歴史・人名

漢直轄支配

朝鮮半島、中国支配の始まり

 紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。

画像の説明

 この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。

 そして、3世紀になると(文章にしてしまえば、短いですがBC108年からですからかなり長い年月が経ってますよぉ)、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。

 この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。

画像の説明

しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。

ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。


#menu(): No such page: menu_朝鮮半島の歴史

わかりやすい朝鮮半島の歴史
[ 朝鮮半島の歴史 > 古朝鮮の歴史 > 朝鮮半島、中国支配の始まり > 高句麗による楽浪郡の滅亡 > 三国時代~新羅による朝鮮統一~ > 高麗の時代 > 李朝朝鮮の時代 > 韓国併合までの流れ > 閔妃殺害事件 > 韓国併合 > 朝鮮戦争 ]


年表

   朝鮮半島の歴史(東アジア-朝鮮-先史時代)
-108漢直轄支配植民地)[紀元前108年~220年](よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)
-108衛氏朝鮮滅亡(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮-衛氏朝鮮)
-108前漢の武帝により,衛氏朝鮮滅亡
前漢,楽浪郡など郡県設置.地域土着民の反発を受ける

衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。この直轄支配は、約400年続いた。

朝鮮半島、中国支配の始まり(BC108ー313)
紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。画像の説明この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。そして、3世紀になると(文章にしてしまえば、短いですがBC108年からですからかなり長い年月が経ってますよぉ)、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。画像の説明しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮、前漢-)
-108古朝鮮滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、衛氏朝鮮、前漢-古朝鮮滅亡)
-108原三国時代(BC108-4世紀中葉)(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、前漢-)
-108紀元前108年~220年:漢(植民地よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、新羅-)
-108武帝が朝鮮に楽浪・真番・臨屯・玄菟など4郡設置(東アジア-朝鮮、前漢-)
-108漢、郡県設置国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、前漢-)
-100三国時代
BC100年頃  中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。(東アジア-朝鮮、百済-三国時代)
-57朴赫居世、徐羅伐(後の新羅)建国

第1代 新羅王 赫居世西干(BC57~AD4)
辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。

三国時代(BC57ー676)
韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。BC57年 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、
新羅を建国する。(「三国史記」)国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。

新羅(356ー935) 新羅は三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。
BC57年からAD935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済と高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅は高句麗、百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-)
-50倭人達が兵を率いて新羅の辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。(東アジア-朝鮮、新羅-)
-37高句麗の建国(東アジア-朝鮮、高句麗-)
-37BC37年高句麗の建国
第1代 高句麗王 東明聖王(BC37~BC19)
朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国

高句麗
一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
-37その2・高句麗の建国やがて、紀元前108年に古朝鮮が滅びたあと、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持つ、いろいろな部族国家が登場します。その中には、今の長春にあった、扶餘(ぶよ)という国もありました。高句麗の歴史は、その扶餘から始まります。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになります。東扶餘には、ヘブルという王がいました。そしてヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王、すなわち朱夢が生まれる。卵から生まれるとはどういうことでしょうか。韓国の神話では、高句麗、新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれています。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味です。王子であれば、国を受け継げばいいのです。しかし捨てられたから、新たに建国することができるのです。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現されています。朱夢という名前の意味は何なんでしょうか。弓の実力が優れた人の代名詞です。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前です。朱夢は幼いときから、優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案します。そこで扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開きました。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯です。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、ついに高句麗を建国しました。その時、彼は22才。紀元前37年のことです。朱夢、彼は扶餘の生まれ育ちですが、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫でした。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダとなったのでしょう。そして、ただの神話だけではなく、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服による政治統合が勇敢な国、高句麗を開いたのです。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
-37一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。

高句麗(BC37ー668)高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済・新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした。
BC37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-)
-20春二月に、倭人の瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。(東アジア-朝鮮、倭、馬韓-)
-19朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継(東アジア-朝鮮、高句麗-)
-18その3・三国時代の幕開け・百済と新羅の誕生紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢が建国した高句麗。その南には百済と新羅がありました。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在しました。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からでした。ある日、高句麗の王、朱夢の所に、男の子が訪ねてきました。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せました。朱夢はユリを自分の息子と認めます。そして王位継承権者である太子の地位を与えました。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいました。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟であるビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行きます。二人はどこへ行ったのでしょう。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行きました。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変な苦労がありました。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れました。一方、弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行きました。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってきました。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合して、一つの国家を作り上げていました。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができたのでしょう。やがてオンゾは国名を百済に変えました。しかしその百済も西暦660年に、また高句麗は668年に滅びます。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅です。新羅を建国したのは朴ヒョコセといいます。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につきましたがその王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくこととなりました。もう少し詳しくみてみましょう。その新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人だったのでしょう。その少し前のお話になります。今の慶尚道にあった辰韓には6つの村がありました。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを希望するようになりました。そうしたある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けているではありませんか。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵がありました。白馬は人を見ると天に上って行きました。そして卵が二つに割れて、そこから可愛い男の子が生まれました。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめて、誠意をもって育て、彼が13歳になった時、王として即位させました。その男の子が朴ヒョコセだったのです。これは自らつけた名前です。ここにも、卵から生まれてきた男の子が出てきました。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と、呪術の範囲に留まっている部分が多いそうです。その分、高句麗や百済よりは古代王国になるのが遅かったといえるでしょう。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代のことです。しかし、新羅は優秀な鉄器文化を持つ周辺国、即ち高句麗、百済との交流を通じて、時には牽制をもうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励むのです。高句麗と百済、そして新羅。それらが作った三国時代。その期間は長く、700年間にも及びました。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
-18十済(後の百済)建国(東アジア-朝鮮、十済:百済-)
-18高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済。
倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。
百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。
一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(東アジア-朝鮮、百済-)
-18朱蒙の子,温柞,百済建国
高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(東アジア-朝鮮、百済-)
-18百済の建国伝説
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。
弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。
百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)

第1代百済王温祖王(BC18~AD28)

韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城(現在の広州市南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。

温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる
慰礼城、現ソウル市付近)
(百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある)
(北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(東アジア-朝鮮、百済-)
-18高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」)RIGHT:倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる(東アジア-朝鮮、百済-)
-16靺鞨が北部に侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
-11靺鞨が慰礼城を包囲(東アジア-朝鮮、百済-)
-10神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(東アジア-朝鮮、百済-)
-6東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(東アジア-朝鮮、百済-)
-2楽浪が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
-1前漢、劉氏・・平帝(元宗) 百済に靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(東アジア-前漢、朝鮮、百済-前漢)
4第2代新羅王南解次次雄(4~24)(東アジア-朝鮮、新羅-)
6柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(東アジア-朝鮮、百済-)
7巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(東アジア-朝鮮、百済-)
9馬韓を滅ぼす(東アジア-朝鮮、百済-)
14倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。(東アジア-朝鮮、倭-)
18第3代高句麗王大武神王(18~44)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
18その4・高句麗の領土拡張その一、デムシン王韓国の歴史の中で、一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗。2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移しました。今の中国の集安です。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地、豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨綠江が流れています。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたこと、それが都を移転した一番重要な目的でした。高句麗の2代目のユリ王、そうです、建国の王・朱夢の所に、半分に折れた短刀を持った男の子が訪ねてきましたね。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリです。高句麗2代目のユリ王です。その頃、高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王は高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきました。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収めました。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる訳です。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていました。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築いたのです。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は、こんどは目を南のほうへ向けます。デムシン王の息子ホドン王子の話になります。ある夏の日、ホドン王子は南の地域を旅していました。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行ったのです。楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚をするために帰国することにしました。楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って、危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓がありました。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいたのです。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできなかった、チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが、楽浪姫だったのを知り、怒った彼は、楽浪姫を殺してしまいました。高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていたのでした。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選びました。その時に降伏した楽浪は、5年後には、完全に滅びてしまいます。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代にいたるまで悲しい恋の話として、言い伝えられています。悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいました。楽浪はどこにあったか。いろいろと説があるようですが、平壌を中心とした地域と推定されています。国内城からはかなり距離がありますが、高句麗の南のほうへの征服を意味しているのでしょう。ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作りました。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始めます。高句麗の建国後、百年が経つ西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されています。その領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられています。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
19第2代高句麗王琉璃明王(19~AD18)
干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-)
20大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(東アジア-朝鮮、百済-)
22靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
24第3代新羅王儒理尼師今(24~57)(東アジア-朝鮮、新羅-)
25南沃沮が帰順(現江原道付近)(東アジア-朝鮮、百済-)
28第2代百済王多婁王(28~77)
多婁王即位タル(温祚王の子)(東アジア-朝鮮、百済-)
33国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(東アジア-朝鮮、百済-)
34靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
42第1代加羅王首露王(42~199)(東アジア-朝鮮、加羅-)
44第4代高句麗王閔中王(44~48)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
48第5代高句麗王慕本王(48~53)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
53第6代高句麗王太祖大王(53~146)
高句麗、太祖王即位(東アジア-朝鮮、高句麗-)
57第4代新羅王脱解尼師今(57~80)
新羅の4代王脱解即位。脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(東アジア-朝鮮、新羅-)
57倭の女王卑弥呼、魏に使いを送る(東アジア-朝鮮、百済-)
58倭人の瓠公、春正月に新羅の最高官位の大輔を拝命(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)
60ブーディカの反乱 AD60年に夫プラスタグス王が亡くなると、二人の娘の王位継承は認められず、ローマは領土や財産を没収した。ブーディカはローマの侵略に必死に抵抗したが、縛られて鞭で打たれ、更に2人の娘は辱めを受けた。  この仕打ちに対しブーディカは激しく怒り、周辺部族と連合して大規模な反乱を起こした。(東アジア-朝鮮、百済-)
63領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(東アジア-朝鮮、百済-)
64新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
73新羅、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
日食(東アジア-朝鮮、百済-)
75新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
77第3代百済王己婁王(77~128)
己婁王即位コル(多婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-)
80第5代新羅王婆娑尼師今(80~112)(東アジア-朝鮮、新羅-)
85新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
92日食
懿徳92-105(東アジア-朝鮮、百済-)
100北朝鮮に高句麗が起こる(東アジア-朝鮮、高句麗-)
100高句麗 3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。隋の煬帝の遠征軍を撃退し、唐の攻勢にも激しく抵抗したが、668年に滅亡した。  中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
105孝昭105-137
新羅と和睦交渉(東アジア-朝鮮、百済-)
108大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-)
112第6代新羅王祇麻尼師今(112~134)(東アジア-朝鮮、新羅-)
113新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-)
121百済建国事情
建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。
公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。
このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。
宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。
新羅、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。(東アジア-朝鮮、百済-)
123新羅、春三月に倭国と講和した。(東アジア-朝鮮、新羅-)
125新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(東アジア-朝鮮、百済-)
128第4代百済王蓋婁王(128~166)
蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-)
134第7代新羅王逸聖尼師今(134~154)(東アジア-朝鮮、新羅-)
146第7代高句麗王次大王(146~165)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
150馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる(東アジア-朝鮮、馬韓・弁韓・辰韓-)
150150年頃馬韓、弁韓、辰韓の勢力が大きくなる(東アジア-朝鮮、百済-)
154第8代新羅王阿達羅尼師今(154~184)(東アジア-朝鮮、新羅-)
158新羅、倭人が交際のために訪れた。(東アジア-朝鮮、新羅、日本:、倭-)
163百済の温祚即位(東アジア-朝鮮、百済-)
165第8代高句麗王新大王(165~179)
新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う
日食(東アジア-朝鮮、百済-)
166第5代百済王肖古王(166~214)
肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(東アジア-朝鮮、百済-)
167新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
170百済遷都
百済本紀の記録
百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。
温祚13年
王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」
秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。
温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。
百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。
日食(東アジア-朝鮮、百済-)
173新羅、倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)(東アジア-朝鮮、新羅-)
179第9代高句麗王故国川王(179~197)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
184第9代新羅王伐休尼師今(184~196)(東アジア-朝鮮、新羅-)
186百済遷都に至る情勢
公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。
記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。
百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。
第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。
『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。
百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。
高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。
百済の多婁即位(東アジア-朝鮮、百済-)
188新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
193新羅、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。(東アジア-朝鮮、新羅-)
194高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施(東アジア-朝鮮、高句麗-)
194高句麗、賑貸法実施国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
196第10代新羅王奈解尼師今(196~230)(東アジア-朝鮮、新羅-)
197第10代高句麗王山上王(197~227)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
199第2代加羅王居登王(199~259)
新羅へ侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
201新羅との衝突
百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。
新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。
新羅本紀脱解王3年
夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。
この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。
このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。
(東アジア-朝鮮、新羅、百済-)
203新羅本紀脱解王5年(AD203年前半)馬韓の将軍新羅に投降
馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。
この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(東アジア-朝鮮、百済-)
204百済本紀多婁王36年(AD204年前半)使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
新羅本紀脱解王7年(AD204年前半)百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。
この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。
孝元204-225(東アジア-朝鮮、百済-)
205倭国との交渉
百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。
焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。
卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。
百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。
百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。
このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。
百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。
卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。
①毎年貢物をよこすこと。
②新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること
③朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。
④朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。
⑤楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。
百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。
三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀
63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。
74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・
76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。
84・・214・・・・百済が辺境を侵した
85・・215・・新羅の辺境を侵した・・
百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(東アジア-朝鮮、百済-)
205後漢が帯方郡を設置(東アジア-朝鮮、百済-)
206後漢,公孫康が帯方郡設置(東アジア-朝鮮、後漢-)
209高句麗、国内城を郡に定める(東アジア-朝鮮、百済-)
210靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
211百済の己婁即位(東アジア-朝鮮、百済-)
214第6代百済王仇首王(214~234)
仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男身長七尺という)
靺鞨と戦闘(東アジア-朝鮮、百済-)
216靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
218新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
221221年~245年:魏(植民地(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)
221221年~245年:魏(植民地よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、魏-)
222新羅を攻撃
日食(東アジア-朝鮮、百済-)
224新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
225開化225-248(東アジア-朝鮮、百済-)
227第11代高句麗王東川王(227~248)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
230第11代新羅王助賁尼師今(230~247)(東アジア-朝鮮、新羅-)
232新羅、夏四月に倭人が金城を包囲。(東アジア-朝鮮、新羅-)
233新羅、五月倭兵が東辺を攻めた。(東アジア-朝鮮、新羅-)
234第7代百済王古尓王(234~286)
古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子)
沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(東アジア-朝鮮、百済-)
236百済の蓋婁即位(東アジア-朝鮮、百済-)
238天地を祭るために太鼓と笛を用いる(東アジア-朝鮮、百済-)
240新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-)
243魏・高句麗討伐に乗り出す。(東アジア-朝鮮、魏、高句麗-)
246魏と高句麗が合して侵入(東アジア-朝鮮、百済-)
247第12代新羅王沾解尼師今(247~261)
干ばつ多発(東アジア-朝鮮、百済-)
248第12代高句麗王中川王(248~270)
崇神248-273(東アジア-朝鮮、百済-)
249新羅、夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)
255新羅を攻撃
百済の肖古即位(東アジア-朝鮮、新羅、百済-)
258靺鞨が使者(東アジア-朝鮮、百済、靺鞨-)
259第3代加羅王麻品王(259~291)(東アジア-朝鮮、加羅-)
260官位を制定官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める
百済(古爾王),十六官等と公服制定(東アジア-朝鮮、百済-)
260百済(古爾王)、一六官等と公服制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-)
261百済、新羅と和親を求めるも得られず(東アジア-朝鮮、百済-)
262第13代新羅王味鄒尼師今(262~284)(東アジア-朝鮮、加羅-)
265265年~313年:晋(植民地(よいこの正しい半島歴史年表)(東アジア-朝鮮-)
265265年~313年:晋(植民地よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、晋-)
266新羅を攻めるも敗退(東アジア-朝鮮、百済-)
270第13代高句麗王西川王(270~292)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
273垂仁273-311(東アジア-朝鮮、百済-)
279百済の仇首即位(東アジア-朝鮮、百済-)
284第14代新羅王儒礼尼師今(284~298)(東アジア-朝鮮、新羅-)
286第8代百済王責稽王(286~298)
新羅と和親を求める
責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする
高句麗の帯方攻撃に対して援軍(東アジア-朝鮮、百済-)
287新羅、夏四月に倭人が一礼部を襲う。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)
289新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
百済の古爾即位
百済の沙伴即位(東アジア-朝鮮、百済-)
291第4代加羅王居叱弥王(291~346)(東アジア-朝鮮、加羅-)
292第14代高句麗王烽上王(292~300)
新羅、夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
294新羅、夏倭兵が長峯城を攻めて来た。(東アジア-朝鮮、新羅、倭-)
295新羅、春王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(東アジア-朝鮮、百済-)
298第15代新羅王基臨尼師今(298~310)
第9代百済王汾西王(298~304)
漢が貊人とともに侵入責稽王戦死
汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-)
300第15代高句麗王美川王(300~331)
新羅、春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
304第10代百済王比流王(304~344)
楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される
比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-)
310第16代新羅王訖解尼師今(310~356)(東アジア-朝鮮、新羅-)
312新羅、春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。(東アジア-朝鮮、新羅-)
313漢直轄支配→三国時代[313-676](東アジア-朝鮮、高句麗-)
313高句麗、楽浪郡を滅亡させる国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、高句麗-)
313三国時代 高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。(東アジア-朝鮮、高句麗-)
313高句麗,楽浪郡滅亡させる 漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。 高句麗による楽浪郡の滅亡 紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(東アジア-朝鮮、高句麗、楽浪郡-)
313高句麗、楽浪郡を滅ぼす新羅、百済の建国(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、百済-高句麗)
313高句麗、楽浪郡、帯方郡を滅亡させる(東アジア-朝鮮、百済-)
313中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(東アジア-朝鮮、百済-)