歴史・人名

人物あ

人物あ 人物い 人物う 人物え 人物お
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人物さ 人物し 人物す 人物せ 人物そ
人物た 人物ち 人物つ 人物て 人物と
人物な 人物に 人物ぬ 人物ね 人物の
人物は 人物ひ 人物ふ 人物へ 人物ほ
人物ま 人物み 人物む 人物め 人物も
人物や 人物ゆ 人物よ
人物る 人物り 人物る 人物れ 人物ろ
人物わ

氏名
記事
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あいだ げき
会田外記
信清の孫。日光御成街道大門宿(浦和市大門)の開発者。大門宿の本陣、問屋、名主役を兼帯する村の要職を一手に引き受け、岩槻藩主より苗字帯刀を許されている。
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あいだ ござん
会田吾山
秀真。越谷宿新町名主会田文之助の子。俳句と国学に優れ、滝沢馬琴の俳句の師匠でもあった。著書に『諸国方言物類呼称』があり、方言学の始祖といわれている。
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あいだ すけかつ
会田資勝
庄七郎。資久の子。小姓として徳川秀忠に仕えたが、慶長12年(1607)罪を受け駿河掛川に預けられる。3年後赦免されるも以後消息不明。
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あいだ すけきよ
会田資清
出羽守。信清の弟。太田資正と親交があり、「資」の諱を受けた。
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あがたいぬかいうじ
県犬養氏
神皇産霊尊(かむむすひのみこと)の後裔(こうえい)と称する神別氏族。本姓は連(むらじ)、684年(天武天皇13)宿禰(すくね)姓を、764年(天平宝字8)一部に大宿禰姓を賜わる。海(あまの)犬養、安曇(あずみの)犬養、若犬養などの諸氏とともに犬養部を率いて宮門、大蔵、内蔵、地方の屯倉(みやけ)など大和(やまと)国家の諸施設の守護にあたった伴造(とものみやつこ)系氏族である。大化改新の前後を通じて中級豪族に終始したが、8世紀前半に橘三千代(たちばなのみちよ)、聖武(しょうむ)天皇夫人広刀自(ひろとじ)、参議石次(いわすき)らが出、橘諸兄(もろえ)が政権を握ったころをピークとしたが、769年(神護景雲3)天皇を厭魅(えんみ)したと誣告(ぶこく)されるなどでしだいに衰えた。(ニッポニカ)
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あしな 
蘆名盛重
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あしな 
蘆名盛隆
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あしな もりうじ
蘆名盛氏
1521~1580 別:○四郎丸 平四郎 修理大夫 大膳大夫 父:◇蘆名盛舜 室:伊達稙宗女 子:蘆名盛興 会津・蘆名氏16代当主。会津黒川城主芦名盛舜の子。領内の反乱を治め、会津盆地を平定し、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。
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あしな もりおき
蘆名盛興
1547~1575 ○平四郎 ◇父:蘆名盛氏 室:伊達晴宗女  会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。
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あしな もりおき
蘆名盛興
1547~1575 別名:平四郎、会津黒川城主 父:蘆名盛氏 室:伊達晴宗女 会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。
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あしな もりきよ
蘆名盛舜
1490~1553 別名:遠江守 父:蘆名修理大夫盛高(蘆名盛高) 子:子:蘆名山城守氏方(蘆名氏方)、蘆名盛氏 兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。
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あじすきたかひこねのかみ
阿遅鋤高日子根神
別名:阿治志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿遅鉏高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿泥素企多伽避顧禰神(あじすきたかひこねのかみ)、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、阿遅鉏高日子神(あじしきたかひこのかみ)、阿遅須岐高日古尼命(あじすきたかひこねのみこと)、阿遅須岐高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと)、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)、阿遅須伎神(あじすきのかみ)、迦毛大神/鴨大神(かものおおかみ)、阿治志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿遅鉏高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、阿泥素企多伽避顧禰神(あじすきたかひこねのかみ)、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、阿遅鉏高日子神(あじしきたかひこのかみ)、阿遅須岐高日古尼命(あじすきたかひこねのみこと)、阿遅須岐高孫根乃命(あじすきたかひこねのみこと)、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)、阿遅須伎神(あじすきのかみ)、迦毛大神/鴨大神(かものおおかみ)、迦毛大御神(かものおおみかみ) 父:大国主神 母:多紀理毘売命(奥津島比売神?) 室:天御梶日女命 子:多伎都比古命、塩冶毘古命、天八現津彦命、阿遅鉏速雄命 雷神、農業神。 『古事記』では別名にカモノオオミカミ(迦毛大御神)とあり、地祇系の鴨氏(加茂氏)の祖神とされる神様です。 阿遅鋤高日子根神の神名の鋤は、鋤を神格化した農耕神であるといわれ、現在も農業の神、雷神、不動産業の神として信仰されている。
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あつじ さだゆき
阿閉貞征
????~1582 別名:万五郎 貞秀 貞大 長之 淡路守 室:井口弾正忠経元女 子:阿閉孫五郎貞大(阿閉貞大) 阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。
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あまあひのみこと
天合尊
別名:あめあひのみこと、天鏡尊(あまのかがみのみこと) 父:天三下尊 子:天八百日尊 雄勝法印神楽の四天における、木の神、東方春(90日)の首領
天鏡尊とも
独化天神第三世
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あまご 
尼子
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あまご 
尼子久幸
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あまご 
尼子倫久
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あまご 
尼子勝久
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あまご 
尼子国久
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あまご 
尼子持久
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あまご 
尼子政久
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あまご 
尼子敬久
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あまご 
尼子晴久
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あまご 
尼子氏
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あまご 
尼子清定
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あまご 
尼子秀久
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あまご 
尼子経久
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あまご 
尼子義久
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あまご 
尼子興久
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あまご 
尼子誠久
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あまご 
尼子豊久
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あまご 
尼子高久
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あまつひこひこほのににぎのみこと
天津彦彦火瓊瓊杵尊
別名:邇邇芸命、天津日高日子番能邇邇芸命、瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵命、天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命、天津日高日子番能邇邇芸命:あまつひこひこほのににぎのみこと、瓊瓊杵尊:ににぎのみこと、彦火瓊瓊杵命:ひこほのににぎのみこと、天饒石国饒石天津日高日子火瓊瓊杵命:あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと  瓊瓊杵尊
日本古代の伝承にみえる神。『日本書紀』には天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)、『古事記』にはアメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコトとある。アマテラスオオミカミの孫で,三種神器を奉じて高天原から初めて日向の高千穂峰に降臨したとされる。神武天皇の曾祖父とされている。
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あめのうずめのかみ
天鈿女神
別名:水速女命(みずはやのめのみこと)、水波之女命(みずはのめのみこと)、水波能売大神(みずはのめのおおかみ)、水波能売命(みずはのめのみこと)、青渭神(あおいのかみ)、青渭大神(あおいのおおかみ)、天宇受売(あめのうずめ)、天宇受売神(あめのうずめのかみ)、天宇受売命(あめのうずめ)、天宇受売命(あめのうづめのみこと)、天宇須女命(あめのうづめのみこと)、天鈿女(あめのうずめ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、天鈿売命(あめのうづめのみこと)、罔象女(みつはのめ)、罔象女神(みつはのめのかみ)、罔象女命(みずはのめ) 室:夫:猿田彦神 巫女の元祖。道祖神。芸能の神(演劇・俳優の神、舞楽の神)。 天岩戸の前に集まった神々の一柱。猿田彦神の妻ともいわれる。猿女氏の氏神。
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あめのやそよろだま
天八十万魂
別名:天八十万魂:あめのやそよろだま、百日萬魂 第5世独天神、百日萬魂と同神?
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あまのみなかぬしのかみ天御中主神編集
あめのうわはるのみこと天表春命編集
あめのおしくも天押雲編集
あめのおしほみみのみこと天忍穂耳尊編集
あめのたね天種子編集
あめのやおひ天八百日尊編集
あめのやさがち天八下尊編集
アイオリス人編集
アウストラロピテクス編集
アメノイワトワケノカミ天石門別神編集
アメノカグヤマノカミ天香久山神編集
アメノコヤネノカミ天児屋根神編集
アメノタヂカラオノカミ天手力男神編集
アメノハヅチオノカミ天羽槌雄神編集
アメノホアカリノカミ天火明神編集
アメノホヒノカミ天穂日神編集
アントニウス編集
天三下尊編集
天之常立神編集
天之御中主神編集
天児屋命編集
天児屋根命編集
天地創造編集
天多祢伎命編集
天御中主命編集
天御中主尊編集
天押雲命編集
天日槍神編集
天津彦根神編集
天火明命編集
天照大神編集
天皇編集
天野元政編集
姉小路家編集
安並和泉守 あなみ いずみのかみ ???? ????編集
安宅信康 あたぎ のぶやす 1549 1578編集
安宅冬康 あたぎ ふゆやす 1528 1568編集
安宅清康 あたぎ きよやす ???? 1581編集
安東大将軍(あんとうだいしょうぐん)編集
安藤家(磐城平藩)編集
安藤家(紀伊田辺藩)編集
愛宕家編集
有馬家(丸岡藩)編集
有馬家(久留米藩)編集
朝倉孝景編集
朝倉教景編集
朝倉景盛編集
朝倉景紀編集
朝倉景綱編集
朝倉景連編集
朝倉義景編集
朝比奈泰朝編集
朝比奈泰能編集
浅井久政編集
浅井井規編集
浅井井頼編集
浅井亮政編集
浅井亮親編集
浅井吉政編集
浅井惟安編集
浅井政弘編集
浅井政澄編集
浅井政重編集
浅井政高編集
浅井斎宮助編集
浅井盛政編集
浅井輝政編集
浅井長政編集
浅井長時編集
浅井雅楽助編集
浅利信種編集
浅見道西編集
浅野家(広島新田藩)編集
浅野家(広島藩)編集
甘利虎泰編集
甘糟景持編集
甘糟景継編集
秋山刑部丞編集
秋月種実編集
秋田家(三春藩)編集
穴山信君編集
粟田口家編集
粟田真人編集
綾小路家編集
荒木田氏(沢田家)編集
赤松晴政編集
足利義冬編集
足利義政編集
足利義昭編集
足利義晴編集
足利義輝編集
阿多盛淳編集
阿多盛淳 あた もりあつ ???? 1600編集
阿毘古編集
阿蘇氏編集
阿部家 あべけ編集
阿部家(白河藩)編集
阿野家編集
阿麻毘舎卿編集
青地茂綱編集
青景隆著編集
青木一重編集

天御中主神(あまのみなかぬしのかみ) NEXT 

天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ) NEXT 

天御中主尊(あめのみなかぬしみこと) NEXT 

天御中主命(あめのみなかぬしみこと) NEXT 

アンディ・ウォーホル(あんでぃ うぉーほる) NEXT ?

青景隆著

(あおかげ たかあきら) ????~1556

○越後守 右京進

 周防・大内氏臣。当主義隆の下、奉行人を務めるが、義隆が相良武任を重用した為、これを陶隆房(晴賢)に讒言し、隆房を謀反に走らせる一因を作ったといわれる。隆房謀反時はこれに従い、行動を共にした。安芸・毛利氏との戦いにて戦死。

青木一重

(あおき かずしげ) 1551~1627

○忠助 所右衛門 重通 民部少輔

◇父:青木重直 弟:青木信重

 駿河・今川氏臣、後松平氏臣。姉川の合戦では越後・朝倉氏下の猛将真柄直隆を討つ功をたてた。後に丹羽長秀に仕え、長秀死後は羽柴秀吉に仕えた。関ヶ原の合戦後大坂方として七手組組頭となるが、冬の陣和睦後に和睦の使者として駿府に赴きそのまま抑留された。大坂落城後出家するが、後摂津・麻田に1万石を得た。

青地茂綱(あおち しげつな) ????~1570~

○蒲生氏 駿河守

◇父:蒲生定秀 養父:青地長綱(道徹) 子:青地光綱

 近江・六角氏臣。近江の豪族青地氏の養子となる。後に尾張・織田氏に仕えた。伊勢・北畠氏攻略等に参戦。近江・宇佐山城において織田信治、森可成と共に、寡兵にて近江・浅井氏らの攻撃をよく凌いだが、敵わず落城し戦死する。

赤池長任(あかいけ ながとう) ????~????~

○伊豆守

 肥後・相良氏臣。肥後・赤池城主。大口城にて薩摩・島津氏と戦った際、1568年の堂ヶ崎の戦いにおいて勇猛で知られる島津義弘の軍を打ち破っている(が、相良方5000弱VS島津方300の一方的な戦いだったから当然でもある)。この時義弘は、家臣身代わりに逃げ延びた程であったという。

赤尾清綱(あかお きよつな) ????~1570~

○孫三郎 美作守

◇父:赤尾駿河守 子:赤尾新兵衛尉清冬

 近江・浅井氏三家老“海赤雨の三将”の1人。近江・赤尾城主にして、小谷城の一部に赤尾曲輪を設ける程の重臣。当主長政を支えて各地を転戦活躍したが、浅井氏滅亡の際、長政自害の後、捕虜となり斬首された。

赤松祐高(あかまつ すけたか) ????~????~

○曽谷氏

◇父:赤松政秀 子:曽谷太郎新兵衛尉祐則

 播磨・赤松氏一族。兄広英と共に羽柴秀吉の中国侵攻に降る。後に半田山家鼻城主として1万石を得る。しかし、関ヶ原の合戦で兄広英は自害し、祐高も流浪。大阪夏の陣では大阪方として入城したが、落城後播磨に戻り自害した。

赤松則英(あかまつ のりひで) ????~1600~

○上総介

◇父:赤松則房

 父の死により、阿波・住吉1万石を相続。関ヶ原の合戦では西軍に属して近江・佐和山城籠城。落城寸前に脱出するも、京にて自殺した。

赤松則房(あかまつ のりふさ) ????~1598~

○次郎 上総介

◇父:赤松義祐 子:赤松則勝、則英、義則

 播磨守護・赤松氏当主だが、羽柴秀吉の中国侵攻に降り、播磨・置塩城1万石安堵された。賤ヶ岳合戦、小牧合戦に従軍。四国征伐にも従事して、阿波・住吉1万石を得た。朝鮮出兵に際し、肥前・名護屋まで出陣するも没した。

赤松晴政(あかまつ はるまさ) 1513~1565~

○才松丸 次郎 政村 左京大夫

◇父:赤松次郎義村 子:赤松義祐、則家

 父より譲られて、播磨、備前、美作守護赤松氏当主となるが、その父は翌年守護代浦上村宗に殺され、自らも軟禁状態におかれた。その後、村宗の傀儡的存在として播磨・置塩城主となる。細川高国を擁する村宗が、摂津へ出兵した際、晴政はその政敵細川晴元と通じ、大物崩れの戦いで村宗は戦死した。しかし、晴政に領国経営する権威はすでになく、子義祐と対立して放逐され、一族政秀を頼るが、復権はならなかった。

赤松政秀(あかまつ まさひで) ????~1570~

○下野守

◇父:赤松下野守村秀 室:赤松晴政女 子:赤松弥三郎広貞、広英、祐高

 播磨守護・赤松氏一族。龍野城主。没落した赤松氏嫡流の晴政を城に迎える。威勢を振るう守護代浦上政宗を暗殺し、勢力回復を図った。三木城の別所安治と結んで、姫路城の黒田職隆、御着城の小寺政職と争った。1570年毒殺されたといわれる。

赤松義祐(あかまつ よしすけ) ????~1576~

○道祖松丸 次郎 兵部少輔 出羽守 上総介 左京大夫

◇父:赤松晴政 子:赤松則房、江木七郎兵衛尉則成

 播磨守護・赤松氏当主。当初、父晴政と連署体制をとり政務を執るが、後に対立し追放した。また一時期、子則房とも対立している。実権はすでに守護代浦上氏に移っており、織田信長と通じるが、時期尚早であったので、浦上宗景の攻撃を招き、敗れて没落していった。

安芸国虎(あき くにとら) ????~1569 ~

○備後守

◇室:一条房基女、源康政女 子:安芸又六郎(千寿丸)

 土佐七雄の1氏。元は安芸の郡司を務めたほどの家柄であり、祖は壬申の乱の時、土佐に流された蘇我赤兄というが、諸説あり確かなところはわからない。安芸氏は京と海産物等を取り引きして裕福な豪族であり、国虎も剛勇で知られる将であったが、同じ七雄の長宗我部氏に攻められ、矢流崩れにて敗戦した。最期は家中も離反し、自らの命と引換に降伏、自害した。

秋元義久(あきもと よしひさ) ????~1564~

 安房・里見氏臣。上総・小糸城主。第2次国府台合戦後、相模・北条氏の大軍に包囲される。果敢に抵抗したが、やがて落城、討死した。 秋山信友(あきやま のぶとも) 1531~1575 

○晴近? 伯耆守

◇父:秋山左衛門信任 室:織田氏女(遠山景任室) 養子:秋山(金丸)昌詮、(金丸)親久

 甲斐源氏流。甲斐・武田氏臣。若くして抜擢され一手の将となる。武勇のみでなく知略に優れており、美濃・岩村城を謀略にて無血開城させて城代となった。この時城主の未亡人(織田信長の叔母)を娶っている。三方ヶ原の戦いでは"武田の猛牛"と呼ばれて怖れられた。しかし長篠の敗戦後、岩村城は孤立して織田軍が度々来攻したが、堅守して陥ちなかった。しかし5ヶ月の籠城の末、信長の提示した和議に応じ、城を出たところを捕らえられ、岐阜で磔にされた。兵も皆、山道で焼き殺されたという。49歳。

芥川長光(あくたがわ ながみつ) ????~????~

○三好氏 次郎?三郎? 民部丞

◇父:三好筑前守之長 子:芥川孫十郎(勝長?)

 芥川氏は鎌倉期から続く西国御家人の流れ。長光は三好氏であるが、摂津の一勢力である芥川氏と縁戚関係を結ぶ等して、芥川氏を名乗ったものと思われる。しかし、1520年細川高国勢と戦って敗れ、父之長、弟長則らと共に捕らえられ、京・百万遍で自害。

朝倉景鏡(あさくら かげあきら) ????~1574~

○孫八郎 土橋信鏡 式部大輔

◇父:朝倉景高

 越前・朝倉氏一族。一族の筆頭として大きな力を持ったが、朝倉家滅亡の際には、主君義景を自害に追い込み、その首を持参して織田信長に降伏。翌年、景鏡も蜂起した一揆勢に襲われ、主従3騎になるまで戦い、果てには多数の敵中に突撃して戦死した。

朝倉景高(あさくら かげたか) ????~????~

○孫八郎 右衛門大夫

◇父:朝倉孫次郎貞景 室:烏丸冬光女 子:朝倉景鏡、景次、在重

 越前・朝倉氏一族。1517年、美濃・土岐頼芸に敗れて越前に逃れてきた土岐政頼を支援し、総大将として3千の兵を率い美濃を攻めるが敗れる。その後、朝倉氏の要職大野郡司を務めた。1540年頃、不和となった兄孝景に背いたことから、国を逐われ、一向一揆と結んだという。一方で公家の娘を室とし、公家や将軍家との文化交流盛んな風流人でもあった。

朝倉景隆(あさくら かげたか) ????~????~

○右兵衛尉

◇父:朝倉与三右衛門尉景職 子:朝倉景健

 越前・朝倉氏庶流。1555年、1564年と2回にわたり、大将として加賀一向一揆と戦っている。

朝倉景健(あさくら かげたけ) ????~1575~

○孫三郎 安居氏

◇父:朝倉景隆

 越前・朝倉氏庶流。度々当主義景に代わり総大将として出陣、多くの戦いに奮戦した。しかし近江・姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に総崩れとなり敗戦の因となった。主家滅亡後は尾張・織田氏に降り、所領を安堵されるが、後に謀られ自殺に追い込まれた。

朝倉景綱(あさくら かげつな) ????~????~

○兵庫助 織田氏

◇父:朝倉孫十郎景延

 越前・朝倉氏一族。越前・織田城主。1573年当主義景が越前・刀禰坂で敗れた時には、これを見捨てて居城に退却した。主家滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城、妻子のみ引き連れて落ち延びたといわれる。

朝倉景連(あさくら かげつら) ????~1570 ~

○玄蕃允

◇父:朝倉玄蕃助景宗 子:朝倉三郎景胤、七郎景泰

 越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。

朝倉景紀(あさくら かげのり) ????~1573~

○孫九郎 九郎左衛門尉

◇父:朝倉孫次郎貞景 養父:朝倉教景 子:朝倉太郎左衛門景土光、中務大輔景恒、貞紀

 越前・朝倉氏一族。越前・敦賀城主。一族の重鎮宗滴の養子となり、共に各地を転戦した。将軍足利義昭が当主義景を頼った際には、敦賀城に迎えた。近江・姉川の合戦にも第2陣の大将として参加している。

朝倉景盛(あさくら かげもり) ????~???? ~

○孫六 出雲守 三富氏

◇父:朝倉左近助(景尚?) 子:朝倉景茂

 越前・朝倉氏傍流。朝倉氏は北近江・浅井氏と共に尾張・織田氏らの軍と戦っていたが、不利な戦況の中、景盛はわずかな手勢で単独夜襲をかけ、これを成功をさせる。しかし、この混乱に続く朝倉・浅井軍はなかった為、所詮は局地的な勝利でしかなく、朝倉家はまもなく滅亡した。

朝倉孝景(あさくら たかかげ) 1493~1546 ~

◇父:朝倉孫次郎貞景 室:武田元信女 子:朝倉義景

 越前・朝倉氏当主。一向一揆と戦いながら越前の領国化を進めた。文武に秀で朝倉政権を盤石なものとし、又、歌道にも通じた風流を解する将でもあった。

朝倉教景(あさくら のりかげ) 1477~1555 ~

○小太郎 太郎左衛門尉 宗滴沙弥

◇父:朝倉小太郎孝景(敏景) 室:朝倉景豊妹(景冬女?) 養子:朝倉景紀

 越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。

朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573 ~

○長夜叉丸 孫次郎 延景 左衛門督

◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子:朝倉阿君丸、愛王丸 養子:朝倉彦四郎道景?

 越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。

朝比奈泰朝(あさひな やすとも) 1538?~???? ~

○左京亮 備中守

◇父:朝比奈泰能 子:朝比奈泰基

 駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。

朝比奈泰能(あさひな やすよし) 1517~1557 ~

○左京亮 備中守

◇父:朝比奈泰熙 室:中御門宣秀女 子:朝比奈泰朝

 駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。

浅見道西(あさみ どうせい) ????~????~

○対馬守

◇父:浅見貞則 兄:浅見紀伊守 子:浅見大学助景親

 近江・浅井氏臣。浅見、浅井氏は共に元々近江守護・京極氏臣であったが、浅井氏の台頭と共にその勢力下に組み込まれた。浅井氏滅亡時に、織田氏に通じて離反するが、所領を没収された。後に柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いにも参加。

浅利信種(あさり のぶたね) ????~1569~

○右馬助 式部少輔

◇父:浅利伊予守虎在

 甲斐・武田氏臣。飯富虎昌と同じく“赤備え”として有名であった。相模・北条氏攻めの帰路、三増峠にて猛追撃を受け苦戦、本隊を退避さすため、殿として踏みとどまり戦死した。

浅井井規(あざい いのり) ????~1573~

○七郎

◇父:浅井木工助井伴(井量)

 近江・浅井氏庶流。1571年織田氏に寝返った鎌刃城・堀秀村を攻めたが、横山城から救援に駆けつけた木下秀吉の軍に敗れた。1573年織田信長の侵攻を受け、小谷城に籠城。この時、秀吉に内通して兵を京極丸に手引きをしたが、落城後、信長は赦さず殺害された。

浅井斎宮助(あざい いつきのすけ) ????~1570~

○政吉?

◇父:浅井大和守政信?

 近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。家中において手柄話を高言していたところを、兄雅楽助に叱責を受け、以降10年来仲違いする。しかし、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして遺恨を捨て、同合戦において、氏家卜全に討たれたという。

浅井井頼(あざい いより) ????~????~

○喜八郎 政春 政堅 政賢 政信 長房 作庵 周防守

◇養父?:浅井長政

 北近江・浅井長政3男といわれるが、確かではない。真田十勇士の1人根津甚八のモデルともいわれる。羽柴秀保、秀長、増田長盛に仕えた。関ヶ原の合戦で浪人するが、大坂の陣の時、大坂方として城へ入ったという。戦後、異母姉を頼って京極氏の下、客分として過ごす。しかし淀殿の弟であれば、せめて大野治長と同様な位の扱いをされて有名になっていそうなものだが…。

浅井雅楽助(あざい うたのすけ) ????~1570~

○雅亭?

◇父:浅井大和守政信?

 近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。弟斎宮助に高言あり、これを叱責して以降、10年間反目していた。しかし、死出の決意をもって、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして復縁し、決意通り姉川の合戦にて討死した。

浅井惟安(あざい これやす?) ????~1573~

○福寿庵

◇父:浅井越前守清政?

 近江・浅井氏一族。当主久政の近習を務め、久政隠居後もこれに従う。小谷城落城時は、京極丸を守って久政自害の時まで付き従い、介錯を務めた後自害。子孫は美濃に落ちのびたという。

浅井亮親(あざい すけちか) ????~1573~

○与次 石見守 親政?

◇父:浅井五郎兵衛尉秀信(惟政) 子:浅井吉政、成伯

 北近江・浅井氏の一族であり奏者を務める。浅井氏が尾張・織田氏に反旗を翻す際はこれに反対した。小谷城落城の時、捕虜となり首討たれた。

浅井亮政(あざい すけまさ) 1491~1542 ~

○新三郎 休外斎 備前守

◇父:浅井蔵人丞直種 養父:浅井井三郎直政 室:浅井直政女、尼子氏女 子:浅井政弘、久政、山城守?、傳兵衛高政? 養子:田屋明政

 近江・浅井氏庶流の出だが、本家直政の娘婿となり跡を継ぐ。北近江半国守護京極氏の被官として力をつけていく。京極家中の実力者であった上坂信光(泰舜斎)が専横を強めると、反上坂派をまとめ信光を打ち破った。その後、小谷城を拠にして独立性を強めていくが、浅井氏強大化をおそれる南近江・六角氏の侵攻を再三受ける。一時は越前に逐われたこともあったが、越前・朝倉氏と結びその来援を得て危機を逃れ、戦国大名浅井氏の地盤を築いた。

浅井輝政(あざい てるまさ) ????~1573~

○万福丸

◇父:浅井長政

 北近江・浅井長政嫡男。輝政という記載は複数見られず、この名乗りが与えられていたかは疑わしい(唯一「浅井氏家譜大成」に載る)。浅井家滅亡と時を前後して、越前・朝倉氏に預けられていた万福丸も捕らえられ、関ヶ原にて串刺しにされた。

浅井長時(あざい ながとき) ????~1584~

○田宮丸

◇父:浅井新八郎(政高?)

 父は尾張・織田信長の赤母衣衆。その子信雄の家老を務めるが、羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬と共に伊勢・長島城に呼び出され、ここにおいて3家老共に誘殺された。逃げようとしたところを森久三郎に討たれたという。

浅井長政(あざい ながまさ) 1545~1573 ~

○猿夜叉 新九郎 賢政 備前守

◇父:浅井久政 室:平井加賀守定武女 織田信秀女 子:浅井輝政、井頼、万寿丸直政、円寿丸政治、七郎

 南近江・六角氏に臣従する父久政を隠居させ、若くして近江・浅井家を継ぎ、六角氏に敵対。来襲した倍する六角軍を野良田合戦にて撃破する。その後、周辺国人を制圧しつつ六角氏、美濃・斎藤氏らと再三争った。また、尾張・織田信長と、その妹市を娶って同盟を結び、これに協力する。しかし、信長が浅井の同盟国越前・朝倉氏に無断で攻め込んだことから反旗を翻した。姉川の合戦において数に勝る信長軍をあと一歩のところまで苦しめるが、及ばず敗北。最期は小谷城を囲まれ、妻と娘らを信長に託し、自害して果てた。

浅井久政(あざい ひさまさ) ????~1573 ~

○猿夜叉 新九郎 左兵衛尉 下野守

◇父:浅井亮政 室:井口弾正忠経元女 子:富樫綱政、浅井長政、玄蕃頭政元?、石見守政之?

 父亮政の死後、北近江・浅井家を継ぐ。父のような覇気はなく、能や鷹狩に熱中して積極的に戦を行うことはなかったが、内政にはそれなりの手腕があった様で、結果的に国は富んだ。しかし南近江・六角氏の侵攻を防ぎきれず、その傘下となる。これを不服とした子賢政(長政)により、六角の支配から脱するが久政は隠居の身となった。その後、浅井氏は尾張・織田氏と結び勢力を拡大するが、織田氏に敵対する将軍足利義昭の御内書を受けた久政が、政治に口出しするようになり、結果的に浅井氏は織田氏に滅ぼされ、子の長政と共に小谷城にて自害した。

浅井政重(あざい まさしげ) ????~????~

○新太郎

◇父:浅井政澄? 子:浅井政候

 近江・浅井氏庶流か。9歳で羽柴秀長に仕える。13歳から徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣に参戦。

浅井政澄(あざい まさずみ) ????~????~

○玄蕃允 信濃守?

◇父:浅井大和守政信 子:浅井政重?

 北近江・浅井氏家臣として姉川の合戦では第2陣をつとめ戦う。その後、浅井氏を見限り織田信長に仕える。

浅井政高(あざい まさたか) ????~1615~

○茂右(左?)衛門 田屋氏

◇養父:田屋明政 室:田屋明政女 子:三好左馬助直政

 近江・浅井氏一族、実は田屋明政甥か。羽柴秀吉に仕え、その死後は秀頼に仕える。大坂冬の陣で討死したと伝えられる。56歳。

浅井政弘(あざい まさひろ) ????~????~

○新四郎

◇父:浅井亮政

 近江・浅井氏一族。早世したという。

浅井盛政(あざい もりまさ) ????~????~

○越後守

◇父:浅井忠兵衛貞政 養子:藤堂賢政

 近江・浅井氏庶流。浅井氏滅亡により、羽柴秀吉に仕え、その臣藤堂高虎の客将となるが、序列の不満等から出奔した。

浅井吉政(あざい よしまさ) ????~????~

○吉兵衛尉

◇父:浅井亮親 子:藤堂賢政

 近江・浅井氏庶流。主家滅亡後、織田氏に仕える。賤ヶ岳合戦においては柴田勝家または佐久間盛政に与して、羽柴秀吉臣加藤孫六嘉明に討たれたという。

足利義昭(あしかが よしあき) 1537~1597 ~

○義秋 覚慶 左馬頭 参議 権大納言 征夷大将軍

◇父:足利義晴 養父:近衛稙家 子:一色義喬、足利義尋、永山久兵衛義在

 将軍家足利氏一族。幼少の頃、近衛家の猶子となって大和・興福寺一乗院へ入る。1565年松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。1568年尾張・織田信長に担がれ上洛し、室町幕府15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが、1573年には信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た。

足利義輝(あしかが よしてる) 1536~1565 ~

○菊幢丸 義藤 左馬頭 参議 左中将 征夷大将軍

◇父:足利義晴 室:近衛稙家女 子:足利輝若丸

 1546年元服して室町幕府第13代将軍となる。三好長慶らと対立し、管領細川晴元と共にしばしば近江に逃れる。その後和解し入京、積極的に御内書を出して大名の同士の調停をする等、将軍家の権力回復を図る。しかし、傀儡将軍として足利義栄を擁立した松永久秀、三好三人衆らに二条御所を急襲されて、自ら太刀を取って奮戦するが、殺害された。塚原卜伝に秘伝“一ノ太刀”を授けられた剣豪将軍。

足利義晴(あしかが よしはる) 1511~1550~

○亀王丸 左馬頭 右大将 大納言 征夷大将軍

◇父:足利義澄 室:近衛尚通女 子:足利義輝、義昭、西山義辰

 将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。

足利義冬(あしかが よしふゆ) 1509~1573~

○義賢 義維 左馬頭

◇父:足利義澄 室:大内義隆女 子:足利義栄、平島義助、足利義任

 足利幕府第10代将軍義稙の猶子。義稙失脚、死去に伴い阿波に移り、細川持隆の庇護を受けた。1527年細川氏らの支援を受けて上洛し、兄義晴を近江に逐って将軍就任を目論むが、後見人三好元長を失って再び阿波に戻る。その後、自身の将軍就任は叶わなかったが、嫡子義栄の将軍とすることに成功した。初代阿波(平島)公方。

蘆名盛氏(あしな もりうじ) 1521~1580 ~

○四郎丸 平四郎 修理大夫 大膳大夫

◇父:蘆名盛舜 室:伊達稙宗女 子:蘆名盛興

 会津・蘆名氏16代当主。領内の反乱を治め、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。

蘆名盛興(あしな もりおき) 1547~1575~

○平四郎

◇父:蘆名盛氏 室:伊達晴宗

 会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。

蘆名盛舜(あしな もりきよ) 1490~1553~

○遠江守

◇父:蘆名修理大夫盛高 子:蘆名山城守氏方、盛氏

 兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。

蘆名盛重(あしな もりしげ) 1576~1631~

○佐竹氏 白河氏 喝食丸 平四郎 義広 義勝 主計頭

◇父:佐竹義重 養父:白河義親 室:蘆名盛隆女 子:蘆名盛泰、盛俊、中野作左衛門盛親

 11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、家臣の内訌が続いた。その為、1589年摺上原の戦いでは、離反者を出して陸奥・伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻る。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収された。以後兄義宣に従い、秋田にて56歳で没。

蘆名盛隆(あしな もりたか) 1561~1584~

○二階堂氏 平四郎 三浦介 左京亮

◇父:二階堂遠江守盛義 室:蘆名盛興女 子:蘆名亀王丸

 父は会津・須賀川城主。人質として蘆名氏の黒川城にあったが、当主盛興が夭折した為、その娘を娶って会津・蘆名氏18代当主となる。しかし、人質から当主となった盛隆に家臣団は反発。1584年、留守中を、松本、栗原氏による謀反を受けて黒川城を占拠された。同年、奪取し返した黒川城内にて、寵臣大庭三左衛門に殺された。24歳。その後遺児も夭折

阿多盛淳(あた もりあつ) ????~1600~

○大善坊 長寿院 豊後守

◇父:畠山頼国

 薩摩・島津氏家臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がす為義弘を名乗って、追いすがる東軍井伊、藤堂、朽木勢と戦い討ち死にした。

安宅清康(あたぎ きよやす) ????~1581~

○三好氏 河内守

◇父:安宅冬康 子:安宅重俊

 阿波・三好氏一族。1578年兄信康の死により家督を継ぐ。安芸・毛利氏に和する動きを見せたことから、織田信長の攻撃を受け、1581年信長臣羽柴秀吉の攻撃を受けて開城降伏。信長を安土に訪れ、帰国後病死した。

安宅信康(あたぎ のぶやす) 1549~1578~

○三好氏 甚太郎

◇父:安宅冬康

 阿波・三好氏一族。三好三人衆、石山本願寺と結び、織田信長と戦うが、1575年敗れて帰順。その後、織田氏の水軍の将となり、1577年安芸・毛利氏の水軍と戦う(第1次木津川口の合戦)。

安宅冬康(あたぎ ふゆやす) 1528~1568 ~

○三好氏 神太郎 鴨冬 一舟軒 摂津守

◇父:三好元長? 養父:安宅大炊介実俊? 子:安宅信康、清康

 元は紀伊・安宅荘に興った淡路水軍安宅氏一族。阿波・三好氏一族とも、安宅氏から三好氏に入嗣後に復姓したとも言われ、定かでない。安宅水軍を統括して淡路海域の制海権を抑えると共に、和泉・岸和田城にも進出して、陸海戦共に兄三好長慶の畿内制圧を助けた。だが、重臣松永久秀の讒言により、長慶から謀反を疑われ、河内・飯盛城に誘殺された。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。

阿閉貞征(あつじ さだゆき) ????~1582~

○万五郎 貞秀 貞大 長之 淡路守

◇室:井口弾正忠経元女 子:阿閉孫五郎貞大

 阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。

安並和泉守(あなみ いずみのかみ) ????~????~

 土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討たれた。

穴山信君(あなやま のぶきみ) 1541~1582 ~

○勝千代 彦六郎 梅雪斎 左衛門大夫 玄蕃頭 陸奥守

◇父:穴山伊豆守信友 室:武田信玄女 子:穴山勝千代信治

 甲斐・武田氏親族衆筆頭。風雅を解し、又、内政に優れ民心を得ていたという。武田氏滅亡の際、家名存続の為、徳川家康に通じて本領安堵を得た。織田信長に謁見の為上京中、堺において本能寺の変を知り、引き返す途上の山城・宇治田原にて土民に殺される。42歳。徳川家康と一緒に堺にいたのに、なぜか一緒に逃げませんでした。一緒に逃げてればねぇ…。

甘糟景継(あまかす かげつぐ) ????~1611 ~

○登坂氏 藤右衛門 清長 備後守

◇父:登坂加賀守清高

 越後・長尾(上杉)氏臣。1577年、当主謙信の命で、戦死した甘糟孫右衛門継義の跡を継いで、護摩堂城主となる。1583年五泉城主となり、当主景勝の"景"の一字を拝領して景継と名乗る。上杉氏の出羽・庄内攻略後、出羽・東禅寺城主となり、1591年家老志田修理に命じて飽海郡磐井出城の阿部氏を攻略。1598年上杉氏の会津入りに際し、磐城・白石城代となる。1600年直江兼続の下で小奉行を務め、神指城を普請した。

甘糟景持(あまかす かげもち) ????~???? ~

○近江守 景時 長重

 上野新田氏流。越後・長尾(上杉)氏に仕える。越後・灰尾城主。1561年川中島の合戦では、妻女山の押さえを務めて寡兵奮戦、退却時には殿も務め、追撃を寄せ付けなかった。

尼子興久(あまご おきひさ) 1497~1534~

○彦四郎 宮内大輔 塩冶氏

◇父:尼子経久 子:尼子彦四郎清久

 出雲・尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父より西出雲の要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱を通じ、さらに加増を要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父の備後・山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害に追い込まれた。その首を見た経久は怒りを忘れ悲しんだという。

尼子勝久(あまご かつひさ) 1553~1578~

○孫四郎

◇父:尼子誠久 子:尼子豊若丸

 出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。

尼子国久(あまご くにひさ) 1492?~1554 ~

○孫四郎 紀伊守 刑部少輔 塩冶氏

◇父:尼子経久 室:多胡忠重女 子:尼子誠久、豊久、敬久、又四郎、与四郎

 出雲・尼子経久の子。一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。

尼子敬久(あまご たかひさ) ????~1610~

◇父:尼子国久

 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし新宮党の武力を恐れる安芸・毛利氏の謀略により、新宮党と不和であった当主晴久に、居を襲われ滅ぼされた。

尼子経久(あまご つねひさ) 1458~1541 ~

○又四郎 伊予守 民部少輔

◇父:尼子刑部少輔清定 室:吉川伊豆守経基女 子:尼子政久、国久、興久

 出雲守護代尼子氏当主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。

尼子倫久(あまご ともひさ) ????~1623~

○九郎四郎

◇父:尼子晴久 子:尼子九一郎元知(久佐将監)

 出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。やがて許されて、毛利氏に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加し、その後は僧となった。

尼子豊久(あまご とよひさ) ????~1548~

◇父:尼子国久

 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし、橋津川の合戦で戦死。

尼子晴久(あまご はるひさ) 1514~1560 ~

○三郎四郎 詮久 民部少輔 修理大夫

◇父:尼子政久 室:尼子国久女 子:尼子千歳、義久、倫久、秀久

 出雲・尼子氏当主。父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱めた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。

尼子久幸

(あまご ひさゆき)
1473-1541
○孫四郎 源五郎? 義勝 下野守

◇父:尼子清定 室:武田元繁女 子:尼子詮幸(経貞?氏久?)

 出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。
尼子氏が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めた「郡山合戦」で討死した尼子家の重臣で,兄はかの有名な尼子経久ですから,重臣中の重臣といえます。

経久が1537年に若い孫の詮久(晴久)に家督を譲ると,補佐役に任じられたとかで,そもそもこの時期に毛利家を攻めることに久幸は反対だったとか。
経久かた詮久(晴久)への代替わりの直後だけに,もう少し毛利周辺の安芸・国人衆を固めてからでも遅くないとの考えもあったのではないでしょうか。

結局,郡山合戦は大内氏が毛利を支援したこともあり失敗。撤退戦の混乱の中で討死し,この地に埋葬されたそうです。」

尼子秀久(あまご ひでひさ) ????~1609~

○八郎四郎 吉久?

◇父:尼子晴久

 出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて以後、佐々木氏を名乗って毛利氏に仕えた。 尼子政久(あまご まさひさ) 1488~1518 

○民部少輔

◇父:尼子経久 室:山名兵庫頭女 子:尼子千代童子、晴久

 出雲・尼子経久嫡男。武勇、思慮に長けた智勇兼備の将として、父経久の期待は大きかった。又軍略のみならず、詩歌管弦にも高い評価を得ており、花実相の大将と評された。1518年出雲・麻石山城に籠城する桜井宗的を囲んで兵糧攻めにした際、厭戦を慰労し、城兵の士気低下を図るため、宴を催して政久自身も得意の笛を吹いていたところ、笛の音めがけて放たれた矢が見事に政久に命中、31歳の若さで亡くなったという。61歳の経久はこれを聞き、“瞋れる眼に紅の涙流し”深く悲嘆したという。尚、この後経久は麻石山城の強襲を命じ、宗的は自害、城兵は皆虐殺された。 尼子誠久(あまご まさひさ) ????~1554

○孫四郎 式部大輔

◇父:尼子国久 室:多賀左衛門尉宗隆女 子:尼子甚四郎吉久、季久、弥四郎、勝久、通久 養子:尼子孫四郎氏久

 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の中心として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし己の武功を誇り、傍若無人な振る舞いが目立った為、同僚の反感を買う。また、新宮党内の内訌もあって、やがて新宮党は当主晴久に滅ぼされる。誠久もその際殺された。 尼子義久(あまご よしひさ) ????~1610

○三郎四郎 右衛門督

◇父:尼子晴久 養子:尼子元知

 父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。 天野元政(あまの もとまさ) 1559~1609

毛利氏 千虎丸 少輔次郎 六郎左衛門尉 掃部頭 讃岐守 右田氏

◇父:毛利元就 養父:天野元定、右田隆量 室:天野元定女、阿曾沼広秀女 子:毛利孫四郎元倶、天野元以、阿曽沼元信、天野元雅、就員、毛利元嘉

 安芸・毛利元就七男。安芸・米山城主天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。関ヶ原の戦いの後、周防・三丘さらには周防・右田に領地を得て、右田(天野)毛利家の祖となった。 甘利虎泰(あまり とらやす) ????~1548 

○信益? 備前守

◇子:甘利左衛門尉昌忠、晴吉?、郷左衛門尉信康

 甲斐源氏流。甲斐・武田晴信(信玄)の重鎮として信頼厚く、板垣信方と共に家中を支える。その軍略は定評があり、“荻原常陸(信玄の父信虎期の勇将)に劣らぬ剛の者”と呼ばれた。かの山本勘助も一目置く程であったという。しかし、信濃・村上氏との上田原の合戦では、不利な条件の下戦いとなって、多くの武将が戦死、虎泰もその1人であった。 有馬則頼(ありま のりより) 1533~1602

○九郎三郎 中務少輔 兵部卿法印 刑部卿法印

◇父:有馬筑後守重則 子:有馬四郎次郎則氏、玄蕃頭豊氏

 播磨・赤松氏庶流。摂津・淡河城を本拠とするが、侵攻する羽柴秀吉に降った。以後、毛利氏攻め、九州征伐、朝鮮出兵と従い、秀吉の御咄衆となる。秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦に参加、播磨・有馬郡に3万石を得た。  安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) ????~1600 

○武田氏 竹若丸 一任 正慶

◇父:武田信重

 安芸守護武田信重の遺児(といわれる)。武田家滅亡時に逃れ、竺雲恵心の元で僧となる。安芸・安国寺、備前・安国寺の住持となり、後に京・東福寺住持となる。恵心が安芸・毛利氏の外交僧をしていたことから、恵瓊も毛利氏の外交僧となり、主に小早川隆景の元で働いた。羽柴秀吉の攻略を受けた際は、講和をまとめ、以後秀吉の側近ともなる。朝鮮出兵の際には従軍僧として渡海するが、同じ毛利氏臣の吉川広家と意見の齟齬があった。関ヶ原の戦いにおいて西軍として毛利輝元を総大将に担ぎ上げるが、東軍に内通する広家を説得しきれず、結果毛利氏は動かず敗戦する。この責任をとって京・六条河原にて斬首された。その野心家ぶり等から“妖僧”と囁かれる程の者であった。 安西実元(あんざい さねもと) ????~1564? 

 安房・里見氏臣。1564年相模・北条氏との第2次国府台合戦において、乗馬を射られて徒歩となっていた当主義弘を自分の乗馬に乗せ、無事上総まで逃がした。その場で義弘を逃がした後、義弘の影武者となって敵中に突撃、戦死したともいわれる。 安藤守就(あんどう もりなり) ????~1582 

○伊賀氏 範俊 定治 道足 平左衛門尉 日向守 伊賀守

◇父:伊賀伊賀守定重?安藤守利? 弟:安藤(蒲生)将監直重 子:安藤尚就、守重、高屋越後(筑後)

 美濃・北方城主。美濃・斎藤氏に仕え、“西美濃三人衆”と呼ばれた豪族の1人。女婿竹中重治の稲葉山城奪取の際にはこれに協力。しかし、尾張・織田氏が美濃を奪った際には、この西美濃三人衆が織田方に内通し、これに協力した。その後、織田氏家臣として近江・姉川の合戦では勇戦し、近江、伊勢と各地を転戦したが、1579年嫡子尚就が甲斐・武田氏に内通した罪で、3人の息子共々粛正され、遠国流罪を宣せられた。本能寺の変後、旧領回復の為蜂起するが、稲葉良通に討たれる。

安藤良整(あんどう よしなり) ????~???? ~

○正季 豊前守

 相模・北条氏の評定衆。行政面に力を発揮する。北条氏の公定枡を定め、“安藤枡”と呼ばれた。

安養寺氏種

(あんようじ うじたね) ????~1606

○経世 三郎左衛門尉

◇父:安養寺三郎左衛門氏秀 弟:安養寺甚八郎、彦六郎

 近江の土豪。元は近江守護・京極氏の被官。近江・浅井氏に仕えた。一説に当主長政と織田信長妹の縁組の仲介役を務めたという。1570年姉川合戦で織田信長の捕虜となるが、信長に浅井勢追撃の非を助言し容れられたうえ、解放されたという。主家滅亡後、京極高次に仕えた。

朝倉景綱(あさくら かげつな) ????~????

○兵庫助 織田氏
◇父:朝倉孫十郎景延
 越前・朝倉氏一族。越前・織田城主。1573年当主義景が越前・刀禰坂で敗れた時には、これを見捨てて居城に退却した。主家滅亡後、一向一揆勢に攻められて落城、妻子のみ引き連れて落ち延びたといわれる。

朝倉景連(あさくら かげつら) ????~1570 

○玄蕃允
◇父:朝倉玄蕃助景宗 子:朝倉三郎景胤、七郎景泰
 越前・朝倉氏一族。一族の重鎮宗滴死後、家臣団をまとめ、一向一揆との戦いに活躍した。1561年当主義景が犬追物を興行した際、景連は500余人の人々を着飾らせて参加し、見物人の目を驚かせたという。

朝倉景紀(あさくら かげのり) ????~1573

○孫九郎 九郎左衛門尉
◇父:朝倉孫次郎貞景 養父:朝倉教景 子:朝倉太郎左衛門景土光、中務大輔景恒、貞紀
 越前・朝倉氏一族。越前・敦賀城主。一族の重鎮宗滴の養子となり、共に各地を転戦した。将軍足利義昭が当主義景を頼った際には、敦賀城に迎えた。近江・姉川の合戦にも第2陣の大将として参加している。

朝倉景盛(あさくら かげもり) ????~???? 

○孫六 出雲守 三富氏
◇父:朝倉左近助(景尚?) 子:朝倉景茂
 越前・朝倉氏傍流。朝倉氏は北近江・浅井氏と共に尾張・織田氏らの軍と戦っていたが、不利な戦況の中、景盛はわずかな手勢で単独夜襲をかけ、これを成功をさせる。しかし、この混乱に続く朝倉・浅井軍はなかった為、所詮は局地的な勝利でしかなく、朝倉家はまもなく滅亡した。

朝倉孝景(あさくら たかかげ) 1493~1546 

◇父:朝倉孫次郎貞景 室:武田元信女 子:朝倉義景
 越前・朝倉氏当主。一向一揆と戦いながら越前の領国化を進めた。文武に秀で朝倉政権を盤石なものとし、又、歌道にも通じた風流を解する将でもあった。

朝倉教景(あさくら のりかげ) 1477~1555 

○小太郎 太郎左衛門尉 宗滴沙弥
◇父:朝倉小太郎孝景(敏景) 室:朝倉景豊妹(景冬女?) 養子:朝倉景紀
 越前・朝倉氏一族。若くして仏門にはいるが、一族景豊の謀反から朝倉宗家を救い、その功で敦賀郡司となる。以後、加賀の一向一揆を相手に戦い、あるいは近江、若狭、美濃と各地を転戦し、朝倉家の重鎮として晩年まで活躍する。1555年、79歳の老躯で総大将として加賀一向一揆と戦い、陣中にて発病、一乗谷にて亡くなった。彼についてはその死後、彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。

朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573 

○長夜叉丸 孫次郎 延景 左衛門督
◇父:朝倉孝景 室:細川晴元女、義種女、近衛前久妹、鞍谷刑部大夫嗣知女、斎藤兵部女 子:朝倉阿君丸、愛王丸
 越前・朝倉氏最期の当主。溺愛する息子を失い、国政に対する気力を無くしていき、一方で学問や芸能に深くのめり込んでいった。都を追われた将軍足利義昭が頼って来た際、上洛を促されるがこの機会を活かさず、義昭に見限られる。その義昭を奉じて上洛した尾張・織田氏に攻められるが、盟友北近江・浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、その後も自ら積極的に出ることはあまりなく、浅井氏の要請に対し家臣に軍を率いらせるのみで、士気は振るわなかった。その為、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走してしまう。最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。

朝比奈泰朝(あさひな やすとも) 1538?~???? 

○左京亮 備中守
◇父:朝比奈泰能 子:朝比奈泰基
 駿河・今川氏重臣筆頭。遠江・掛川城主。桶狭間の合戦の時は、尾張・鷲津砦を攻略したが、当主義元戦死の報で撤退する。その後も今川氏の為尽力、氏真が駿府城を逐われると掛川城に迎えて戦った。今川氏が滅亡し氏真が相模・北条氏を頼ると、これに従い小田原に赴き、北条氏に仕えて働いた。その後、徳川氏臣酒井忠次に仕えたとも。

朝比奈泰能(あさひな やすよし) 1517~1557 

○左京亮 備中守
◇父:朝比奈泰熙 室:中御門宣秀女 子:朝比奈泰朝
 駿河・今川氏重臣筆頭。父死後伯父泰以の補佐を受け、若くして今川氏西方の要衝遠江・掛川城主となる。1548年小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣、尾張・織田氏に大勝した。桶狭間の合戦前には没したと思われるが、以後も書にその名は散見される。子泰朝との混同か。

浅見道西(あさみ どうせい) ????~????

○対馬守
◇父:浅見貞則 兄:浅見紀伊守 子:浅見大学助景親
 近江・浅井氏臣。浅見、浅井氏は共に元々近江守護・京極氏臣であったが、浅井氏の台頭と共にその勢力下に組み込まれた。浅井氏滅亡時に、織田氏に通じて離反するが、所領を没収された。後に柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いにも参加。

浅利信種(あさり のぶたね) ????~1569

○右馬助 式部少輔
◇父:浅利伊予守虎在
 甲斐・武田氏臣。飯富虎昌と同じく“赤備え”として有名であった。相模・北条氏攻めの帰路、三増峠にて猛追撃を受け苦戦、本隊を退避さすため、殿として踏みとどまり戦死した。

浅井井規(あざい いのり) ????~1573

○七郎
◇父:浅井木工助井伴(井量)
 近江・浅井氏庶流。1571年織田氏に寝返った鎌刃城・堀秀村を攻めたが、横山城から救援に駆けつけた木下秀吉の軍に敗れた。1573年織田信長の侵攻を受け、小谷城に籠城。この時、秀吉に内通して兵を京極丸に手引きをしたが、落城後、信長は赦さず殺害された。

浅井斎宮助(あざい いつきのすけ) ????~1570

○政吉?
◇父:浅井大和守政信?
 近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。家中において手柄話を高言していたところを、兄雅楽助に叱責を受け、以降10年来仲違いする。しかし、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして遺恨を捨て、同合戦において、氏家卜全に討たれたという。

浅井井頼(あざい いより) ????~????

○喜八郎 政春 政堅 政賢 政信 長房 作庵 周防守
◇父:浅井長政?
 北近江・浅井長政3男といわれるが、確かではない。真田十勇士の1人根津甚八のモデルともいわれる。羽柴秀保、秀長、増田長盛に仕えた。関ヶ原の合戦で浪人するが、大坂の陣の時、大坂方として城へ入ったという。戦後、異母姉を頼って京極氏の下、客分として過ごす。しかし淀殿の弟であれば、せめて大野治長と同様な位の扱いをされて有名になっていそうなものだが…。

浅井雅楽助(あざい うたのすけ) ????~1570

○雅亭?
◇父:浅井大和守政信?
 近江・浅井氏庶流。父は大和守政信とも、その弟時政ともいう。弟斎宮助に高言あり、これを叱責して以降、10年間反目していた。しかし、死出の決意をもって、姉川の合戦前夜に酒を酌み交わして復縁し、決意通り姉川の合戦にて討死した。

浅井惟安(あざい これやす?) ????~1573

○福寿庵
 近江・浅井氏一族。当主久政の近習を務め、久政隠居後もこれに従う。小谷城落城時は、京極丸を守って久政自害の時まで付き従い、介錯を務めた後自害。子孫は美濃に落ちのびたという。

浅井亮親(あざい すけちか) ????~1573

○与次 石見守 親政?
◇父:浅井五郎兵衛尉秀信 子:浅井吉政、成伯
 北近江・浅井氏の一族であり奏者を務める。浅井氏が尾張・織田氏に反旗を翻す際はこれに反対した。小谷城落城の時、捕虜となり首討たれた。

浅井亮政(あざい すけまさ) 1491~1542 

○新三郎 休外斎 備前守
◇父:浅井蔵人丞直種 養父:浅井井三郎直政 室:浅井直政女、尼子氏女 子:浅井政弘、久政、山城守?、傳兵衛高政? 養子:田屋明政
 近江・浅井氏庶流の出だが、本家直政の娘婿となり跡を継ぐ。北近江半国守護京極氏の被官として力をつけていく。京極家中の実力者であった上坂信光(泰舜斎)が専横を強めると、反上坂派をまとめ信光を打ち破った。その後、小谷城を拠にして独立性を強めていくが、浅井氏強大化をおそれる南近江・六角氏の侵攻を再三受ける。一時は越前に逐われたこともあったが、越前・朝倉氏と結びその来援を得て危機を逃れ、戦国大名浅井氏の地盤を築いた。

浅井輝政(あざい てるまさ) ????~1573

○万福丸
◇父:浅井長政
 北近江・浅井長政嫡男。輝政という記載は複数見られず、この名乗りが与えられていたかは疑わしい(唯一「浅井氏家譜大成」に載る)。浅井家滅亡と時を前後して、越前・朝倉氏に預けられていた万福丸も捕らえられ、関ヶ原にて串刺しにされた。

浅井長時(あざい ながとき) ????~1584

○田宮丸
◇父:浅井新八郎(政高?)
 父は尾張・織田信長の赤母衣衆。その子信雄の家老を務めるが、羽柴秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬と共に伊勢・長島城に呼び出され、ここにおいて3家老共に誘殺された。逃げようとしたところを森久三郎に討たれたという。

浅井長政(あざい ながまさ) 1545~1573 

○猿夜叉 新九郎 賢政 備前守
◇父:浅井久政 室:平井加賀守定武女 織田信秀女 子:浅井輝政、井頼、万寿丸直政、円寿丸政治、七郎
 南近江・六角氏に臣従する父久政を隠居させ、若くして近江・浅井家を継ぎ、六角氏に敵対。来襲した倍する六角軍を野良田合戦にて撃破する。その後、周辺国人を制圧しつつ六角氏、美濃・斎藤氏らと再三争った。また、尾張・織田信長と、その妹市を娶って同盟を結び、これに協力する。しかし、信長が浅井の同盟国越前・朝倉氏に無断で攻め込んだことから反旗を翻した。姉川の合戦において数に勝る信長軍をあと一歩のところまで苦しめるが、及ばず敗北。最期は小谷城を囲まれ、妻と娘らを信長に託し、自害して果てた。

浅井久政(あざい ひさまさ) ????~1573 

○猿夜叉 新九郎 左兵衛尉 下野守
◇父:浅井亮政 室:井口弾正忠経元女 子:富樫綱政、浅井長政、政元?、政之?
 父亮政の死後、北近江・浅井家を継ぐ。父のような覇気はなく、能や鷹狩に熱中して積極的に戦を行うことはなかったが、内政にはそれなりの手腕があった様で、結果的に国は富んだ。しかし南近江・六角氏の侵攻を防ぎきれず、その傘下となる。これを不服とした子賢政(長政)により、六角の支配から脱するが久政は隠居の身となった。その後、浅井氏は尾張・織田氏と結び勢力を拡大するが、織田氏に敵対する将軍足利義昭の御内書を受けた久政が、政治に口出しするようになり、結果的に浅井氏は織田氏に滅ぼされ、子の長政と共に小谷城にて自害した。

浅井政重(あざい まさしげ) ????~????

○新太郎
◇父:浅井政澄? 子:浅井政候
 近江・浅井氏庶流か。9歳で羽柴秀長に仕える。13歳から徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣に参戦。

浅井政澄(あざい まさずみ) ????~????

○玄蕃允 信濃守?
◇父:浅井大和守政信 子:浅井政重?
 北近江・浅井氏家臣として姉川の合戦では第2陣をつとめ戦う。その後、浅井氏を見限り織田信長に仕える。

浅井政高(あざい まさたか) ????~1615

○茂右(左?)衛門 田屋氏
◇養父:田屋明政 室:田屋明政女 子:三好左馬助直政
 近江・浅井氏一族。羽柴秀吉に仕え、その死後は秀頼に仕える。大坂冬の陣で討死したと伝えられる。56歳。

浅井政弘(あざい まさひろ) ????~????

○新四郎
◇父:浅井亮政
 近江・浅井氏一族。早世したという。


浅井盛政(あざい もりまさ) ????~????
○越後守
◇父:浅井忠兵衛貞政 養子:藤堂賢政
 近江・浅井氏庶流。浅井氏滅亡により、羽柴秀吉に仕え、その臣藤堂高虎の客将となるが、序列の不満等から出奔した。


浅井吉政(あざい よしまさ) ????~????
○吉兵衛尉
◇父:浅井亮親 子:藤堂賢政
 近江・浅井氏庶流。主家滅亡後、織田氏に仕える。賤ヶ岳合戦においては柴田勝家または佐久間盛政に与して、羽柴秀吉臣加藤孫六嘉明に討たれたという。


足利義昭(あしかが よしあき) 1537~1597 
○義秋 覚慶 左馬頭 参議 権大納言 征夷大将軍
◇父:足利義晴 養父:近衛稙家 子:一色義喬、足利義尋、永山久兵衛義在
 将軍家足利氏一族。幼少の頃、近衛家の猶子となって大和・興福寺一乗院へ入る。1565年松永久秀らに実兄の将軍義輝を殺害され、義昭自身も幽閉されるが、細川藤孝らの手引きで近江・和田惟政の下に逃れ、さらに越前・朝倉義景を頼る。1568年尾張・織田信長に担がれ上洛し、室町幕府15代将軍に就くが、傀儡に過ぎず、信長と不仲になる。御内書を濫発して反信長勢力の挙兵を再三行うが、1573年には信長に京都を逐われ、後に安芸・毛利氏に身を寄せてからも、反信長勢力の決起を謀り続けた。豊臣秀吉による天下統一後は、山城・槇島城に1万石を得た。


足利義輝(あしかが よしてる) 1536~1565 
○菊幢丸 義藤 左馬頭 参議 左中将 征夷大将軍
◇父:足利義晴 室:近衛稙家女 子:足利輝若丸
 1546年元服して室町幕府第13代将軍となる。三好長慶らと対立し、管領細川晴元と共にしばしば近江に逃れる。その後和解し入京、積極的に御内書を出して大名の同士の調停をする等、将軍家の権力回復を図る。しかし、傀儡将軍として足利義栄を擁立した松永久秀、三好三人衆らに二条御所を急襲されて、自ら太刀を取って奮戦するが、殺害された。塚原卜伝に秘伝“一ノ太刀”を授けられた剣豪将軍。


足利義晴(あしかが よしはる) 1511~1550
○亀王丸 左馬頭 右大将 大納言 征夷大将軍
◇父:足利義澄 室:近衛尚通女 子:足利義輝、義昭、西山義辰
 将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。


足利義冬(あしかが よしふゆ) 1509~1573
○義賢 義維 左馬頭
◇父:足利義澄 室:大内義隆女 子:足利義栄、平島義助、足利義任
 足利幕府第10代将軍義稙の猶子。義稙失脚、死去に伴い阿波に移り、細川持隆の庇護を受けた。1527年細川氏らの支援を受けて上洛し、兄義晴を近江に逐って将軍就任を目論むが、後見人三好元長を失って再び阿波に戻る。その後、自身の将軍就任は叶わなかったが、嫡子義栄の将軍とすることに成功した。初代阿波(平島)公方。


蘆名盛氏(あしな もりうじ) 1521~1580 
○四郎丸 平四郎 修理大夫 大膳大夫
◇父:蘆名盛舜 室:伊達稙宗女 子:蘆名盛興
 会津・蘆名氏16代当主。領内の反乱を治め、陸前・伊達氏の内紛・洞の乱(天文の乱)に乗じて近隣の国人を攻略する。又外交を駆使して近隣の大名と結び、常陸佐竹氏と度々争って、蘆名氏歴代で最大の版図を築いた。嫡子盛興に家督を譲るが早世、再び政務を執り、二階堂氏から嗣子を迎える。


蘆名盛興(あしな もりおき) 1547~1575
○平四郎
◇父:蘆名盛氏 室:伊達晴宗
 会津・蘆名氏17代当主。父隠居によりその後を継ぐ。1566年松山城横田氏攻略、これを捕縛。しかし29歳の若さで亡くなり後嗣なかった為、再び老父が政務を執り、後継者を二階堂氏から迎えることになった。一説には、常陸・佐竹氏との抗争にて討死したとも。


蘆名盛舜(あしな もりきよ) 1490~1553
○遠江守
◇父:蘆名修理大夫盛高 子:蘆名山城守氏方、盛氏
 兄民部少輔盛滋に当時子がなかった為、その跡を継いで会津・蘆名氏15代当主となる。一族猪苗代氏が謀反を起こした時、これを鎮めて打ち倒す。陸前・伊達稙宗の葛西氏攻略に協力して勢力を拡張した。


蘆名盛重(あしな もりしげ) 1576~1631
○佐竹氏 白河氏 喝食丸 平四郎 義広 義勝 主計頭
◇父:佐竹義重 養父:白河義親 室:蘆名盛隆女 子:蘆名盛泰、盛俊、中野作左衛門盛親
 11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、家臣の内訌が続いた。その為、1589年摺上原の戦いでは、離反者を出して陸奥・伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻る。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収された。以後兄義宣に従い、秋田にて56歳で没。


蘆名盛隆(あしな もりたか) 1561~1584
○二階堂氏 平四郎 三浦介 左京亮
◇父:二階堂遠江守盛義 室:蘆名盛興女 子:蘆名亀王丸
 父は会津・須賀川城主。人質として蘆名氏の黒川城にあったが、当主盛興が夭折した為、その娘を娶って会津・蘆名氏18代当主となる。しかし、人質から当主となった盛隆に家臣団は反発。1584年、留守中を、松本、栗原氏による謀反を受けて黒川城を占拠された。同年、奪取し返した黒川城内にて、寵臣大庭三左衛門に殺された。24歳。その後遺児も夭折


阿多盛淳(あた もりあつ) ????~1600
○大善坊 長寿院 豊後守
◇父:畠山頼国
 薩摩・島津氏家臣。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がす為義弘を名乗って、追いすがる東軍井伊、藤堂、朽木勢と戦い討ち死にした。


安宅清康(あたぎ きよやす) ????~1581
○三好氏 河内守
◇父:安宅冬康 子:安宅重俊
 阿波・三好氏一族。1578年兄信康の死により家督を継ぐ。安芸・毛利氏に和する動きを見せたことから、織田信長の攻撃を受け、1581年信長臣羽柴秀吉の攻撃を受けて開城降伏。信長を安土に訪れ、帰国後病死した。


安宅信康(あたぎ のぶやす) 1549~1578
○三好氏 甚太郎
◇父:安宅冬康
 阿波・三好氏一族。三好三人衆、石山本願寺と結び、織田信長と戦うが、1575年敗れて帰順。その後、織田氏の水軍の将となり、1577年安芸・毛利氏の水軍と戦う(第1次木津川口の合戦)。


安宅冬康(あたぎ ふゆやす) 1528~1568 
○三好氏 神太郎 鴨冬 一舟軒 摂津守
◇父:三好元長? 養父:安宅大炊介実俊? 子:安宅信康、清康
 元は紀伊・安宅荘に興った淡路水軍安宅氏一族。阿波・三好氏一族とも、安宅氏から三好氏に入嗣後に復姓したとも言われ、定かでない。安宅水軍を統括して淡路海域の制海権を抑えると共に、和泉・岸和田城にも進出して、陸海戦共に兄三好長慶の畿内制圧を助けた。だが、重臣松永久秀の讒言により、長慶から謀反を疑われ、河内・飯盛城に誘殺された。和歌を嗜み、書を能した教養人でもあった。


阿閉貞征(あつじ さだゆき) ????~1582
○万五郎 貞秀 貞大 長之 淡路守
◇室:井口弾正忠経元女 子:阿閉孫五郎貞大
 阿閉氏は京極氏被官であったが、北近江の実力者浅井氏に台頭を見てこれに臣従する。貞征は姉川の合戦では第3陣として戦っている。しかし浅井氏は敗れ、落目となっていく中、尾張・織田氏家臣木下秀吉の諜略を受けこれに寝返った。浅井氏滅亡後は織田氏家臣明智光秀の部将となり、山崎の合戦では先鋒の一手を担ったが敗戦、一族共に殺された。


安並和泉守(あなみ いずみのかみ) ????~????
 土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆の攻撃をうけて奮戦するも討たれた。


穴山信君(あなやま のぶきみ) 1541~1582 
○勝千代 彦六郎 梅雪斎 左衛門大夫 玄蕃頭 陸奥守
◇父:穴山伊豆守信友 室:武田信玄女 子:穴山勝千代信治
 甲斐・武田氏親族衆筆頭。風雅を解し、又、内政に優れ民心を得ていたという。武田氏滅亡の際、家名存続の為、徳川家康に通じて本領安堵を得た。織田信長に謁見の為上京中、堺において本能寺の変を知り、引き返す途上の山城・宇治田原にて土民に殺される。42歳。徳川家康と一緒に堺にいたのに、なぜか一緒に逃げませんでした。一緒に逃げてればねぇ…。


甘糟景継(あまかす かげつぐ) ????~1611 
○登坂氏 藤右衛門 清長 備後守
◇父:登坂加賀守清高
 越後・長尾(上杉)氏臣。1577年、当主謙信の命で、戦死した甘糟孫右衛門継義の跡を継いで、護摩堂城主となる。1583年五泉城主となり、当主景勝の"景"の一字を拝領して景継と名乗る。上杉氏の出羽・庄内攻略後、出羽・東禅寺城主となり、1591年家老志田修理に命じて飽海郡磐井出城の阿部氏を攻略。1598年上杉氏の会津入りに際し、磐城・白石城代となる。1600年直江兼続の下で小奉行を務め、神指城を普請した。


甘糟景持(あまかす かげもち) ????~???? 
○近江守 景時 長重
 上野新田氏流。越後・長尾(上杉)氏に仕える。越後・灰尾城主。1561年川中島の合戦では、妻女山の押さえを務めて寡兵奮戦、退却時には殿も務め、追撃を寄せ付けなかった。


尼子興久(あまご おきひさ) 1497~1534
○彦四郎 宮内大輔 塩冶氏
◇父:尼子経久 子:尼子彦四郎清久
 出雲・尼子氏一族。武に優れ、父をよく扶けた。やがて父より西出雲の要衝塩冶3千貫を任されるが、これを不服として重臣亀井秀綱を通じ、さらに加増を要求。しかし認められなかった為、秀綱が讒言したものと思ってこれを討とうとし、秀綱を庇う経久と衝突する。結局敗れて、叔父の備後・山内大和守直通の下へ逃亡し、やがて自害に追い込まれた。その首を見た経久は怒りを忘れ悲しんだという。


尼子勝久(あまご かつひさ) 1553~1578
○孫四郎
◇父:尼子誠久 子:尼子豊若丸
 出雲・尼子氏新宮党誠久五男。新宮党が当主晴久と対立して謀殺された時、匿われ京・東福寺の僧となった。しかし、尼子氏が安芸・毛利氏に滅ぼされると、山中幸盛らの旧臣に擁されその再興を図る。織田信長の支援を受け毛利氏宇喜多氏を攻め、播磨・上月城を攻略した。その後、信長による戦線の転換により、上月城からの撤退を命ぜられるが、これを拒否。毛利氏の猛襲の前に敗れて降伏、自害した。


尼子国久(あまご くにひさ) 1492?~1554 
○孫四郎 紀伊守 刑部少輔 塩冶氏
◇父:尼子経久 室:多胡忠重女 子:尼子誠久、豊久、敬久、又四郎、与四郎
 出雲・尼子経久の子。一時期塩冶氏に入るがやがて戻る。国久の一族はその居・新宮谷から新宮党と呼ばれ、家中一の剛勇の集団として中枢を担い、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献する。しかし、新宮党の台頭を恐れた当主晴久と不和になった。これに乗じた安芸・毛利氏の謀略を受け、毛利氏に内通した疑いで誅殺され、新宮党は滅ぼされた。


尼子敬久(あまご たかひさ) ????~1610
◇父:尼子国久
 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし新宮党の武力を恐れる安芸・毛利氏の謀略により、新宮党と不和であった当主晴久に、居を襲われ滅ぼされた。


尼子経久(あまご つねひさ) 1458~1541 
○又四郎 伊予守 民部少輔
◇父:尼子刑部少輔清定 室:吉川伊豆守経基女 子:尼子政久、国久、興久
 出雲守護代尼子氏当主。“経”は出雲守護京極政経からの諱。税金の横領等、政経から独立の動きを見せた為、政経の命を受けた国人衆に富田城を逐われ、身を隠す。しかし3年後、謀略を用いてわずかな手勢で富田城奪還、周辺の国人を攻略していった。西国の雄、周防・大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛した際にはこれに従い、山城・船岡山の合戦にも参加している。しかし義興に先じて出雲に戻り、その隙に急速に勢力を広げ“十一州の太守”と呼ばれる程(実質的な支配は出雲・伯耆・隠岐・東石見・北備後程か)までに成長し、尼子氏の最盛期を作った。智勇に優れた将であった一方、急速な支配拡大の為、国人の掌握が甘く、大内氏との間で国人の離合が繰り返された。


尼子倫久(あまご ともひさ) ????~1623
○九郎四郎
◇父:尼子晴久 子:尼子九一郎元知(久佐将監)
 出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。やがて許されて、毛利氏に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加し、その後は僧となった。


尼子豊久(あまご とよひさ) ????~1548
◇父:尼子国久
 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の一族として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし、橋津川の合戦で戦死。


尼子晴久(あまご はるひさ) 1514~1560 
○三郎四郎 詮久 民部少輔 修理大夫
◇父:尼子政久 室:尼子国久女 子:尼子千歳、義久、倫久、秀久
 出雲・尼子氏当主。父政久は早くに戦死しており、祖父経久に従い、緒戦に活躍。1537年家督を譲られた。将軍足利義晴より諱を受け晴久と名乗る。舅国久率いる新宮党に援けられ、山陰を中心に8ヶ国に勢力を伸ばすが、やがて新宮党を疎ましく思うようになる。結果、安芸・毛利氏の謀略に乗せられ、新宮党を滅ぼしてしまい、自ら力を弱めた。その後も毛利氏相手に奮闘したが、48歳で病死した。


尼子久幸(あまご ひさゆき) ????~1541 
○孫四郎 源五郎? 義勝 下野守
◇父:尼子清定 室:武田元繁女 子:尼子詮幸(経貞?氏久?)
 出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。


尼子秀久(あまご ひでひさ) ????~1609
○八郎四郎 吉久?
◇父:尼子晴久
 出雲・尼子氏一族。当主である兄義久と共に安芸・毛利氏と戦うが、敵わず降伏し、安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて以後、佐々木氏を名乗って毛利氏に仕えた。


尼子政久(あまご まさひさ) 1488~1518 
○民部少輔
◇父:尼子経久 室:山名兵庫頭女 子:尼子千代童子、晴久
 出雲・尼子経久嫡男。武勇、思慮に長けた智勇兼備の将として、父経久の期待は大きかった。又軍略のみならず、詩歌管弦にも高い評価を得ており、花実相の大将と評された。1518年出雲・麻石山城に籠城する桜井宗的を囲んで兵糧攻めにした際、厭戦を慰労し、城兵の士気低下を図るため、宴を催して政久自身も得意の笛を吹いていたところ、笛の音めがけて放たれた矢が見事に政久に命中、31歳の若さで亡くなったという。61歳の経久はこれを聞き、“瞋れる眼に紅の涙流し”深く悲嘆したという。尚、この後経久は麻石山城の強襲を命じ、宗的は自害、城兵は皆虐殺された。


尼子誠久(あまご まさひさ) ????~1554
○孫四郎 式部大輔
◇父:尼子国久 室:多賀左衛門尉宗隆女 子:尼子甚四郎吉久、季久、弥四郎、勝久、通久 養子:尼子孫四郎氏久
 出雲・尼子家中最強の武力集団新宮党の中心として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。しかし己の武功を誇り、傍若無人な振る舞いが目立った為、同僚の反感を買う。また、新宮党内の内訌もあって、やがて新宮党は当主晴久に滅ぼされる。誠久もその際殺された。


尼子義久(あまご よしひさ) ????~1610
○三郎四郎 右衛門督
◇父:尼子晴久 養子:尼子元知
 父の死により、20歳で出雲・尼子氏当主となる。安芸・毛利氏の攻略を受け戦うが、次第に圧迫されていく。1565年月山富田城に籠城するが、近臣大塚与三右衛門の讒言に惑わされて多くの家臣を失う。翌年ついに防ぎきれず切腹を申し出て降伏、命は助けられ安芸・円妙寺に幽閉される。1589年許されて毛利氏に従った。義久には子がなかった為、甥・元知が養子となり後を継ぎ、以後佐々木氏を名乗って続いた。

天野元政(あまの もとまさ) 1559~1609

毛利氏 千虎丸 少輔次郎 六郎左衛門尉 掃部頭 讃岐守 右田氏
◇父:毛利元就 養父:天野元定、右田隆量 室:天野元定女、阿曾沼広秀女 子:毛利孫四郎元倶、天野元以、阿曽沼元信、天野元雅、就員、毛利元嘉
 安芸・毛利元就七男。安芸・米山城主天野元定の婿養子となって天野氏を名乗る。関ヶ原の戦いの後、周防・三丘さらには周防・右田に領地を得て、右田(天野)毛利家の祖となった。