弥生後期
弥生後期(日本-日本-弥生時代) | |||||
-100 | カエサル(~44)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-100 | 三国時代 BC100年頃 中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。(東アジア-朝鮮、百済-三国時代) | ||||
-100 | 魚見ケ原遺跡(日本-日本-弥生時代) | ||||
-100 | 小国家の発生(日本-日本-弥生時代) | ||||
-100 | 青銅器の伝来(日本-日本-弥生時代) | ||||
-100 | 倭(日本)に100以上の小国が存在する(漢書-地理志より)(日本-日本-弥生時代) | ||||
-100 | 弥生後期紀元前5世紀、北部九州で紀元前700年ころ始まった水稲耕作が西日本に伝わり、やがて東北地方の一部まで伝わる(砂沢遺跡)。湿地が中心。木の鍬・鋤を使用。 環濠集落出現(前期?後期)(日本-日本-) | ||||
-100 | 弥生中期→弥生後期(日本-日本-弥生時代) | ||||
-99 | 李広利、匈奴を討つ別働隊の将李陵、破れて捕虜となる(東アジア-中国-) | ||||
-99 | 司馬遷、李陵を弁護したため、宮刑に処せられる(東アジア-中国-) | ||||
-98 | 4 | 9 | 第9代開化天皇崩御111歳(日本-日本-弥生時代) | ||
-97 | 1 | 13 | 第10代崇神天皇が即位(日本-日本-弥生時代) | ||
-97 | 2 | 16 | 崇神天皇が御間城姫を皇后とする。(日本-日本-弥生時代) | ||
-96 | 司馬遷、大赦により出獄し、中書令となる(東アジア-中国-) | ||||
-95 | 9 | 都を磯城端籬宮に移す(現在の奈良県桜井市金谷付近)(日本-日本-弥生時代) | |||
-93 | 疫病が流行し、民の死亡するもの半ば以上(日本-日本-弥生時代) | ||||
-92 | 巫蠱の事件起こるこのころ司馬遷の『史記』完成(東アジア-中国-) | ||||
-91 | 同盟市戦争(ソキイ戦争)~同盟市のローマ市民権要求(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-91 | イタリア同盟市戦争全イタリアの自由民にローマ市民権が与えられる~-88(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-91 | 同盟市戦争でイタリアの同盟市がローマに離反(~前88)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-91 | 巫蠱事件により、戻太子の反乱事件起こる衛皇后及び戻太子自殺(東アジア-中国-) | ||||
-91 | 司馬遷の友人任安、連座して死刑の判決を受ける(東アジア-中国-) | ||||
-90 | 李広利、匈奴に降る(東アジア-中国-) | ||||
-88 | ローマで平民派と閥族派の争い(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-88 | 第一次ミトリダテス戦争~-84(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-88 | ローマでマリウスとスラの内乱(~前82)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-88 | 9 | 9 | 大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波にそれぞれ遣わし「教えに従わない者があれば兵をもって討て」と、印綬を授け将軍とした。(日本-日本-弥生時代) | ||
-88 | 9 | 9 | 崇神天皇は四道将軍を遣わす。(日本-日本-弥生時代) | ||
-87 | 前漢・劉氏・・昭帝(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-87 | 武帝没昭帝立つ(東アジア-中国-) | ||||
-86 | 司馬遷死す(異説あり)(東アジア-中国-) | ||||
-86 | 9 | 16 | 朝廷が初の人口戸口調査を行う(日本-日本-弥生時代) | ||
-83 | 第二次ミトリダテス戦争~-81(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-82 | スッラの独裁、元老院支配を再建(~前79)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-74 | 第三次ミトリダテス戦争~-63(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-74 | 前漢・劉氏・・宣帝(中宗)(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-74 | 前漢・劉氏・・廃帝(昌邑王)(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-73 | カーンバ朝に代わる(アジア--) | ||||
-73 | 剣奴スパルタクスの反乱(~71)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-73 | インドでシュンガ朝滅亡(南アジア-インド-) | ||||
-73 | ローマでスパルタクスの蜂起(~前71)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-73 | スパルタクスの反乱-剣闘士・奴隷による戦争-前71年。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-69 | 1 | 1 | 活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)生誕(日本-日本-弥生時代) | ||
-64 | ミトリダテス戦争終結(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||||
-63 | ポンペイウス、ポントスを属州にする、ミトリダテス王自殺キケロ、カティリーナの陰謀を弾劾(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-60 | (ポンペイウス、カエサル、クラッスス)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-60 | ローマ、第1回三頭政治始まる~ポンペイウス、クラックス、カエサル(シーザー)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-60 | 第一回三頭政治-ユリウス・カエサル、ポンペイウス、クラッスス。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-60 | 漢が西域都護府を置く(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-58 | カエサル、ガリア征服(~前50)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-58 | ガリア戦争-共和政ローマvsガリア(ローマ勝利)-前51年。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-57 | 朴赫居世、徐羅伐(後の新羅)建国 第1代 新羅王 赫居世西干(BC57~AD4) 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。 三国時代(BC57ー676) 韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。BC57年 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。(「三国史記」)国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。 新羅(356ー935) 新羅は三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。BC57年からAD935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済と高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅は高句麗、百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-54 | 匈奴が東西に分裂(アジア-匈奴-) | ||||
-51 | ユリウス・カエサルはクレオパトラをエジプトの女王にする。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-50 | 倭人達が兵を率いて新羅の辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
-50 | 4 | 19 | 活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)立太子(日本-日本-弥生時代) | ||
-49 | カエサルとポンペイウスの内戦~-48ファルサロスの戦い、ポンペイウスはエジプトで暗殺される(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-49 | カエサル、元老院(ローマ)との内乱に突入(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-49 | 前漢・劉氏・・元帝(高宗)(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-48 | カエサルがエジプトの統治をクレオパトラにゆだねる(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-48 | ポンペイウスがエジプトで暗殺される(アフリカ-エジプト-) | ||||
-48 | ファルサロスの戦いでカエサル、ポンペイウス軍を破る。ポンペイウス(前106~)暗殺(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-46 | ローマ、ユリウス暦制定(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-46 | ユリウス・カエサルによる独裁となる-前44年。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-45 | カエサル、終身のディクタトルとなる(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-45 | ユリウス暦の実施。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-44 | ユリウス・カエサルが暗殺される。古代ヨーロッパ-[ローマ](西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-43 | ローマ、第2回三頭政治始まる~オクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥス(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-43 | 第二回三頭政治-アウグストゥス、アントニウス、レピドゥス-前36年。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-42 | フィリッピの戦いでオクタウィアヌス、アントニウスがブルートゥスを破る(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-40 | サカ族が北西インドを支配(南アジア-インド-) | ||||
-37 | 高句麗の建国(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
-37 | BC37年高句麗の建国 第1代 高句麗王 東明聖王(BC37~BC19) 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国 高句麗 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
-37 | その2・高句麗の建国やがて、紀元前108年に古朝鮮が滅びたあと、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持つ、いろいろな部族国家が登場します。その中には、今の長春にあった、扶餘(ぶよ)という国もありました。高句麗の歴史は、その扶餘から始まります。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになります。東扶餘には、ヘブルという王がいました。そしてヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王、すなわち朱夢が生まれる。卵から生まれるとはどういうことでしょうか。韓国の神話では、高句麗、新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれています。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味です。王子であれば、国を受け継げばいいのです。しかし捨てられたから、新たに建国することができるのです。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現されています。朱夢という名前の意味は何なんでしょうか。弓の実力が優れた人の代名詞です。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前です。朱夢は幼いときから、優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案します。そこで扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開きました。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯です。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、ついに高句麗を建国しました。その時、彼は22才。紀元前37年のことです。朱夢、彼は扶餘の生まれ育ちですが、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫でした。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダとなったのでしょう。そして、ただの神話だけではなく、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服による政治統合が勇敢な国、高句麗を開いたのです。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
-37 | 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。 高句麗(BC37ー668)高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済・新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした。BC37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-33 | 前漢・劉氏・・成帝(統宗)(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-31 | アクティウムの海戦~オクタヴィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破る(アフリカ-アフリカ-) | ||||
-31 | ユリウス=クラウディウス朝アクティウムの海戦古代エジプトの終焉(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-31 | アクティウムの海戦-「アウグストゥス」vs「アントニウス+クレオパトラ連合軍」(アウグストゥスの勝利)。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-30 | クアントニウスとレオパトラが自殺、プトレマイオス朝滅亡、エジプトの属州化(アフリカ-アフリカ、イタリア、ローマ-) | ||||
-30 | エジプトが共和政ローマの属国となる。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-30 | 12 | 5 | 第10代崇神天皇崩御119歳(日本-日本-弥生時代) | ||
-29 | 1 | 2 | 第11代垂仁天皇が即位(日本-日本-弥生時代) | ||
-29 | 10 | 11 | 崇神天皇を山辺道上陵に葬る(日本-日本-弥生時代) | ||
-28 | アーンドラ朝が北インドを統一(南アジア-インド-アーンドラ朝) | ||||
-28 | 2 | 9 | 垂仁天皇は狭穂媛命をたてて皇后とする(日本-日本-弥生時代) | ||
-28 | 10 | 垂仁天皇は都を纏向の珠城宮とした。(日本-日本-弥生時代) | |||
-27 | オクタビアヌスが元老院からアウグスツスの称号を受ける(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-27 | ローマ元首政(帝政)開始(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-27 | オクタヴィアヌス、アウグストゥスの称号を得る皇帝に即位し帝政がはじまる(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-27 | オクタウィアヌス、アウグストゥスの尊称を受ける(ローマ帝政の始)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-27 | アウグストゥスがローマ皇帝となる(ローマ帝国の誕生)。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-26 | カンタブリア戦争~-25(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
-26 | 9 | 23 | 狭穂彦王(さほびのみこ)が同母妹で垂仁天皇の皇后でもある狭穂姫(さほびめ)に天皇の暗殺を依頼する。(日本-日本-弥生時代) | ||
-25 | 10 | 1 | 垂仁天皇が皇后狭穂姫(さほびめ)の涙で狭穂彦王(さほびのみこ)の謀反を知る(日本-日本-弥生時代) | ||
-25 | 狭穂彦。沙本毘古王。 ワカヤマトネコヒコ(9代開花天皇)の御子ヒコヰマスの子。 サホ姫・カンホネ・タニハチヌシと兄弟。 イクメイリヒコ(11代垂仁天皇)を殺して天下を得ようと、天皇の内宮になっている妹のサホ姫に秘刀を渡し、殺害を依頼する。しかし企みはサホ姫の涙によって露見し、ヤツナダによって討たれる。(日本-日本-弥生時代) | ||||
-20 | 春二月に、倭人の瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。(東アジア-朝鮮、倭、馬韓-) | ||||
-19 | ローマの叙事詩人ウェルギリウス没(前70~)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-19 | 朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
-18 | その3・三国時代の幕開け・百済と新羅の誕生紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢が建国した高句麗。その南には百済と新羅がありました。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在しました。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からでした。ある日、高句麗の王、朱夢の所に、男の子が訪ねてきました。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せました。朱夢はユリを自分の息子と認めます。そして王位継承権者である太子の地位を与えました。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいました。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟であるビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行きます。二人はどこへ行ったのでしょう。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行きました。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変な苦労がありました。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れました。一方、弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行きました。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってきました。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合して、一つの国家を作り上げていました。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができたのでしょう。やがてオンゾは国名を百済に変えました。しかしその百済も西暦660年に、また高句麗は668年に滅びます。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅です。新羅を建国したのは朴ヒョコセといいます。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につきましたがその王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくこととなりました。もう少し詳しくみてみましょう。その新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人だったのでしょう。その少し前のお話になります。今の慶尚道にあった辰韓には6つの村がありました。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを希望するようになりました。そうしたある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けているではありませんか。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵がありました。白馬は人を見ると天に上って行きました。そして卵が二つに割れて、そこから可愛い男の子が生まれました。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめて、誠意をもって育て、彼が13歳になった時、王として即位させました。その男の子が朴ヒョコセだったのです。これは自らつけた名前です。ここにも、卵から生まれてきた男の子が出てきました。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と、呪術の範囲に留まっている部分が多いそうです。その分、高句麗や百済よりは古代王国になるのが遅かったといえるでしょう。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代のことです。しかし、新羅は優秀な鉄器文化を持つ周辺国、即ち高句麗、百済との交流を通じて、時には牽制をもうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励むのです。高句麗と百済、そして新羅。それらが作った三国時代。その期間は長く、700年間にも及びました。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
-18 | 十済(後の百済)建国(東アジア-朝鮮、十済:百済-) | ||||
-18 | 高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済。 倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。 百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-18 | 朱蒙の子,温柞,百済建国 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-18 | 百済の建国伝説 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。 (注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。) やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。 (注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。) 第1代百済王温祖王(BC18~AD28) 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城(現在の広州市南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。 温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる 慰礼城、現ソウル市付近) (百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある) (北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-18 | 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」)RIGHT:倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-16 | 靺鞨が北部に侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-15 | 2 | 10 | 垂仁天皇は日葉酢媛他を後宮に入れる(日本-日本-弥生時代) | ||
-15 | 8 | 1 | 垂仁天皇は日葉酢媛を皇后に立てる(日本-日本-弥生時代) | ||
-13 | 大足彦忍代別尊(景行天皇)生誕(日本-日本-弥生時代) | ||||
-11 | 靺鞨が慰礼城を包囲(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-10 | 神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-7 | 前漢・劉氏・・哀帝(東アジア-前漢-前漢) | ||||
-6 | 東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-4 | イエス・キリストが誕生する12月25日。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
-2 | 楽浪が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-1 | 前漢、劉氏・・平帝(元宗)百済に靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(東アジア-前漢、朝鮮、百済-前漢) | ||||
0 | ↓紀元(1-600)(日本-日本-) | ||||
1 | ↑紀元前(日本-日本-) | ||||
1 | 百余国に分立。漢(楽浪郡)に遣使。(日本-日本-弥生時代) | ||||
1 | 倭の奴国王、後漢に入貢(日本-日本-弥生時代) | ||||
1 | 倭奴国、金印授綬(日本-倭奴国-) | ||||
4 | 第2代新羅王南解次次雄(4~24)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
5 | 前漢・劉氏・・孺子嬰(東アジア-前漢-前漢) | ||||
6 | 柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
7 | 巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
8 | 前漢滅亡、新・王氏・・王莽が新を建てる(~23)(東アジア-新、前漢-) | ||||
8 | 1 | 1 | 大足彦忍代別尊(景行天皇)立太子(日本-日本-弥生時代) | ||
9 | トイトブルクの森で三個軍団がゲルマン人により全滅(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
9 | トイトブルクの戦いでローマ軍、ゲルマン人に大敗(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
9 | 馬韓を滅ぼす(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
14 | ティベリウスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
14 | アウグストゥス没(前63~)、ティベリウス即位(~37)、ユリウス・クラウディウス朝始まる(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
14 | 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。(東アジア-朝鮮、倭-) | ||||
15世 | 紀イタリア・ルネサンスの最盛期(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
18 | 赤眉の乱(アジア--) | ||||
18 | 第3代高句麗王大武神王(18~44)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
18 | その4・高句麗の領土拡張その一、デムシン王韓国の歴史の中で、一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗。2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移しました。今の中国の集安です。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地、豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨綠江が流れています。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたこと、それが都を移転した一番重要な目的でした。高句麗の2代目のユリ王、そうです、建国の王・朱夢の所に、半分に折れた短刀を持った男の子が訪ねてきましたね。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリです。高句麗2代目のユリ王です。その頃、高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王は高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきました。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収めました。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる訳です。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていました。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築いたのです。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は、こんどは目を南のほうへ向けます。デムシン王の息子ホドン王子の話になります。ある夏の日、ホドン王子は南の地域を旅していました。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行ったのです。楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚をするために帰国することにしました。楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って、危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓がありました。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいたのです。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできなかった、チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが、楽浪姫だったのを知り、怒った彼は、楽浪姫を殺してしまいました。高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていたのでした。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選びました。その時に降伏した楽浪は、5年後には、完全に滅びてしまいます。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代にいたるまで悲しい恋の話として、言い伝えられています。悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいました。楽浪はどこにあったか。いろいろと説があるようですが、平壌を中心とした地域と推定されています。国内城からはかなり距離がありますが、高句麗の南のほうへの征服を意味しているのでしょう。ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作りました。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始めます。高句麗の建国後、百年が経つ西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されています。その領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられています。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
19 | 第2代高句麗王琉璃明王(19~AD18) 干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
20 | 大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
22 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
23 | 新の滅亡(東アジア-新-) | ||||
24 | 第3代新羅王儒理尼師今(24~57)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
25 | 後漢・劉氏・・光武帝(劉秀)(世祖)の即位(後漢の成立)(~220)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
25 | 南沃沮が帰順(現江原道付近)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
27 | オクタヴィアヌスのローマ帝政の開始(--) | ||||
28 | 第2代百済王多婁王(28~77) 多婁王即位タル(温祚王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
30 | イエス・キリストが十字架刑になる(アジア--) | ||||
30 | キリストが処刑される( - -) | ||||
30 | イエス・キリストが処刑される。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
31 | アクティウムの海戦:オクタビアヌスが連合軍を破る(--) | ||||
33 | 国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
34 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
37 | カリグラの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
40 | パウロの伝道活動(~60)( - -) | ||||
41 | クラウディウスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
42 | 第1代加羅王首露王(42~199)(東アジア-朝鮮、加羅-) | ||||
43 | ブリタニア、ローマの属州となる(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
44 | カエサルが暗殺される(--) | ||||
44 | 第4代高句麗王閔中王(44~48)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
45 | クシャーナ朝成立(中東-アフガニスタン-) | ||||
47 | パウロの伝道(~55)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
48 | ポンペイウスがエジプトで暗殺される(--) | ||||
48 | 匈奴が南北に分裂(東アジア-モンゴル-) | ||||
48 | 第5代高句麗王慕本王(48~53)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
53 | 第6代高句麗王太祖大王(53~146) 高句麗、太祖王即位(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
54 | ネロの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
54 | ローマ、クラウディウス1世殺害、ネロ即位(~68)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
57 | 後漢・劉氏・・明帝(顕宗)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
57 | 光武帝死亡(東アジア-後漢-後漢) | ||||
57 | 倭の奴国王(なこくおう)が後漢に朝貢して光武帝から漢委奴国王印を印綬(後漢書-東夷伝より)(東アジア-中国、後漢、日本、倭奴国-弥生時代) | ||||
57 | 第4代新羅王脱解尼師今(57~80) 新羅の4代王脱解即位。脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
57 | 倭の女王卑弥呼、魏に使いを送る(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
58 | 倭人の瓠公、春正月に新羅の最高官位の大輔を拝命(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | ||||
60 | ブーディカの反乱AD60年に夫プラスタグス王が亡くなると、二人の娘の王位継承は認められず、ローマは領土や財産を没収した。ブーディカはローマの侵略に必死に抵抗したが、縛られて鞭で打たれ、更に2人の娘は辱めを受けた。 この仕打ちに対しブーディカは激しく怒り、周辺部族と連合して大規模な反乱を起こした。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
63 | 領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
64 | ローマ市の大火(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
64 | ローマの大火(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
64 | このころペテロ、パウロが殉教(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||||
64 | 皇帝ネロのキリスト教徒迫害始まり、このころペテロ、パウロ殉教か(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
64 | 皇帝ネロ(暴君)がキリスト教徒を迫害する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
64 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
67 | 中国に仏教伝来(東アジア-後漢-後漢) | ||||
68 | 内乱とネロの死(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
68 | ローマで内乱、ネロ自殺(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
69 | フラウィウス朝ウェスパシアヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
69 | ローマ、ウェスパシアヌスが内乱鎮定、即位、フラウィウス朝始まる(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
70 | ユダヤ人の流浪はじまる(アジア--) | ||||
70 | ローマ軍がエルサレムを破壊(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
70 | 内乱の終結(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
70 | 7 | 14 | 垂仁天皇が纏向宮で崩御139歳(日本-日本-弥生時代) | ||
70 | 12 | 10 | 垂仁天皇を菅原伏見陵に葬る(日本-日本-弥生時代) | ||
71 | 3 | 12 | 垂仁天皇の命で常世国に遣わされていた田道間守が非時の香果を持ち帰った(橘・・・蜜柑の原種)(日本-日本-弥生時代) | ||
71 | 7 | 11 | 第12代景行天皇が即位(日本-日本-弥生時代) | ||
72 | 3 | 3 | 景行天皇は播磨稲日大郎姫を皇后とする(日本-日本-弥生時代) | ||
73 | 新羅、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
74 | マサダ要塞の攻略(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
74 | 11 | 1 | 景行天皇は都を纏向の日代宮(ひしろのみや)に遷す。(日本-日本-弥生時代) | ||
75 | 後漢・劉氏・・章帝(粛宗)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
75 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
77 | 第3代百済王己婁王(77~128) 己婁王即位コル(多婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
78 | ローマの軍人アグリコラによりブリタニアのローマ化進む(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
79 | ローマ、ティトゥスの即位ヴェスヴィオ山噴火、ポンペイ埋没(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
79 | ローマ、ベスビオ火山噴火、ポンペイ埋没(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
79 | 8 | 24 | ベスビオ火山の爆発西暦79年8月24日の昼過ぎ、イタリアのヴェスヴィオ山の大噴火により「死の灰」に飲み込まれた。 当時1万2000人が暮らしていたが、時速100km以上という猛スピードの火砕流に襲われて一瞬で生き埋めとなった。(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||
80 | ローマでコロセウム完成(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
80 | コロッセオが完成する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
80 | 第5代新羅王婆娑尼師今(80~112)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
81 | ドミティアヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
82 | 班固の「漢書」ほぼ完成(アジア--) | ||||
82 | 8 | 15 | 景行天皇は熊襲征伐に筑紫にむけ出発(日本-日本-弥生時代) | ||
83 | ライン・ドナウ長城築造開始(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
84 | 稚足彦尊(成務天皇)生誕(日本-日本-弥生時代) | ||||
85 | ダキア戦争~89(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
85 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
88 | 後漢・劉氏・・和帝(穆宗)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
89 | 9 | 20 | 景行天皇は熊襲征伐に成功し帰国(日本-日本-弥生時代) | ||
90 | 班超がクシャーナ朝を討つ(アジア--) | ||||
91 | 同盟市戦争(ソキイ戦争)(--) | ||||
92 | 宦官の専横はじまる(アジア--) | ||||
92 | 日食 懿徳92-105(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
96 | ローマ五賢帝時代(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
96 | ローマ、ネルウァ即位、五賢帝時代始まる(~180)(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
96 | 五賢帝時代-ローマ帝国の5人のすぐれた皇帝時代-180年。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-) | ||||
97 | 甘英を大秦へ派遣(アジア--) | ||||
97 | 10 | 13 | 16歳の小碓[をうす]皇子(日本武尊)が景行天皇が熊襲征伐を命じられ出発。(日本-日本-弥生時代) | ||
97 | 12 | 日本武尊が熊襲制圧に成功(日本-日本-弥生時代) | |||
98 | トラヤヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
98 | 2 | 1 | 日本武尊が熊襲征伐に成功し大和に凱旋(日本-日本-弥生時代) | ||
99 | 弥生中期/弥生後期(日本-日本-弥生時代) | ||||
100 | ガンダーラ美術おこる(アジア--) | ||||
100 | 北朝鮮に高句麗が起こる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
100 | 高句麗3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。 中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
100 | この頃水稲耕作、東北南部まで広まる(日本-日本-弥生時代) | ||||
100 | 山ノ口遺跡・王子遺跡(日本-日本-弥生時代) | ||||
100 | 弥生中期/弥生後期(日本-日本-弥生時代) | ||||
101 | 第1回ダキア戦争~102(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
105 | 蔡倫、紙を発明(--) | ||||
105 | 第2回ダキア戦争~106(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
105 | 後漢・劉氏・・殤帝(東アジア-後漢-後漢) | ||||
105 | 蔡倫が製紙法を改良(東アジア-後漢-後漢) | ||||
105 | 孝昭105-137 新羅と和睦交渉(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
106 | ローマのトラヤヌス帝、ダキアを属州とする(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
106 | 後漢・劉氏・・安帝(恭宗)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
107 | 倭国王・帥升(すいしょう)等後漢に入貢生口160人を献上(後漢書、東夷伝)後漢書・東夷伝は5世紀に宋の范曄があらわしたものである。したがって、何か元になる書物から引用したものと思われる。 2世紀後半倭国大乱(日本-日本、後漢-弥生時代) | ||||
108 | 大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
110 | 7 | 16 | 景行天皇が日本武尊(ヤマトタケル)に東夷討伐を命じる(日本-日本-弥生時代) | ||
110 | 10 | 2 | 日本武尊が東夷討伐に出発する。(日本-日本-弥生時代) | ||
110 | 10 | 7 | 日本武尊が伊勢神宮で倭姫命から天叢雲(後の草薙剣)を賜る(日本-日本-弥生時代) | ||
112 | 第6代新羅王祇麻尼師今(112~134)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
113 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
114 | 東方遠征、ローマ帝国最大版図~117(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
114 | トラヤヌス、アルメニア・メソポタミアを併合、ローマ帝国の版図最大(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
115 | トラヤヌス、パルティアの都クテシフォンを陥す(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
116 | 8 | 4 | 稚足彦尊(成務天皇)が立太子(日本-日本-弥生時代) | ||
117 | ローマ帝国の領土が最大となる(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
117 | ハドリアヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
117 | トラヤヌス帝(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||||
120 | ローマの歴史家タキトゥス没(55ころ―)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
121 | 百済建国事情 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。 このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。 新羅、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
122 | ハドリアヌス長城ハドリアヌス、ブリタニアに長城を築造し、ローマの対外政策、守勢に転ず(西欧-イギリス、ローマ-) | ||||
123 | 新羅、春三月に倭国と講和した。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
125 | ローマのパンテオン、工事完了(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
125 | 後漢・劉氏・・順帝(敬宗)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
125 | 後漢・劉氏・・少帝(東アジア-後漢-後漢) | ||||
125 | 新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
127 | 武帝が匈奴を攻撃(--) | ||||
128 | 第4代百済王蓋婁王(128~166) 蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
129 | ハドリアヌス、アテネに行き、市外の美化進む(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
130 | 11 | 7 | 第12代景行天皇崩御(大足彦忍代別尊)享年143歳といわれているが・・・?(日本-日本-弥生時代) | ||
131 | 1 | 5 | 第13代成務天皇(日本-日本-弥生時代) | ||
131 | 1 | 5 | 稚足彦尊(成務天皇)が即位(日本-日本-弥生時代) | ||
133 | ティベリウス・グラックスの改革(--) | ||||
134 | 第7代新羅王逸聖尼師今(134~154)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
136 | 五経博士をおく ~儒教の国教化(--) | ||||
138 | アントニヌス・ピウスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
140 | クシャーナ朝の全盛(アジア--) | ||||
140 | カニシカ王即位(アジア--) | ||||
144 | 後漢・劉氏・・沖帝(東アジア-後漢-後漢) | ||||
145 | 後漢・劉氏・・質帝(東アジア-後漢-後漢) | ||||
146 | 第7代高句麗王次大王(146~165)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
146 | 倭国大乱(倭の小国どうしの内戦)の結果、卑弥呼が女王になり邪馬台国に都をおいた-189(日本-日本-弥生時代) | ||||
147 | 後漢・劉氏・・桓帝(成宗)(147-167)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
147 | 倭国大いに乱れる(147→189)。桓帝(147-167)・・・霊帝(168-189)の間(日本-日本-弥生時代) | ||||
150 | カニシカ王の仏典結集(アジア--) | ||||
150 | このころ大乗仏教の確立(アジア--) | ||||
150 | このころローマ帝国の全盛時代(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
150 | 馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる(東アジア-朝鮮、馬韓・弁韓・辰韓-) | ||||
150 | 150年頃馬韓、弁韓、辰韓の勢力が大きくなる(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
151 | 2世紀後期塔ノ首遺跡(上対馬町)(対馬)(日本-日本-) | ||||
154 | 第8代新羅王阿達羅尼師今(154~184)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
156 | 鮮卑王国の成立(アジア--) | ||||
158 | 新羅、倭人が交際のために訪れた。(東アジア-朝鮮、新羅、日本:、倭-) | ||||
161 | アントニヌス朝マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の即位、五賢帝の最後ルキウス・ウェルスが共治帝(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
161 | パルティア戦争~166(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
161 | ローマ、マルクス・アウレリウス即位(~180)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
163 | 百済の温祚即位(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
165 | ローマ帝国全土に疫病の大流行(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
165 | 第8代高句麗王新大王(165~179) 新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
166 | 第5代百済王肖古王(166~214) 肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
167 | ローマ、上パンノニアでスエビ人のマルコマンニが反乱(~173、178~180)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
167 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
168 | 党錮の獄(アジア--) | ||||
168 | ピュトナの戦 ~マケドニア滅亡(--) | ||||
168 | 後漢・劉氏・・霊帝(168-189)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
169 | ルキウス・ウェルスが死亡、マルクス・アウレリウスが単独統治(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
170 | 第1次ゲルマニア戦争~175(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
170 | 百済遷都 百済本紀の記録 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。 温祚13年 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。 百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
173 | 新羅、倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
174 | マルクス・アウレリウス『自省録』執筆開始(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
175 | カシウスの反乱(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
177 | コンモドゥスを共治帝に(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
178 | 第2次ゲルマニア戦争~180(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
178 | 3 | 1 | 仲哀天皇立太子(日本-日本-弥生時代) | ||
179 | 第9代高句麗王故国川王(179~197)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
180 | ゲルマン人のローマ帝国への移住(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
180 | マルクス・アウレリウスが死亡、コンモドゥスが単独統治(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
180 | マルクス・アウレリウス没、コンモドゥス即位、五賢帝時代終わる(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
184 | 黄巾の乱(東アジア-後漢-後漢) | ||||
184 | 第9代新羅王伐休尼師今(184~196)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
186 | 百済遷都に至る情勢 公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。 『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。 百済の多婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
188 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
189 | 後漢・劉氏・・献帝(東アジア-後漢-後漢) | ||||
189 | 後漢・劉氏・・廃帝(少帝)(東アジア-後漢-後漢) | ||||
190 | 6 | 11 | 第13代成務天皇崩御107歳(日本-日本-弥生時代) | ||
192 | 1 | 11 | 第14代仲哀天皇即位(日本-日本-弥生時代) | ||
193 | 内乱セウェルス朝セプティミウス・セウェルスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
193 | ローマ、セプティミウス・セウェルス即位(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
193 | 新羅、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
194 | セウェルス帝の軍、ユーフラテス川を越える(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
194 | 高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
194 | 高句麗、賑貸法実施国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
195 | パルティア遠征(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
196 | 第10代新羅王奈解尼師今(196~230)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
197 | パルティア遠征(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
197 | ローマ、テルトゥリアヌスの『護教論』成立(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
197 | 第10代高句麗王山上王(197~227)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
199 | 第2代加羅王居登王(199~259) 新羅へ侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
200 | このころ「新約聖書」なる(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||||
200 | 古墳文化発進(日本-日本-弥生時代) | ||||
200 | 倭の女王卑弥呼、帯方郡に遣使(239)(日本-日本-弥生時代) | ||||
200 | 2 | 6 | 第14代仲哀天皇崩御(日本-日本-弥生時代) | ||
200 | 2 | 6 | 神託を拒絶したため熊襲(くまそ)征討に失敗。病没する(日本-日本-弥生時代) | ||
200 | 10 | 3 | 神功皇后、新羅征討に出発。神託に従ってその神々を祀り、熊襲を討ったところあっけなく鎮圧に成功した。そして九州の制圧に成功する。そして、そのまま勢いに乗り新羅まで征圧してしまう。(日本-日本-弥生時代) | ||
200 | 12 | 14 | 誉田別尊(応神天皇)生誕(日本-日本-弥生時代) | ||
201 | 3~9世紀ころ古代メキシコ、グアテマラを中心にマヤ文化隆盛(古典期マヤ)(中南米-メキシコ、グアテマラ、マヤ-) | ||||
201 | 新羅との衝突 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。 新羅本紀脱解王3年 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。 (東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | ||||
201 | 3世紀頃中国の三国時代に陳寿(233~297)が著した「魏志倭人伝」に「対馬国」に関する模様が記述される。(対馬)(日本-日本-) | ||||
201 | 10 | 2 | 群臣は神功皇后を尊び皇太后と呼びこの年を神功摂政元年とした。(日本-日本-弥生時代) | ||
202 | 前漢、成立(東アジア-中国、前漢-) | ||||
203 | 新羅本紀脱解王5年(AD203年前半)馬韓の将軍新羅に投降 馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
203 | 1 | 3 | 誉田別尊(応神天皇)立太子(日本-日本-弥生時代) | ||
204 | 百済本紀多婁王36年(AD204年前半)使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。 新羅本紀脱解王7年(AD204年前半)百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。 孝元204-225(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
205 | 倭国との交渉 百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。 百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。 百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。 ①毎年貢物をよこすこと。 ②新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること ③朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。 ④朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。 ⑤楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。 三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀 63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた 64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。 66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。 70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。 74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。 75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・ 76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。 84・・214・・・・百済が辺境を侵した 85・・215・・新羅の辺境を侵した・・ 百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
205 | 後漢が帯方郡を設置(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
206 | 後漢,公孫康が帯方郡設置(東アジア-朝鮮、後漢-) | ||||
207 | 劉備、三顧の礼で諸葛亮を迎える(東アジア-中国、後漢-後漢) | ||||
208 | ブリタニア遠征~211(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
208 | 赤壁の戦い(中国3分の形勢)(東アジア-中国、後漢-後漢) | ||||
209 | 高句麗、国内城を郡に定める(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
210 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
211 | カラカラとゲタが共治帝ゲタの暗殺、カラカラの単独統治(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
211 | 百済の己婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
212 | 万民法(アントニヌス法)が全帝国内に及ぶ(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
212 | アントニヌス勅令、帝国内全自由民にローマ市民権(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
212 | カラカラ勅令、ローマ帝国内の全自由民に市民権を付与(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
214 | 第6代百済王仇首王(214~234) 仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男身長七尺という) 靺鞨と戦闘(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
216 | アレクサンドリア大虐殺(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
216 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
217 | マクリヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
217 | パルティア軍、ローマに大勝(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
218 | エラガバルスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
218 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
220 | 後漢滅亡。魏が建国。九品中正を制定(東アジア-後漢-後漢) | ||||
220 | 後漢滅亡、魏・呉・蜀の三国分立(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
220 | 三国時代・魏・曹氏・武帝(太祖)(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
220 | 三国時代・魏・曹氏・文帝(世祖)(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
220 | 倭の卑弥呼、韓と共に遼東の公孫氏に属す?(日本-日本-弥生時代) | ||||
220 | 三国時代(魏、蜀、呉)(東アジア-魏、蜀、呉-三国時代) | ||||
221 | 秦が中国を統一(--) | ||||
221 | 三国時代・蜀・劉氏・昭烈帝(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
221 | 221年~245年:魏(植民地)(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-) | ||||
221 | 221年~245年:魏(植民地)よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、魏-) | ||||
221 | 蜀が建国(東アジア-蜀-蜀) | ||||
222 | アレクサンデル・セウェルスの即位(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
222 | 呉が建国いわゆる三国時代(東アジア-呉-) | ||||
222 | 三国時代・呉・孫氏・大帝(太祖)(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
222 | 新羅を攻撃 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
223 | 三国時代・蜀・劉氏・後主(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
224 | 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
225 | 開化225-248(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
226 | ササン朝ペルシャの成立(-651)(中東-イラン、ペルシャ-) | ||||
226 | 三国時代・魏・曹氏・明帝(烈祖)(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
227 | 第11代高句麗王東川王(227~248)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | ||||
230 | ゾロアスター教がササン朝の国教となる(アジア--) | ||||
230 | 第11代新羅王助賁尼師今(230~247)(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
231 | ササン朝ペルシアとの戦争~232(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
232 | 新羅、夏四月に倭人が金城を包囲。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
233 | 新羅、五月倭兵が東辺を攻めた。(東アジア-朝鮮、新羅-) | ||||
234 | 第7代百済王古尓王(234~286) 古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子) 沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
234 | 諸葛孔明の病死(東アジア-蜀-蜀) | ||||
235 | 混乱期アレクサンデル・セウェルス暗殺(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
235 | 軍人皇帝時代となる(ヨーロッパ-ヨーロッパ-) | ||||
235 | ローマ、軍人皇帝時代始まる(~284) ローマ、このころゲルマン人の侵入盛ん(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
236 | アーンドラ朝の滅亡(アジア--) | ||||
236 | インドが分裂時代にはいる(南アジア-インド-) | ||||
236 | 百済の蓋婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
238 | ゲルマン民族の侵入~(西欧-イタリア、ローマ-) | ||||
238 | 天地を祭るために太鼓と笛を用いる(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
238 | 遼東半島の公孫淵が魏に滅ぼされる。魏が帯方郡を回復する(東アジア-魏-魏) | ||||
239 | 三国時代・魏・曹氏・廃帝(斉王)(東アジア-三国時代-三国時代) | ||||
239 | 魏志倭人伝によれば、この頃、邪馬台国(30国ほどの小国連合)の卑弥呼が大夫難斗米らを帯方郡に貢を持たせて派遣している。太守は役人を付添わせて洛陽に行かせたという。親魏倭王(しんぎわおう)の称号と金印紫綬と銅鏡100枚を賜る。(日本-日本-弥生時代) | ||||
240 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
240 | 魏志倭人伝によれば建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬を持たせて倭国に行かせたという。(日本-日本-弥生時代) | ||||
243 | 魏・高句麗討伐に乗り出す。(東アジア-朝鮮、魏、高句麗-) | ||||
245 | マニ教が創始される(アジア--) | ||||
246 | 魏と高句麗が合して侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
247 | 始皇帝が即位(--) | ||||
247 | 第12代新羅王沾解尼師今(247~261) 干ばつ多発(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
247 | 邪馬台国卑弥呼がと狗奴国(くなこく)卑弥弓呼と戦う。卑弥呼の死後、男王がたつが国内治まらず、壱与(台与)が女王となり治まる。(日本-日本-弥生時代) | ||||
248 | 第12代高句麗王中川王(248~270) 崇神248-273(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
249 | 新羅、夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | ||||
250 | ローマでデキウス帝のキリスト教徒大迫害(~251)(欧州-ヨーロッパ-) | ||||
250 | 弥生後期→古墳時代[250年頃~592年](日本-日本-弥生時代 → 古墳時代) |