歴史・人名

韓国併合

韓国併合歴史

 日清戦争では、清に朝鮮の独立を認めさせ、1904年の日露戦争勃発時には第一次日韓協定により韓国の財政、外交に関して日本が介入することを認めさせ、日露戦争に勝利した日本は1905年に第二次日韓協定によって韓国の外交権を奪いました。ちなみに、日韓協定は、日朝協定ではないですよ。1897年の日清戦争後に国号を韓国と変えていますから。
 そして、この第二次日韓協定によって日本はソウルに統監府(とうかんふ)というのを置き、初代統監に伊藤博文がつきました。これは、もう事実上日本が韓国の政治全般に介入することを意味しています。
 このような日本の動きに対して、アメリカはフィリピンのアメリカ支配を認める代わりに日本の韓国支配を認めるという協定を1905年に日本との間に結びます。桂・タフト協定といって桂さんは当時の日本の首相。タフトは米陸軍長官です。
 また、ロシアも日露戦争後のポーツマス条約によって日本による韓国保護国化を認めざるをえなくなります。
 1907年には、この韓国の現状を世界に訴えようとハーグ密使事件というのがおきます。韓国皇帝がハーグの万博平和会議に密使を送り助けを求めたのです。しかし、韓国には外交権がないという理由で各国は無視。逆に日本は、この韓国の行動に対して韓国軍の解散を強制します。これが第3次日韓協定です。
 当然、このような日本の行動に韓国国内では不満を募らせる人々もおり1909年に初代統監府であった伊藤博文が韓国の安住根(あんじゅうこん)によって暗殺されます。
 この事件の翌年の1910年には日韓併合条約により韓国は完全に日本の植民地となり韓国併合となったのです。

画像の説明

 韓国併合に成功した日本は、まず言論、出版、集会、結社などの自由を排除。また、日本語や日本史の教育を推し進め、土地調査により所有者が不明な土地は没収していきました。
 このような日本支配により、1919年には三・一運動というのがおきます。200万人以上が参加し朝鮮の独立を訴えたのです。こうした運動により日本も武力行使を控えるなどの行動にでますが、日中戦争、太平洋戦争に突入していくと危機を乗り越えるために日本は朝鮮への強要をさらに強めていくことになるのです。
 1938年には学校教育にて朝鮮語の教育をなくし、日本語を常用することを強制します。また、日本風の名前に改名することをも強制し、朝鮮半島の人々を日本へと連れて行き重労働を強いることなどもしました。
 政府が直接介入していたか?定かではありませんが、従軍慰安婦問題などもこの頃の問題ですし、竹島問題も韓国併合が焦点となり問題を複雑にしています。


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わかりやすい朝鮮半島の歴史
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韓国併合(1910年)

1904年の日韓新条約、ついで日露戦争終結後の協約により、韓国は日本の「保護国」となっていた(当時、フランスの保護下にあったモナコのように、独立国でありながら他国に外交権を委任することはヨーロッパによく見られたことだった)。

日露戦争に勝ったことで日本はロシアの朝鮮半島南下を食い止めることができた。明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化がこれで進展することになった。
協約によって韓国統監となった伊藤博文は併合しないと主張していたのだが、条約を守ろうとしない韓国を併合せざるを得なくなる。
そして韓国人テロリストが伊藤博文を暗殺するというとんでもない事件が起こった。
日本政府が驚愕し、日本人が激怒したのはもちろんのこと、韓国政府、朝鮮人は震え上がった。
伊藤博文の暗殺を受けて、日本と韓国の双方から提案があり、韓国併合の話が持ち上がった。会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」も併合推進派だった。
慎重な日本政府は列国に打診した。欧米先進国の仲間入りを願っていた日本は、国際社会の反応を心配したのだ。アメリカとイギリスは、このまま放っておけばさらに混乱すると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対もまったくなかった。
各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。
日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めることにした。
そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。

植民地政策といえば宗主国が植民地から搾取するのがお決まりのパターンだった(西欧の植民地支配)が、日韓併合後は日本からの一方的な持ち出しだった。しかも朝鮮から日本に入る人数が日本から出かける人よりも相対的に多かった。

終戦後、日本は莫大な資産を朝鮮半島に置いてきた。日本が朝鮮半島で迷惑をかけたと考えられるものと差し引き計算すると、日本が置いてきた資産のほうが北朝鮮に関しても、今の貨幣価値で8兆7000億円多い。

ところが首相だった小泉は「過去の植民地政策」に謝罪してしまった。謝罪する理由などまったくないにも関わらずである。

当時の朝鮮が明治政府や民間の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてよかった。併合する必要などまったくなかった。それもこれも清国への属国意識に染まって自立の意思に欠け、清国に、あるいは南下侵略の意図をあらわにするロシアになびき、朝鮮が近代化を遅らせたためだけに起こったことである。そのために日本の負担は大変のものだった。日本にとってはきわめて遺憾なことだった。韓国側からすれば主権が奪われたのだからやはり遺憾なことだったであろう。

昭和59年、韓国大統領(全斗かん)が初めて来日し、昭和天皇と会見した。天皇がどういう発言をするか注目が集まったが、「日韓両国の間には今世紀の初め、まことに遺憾な状態がありました。こういうことは繰り返してはなりません」という趣旨の発言をされた。これ以上ないと思える言い方であった。

ところが、日本の首相は小泉をはじめ、日韓併合について安易に謝罪ばかりを繰り返している。これは明治天皇、明治の元勲、それに日進日露の戦争で戦死した人たちを冒涜することである。

反日史観・自虐史観では、この併合を「侵略」という。馬鹿らしいことである。

韓国併合の理由

韓国併合の理由は何だったか。簡単にいえばひとつはアジアの安定、東洋の平和であった。もうひとつは日本の安全、自衛であった。このことは韓国併合の御詔勅に書かれている。御詔勅というのは美辞麗句を連ねた無意味な文書のように考える者もいるが、そうではない。御詔勅というのは、実にその当時の日本の置かれた立場、日本の主張を的確に簡潔に表現している。
韓国併合の結果、アジアは安定した。言い換えれば、それまでの禍乱(からん)というものはすべて朝鮮に原因があったと言ってもいい。日清戦争、日露戦争、これすべて朝鮮が主たる原因だった。日本は三たびこの朝鮮のために国運を賭した戦争というものを戦いたくなかったから、ついに空名にしか過ぎない韓国の独立を取り消して併合したのだ。


http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1901-10/1910_kankoku_heigo.html


1864(文久4、元治元、高宗元)年 4月、崔済愚処刑。
1866(慶応2、高宗3)年 10月、フランス艦隊江華島攻撃(丙寅洋擾)。
1868(慶応4、明治元、高宗5)年 1月、王政復古宣言。4月、宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。
1869(明治2、高宗6)年 1月、樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。
1870(明治3、高宗7)年 1月、佐田白茅を朝鮮へ派遣。10月、吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。
1871(明治4、高宗8)年 6月、アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。9月、日清修好条規・通商章程調印。11月、岩倉具視らを欧米へ派遣。
1872(明治5、高宗9)年 9月、花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。
1873(明治6、高宗10)年 8月、閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。10月、西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。 12月、閔氏政権成立。
1874(明治7、高宗11)年 5~10月、日本軍、台湾出兵。9月、日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。
1875(明治8、高宗12)年 2月、森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月、金継運との会見拒否、9月、帰国)。
1875(明治8、高宗12)年 9月、「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10月、参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。12月、参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。
1876(明治9、高宗13)年 1月、森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。2月、黒田全権ら江華島に上陸(11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。5月、第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。
1877{明治10、高宗14)年 9月、花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。
1878(明治11、高宗15)年 9月、朝鮮政府、釜山港輸出入品につき朝鮮商人に課税(12月廃止)。
1879(明治12、高宗16)年 4月、琉球藩廃止、沖縄県設置。6月、花房代理公使、朝鮮政府と開港交渉(仁川開港を断念)。
1880(明治13、高宗17)年 4月、花房義質、弁理公使となる。5月、元山開港。米シュウフェルト提督釜山入港、国書奉呈拒否される。8月、金弘集来日。シュウフェルト天津着、以後李鴻章と朝鮮の通商条約締結交渉に入る。12月、花房弁理公使、朝鮮国王に国書奉呈。
1881(明治14、高宗18)年 1月、朝鮮統理機務衛門設置。2月、清露間にイリ条約調印。5月、朴定陽ら来日。11月、趙秉稿来日。
1882(明治15、高宗19)年 3月、金玉均来日(8月まで滞在)。5月、朝米修好通商条約調印。6月、朝英仁川条約調印(イギリス批准せず)。朝独修好通商条約調印(ドイツ批准せず)。7月、壬午軍乱おこる。8日朝修好条規続約・済物浦条約調印。清国軍、大院君を拉致、天津へ連行。9月、仁川開港。朝清商民水陸貿易章程調印。10月、朴泳孝・金玉均ら来日。12月、横浜正金銀行、朝鮮政府と17万円借款協定成立。ドイツ人ノレンドルフ朝鮮政府統理衛門に傭聘。
1883(明治16、高宗20)年 6月、金玉均来日、借款を求めるが交渉不成立(1884年5月帰国)。10月、駐清英国公使パークス、横浜駐在独領事ツァッペとともに漢城入京、メレンドルフと条約再交渉(11月、朝英修好通商条約・朝独修好通商条約調印)。11月、清仏戦争はじまる。
1884(明治17、高宗21)年 6月、朝伊修好通商条約調印。7月、朝露修好通商条約調印。日本公使館新築。12甲申政変おこる(4日)。朴泳孝・金玉均ら日本へ亡命。井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮へ派遣。
1885(明治18、高宗22)年 1月、漢城条約調印。竹添公使召還。呉大澂、漢城入京。3月、福沢諭吉「脱亜論」発表。4月、天津条約調印。4月、イギリス海軍巨文島占拠。6月、スベエル、ロシア軍人傭聘協定締結のため漢城入京。メレンドルフ解任。7月、榎本武揚駐清公使、李鴻章に日清共同朝鮮内政改革案を提示。日本守備隊・清国軍、朝鮮より撤退。9月、幽閉中の大院君赦免(10月帰国)。
1886(明治19、高宗23)年 6月、朝仏修好通商条約調印。
1889(明治22、高宗26)年 2月、大日本帝国憲法公布。5月、黄海道で防穀令施行。9月、咸鏡道で防穀令施行。
1890(明治23、高宗27)年 3月、黄海道で防穀令施行。11月、第1回帝国議会召集。
1891 <明治24、高宗28)年 12月、朝鮮政府に防穀損害賠償要求(防穀令事件)。
1892(明治25、高宗29)年 12月、東学教徒、崔済愚の伸寃運動開始。
1893(明治26、高宗30)年 3月、東学教徒報恩集会。
1894(明治27、高宗31)年 4月、甲午農民戦争。6月、朝鮮政府、清国に援兵要請。清国・日本、朝鮮に出兵。全州和議、全羅道に執綱所設置。日本政府、清国と朝鮮内政共同改革を提議、拒否される。7月、大鳥公使、朝鮮政府に内政改革案を提示。日英通商航海条約調印。日本軍が王宮占領、大院君摂政となる(甲午政変)。豊島沖海戦(日清戦争はじまる)。甲午改革はじまる。8対清宣戦布告。第1次金弘集内閣成立。大日本大朝鮮両国盟約(攻守同盟)調印。9月、平壌占領。黄海海戦。10月、農民軍各地で決起。11月、井上公使、内政改革要領を朝鮮国王に奏上。日本軍、旅順口占領。12月、農民軍公州で敗退、全璋準捕われ処刑。軍国機務処廃止。
1895(明治28、高宗32)年 2月、北洋艦隊降伏。3月、日本銀行、朝鮮政府と300万円借款契約。4日清講和条約調印(17日)。三国干渉(23日)。8月、三浦梧楼駐朝公使となる。10月、閔妃殺害(乙未事変)。12月、断髪令公布。
1896(明治29、建陽元)年 1月、各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。2月、「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。4月、徐載弼「独立新聞」発行。5月、小村・ウェーバー協定調印。6月、山県・ロバノフ協定調印。7月、徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。月、11漢城に独立門建立。12月、「大朝鮮独立協会会報」発刊。
1897(明治30、光武元)年 10月、大韓帝国成立。
1898(明治31、光武2)年 4月、西・ロ-ゼソ協定調印。米西戦争おこる。7月、量田事業開始。9月、金鵄陸ら、皇帝・皇太子殺害を計画(毒茶事件)。10月、官民共同会開催。11独立協会に解散命令。
1899(明治32、光武3)年 9月、韓清通商条約調印。12月、「独立新聞」発刊。
1900(明治33、光武4)年 6月、義和団事件。11月、満州に関する露清協定締結。
1901(明治34、光武5)年 6月、桂太郎内閣成立、政綱に韓国保護国化を掲げる。10月、朴斉純外相来日、中立化案を打診。
1902(明治35、光武6)年 1月、第1回日英同盟協約調印。
1903(明治36、光武7)年 8月、日本政府、日露協商基礎条項提示。ロシア、極東総督府設置。駐日公使高永喜、戦時局外中立の承認を求める韓帝密書を小村外相に手交。韓帝、中立承認を各国に打診。9月、「皇城新聞」に「満韓交換の風説を破る」掲載。小村=ローゼン会談開始(30日、両者間に日露協商確定修正案まとまる)。12月、閣議、日露開戦時の対清韓方針決定。
1904(明治37、光武8)年 1月、林公使・李址鎔外相聞に日韓議定書案まとまる。韓国政府、局外中立宣言。2月、御前会議、対露開戦決定(4日)。臨時派遣隊仁川上陸、仁川沖・旅順口でロシア艦を攻撃(8~9日)。宣戦布告(10日)。清国局外中立宣言(12日)。日韓議定書調印(23日)。3月、韓国駐剳軍司令部設置。伊藤博文特派大使漢城入京。5月、鴨緑江渡河作戦、九連城占領。朝露修好通商条約廃棄。閣議、対韓施設綱領決定。7月、駐剳軍司令官軍律制定。「大韓毎日申報」発刊。8月、一進会結成。第1次日韓協約調印(10月、目賀田種太郎財政顧問、12月、スティ-ヴンス外交顧問着任)。9月、遼陽占領。京畿道始興・黄海道谷山で民擾。10月、咸鏡道に軍政施行。沙河会戦。
1905(明治38、光武9)年 1月、旅順開城。駐剳軍司令官、漢城地区の治安警察権を掌握(4月、全州地区も)。日本貨幣の韓国内流通公認。第一銀行、韓国政府と国庫金取り扱い、貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。3月、奉天会戦。4月、閣議、韓国保護権確立方針決定。5月、イギリス外相、日英攻守同盟を提案。日本海海戦。6月、アメリカ大統領、日露両国に講和勧告、両国政府承諾。7月、桂・タフト協定成立。8月、日露講和会議(10日交渉開始、29日講和成立)。第2回日英同盟協約調印。9日露講和条約(ポーツマス条約)調印。小村全権、韓国保護国化にっきアメリカ大統領の了解をうる。10月、朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日英公使に抗議。日本閣議、韓国保護権確立実行を決定。11月、伊藤博文を特派大使として韓国派遣(15日、韓帝に保護国承認を強要)。第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印(17日)。保護条約反対の義兵闘争おこる。ハルバート、韓帝のアメリカ大統領あて親書を携えアメリカ国務長官に調停依頼。12月、韓国統監府および理事庁官制公布、統監に伊藤博文任命。
1906(明治39、光武10)年 1月、韓帝、イギリス人ストーリー記者を通じて国書を列国に送り、共同保護を要望。2月、韓国統監府開庁。3月、興業借款1000万円供与。5月、閔宗植、藍浦で挙兵、洪州を占領するも日本軍と交戦して敗退(11月逮捕される)。6月、崔益鉉、泰仁で挙兵、捕えられ1907年1月、対馬で獄死。梅謙次郎、韓国政府法律顧問となる(法典編纂)。8関東都督府官制公布。三七忠造、韓国政府学部参与官となる(教科書編纂)。9月、日本人参与官を朝鮮各地方に配置。10月、鴨緑江・豆満江森林経営に関する協同約款調印。内田良平、一進会顧問となる。11月、満州鉄道会社設立。12月、ロシア外相、日露協商を示唆。
1907(明治40、光武11・隆煕元)年 2月、ロシア外相、日露協商案を提示。5月、李完用内閣成立。6月、第2回万国平和会議に保護条約無効を訴える韓帝の密使3人、パーク着。7月、韓帝の各国元首あて親書(常設仲裁裁判所へ保護条約無効提訴につき協力を要請)を携えたハルバート、ニューヨーク着。対韓強硬の世論高まる。閣議、韓帝譲位などの処理方針決定。高宗譲位詔勅発布、純宗即位。第3次日韓協約(丁未7条約)調印(24日)。第1回日露協約調印。韓国軍隊解散の詔勅発布。8月、改元、純宗即位式。原州鎮衛隊・江華島分遣隊など軍隊解散に反対し蜂起、丁未義兵闘争おこる。李麟栄ら義兵決起(12月楊州に1万人集結、上京をめざす。 1909年6月、李麟栄捕えられ処刑)。間島に統監府派出所開設(清国、撤去を要求)。10月、警察事務執行に関する取極書調印(警察合併)。11月、純宗、昌徳宮へ遷る。
1908(明治41、隆煕2)年 1月、裁判所構成法施行。3月、韓国施政改善に1968万円無利子貸し付け。元外交顧問スティーブンス、サンフランシスコで田明雲らに射殺される。6月、韓国人憲兵補助員制度創設。「大韓毎日中報」のベセル、イギリス領事裁判で禁固処分を受ける。李完用内閣改造。宗秉峻内相となる(1909年2月、辞任)。9月、閣議、満洲に関する交渉方針決定。10日韓漁業協定調印。12月、東洋拓植会社設立。日本興業銀行、起業資金1296万円借款契約。日本政府、起業公債100万円借款契約。
1909(明治42、隆熈3)年 1月、韓帝地方巡幸、伊藤統監陪従(~2月)。2月、大竹貫一代議士、統監政治批判演説。4月、伊藤統監、韓国併合に同意、桂首相・小村外相と実施方針協議。6月、伊藤統監辞任、曽禰荒助統監就任。7月、閣議、韓国併合方針決定。韓国司法・監獄事務委託に関する日韓覚書調印(法部廃止)。韓国中央銀行に関する日韓覚書調印。軍部廃止。9日本軍、全羅南道方面の義兵「討伐」作戦開始。満州5案件に関する日清協約調印。10月、伊藤博文、ハルビンで安重根に射殺される。12月、一進会、皇帝・統監に「韓日合邦」上奏文・上申書提出(却下される)。大韓協会など、一進会非難・併合反対運動を展開。李完用、李在明に刺され負傷。
1910(明治43、隆熈4)年 2月、小村外相、在外使臣に韓国併合方針を伝え、各国の反応を打診。3月、安重根、旅順で処刑。5月、寺内正毅を陸相のまま統監に任命(7月23日着任)。6月、閣議、併合後の韓国施政方針決定。韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(憲兵警察制)。7月、第2回日露協約調印。閣議、併合条約案等を決定。8日本政府、イギリスにたいし、併合後の関税据え置きを表明。寺内統監、李完用首相に併合に関する覚書を手交(16日)、韓国閣議で併合条約調印を了承(18日)。枢密院会議、併合条約案を可決(22日)。韓国併合に関する条約調印(22日)。公布(29日)、即日施行。韓国併合に関する宣言発表(29日)。9月、朝鮮総督府官制公布。11月、喜田貞吉述『韓国の併合と国史』刊行。
関係略年