歴史・人名

弥生中期

   弥生中期(日本-日本-)追加
-200高祖が冒頓単于に屈辱的和議(アジア--)編集
-200ローマ・マケドニア間に第二マケドニア戦争開始(~前197)(欧州-ヨーロッパ-)編集
-200高祖、自ら韓王信を伐ち、平城で匈奴の軍に七日間包囲される(東アジア-中国-)編集
-200縄文時代[2世紀-7世紀](日本-日本-)編集
-200弥生中期 紀元前2世紀、高地性集落出現(中期?後期)
小国の分立(『漢書』地理志, 『後漢書』東夷伝)
墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)(日本-日本-)
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-200弥生前期弥生中期(日本-日本-)編集
-199テオティワカン文明 メソアメリカ文明の一段階。メキシコ高原で繁栄した都市文明。  前2世紀頃、メキシコ高原に成立したメソアメリカ文明の一段階の文明。「太陽のピラミッド」(山川・詳説世界史口絵参照)と「月のピラミッド」として知られる大石造建造物を残している。また農事を司る神々、多彩な彫刻やフレスコ画などの文化がみられる。同じころ、メキシコ各地にはユカタン半島のマヤ文明の他、いくつかの都市文明が形成された。メキシコ中央高原のテオティワカン文明は、7世紀頃から衰退。かわってこの文明を継承したトルテカ文明が栄えた。(中南米-メキシコ-)編集
-197キノスファライの決戦で、マケドニア、ローマに敗れる(欧州-ヨーロッパ-)編集
-196ロセッタ=ストーンが刻まれる(アフリカ-アフリカ-)編集
-196ラチフンディウムの進展(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)編集
-196ローマの将軍フラミニヌス、全ギリシアの自由を宣言(欧州-ヨーロッパ-)編集
-196淮陰侯韓信、誅殺される梁王彭越、反逆のかどで誅殺される(東アジア-中国-)編集
-195前漢・劉氏・・恵帝(東アジア-前漢-前漢)編集
-195黥布、叛乱し敗死高祖劉邦没恵帝立つ(東アジア-中国-)編集
-195衛氏朝鮮[BC195年ごろ~BC108年](東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮-衛氏朝鮮)編集
-194呂后、趙王如意とその母戚夫人を殺す(東アジア-中国-)編集
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、衛氏朝鮮建国。

中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、BC108年、遠征により滅ぼされることになった。衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。

衛氏朝鮮
燕人の国BC195年ごろ~BC108年そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。史記によれば、朝鮮は戦国の7雄の一つ燕の支配下に入っていた。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。BC195年頃のことである。衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。BC108年古朝鮮(衛満朝鮮=衛氏朝鮮)の滅亡。しかし、衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は漢の直轄地となった。そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。BC108年頃、前漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置。

衛満,王倹城に攻め入り,準王を追放して古朝鮮の王となる

衛満の執権
西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。(BC194年)
この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮-)
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-194衛満、古朝鮮の王となる国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮-)編集
-193蕭何没(東アジア-中国-)編集
-193311稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)立太子(日本-日本-弥生時代)編集
-191秦の「挟書律」を撤廃(東アジア-中国-)編集
-190曹参没(東アジア-中国-)編集
-189樊 没(東アジア-中国-)編集
-188前漢・劉氏・・少帝恭(東アジア-前漢-前漢)編集
-188恵帝没呂后の専権始まる(東アジア-中国-)編集
-187呂氏一族、王に封ぜられる(東アジア-中国-)編集
-186張良没(東アジア-中国-)編集
-185シュンガ朝が成立(アジア--)編集
-185マウリヤ朝滅亡(南アジア-インド-)編集
-184前漢・劉氏・・少帝弘(東アジア-前漢-前漢)編集
-180前漢・劉氏・・文帝(太宗)(東アジア-前漢-前漢)編集
-180呂后没丞相陳平、大尉周勃ら呂氏一族を討ち、文帝を立てる(東アジア-中国-)編集
-178陳平没(東アジア-中国-)編集
-174月氏が匈奴に追われて西方へ移動(アジア--)編集
-174淮南王長、謀反し蜀に遷されて死亡(東アジア-中国-)編集
-171第三マケドニア戦争始まる(~前168)(欧州-ヨーロッパ-)編集
-168ピュトナの戦~マケドニア滅亡(ギリシャがローマの属国となる。)(西欧-イタリア、ローマ、ギリシャ-)編集
-168ピドナの戦いでローマ、マケドニアを破り、属領とする(欧州-ヨーロッパ-)編集
-166ヘレニズム文化のインド伝播(南アジア-インド-)編集
-160サカ族の西方移動(アジア--)編集
-15892第8代孝元天皇が崩御(日本-日本-弥生時代)編集
-1581112第9代開化天皇が即位(日本-日本-弥生時代)編集
-157前漢・劉氏・・景帝(東アジア-前漢-前漢)編集
-157文帝没景帝立つ(東アジア-中国-)編集
-1571013開化天皇は都を春日率川宮に移す。(日本-日本-弥生時代)編集
-155晁錯、御史大夫に昇る中央集権策として諸侯の領地削減を進言(東アジア-中国-)編集
-154呉楚七国の乱(アジア--)編集
-154呉楚七国の乱起こり、周亜夫、これを平定晁錯、刑死(東アジア-中国-)編集
-149第3次ポエニ戦争(~-146)、ローマによるカルタゴ壊滅戦。カルタゴを滅ぼし、マケドニアを属州にする、第四マケドニア戦争(~前148)始まる(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)編集
-148御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)生誕(日本-日本-弥生時代)編集
-146ギリシャが共和政ローマの属国となる。古代ヨーロッパ-[ローマ](西欧-ギリシャ、イタリア、ローマ-)編集
-146第3次ポエニ戦争終結(カルタゴを徹底的に破壊)(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)編集
-146カルタゴ滅亡しアフリカ、ローマの属州となる。ローマ、コリントを破壊(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)編集
-146ティベリウスの改革-グラックス兄弟による市民へ土地を再配分する改革。-2世紀後半。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
-145司馬遷、生まれる(一説には前155年)(東アジア-中国、前漢-)編集
-141漢の武帝即位(東アジア-中国、前漢-)編集
-141前漢・劉氏・・武帝(世宗)(東アジア-中国、前漢-)編集
-141前漢の全盛期(東アジア-中国、前漢-)編集
-141景帝没武帝立つ(東アジア-中国、前漢-)編集
-140董仲舒(アジア--)編集
-140ヒッパルコス、ギリシア天文学を大成(欧州-ヨーロッパ-)編集
-140建元元年、建元は最初の年号武帝、賢良方正・直言極諌の士を挙げ、董仲舒を得る(東アジア-中国-)編集
-139バクトリア王国滅亡(アジア--)編集
-139張騫を大月氏に派遣(アジア--)編集
-136儒教の官学化(アジア--)編集
-136五経博士をおく~儒教の国教化(--)編集
-136漢が五経博士を置く(東アジア-前漢-前漢)編集
-136五経博士を置く(儒学の国教化)(東アジア-中国-)編集
-135シチリアの奴隷反乱(~前132)(欧州-ヨーロッパ-)編集
-134ティベリウス・グラックスの改革~-132ティベリウス・グラックス、元老院派に暗殺される(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-134漢が郷挙里選を実施(東アジア-前漢-前漢)編集
-134董仲舒の進言により、郡国から孝廉の士ひとりを選挙(東アジア-中国-)編集
-133ティベリウス・グラックスの改革( - -)編集
-133ローマでグラックス兄弟の改革(~前123)(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-133武帝、方士を遣わし、神仙を求む韓安国を護軍将軍とし、匈奴を誘殺せんとして失敗(東アジア-中国、前漢、匈奴-)編集
-130張湯ら、律令を定め、「見知の法」を作る武帝、陳皇后を廃す(東アジア-中国-)編集
-13015御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)立太子(日本-日本-弥生時代)編集
-129匈奴、上谷に入寇、将軍衛青・李広らこれを討つ(東アジア-中国、匈奴-)編集
-128李広、右北平太守となる(東アジア-中国-)編集
-127武帝が匈奴を攻撃(東アジア-中国、前漢、匈奴-)編集
-126張騫、西域より帰る(東アジア-中国-)編集
-124公孫弘、丞相となる博士に弟子五十人を置く汲黯、右内史となる(東アジア-中国-)編集
-123ガイウス・グラックス、兄の遺志を継ぎ改革に乗り出す~-121(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-123グラックス兄弟の改革(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)編集
-122張騫を再び西域に派遣(一説に前119年)淮南王安・衛山王賜、謀反を企てて誅殺される(東アジア-中国-)編集
-121将軍霍去病、匈奴を討ち、祁連山にいたる匈奴渾邪王、投降す(東アジア-中国-)編集
-115漢の均輸法(桑弘羊の建議)(東アジア-前漢-前漢)編集
-115桑弘羊、大農丞となる均輸の官を置き、物価を統制郡国の鋳銭を禁止(東アジア-中国-)編集
-115張騫、帰国し、西域と初めて通じる(東アジア-中国-)編集
-112ユグルタ戦争~-105(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-111敦煌郡などを置く(アジア--)編集
-111北アフリカでユグルタ戦争始まる(~前105)(欧州-ヨーロッパ-)編集
-111日南群など9郡を置く(日本-日本-弥生時代)編集
-110漢の平準法(東アジア-前漢-前漢)編集
-110武帝、北巡し、泰山で封禅を行う桑弘羊、平準法を施行し、物価の安定をはかる(東アジア-中国-)編集
-108朝鮮を平定し、楽浪など四郡を置く(東アジア-中国-)編集
-108紀元前108年~220年:漢(植民地(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
-108衛氏朝鮮滅亡(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮-衛氏朝鮮)編集
-108前漢の武帝により,衛氏朝鮮滅亡
前漢,楽浪郡など郡県設置.地域土着民の反発を受ける

衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。この直轄支配は、約400年続いた。

朝鮮半島、中国支配の始まり(BC108ー313)
紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。&ref(): File not found: "image121.jpg" at page "data_弥生中期";;この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。そして、3世紀になると(文章にしてしまえば、短いですがBC108年からですからかなり長い年月が経ってますよぉ)、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。&ref(): File not found: "image19.jpg" at page "data_弥生中期";;しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮、前漢-)
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-108古朝鮮滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮、前漢-古朝鮮滅亡)編集
-108'原三国時代(BC108-4世紀中葉)'(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、新羅-原三国時代)編集
-108武帝が朝鮮に楽浪・真番・臨屯・玄菟など4郡設置(東アジア-朝鮮、前漢-)編集
-108漢、郡県設置国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、前漢-)編集
-108紀元前108年~220年:漢(植民地よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、前漢-)編集
-108このころ日本の弥生文化(日本-日本-弥生時代)編集
-107~マリウスの兵制改革(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-107ローマでマリウスの軍制改革(欧州-ヨーロッパ-)編集
-104建章宮を造営太初暦を作成し、一月を歳首とする(東アジア-中国-)編集
-102マリウス、ゲルマンのテウトニ人を破る(欧州-ヨーロッパ-)編集
-101マリウス、ゲルマンのキンブリ人を破る(欧州-ヨーロッパ-)編集
-101蘇武、匈奴に使いし、捕らえられる(東アジア-中国-)編集
-100カエサル(~44)(西欧-イタリア、ローマ-)編集
-100三国時代
BC100年頃  中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。(東アジア-朝鮮、百済-三国時代)
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-100魚見ケ原遺跡(日本-日本-弥生時代)編集
-100小国家の発生(日本-日本-弥生時代)編集
-100青銅器の伝来(日本-日本-弥生時代)編集
-100弥生中期弥生後期(日本-日本-弥生時代)編集
-100倭(日本)に100以上の小国が存在する(漢書-地理志より)(日本-日本-弥生時代)編集
-100弥生後期 紀元前5世紀、北部九州で紀元前700年ころ始まった水稲耕作が西日本に伝わり、やがて東北地方の一部まで伝わる(砂沢遺跡)。湿地が中心。木の鍬・鋤を使用。
環濠集落出現(前期?後期)(日本-日本-)
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