歴史・人名

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氏名
記事
片桐家(小泉藩)
かざはやけ風早家
かむききかつ神聞勝
かむききかつのみこと神聞勝命
かむぬなかはみみのみこと神渟名川耳尊
葛城家かつらぎ
葛城氏
神皇産霊尊
神産巣日御祖神
神産巣日神
海北綱親かいほう つなちか
開化天皇
加治季光
飛鳥井家
蠣崎・松前家
かきざき みつひろ
蠣崎光広
1456.. 1518.8.18
カール大帝
カンビュセス2世
かい
槐(帝槐)
(?~?) 別名:中国皇帝、夏8代 父:帝杼 子:芒(帝芒) 帝槐(?~?)
后芬ともいう。帝杼の子。帝杼の跡を継ぎ、夏の天子となった。三年、九夷が来朝してきた。
けつおう
桀王
(?~?) 別名:中国皇帝、夏17代、姒履葵(じ りき)  父:帝発 桀王(?~?)
名は履癸。夏王朝の最後の天子。帝発の子。妹喜との情におぼれて、百官を殺傷し、民を苦しめた。殷の湯王の軍に敗れて、天下の実権を奪われた。鳴条に逃げたが、歴山に放逐されて死んだ。
和宮
金沢家光 かなざわ いえみつ ? 1468
金沢家光 生歿年:?~一四六八(一四七〇?) 父・久慈則信? 南部家行? 子・大浦光信、金沢家信  右京亮。金沢南部氏当主。元信か。  応永三十四年(一四二七)二月、南部屋形(則信?家行?)が久慈領主久慈小四郎安倍久国を滅ぼし、下久慈城主となったという。その後、仙北城主となる。家光は南部屋形の三男と言う。  家光は永享六年(一四三四)十月二十三日、家光は右京亮に補任(『津軽一統志』付巻収録「金沢家光任右京亮口宣案」)された。この頃家督したと考えられる。則信(家行か?)が歿した為か。  金沢氏は羽州仙北金沢城に拠った南部信濃守の後裔と考えられ、南部信濃守は小笠原党であったという。九戸氏も小笠原党であると言われ、久慈領主であったという伝承と符合する。また、九戸氏の官途左京亮も奇妙に一致する。  家光は文明二年(一四七〇)七月、秋田一揆にて戦死したともいう。また、応仁二年(一四六八)までに仙北の金沢氏は払拭されたとも言われる。 津軽家
金沢家信 生歿年:不詳 父:金沢家光 子・大浦光信  右京亮。羽州金沢氏最後の当主。  宝徳三年(一四五一)三月十八日の「金沢家信任右京亮口宣案」によってその実在と家督襲封が確認される。年代的には安藤康季や八戸南部政経らの活躍時期と重なる。  安藤氏と南部氏の抗争によって金沢城を失い、当時の久慈当主南部備前(兄弟か?)に庇護され、下久慈を与えられたが、生涯不遇であったと伝えられている。
金沢光信 生歿年:不詳(推定一四六二~?) 父:金沢家信(嫡子)  右京亮。津軽大浦氏の祖。  家臣大曲和泉守によって救出され、親族の久慈、九戸氏を頼って落ち延びた。兄弟の存在は信健以外不明だが、光信は家信の嫡子として下久慈の屋敷で育った。  不遇であった青年期を経て、三〇歳を過ぎて南部本宗(小笠原南部氏で久慈氏に比定)から津軽四郡(津軽郡は四つの私郡から構成される)のうち鼻和郡を与えられた。当時、津軽に於いて領有権を争っていた安藤氏の排斥を実現した八戸南部政経は安藤氏の津軽奪還の兵に手を焼いていたため、封土を失っていた光信に白羽の矢が立ったと考えられる。  西浜方面から津軽四郡へ派兵してくる安藤氏に対し、延徳三年(一四九一)、光信は赤石川上流に種里城を築き安藤氏撃退の拠点とし、翌明応元年(一四九二)、赤石川河口の赤石村と種里村の中間にある日照田村の小丘を利用して赤石城を築き、実弟信建を城主とした。  金沢氏を復興した光信は南部党の一つとして機能したのであって、八戸南部氏の家臣ではなかったと解釈すると金沢氏の独立運動は非常に理解しやすい。  金沢氏の独立性を示す問題として光信の嗣子問題がある。光信には当時実子がなく、後継者がなかった。そこで、新庄信春の次子を養子とするのであるが、この新庄信春、藤崎城番は三年交代であったのだが、頑強に拒否し主家を梃子摺らせていた。これを気に入った光信は是非にと信春の次子夫婦を大浦城へ招き養嗣子としたのである。大浦城は五代村の古館であったのを養嗣子の為にわざわざ改修したものだという。