歴史・人名

古墳時代

古墳時代

古墳時代
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できごと
372年 百済の肖古王、倭国に七枝刀1口、七子鏡1面おくる。「泰和4年」(369年)の紀年銘を持つ奈良県天理市の石上神宮の七支刀がこれにあたる。
391年 倭軍、百済新羅を破り、臣民とする。(「高句麗広開土王碑」)
400年 高句麗、倭軍を撃退する。(「高句麗広開土王碑」)
413年 倭国、東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、東晋・義熙9)
414年 高句麗の広開土王(好太王)碑たつ。
421年 倭王賛、宋に朝献し、武帝から除綬の詔を受ける。(『宋書倭国伝、宋・永初2)

古墳時代(こふんじだい)とは、3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたって前方後円墳が北は東北から南は中部九州まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれ、その終末期にも方墳・円墳、群集墳などが築造され続けていた時代である。 以前は続く飛鳥時代と合わせて大和時代とも称されていたが、今日では別個に考えるのが一般的となっている。 また、王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代でもある。他方、灌漑用水確保のための池溝の整備など大規模な開発も盛んに行われ、大土木時代でもあった。

概要
3世紀末から7世紀末まで、前方後円墳という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、奈良県桜井市の箸墓古墳が初期のものとされることから、前方後円墳はこの時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。これは、ヤマト王権がより強力な政権へ成長したことの現れだと解されている。この後しばらくの間、方墳や円墳は造り続けられる。

対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出し、新羅百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが広開土王碑文などから知られる。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。

時期区分
3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。日本で最古の古墳は奈良県桜井市にあるホケノ山古墳であるが、近年天理大学学生の地中レーダー探査などにより、この古墳の付近にさらに古い段階の古墳がある可能性が指摘されている。

古墳時代前期
3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

この時期の主な王墓
奈良県桜井市、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
奈良県桜井市、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)
奈良県桜井市、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)
奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280メートル)
奈良県桜井市、メスリ山古墳(240メートル)
主な首長墓
山梨県甲府市、銚子塚古墳(168メートル)
岡山市、神宮寺山古墳(約150メートル)
東広島市 三ツ城古墳

古墳時代中期
5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。

5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。

5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

一部の地域首長古墳が巨大化
岡山市 造山古墳(360メートル)
岡山県総社市 作山古墳(270メートル)
畿内の盟主墓
大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵、486メートル)
大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵、420メートル)
大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

古墳時代後期
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

古墳時代終末期
7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。少したって、畿内では前方後円墳が造られなくなり、天皇陵を含む大型古墳も方墳となり、関東では群集墳が盛んに造られた。

春日向山古墳(かすがむかいやまこふん、大阪府南河内郡太子町、用明天皇陵)
山田高塚古墳(推古天皇陵)
石舞台古墳(蘇我馬子の墓と推定、明日香村島庄、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
高松塚古墳
キトラ古墳
古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。

地域国家から古代国家へ

初期ヤマト王権
弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。このいずれかが母体となって3世紀半ばまでにヤマト王権が成立したと考えられているが、考古学の成果は奈良盆地勢力が吉備政権などと連合してヤマト王権へ成長したことを強く示唆している。北部九州の勢力が奈良盆地勢力を制圧し、奈良盆地へ東遷したとする見解もあるが、次第に支持を失ってきている。

ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされている。

ヤマト王権は、ヤマト地方を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭を代表する政治勢力へと成長し、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられており、『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不詳である。

倭の五王の時代
中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年)に『宋書倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇と見られている。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群(へぐり)氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島百済新羅高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱(527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。

初期国家の成立
安閑(531年-535年)・宣化(535-539年)・欽明(539-571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣をつくるなど、各地の豪族が部などをつくり、勢力をはっていた。

宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増し、崇峻朝(587年-592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。崇峻天皇は592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年)の乙巳(いつし)の変までの約半世紀間続いた。

明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事がわかっている。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。


   古墳時代[250年頃~592年](日本--弥生時代古墳時代)追加
   飛鳥時代(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
250ローマでデキウス帝のキリスト教徒大迫害(~251)(欧州-ヨーロッパ-)編集
250古墳時代[250年頃~592年](日本-日本-)編集
251デキウス、ゴート族に敗死(西欧-イタリア、ローマ-)編集
2513世紀後期仁位ハロー遺跡(豊玉町)・木坂遺跡(峰町)(対馬)(日本-日本-)編集
252三国時代・呉・孫氏・廃帝(会稽王)(東アジア-三国時代-三国時代)編集
254三国時代・魏・曹氏・廃帝(高貴郷公)(東アジア-三国時代-三国時代)編集
255新羅を攻撃
百済の肖古即位(東アジア-朝鮮、新羅百済-)
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257大鷦鷯尊生誕(仁徳天皇)(日本-日本-古墳時代)編集
258三国時代・呉・孫氏・景帝(東アジア-三国時代-三国時代)編集
258靺鞨が使者(東アジア-朝鮮、百済靺鞨-)編集
259第3代加羅王麻品王(259~291)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
260竹林の七賢人(アジア--)編集
260ヴァレリアヌス、ササン朝に捕われる~274ガリア帝国の誕生(西欧-イタリア、ローマ-)編集
260ローマのガリエヌス、キリスト教寛容令発布(欧州-ヨーロッパ-)編集
260三国時代・魏・曹氏・元帝(東アジア-三国時代-三国時代)編集
260官位を制定官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める
百済(古爾王),十六官等と公服制定(東アジア-朝鮮、百済-)
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260百済(古爾王)、一六官等と公服制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
261百済新羅と和親を求めるも得られず(東アジア-朝鮮、百済-)編集
262第13代新羅王味鄒尼師今(262~284)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
263蜀滅亡(東アジア-蜀-蜀)編集
264三国時代・呉・孫氏・末帝(東アジア-三国時代-三国時代)編集
265西晋・司馬氏・・武帝(世祖)(東アジア-西晋-)編集
265265年~313年:晋(植民地(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
265265年~313年:晋(植民地よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、晋-)編集
265魏滅亡、西晋の建国(東アジア-魏-魏)編集
266新羅を攻めるも敗退(東アジア-朝鮮、百済-)編集
266倭の女王・壱与西晋・洛陽に使いを送る。(晋書)これ以来しばらく中国との交渉がなく、謎の時代といわれる。(日本-日本-古墳時代)編集
266邪馬台国の女王、台与(とよ)が晋(中国)へ朝貢する(日本-日本-古墳時代)編集
267パルミラのゼノビア独立~272(西欧-イタリア、ローマ-)編集
269417神功皇后が若桜宮で崩御。100歳(日本-日本-古墳時代)編集
270第13代高句麗王西川王(270~292)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
270漢字の伝来※紀元前との説もある(~310頃(日本-日本-古墳時代)編集
270前方後円墳や円筒埴輪が出現する(3世紀後半頃(日本-日本-古墳時代)編集
270ヤマト王権(大和朝廷)が国内を統一する大王(おおきみ)を中心とした各地の豪族の連合政権であり、国家の政治の為、氏姓制度を導入する(3世紀後半頃(日本-日本-古墳時代)編集
27011第15代応神天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
271アウレリアヌスの城壁、ローマを囲む(西欧-イタリア、ローマ-)編集
272ダキア属州の放棄(西欧-イタリア、ローマ-)編集
279百済の仇首即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
280呉滅亡、晋の天下統一(東アジア-呉-)編集
280晋、中国統一(~316)「三国志」の著者・晋の陳寿は、西暦297年に65歳で死亡(東アジア-晋-)編集
280晋の占田法、課田法(東アジア-晋-)編集
284復興期ディオクレティアヌスの即位(西欧-イタリア、ローマ-)編集
284ローマ、ディオクレティアヌス即位(~305)、ドミナトゥス制の始(欧州-ヨーロッパ-)編集
284第14代新羅王儒礼尼師今(284~298)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
28486百済、阿直岐を遣わし良馬二匹を献上(日本-日本-古墳時代)編集
285ローマ帝国を2分(西欧-イタリア、ローマ-)編集
285カリヌスを破り、単独統治(西欧-イタリア、ローマ-)編集
285ディオクレチアヌス帝が(欧州-ヨーロッパ-)編集
286分割統治マクシミアヌスが共治帝が西部皇帝、ディオクレティアヌスが東部皇帝(西欧-イタリア、ローマ-)編集
286ディオクレティアヌス、帝国を二分し東部を統治(欧州-ヨーロッパ-)編集
286第8代百済王責稽王(286~298)
新羅と和親を求める
責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする
高句麗の帯方攻撃に対して援軍(東アジア-朝鮮、百済-)
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287新羅、夏四月に倭人が一礼部を襲う。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
289新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
百済の古爾即位
百済の沙伴即位(東アジア-朝鮮、百済-)
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290西晋・司馬氏・・恵帝(東アジア-西晋-)編集
291第4代加羅王居叱弥王(291~346)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
292第14代高句麗王烽上王(292~300)
新羅、夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
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293ディオクレティアヌスの帝国4分統治(--)編集
2934分割統治~297東西での他国からの勝利(西欧-イタリア、ローマ-)編集
293ディオクレティアヌスの帝国4分統治(欧州-ヨーロッパ-)編集
293ディオクレティアヌスの帝国四分統治策始まる(欧州-ヨーロッパ-)編集
294新羅、夏倭兵が長峯城を攻めて来た。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
295新羅、春王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
297東部でキリスト教大迫害~(西欧-イタリア、ローマ-)編集
297「三国志」の著者・晋の陳寿没65歳(東アジア-晋-)編集
298第15代新羅王基臨尼師今(298~310)
第9代百済王汾西王(298~304)
漢が貊人とともに侵入責稽王戦死
汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-)
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299弥生後期/古墳前期(日本-日本-古墳時代)編集
300八王の乱(アジア--)編集
300第15代高句麗王美川王(300~331)
新羅、春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
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300ヤマト政権の成立(日本-日本-古墳時代)編集
300古墳文化(日本-日本-古墳時代)編集
300松木薗遺跡(日本-日本-古墳時代)編集
300前方後円墳の造営(日本-日本-古墳時代)編集
300弥生後期/古墳前期(日本-日本-古墳時代)編集
301五胡十六国・漢民族・前涼・張氏武王(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
303ディオクレティアヌス、キリスト教徒に対する大迫害(欧州-ヨーロッパ-)編集
303五胡十六国・氏・成漢・李氏景帝(始祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
303五胡十六国・氏・成漢・李氏秦文帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
303五胡十六国・氏・成漢・李氏武帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
304五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏光文帝(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
304第10代百済王比流王(304~344)
楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される
比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-)
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305ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの同時退位(西欧-イタリア、ローマ-)編集
305東西諸皇帝の宗教的対立、コンスタンティヌスの台頭~(西欧-イタリア、ローマ-)編集
306ローマ、コンスタンティヌス大帝即位(~337)(欧州-ヨーロッパ-)編集
306五胡十六国・漢民族・前涼・張氏文王(世祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
306西晋・司馬氏・・懐帝(東アジア-西晋-)編集
308日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
310五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏昭武帝(烈宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
310五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏和(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
310第16代新羅王訖解尼師今(310~356)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
310215第15代応神天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
312ミルウィウス橋の戦い西部でのコンスタンティヌスの勝利東部でのリキニウスの勝利(西欧-イタリア、ローマ-)編集
312新羅、春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
313コンスタンティヌス大帝、ミラノ勅令でキリスト教を公認。
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)、パレスチナを支配。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)
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313コンスタンティヌス大帝、ミラノ勅令を発布、キリスト教を公認(欧州-ヨーロッパ-)編集
313ミラノ勅令-キリスト教を公認する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
313西晋・司馬氏・・愍帝(東アジア-西晋-)編集
313漢直轄支配三国時代[313-676](東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
313高句麗、楽浪郡を滅亡させる国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
313三国時代 高句麗百済新羅が戦争を繰り返した。(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
313高句麗、楽浪郡を滅ぼす新羅百済の建国(東アジア-朝鮮、高句麗新羅百済-高句麗)編集
313高句麗,楽浪郡滅亡させる 漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。 高句麗による楽浪郡の滅亡 紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(東アジア-朝鮮、前漢、高句麗、楽浪郡-)編集
313高句麗、楽浪郡、帯方郡を滅亡させる(東アジア-朝鮮、百済-)編集
313中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
31313第16代仁徳天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
314五胡十六国・漢民族・前涼・張氏昭王(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
314314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国)(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)編集
314高句麗帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
314314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国)よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、晋宋梁陳隋唐-)編集
315コンスタンティヌス大帝、ユダヤ人の自治を制限する最初の勅令を出し、その中で彼はユダヤ人を「あの恥ずべき一派」と表現。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
315百済の責稽即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
316五胡十六国時代へ(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
316西晋滅亡(東アジア-西晋-)編集
317東晋・司馬氏・・元帝(中宗)(東アジア-東晋-)編集
317東晋の成立(東アジア-東晋-)編集
318五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏隠帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
318五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
319五胡十六国・羯・後趙・石氏明帝(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
320チャンドラグプタ1世(アジア--)編集
320グプタ朝の成立(アジア--)編集
320五胡十六国・漢民族・前涼・張氏成王(太宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
321百済の汾西即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
322東晋・司馬氏・・明帝(粛宗)(東アジア-東晋-)編集
324リキニウスを退位させ、殺害、(西欧-イタリア、ローマ-)編集
324百済の比流即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
325ニケーア公会議 アタナシウス派を正統(--)編集
325帝国を統一(西欧-イタリア、ローマ-)編集
325安定期ニケーア公会議(西欧-イタリア、ローマ-)編集
325ニケーア公会議~アタナシウス派を正統(欧州-ヨーロッパ-)編集
325ニケーア宗教会議(欧州-ヨーロッパ-)編集
325ニカイア公会議でアタナシウス派を正統とする(キリスト教)(欧州-ヨーロッパ-)編集
325ニカイア公会議-キリスト教の全教会規模の会議。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
325東晋・司馬氏・・成帝(顕宗)(東アジア-東晋-)編集
328五胡十六国・匈奴・前趙・劉氏熙(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
330ペルシア帝国滅亡(--)編集
330コンスタンティノポリス(旧名ビザンティウム)遷都(西欧-イタリア、ローマ-)編集
330都コンスタンチノープル(欧州-ヨーロッパ-)編集
330ローマ、コンスタンティノープル遷都(欧州-ヨーロッパ-)編集
330ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルとする。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
331第16代高句麗王故国原王(331~371)
大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-)
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332ゲルマン諸族に勝利~334(西欧-イタリア、ローマ-)編集
332ローマでコロヌスの土地緊縛の勅令(欧州-ヨーロッパ-)編集
333五胡十六国・羯・後趙・石氏海陽王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
334五胡十六国・氏・成漢・李氏哀帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
334五胡十六国・氏・成漢・李氏幽帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
334五胡十六国・羯・後趙・石氏武帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
334契王即位ケイ(汾西王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
335日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
337コンスタンティヌスの死後、後継者争い~350(西欧-イタリア、ローマ-)編集
337五胡十六国・鮮卑・前燕・慕容氏武宣帝(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
337五胡十六国・鮮卑・前燕・慕容氏文明帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
337新羅の使者(東アジア-朝鮮、百済-)編集
338五胡十六国・氏・成漢・李氏昭文帝(中宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
339コンスタンティヌス大帝、キリスト教徒とユダヤ人との婚姻ならびに、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を所有することを禁止。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
342前燕、高句麗を攻略(東アジア-朝鮮、百済-)編集
342東晋・司馬氏・・康帝(東アジア-東晋-)編集
343五胡十六国・氏・成漢・李氏帰義侯(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
34377大兄去来穂別尊(履中天皇)立太子(日本-日本-古墳時代)編集
344第11代百済王契王(344~346)
新羅倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(東アジア-朝鮮、百済-)
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344東晋・司馬氏・・穆帝(孝宗)(東アジア-東晋-)編集
345新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
百済の契即位(東アジア-朝鮮、百済-)
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346五胡十六国・漢民族・前涼・張氏桓王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
346倭兵・新羅の風島を襲い、進んで王城を囲む(三国志記)(東アジア-朝鮮、新羅日本-古墳時代)編集
346百済の建国(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346'■前期漢城時期(?475年)
中国が五胡十六国の時代
'(東アジア-朝鮮、百済-前期 漢城時期)
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346朝鮮半島南部に百済建国(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346第12代百済王近肖古王(346~375)
第5代加羅王伊尸品王(346~407)
近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済
近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)
新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
中国が五胡十六国の時代
百済,近肖古王即位
百済の照古即位
■前期漢城時期(?475年)
ソウル夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。

346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。

百済の建国
346年ころ百済の建国朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(東アジア-朝鮮、百済-)
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346百済、建国。

百済(346ー660)百済三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。(東アジア-朝鮮、百済-)
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346346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346■前期 漢城時期( ? 475年)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346■前期 漢城時期( ? 475年)
 ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。(東アジア-朝鮮、百済-)
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346中国が五胡十六国の時代(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346百済の照古即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
346346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(東アジア-朝鮮、百済-)
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348五胡十六国・鮮卑・前燕・慕容氏景昭帝(烈祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
349五胡十六国・羯・後趙・石氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
349五胡十六国・羯・後趙・石氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
349五胡十六国・羯・後趙・石氏世(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
350アジャンター・エローラの石窟寺院の開掘(アジア--)編集
350フン族の西進-中央アジアからフランスへ(アッティラ王)。古代ヨーロッパ-[ローマ](西欧-フランス-)編集
350五胡十六国・羯・後趙・石氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
350朝鮮に高句麗百済新羅の三国が成立(東アジア-朝鮮、高句麗百済新羅-)編集
350大和朝廷が国土の大部分を統一(日本-日本-古墳時代)編集
351五胡十六国・氏・前秦・符氏明帝(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
353王羲之「蘭亭序」(アジア--)編集
353五胡十六国・漢民族・前涼・張氏威王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
353五胡十六国・漢民族・前涼・張氏廃帝哀公(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
355五胡十六国・漢民族・前涼・張氏冲公(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
355五胡十六国・氏・前秦・符氏廃帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
356新羅の建国(東アジア-朝鮮、新羅-新羅)編集
356第17代新羅王奈勿尼師今(356~402)
朝鮮半島南部に新羅建国
新羅,奈勿王即位
新羅の建国
仲哀356-360
三国時代(356ー676)
韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗百済新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。高句麗百済新羅が戦争を繰り返した。:3世紀頃三国時代BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅朝鮮半島を統一した。新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。(東アジア-朝鮮、百済-)
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356356年 新羅の建国(東アジア-朝鮮、百済-)編集
357五胡十六国・氏・前秦・符氏宣昭帝(世祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
360五胡十六国・鮮卑・前燕・慕容氏幽帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
361ローマ、ユリアヌス帝即位(~363)、異教の復活を図る(欧州-ヨーロッパ-)編集
361東晋・司馬氏・・哀帝(東アジア-東晋-)編集
363五胡十六国・漢民族・前涼・張氏悼公(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
364ウァレンティニアヌス家東西に再び分かれる(西欧-イタリア、ローマ-)編集
364百済再建(東アジア-朝鮮、百済-)編集
364百済再建
漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。
周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。
百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。
その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。
神功44年百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。
神功46年斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。
神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。
新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。(東アジア-朝鮮、百済-)
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365東晋・司馬氏・・廃帝(東アジア-東晋-)編集
366敦煌の千仏洞の開掘(アジア--)編集
366新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-)編集
367百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済(東アジア-朝鮮、百済新羅-)編集
368日食 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-)編集
369高句麗が侵入百済軍の軍旗に黄色を用いる(東アジア-朝鮮、百済-)編集
369倭、朝鮮に出兵し、加耶諸国(任那)(半島南部)を支配下に置く(日本-日本、倭-古墳時代)編集
371第17代高句麗王小獣林王(371~384)
近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死
高句麗が侵入百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死
高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済(東アジア-朝鮮、百済-)
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371高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(東アジア-朝鮮、百済-)編集
371371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
371東晋・司馬氏・・簡文帝(太宗)(東アジア-東晋-)編集
372高句麗、仏教伝来、大学設置国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
372慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える
高句麗、仏教の伝来。
晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)
東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
百済王と世子(太子)が日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を倭王に贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(石神神社七支刀369製作)
百済,東晋に使節を送る(東アジア-朝鮮、百済-)
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372晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
372372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
372372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
372372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
372百済、東晋に使節を送る国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済、東晋-)編集
372東晋・司馬氏・・孝武帝(烈宗)(東アジア-東晋-)編集
375フン族の西進(西欧-イタリア、フン族-)編集
375ゲルマン民族の大移動が始まる(西欧-イタリア、ローマ-)編集
375ゲルマン人の大移動-フン族の影響でゲルマン人が北欧周辺から南下して東西へ。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
375第13代百済王近仇首王(375~384)
近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)
高句麗侵入
(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)
百済の貴須即位(東アジア-朝鮮、百済-)
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376西ゴート人、ローマ領に侵入(民族大移動の始)(欧州-ヨーロッパ-)編集
377高句麗の平壌城を攻撃
北朝の前秦へも朝貢。(百済(東アジア-朝鮮、百済-)
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378ハドリアノポリスの戦いで西ゴート族に敗北(西欧-イタリア、ローマ-)編集
378西ゴート人とローマの戦い〔アドリアノープルの戦い〕。ウァレンス帝(328~)戦死(欧州-ヨーロッパ-)編集
379テオドシウス朝テオドシウス1世、東部皇帝に即位(西欧-イタリア、ローマ-)編集
379105仁徳天皇が中百舌鳥を陵墓地と決める。(日本-日本-古墳時代)編集
3791018仁徳天皇の陵墓造成工事開始(日本-日本-古墳時代)編集
381コンスタンティノープル公会議で三位一体説確認(欧州-ヨーロッパ-)編集
384五胡十六国・鮮卑・後燕・慕容氏成武帝(世祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
384五胡十六国・羌・後秦・姚氏武昭帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
384百済、仏教の伝来。
第14代百済王枕流王(384~385)
第18代高句麗王故国壌王(384~392)
西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認
百済の枕流即位
枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢仏僧が晋から渡来(東アジア-朝鮮、百済-)
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384百済、仏教伝来国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
384百済の枕流即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
384枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(東アジア-朝鮮、百済-)
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384384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
385五胡十六国・氏・前秦・符氏哀帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
385五胡十六国・鮮卑・西秦・乞伏氏宣烈王(烈祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
385第15代百済王辰斯王(385~392)
辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)
百済の辰斯即位
仏寺を創建(東アジア-朝鮮、百済-)
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385百済の辰斯即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
385仏寺を創建(東アジア-朝鮮、百済-)編集
385辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
386(鮮卑の拓跋氏)(アジア--)編集
386五胡十六国・氏・後涼・呂氏懿武帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
386五胡十六国・氏・前秦・符氏高帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
386高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
386北魏の建国(東アジア-北魏-北魏)編集
387東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
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388五胡十六国・鮮卑・西秦・乞伏氏武元王(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
389高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)編集
390応神天皇(第15代)が即位する(実在が濃厚である最古の天皇)(日本-日本-古墳時代)編集
391高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、高句麗-高句麗)編集
391高句麗、広開土王即位。
高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、百済-)
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391倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
391靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
391391年 高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、百済-)編集
391倭兵、海を渡り百済新羅を破って臣民とする(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済日本:倭-古墳時代)編集
391倭兵、朝鮮半島に出兵し、百済新羅を破り高句麗と交戦(~404)したが朝鮮半島から撤退(東アジア-朝鮮、百済日本:倭-古墳時代)編集
391倭が朝鮮半島(南部)の百済(くだら)、加羅(から)、新羅(しんら)を臣民とする(好太王碑-こうたいおうひ)(日本-日本-古墳時代)編集
391倭の朝鮮出兵(日本-日本、倭-古墳時代)編集
392西部皇帝エウゲニウスがテオドシウス1世に敗れるウァレンティニアヌス家の最後、東西統一キリスト教、完全国教化(西欧-イタリア、ローマ-)編集
392ローマのテオドシウス1世、キリスト教を国教とする(欧州-ヨーロッパ-)編集
392リスト教を国教とする(キリスト教以外の宗教禁止)。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
392第19代高句麗王廣開土王(392~413)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
392第16代百済王阿芳王(392~405)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
392阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
392日食
高句麗の広開土王が侵入多くの領土を奪われる(東アジア-朝鮮、百済-)
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392百済の阿辛(東アジア-朝鮮、百済-)編集
393五胡十六国・羌・後秦・姚氏文桓帝(高祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
393新羅、倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
393倭兵、新羅の王城を囲む(三国志記)(日本-日本、倭-古墳時代)編集
394テオドシウス1世、ローマ帝国を統一(欧州-ヨーロッパ-)編集
394五胡十六国・氏・前秦・符氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
395ビザンティン帝国、パレスチナ全土を支配(~639年)。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)編集
395ローマ帝国が東西に分裂(西欧-イタリア、ローマ-)編集
395テオドシウス1世の死、東西に分割、以後別々の道を歩む東ローマ帝国(~1453)、長男アルカディウス首都コンスタンティノポリス西ローマ帝国(~476)、次男ホノリウス首都ミラノ(西欧-イタリア、ローマ-)編集
395テオドシウス朝アルカディウス帝、東部皇帝に、首都コンスタンティノポリス(西欧-イタリア、ローマ-)編集
3955世紀の初め、ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国(欧州-ヨーロッパ-)編集
395テオドシウス1世没(347~)、ローマ帝国東西分裂(欧州-ヨーロッパ-)編集
395ローマ帝国は東西に分裂する(東ローマ帝国/西ローマ帝国)。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
395高句麗の広開土王と戦うも大敗する(東アジア-朝鮮、百済-)編集
396五胡十六国・鮮卑・後燕・慕容氏恵愍帝(烈宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
396高句麗百済を服従させる
高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(東アジア-朝鮮、百済-)
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396396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
396東晋・司馬氏・・安帝(東アジア-東晋-)編集
397五胡十六国・鮮卑・南涼・禿髪氏武王(烈祖、烈宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
397五胡十六国・匈奴・北涼・沮渠氏段業(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
397倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(東アジア-朝鮮、百済-)
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398五胡十六国・鮮卑・後燕・慕容氏昭武帝(中宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
398五胡十六国・鮮卑・南燕・慕容氏献武帝(世宗)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
398斉・蕭氏・・東昏侯(廃帝)(東アジア-東晋-)編集
399五胡十六国・氏・後涼・呂氏隠王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
399五胡十六国・氏・後涼・呂氏霊帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
399五胡十六国・鮮卑・南涼・禿髪氏康王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
399高句麗百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(東アジア-朝鮮、百済-)
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399高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(東アジア-朝鮮、百済-)編集
399百済、倭と結び、倭兵、新羅国境に満ちる。(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済日本:倭-古墳時代)編集
399東晋の法顕がインド旅行に出発(東アジア-東晋-)編集
399古墳前期/古墳中期(日本-日本-古墳時代)編集
399116第16代仁徳天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
399107仁徳天皇を百舌鳥耳原中陵に葬る。(日本-日本-古墳時代)編集
400カーリーダサの死(アジア--)編集
400五胡十六国・漢民族・西涼・李氏武昭王(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
400高句麗、南部に出兵して倭を討つ。(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
400高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
400倭の五王(讃、珍、済、興、武)、南朝の宋に使いを送る(東アジア-朝鮮、日本:倭-古墳時代)編集
400日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
400倭軍、帯方郡で高句羅…古代朝鮮三国の一つに敗北(404)(東アジア-朝鮮:高句羅、日本:倭-古墳時代)編集
400成川式土器(日本-日本-古墳時代)編集
400古墳前期/古墳中期(日本-日本-古墳時代)編集
400倭が朝鮮半島(北部)の高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)と戦う(400頃(日本-日本-古墳時代)編集
400倭の五王(世襲王権の確立)(日本-日本、倭-古墳時代)編集
400倭王済、宗中国、五代の分裂を統一した王朝に朝貢(443)(日本-日本、倭-古墳時代)編集
40021第17代履中天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
401西ゴート王アラリック、イタリア侵入(欧州-ヨーロッパ-)編集
401五胡十六国・氏・後涼・呂氏尚書公(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
401五胡十六国・鮮卑・後燕・慕容氏昭文帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
401五胡十六国・匈奴・北涼・沮渠氏武宣王(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
401穴穂尊(安康天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
40114反正天皇立太子(日本-日本-古墳時代)編集
402五胡十六国・鮮卑・南涼・禿髪氏景王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
402第18代新羅王実聖尼師今(402~417)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
402新羅、三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
402百済から倭国へ使者を送る。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
402倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
402402年、百済から倭国へ使者を送る。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
402倭兵、新羅任那高句麗と戦う。(好太王碑文)(日本-朝鮮:高句麗日本:倭-古墳時代)編集
403倭国から百済へ使者を送る。
倭国の使者を特に手厚くねぎらう(東アジア-朝鮮、百済-)
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404高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-)
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404404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
404倭兵、帯方郡に侵入(好太王碑文)(日本-日本、倭-古墳時代)編集
405五胡十六国・鮮卑・南燕・慕容氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
405新羅、倭兵が明活城を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
405百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
405百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。(日本-朝鮮、朝鮮:百済-)編集
405百済日本に漢学伝える国史年表(国史年表)(日本-朝鮮、朝鮮:百済-)編集
405第17代百済王腆支王(405~420)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
405百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
405百済の直支(東アジア-朝鮮、百済-)編集
405腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(東アジア-朝鮮、百済-)
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405405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
405315第17代履中天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
406バンダル人、アラニ人、ガリアに侵入(欧州-ヨーロッパ-)編集
406晋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
40612第18代反正天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
407五胡十六国・鮮卑・後燕・慕容氏恵懿帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
407五胡十六国・匈奴・夏・赫連氏武烈帝(世祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
407第6代加羅王坐知王(407~421)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
407新羅、春三月倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
408新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(対馬)(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
409五胡十六国・漢民族・北燕・馮氏文成帝(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
409倭国の使者が夜明珠を送る厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
410西ゴート族のアラリック、三日間にわたりローマを大掠奪(西欧-イタリア、ローマ-)編集
410アウグスティヌス『神の国』執筆開始(西欧-イタリア、ローマ-)編集
410アラリック、ローマを陥れ、大略奪(欧州-ヨーロッパ-)編集
410ガリシア王国(ゲルマン人)が建国する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
4101221反正天皇歿(日本-日本-古墳時代)編集
411ブルグンド王国(ゲルマン人)が建国する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
412テオドシウス2世、コンスタンティノポリスを二倍にし城壁をめぐらす(西欧-イタリア、ローマ-)編集
412五胡十六国・鮮卑・西秦・乞伏氏文昭王(太祖)(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
41212第19代允恭天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
413ブルグント人の王国、アルザスに成立(~436)、のちローヌ川上流に再建(443~534)(欧州-ヨーロッパ-)編集
413第20代高句麗王長寿王(413~491)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
413倭が東晋(中国)に朝貢する(日本-日本-古墳時代)編集
413倭王・讃東晋に使いを送る。(晋書(日本-日本、倭、東晋-古墳時代)編集
414高句麗、広開土王牌(好太王)碑建立。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
414広開土王碑(東アジア-朝鮮、百済-)編集
415西ゴート王国の建設(欧州-ヨーロッパ-)編集
415西ゴート人の王国、南仏・アクィタニアに成立(~711)(欧州-ヨーロッパ-)編集
415西ゴート王国(ゲルマン人)が建国する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
416五胡十六国・羌・後秦・姚氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
416東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(東アジア-朝鮮、百済-)
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416714「大和・遠飛鳥宮附近で地震」・・・日本最初の地震の記録---日本書紀(日本-日本-古墳時代)編集
417五胡十六国・漢民族・西涼・李氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
417第19代新羅王訥祇麻立干(417~458)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
418新羅高句麗倭国への人質が逃げ帰った。(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
418百済倭国に白綿を送る(東アジア-朝鮮、百済-)編集
418東晋・司馬氏・・恭帝(東アジア-東晋-)編集
41812大泊瀬幼武尊(雄略天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
419日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
420宋、成立(南朝)(--)編集
420五胡十六国・漢民族・西涼・李氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
420宋、成立(南朝)(~479)(東アジア-宋-)編集
420宋・劉氏・・武帝(高祖)(東アジア-宋-)編集
420第18代百済王久尓王(420~427)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
420久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
420宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(東アジア-朝鮮、百済-)
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420420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(東アジア-朝鮮、百済-)
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420倭王・讃宋に使いを送り、官職号を与えられる。(宋書(日本-日本、倭、宋-古墳時代)編集
421第7代加羅王吹希王(421~451)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
421讃、宋に遣使(日本-日本、宋-古墳時代)編集
421倭兵、新羅の東辺を侵し、明活城を囲む(三国志記)(日本-日本、倭-古墳時代)編集
422宋・劉氏・・少帝(東アジア-宋-)編集
424宋・劉氏・・文帝(太祖)(東アジア-宋-)編集
425五胡十六国・匈奴・夏・赫連氏秦王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
425讃、宋に遣使し方物を献上(日本-日本、宋-古墳時代)編集
427高句麗、平壌遷都。(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
427高句麗長寿王,国内城から平壌へ遷都(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
427高句麗、平壤遷都国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
427第19代百済王毘有王(427~455)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
427ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
428五胡十六国・鮮卑・西秦・乞伏氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
428五胡十六国・匈奴・夏・赫連氏後主(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
428倭国の使者(東アジア-朝鮮、百済-)編集
429宋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
430アウグスティヌス没(354~)(西欧-イタリア、ローマ-)編集
430五胡十六国・漢民族・北燕・馮氏昭成帝(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
431仏教成立(--)編集
431(ネストリウス派異端)(欧州-ヨーロッパ-)編集
431エフェソス宗教会議(欧州-ヨーロッパ-)編集
431エフェソス公会議。ネストリウス派を異端と断定(欧州-ヨーロッパ-)編集
431新羅、倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)編集
433五胡十六国・匈奴・北涼・沮渠氏哀王(東アジア-五胡十六国-五胡十六国)編集
433百済新羅高句麗に対して同盟を結ぶ
高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗?(忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。
高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅百済高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。
百済新羅高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
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433新羅百済同盟成立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
433新羅百済の同盟成立。(東アジア-朝鮮、新羅百済-)編集
433新羅百済同盟成立(東アジア-朝鮮、新羅百済-)編集
433新羅に使者を送り和親を求む(東アジア-朝鮮、百済-)編集
434アッティラ、フン王となる(欧州-ヨーロッパ-)編集
434新羅の使者が答礼(東アジア-朝鮮、百済-)編集
435ヴァンダル王国(ゲルマン人)が建国する。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
438テオドシウス法典の発布(欧州-ヨーロッパ-)編集
438羅済同盟成立。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
438倭王・珍宗に使いを送り、安東将軍になる。(宋書(日本-日本、倭-古墳時代)編集
439北魏が華北を統一(北朝)(--)編集
439中国南北朝時代(東アジア-中国、南北朝時代-南北朝時代)編集
439北魏が華北を統一(北朝)(東アジア-中国、南北朝時代-南北朝時代)編集
440新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
日食(東アジア-朝鮮、百済-)
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443倭国王、済が宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を得る(東アジア-朝鮮、倭-)編集
443倭王・済宗に使いを送り、安東将軍になる。(宋書(日本-日本、倭-古墳時代)編集
444新羅、夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。(東アジア-朝鮮、新羅新羅-)編集
444白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
447フン族のアッティラ、東ローマ領に侵入(西欧-イタリア、ローマ、フン族-)編集
447干ばつ 新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-)編集
449アングロ・サクソンのブリタニア侵入始まる(欧州-ヨーロッパ-)編集
449億計尊(仁賢天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
450エフタル族がインド・ペルシャに侵入(中東-イラン、ペルシャ-)編集
450男大迹尊(継体天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
450弘計尊(顕宗天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
451カタラウヌムの戦い( - -)編集
451十二表法成立(--)編集
451カタラウヌムの戦いで西ローマ、西ゴート、フランク連合軍がフン族のアッティラに勝利(西欧-イタリア、ローマ、フン族-)編集
451カタラウヌムの戦いで、フン王アッティラ、西ローマ軍に敗北(欧州-ヨーロッパ-)編集
451カルケドン公会議。東西教会の対立深まる(欧州-ヨーロッパ-)編集
451カタラウヌムの戦い-西ローマ帝国vsフン族(引き分け)。古代ヨーロッパ-[ローマ](欧州-ヨーロッパ-)編集
451第8代加羅王金至知王(451~492)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
451倭国王、済使持節都督倭新羅任那加羅慕韓六国諸軍事を加号される(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
451倭王済「安東大将軍倭国王」に任命される(東アジア-朝鮮、百済-)編集
4515世紀中期根曽1号墳(美津島町)(対馬)(日本-日本-)編集
452アッティラ、イタリアへ侵入(欧州-ヨーロッパ-)編集
453アッティラの死でフン族が崩壊(西欧-イタリア、ローマ、フン族-)編集
453アッティラの死でフン族崩壊(西欧-イタリア、ローマ、フン族-)編集
453アッティラ没(406ころ~)、フン帝国崩壊(欧州-ヨーロッパ-)編集
453宋・劉氏・・孝武帝(世祖)(東アジア-宋-)編集
453114第19代允恭天皇崩御年齢不詳(日本-日本-古墳時代)編集
4531214第20代安康天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
455ヴァンダル族のガイセリック、ローマを掠奪(西欧-イタリア、ローマ-)編集
455第20代百済王蓋鹵王(455~475)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
455蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
45689第20代安康天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
4561113第21代雄略天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
458第20代新羅王慈悲麻立干(458~479)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
459新羅、夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
460雲崗の石窟寺院を開く(アジア--)編集
462新羅、夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
462倭王・興宗に使いを送り、安東将軍になる。(宋書(日本-日本、倭-古墳時代)編集
463新羅、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
464宋・劉氏・・前廃帝(東アジア-宋-)編集
465宋・劉氏・・明帝(太宗)(東アジア-宋-)編集
466勾大兄(安関天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
467檜隈高田(宣化天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
468日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
469高句麗に侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
472宋・劉氏・・後廃帝(東アジア-宋-)編集
472魏に朝貢
魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが
魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(東アジア-朝鮮、百済-)
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475高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
475'■中期熊津(公州)時代(475年?538年)'(東アジア-朝鮮、百済-)編集
475熊津の公山城跡(公州)長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。
高句麗百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。(東アジア-朝鮮、百済-)
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475第21代百済王文周王(475~477)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
475高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す
子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(東アジア-朝鮮、百済-)
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475高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
475文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)
新羅の援軍をつれて帰国(東アジア-朝鮮、百済-)
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475475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
476中世ヨーロッパ-[476年~1453年](西欧--)編集
476ゲルマン諸国の影響で西ローマ帝国が滅亡。 フランク王国が建国。カール大帝の時代には現在のフランス、ドイツ、北イタリアを領土とする。 カール大帝の3人の孫時代にはフランク王国が東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の3つに分割される。 東フランク王国は後に神聖ローマ帝国、プロイセンを経てドイツとなる。中フランク王国はイタリア、西フランク王国はフランス。イングランド王国はイギリス。モスクワ大公国はロシア。 キリスト教は東(ギリシャ正教)、西(カトリック)に分裂する。そして、ローマ教皇と神聖ローマ帝国の皇帝は司教の叙任権を争う。最終的には皇帝は叙任権を放棄する。 聖地エルサレムを巡る十字軍の遠征がはじまる。この十字軍の失敗で王権が強大化(教皇は失墜、諸侯は没落)するのに伴い、中世の封建社会が崩壊して中央集権国家へと進んでいく。 王権が強化されるのに対抗して身分制議会がはじまる。イギリスは模範議会、フランスは三部会、ドイツは帝国議会。 イングランド王国とフランス王国が対立して100年に渡る長期戦争がはじまる。フランス側にジャンヌ・ダルクが登場したのを機にフランスが勝利する。 マルコ=ポーロの東方見聞録(世界の記述)の影響で後に大航海時代へと突入する。(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
476ゲルマン人の傭兵隊長オドアケル、皇帝を廃して西ローマ帝国滅亡(欧州-ヨーロッパ-)編集
476西ローマ帝国の滅亡(欧州-ヨーロッパ-)編集
476新羅、倭人が東辺を攻める。
耽羅国(済州島)が朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)
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477宋・劉氏・・順帝(東アジア-宋-)編集
477新羅、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。(東アジア-朝鮮、新羅日本-)編集
477第22代百済王三斤王(477~479)即位サンキン(壬乞、文周王の長男幼年につき解仇が実権)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
478解仇が謀反(東アジア-朝鮮、百済-)編集
478大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
478478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
478倭王武(雄略天皇)・宋に使いを送り、安東大将軍となる。(宋書(日本-日本、宋-)編集
47811白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)立太子(日本-日本-古墳時代)編集
479宋が滅びる。(東アジア-宋-)編集
479斉・蕭氏・・高帝(太祖)(東アジア-中国、斉-斉)編集
479第21代新羅王毘処麻立干(479~500)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
479第23代百済王東城王(479~501)即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
479解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(東アジア-朝鮮、百済-)
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479東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
479479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(東アジア-朝鮮、百済-)
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47987第21代雄略天皇崩御。(大泊瀬幼武尊)<62歳>(日本-日本-古墳時代)編集
480115第22代清寧天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
481クロービス1世、フランク王国国王に即位(~511)(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
481フランク王国(ゲルマン人)が建国する(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
482斉・蕭氏・・武帝(世祖)(東アジア-中国、斉-斉)編集
482新羅、五月に倭人が辺境を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
482靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
484南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(東アジア-朝鮮、百済-)編集
484116第22代清寧天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
485新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-)編集
485北魏、均田制を実施(東アジア-北魏-北魏)編集
48511第23代顕宗天皇(弘計尊[をけのみこと])即位(日本-日本-古墳時代)編集
486フランク王国の成立(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
486クロービス1世、中部ガリアを征服(欧州-ヨーロッパ-)編集
486新羅、夏四月に倭人が辺境を攻める。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
487425第23代顕宗天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
488魏の討伐軍侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
48815億計尊[おけのみこと]が即位して第24代仁賢天皇となる(日本-日本-古墳時代)編集
489小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
491第21代高句麗王文咨明王(491~519)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
491飢饉で新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-)編集
492第9代加羅王鉗知王(492~521)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
493東ゴート王国の成立(欧州-ヨーロッパ-)編集
493東ゴート人のテオドリック大王、イタリアに王国を建設(~553)(欧州-ヨーロッパ-)編集
493斉・蕭氏・・欝林王(廃帝)(東アジア-中国、斉-斉)編集
493新羅に妃を求める(東アジア-朝鮮、百済-)編集
493龍門の石窟寺院を開く(日本-日本-古墳時代)編集
494斉・蕭氏・・海陵王(廃帝)(東アジア-中国、斉-斉)編集
494斉・蕭氏・・明帝(高宗)(東アジア-中国、斉-斉)編集
494新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(東アジア-朝鮮、百済-)編集
495日食
高句麗の侵入に新羅が援軍(東アジア-朝鮮、百済-)
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496フランク王国の国王がカトリックに改宗する(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
496フランク王クロビスがカトリックに改宗(欧州-ヨーロッパ-)編集
496クロービス1世、カトリックの洗礼を受く(欧州-ヨーロッパ-)編集
497東ゴート王国(ゲルマン人)が建国する(欧州-ヨーロッパ-)編集
49888仁賢天皇崩御(億計尊)(天皇(24代))<50歳>(日本-日本-古墳時代)編集
49812第25代武烈天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
499干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-)編集
499古墳中期/古墳後期(日本-日本-古墳時代)編集
500ヒンズー教がおこる(アジア--)編集
500500年前後
ササン朝ペルシア帝国内でユダヤ人の内紛が起きる。
ユダヤ人学者アシが「ミシュナ」と「ゲマラ」を融合して、『タルムード』に編纂する仕事に着手し、マル・ヨセがこの編纂の仕事を5世紀末に完成させる。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)
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500第22代新羅王智証麻立干(500~514)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
500新羅、春三月倭人が長峯鎮を攻め陥した。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
500家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(東アジア-朝鮮、百済-)編集
500横瀬古墳(日本-日本-古墳時代)編集
500橋牟礼川遺跡(日本-日本-古墳時代)編集
500飛鳥時代(6世紀末-710)(日本-日本-)編集
500飛鳥文化(日本-日本-)編集
500大阪府堺市に日本最大の前方後円墳(仁徳天皇の墓で大仙陵古墳)(5世紀半ば頃(日本-日本-古墳時代)編集
501斉・蕭氏・・和帝(東アジア-中国、斉-斉)編集
501第24代百済王武寧王(501~523)即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)
東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(東アジア-朝鮮、百済-)
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501武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
501501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
502頃~ササン朝ペルシアと抗争(西欧-イタリア、ローマ-)編集
502梁・蕭氏・・武帝(高祖)(東アジア-中国、梁-梁)編集
502新羅、牛耕実施国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
502飢饉と疫病
高句麗を攻撃
新羅,牛による耕田を始めて実施(東アジア-朝鮮、百済-)
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502飢饉と疫病
高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
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502梁の武帝、倭王・武に安東大将軍の号を授ける。(梁書(日本東アジア-日本、梁-古墳時代)編集
503新羅、国号と王号を定める。(アジア-新羅)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
503新羅、国号と王号を定める国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
506靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
506128第25代武烈天皇崩御(小泊瀬稚鷦鷯尊)(天皇(25代))<18歳>(日本-日本-古墳時代)編集
507高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
50724男大迹王が即位し第26代天皇・継体天皇となる(日本-日本-古墳時代)編集
509第29代欽明天皇(天国排開広庭尊)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
511クロービス没(466ころ~)。フランク王国、四子に分割
このころまでにフランク王国サリ支族の『サリカ法典』成る(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)
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512百済日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
梁に朝貢
高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
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512日本任那4県を百済に割譲(東アジア-朝鮮、百済日本:倭-)編集
512大伴金村は百済任那4県を割譲する(日本-日本-古墳時代)編集
513百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
513百済から儒教が伝来(日本-日本-古墳時代)編集
513128安閑天皇立太子(日本-日本-古墳時代)編集
514第23代新羅王法興王(514~540)
判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)
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514514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
515百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
516日食
百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(東アジア-朝鮮、百済-)
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519第22代高句麗王安蔵王(519~531)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
520新羅、律令頒布。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
520新羅、律令を頒布、百官の広服を制定。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
520新羅,律令領布,百官の公服制定(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
520新羅、律令領布、百官の公服を制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
521第10代加羅王仇衝王(521~562)(東アジア-朝鮮、加羅-)編集
521使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(東アジア-朝鮮、百済-)編集
523第25代百済王聖王(523~554)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
523聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子)
高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
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524梁から綏東将軍百済王を受ける(東アジア-朝鮮、百済-)編集
525百済、武寧王陵を築造する。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
525新羅と国交を結ぶ(東アジア-朝鮮、百済-)編集
527東ローマ皇帝ユスティニアヌス大帝(--)編集
527東ローマ皇帝ユスティニアヌス大帝(~565)(西欧-イタリア、ローマ-)編集
527ユスティニアヌス帝の即位(~565)(西欧-イタリア、ローマ-)編集
527ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世即位(~565)、ビザンティンの最盛期(欧州-ヨーロッパ-)編集
527新羅、仏教公認。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
527新羅、仏教を公認。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
527新羅、仏教公認国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
527磐井の乱527(東アジア-朝鮮、百済-)編集
527磐井の反乱(日本-日本-古墳時代)編集
527磐井の乱(朝鮮半島南部へ出兵を巡っての国内反乱)(日本-日本-古墳時代)編集
529「ローマ法大全」(西欧-イタリア、ローマ-)編集
529ユスティニアヌス法典成る(534に改訂増補)(欧州-ヨーロッパ-)編集
529ヌルシアのベネディクトゥス、モンテカッシーノに修道院を建立(欧州-ヨーロッパ-)編集
529高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)編集
531第23代高句麗王安原王(531~545)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
53127第27代安閑天皇(日本-日本-古墳時代)編集
53127継体天皇が崩御し、第27代安閑天皇が即位する。(日本-日本-古墳時代)編集
532ニカの乱(西欧-イタリア、ローマ-)編集
532新羅、南伽耶の金宮国を併合。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
532新羅,金海の金官伽耶を併合(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
532任那日本府(東アジア-朝鮮、日本-)編集
533ヴァンダル王国を攻撃し、アフリカを奪回(西欧-イタリア、ローマ-)編集
533バンダル人、ビザンティン帝国に滅ぼされる(欧州-ヨーロッパ-)編集
534ローマ法大全ができる(--)編集
534ローマ法大全ができる(西欧-イタリア、ローマ-)編集
534ヴァンダル王国を滅ぼす(西欧-イタリア、ローマ-)編集
534ブルグント人、フランク王国に滅ぼされる(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
535913難波の大隅島と媛島で牛を放牧。牛乳の飲用や蘇(そ)の調整もこの頃から始まったのか?(日本-日本-古墳時代)編集
5351217第27代安閑天皇崩御(70歳)(日本-日本-古墳時代)編集
5351218第28代宣化天皇(日本-日本-古墳時代)編集
5351218第28代宣化天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
536新羅,年号を使用(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
536新羅、年号使用国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
537セント・ソフィア聖堂完成(--)編集
537セント・ソフィア聖堂完成(欧州-ヨーロッパ-)編集
538'■後期泗?(扶余)時代(538年?660年)
三国時代百済
扶余
'(東アジア-朝鮮、百済-)
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538泗?に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが、その名は定着しなかったようです。
扶余定林寺五重塔
滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
はじめは新羅百済の和平を求めていた唐ですが、百済義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。
百済、泗?(しび)遷都。(東アジア-朝鮮、百済-)
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538百済、王都を泗?城(扶余)に遷す。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538百済から仏教伝来538年(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538三国時代百済
三国時代の地図、5世紀終わり頃
ByEvawen,Gzhao[GFDLorCCBY3.0]
第25代武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
武寧王の亡き後即位した、第26代聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗?(サビ)、今の扶余へ遷都しました。(東アジア-朝鮮、百済-)
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538都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538都を泗ヒ(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする
(所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(東アジア-朝鮮、百済-)
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538百済,泗ヒ城(扶余)に遷都(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538百済、都を泗?城に移す国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538■後期 泗?(扶余)時代(538年 ? 660年)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538扶余(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538538年、都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
538百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る(東アジア-朝鮮、百済、倭-)編集
538訳語田渟中倉太珠敷尊(敏達天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
538日本百済から仏教が伝わる(552年とする説もある)(日本-日本百済-古墳時代)編集
5381012仏教公伝。百斉国の主明王(めいおう、聖明王)が初めて仏像、経典、僧侶などを献上したことにより我が国に仏教が公式に伝来した。天皇はこれらを大臣の蘇我稲目に授けた。日本書紀では552年のこととしているが各種文献からこの年であることは明らかである。(日本-日本-古墳時代)編集
539聖徳太子(厩戸皇子)摂政539年(東アジア-朝鮮、日本-)編集
539210第28代宣化天皇崩御(日本-日本-古墳時代)編集
539125第29代欽明天皇即位(日本-日本-古墳時代)編集
540第24代新羅王真興王(540~576)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
540橘豊日尊(用明天皇)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
541梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(東アジア-朝鮮、百済-)編集
545第24代高句麗王陽原王(545~559)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
545新羅,「国史」編纂(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
545新羅、国史編纂国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
547日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
548高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(東アジア-朝鮮、百済-)編集
548高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(東アジア-朝鮮、百済-)編集
549梁・蕭氏・・簡文帝(太宗)(東アジア-中国、梁-梁)編集
550高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)編集
551百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
552梁・蕭氏・・元帝(世祖)(東アジア-中国、梁-梁)編集
552新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える(東アジア-朝鮮、百済-)
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552百済日本に仏教を伝える

日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている(東アジア-朝鮮、百済-)
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552百済日本に仏教を伝える国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済日本-)編集
552突厥帝国(とっけつ)の成立(東アジア-突厥帝国-)編集
552百済の聖明王が朝廷に金銅の釈迦物を献上し、蘇我稲目が賜る。(日本-日本-古墳時代)編集
552蘇我・物部の祟仏論争(日本-日本-古墳時代)編集
552百済王から仏像と経典を賜られる(日本-日本-古墳時代)編集
5521013日本書紀記載の仏教伝来だが、538年10月12日説が有力です。安閑、宣化、欽明は同時期並立であったと思われます。(日本-日本-古墳時代)編集
553ユスティニアヌス帝が「反ユダヤ法」を発令。
以後、ビザンティン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じたのである。(イスラエルの歴史)(中東-イスラエル-)
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553新羅百済北部を占有する
百済王女が新羅へ嫁する(東アジア-朝鮮、百済-)
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554第26代百済王威徳王(554~598)(東アジア-朝鮮、百済-)編集
554威徳王即位イトク(昌、聖王の子)
高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
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554王自ら新羅を攻めるも敗死(東アジア-朝鮮、百済-)編集
554百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
554554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
55417敏達天皇立太子(日本-日本-古墳時代)編集
555東ゴート王国を滅ぼし、イタリアを奪回(西欧-イタリア、ローマ-)編集
555ビザンティン帝国、東ゴート人を滅ぼす(欧州-ヨーロッパ-)編集
555梁・蕭氏・・敬帝(東アジア-中国、梁-梁)編集
557シャカ生まれる(--)編集
557陳・陳氏・・武帝(東アジア-中国、陳-陳)編集
558アヴァール族と同盟(西欧-イタリア、ローマ-)編集
558クロタール1世、フランク王国を再統一(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)編集
559第25代高句麗王平原王(559~590)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
559日食(東アジア-朝鮮、百済-)編集
560陳・陳氏・・文帝(東アジア-中国、陳-陳)編集
561新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)編集
562新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
562新羅,大伽耶などの加羅諸国を併合(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
562加羅諸国が新羅に占領される。(東アジア-朝鮮、百済-)編集
562新羅任那を併合する(日本-日本-古墳時代)編集
562任那が滅亡、朝鮮への影響力を失う(日本-日本-古墳時代)編集
567陳・陳氏・・臨海王(東アジア-中国、陳-陳)編集
567陳へ朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
568ランゴバルド王国成立し、イタリアの大半を失う(西欧-イタリア、ローマ-)編集
568ロンバルト王国の成立(欧州-ヨーロッパ-)編集
568ランゴバルド王国、イタリアに建国(~774)(欧州-ヨーロッパ-)編集
568ランゴバルド王国(ゲルマン人)が建国する(欧州-ヨーロッパ-)編集
569陳・陳氏・・宣帝(東アジア-中国、陳-陳)編集
570マホメット(ムハンマド)生誕(~632)( - -)編集
570マホメット生まれる(--)編集
570高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡百済王を得る(東アジア-朝鮮、百済-)編集
571415第29代欽明天皇崩御63歳(日本-日本-古墳時代)編集
572北斉に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
572厩戸皇子(聖徳太子)生誕(日本-日本-古墳時代)編集
5724蘇我馬子を大臣が大臣に任ぜられる。(日本-日本-古墳時代)編集
57243第30代敏達天皇(日本-日本-古墳時代)編集
57243欽明天皇の第二子・訳語田皇子が即位し第30代天皇・敏達天皇に(日本-日本-古墳時代)編集
576第25代新羅王真智王(576~579)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
577陳に朝貢
新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
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578アヴァール族とスラヴ族、ビザンティン領に侵入~586(西欧-イタリア、ローマ-)編集
578北周に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
579第26代新羅王真徳女王(579~632)(東アジア-朝鮮、新羅-)編集
581中国が隋の時代(東アジア-朝鮮、百済-)編集
581581年に隋が成立すると、高句麗百済はすぐに朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
隋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)
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581隋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
581隋の建国(東アジア-隋-隋)編集
581隋・楊氏・・文帝(東アジア-隋-隋)編集
583陳・陳氏・・後主(東アジア-中国、陳-陳)編集
584陳に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
584陳に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-)編集
585330仏教排斥を唱える物部守屋が、仏像・寺院等を焼打ち(日本-日本-古墳時代)編集
585815第30代敏達天皇崩御(40歳)(日本-日本-古墳時代)編集
58595第31代用明天皇(日本-日本-古墳時代)編集
58595欽明天皇の第四子・橘豐日皇子が第31代用明天皇として即位(日本-日本-古墳時代)編集
586高句麗、長安城に都を遷す(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
587蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(日本-日本-古墳時代)編集
58749第31代用明天皇崩御磐余に葬られる48歳(日本-日本-古墳時代)編集
58767蘇我馬子が、物部守屋が次期天皇に擁立しようとした穴穗部皇子を暗殺(日本-日本-古墳時代)編集
58782第32代崇峻天皇(日本-日本-古墳時代)編集
58782欽明天皇の第12子・泊瀬部皇子が即位し第32代天皇・崇峻天皇となる(日本-日本-古墳時代)編集
588日本書紀によれば、蘇我馬子が飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊し、初めて法興寺(ほうこうじ)をつくり、この地を真神原(まかみのはら)と名付けた。(日本-日本-古墳時代)編集
588善信尼(ぜんしんのあま)らを百済に受戒の法を得るために発たせた。(日本-日本-古墳時代)編集
588蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建立(日本-日本-古墳時代)編集
589隋が中国を統一(--)編集
589隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(東アジア-朝鮮、百済-)編集
589隋が中国を統一(~618)(東アジア-隋-隋)編集
590教皇グレゴリウス1世即位(~604)、教皇権確立(欧州-ヨーロッパ-)編集
590第26代高句麗王嬰陽王(590~618)(東アジア-朝鮮、高句麗-)編集
59010法興寺の用材を山で伐る(日本-日本-古墳時代)編集
592古墳時代 → 飛鳥時代[592年~710年](日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
592推古天皇が即位(日本初の女帝-第33代天皇)(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
592隋、均田制を実施(東アジア-隋-隋)編集
59210法興寺の仏堂と歩廊に着工(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
592104崇峻天皇が謙譲された山猪を前にして「いつの日か、この山猪のごとくいやなあいつの首を落としてやろう」と言われたという。この噂を耳にした蘇我馬子が一ヶ月後の凶行に及ぶこととなったのか?(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
592113蘇我馬子の命令で東漢直駒に崇峻天皇を暗殺(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集
592128敏達天皇の皇后だった額田部皇女(豐御食炊屋姫)が初の女帝として即位。第33代天皇・推古天皇となる(日本-日本-古墳時代飛鳥時代)編集

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