歴史・人名

人物ろ

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ろうし
老子
3月30日 河南省周口市鹿邑県で30日、老子生誕2581年の式典が開催された。約10万人が集まり、老子の祭壇に拝礼した。中国新聞社が報じた。  中国では一般的に、旧暦の2月15日を老子生誕の日としている。2010年は3月30日に相当。鹿邑県では今後1カ月、歌舞や太極拳の披露などの催しが予定されている。  老子の生涯には不明な点も多く、その実在を疑問視する専門家もいる。
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ろくごう
六郷家
。六郷家 本荘藩 大角三ツ七曜      2万石 出羽由利郡本荘(秋田県由利本荘市) 外様 城主 移封加減増履歴・慶長7年→常陸府中1万石・元和9年→出羽本荘2万石 江戸城詰席・柳之間 子爵   上屋敷・下谷北稲荷町広徳寺東北裏 参勤・江戸まで11日間の道中 人口・全領地2万3911人、家数3784軒 延宝2年(1674)現在 延宝5年(1677)の士族卒族数の内訳→家中45人・足軽中間160人・家中雇人52人 ■当家は秋田仙北郡六郷の出身で、関ヶ原の戦いの後に本領4500石を安堵され、慶長7年に佐竹氏の秋田移封により常陸府中へ加増転封となった 下屋敷が浅草田圃にあったことから、川柳に「六郷をこへるとみへる江戸と京」というものがある。江戸と京は新吉原の郭内の町名、六郷は六郷川(現・多摩川下流域)に掛けている
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ろくじょう 
六条家(羽林家)
。六条家  羽林家 旧家          265石 村上源氏久我支流  子爵 居所・寺町石薬師上ル(京都市上京区)
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ろくじょう 
六条有和
[生没・元和9年(1623)~貞享3年(1686)]○正三位権中納言◇。父:六条有純の子。母:正室戸田為春の娘。室:正室・不詳。子:子女・13代六条有綱、六条房忠、六条有藤、女子→土浦藩土屋政直室。六条家(12代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう 
六条有福
[生没・安永8年(1779)~安永10年(1781)]○従五位下◇。父:六条有庸の子。母:某氏。室:正室・なし。子:六条有輝(20代)(養子)。六条家(19代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありあや
六条有言
[寛政3年(1791)~弘化3年(1846)]○従二位参議◇。父:久世通根の子。母:某氏。室:正室・不詳。子:23代六条有容、六条通善(梅渓通修養子)。六条家(22代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありいえ
六条有家
[明和7年(1770)~文化12年(1815)]○正三位権中納言◇。父:17代六条有栄の子。母:正室山本実覩の娘。室:正室・山本公逵の娘。子:六条有言(22代)(養子)。六条家(21代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありおき
六条有起
[元禄14年(1701)~安永7年(1778)]○正二位権大納言◇。父:六条有藤の子。母:正室広橋貞光の娘。室:正室・不詳。子:六条有栄(17代)(養子)、猶子→慈光寺具仲室 。六条家(16代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありおさ
六条有容
[文化11年(1814)~明治23年(1890)]○従一位権中納言◇。父:六条有言の子 。母:某氏。室:正室・出石藩仙石久道の娘。子:六条有義、六条祖英。六条家(23代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありきよ
六条有清
[生没・不詳]○従五位上侍従◇。父:六条有広の子。母:正室久我通堅の娘。室:正室・不詳。子:子女・養子六条有純(11代) 。六条家(10代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありずみ
六条有純
[慶長9年(1604)~正保元年(1644)]○正三位参議◇。父:9代六条有広の子。母:某氏。室:正室・幕府高家戸田為春の娘。子:子女・12代六条有和、女子→将軍徳川家光側室(お万の方)、氏豊(戸田姓を名乗る、幕府高家、土佐守)。六条家(11代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありつな
六条有綱
[承応3年(1654)~元禄11年(1698)]○従四位上右近衛権中将◇。父:六条有和の子。室:正室・高鍋藩秋月種春の娘、後に離縁。子:六条房忠(14代)(養子)。六条家(13代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありつね
六条有庸
[宝暦2年(1752)~文政12年(1829)]○従一位権大納言◇。父:六条有栄の子。母:正室山本実覩の娘。室:正室・不詳。子:19代六条有福、六条有輝、六条有家(養子)、庸子→新清和院(光格天皇皇后欣子内親王の院号)付き女房。六条家(18代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありてる
六条有輝
[天明元年(1781)~天明3年(1783)]○従五位下◇。父:18代六条有庸の子。母:某氏。室:正室・なし。子:六条有家(21代)(養子)。六条家(20代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありひで
六条有栄
[生没・享保12年(1727)~天明7年(1787)]○正二位権大納言◇。父:15代六条有藤の子。母:某氏。室:正室・山本実覩の娘。子:18代六条有庸、六条有家。六条家(17代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありひろ
六条有広
[永禄7年(1564)~元和2年(1616)]○従二位権中納言◇。父:冷泉為純の子(為純は冷泉為景の祖父)。母:某氏。室:正室・久我通堅の娘。子:子女・10代六条有清 六条有純。六条家(9代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ありふじ
六条有藤
[寛文12年(1672)~享保14年(1729)]○正二位権中納言◇。父:12代六条有和の子。母:某氏。室:正室・広橋貞光の娘。子:16代六条有起、六条元雅(広幡豊忠養子)、六条隆望(六条房忠の子、櫛笥隆成養子)、六条有栄。六条家(15代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょう ふさただ
六条房忠
[寛文8年(1668)~享保20年(1735)]○従四位下左近衛権中将◇。父:12代六条有和の子。母:某氏。室:正室・不詳。子:六条有藤(15代)(養子)、六条隆望。六条家(14代)  羽林家 旧家 村上源氏久我支流
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ろくじょうてんのう
六条天皇
[長寛2(1164).11.14-安元2(1176).7.17]○順仁親王◇。父:二条天皇の第2皇子。母:大蔵大輔致遠の娘伊岐氏。室: 。子: 。第79代の天皇 (在位 1165~68) 。永万1 (65) 年2歳で父の二条天皇の譲位を受けて,同年7月即位したが,祖父後白河上皇が院政を行なった。天皇親政を支持する勢力の策動を恐れた後白河上皇は、5歳の六条天皇の皇位を剥奪在位3年にして後白河上皇の皇子憲仁(高倉天皇)に譲位し,元服以前に太上天皇の尊号を受けた。六条天皇は元服もままならず病没することとなる。陵墓は京都市東山区の清閑寺陵。 皇居:平安宮 陵墓:陵墓=清閑寺陵(せいかんじのみささぎ) 陵形=円丘 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 略歴(12世紀) 1164-甲申-長寛02年11月14日 生誕 1165-乙酉-永万01年06月25日 即位 1歳 1168-戊子-安元02年02月19日 後白河上皇に退位させられる。わずか3歳 1176-丙申-安元02年07月17日 崩御 13歳
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ろっかく
六角家(羽林家)
。六角家  羽林家 新家 外様                    蔵米30石3人扶持 藤原氏北家頼宗流持明院庶流 子爵 居所・塔之壇(京都市上京区)
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ろっかく あきみち
六角聡通
[文政7年(1824)~天保12年(1841)]○従五位上右兵衛権佐◇。父:六角能通の子。母:正室柳沢信鴻の子信復の子曾雌元智の娘。室:正室・不詳。子:六角博通(9代)(養子)。六角家(8代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく かずみち
六角和通
[安永7年(1778)~天保8年(1837)]○従二位参議◇ 父:六角光通の子 室:正室・唐橋在凞の娘六角家(6代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく さだより
六角定頼
[1495~1552]○吉侍者 四郎 江雲 弾正少弼◇。父:六角高頼(六角大膳太夫高頼)の次男。子:六角義賢。六角高頼の次男。兄氏綱に代わり家督相続。足利義稙に近侍し、細川氏と争った。足利義晴も援助し、管領に準ずる待遇を受けた。 ---- 相国寺慈照院の僧であったが、兄氏綱が病死した為、還俗して近江・六角氏当主の座を継ぐ。将軍足利義輝の烏帽子親にもなり、管領代に任じられるなど将軍家とも関わり深く、流亡中の将軍を度々庇護し匿った。また、北近江・浅井氏、摂津・三好氏などと戦い、六角氏の示威を高めた。
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ろっかく たかみち
六角孝通
[享保10年(1725)~元文5年(1740)]○正五位下縫殿頭◇ 父:六角益通の子 母:某氏 室:正室・不詳六角家(3代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく ともみち
六角知通
[元文3年(1738)~天明6年(1786)]○正三位右近衛中将◇ 父:高辻総長養子(園基香の子)  母:高倉永重の娘 室:正室・交代寄合朽木朝綱の娘六角家(4代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく ひろみち
六角博通
[天保6年(1835)~明治33年(1900)]○従二位大蔵大輔◇。父:7代六角能通の子。母:能登乗光寺豊寿の娘。室:正室・交野時雍の娘。子:六角玄通。六角家(9代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく ますみち
六角益通
[天和3年(1683)~寛延元年(1748)]○従二位参議◇ 父:東園基量の子 母:正室高倉永敦の娘 室:正室・不詳六角家(2代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく みつみち
六角光通
[宝暦6年(1756)~文化6年(1809)]○正三位参議◇ 父:六角知通の子 母:正室朽木朝綱の娘 室:正室・園基衡の娘六角家(5代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく もとこれ
六角基維
[延宝3年(1675)~元禄8年(1695)]○従五位上右近衛少将◇ 父:園基福猶子(壬生基起の子) 母:某氏 室:正室・東園基雅の娘 六角家(初代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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ろっかく よしかた
六角義賢
[1521~1598 ]○四郎 承禎 左京大夫◇ 父:六角定頼 室:畠山修理大夫義総女、土岐頼芸女承禎と号す。足利義晴、義輝を庇護し、三好氏と争った。織田信長の上洛に抵抗するが敗れる。浅井、朝倉氏と結んで信長と戦ったが、降伏。 ---- 近江・六角氏第13代当主。姉が管領細川晴元正室であったことから、流亡する将軍足利義晴、義輝を助け摂津・三好氏と度々戦い、また北近江・浅井氏とも争い一時は臣従させる。しかし、家臣団との内紛があって統率力は弱まっていたため、奈良から脱出してきた足利義昭を庇護しきれず、後に、義昭を奉じて上洛する尾張・織田氏に反抗して敗れた。その後も、浅井、本願寺勢らと結んで信長に抵抗するが、制圧され1570年降伏した。その後、甲賀、伊賀方面でゲリラ活動を展開するがかなわず、本願寺に身を寄せたとも。宇治田原にて病死する。日置流弓術の奥義を修得した腕を持っている。
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ろっかく よしさだ
六角義定
[????~????]○次郎 高定 賢永 左衛門尉 中務大輔 近江守 佐々木氏 大原氏◇。父:六角義賢、養父・大原高保。子:大原右近大夫高賢、佐々木高和、桂冶、青地等定。近江・六角氏一族。兄義治が、家臣を誅殺して信望を失う(観音寺騒動)と、兄に代わり家督を継ぐ。しかし、尾張・織田氏攻勢の前に六角氏は滅びた。その後、父や兄のようにゲリラ戦に身を投じることなく隠棲し、のちに豊臣秀吉に召されて仕える。さらには徳川家康に仕えた。
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ろっかく よしはる
六角義治
[1545~1612]○四郎 義弼 右衛門督◇。父:六角義賢。子:養子・佐々木(大原)定治。織田信長の上洛に抗したが敗北し、甲斐武田氏を頼って逃げた。武田氏滅亡後は羽柴秀吉の家臣となり、秀頼の弓の師範となった。 ---- 南近江・六角氏当主。1559年父より家督を継ぐが、家中の実力者である重臣後藤賢豊父子を謀殺したことから、家臣の離反を招き、北近江・浅井氏の侵攻を許した。1567年家臣団が「六角氏式目」を制定、義治は支配力を失っていき、翌年尾張・織田氏の侵攻を受けた際は、大半の家臣は降伏し、義治は父と共に城を捨てて逃げる。その後も旧臣を頼り、織田氏に抵抗するが敵わず、義治は甲斐・武田氏を頼った。武田氏滅亡後浪人し、やがて豊臣秀頼に仕えその弓術指南役ともなっている。
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ろっかく よしみち
六角能通
[生没・文化元年(1804)~慶応4年(1868)]○正三位右近衛中将◇ 父:六角和通の子 母:正室唐橋在凞の娘 室:正室・郡山藩柳沢信鴻の子信復の子曾雌元智の娘、 継室・能登乗光寺豊寿の娘六角家(7代)  羽林家 新家 外様  藤原氏北家頼宗流持明院庶流
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