歴史・人名

ユダヤ人

ユダヤ人

ヘブライ人に対する民族呼称。ユダヤ教の信者の意味で、自らはイスラエル人と称した。古代においてはパレスチナの地において国家を形成し繁栄したが、前1世紀にローマに征服されてから広く離散した。中世以降のヨーロッパ=キリスト教世界では差別が続き、20世紀ナチス=ドイツによる大迫害に至った。その過程で民族国家樹立を目指すシオニズムが起こり、第二次世界大戦後の1948年にイスラエルを建国したが、パレスチナのアラブ人とは今も激しい民族対立が続いている。
 他民族からはヘブライ人といわれ、自らはイスラエル人と呼び、バビロン捕囚後にはユダヤ人と言われるようになる。この「ユダヤ人」は、特に旧約聖書という民族史を持つこと、民族宗教であるユダヤ教が依然として存続していることなどから、前1500年ごろから現代まで、一貫してその民族性を継承しているように見えるが、その歴史を「ユダヤ人歴史」として一括することは困難であるし、危険である。その歴史は、古代のローマ時代までと、中世の離散(ディアスポラ)の時期、イスラーム教徒との共存、近代以降の啓蒙主義の時代、現代のシオニズムを中心とした動きなどを区別して整理していく必要がある。また、ユダヤ人は人種的にはセム系氏族とされるが、長いディアスポラのなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディウムとアシュケナージムの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念でとらえるのは困難で、現実には「ユダヤ教を信仰する人々」と捉えるのが正しい、とされている。ヒトラーの「ユダヤ人=劣等民族」観はまったく作り上げられたものにすぎず、人類学的に同質のユダヤ人は存在しない。<広河隆一『パレスチナ(新版)』第3章1 p.198-218 など>
 → 中世のユダヤ人迫害  近代以降のユダヤ人

旧約聖書の中のユダヤ人
 古代のユダヤ人については、ヘブライ人の項を参照してください。「出エジプト」の後、前12世紀ごろからカナーンの地(パレスチナ)に定住し、前11世紀末ごろにはヘブライ王国を建国し、ダヴィデ王は都をイェルサレムに定め、ソロモン王はイェルサレムに壮大なヤハウェ神殿を建設した(第一神殿)。しかし王国は前922年に南北に分裂し、北にイスラエル王国、南にユダ王国が成立した。イスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は前586年に新バビロニアに滅ぼされて、その時「バビロン捕囚」の民族的苦難を経験することとなった。このバビロン捕囚の間に独自の一神教であるユダヤ教を民族宗教として完成させ、またその後はユダヤ人と言われるようになる。

ユダヤ人

   (引用)バビロニア人によって連れていかれた捕囚は、旧王国(ヘブライ王国)を構成するさまざまな「部族」に、それぞれ所属していた。しかし捕囚中に、ユダ王国の悲劇的終末の少し前からそういう傾向があったように、ユダ族を中心に統合するようになってきた。帰還後、人々は何処其処の区別無く定着し、そこで昔からの領域による差別はなくなった。こうしてこの人々はことごとく、しだいにユダの人々(イェフディム)、つまり「ユダヤ人」といわれるようになった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.47>

ペルシア帝国とヘレニズム時代
 前538年、ユダヤ人はペルシア帝国のキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され、パレスチナに戻り、イェルサレムにヤハウェ神殿を再建した(第二神殿)。この時代にユダヤ人はペルシア帝国の公用語であったアラム語が浸透し、文字もアラム文字系統のヘブライ文字を用いるようになった。ペルシア帝国滅亡後はアレクサンドロスの帝国が成立し、ユダヤ人もその支配下に入ったが帝国滅亡後はディアドコイの争いに巻き込まれ、はじめプトレマイオス朝エジプト、ついでセレウコス朝の支配をけた。このヘレニズム時代はユダヤ教はヘレニズムの理念に押され、厳しい信仰上の危機が続いた。セレウコス朝は特に厳しくユダヤ教を弾圧したので、かえってユダヤ人は結束を強め、前166年にはハスモン家のユダス=マカバイオス(マカベウス)が指導してセレウコス朝に対する反乱を起こし、政治的・宗教的自由を獲得した(マカベア戦争)。

ローマの支配とディアスポラ
 前37年にはヘロデがローマの宗主権のもと王位についてイェルサレム神殿を大改築した。その死後、ローマの直接支配を受けるようになり(ローマ時代のパレスチナ)、その時期にイエスが出現してユダヤ教の革新を唱え、その教えはやがてキリスト教に発展した。紀元6年からパレスティナはローマの属州となり、その後2度にわたるユダヤ戦争でローマに抵抗を試みたが66~70年の第1回ユダヤ戦争はウェスパシアヌスによって鎮圧され、イェルサレム神殿は破壊された。さらに131年の第2回ユダヤ戦争はハドリアヌスによって弾圧されてユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。

イスラーム教とユダヤ人
 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教はまたたくまにパレスティナを含む西アジアを支配するようになった。ユダヤ教徒はイスラーム世界では啓典の民とされていたので、迫害を受けることはなかく、イスラーム各王朝のもとでも基本的には異教徒としてジズヤ(人頭税)を払えば生活が認められていた。イスラーム教に改宗することを強制されず、信仰と生命・財産を保護されたていた。中世ヨーロッパのキリスト教世界では異教徒として激しいユダヤ人の迫害が行われた。

1章1節 用語リスト
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中世のユダヤ人迫害

中世ヨーロッパでのユダヤ人
 ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国の後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。中世ヨーロッパでは各地を移動する商人として活動したが、キリスト教社会の中では異教徒として存在していた。しかし、ユダヤ人は最初から迫害されたわけではなく、11世紀頃までは共存していた。

十字軍時代に迫害始まる
 ユダヤ人に対する迫害が始まるのは、11世紀末に始まる十字軍時代以降のことであった。キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という教えに縛られていたのに対して、ユダヤ人は「金貸し」(金融業)が許されていたことから、商業の復活に伴って豊かになっていった。それは貧しいキリスト教徒の恨みをかうこととなった。キリスト教徒はユダヤ教徒がイエスを救世主として認めないこと、イエスを裏切ったのがユダヤ人だったことなどを口実に、しばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)を行うようになっていった。またスペインやイギリス、フランスでは国外追放にされたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられることとなった。
 とくに14世紀のヨーロッパで黒死病が大流行すると、キリスト教徒の不安がユダヤ人に向けられ、多くの迫害が行われた。当時はイギリスとフランスの百年戦争とその間の農民一揆の多発、教会の大分裂と教会批判の始まりなど中世ヨーロッパが転換期にさしかかっていたと言える。カール4世の治下のドイツでも大規模なユダヤ人迫害が起こっている。

Episode 黒死病とユダヤ人迫害
 ヨーロッパで黒死病が大流行したとき、キリスト教世界で偏見を持たれていたユダヤ教徒であるユダヤ人がその「犯人」ではないかと疑われた。ユダヤ教徒が井戸に毒を投げ込んだのだという噂がまことしやかに語られたという。それでなくともユダヤ人への迫害は激しくなっており、1287年にはイギリスのエドワード1世は国内のユダヤ人をすべて捉え、身代金を払わせた上で国外追放にした。黒死病の流行が始まると、ドイツやスイス、フランス、スペインなど各地でユダヤ人が捉えられ、私刑にあって殺害されたり、ゲットーが襲われたりした。<村上陽一郎『ペスト大流行』1983 岩波新書 p.139-147>

スペインでのユダヤ教徒追放令
 イベリア半島ではイスラーム政権の下でユダヤ人はジズヤを負担すればその信仰は認められたので、共存が果たされ、商業や学術の上で重要な働きをしていた。しかし国土回復運動(レコンキスタ)の進行する中でカトリック教会への強固な信仰が形成され、次第に不寛容となり、迫害が強まった。そのため多くのキリスト教への改宗者(コンベルソ)が出現した。コンベルソも学者や官僚として活躍するものが多かった。そしてカトリックによる統一国家の建設をめざすイザベラは、異端審問などで異教徒を取締り、1492年、グラナダが陥落してレコンキスタが完了するとともに、ユダヤ教徒追放令を出した。そのためにユダヤ人は改宗者(コンベルソ)として残るか、イベリア半島を離れるかを迫られ、その多くがイベリア半島を離れた。

5章3節 用語リスト
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近代以降のユダヤ人

ユダヤ人概念の変質
 フランス革命において、ユダヤ人も一般市民と認められ、同等の権利を有するとされたことに見られるように、市民革命の時代をへて人権と平等の思想が一般化した。また、ヨーロッパで長期にわたって混在して定住、混血が続いたため、ユダヤ人はもは人種・民族として外見からは判断できなくなっていた。「ユダヤ人」の概念も揺らいでおり、使用言語や宗教での大まかなくくりも現実的ではなくなっており、いまや「ユダヤ人である」と自覚するかどうかによって決まってくるというのが実態である。さらに、自ら「ユダヤ人」であると自覚した人々の中には金融業で成功したロスチャイルド家や芸術(メンデルスゾーンなど)、科学(アインシュタインなど)、思想(マルクスなど)の面で活躍する人材が多く輩出した。これらのユダヤ系の人々を抜きにしてはヨーロッパの経済や文化は成り立たなくなっている。

近代のと反ユダヤ主義
 その反面、ヨーロッパ各国が帝国主義の段階に入ってくると、ナショナリズムは国家主義の側面を強くし、民族主義の側面でも次第に偏狭な人種主義が強まっていった。その恰好な攻撃目標とされたのがユダヤ人であり、反ユダヤ主義の高まりとなって現れてくる。それはユダヤ人だけではなく、ロマといわれた少数の漂白民や、あるいは黄色人種に対する差別感である黄禍論などにも見られるが、最も広く見られ、重要な意味を持っているのがユダヤ人に対する差別感であった。

ポグロムとシオニズム
 すでに19世紀のロシアではツァーリズムとギリシア正教会の側からの激しい迫害(ポグロム)が行われていたが、近代人権思想の始まったフランスにおいても、普仏戦争敗北後の軍国主義の風潮と結びついて反ユダヤ主義が強まり、ドレフュス事件が起こっている。19世紀末、このような反ユダヤ主義の高まりの中に身を置いたユダヤ人の中に、ヘルツルなどの明確な形でユダヤ人の国家建設をめざすシオニズム運動が起こってくる。

ナチスによるホロコースト
 第一次世界大戦ではイギリスがユダヤ国家の建設を認めた(バルフォア宣言)ため、パレスチナの地への帰還運動が始まったが、それはイギリスの西アジアへの勢力拡大と結びつき、現地のアラブ人との深刻な民族対立を生み出すこととなった。
 そして1930年代のドイツに登場したヒトラーのナチ党によって、最も組織的、強圧的なユダヤ人排斥が行われた。ヒトラーは若いころオーストリアのウィーンで偏執的な人種優劣観の影響を受け、アーリア人種(ドイツ人)の優秀な血をユダヤ人から守るためと称してその民族的絶滅という極端な主張を『わが闘争』などの著作や巧みな演説で吹聴し、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの民衆の不満をそちらに向けていった。ヒトラーの反ユダヤ主義は彼自身が多弁であったので多岐にわたっているが、特徴的な点は従来からのユダヤ資本の世界経済支配の野望というデマに加え、共産主義をユダヤ思想と結びつけ、革命に対する有産階級の不安をかき立てたところにある。ナチス・ドイツの組織的なユダヤ人排斥は、権力掌握後、1935年のニュルンベルク法によって確定し、水晶の夜などの悲劇を生みながら、第二次世界大戦が始まると強制収容所が国内およびその占領に設けられていった。戦争の激化に伴いユダヤ人絶滅を目指す狂気の行動となり、約600万人のユダヤ人が強制収容所に送られ、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所でユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)が実行されていった。ナチス=ドイツによるホロコーストの犠牲者は、現在では560万から590万にのぼると考えられている。

イスラエルの建国
 そのため大戦後は急速にユダヤ国家建設への同情が集まり、国際連合のパレスチナ分割決議をうけて、1948年にイスラエルを建国した。反発したアラブ連盟との間で直ちにパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発、その結果多数のパレスチナ難民が発生し、深刻なパレスチナ問題を生み出した。その後イスラエルはアメリカ・イギリスの支援のもと、強力な軍事国家化をはかり、アラブ側との戦闘で領土を広げ、入植地を広げていく。

https://www.y-history.net/appendix/wh0101-071.html