回ハーグ平和会議に朝鮮(大韓帝国)の高宗皇帝が密使を送る。この事件で統監伊藤博文は皇帝に抗議。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907年7月19日高宗皇帝、息子の純宗に譲位。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907年7月第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19071907年8月1日韓国軍の解散が定められる。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907ハーグ特使派遣.日本との条約無効を国内外に宣言しようとしたが失敗(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907ハーグ密使事件、高宗退位
第三次日韓協約調印(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)
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1907安昌浩,新民会設立.多様な反日活動を続ける(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907高宗皇帝退位.純宗王位に就く(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907国債報償運動(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907朝鮮軍隊解散(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907日本,保安法,新聞紙法などの弾圧法規により啓蒙運動を圧迫(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907国債報償運動(大邱)国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907ハーグ特使派遣国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907高宗皇帝退位国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907軍隊解散国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907新民会設立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19072. ロシア外相、日露協商案を提示。5. 李完用内閣成立。6. 第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。7. 韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。8. 改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起(12月楊州に1万人集結、上京をめざす。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1907県立鹿児島病院設立(日本-日本-明治時代)編集
1907日仏・日露条約成立(日本-日本-明治時代)編集
1907-07-18
ハーグ密使事件の影響で高宗が退位する(日本-日本-明治時代)
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1907-07-24
第三次日韓協約
大韓帝国の内政権を日本が握り、韓国軍隊を解散させる。
その後、義兵運動が活発になるが全て鎮圧する。(日本-日本-明治時代)
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1907-07-30
日露協約
日本は南満州・朝鮮半島、ロシア帝国は北満州・外蒙古(がいもうこ)の支配・利益を互いに認め合う。
日英同盟・日仏協約・日露協約を結んだ日本は三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の一員となる。(日本-日本-明治時代)
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1907ハーグ密使事件
大韓帝国がハーグ(オランダ)で開催される万国平和会議に密使を送る。日韓協約は無効と訴えたが、欧米諸国には全く相手にされずに逆に日本へ通報される。(日本-日本-明治時代)
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1907県立鹿児島病院設立(日本-日本-)編集
1907日仏・日露条約成立(日本-日本-)編集
1907121東京株式市場が暴落。日露戦争後の戦後恐慌の始り(日本-日本-明治時代)編集
190724足尾銅山で対遇改善要求が暴動化し軍隊が出動(日本-日本-明治時代)編集
1907317三木武夫(生)(日本-日本-)編集
1907321「小学校令」改正。尋常小学校が6年、高等小学校が2年または3年となる(日本-日本-明治時代)編集
19074刑法の公布
国産のガソリン自動車「タクリー号」が誕生する(日本-日本-明治時代)
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19076日仏協約
日本は南満州・朝鮮半島・台湾・福建省・蒙古、フランスはインドシナ・広東省・広西省・雲南省の支配・利益を互いに認め合う。(日本-日本-明治時代)
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1907623夏目漱石が「虞美人草」を朝日新聞に連載開始。(日本-日本-明治時代)編集
19077ハーグ密使事件(--)編集
19077高宗が退位し、純宗が即位、第三次日韓協約の締結(内政権の日本管轄、一大隊を残して韓国軍の解体)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19077第三次日韓協約(東アジア-朝鮮、日本-)編集
19078抗日義兵抗争(~1915)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1907825函館で大火。12395戸が焼失(日本-日本-明治時代)編集
19082-18日米紳士協約締結(北米-アメリカ-)編集
1908この年、第1回汎アメリカ科学者会議(サンティアゴ)(北米-アメリカ-)編集
1908ラテンアメリカ会議(モンテビデオ)(北米-アメリカ-)編集
1908年T型フォード発表ロンドンオリンピック(北米-アメリカ-)編集
19082-18日米紳士協約締結(北米-アメリカ-)編集
1908この年、第1回汎アメリカ科学者会議(サンティアゴ)(北米-アメリカ-)編集
1908ラテンアメリカ会議(モンテビデオ)(北米-アメリカ-)編集
1908年 T型フォード発表 ロンドンオリンピック(北米-アメリカ-)編集
19084イギリス、アスキス自由党内閣成立、蔵相にロイド・ジョージ(西欧-イギリス-)編集
1908この年からイギリス・ドイツ両国海軍軍縮交渉を続けるが(~1912)、不成立(西欧-イギリス-)編集
1908青年トルコ党の近代化革命(中東-トルコ-)編集
1908青年トルコ党の近代化革命(中東-トルコ-)編集
1908オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合(中欧-ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア-)編集
1908オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合(欧州-ヨーロッパ-)編集
190810ブルガリアが独立宣言(欧州-ヨーロッパ-)編集
190810-6オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合(欧州-ヨーロッパ-)編集
1908清・愛新覚羅氏・・宣統帝(東アジア-清-)編集
1908清の西太后が死去(東アジア-清-)編集
1908清・愛新覚羅氏・・ 宣統帝(東アジア-清-)編集
1908中国の西太后が死去(東アジア-清-)編集
1908末帝(廃帝、宣統帝、溥儀)(-清(後金)-)編集
1908末帝(廃帝、宣統帝、溥儀)(東アジア-中国、清(後金)-清(後金))編集
1908義兵,ソウル近郊まて進行,日本軍の反撃で撤退(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1908義兵、ソウル進攻作戦国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19081. 裁判所構成法施行。3. 韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。6. 韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる(1909年2. 辞任)。9. 閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。12. 東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1908鹿児島高等農林学校設立(日本-日本-明治時代)編集
1908日米協約(日本-日本-明治時代)編集
1908秋月城廃城(日本-日本-明治時代)編集
1908総町村連合会を上下県郡総町村組合と改組。(対馬)(日本-日本-)編集
1908鹿児島高等農林学校設立(日本-日本-)編集
1908日米協約(日本-日本-)編集
19083監獄法の公布
アメリカが白船で日本を威嚇するが歓迎作戦で事なきを得た(日本-日本-明治時代)
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19083増税法公布。(日本-日本-)編集
1908322東京で銭湯から帰宅途中の女性が絞殺される。日頃銭湯を覗き見していた池田亀太郎が逮捕され、あだ名の「出歯亀」が好色な男性の異名となる(日本-日本-明治時代)編集
19084ロシアと樺太境界に関する協定。(日本-日本、ロシア-)編集
19086赤旗事件-社会主義者の弾圧(日本-日本-明治時代)編集
19087第一次西園寺内閣総辞職。桂太郎に大命降下。(日本-日本-)編集
19087政友会との間に「情意投合」成る。(日本-日本-)編集
1908714第13代首相桂太郎②(~明44.8.30)(日本-日本-明治時代)編集
1908714第13代首相 桂太郎②(~明44.8.30)(日本-日本-)編集
1908725池田菊苗と鈴木三郎助が、グルタミン酸塩を主成分とする化学調味料の特許を取得。翌年5月から「味の素」の商品名で販売(日本-日本-明治時代)編集
1908827憲法大綱の発布(東アジア-清-)編集
190810戊申詔書(ぼしんしょうしょ)-道徳など(日本-日本-明治時代)編集
190810国民精神作興に関する戊申詔書発布。(日本-日本-)編集
19081019日本の警察当局、『民報』を発禁(東アジア-清-)編集
190811高平・ルート協定(太平洋方面の現状維持に関する日米協定)(日本-日本-)編集
19081114光緒帝崩御、溥儀即位。翌日、西太后死去(東アジア-清-)編集
190812清で愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が即位する(日本-日本-明治時代)編集
1909アメリカ人ピアリーが北極に達する(北米-アメリカ-)編集
1909インディアンのジェロニモ死去(北米-アメリカ-)編集
190912-18アメリカ、ニカラグアに軍隊派遣(北米-アメリカ-)編集
19095-13全国黒人向上協会結成(北米-アメリカ-)編集
1909この年、チリ労働者連盟成立(北米-アメリカ-)編集
1909年4月6日ロバート・ピアリーが北極点に到達(北米-アメリカ-)編集
1909この年、チリ労働者連盟成立(北米-アメリカ-)編集
1909年 4月 6日 ロバート・ ピアリーが北極点に到達(北米-アメリカ-)編集
1909アメリカ人ピアリーが北極に達する(北米-アメリカ-)編集
1909インディアンのジェロニモ死去(北米-アメリカ-)編集
1909ユダヤ人最初の町「テルアビブ」が創設される。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
19097ドイツ宰相ビューロー辞任、後任にベートマン・ホルウェーク(西欧-ドイツ-)編集
19094アメリカの海軍軍人ピアリー、初の北極点到達(欧州-ヨーロッパ-)編集
1909宣統帝(溥儀)・即位 -1911(東アジア-清-)編集
1909安重根が伊藤博文を殺害(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091909.09韓国銀行の設立(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091909.10統監伊藤博文がハルビン駅にて、愛国啓蒙運動の義兵(安重根)に暗殺される、朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091909年12月4日一進会は韓国皇帝・曾禰荒助統監・李完用総理大臣に対して、日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091909年安重根義士の義挙(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091909年韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。
伊藤博文「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ。」
朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)
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1909安重根,ハルピン駅で伊藤博文射殺.翌年旅順で処刑http://www.0o0d.com/img/flags/16/Korean-Empire.png&size(6){(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)};編集
1909安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1909日本,安奉線の鉄道敷設権を手に入れるため,清と間島を交換(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1909日本、清と間島を安奉線と交換国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1909安重根、伊藤博文処断国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
1909羅喆、大?教創始国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、大韓帝国-)編集
19091. 韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従(~2月)。2. 大竹貫一代議士、統監政治批判演説。4. 伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。6. 伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。7. 閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。10. 伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。12. 一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
19096. 李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。10. 警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。11. 純宗、昌徳宮へ遷る。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1909伊藤博文がハルビンで暗殺される(日本-日本-明治時代)編集
1909鹿児島線(肥薩線)門司(門司港)~鹿児島間全通(日本-日本-明治時代)編集
1909東京両国に国技館開館(日本-日本-明治時代)編集
1909伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺される(日本-日本-明治時代)編集
1909鹿児島線(肥薩線)門司(門司港)~鹿児島間全通(日本-日本-)編集
1909東京両国に国技館開館(日本-日本-)編集
190912袁世凱失脚(東アジア-清-)編集
190934第27代大統領ウィリアム・ハワード・タフト(-1913.03.03)(北米-アメリカ-)編集
190934第27代大統領 ウィリアム・ハワード・タフト( - 1913.03.03)(北米-アメリカ-)編集
1909321神戸~大阪の長距離レースに日本で初めて「マラソン」の名称が使われる(日本-日本-明治時代)編集
19095新聞紙法公布。(日本-日本-)編集
1909531浅間山が噴火(日本-日本-明治時代)編集
19096伊藤博文、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
19096伊藤博文韓国統監辞任、後任曽祢荒助。(日本-日本-)編集
19097閣議は韓国併合方針を決定。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
190986日本、安奉鉄道の一方的改築を通告、対日ボイコット運動広がる(東アジア-清-)編集
19091026伊藤博文がハルピンで朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺される(日本-日本-明治時代)編集
19091026伊藤博文がハルビンで暗殺される(日本-日本-)編集
190912アメリカ国務長官の満州鉄道中立化案(翌年初頭、日露両国これを拒否)。(--)編集
191010-5メキシコでディアス政権に対する反乱(北米-アメリカ-)編集
19108-31ルーズベルト『新国家主義』を発表、アメリカ第27代大統領タフト(在任1909~1913)と分裂(北米-アメリカ-)編集
1910この年、第4回汎アメリカ会議(ブエノス・アイレス)(北米-アメリカ-)編集
1910この年、第4回汎アメリカ会議(ブエノス・アイレス)(北米-アメリカ-)編集
19103イギリス、ジョージ5世即位(~1936)(西欧-イギリス-)編集
191010イギリス自治領南アフリカ連邦成立(西欧-イギリス-)編集
1910最初のキブツ(共産村)である「デガニア」がガリラヤ地方にできる。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
1910オーストリアでフロイトの「精神分析学」なる(中欧-オーストリア-)編集
1910オーストリアでフロイトの「精神分析学」なる(欧州-ヨーロッパ-)編集
1910ポルトガルに革命、王政廃止、共和政成立(欧州-ヨーロッパ-)編集
191011ロシアの作家トルストイ没(1828~)(欧州-ヨーロッパ-)編集
1910
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1910
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1910
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19101910合邦条約を締結。一進会の李容九、宋秉畯などが併合に関する各種の請願書や声明文を発表。(東アジア-朝鮮-)編集
19101910.03土地調査事業の推進(土地所有権・地価・地形など)国有地は東洋拓殖株式会社などの日本人地主に多く払い下げられる終了した時点(1918)では水田65%、畑43%が小作地となり農民の77%が小作農・自作農となる1910年代には、本格的な産業政策の展開が見られなかったので、土地を失った農民は中国国境の豆満江・鴨緑江を越えた間島(現、延辺朝鮮族自治州など)に毎年2~3万人の移住が続き、40万人近い朝鮮人が在住していた1920年代には、日本に4万人程度、またロシア領沿海州・中国・アメリカなどに移民(東アジア-朝鮮-)編集
19101910.07憲兵警察制度の発足集会取締り令の公布(政治結社・報道の規制)(東アジア-朝鮮-)編集
19101910.08日韓併合条約の締結(大日本帝国に併合され、京城に朝鮮総督府の設置)(東アジア-朝鮮-)編集
1910日韓併合日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年]
日本はロシアの南進を防ぐべく、朝鮮半島の近代化を進めた武断政治とよばれる強権統治をおこない、活発な抗日独立運動がおこった(東アジア-朝鮮-)
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1910併合後李容九は「日本にだまされた」と述べたと伝えられる。(東アジア-朝鮮-)編集
1910併合直後一進会は他の団体とともに解散を命じられた。(東アジア-朝鮮-)編集
1910日本帝国の植民地時代(日帝時代)[1910~1945年](東アジア-朝鮮-)編集
1910「東医宝鑑」完成(東アジア-朝鮮-)編集
19101910年日帝の国権侵奪(東アジア-朝鮮-)編集
1910会社令発令.朝鮮人会社の設立を抑制(東アジア-朝鮮-)編集
1910日韓併合条約調印(東アジア-朝鮮-)編集
1910国権剥奪国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
19101910韓国併合(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-明治時代)編集
19102. 小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。3. 安重根、旅順で処刑。5. 寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。6. 閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。7. 第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交(16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承(18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。9. 朝鮮総督府官制公布。11. 喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。(日韓併合)(東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本-)編集
1910韓国併合・日帝時代(1910ー1945)
日本統治時代(日帝強占期)1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本が降伏するまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。(東アジア-朝鮮、日本-)
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19101910日韓併合条約を締結し、大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。文盲率90%(東アジア-朝鮮、日本-)編集
19101910.08.28(明治42年)日本側から韓国政府へ「条約案」を提示。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
19101910.08.22李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関す条約」が締結。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
19101910.08.08「条約案」が韓国閣議を通過。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910日韓併合(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910併合10年後旧一進会会員から同会の顧問だった日本側リーダーの杉山茂丸に対して、「併合の結果は日韓国民の聞に著しい差別をもたらすものであり、無差別平等の対等合邦ではなかった」と、その責任を問う問責状が送付されている。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910韓国併合(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910*1910年日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地領地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910韓国併合に関する条約」調印。日韓併合。朝鮮総督府設置(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)が日本に併合され大韓帝国は消滅し、日韓併合条約により日本は朝鮮半島を領有することになる。いわゆる日帝時代、植民地併合時代のスタートであり、日本は全朝鮮を統治する朝鮮総督府を設置した。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910韓国併合歴史日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本の植民地となり韓国併合となったのです。そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。韓国併合の理由韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。1919年、こうした日本の統治に対しては朝鮮の反発が強かった。この年、宗教指導者らが中心となって、大規模な独立運動を展開した。3月1日に起こったので、3・1運動と呼ばれるものである。この運動は朝鮮総督府当局による武力による弾圧で、間もなく終息していき、運動は挫折した。しかし、独立派の中心的人物などが、中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府と呼ばれる亡命政府を設立した。初代大統領は李承晩で、以降、最後の第13代金丸まで、25年間にわたり継続する。1945年の朝鮮解放により解体した。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910南アフリカ連邦の成立(アフリカ-南アフリカ連邦-)編集
1910南アフリカ連邦の成立(アフリカ-南アフリカ連邦-)編集
1910南アフリカ連邦の成立(アフリカ-南ア共和国、南アフリカ連邦-)編集
1910日韓併合(日本-日本-明治時代)編集
1910-08-22
朝鮮併合-日本が大韓帝国を併合する(世界最貧国から近代化)
朝鮮総督府を設置する(日本-日本-明治時代)
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1910厳原、竹敷、鶏知電話局が開設される。(対馬)(日本-日本-)編集
19101910 韓国併合(日本-日本-)編集
19103立憲国民党結成(犬養毅)。(日本-日本-)編集
1910312大平正芳(生)(日本-日本-)編集
19105大逆事件(幸徳事件)。幸徳秋水ら社会主義者ら逮捕、秘密裁判を経て処刑。(日本-日本-)編集
1910519ハレー彗星が太陽面を通過、彗星の尾の中に地球が入る。(日本-日本-明治時代)編集
19106幸徳事件-社会主義者の幸徳秋水らが大逆罪で逮捕(大逆事件)(日本-日本-明治時代)編集
19108日韓併合韓国併合に関する日韓条約)。朝鮮総督府設置、初代総督寺内正毅。(東アジア-朝鮮、日本-)編集
1910822韓国併合に関する日韓条約を調印(東アジア-清-)編集
1910822日韓併合調印(東アジア-台湾-)編集
1910822日韓併合条約」調印。(日本-日本-明治時代)編集
1910829日韓併合 発布 (アジア-中国)(東アジア-清-)編集
1910829政府が韓国の併合を宣言する。(日本-日本-明治時代)編集
191012日本で飛行機(ドイツ・フランス製)が飛行に成功する(日本-日本-明治時代)編集
1911伊土戦争(~1912)(アジア--)編集
1911辛亥革命(--)編集
19115反トラスト法でスタンダード石油、アメリカン・タバコ(現フォーチュン・ブランズ)に解散命令(北米-アメリカ-)編集
1911メキシコ独裁者ディアス引退、革命の時代に入る(~1920)(北米-アメリカ-)編集
1911年12月14日ロアール・アムンセンが南極点に到達(北米-アメリカ-)編集
1911メキシコ独裁者ディアス引退、革命の時代に入る(~1920)(北米-アメリカ-)編集
1911年 12月14日 ロアール・アムンセンが南極点に到達(北米-アメリカ-)編集
1911ノルウェー人のアムンゼン人類初の南極点到達に成功(北欧-ノルウェー-)編集
1911ノルウェー人のアムンゼンが南極に達する(北欧-ノルウェー-)編集
191111ドイツ・フランス、モロッコ事件協定(西欧-フランス-)編集
1911第2次モロッコ事件(ドイツ軍艦派遣)(アフリカ-モロッコ、ドイツ-)編集
1911第2次モロッコ事件(ドイツ軍艦派遣)(アフリカ-モロッコ、ドイツ-)編集
19117第二次モロッコ事件(欧州-ヨーロッパ-)編集
19119イタリア・トルコ戦争始まる(~1912)(欧州-ヨーロッパ-)編集
1911ロシアのストルイピン暗殺される(欧州-ヨーロッパ-)編集
1911イタリア、キレナイカ・トリポリの併合を宣言〔イタリア・トルコ戦争〕(欧州-ヨーロッパ-)編集
1911清、辛亥革命(東アジア-清-)編集
1911清、辛亥革命 (東アジア-清-)編集
1911太平洋戦争の頃
中国大陸では1911年に、現在の台湾のルーツとなる中華民国が成立ました。現在の台湾でも、この1911年を元年とする中華民国暦が用いられています。
太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾の領有権を放棄し、戦勝国である中国(中華民国)がその領有権を得て、中華民国の台湾統治が始まりました。当時の中華民国は蒋介石が率いる国民党が代表政権でしたが、毛沢東率いる共産党との内戦に疲弊しており、台湾に進駐してきた国民党軍も統治意識が低く、略奪や粗暴行為が頻発しました。
台湾人は、統治が日本から中国に移ったことを喜びましたが、進駐してきた国民党軍のこのような振る舞いを見て「イヌのかわりにブタが来た」などと揶揄しました。日本の旧植民地でありながら、現在、日本に対する国民感情が比較的良いのは、ここに起因すると言われることもあります。
国民党進駐前から台湾にいた漢人を「本省人」といい、これ以後大陸から渡来した漢人を「外省人」といいます(東アジア-台湾-)
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19111911「同化政策」による第一次朝鮮教育令の公布私立学校の廃止(東アジア-朝鮮-)編集
19111911鴨緑江に旋回式鉄橋、鴨緑江橋梁を架ける。(東アジア-朝鮮-)編集
1911105人事件.日帝による総督暗殺事件でっちあげにより新民会員105人逮捕(東アジア-朝鮮-)編集
1911工場法公布(日本-日本-明治時代)編集
1911工場法公布(日本-日本-)編集
1911111鈴木善幸(生)(日本-日本-)編集
19112日米通商航海条約改正(関税自主権の回復)。(日本-日本-)編集
19114外務大臣:小村寿太郎により関税自主権が完全回復する(日本-日本-明治時代)編集
19115国産の飛行機「奈良原式2号機」が飛行に成功する(日本-日本-明治時代)編集
19117第三次日英同盟。(西欧-イギリス、日本-)編集
19118第二次桂内閣総辞職。政友会総裁西園寺公望に二度目の大命降下。(日本-日本-)編集
1911830第14代首相西園寺公望②(~大元.12.21)(日本-日本-明治時代)編集
1911830第14代首相 西園寺公望②(~大元.12.21)(日本-日本-)編集
19119伊土戦争(~1912)(-AS-)編集
19119平塚らいてう(フェミニスト)が青鞜社(せいとうしゃ)を設立する(日本-日本-明治時代)編集
19111010武昌蜂起、辛亥革命(東アジア-清-)編集
19111010孫文による辛亥革命三民主義中華民國建国双十節(東アジア-台湾-)編集
1911111袁世凱清朝内閣総理に就任(東アジア-清-)編集
19111912伊土戦争(アジア--)編集
1912大正?(1912-1926)(--)編集
191211民主党ウィルソン「ニュー・フリーダム」を掲げてアメリカ大統領選に圧勝(在任1913~1921)(北米-アメリカ-)編集
19127ニカラグア動乱(北米-アメリカ-)編集
1912年4月15日タイタニック号が沈没(北米-アメリカ-)編集
1912(5.5)ストックホルム五輪(第5回夏季五輪大会)開催 日本初参加(北米-アメリカ-)編集
1912年 4月15日 タイタニック号が沈没 (北米-アメリカ-)編集
1912イギリスのスコットが南極に到達(西欧-イギリス-)編集
1912イギリスの豪華客船タイタニック号沈没(西欧-イギリス-)編集
1912イギリスのスコットが南極に到達(西欧-イギリス-)編集
1912第1次バルカン戦争(欧州-ヨーロッパ-)編集
19128バルカン同盟成立(欧州-ヨーロッパ-)編集
191210第一次バルカン戦争(欧州-ヨーロッパ-)編集
1912ローザンヌ条約で講和(欧州-ヨーロッパ-)編集
1912三国同盟更新(欧州-ヨーロッパ-)編集
1912清朝滅亡、中華民国成立(東アジア-清、中華民国-)編集
1912その主なものを列挙すると、1912年の林杞埔(りんきほ)事件と土庫(どんご)事件、1914年の太魯閣(タロコ)事件と大湖(だいこ)事件、東勢角(とうせいかく)事件、南投事件、六甲事件、関帝廟事件、1915年の西来庵事件などでした。このうち、最大の武装蜂起は台南で発生した西来庵事件でしたが、10ヵ月にわたる鎮圧作戦で2000人近くが逮捕されて、約100人が処刑されました。(東アジア-台湾-)編集
1912中華民国、成立(-中華民国-)編集
19121912年1月1日孫文が南京で中華民国の建国宣言#style(class=box_black_swm){{中華民国は国ではなかった→中原の軍閥の集まり}}(東アジア-朝鮮-)編集
1912土地調査事業開始(~1918)多くの農民が土地を奪われる(東アジア-朝鮮-)編集
1912土地調査事業開始始まる(-1918)国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
1912明治時代大正時代-[1912~1926](日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912県立図書館設立(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912第一次護憲運動はじまる(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912明治/大正(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912清で辛亥革命が起こり中華民国が樹立する。
孫文が初代臨時大総統。君主制から共和制となる。(日本-日本-明治時代大正時代)
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1912電灯が初めて厳原に灯る。(対馬)(日本-日本-)編集
1912明治時代大正時代(1912 - 1926)(日本-日本-)編集
191211大中華民國元年最後の皇帝宣統制帝溥儀退位(東アジア-台湾-)編集
1912429北海道夕張炭鉱で爆発。死者278人(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912511信越本線・横川~軽井沢の急勾配区間に電気機関車が登場(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912511逸見次郎が竹製計算尺の特許を取得。私も計算尺のお世話になった一人です。(日本-日本-明治時代大正時代)編集
19127明治天皇崩御。大正天皇践祚。(日本-日本-)編集
191273大正(たいしょう)(1912.7.3-1926)大正からは改元日から新元号を使用。(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912729明治天皇が崩御。皇族会議により発表を2時間遅らせる。実際は7月29日22:43崩御だが、公式発表では30日0:43(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912730明治天皇崩御(東アジア-台湾-)編集
1912730第123代大正天皇(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912730明治天皇の崩御・大正天皇の即位に伴い大正[たいしょう]に改元。(日本-日本-明治時代大正時代)編集
19128鈴木文治らが「友愛会」を結成する(労働者団体)(日本-日本-明治時代大正時代)編集
19129乃木希典が殉死する(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912910日本初の映画会社・日本活動写真(日活)が設立された。(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912912明治天皇御大葬(日本-日本-明治時代大正時代)編集
1912919福井県武生町で大火。1700戸焼失(日本-日本-明治時代大正時代)編集
19121128アルバニアがオスマン帝国から独立。(西アジア、東ヨーロッパ-トルコ、アルバニア-オスマン・トルコ)編集
191212第一次護憲運動
第3次桂内閣の登場後、立憲政友会の尾崎行雄・犬養毅(いぬかいつよし)が中心となり「閥族打破(ばつぞくだは)・憲政擁護」をスローガンとして国民も参加した倒閣運動(元老などの藩閥政治の非難運動)(日本-日本-明治時代大正時代)
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19121221第15代首相桂太郎③(~大2.2.20)(日本-日本-明治時代大正時代)編集